言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

ラ・メール

2016-05-28 22:56:14 | 言の葉綴り
言の葉8 ラ・メール

その1 郷愁 三好達治 測量船より

蝶のやうな私の郷愁!………。蝶はいくつか籬を越え、午後の街角に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉じる。私は壁に凭れる。隣の部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。―海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」

その2 地中海 美の交易 ―ルーブルの遺産から(下) 日本経済新聞 美の美(2013.7.7掲載)より抜粋

キリスト教徒は神の名の下に虐殺に走り、敬虔なイスラム信徒は右手に剣、左手にコーランを持って征服に向かう 。「聖戦」が生むものは何か。母なる 海そのとき、軍船が押しよせる戦の海へと変貌する。

ー 海よ、僕らの使ふ文字では、おまえの中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

母への思慕をふたつの言語の「海」に託して歌ったのは三好達治だった。(詩集「測量船」所収の「郷愁」より)。この日本の散文詩を、なぜか遠いギリシャの海の上で思い出した。
南仏マルセイユに滞在中、フランス語で海のことを「ラ・メール(la mer)と呼ぶと教わった。母は「メール(me're)」だから、確かに綴りの中に「海」がある。その後に訪れたローマで、イタリア語では海を「イル・マーレ(il mare)」と呼ぶと知った。フランス語の「la」は女性名詞、イタリア語の「il」は男性名詞につく定冠詞。2つの言葉はともに古代ラテン語の「マレ(mare)」に由来するが、なぜ男と女に分かれたのだろう。
生命を育み、恵みをもたらす海は「母=女」のイメージ。だが海には、ときに人間に敵対し、凶暴な牙をむいて襲い掛かってくる猛々しい姿もある。そこにこぎ出しこぎ出し、征服すべき対象としての海は、確かに男のイメージだ。古代ローマ人は地中海のことを「我らが海(マーレ・ノストラム)」と呼んだ。その言葉が生まれたのはポエニ戦争中、シチリアやコルシカなどカルタゴの植民地を次々と制圧してからという。イタリアの海が男のイメージを持ったのは、そのあたりからではないか。強大な力と領土を支配したそのローマ帝国も、東西に分裂した後、異民族の浸入に脅かされてやがて滅亡する。地中海はこの間、何度も軍船が行き交う戦の海と化したのだろう。
ギリシャの海で三好の詩を思い出したのは、そんなことを考えていたときだった。アテネで教えてもらったギリシャ語の海「イ・タラサ」が女性名詞と知り、少しほっとしたのかもしれない。

異国との戦争は、異文化同士の強い交わりをもたらした。とりわけ、西のローマ・カトリック教会の庇護の下、西欧の騎士たちが聖地エルサレムの奪還を目指して東地中海に軍事遠征した11~13世紀の十字軍は、敵対するイスラム教国家の文化が西欧文化と交わる重要な契機となった。………







