言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

西行論⑦ー歌人論ーその3

2018-05-27 11:54:35 | 言の葉綴り
言の葉54 西行論⑦
ー歌人論ー その3

西行論 著者吉本隆明 発行所(株)講談社 1990年2月10日発行
より抜粋




歌人論(4)「花」と「月」3より抜粋

西行の「月」の歌は特徴的であった。ひとくちにいえば信仰の証としての「月」の歌といえるものを、ひとつの分野として開拓したと言うべきものだった。それは景物の要めにある「月」と、その景物の「月」を眺めやる心のあいだに、信仰といえる心の状態を認知し、その境位を歌に詠んだことを意味している。もちろんそれだけならば時にひとつやふたつ信仰の心を「月」に託した歌はないことはなかった。ただはっきりと「月」の意味と情緒を信仰の心の暗喩として詠むことを、じぶんの詠歌のひそかな部立てとした歌人が、かれのほかいなかったのだ。

三五三 ゆくゑなく月に心のすみすみて はてはいかにかならんとすらん
(『山家集』秋・上)

三六七 ながむればいなや心のくるしきに いたくなすみそ秋のよの月
(同)

返し
七三三 すむといひし心の月しあらはれば この世もやみのはれざらめやは
(『山家集』中・雑)

月前述懐
七七三 月をみていづれのとしの秋までか この世にわれがちぎりあるらん
(同)

七月十五日夜、月あかゝりけるに、ふなをかにまかりて(※1註)
七七四 いかでわれこよひの月を身にそへて しでの山路の人をてらさん
(同)

大みねのしむせんと申所にて、月をよみける(※註2)
一一〇四 ふかき山にすみける月を見ざりせば 思出もなき我身ならまし
(『山家集』下・雑)

一四〇七 雲はれて身にうれへなき人の身ぞ さやかに月のかげはみるべき
(同)

一四一〇 心をばみる人ごとにくるしめて 何かは月のとりどころなる
(同)

一四一ニ ながめきて月いかばかりしのばれん このよしくものほかになりなば
(同)

一四一三 いつかわれこのよのそらをへだゝらん あはれあはれと月をおもひて
(同)

ハハ あはれなる心のをくをとめゆけば月ぞおもひのねにはなりける
(『聞書集』)

同行に侍ける上人、月のころ天王寺にこもりたりときゝて、いひつかはしける
ハ五三 いとヾいかににしへかたぶく月かげを つねよりもけに君したふらん
(『山家集』中・雑)

見月思西と云事
ハ七〇 山端にかくるゝ月をながむれば われと心のにしにいるかな
(同)

易住無人の文の心を
ハ七二 西へ行月をやよそにおもふらん 心にいらぬ人のためには
(同)

観心
ハ七六 やみはれて心のそらにすむ月は にしの山べやちかくなるらん
(同)

ある人、よをのがれきた山でらにこもりゐたりときゝて、たづねまかりたりけるに、月のあかゝりければ
七五四 よをすてゝたにそこにすむ人見よと みねのこのまを分る月影
(同)

一〇四一 この世にてながめられぬる月なれば まよはんやみもてらさゞらめや
(同)

二ハ 山のはにいづるもいるもあきの月うれしくつらき人のこころか
(『聞書残集』)

当方(※註1)山家集 金槐和歌集
日本古典文文学体系29発行所 岩波書店 頭注より
7月15夜…盂蘭盆会の夜。ふなおか…船岡山。山城国愛宕郡、今、京都市上京区紫野の西。火葬場があった。

日本大地図 中巻 日本名所大地図1
企画・発行 ユーキャン より
大徳寺の南、金閣寺の東に位置する



当方(※註2)同じく頭注より
大峰…大和国大峰山。修験道の霊地。しむせん(しんせん)…吉野郡上北山村深仙。大日岳と釈迦が岳との中間。入山者に正灌頂が施す所。深き山…深仙を同音で深山としそれを訓み込んだ。

