言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

京都発見②東山界隈その3…青蓮院

2017-05-27 09:11:10 | 言の葉綴り
言の葉40京都発見
② 東山界隈その3…青蓮院

当方より 今年4月26日雨の中拝観の青蓮院門跡


抜粋
京都発見 ニ 路地遊行 梅原猛著 発行所(株)新潮社 1998年2月発行

四十三………慈円と青蓮院

門跡寺院というものがある。奈良や滋賀、東京そして日光(輪王寺)にもあるが、多くは京都にある。特に格式が高いのは青蓮院と妙法院、そして梶井門跡即ち三千院で、この三寺を天台宗延暦寺の三門跡という。

門跡寺院とは、必ず天皇或いは摂政や関白の貴族の子弟が門主となる寺である。もともと天皇には妃が多く、従って皇子皇女も多い。しかるに、天皇の位につき得るのはただ一人の皇子に限られ、後の皇子皇女にはきわめて少ない官職しか残されていない。
(略)
青蓮院の門跡初代は藤原師実の子・行玄である。行玄は天台座主を務め、延暦寺の天台三千坊の一つである東塔青蓮坊に住んでいた。青蓮坊という名は、如来の眼の美しさを表現する仏教語「青蓮」から来ている。行玄は、鳥羽天皇の第七皇子である覚快法親王を弟子とし、洛中に叡山・青蓮坊の里坊を造った。即ち「青蓮院」である。そしてその初代門主となり、やがて覚快法親王にその地位を譲ったのである。その覚快法親王の弟子が、かの慈円である。
慈円は藤原忠通の子である。この慈円も後鳥羽天皇の皇子である道覚(朝仁(ともひと))親王を次の門主にしようとしたが、承久の乱が起こり実現出来なかった。しかし、慈円の死後二十年にしてやっと、道覚親王は第六世門主となり天台座主となった。これ以後代々、「入道親王」「法親王」を門主として明治にまで至った。維新の時、門主であった尊融(成憲)親王は義弟・光明天皇の命により還俗し、尹宮或いは中川宮と称せられ、維新後は 久邇宮の称号を賜った。また朝彦親王と称せられた。この朝彦親王は、皇太后陛下(当方注①)の祖父であり、現青蓮院門主・東伏見慈洽師(当方注②)の祖父である。ここに、門跡寺院の伝統が生きている。

青蓮院のご本尊は、熾盛光仏頂如来である。この仏は毛穴から光炎を流出し、日月星宿などの諸天を折伏して、一切の難儀を消滅する利益をもたらすという。この仏を本尊として行われる法を「熾盛光法」といい、それは正に密教の秘法である。この秘法は主に宮中で勅命により行われ、御所の御都合の悪い時には、青蓮院、その他で行われた。「熾盛光法」は、もともと唐の青龍寺において行われた秘法であり、円仁によって日本に請来されたという。青蓮院執事長・東伏見慈晃師(当方注③)の最近の論文によれば、秘法は前後八十六回行われ、その内、慈円が行ったのは二十一回である。このように慈円は青蓮院の第三世の門主となり、青蓮院を有名にし、その規模を拡大した。この青蓮院の寺地は、現在の知恩院から大谷廟の地を含み親鸞の遺跡蛍の窟まで、東は東山の分水嶺までで、将軍塚を含む広大な敷地であった。
慈円は「拾玉集」の歌人として、また史書「愚管抄」の作者として有名である。
(略)

ここに慈円と関係の深い二人の僧がいる。一人は法然で、もう一人は親鸞である。法然は、慈円と殆ど一心同体であると思われる兄の九条兼実が最も崇拝した僧であった。叡山を降りた法然は、東山の吉水の地に隠棲したが、ここはもともと青蓮院の管轄下にあった地であり、法然の下山は慈円の庇護下に行われたのではないかと思われる。
(略)

当方より 植髪堂 親鸞得度の時に剃り落とした髪を、親鸞童形の像に植えたものを祀ってある。


法然の弟子・親鸞は、法然の弟子の中でも甚だ急進的であった。法然が土佐に流罪になった時、親鸞も越後に流されたが、本来は死罪になるべきところを、慈円のとりなしによって一命を取り留めたという。
(略)
当方注①香淳皇后。
当方注②慈洽師は③現在の青蓮院門主・慈晃師の父。

青蓮院に関わる逸話
(ハワイのプリンセスカイウラニ)



