言の葉39京都発見
② 東山界隈その2…八坂神社
*当方より 4月26日雨の八坂神社に参拝
抜粋
京都発見 ニ 路地遊行 梅原猛著 発行所(株)新潮社 1998年2月発行
四十二…………牛頭天王と祇園社
八坂神社の宮司の真弓恒忠氏の語るところによれば、平安の都は、陰陽道による四神相応の風水に適った地として選ばれたという。四神というのは、青龍、白虎、朱雀、玄武という都の四隅・東西南北を護る神獣である。この八坂神社はちょうど東の青龍の位置にあり、本殿・母屋の下に青龍の龍穴があるというのである。今は漆喰で覆いがしてあるが、かっては、そこに青々とした水が湛えているのがよく見られたという。また、この池の水は、都の中心・堀川御池辺りの神泉苑に通じているという。
八坂神社という名は、慶応四年(一八六八)の神仏分離以降の名で、その昔は祇園社と呼ばれでいた。祇園社は、厚く上下の崇拝を受けた。もともと祇園社は、清水寺と同じく奈良の興福寺の管轄下にあったが、後には、比叡山延暦寺に属するようになった。そういう関係でこの社は、しばしば南都の興福寺と北嶺の延暦寺の間の争いの的となった。祇園社は、斉明天皇の時に造られたというが、それが史上、はっきり姿を現わすのは、『三代実録』の貞観七年(八六五)六月十四日の記事の中である。
そこには「近畿七道の諸人、事を御霊会に寄せ、私かに徒衆を聚め、走馬騎射することを禁ず。小児の聚戯は制限に在らず」とあるので、既にこの頃から祇園御霊会は始まっていたと思われる。
また、社伝である『祇園社本縁録』などによれば、貞観十一年六月七日疫病が流行り天変地異が起こり、五穀実らず、諸社に使者を出してその災害の平定を祈らしめたという。さらに、社伝には、疫病が流行したのは、政治的に失脚した怨みを持つ人の祟りであるとして、鉾六十六本を立て、祇園社から神泉苑へ神輿を送ったととある。これが、今の祇園祭の初めとされる。
祇園社の主祭神・牛頭天王という名は、新疆に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産出したところから、この山の名を冠された天王を疫病に効く神として崇めたことによるという。この牛頭天王の疫神信仰がインド密教と結合し、さらに陰陽道の信仰とも混じりあって、我が国に伝わった。
室町時代後期の『二十二社註式』によれば、この神は、はじめ播磨の明石の浦に着き、それから広峰の山へと移り(北村季吟の「莵藝泥赴」には、京都の東山瓜生山の名が出てくる)、次に北白川の東光寺(現在の岡崎神社)に至り、ついにこの八坂の地に祀られ、中世の民衆に広くかつ厚く尊崇された。
この神は、明らかに仏教の仏でもあり、釈迦が仏教を広めた祇園精舎に因んで祇園天神とも呼ばれる。その縁でこの地一帯が祇園と言われるようになったという。
この神はまた、記紀神話の神・スサノヲの命と同一視される。スサノヲの命は、記紀によれは、天照大神の怒りに触れて流罪となり、黄泉の国の王となった。また、スサノヲの命は八岐大蛇を退治する。牛頭天王には色々なイメージが重なっている。牛の頭をした疫病に利益のある神、そして祇園精舎の尊い仏教の仏、それに最大の祟り神である天上を追放されたスサノヲの命、つまり国の内外における誠に恐ろしく力強い仏や神が、祇園社の主祭神である牛頭天王に集約されていったのである。
神道学者の西田長男氏はこの牛頭天王について次のように言う。
インドにおいて成立した仏教と、シナにおいて発生した道教と、我が国の固有宗教たる神道との習合によって生み出された新しい我が国の神祇なのである。そうして、我々日本人の宗教的感情にマッチしたとみえ、あるいは天王社、あるいは祇園社、あるいは八坂神社、あるいは素戔嗚神社などと称して、わが国土の津々浦々あたらなぬ隈なく、これをいつきまつっていないところとてないのである。
(「『祇園牛頭天王縁起』」の成立)
八坂神社の神輿の渡御は祇園祭の源、本殿前で激しく神輿を振る
桓武天皇の御代、この京都の地に都が定められるようになって以来、様々な怨霊が出現した。そしてその怨霊を鎮めるために、御霊神社なるものが建てられるが、それでも怨霊の怒りは収まらなかった。それ故に、もっと強い神仏が求められたのである。それが、牛頭天王とスサノヲの命であった。こうして、貞観十一年にこの激しい怨霊の祟りを治めた祇園の神に対して、その後も毎年六月になると御霊会という、怨霊を慰撫する祭が行われるのである。
