言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ②ー親鸞•道元•日蓮• 良寛の〈善悪〉觀

2021-03-25 13:15:00 | 言の葉綴り

言の葉112 〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

②ー親鸞道元日蓮良寛の〈善悪〉觀







〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 

日本仏教の諸問題より抜粋


親鸞道元日蓮良寛の〈善悪〉觀


親鸞の〈善悪〉觀は『歎異抄』のなかによく出ていて、『歎異抄』のなかによく出ているということは、たぶんふつうの信仰者、あるいは同行者、そういう人たちにお喋言りしているなかでいちばんよく出ていることだとおもいます。また、いろんな異解があって、たとえば、「すすんで悪をつくる」のはどうして駄目なのかというようなことを書簡で糺すときに、〈善悪〉觀がよく出ています。

人間が人間社会のなかで判断する〈善〉とか〈悪〉は、いずれにせよ相対的なものにすぎないので、ほんとの〈善悪〉はもう少し規模の大きいものだ。その大きい規模の〈善悪〉からみれば、人間の判断する〈善〉とか〈悪〉とかは、いずれにせよ規模の小さいものにすぎない。善行をするならば浄土に往けるとか、悪行をするならば浄土に往けないとか、またはその逆だとか、そういうことはそれほど問題にならないんだという観点が、どうしてもはじめにあるようにおもうんです。それをもう少しつきつめていってしまえば、悪人のほうが正機なんだ、つまり往生しやすいんで、善の人は、じぶんて善いことをしようとか、あるいは善いことをしているとかという考え方がどうしても出てくるから、浄土真宗の考え方からは、たいへんな回り道になってしまうという観点があります。

つまり、善導からはじまって、日本でいえば、源信とか法然とか、浄土教の系譜の祖師たちが、結局どんなところで念仏をかんがえたかたどってみますと、みんな念仏第一義ということは、かなり決定的に打ち出しているとおもうんです。ただ、念仏以外の行、余行というものにたいして、それは〈悪〉なんだというふうに本格的な意味でいっているのは親鸞がはじめてです。教義的ニュアンスとしては源信にも法然にもあるが、ほんとの意味で余行は〈悪〉でさまたげだと云い切っちゃっているのは親鸞だけです。

法然の云い方では、念仏が〈善〉だという考え方が、そして余行は決して第一義にはならないんだという観点が出てきます。金持ちの人は、造仏起塔ができるんだが、貧乏人はできないじゃないか、あるいは知識ある者、見聞がある者はよくて、見聞がない者は駄目というのは不平等で、そういうことをかんがえれば、念仏がいちばんいいんだ、余行はそれに比べれば劣るものなんだという観点が、比較論とか差別論のところから出てきます。

だが親鸞のところにきて、余行をやれば化土にしか再生できないですよ、ということをはっきり云い切っちゃっています。そこが親鸞の〈倫理〉といいますか、〈善悪〉觀の根幹をなしているとぼくはおもうんです。何が根幹なのかというと、ふつうならば〈善悪〉をかんがえるばあいに、善にも〈大善〉、〈小善〉、〈余善〉があるというふうにひとつの系列があり、それから悪にも、〈大悪〉があり〈小悪〉があり〈余悪〉があるというふうに、ひとつの系列がかんがえられます。親鸞のはあいには、そうじゃなくて、善というのは一種の〈唯一善〉になって、残りはぜんぶ悪に転化するというくらい、そこは徹底的になっちゃっているとおもいます。現実的にはそんなことはありえないのです。現実的には、大善もあれば中善もあり、小善もありというふうになるわけで、悪だってやっぱり、だれがみても大悪であるというのから、ちょっとした悪であるという、そういう意味の倫理的な序列はどうしても避けがたいところです。親鸞はそこはとことん徹底的で善はひとつだけある、その善には大善も小善もない、ただ善があるのみで、その余のことはぜんぶ悪だ、ということになるわけです。

そうすると、現世的な意味での〈善悪〉——序列ある〈善悪〉——というものは、親鸞のなかに入ってこないから、いきおい、悪機のほうが善に近いんだという考え方になってきて、より小さな悪とか、より大きな悪とか、より小さな善とか、より大きな善とかそんなものはぜんぶ存在しない。ただ、悪機は善への最短の距離であり、また善は、ただひとつしかほんとはないんだという観点になります。そうすると、現実的な〈善悪〉や〈倫理〉にたいしては、いつでも親鸞は逆説的になっていきます。また、その逆説的になっていくところが、親鸞の〈善悪〉觀の射程がいちばん長いところなんじゃないかとおもえるのです。