抜粋
青不動のこころ 青蓮院門跡門主
東伏見慈晃著 玉川大学出版部
2009年9月18日発行

二、仏教との出会い
東伏見宮依仁親王

久邇宮だった父が東伏見に姓が変わった経緯をお話しします。朝彦親王の一番末の弟は東伏見宮依仁親王といって子どもがいなくて宮家は耐えたのですが、昭和天皇の思し召しで東伏見の家名は残すようにとのことで父が二十歳で臣下に降りた時、家名と陵墓の祭祀を許されました。父は久邇宮でしたが次男でしたので、臣下に降りた際に祖父の兄弟の名前を継いだことになりました。
東伏見宮依仁親王は語学が堪能で戦前の東京外語大を出ています。ロシア皇帝やイギリスの皇室エリザベス女王などと親交が深かったという記録が残っていますね。その逸話としてハワイのカメハメハ大王の王女プリンセスカイウラニの婿として来て欲しいといわれたそうです。カメハメハ大王が世界旅行をしていて日本に寄られて、そのときに閲兵式で依仁親王を見て、ぜひと明治天皇にお願いされたという逸話がありまして、ハワイではそういうことが語り継がれています。でも明治天皇が
許可しなかったんですね。明治時代は日露戦争でロシアと破ったりしていましたが、まだハワイまでは守りきれないから無理だということでお断りになったのです。その勅書を持って侍従が向こうに行って、それがハワイで受け継がれていましてまだ残っているらしいです。
(以下、略)

当方より
ハワイには何度か行っていますが、ビショップミュージアムで訪れる度、この逸話を聞いています。
ℹ︎f…この逸話が実現していたら⁈






京都発見②東山界隈その2…八坂神社

2017-05-13 07:43:26 | 言の葉綴り
言の葉39京都発見
② 東山界隈その2…八坂神社

*当方より 4月26日雨の八坂神社に参拝


抜粋
京都発見 ニ 路地遊行 梅原猛著 発行所(株)新潮社 1998年2月発行

四十二…………牛頭天王と祇園社


八坂神社の宮司の真弓恒忠氏の語るところによれば、平安の都は、陰陽道による四神相応の風水に適った地として選ばれたという。四神というのは、青龍、白虎、朱雀、玄武という都の四隅・東西南北を護る神獣である。この八坂神社はちょうど東の青龍の位置にあり、本殿・母屋の下に青龍の龍穴があるというのである。今は漆喰で覆いがしてあるが、かっては、そこに青々とした水が湛えているのがよく見られたという。また、この池の水は、都の中心・堀川御池辺りの神泉苑に通じているという。
八坂神社という名は、慶応四年(一八六八)の神仏分離以降の名で、その昔は祇園社と呼ばれでいた。祇園社は、厚く上下の崇拝を受けた。もともと祇園社は、清水寺と同じく奈良の興福寺の管轄下にあったが、後には、比叡山延暦寺に属するようになった。そういう関係でこの社は、しばしば南都の興福寺と北嶺の延暦寺の間の争いの的となった。祇園社は、斉明天皇の時に造られたというが、それが史上、はっきり姿を現わすのは、『三代実録』の貞観七年(八六五)六月十四日の記事の中である。
そこには「近畿七道の諸人、事を御霊会に寄せ、私かに徒衆を聚め、走馬騎射することを禁ず。小児の聚戯は制限に在らず」とあるので、既にこの頃から祇園御霊会は始まっていたと思われる。
また、社伝である『祇園社本縁録』などによれば、貞観十一年六月七日疫病が流行り天変地異が起こり、五穀実らず、諸社に使者を出してその災害の平定を祈らしめたという。さらに、社伝には、疫病が流行したのは、政治的に失脚した怨みを持つ人の祟りであるとして、鉾六十六本を立て、祇園社から神泉苑へ神輿を送ったととある。これが、今の祇園祭の初めとされる。
祇園社の主祭神・牛頭天王という名は、新疆に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産出したところから、この山の名を冠された天王を疫病に効く神として崇めたことによるという。この牛頭天王の疫神信仰がインド密教と結合し、さらに陰陽道の信仰とも混じりあって、我が国に伝わった。
室町時代後期の『二十二社註式』によれば、この神は、はじめ播磨の明石の浦に着き、それから広峰の山へと移り(北村季吟の「莵藝泥赴」には、京都の東山瓜生山の名が出てくる)、次に北白川の東光寺(現在の岡崎神社)に至り、ついにこの八坂の地に祀られ、中世の民衆に広くかつ厚く尊崇された。
この神は、明らかに仏教の仏でもあり、釈迦が仏教を広めた祇園精舎に因んで祇園天神とも呼ばれる。その縁でこの地一帯が祇園と言われるようになったという。
この神はまた、記紀神話の神・スサノヲの命と同一視される。スサノヲの命は、記紀によれは、天照大神の怒りに触れて流罪となり、黄泉の国の王となった。また、スサノヲの命は八岐大蛇を退治する。牛頭天王には色々なイメージが重なっている。牛の頭をした疫病に利益のある神、そして祇園精舎の尊い仏教の仏、それに最大の祟り神である天上を追放されたスサノヲの命、つまり国の内外における誠に恐ろしく力強い仏や神が、祇園社の主祭神である牛頭天王に集約されていったのである。
神道学者の西田長男氏はこの牛頭天王について次のように言う。

