言の葉62 良寛①ー序ー
その1、その2
その1
良寛 吉本隆明著 株式会社春秋社
発行所 1992年2月1日発行より
抜粋
序
良寛をかんがえるといつも、詩文の運命ということといっしょに近世になってからの僧侶の運命ということをかんがえる。良寛が身につけていた詩文の能力も、僧侶としての在り方も、近世ではすでに制度のかたい網目にからまれていた。詩文をよく作りそれを優れた筆蹟で書きしるす行為は、たとえ純粋に私的な行為であっても、すでにある伝播性をもっていた。良寛の詩文の能力はそれほど伝播性があったとは、おもえないが、詩文の断片などを墨書した筆蹟は、伝播性をもち、公共的な評価をえていたといえるほど、遠くまでとどいていたといっていい。亀田鵬斎なような同時代の儒家、書家が良寛を訪れたりしていることからそれが推察される。良寛の詩文の才は全貌を同時代にあらわすことはありえなかったが、その墨書は、習字か学習から美の領域にまでいりこんでいた近世後期では、知る人には比類のない評価をうけていたとおもえる。良寛もまたその書を揮毫するとき、幾分かの公共性を意識せずにはおられなかったに違いない。
儒家のある者は書家として江戸で知られていた。書家ということは、南画家が画家とともに儒学者だったように、詩文の造型家であり同時に儒学者でもあった。良寛は資質的な傾向から儒学者ではなくて、自由な僧侶というべき在り方をたどった。書家と僧侶を兼ねた者は、おおむね制度のなかの禅の師家だった。良寛はここでも制度の外にはみだした孤独な師家だったといってよい。同派の僧堂は、故郷に隠棲した良寛を師家として認めなかったに違いない。良寛も僧の形をしていても制度のなかの師家とは違う生き方を選んでいた。
わたしたち現代のものからみても、良寛は微妙なところで書家と僧侶の常道から外れている個所がある。良寛自身はじぶんは性格悲劇から制度のなかの人間関係や、上下の関係に耐えないのだと思いこんでいた。しかしよくかんがえてみると良寛の性格悲劇には緊張と弛緩のふたつの位相があって、緊張の極限では、やがてくる近代の人間悲劇の必然的な形に接続し、弛緩の極限では師国仙が贈り名したように「大愚」という性格に接続していたとおもえる。良寛のこの矛盾ともみえるふたつの位相に言葉が同時にとどくことができるか。それがいってみればわたしが良寛論でやりたいことのかなめだった。こんな理解の仕方からすれば托鉢の途中で手毬をつき子どもと遊ぶ良寛も、詩文を作り墨書する良寛も、緊張と弛緩のあいだの均衡の姿であって、弛緩のあらわれとは到底おもわれない。わたしの推測では良寛の均衡した姿勢は、一見すると放縦なようで実は厳密だった僧侶の規範からきているとおもえる。この理解からわたしなりの良寛が造型できていたら、これに過ぎたことはないとおもう。
一九九一年一月二十五日
吉本隆明
その2
吉本隆明183講演 フリーアーカイブ
A045(T) 良寛詩の思想 より
良寛にはとてもむずかしいところがあります。
この人は童心を持っていたから、子どもと一日中毬をついてあそんでいて、
つい本来の用事を忘れて平気だったといえば、簡単です。
しかし、そう考えるべきじゃないかも知れないので、われわれが、一日中子どもと毬をついて遊んでいたとか、何か用事があるんだけど、
そんな用事などもう忘れて、
途中で子どもに会ったら遊んでしまったと考えてみたらわかります。
それはちょっとね、「おれうかうかしちゃったよ」では済まされない何かであります。
行為自体が何かを意味しています。
良寛さんは童心を持っていたからだと理解したら、何も理解していないと同じことです。
その1、その2
その1
良寛 吉本隆明著 株式会社春秋社
発行所 1992年2月1日発行より
抜粋
序
良寛をかんがえるといつも、詩文の運命ということといっしょに近世になってからの僧侶の運命ということをかんがえる。良寛が身につけていた詩文の能力も、僧侶としての在り方も、近世ではすでに制度のかたい網目にからまれていた。詩文をよく作りそれを優れた筆蹟で書きしるす行為は、たとえ純粋に私的な行為であっても、すでにある伝播性をもっていた。良寛の詩文の能力はそれほど伝播性があったとは、おもえないが、詩文の断片などを墨書した筆蹟は、伝播性をもち、公共的な評価をえていたといえるほど、遠くまでとどいていたといっていい。亀田鵬斎なような同時代の儒家、書家が良寛を訪れたりしていることからそれが推察される。良寛の詩文の才は全貌を同時代にあらわすことはありえなかったが、その墨書は、習字か学習から美の領域にまでいりこんでいた近世後期では、知る人には比類のない評価をうけていたとおもえる。良寛もまたその書を揮毫するとき、幾分かの公共性を意識せずにはおられなかったに違いない。
儒家のある者は書家として江戸で知られていた。書家ということは、南画家が画家とともに儒学者だったように、詩文の造型家であり同時に儒学者でもあった。良寛は資質的な傾向から儒学者ではなくて、自由な僧侶というべき在り方をたどった。書家と僧侶を兼ねた者は、おおむね制度のなかの禅の師家だった。良寛はここでも制度の外にはみだした孤独な師家だったといってよい。同派の僧堂は、故郷に隠棲した良寛を師家として認めなかったに違いない。良寛も僧の形をしていても制度のなかの師家とは違う生き方を選んでいた。
わたしたち現代のものからみても、良寛は微妙なところで書家と僧侶の常道から外れている個所がある。良寛自身はじぶんは性格悲劇から制度のなかの人間関係や、上下の関係に耐えないのだと思いこんでいた。しかしよくかんがえてみると良寛の性格悲劇には緊張と弛緩のふたつの位相があって、緊張の極限では、やがてくる近代の人間悲劇の必然的な形に接続し、弛緩の極限では師国仙が贈り名したように「大愚」という性格に接続していたとおもえる。良寛のこの矛盾ともみえるふたつの位相に言葉が同時にとどくことができるか。それがいってみればわたしが良寛論でやりたいことのかなめだった。こんな理解の仕方からすれば托鉢の途中で手毬をつき子どもと遊ぶ良寛も、詩文を作り墨書する良寛も、緊張と弛緩のあいだの均衡の姿であって、弛緩のあらわれとは到底おもわれない。わたしの推測では良寛の均衡した姿勢は、一見すると放縦なようで実は厳密だった僧侶の規範からきているとおもえる。この理解からわたしなりの良寛が造型できていたら、これに過ぎたことはないとおもう。
一九九一年一月二十五日
吉本隆明
その2
吉本隆明183講演 フリーアーカイブ
A045(T) 良寛詩の思想 より
良寛にはとてもむずかしいところがあります。
この人は童心を持っていたから、子どもと一日中毬をついてあそんでいて、
つい本来の用事を忘れて平気だったといえば、簡単です。
しかし、そう考えるべきじゃないかも知れないので、われわれが、一日中子どもと毬をついて遊んでいたとか、何か用事があるんだけど、
そんな用事などもう忘れて、
途中で子どもに会ったら遊んでしまったと考えてみたらわかります。
それはちょっとね、「おれうかうかしちゃったよ」では済まされない何かであります。
行為自体が何かを意味しています。
良寛さんは童心を持っていたからだと理解したら、何も理解していないと同じことです。