(中略)

この射程の長さというのは、道元にもいえるところで、道元もつきつめていってしまえば、眠ることもいらないし、食べることもいらないし、ひたすら坐っていればいいんだと最終的に云い切っちゃうところがあります。そう云い切っちゃいますと、現実的な人間の振舞いからはほとんど不可能に近いことになります。それが可能である観点はひとつしかないんで、つまり、逆説としてしか可能でないのです。ひたすら坐ればいいんだ、それがいちばん仏に近いんだし、仏そのものというのは、そういうことなんだから、後のことはぜんぶしなくともほんとはいい。眠ることもいらないし、食べることもいらなないんだ、というふうにまで云い切ってしまいますと、現実的に、あるいは現世的に、人間がやる振舞いは、逆説としてしかそれと合致していきません、そうすると、現世的に生きている意味は、道元にとって何もないんじゃないかということになります。生きるということが善だ、死ぬるということが悪だとすれば、道元の教義のなかにには、〈善〉は何もないんだということになります。だから〈善〉があるとすれば、逆説として死のなかにある。どうしてもそうなります。

親鸞のばあいも、少なくとも倫理的な意味での〈善〉は何もいらない。極端にいえば、『歎異抄』に出てくるように、聖道の慈悲と浄土の慈悲というのは違うんだ、ということです。つまり、聖道の慈悲は、〈善〉には、大善あり中善あり小善ありということで、人にたいする憐れみだって、たくさんの段階があるんだという観点になります。親鸞は浄土の慈悲だけがほんとの慈悲なんだといってしまいますから、現世的な〈善〉とか〈倫理〉というのは、そこではあまり問題にならない。だから現世というものの人間の〈善悪〉のあり方は、逆説としてしか入ってこないことになります。

その二人に比べれば、日蓮は、自分を捨てて、菩薩と化して、利他的に衆生を救済するために粉になっちゃうということが、いずれにせよ〈善〉の極致なんだと云い切っています。これは現世的な意味ではたいへんわかりがいいし、また現世的な意味の〈善〉には、いつでも合致する要素が日蓮にはあるとおもうんです。

でも日蓮のばあいには、別の意味の逆説がかならず起こってきます。人間は、どうしてじぶんを粉にしてまで利他的な行為に化することができるのか、人間は生きながら菩薩たることができるのか、そんなこと不可能だという逆説から絶えずひき戻されます。〈倫理〉は日蓮のばあい、逆から相対化の作用をいつでも受けています。絶対的な〈善〉と相対的な〈善〉との間あいがいつでも測られていないと、〈善〉が虚偽に転嫁してしまう。それがいつでもあるようにおもうんです。親鸞とか道元にはそれはないですね。

良寛は道元の系譜をひいた考え方ですから、本来的にいえば、現世ですることはほんとは何もないし、また、現世で善いことをする役割は何もないとおもうんです。

事実としても、良寛はいわゆる善いことなんかしていない。村の人の役に立って、たとえば、川とか橋とかを修復したとか、村の便利路を造ってやったとか、そういうことは少なくとも良寛の振舞いのなかにはひとつもないでしょう。良寛が、いわゆる現世的な意味で〈善〉を行ったとおもえるのは、子供と遊んだということぐらいしかないとおもうんです。

子供と遊んでいるときの良寛は、現世的意味での〈善〉の姿のようにおもえるんです。それじゃ、なぜ、子供と遊んだかということになるわけです。大人とかかわったら、〈善〉を行うか〈悪〉を行うかとか、かならず有効性とかかわってしまいます。ところが子供と遊ぶから、現実的な意味では、〈善〉でもないし〈悪〉にもならない。だからこそ、それは〈善〉なんだといいましょうかね、なんの意味も有効性もないから、それは〈善〉なんだと、ということがいえるのです。もし大人と付き合って、大人と村人のために、字を覚えさせることをしょうみたいなことを良寛が考えたら、それは現世的な〈善〉ということになります。良寛の修練した道元系統の考え方からすれば、それは外れたことになります。つまり、そういう意味の〈善〉の振舞いをしたら曹洞禅の基本にそむきます。良寛は知られているかぎりではそういう意味の〈善〉は少しもしていない。かりに〈善〉をするはあいでも、個人的な意味で、〈善〉をしているかもしれないですが、少しでも公共的な意味での〈善〉は行っていません。つまり、そんなふうに振舞ったら、しぶんの教義(曹洞禅の教義)は無に帰してしまいます。〈善〉として振舞うとすればせいぜい子供と遊ぶという振舞い方しかないと。