祇園祭の鉾は、明らかに邪霊を祓う矛であったが、この鉾がだんだん長大になり、風流化され、最早、人力では運べず、ついに車を付けて運ぶようになった。
祇園祭に鉾とともに出る「山」も、大嘗祭に用いられる標山という柱状のものにその原型を発する。この山には、必ず真柱ととして松が立てられ、人形を配する。それは、神を迎える門松と同じように神の依り代であり、人形は神の姿を表しているのであろう。
祇園祭は京都観光の目玉となっている。山と鉾の祭は町衆の管理下で行われるものであるが、祇園祭で一番肝心なのは、神社が管理する三基の神輿を出す祭である。
この祭は、山と鉾の巡行が終わった七月十七日の夜の神幸祭と、一週間後の七月二十四日の夜の還幸祭に行われる。つまり、町衆の祭が終わってから本当の神の祭が始まるのである。牛頭天王即ちスサノヲの命、そしてその夫人・龍宮のヒメ即ちクシナダヒメとその子「八王子」という神々が、三基の神輿に乗り、神幸祭の夜、路地を通って、東は東大路通、西は千本通、南は松原通、北は二条通と巡り歩き、七日七晩、四条京極の御旅所(東社・西社及び冠者殿社)でお休みになり、再び還幸祭で洛中をあまねく巡る。神輿が、激しく暴れて揺らされ、洛中を練り歩くことで、人々は歓喜する。
祇園祭は「山鉾巡行」が有名であるが、この祭を担う人たちは、もともと祇園社の神人で「座」を形成していたという。これは真弓宮司の卓見で、
八坂神社を夕暮れにでる神幸祭の列
『祇園社記』によると、中世、商業の発達に伴って発生した各種の「座」の中で、京に於いては材木座、練絹座、小袖座、綿座(真綿座)袴腰座、菓子座、釜座の七座を支配したのが祇園社であった。座商人は、祇園社に年貢を納め、祭礼に奉仕することにより神人として認められることにより活発な商業活動を営んだ。
というのである。
山鉾巡行が終わった時に始まるこの神輿巡行の祭こそ、真の祇園祭である。この神の祭を是非、見て欲しいと、真弓氏は再三私に語った。
② 東山界隈その2…八坂神社
*当方より 4月26日雨の八坂神社に参拝
抜粋
京都発見 ニ 路地遊行 梅原猛著 発行所(株)新潮社 1998年2月発行
四十二…………牛頭天王と祇園社
八坂神社の宮司の真弓恒忠氏の語るところによれば、平安の都は、陰陽道による四神相応の風水に適った地として選ばれたという。四神というのは、青龍、白虎、朱雀、玄武という都の四隅・東西南北を護る神獣である。この八坂神社はちょうど東の青龍の位置にあり、本殿・母屋の下に青龍の龍穴があるというのである。今は漆喰で覆いがしてあるが、かっては、そこに青々とした水が湛えているのがよく見られたという。また、この池の水は、都の中心・堀川御池辺りの神泉苑に通じているという。
八坂神社という名は、慶応四年(一八六八)の神仏分離以降の名で、その昔は祇園社と呼ばれでいた。祇園社は、厚く上下の崇拝を受けた。もともと祇園社は、清水寺と同じく奈良の興福寺の管轄下にあったが、後には、比叡山延暦寺に属するようになった。そういう関係でこの社は、しばしば南都の興福寺と北嶺の延暦寺の間の争いの的となった。祇園社は、斉明天皇の時に造られたというが、それが史上、はっきり姿を現わすのは、『三代実録』の貞観七年(八六五)六月十四日の記事の中である。
そこには「近畿七道の諸人、事を御霊会に寄せ、私かに徒衆を聚め、走馬騎射することを禁ず。小児の聚戯は制限に在らず」とあるので、既にこの頃から祇園御霊会は始まっていたと思われる。
また、社伝である『祇園社本縁録』などによれば、貞観十一年六月七日疫病が流行り天変地異が起こり、五穀実らず、諸社に使者を出してその災害の平定を祈らしめたという。さらに、社伝には、疫病が流行したのは、政治的に失脚した怨みを持つ人の祟りであるとして、鉾六十六本を立て、祇園社から神泉苑へ神輿を送ったととある。これが、今の祇園祭の初めとされる。
祇園社の主祭神・牛頭天王という名は、新疆に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産出したところから、この山の名を冠された天王を疫病に効く神として崇めたことによるという。この牛頭天王の疫神信仰がインド密教と結合し、さらに陰陽道の信仰とも混じりあって、我が国に伝わった。
