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言の葉綴り154心的現象論•本論①
本論 まえがき 吉本隆明著
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心的現象論•本論 吉本隆明著
2022年1月31日 初版一刷発行
発行所 (株)文化化学高等研究院出版部より抜粋
本論 まえがき
この稿を始めるとき、一番はじめに問題となったのは、ヘーゲルの『精神現象学』のうち、感覚と物の関係についての考え方の微細化に当たるフッサールの純粋現象学の方法だった。ヘーゲルの『精神現象学』は多様で巨大だがフッサールの現象学は感覚と物との間に附着する多様な現象をどう還元すべきかに重心を移した。物と感覚のあいだには「見る」「聞く」「触れる」など感官的に多様で、これも微細に分別することができる。しかし、物と感覚のあいだはあくまでも一義的(アインドイッテッヒ)とみなされてきた。ヘーゲルの『精神現象学』が古典的だとすればそこにあるといえる。フッサールではおなじ物とおなじ感官のあいだでも、一刻前と一刻後では附着する精神現象は異なる。先ほどは幼児のときの遊びの思い出を附着させていたが、現在の瞬間は明日の仕事の進行を附着させていた。この附着作用の実体もまた無限に多様でありうる。本当はこの附着する精神現象なしには感官と物との相互関係は成り立っていない。これはフッサールの現象学の考え方が、はじめて〈発見〉したと言うべきだった。ヘーゲルの『精神現象学』は見かけよりも遥かに深く巨大なものだ。古典的だが比類のない巨大なものだと思える。フッサールの現象学は感覚と物との関係について微細でなまなましいが、機能主義的なものに思える。フッサールの現象学的な還元(消去と選択)もまた機能主義的にすぎるように思える。機能主義(ファンクショナリズム)は科学的なのではなく、科学のひずみでしかないが、わたしには唯物論のロシア的な形態と同じ退落におもえてならない。
わたしはこの『心的現象論』で自分なりの「還元」を試みようとした。それはつづめていえば、自分なりに本稿の試み以前に成立させていた〈幻想論〉と架橋することであった。うまくできているかどうか、わたし自身にもまったくわからない。しかし兎にも角にも夢中になってやった。
(ニ○○八年七月)
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