日本大地図 上巻 日本分県大地図
企画・発行 ユーキャン より
奈良県の大峰山脈




いつか臨終のときがきてこの世の空をへだたるとき、月を「あはれあはれ」と思うことだろうと詠んでいる歌に、すべては象徴される。「月」を秋の景物としての「月」から、この世のこころと来世のこころとを映し、境界にあってそのふたつを、ひとつの鏡に合わせている形而上的存在にまで高める歌をはじめて確立した。また「月」が澄むということに誘われて心が澄むということは、来世への鍵となるもので、身とこころに憂いがないものだけが澄む「月」に象徴される来世の世界に入りきれるものとかんがえられている。西に月が傾いてゆくことは、心が西方浄土に傾いてゆくことと同義であった。そして後世を願う出家として、「月」のひかりをじぶんの身につけて、死者が浄土へゆく路を照らしてやりたいとかんがえた。こんな「月」のうたは釈教歌としてときにないことはなかったが、ひとりの歌人が精力を傾けて詠んだものとしては、同時代にもそれ以前にも存在しなかったのである。
西行の信仰の「月」の歌は優れた歌とはいえない。むしろ西行ほどの歌人が、どうしてこんな歌を作ってしまうのかと思える歌だといってもいいすぎではない。どうしても信仰の境位を「月」になぞらえてみたり、「月」を来世を願うとぎ澄ました心に擬したりしたいあまり、類型的でもあり、また理念の戯れでもあるような、ありきたりの歌にしているといえる。だが逆にいえば、とても優れた歌になりそうもないモチーフを「月」に仮託して詠んでいるところに、西行がひそかに心のなかにつくった部立てがあった。それは釈教ともちがうし、叙景の歌ともちがう。「月」を中心に含んだ景観に寄託する心の構えを、景観にむかって狭ばめ、信仰の境位のように昇華させてゆくものであった。
「月」の歌がいちばん優れているのは『古今集』だといえよう。それは「月」が景観として鑑賞され、風雅とみなされるようになったことと関わりがある。

『古今集』の月の歌の例示

夏の夜はまだ宵ながらあけぬるをくものいづこに月宿るらん
(巻第三・夏 深養父)

夕月夜おぐらのやまになく鹿のこゑのうちにや秋はくるらん
(巻第五・秋下 貫之)

大空の月のひかりしきよければかげ見し水ぞまずこほりける
(巻第六・冬 読人しらず)

あさぼらけ有明の月と見るまでに吉野のさとにふれる白ゆき
(巻第六・冬 坂上是則)

あまの原ふりさけ見れば春日なるみかさの山にいでし月かも
(巻第九・羇旅 安倍仲麿)

夕月夜おぼつかなきを玉くしげふたみの浦はあけてこそみめ
(巻第九・羇旅 藤原かねすけ)

飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端遁げていれずもあらなん
(巻第十七・雑上 業平朝臣)

これらはどれも「月」を景観の中心として眺めて、感懐を託したものだ。そして「月」の景観を景観として描写するというよりも、深い思い入れを歌に詠んでいる。ひとところに座して「月」を眺める風習をもたなくとも、思いを入れることはその都度できるはずだが、歌に詠むこと、とくに静止の点に視座をおいて「月」の景観に思い入れた感懐を歌に詠むことは、鑑賞の風習やそれに類似の習俗がなければできないとおもえる。
(中略)











西行論⑥ー歌人論その2

2018-05-05 13:05:20 | 言の葉綴り
言の葉53 西行論⑥
ー歌人論ー その2

西行論 著者吉本隆明 発行所(株)講談社 1990年2月10日発行
より抜粋



歌人論(4)「花」と「月」2より抜粋

桜の花への思い入れが、いつからはじまったのか、ほんとはよく知られていない。山野に自生した山桜にたいする思い入れは、たぶん古代以前からあったと想像される。直接その証にはならないが、間接的な推測の素材になりそうな歌は、すでに『万葉集』にみることができる。

桜の花の歌一首 短歌を載せたり
一四ニ九 をとめらの挿頭のために
遊士(みやびと)の 蘰(かつら)のためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに

反歌
一四三〇 去年の春会ヘリし君に恋にてし 桜の花は迎へけらしも
(『万葉集』巻第ハ・春 雑歌)
上の二首は、若宮年魚麿うたふ

娘たちのかざしや、若い男たちの頭の飾りのため、桜の花が挿されたり、編まれたりしていた。そのことは花の呪力がすでにあまねく知られており、それがこの歌によれば公的な場面でも信仰の習俗になっていたことを暗示している。この歌は相聞の歌でありながら、長歌のほうの詠じ方は、半ば儀礼歌のような趣きを、語法で伝えている。その意味では私的な相聞の域を超えた風習をうたっている。

一四ニ五 あしひきの山桜花 日並べて かく咲きたらば いと恋ひめやも
(『万葉集』巻ハ 山部宿禰赤人の歌四首のうち)

いまいっぱいに咲き匂っている山桜の花が、幾日も幾日もこんなふうに咲いているのなら、こんなにも花を恋しくおもわないだろうに。それとおなじように、恋しいひとに幾日も幾日も遇っていられたなら、こんなに切に恋しいと思わないかもしれないのに。そんな意味になる。山野に自生の山桜は、すでに鑑賞の眼ざしで眺められていた。そして花の盛りの日が、幾日も幾日もつづかないという桜の木の生理も、よく知られていたことを示唆している。

一四四〇 春雨のしくしく降るに 高円の山の桜は いかにかあるらん
(『万葉集』巻ハ)

