言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

私の師匠 吉本隆明

2017-06-23 10:58:09 | 言の葉綴り
言の葉41 私の師匠 吉本隆明
「生活人」の門前の小僧として
著者糸井重里「ほぼ日」代表取締役



文藝春秋7月号 特別企画
わたしの師匠22人より



二〇一二年に八十七歳で亡くなった、評論家・詩人の吉本隆明。文学者の戦争責任や知識人の欺瞞を指摘し、数々の論争を巻き起こした戦後日本を代表する思想家でもある。三十年以上に渡り家族ぐるみでつき合い、「吉本塾の門前の小僧でした」と語る「ほぼ日」の糸井重里氏(66 )が貴重な思い出を明かす。

吉本隆明さんとの出会いは高校時代でした。昭和三十年代当時、高校生は時代の空気に染まろうと背伸びする傾向があって、政治と芸術運動を巡る「吉本花田論争について同級生と議論したりしていました。僕も感化され、吉本さんの「芸術的抵抗と挫折」を読んだのですが、かなり難しい本だったためか、花田清輝のほうが圧倒的に面白く感じた(笑)。ちゃんと読者を笑わせてくれるところが高校生には響いたのかもしれません。
その後しばらくは「すごい人」として僕の頭の引き出しの中に入っていただけでしたが、一九八〇年代に僕が雑誌などで文章を書き始めると、吉本さんが消費社会やマスメディアを論じた中で僕のことに言及してくれるようになりました。最初に読んだ時は、あのヨシモトリュウメイの本に自分の名前が出てきたのでビックリしましたね。
そんなご縁もあり共同通信で初の対談の企画が持ち上がったのですが、実はお会いしただけで対談は中止になってしまった。当時、吉本さんは著名人の核兵器廃絶の署名運動に対する違和感が表明したことで、多くの論客やマスメディアを敵に回しており、僕を気遣ってくれたんです。
「こんな暴風雨の中で話するのではなく、晴れた日に改めて会いましょう。いつでも僕の家に遊びに来て下さい」
その言葉を真に受けた僕は、吉本さんのご自宅に定期的に通うようになり、吉本塾の「門前の小僧」になりました。波長が合っていたのか、論敵の多かった吉本さんにめんどつくさがられることなく、(笑)次女の吉本ばななさんたちと一緒に旅行に行ったり、親戚みたいな関係になりました。僕にとっては〝普通のおじさんだけど宝物″のような存在でしたから、仕事で知り合った若い人に「こんな人がいるんだよ」というのを見せたくて、吉本さんの家に連れていき、あれこれ相談に乗ってもらったこともあります。
お付き合いする中で一番驚いたのは吉本さんの視線がとにかく低いということ。単に相手を慮るということではなく、人より低い地点から考ええることが体に染みついており、常に「普通の人のふつうの暮らし」に対する敬意がありました。一九八〇年代に進歩的知識人を批判した頃から変わらず、自分が「生活人」であることを意識していた、とも言えるかもしれません。
そして、生活人の立場から、晩年まで「自由」について考え続けていました。一九八四年に吉本さんが有名ブランドの服を着て女性誌に出るとある作家から「貧しい国の労働者が作った資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判を受けたのですが、吉本さんはそうした、社会を息苦しくさせる声が大きくなることを危惧し、抵抗してきました。食べる、着る、笑う。そういった普通の人の自由な喜びをとにかく認めなさいと最後まで一貫して主張されていました。

糖尿病なのに宅配ヒザ

膨大な時間を一緒に過ごしたため、吉本さんから何を学んだかを絞るのは難しいですが、あえて言えば「言葉」と「言葉の奥にあるもの」をセットにする、という態度かもしれません。吉本さんは口先だけの発言をせず、ひとつの言葉がどうして生まれているのか、他人の発言の裏にはどんな考えがあるのかをとことん追求して、その人を見定めようとしていた。常に言葉を通じて、人を見ていました。僕もそれにならって、言葉が出てくる前の根っこを見つめようとしてきました。
先日、長女で漫画家のハルノ宵子さんに「糸井さんは父とずっと同じ距離感で付き合ってくれた」と言われました。でもそれは吉本さんのお話が面白かったからです。文京区のご自宅に伺うと、糖尿病なのに宅配ヒザを注文してくれ、届くのを待つ時間も、食べるときも、吉本さんは楽しそうに三時間でも四時間でもずっとしゃべってくれました。
だから僕の思考の中には吉本さんの言葉のストックがいっぱいあって、無意識で真似をしていることもあります。講演などでも吉本さんから聞いた言葉をあたかも自分の考えのように話して、最後に「〜と、吉本さんに聞きました」と付け加えることがけっこうあります(笑)。
「ほぼ日」のウェブサイトでは吉本さんの百八十三本の講演を無料で聴けるようになっており、生の思想家の声に触れられます。吉本さんも僕も「無理のない範囲でお互いの役に立ちたい」と考えてお付き合いをしてきましたが、これからも様々なかたちで吉本さんが考え抜いて発していた言葉を世に伝え続けていくつもりです。