だから、あとは、できるだけ〈無〉として、村人にかかわるということが、ひじょうに大きな問題になってきます。そこで良寛は、そうとう厳密に自己統制して振舞っていて、何気ないようでも、そうじゃなくて、自己統制して振舞っているようにおもいます。だから倫理的な考え方としては、かなりな程度道元の系統に近いんじゃないかなとおもえます。そこらへんの問題が、〈善悪〉觀の射程距離の問題としていまでも引っかかってくる気がするんです。







〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ① 序〈信〉についてのメモ

2021-03-16 10:26:00 | 言の葉綴り

言の葉112 〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

 序〈信〉についてのメモ







〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 より抜粋


序〈信〉についてのメモ


宗教のなかには何か逸することができないものが埋め込まれている。ひとりの教祖の貴重な生涯なのか、理念の古代以前の形態なのか、信仰の劇を演た無数の歴史的な人たちのとらえ難い暗闇なのか。とにかく何か逸することができないものが埋め込まれている。そういう思いから逃れられない部類の人たちがいる。かれは〈信〉の内側に入り込んでみたり、〈信〉の外側にはみ出してみたりするだろう。だがどんなばあいでも〈信〉を課題にすることからは逃れられない。逃れることとほとんど同じ場所があるとすれば、それはただひとつ〈信〉を中性化することだけなのだ。

〈信〉はどんな種類の〈信〉でも(つまり現代的な〈信〉であっても、古代以前に起源をもつ〈信〉であっても)、いつも内側からみれば巨大なものへの〈信〉であり、しかも外側からはいつも卑小なものへの〈信〉なのだ。例外は考えられない。そのことが〈信〉の信仰性から中性化への経路と、その逆に〈信〉の中性点から信仰性へたどる経路の解明を、とても困難なものにしている。だれも〈信〉の周辺を離れずに〈信〉を解明するほかないし、ばあいによってはすべての解きうる課題を〈信〉と〈不信〉のあいだの差異の問題に還元してしまう動機を、はっきりと内省できないほどなのだ。解明して残余をのこすものだけが〈信〉の本質なのだが、解明して理念で織られた布目のように、対象を半透明なものに転化させたい無限の衝動をひき起こさせるのも〈信〉の本質である。つまりわたしたちはほんとは〈信〉をめぐっているつもりで、ついには意識をめぐっていることになっているし、また意識の歴史性をめぐっていることにもなっている。

いつの間にか(だがずいぶん長い年月)宗教的な〈信〉をめぐってたくさんの話し言葉と、たくさんの書き言葉を積み累ねてきたこれらを一箇所に眺望できたとしても、とうていこの問題に終末があるとはおもえないのだ。ただすこしでもこの世界の透明さに肉迫しているという思い込みにうながされて、また歩きだすに違いない。

〈信〉は形而上的にだけいえば、事物と事物とのあいだの差異の同一化であり、意志による世界の被覆だといえよう。ただこの被覆は、自然が精練されうるものであり、この自然の精練が人間化ということも包括しているという概念の上に思い描かれている。被覆によって人間を自然にさしもどすことと、人間を自然の原因あるいは起因とすること、このふたつの極端が〈信〉の構造に輪郭をつけている。ところで人間を自然の原因あるいは起源とするということは、「生誕したことがない人間」という概念を思い描くのと同じ意味をもっている。生誕した人間は、つまり何かの結果として生誕したのだから、それ自体で自然の原因や起源になることはできないからだ。これは〈信〉がいつも擬人的な至上者を比喩としてもたざるをえない理由みたいにおもえる。またこういう擬人的な至上者は所在ということ(場所ということ)の始源に住んでいなければならない。そうでなければ結果としての始源という云い方をしても、ほぼ同じことを意味している。

              吉本隆明