言の葉綴り

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良寛⑧ー隠者5ー書の自然性としての良寛 書の母型

2019-03-27 11:44:08 | 言の葉綴り
69良寛⑧ー隠者5ー書の自然性としての良寛 書の母型

良寛 吉本隆明著 株式会社春秋社
発行所 1992年2月1日発行より
抜粋



1良寛
隠者 5 書の自然性としての良寛
書の母型

ここで良寛の「書」の課題につき当ってみたいとおもいます。「書」についてはまったくわかりませんし、
「書」をやったこともありませんから、まったくだめなのですが、良寛にとって「書」は大切だとおもわれますので、良寛の「書」についてできるだけ言葉で近づいてみたいとおもいます。
いつも良寛の「書」はとてもいいなあという実感をもちます。ところで何がいいんだ、どこがいいんだということをいってもらいたい、といわれるとうまくあらわせません。吉野秀雄みたいな良寛研究家が良寛の「書」についていっても、何もいっていないとおなじじゃないかとおもいます。「書」を良寛の宗教性とか意識の微細な色あいとか、においとか、音とか、そういうものをちゃんと言葉にするための手段として、とても本質的なものだったのではないでしょうか。良寛の「書」を言葉で微細にいえたら、かなりな度合で良寛の内面を知ることができたということになるような気がします。
良寛の「書」には、ちゃんとていねいに書いた楷書があります。そうかとおもうと、じぶんの作った漢詩かなにかをすごく草書化した流麗な書があります。それから仮名書きだけの流麗な「書」もあります。それから仮名書きと漢字を交じえた「書」もあります。しかし良寛の「書」とは何なのかをみるばあい概していえば、楷書と草書化された漢字の両方をみればいいんじゃないかなとおもいます。これはちょっといいかげんなことをいっていることになるかもしれません。つまりぼくは良寛の「書」を一冊に集めてそれを片端からみたとか、一堂に集めているのをみたとかということはないものですから、もしかしたらまちがうかもしれません。平仮名だけの文字が重要なことになるかもしれませんし、あるいは知識、教養の面からまちがうかもしれませんから、それは承知していただきたいとおもいます。
このばあい、何を良寛の「書」の母型といいましょうか、基本型としてみるかといえば、楷書を基本型としてみるべきだとおもいます。ここに良寛の楷書のひとつの例のコピー(当方注1)があります。これの何をどうみたらよいでしょうか。

ひとつの例のコピー
(当方注1)舎利礼(しゃりらい)
舎利礼文は大乗仏教の教典のひとつで釈迦の遺骨(仏舎利)を礼拝する内容から始まる。
特に、曹洞宗では開祖道元の火葬際に読誦されたことから重要視されている。