インドにおいて成立した仏教と、シナにおいて発生した道教と、我が国の固有宗教たる神道との習合によって生み出された新しい我が国の神祇なのである。そうして、我々日本人の宗教的感情にマッチしたとみえ、あるいは天王社、あるいは祇園社、あるいは八坂神社、あるいは素戔嗚神社などと称して、わが国土の津々浦々あたらなぬ隈なく、これをいつきまつっていないところとてないのである。
(「『祇園牛頭天王縁起』」の成立)

八坂神社の神輿の渡御は祇園祭の源、本殿前で激しく神輿を振る



桓武天皇の御代、この京都の地に都が定められるようになって以来、様々な怨霊が出現した。そしてその怨霊を鎮めるために、御霊神社なるものが建てられるが、それでも怨霊の怒りは収まらなかった。それ故に、もっと強い神仏が求められたのである。それが、牛頭天王とスサノヲの命であった。こうして、貞観十一年にこの激しい怨霊の祟りを治めた祇園の神に対して、その後も毎年六月になると御霊会という、怨霊を慰撫する祭が行われるのである。
祇園祭の鉾は、明らかに邪霊を祓う矛であったが、この鉾がだんだん長大になり、風流化され、最早、人力では運べず、ついに車を付けて運ぶようになった。
祇園祭に鉾とともに出る「山」も、大嘗祭に用いられる標山という柱状のものにその原型を発する。この山には、必ず真柱ととして松が立てられ、人形を配する。それは、神を迎える門松と同じように神の依り代であり、人形は神の姿を表しているのであろう。



祇園祭は京都観光の目玉となっている。山と鉾の祭は町衆の管理下で行われるものであるが、祇園祭で一番肝心なのは、神社が管理する三基の神輿を出す祭である。
この祭は、山と鉾の巡行が終わった七月十七日の夜の神幸祭と、一週間後の七月二十四日の夜の還幸祭に行われる。つまり、町衆の祭が終わってから本当の神の祭が始まるのである。牛頭天王即ちスサノヲの命、そしてその夫人・龍宮のヒメ即ちクシナダヒメとその子「八王子」という神々が、三基の神輿に乗り、神幸祭の夜、路地を通って、東は東大路通、西は千本通、南は松原通、北は二条通と巡り歩き、七日七晩、四条京極の御旅所(東社・西社及び冠者殿社)でお休みになり、再び還幸祭で洛中をあまねく巡る。神輿が、激しく暴れて揺らされ、洛中を練り歩くことで、人々は歓喜する。
祇園祭は「山鉾巡行」が有名であるが、この祭を担う人たちは、もともと祇園社の神人で「座」を形成していたという。これは真弓宮司の卓見で、

八坂神社を夕暮れにでる神幸祭の列


『祇園社記』によると、中世、商業の発達に伴って発生した各種の「座」の中で、京に於いては材木座、練絹座、小袖座、綿座(真綿座)袴腰座、菓子座、釜座の七座を支配したのが祇園社であった。座商人は、祇園社に年貢を納め、祭礼に奉仕することにより神人として認められることにより活発な商業活動を営んだ。

というのである。
山鉾巡行が終わった時に始まるこの神輿巡行の祭こそ、真の祇園祭である。この神の祭を是非、見て欲しいと、真弓氏は再三私に語った。

京都発見②東山界隈その1…八坂の塔

2017-05-04 12:10:22 | 言の葉綴り
言の葉38 京都発見
② 東山界隈その1…八坂の塔

抜粋
京都発見 ニ 路地遊行 梅原猛著 発行所(株)新潮社 1998年2月発行

四十一…………浄蔵と八坂の塔



五重の塔といえば、京都の人は東寺の五重の塔より、八坂の五重の塔を思い浮かべる。この「八坂の塔」は今は法観寺という臨済宗建仁寺派の塔頭の一つとなっている。その由来は古い。