室町時代後期の『二十二社註式』によれば、この神は、はじめ播磨の明石の浦に着き、それから広峰の山へと移り(北村季吟の「莵藝泥赴」には、京都の東山瓜生山の名が出てくる)、次に北白川の東光寺(現在の岡崎神社)に至り、ついにこの八坂の地に祀られ、中世の民衆に広くかつ厚く尊崇された。
この神は、明らかに仏教の仏でもあり、釈迦が仏教を広めた祇園精舎に因んで祇園天神とも呼ばれる。その縁でこの地一帯が祇園と言われるようになったという。
この神はまた、記紀神話の神・スサノヲの命と同一視される。スサノヲの命は、記紀によれは、天照大神の怒りに触れて流罪となり、黄泉の国の王となった。また、スサノヲの命は八岐大蛇を退治する。牛頭天王には色々なイメージが重なっている。牛の頭をした疫病に利益のある神、そして祇園精舎の尊い仏教の仏、それに最大の祟り神である天上を追放されたスサノヲの命、つまり国の内外における誠に恐ろしく力強い仏や神が、祇園社の主祭神である牛頭天王に集約されていったのである。
神道学者の西田長男氏はこの牛頭天王について次のように言う。
インドにおいて成立した仏教と、シナにおいて発生した道教と、我が国の固有宗教たる神道との習合によって生み出された新しい我が国の神祇なのである。そうして、我々日本人の宗教的感情にマッチしたとみえ、あるいは天王社、あるいは祇園社、あるいは八坂神社、あるいは素戔嗚神社などと称して、わが国土の津々浦々あたらなぬ隈なく、これをいつきまつっていないところとてないのである。
(「『祇園牛頭天王縁起』」の成立)
八坂神社の神輿の渡御は祇園祭の源、本殿前で激しく神輿を振る
桓武天皇の御代、この京都の地に都が定められるようになって以来、様々な怨霊が出現した。そしてその怨霊を鎮めるために、御霊神社なるものが建てられるが、それでも怨霊の怒りは収まらなかった。それ故に、もっと強い神仏が求められたのである。それが、牛頭天王とスサノヲの命であった。こうして、貞観十一年にこの激しい怨霊の祟りを治めた祇園の神に対して、その後も毎年六月になると御霊会という、怨霊を慰撫する祭が行われるのである。
祇園祭の鉾は、明らかに邪霊を祓う矛であったが、この鉾がだんだん長大になり、風流化され、最早、人力では運べず、ついに車を付けて運ぶようになった。
祇園祭に鉾とともに出る「山」も、大嘗祭に用いられる標山という柱状のものにその原型を発する。この山には、必ず真柱ととして松が立てられ、人形を配する。それは、神を迎える門松と同じように神の依り代であり、人形は神の姿を表しているのであろう。
祇園祭は京都観光の目玉となっている。山と鉾の祭は町衆の管理下で行われるものであるが、祇園祭で一番肝心なのは、神社が管理する三基の神輿を出す祭である。
この祭は、山と鉾の巡行が終わった七月十七日の夜の神幸祭と、一週間後の七月二十四日の夜の還幸祭に行われる。つまり、町衆の祭が終わってから本当の神の祭が始まるのである。牛頭天王即ちスサノヲの命、そしてその夫人・龍宮のヒメ即ちクシナダヒメとその子「八王子」という神々が、三基の神輿に乗り、神幸祭の夜、路地を通って、東は東大路通、西は千本通、南は松原通、北は二条通と巡り歩き、七日七晩、四条京極の御旅所(東社・西社及び冠者殿社)でお休みになり、再び還幸祭で洛中をあまねく巡る。神輿が、激しく暴れて揺らされ、洛中を練り歩くことで、人々は歓喜する。
祇園祭は「山鉾巡行」が有名であるが、この祭を担う人たちは、もともと祇園社の神人で「座」を形成していたという。これは真弓宮司の卓見で、
八坂神社を夕暮れにでる神幸祭の列
『祇園社記』によると、中世、商業の発達に伴って発生した各種の「座」の中で、京に於いては材木座、練絹座、小袖座、綿座(真綿座)袴腰座、菓子座、釜座の七座を支配したのが祇園社であった。座商人は、祇園社に年貢を納め、祭礼に奉仕することにより神人として認められることにより活発な商業活動を営んだ。
というのである。
山鉾巡行が終わった時に始まるこの神輿巡行の祭こそ、真の祇園祭である。この神の祭を是非、見て欲しいと、真弓氏は再三私に語った。