〈舎利礼〉良寛書



〈舎利礼文〉





はじめに「書」の文字のバックグラウンドになっている空間を、ひとつの「自然」とかんがえて、そのバックグラウンドのなかで、どこまで「自然」がひとつの世界としてみれるか、というように「書」をみてみたいとおもいます。つまりこの「書」をみまして、書の紙のところを「自然」とかんがえるわけです。そこにもやもやと文字が存在すると比喩的にみなしてみます。
それをみて、そのバックグラウンドになっている自然性がどこまで同一だとかんがえられるかを直観的に測れたらとおもいます。つまり同一性とみなしうるバックグラウンドの空間は、このなかでどこまでだろうかな、というふうにかんがえてほしいのです。このばあいどこまで、という意味あいはとてもメタフィジカルな意味になります。「書」の本質にかかわりがありそうだからです。つまりどこまで平面の空白部分を占めているかという可視的な意味は全然ありません。ただこの書をみたとき、そのバックグラウンドになっているものを自然性というふうにかんがえて、その自然性というものを、同一という意識でみられるのはこの書のなかで、どこまでかなというふうにかんがえてほしいということです。
これでは意味がうまく通じているか不安でしょうがありませんが、じぶんではわかるつもりです。ある書をみたばあいに、「書」の背景になっている紙の白地を、自然性というふうにかんがえだとします。そしたらその自然性のところに良寛がこういう字を書きました。その字をみてふつうわれわれは良寛の「書」は音楽性があるみたいにいっています。こういうふうないい方は一種の結果論なんです。良寛の「書」には音楽性あって清潔で流麗と流れていて……どこまでいっても結果の印象の積みかさねだけしかいわれていないとおもいます。良寛の「書」が書かれてありましょう。そうするとそのバックグラウンドをひとつの自然性というふうにみて、このなかに自然性が同一だ、ここまではおなじ自然性だ、というふうにかんがえられる世界がどのくらいまであるか、そうかんがえますと、その度合はいままでいってきた自然性の枠組というのとおなじで、同一の厚み、深さをもっているのはどこまでか、イメージとして浮びあがるようにできれば、それはとても重要なことだとおもいます。そして同一性としてみられる自然性の世界の厚みというものが、あ、ここまでだというふうに (これはもちろん、はじめは直観しかないわけですから直観でいいわけです)画定されれば、そのなかに良寛らしい字が浮かんでいるじゃないかというふうにみられるのではないでしょうか。
その浮かべられた文字は、その自然性のなかにおかれたひとつの意味形象です。いままで説明してきた言葉でいえば自然性のなかに、概念の意味がある形象をもって、その自然性の厚みのなか、厚ぼったさ、深さのなかにひとつの差異あるいは違和を打ちこんでいるわけです。それじゃその違和はどういうふうに打ちこまれているか、というふうになっています。そのときはじめて良寛の書字の音楽性がなんとかという問題がでてくるとおもいます。
良寛のばあい、「書」の母型としての楷書にたいし、文字形象はどう打ちこまれているかといえば、良寛の書字は概念をあらわす文字形象としては、ほとんど骨格だけでできているといえるようにおもいます。つまり、ここでピッと点をおさえて、こういうふうに伸ばしていくとか流していくとかという意味で、情念をこめるということがあたうるかぎり少ないというふうにいえるのではないでしょうか。それが良寛の書字にとても特徴的なところです。だから概念をあらわしうる形象であるかぎり最小限の骨組だけでできているといっていいくらいに、力が均質で、ぬけていて、ここのところで思いをこめてとかそういう渋滞がないようにおもわれます。
そういってしまいますと、活字だってそうじゃないかということになりそうです。活字とどこがちがうかといいますと、ひとつひとつの字は、形象さえあらわせばいいという骨格でできているといえるくらい、力こぶがはいっていませんが、しかしそれは活字と正反対な意味で渋滞がないのです。良寛の書字では概念をあらわすかぎり最小限の骨格の文字形象のまわりには、目にみえない最高度に緊張した肉体があるということだとおもいます。それが良寛の書のとてもおおきな特徴だとおもいます。
もうすこしいいますと、どんな書家の字でも骨格のまわりにはそれなりの肉体だとか肉付けとか情念とかは、ちゃんと雰囲気にでてくるわけですが、良寛の「書」の特徴はその骨格のまわりに眼にみえない肉体が、最高度に緊張しているということなんです。つまり現実の自然性としてある人間の肉体よりももっと緊張した肉体、極端にいいますとすぐれた舞踏家の踊りがきまったときの肉体のかっこうとか、形とか、筋肉の線とか、いうのが美だなとおもえるのとおなじ意味だとおもいます。ふつうの人の肉体とは異なって高度に鍛えてあって、ある瞬間にとったある肉体の形のようなもので、おもわずこれは美だなとみるときがあるでしょう。そういう意味での眼にみえない肉体が、字の骨格のまわりに存在するとおもいます。そこが自然の同一性をバックグランドにして形象ある文字や形が打ちこまれている良寛の「書」の特徴だとかんがえられます。
もうすこしぼくでもいえることがあります。良寛の「書」にはもうひとつのことがあるんです。このコピーのなかに「佛」(当方注2)という字があるでしょう。この人偏とこの「弗」(当方注3)という旁とのあいだの空間がとても見事で、造形的に決まっていることです。これはちょっとこわいくらいどうしょうもない力量で、たんに概念をあらわす骨格だけでできている形象があるとか、自然性の世界に打ちこまれているその骨格のまわりには最高度の緊張した眼にみえない肉体ががあるんだよ、というふうにいっただけでは、ぼくらでもまだちょっと良寛の「書」の特徴をいっていないじゃないかということになってしまいます。もうひとつだけつけくわえていえるところは、ひとつひとつの形象でない一本一本の線と線との配置の決まり方というのが、造形的にあるいは構図的によくできて、決まっているということだとおもいます。