胎児の世界 人類の生命記憶

2016-05-24 16:27:47 | 言の葉綴り
言の葉7
胎児の世界

胎児の世界 人類の生命記憶
三木 成夫著 中公新書 691

その1 まえがき より

過去に向かう「遠いまなざし」というのがある。人間だけに見られる表情であろう。
何十年ぶりかで母校の校庭に立つ。目に映る一木一草に無数の想いがこもる。「いまのここ」に「かってのかなた」が二重に映し出されたのであろう。いちいちの記憶が、そこで回想されたのである。
「記憶」と「回想」はよく混同される。思い出すことを前提におぼえこもうとする習性が、いつの間にか身にしみついてしまったからであろう。わたしたちには、しかし、度忘れということがある。その一方で、知らぬ間におぼえていたものが、何かの拍子にに、ふっと出てきたりする。
校庭の一木一草のその姿かたちが、幼い日々を通していつしかこのからだに入り込んだように、記憶とは、本来、回想とは無縁の場でおこなわれるもののようだ。いいかえれば、人間の意識とは次元を異にした、それは「生命」の深層の出来事なのである。アメーバの裾野にまでひろがる生物の山なみを舞台に、悠久の歳月をかけた進化の流れのなかで先祖代々営まれ、子々孫々受け継がれてきた、そのようなものでなければならない。人びとはこれを「生命記憶」と呼ぶ。
この本では、わたしたちの生命記憶に関する、もろもろの世界がとりあげられる。まず1章の「故郷への回帰」では、ある私的な出来事が紹介される。それは、何のおぼえもない遠い過去が、突如、一つのきっかけでよみがえるといったものだ。生命記憶のまさに回想であるが、この不思議な回想は、ここでは、しだいに遠く、人類の第四紀から哺乳類の第三紀を経て、やがて脊椎動物上陸の古生代までさかのぼり、ついには生命誕生の太古の海にまで行き着く。
これは、おとぎの世界かもしれない。しかし、ふつうのおとぎばなしとは違う。この夢の世界をつねに現実に繋ぎとめる、生物の「比較形態学」の所見が、その実証の網の目を全篇の底に張りめぐらせているからである。わたしたちの「胎児の世界」はその頂点に位する。
このII章に登場する胎児たちは、あたかも生命の誕生とその進化の筋書を諳んじているかのごとく、悠久のドラマを瞬時の“パントマイム”に凝縮させ、みずから激しく変身しつつこれを演じてみせる。それは劫初いらいの生命記憶の再現といえるものであろうか。ここではこの模様が、初めにニワトリの卵のなかで、次にヒトの胎児の正面像で、それぞれ観察されるが、わたしたちは、このいうなれば「胎児の夢」のあとに目を凝らし、その残照が、かの「奇形」とよばれるものの上にほのかにただようさまを、ただ茫然と眺めるだけだ。
胎児の演ずる変身の象徴劇は、こうして卵発生の秘儀として、代から代へ受け継がれるのであるが、この、つねに生命誕生の原点に帰り、そこから出発しようとする周行の姿、すなわち、「生物の世代交替」の波模様こそ、すべての「生のリズム」を包括する、まさに「いのちの波」とよばれるにふさわしいものではないか。それは生命記憶の根原をなすものでなければならない。III章では、これが初めに、ゲーテのいう「食と性の宇宙リズム」として示され、やがて、このはらわたのうねり、いわば「内蔵波動」に象徴される「永遠周行」の営みのなかに、わたしたち人間の歩むべき本来の「道」がたずねられ、求められる。
胎児の世界ーこの人類の生命記憶の故郷へ、わたしたちも、いちど、巡礼遍路の旅をしてみようではないか。

その2 胎児の夢
II 胎児の世界ー生命記憶の再現
再現について 胎児の夢より抜粋

……生まれてまだ目もあかない赤ん坊が、眠っているうちに突然におびえて泣き出したり、または何かを思い出したようにニッコリ笑ったりするのを、わたしたちはいつも見ている。それは、ほかでもない、母の胎内で見残した夢の名残りを、実際、見ているのだという。……

その3 母なる海
III いのちの波
内蔵波動 母なる海 より抜粋

胎児は十月十日の間、母親のお腹のなかでいったい何を聞いて過ごしてきたのであろうか。それは、絶え間なく響く母親の血潮のざわめき、潮騒である。子宮の壁をざーざーと打つ大動脈の搏動音、小川のせせらぎのような大静脈の摩擦音、そしてそれらのかなたに高らかに鳴り響く心臓の鼓動。それは何か宇宙空間の遠いかなたに消えていくような深い響きだ。銀河星雲の渦巻きを銅鑼にして悠然と打ち鳴らすような……。
これが「いのちの波」の象徴なのか。生の搏動のこれが根原というものか。……


パリの憂愁

2016-05-16 12:00:05 | 言の葉綴り
言の葉6
パリの憂愁

その1 パリの憂愁
ーボードレールとその時代ー
河盛好蔵著
24 (章)より抜粋
ボードレールは1859年9月27日付のヴィクトル・ユーゴーに宛てた長い手紙の終わりに次のように書いている。当時ユーゴーはナポレオン三世から国外追放を命じられて英領ガーンジー島に住んでいた。
「伝え聞くところによれば、あなたは、高抜、詩的で、自分の精神にも似た住居におすごしで、風と海とのとどろきのさなかで、幸福にかんじていらっしゃるとのことです。あなたが、偉大であれるのと同じにまで幸福になられることは、決してないでしょう。あなたが追懐や郷愁の念を感じておられるとも、伝えて聞いています。これはおそらく嘘でありましょう。しかし、もしこれが本当だとしても、このみじめで、たいくつなパリ、パリ=ニューヨークに一日をすごされるだけで、完全に癒ってしまわれるだろうと思います。私にしても、ここで果たさねばならぬさまざまな義務がなかったら、世界の端まで行ってしまうでしょう。」
(人文版「全集」II 381頁)
また同じ年の12月7日付の手紙と共にユーゴーに送られた名作「白鳥」(この詩は翌60年1月22日付の雑誌「閑談」に発表、61年2月始めに刊行された『悪の華』第二版に収録されている)のなかで、

昔の巴里はもはや無い(都市と言はれる形態の
移り変わりの迅速は、人の心の変貌より更に激しい)。
…………
巴里は変わる、然し私の憂鬱の中では 何も
動かなかった。新築の王宮も、組まれた足場も、石塊も、古い場末の町々も、私にとって一切が寓意となって、なつかしいわが思出の数々は、岩より重い。
(鈴木信太郎訳)