当方より 4月26日法観寺を訪ねた折の映像



法観寺に伝わる『山城州東山法観寺仏舎利塔記』によれば、聖徳太子は四天王寺を建てようと用材を求めた。その地が山城国のか愛宕(おたぎ)であった。時にまだ、彼の地は鬱蒼とした大樹が聳える深い山であった。その時、夢に太子の念持仏・如意輪観音が現れ、この地こそ勝地であるので、ここに寺を建てるがよいと、告げられた。そこは、見晴らしが良く、紫の雲が山一面に立ち籠めていた。そこで太子はこの愛宕の地に五重の塔を建て、仏舎利を安置した。この時を『仏舎利塔記』では、崇峻天皇己酉の年即ち崇峻二年(五八九)とする。とすれば、法観寺は京都で最も古いということになる。
三条烏丸下ルの六角堂にも、太子が四天王寺建立のためこの地に来て杉の巨樹を見付け、その一木で六角の御堂を建てたとある。建造の由来が甚だ法観寺に似ているが、当時この愛宕即ち東山辺りはおそらく六角堂の辺りよりなおいっそう欝蒼たる原始の森であったろうことを考えると、四天王寺建立の時に太子が東山に来たというのは頷ける。この法観寺の周囲で飛鳥時代の瓦が出土していることも、伝説の真実性を裏付けるものであろう。
八坂の塔は古来よりそこにあったものであろうが、八坂の塔と言う時、まず想起する人物は太子よりは浄蔵という僧であった。浄蔵は現代の仏教史などにあまり出てこないが、
かっては大変な高僧として上下にあまねく尊敬されていた。彼は三好清行の第八子で、母は嵯峨天皇の孫と伝えられ、天人が懐の中にいり、浄蔵を姙んだという。幼にして聡明、四歳にして「千字文」を読み、七歳にして出家した。
浄蔵には色々不思議な話が伝えられる。延喜九年(九〇九)浄蔵十八歳の時、菅原道真の怨霊に苦しんだ藤原時平が浄蔵をして祈祷せしめたところ、二匹の青龍が時平の左右の耳から出て、「私は恨みを報いようとしたが、浄蔵の法力で抑えられている。厳しく叱ってほしい。」と言った。そして浄蔵が去った後、時平が死んだ。また浄蔵は、平将門の乱においては大威徳法を修し、将門を調伏した。

この浄蔵が八坂の塔を救った。村上天皇の御代、塔は天皇のいらっしゃる王城に向いて傾いた。これは不吉な兆しと、浄蔵に頼んで祈祷させた。微風が吹き、雷鳴が轟き、塔が振動して鈴が鳴った。浄蔵は本坊に帰ってしまったが、翌朝、弟子たちが見ると、塔は真っ直ぐになっていた。都の人は争って合掌し、この奇跡を喜んだ。『仏舎利塔記』では、浄蔵を最も詳しく語るが、その後の源頼朝や足利将軍による塔の修理の話も載せる。
法観寺にはまた室町時代のものと思われる「城州八坂法観寺之古図」という「参拝曼荼羅」があるが、これは大変興味深い。八坂の塔を中心にして北は長楽寺・双林寺・八坂神社、南は清水寺・鳥部(辺)野・六波羅、東は霊山正法寺、西は鴨川に至る。この一帯は正に「この世」に対して「あの世」である。鴨川に架かる四条と五条の二つの橋には勧進聖がいて、長柄杓を出して銭を取っている。あの世に渡るには六文銭が必要というのであろう。清水坂の途中に鳥部野があり、墓がいっぱい並んでいる。おそらくそこは昔から人の屍を捨てた所で、その面影がこの頃にはまだ残っていたのであろう。鳥部野の左には三世川という名の川が流れているが、それが三途の川なのであろう。今の清水坂辺りであろうか。
絵図の中心は浄蔵が塔を立て直し、衆人がそれを驚いて眺めている図である。浄蔵には二人の子供が寄り添っている。この浄蔵という高僧は妻を持ち、そして二人の子を設けた。浄蔵はいわば破戒僧であるが、それが却って彼の霊力を人々に認めさせたのであろうか。また、この浄蔵の弟、或いは叔父に当たる日蔵は、先に述べた浄蔵と時平の話を載せる「北野天神縁起」などに、醍醐天皇が死んだ後、地獄へ行って天皇と出会った話を語った人である。日蔵は巧みな説話の語り手であった。とすると、時平と浄蔵の話も或いは彼の創作であったのかも知れない。
江戸時代までこの法観寺即ち八坂の塔に、京都の人は五層まで上って町の遠望を楽しんだらしいのである。今は二層までしか上がれず、いささか寂しい。
(以下、略)
当方より 4月26日に八坂の塔を訪ねた折の映像