(当方注2)






(当方注3)





漠然といままで申しあげたことを思い浮かべて良寛の「書」をどうかみてほしいわけです。「書」というものに言葉をあたえる、つまりこの「書」はどうしていいんだとか、どうしておれはいいとおもうのかというようなことに言葉をあたえようとするばあいに、どうしてもそのような見方をすることが前提であるような気がします。つまりそのような見方をして、「書」に通暁したみなさんなら、もっと奥深くもっともっと微細にいえるはずです。いま申しあげたことは、これが唯一でも何でもありません。ともかくある見方をしていって「書」にたいして言葉がいつでも介入できるような開かれた見方を、じぶんで作りあげてゆくことが大切だとおもいます。そうしますと良寛の「書」をもっとさきまで微細にみて、それを言葉にしていくことができるのではないでしょうか。
良寛の「書」について触れたものをそんなにたくさん読んだことはありません。高村光太郎がいっていることのなかでひとつだけ面白いなとおもったことがあります。高村光太郎は「書」の造形性がよくわかっていた、すぐれた「書」を書く人です。だから書についていろいろ書いているものはとてもいいものです。だけれども、やっぱりいいものをただいいといっている、要するに自己同一性といいましょうか、同義反復の部分がたいへんおおいとおもえます。良寛の書についても好きだから言及しています。良寛は中国の書家についても、日本の書家についてもたいへんよくお手本にして、いろんな人の書風をよく修練して知っているといっています。それから書に自信のある人だとも述べています。それからもうひとつあーとおもったのは、良寛はたえず空で、つまり空気中で字を書いて練習してたといっている個所でした。
このいい方で何が興味深かったといいますと、バックグランドをひとつの自然性としてみる見方からしますと、空で書いて練習したということは良寛の「書」の本質に触れているようにおもえたからです。じっさい空に書いているということの意味あいは、自然というもののなかで同一というふうにかんがえられるのがどこまでだということ、指でこういうふうに、意味のある字の形を作ることが、わずかに同一性にたいして差異、異和感を表現しているんだということになります。その表現の仕方が良寛のばあい、あたうかぎり力こぶをいれていないのだとおもいます。自然にたいして線を走らせているだけで同一性としてある自然に力こぶをいれない打ちこみ方をしているわけです。それが良寛の特徴なんだとおもいます。
それは良寛の精神状態、あるいは意識のあらわれ方の特徴です。そしてそれは良寛の宗教性に深くつながっていくわけですけれども、そこをもっといい言葉で微細にいうことができたらたぶん良寛の「書」についてたくさんのことがいえるはずです。それから良寛の詩が表現している宗教性みたいなものについてもっと微細なことがいえるはずだとおもいます。ただぼくらには力がなくてそれができないのですが、ただ力があるかないかということじゃなくて、こういう見方をして言葉がみつかるならば、いつでもそれをいうことができるし、いえる余地をのこしながら
「書」というのをみられるような気がします。良寛の「書」はたぶんそうとう本質的なものですから、良寛の内面の流れ方というものにたいしては重要な意味をもつとおもいます。いつでも言葉がそのなかに打ちこめる、はいりこめる余地をのこす見方をしていきたいとおもうわけです。