と歌っている。
本章ではこの激しく変貌しつつあったパリと、その改造者オスマンについて書きたい。………

その2 憂愁
ボードレール全集I
福永武彦編集 人文書院刊
詩人としてのボードレール
3 憂愁或いは『冥府』より抜粋

…スプリーン(憂愁)はメランコリー(憂鬱)と並んで、フランス・ロマン主義に於いて流行した英語からの外来語で、英語では本来は「脾臓」の意味であり、源はギリシャ語のスプレーンからきている。…
…怒り、悲しみ、空しさ、虚脱感、無価値感、それらの総和が憂愁なのである。…
…憂愁という主題は、そこから時間や、倦怠や、忘却や、死や、悔恨などの、多くの副主題を呼び起こす。…

その3 詩集 悪の華 白鳥
ボードレール全集I
福永武彦編集
悪の華第二版より

89 白鳥
ヴィクトル・ユーゴーに
I

アンドロマックよ、あなたは想う、このささやかな川、
あなたの寡婦の苦しみが嘗て限りなく溢れ出て
その上に輝いた哀れな悲しい鏡であるこの川は、
あなたの涙にながれを増した故郷偲ぶこのシモイスの川は、

突如として僕の肥沃な記憶を更に豊かにした、
折しも僕が新しいカルーゼル広場を横切って行った時に。
古いパリは最早ない(都市の形は
人の心よりも尚早く、ああ、変わってしまうものだ)。

今は心のうちに見るばかり、設営されたバラック小舎を、
粗造りの柱頭に、ごろごろした円柱の山積みを、
雑草、溜まり水で緑青色に染まった大きな石の塊りを、
それに窓硝子に光っていたごたまぜの古道具を。

そこに動物のいる見世物小屋が掛かっていたこともある。
そこに或る朝、僕は見たのだ、冷たく澄んだ大空のもと、
「労働」が目を覚まし、ごみ集めの車が
静かな空気を引き裂いて、か黒い旋風を巻き起こす時、

檻の中から逃げ出して来た一羽の白鳥が、
水かきのある足先で乾いた舗道を引掻きながら、
でこぼこの地面の上にに白い翼を引きずって行ったのを。
水も流れぬ溝のそばで、鳥は嘴をひらき、

埃にまみれてその翼を神経質に沐浴させて、
さて、想いはふるさとの美しい湖にかえって、言った。
『水よ、いつお前は雨と降るのか、雷よ、いつお前は鳴るのか?』と。
僕は見る、この奇妙な宿命の神話である不幸な鳥が、

オヴィデウスにでる人間のように、時折、空の方へ、
皮肉な空、残酷なまでに青く晴れた空の方へと
痙攣する頸の上で渇えに喘ぐその頸を伸ばすのを、
恰も神に非難の言葉を浴びせかけるかのように!

II

パリは変わる! しかし僕の憂鬱の中では何ひとつ
動いたものはなかった! 新しい宮殿、組んだ足場、石の塊り、
古びた場末町、すべては僕にとって寓意となった、
そして僕の懐かしい思い出は岩よりも尚重い。

それ故にルーブル宮を前にして一つの面影は僕を引き裂く。
僕は想う、あの大きな白鳥を、その狂ったようなその身振りを、
流刑の囚人のように、滑稽でしかも崇高に、
白鳥が絶え間ない熱望の牙に噛まれていたのを! そしてまたあなたを、

アンドロマックよ、偉大だった夫の腕から
賤しい家畜同然に、居丈高のピリュスの手に落ちて、
亡骸のない墓の側で、あなたが茫然と倒れ伏したのを。
ヘクトールの寡婦よ、ああ、そしてヘレニュスの妻よ!

僕は想う、一人の黒人女を、痩せ衰え、肺を病んで、
泥濘の道を行き悩み、凶暴な目を据えて、彼女が
果てしない長城のように霧に連なる彼方に、
ここにはない壮麗なアフリカの椰子に樹を求めるのを。

また想う、決して、二度と、見いだすことの出来ないものを
失ってしまったすべて人たちを、自己の涙で咽喉を潤し
善良な牝狼と見立てて「苦悩」の乳首を吸う人たちを!
花々にように萎れて行く痩せ細った孤児たち!

このように、僕の精神が流刑された森のただ中で、
一つの古い「思い出」は角笛の高鳴るようにいま響く!
僕は想う、孤島に置き去られて忘れられた水夫たちを!
囚人たちを、敗者たち!……またそのほかの多くの人たちを!