厚見王、久米女郎に贈る歌一首
一四五ハ 宿にある桜の花は 今もかも 松風疾み地に散るらん
(『万葉集』巻ハ)

三九七〇 あしひきの山桜花 ひと目だに君とし見てば吾恋ひめやも
(『万葉集』巻第十七 大伴家持)

四ニ六一 桜花今盛りなり 難波の海おし照る宮に聞こしますなへ
(『万葉集』巻第ニ十 大伴家持)

これらの桜の花の歌は、いくつかの情報を知らせている。山野に自生する山桜の花が、特定の名のある山に行けば見ることができ、それがすでに人々のあいだに流行になっているという背景があって、たとえば高円山の桜が、雨につづけざまにみまわれて散ってしまうのではないかと懸念されていることがわかる。もうひとつは特定の上層の貴人たちの家屋敷の庭に、鑑賞の目的で桜の木が植えられていたということが、引用のニ首目の歌から知られる。もうひとつあえてこれらの『万葉集』の歌からいえることは、桜の花を愛好する型が樹木の生理の認識と一緒に、すでに古代には(八世紀ごろまでには)確定されていたことだ。蕾から満開の花の盛りまでのあいだは、ひとびとに期待を持たせ、不安定な季節が天候を憂慮させるが、そこまでがいわば花と人との順調な相聞であった。ひとたび風や雨に出遇えば、ひと夜のうちに花びらは散りはててしまう。この特性は、桜の花が、中国から鑑賞用にと移入された梅の花にたいする嗜好をしだいに越えてゆく理由になった。そのことが大切だった。『万葉集』ではまださくらの花への嗜好は、梅の花にくらべて及びもつかないが『古今集』では、いちばんすぐれた花の歌は、桜をめぐって詠まれるほどになっている。

『日本大地図』中巻 日本名所大地図1
企画・発行 ユーキャンより






花の盛り頃の桜の樹林や、山の中腹に緑樹に囲まれた山桜の群落の光景が、濡れたような半透明の艶や陰影をみせて、いく重にも織り重なって厚い雲みたいな、いちめんの隙間もない花の織物をひろげた世界は、うす紅、陰影のある白、紅いろ、桃色の色調とあいまって、夢幻のような世界を繰りひろげる。これは山上他界の信仰をほうふつとさせた。吉野の桜と、白川(京都東山の西麓)の桜と、奥州平泉の東稲山の桜とは、西行が場所の名を名指しで歌にしている平安から中世へかけての桜の名所だが、このうち吉野の桜が、西行のなかで最大の重さと像(イメージ)の源泉だったのは確かだった。西行にとっての吉野の桜の花の盛りの光景は、古態の固有信仰から、仏法の浄土の像に重層してゆく信仰の履歴に叶うものだったと思える。

七七 ねがはくは花のしたにて春しなん そのきさらぎのもちづきのころ

七八 ほとけにはさくらの花をたてまつる わがのちのよを人とぶらはゞ
(『山家集』上・春)

「花のしたにて春しなん」という意味は『撰集抄』の挿話にでてくる無名の後世者たちのように、桜の花のしたに坐って、じかに息をとじて成仏したいという意味にうけとれる。もっと具体的にいえば吉野山のような固有信仰の故地でありながら、桜花がひとつの浄土的な像(イメージ)をつくっている場所で、その一本の桜の木の下で、眠るように憩うように息絶えたい、と願っている歌だとおもえる。この「花のした」の「花」は西行の歌の注解者のあいだでは、西行の好きな桜の花と解釈されたり、仏法でいう沙羅双樹の花と解釈されたりしてくい違った。これは西行の個人的な桜の花への嗜好と、西行の仏法者としての理念の花とのはざまで、解釈の違いを固執していることになる。西行もかならずや読んでいた『浄土三部経』のひとつ『大無量寿経』のなかに、浄土の「花」について想像を繰りひろげているところがある。
実に、また、アーナンダよ、かの〈幸いあるところ〉という世界では、午前の時分になったときに、風はあまねく四方に満ち、充ち満ちて吹き起こる。輝かしく、美しく、種々の色、数多の色のある、種々の芳ばしい天上の香りに匂う宝石の木々を揺すり、あまねく揺り動かし、吹き散らし、あまねく吹き散らす。そのためにかの宝石より成れる大地の上に、妙なる香りの、美しい数百の花は散り落ちる。また、かの仏国土は、これらの花によって、あまねく七尋の深さまで飾られる。たとえば、名手が大地の上に花の床を敷くとき、両の掌によって平らかに美しく綺麗にならすように、かの仏国土は、これらの種々の香りと色ある七尋の(深さの)花に充ち満ちているのだ。また、それらの種類の花の軟らかなことはカーチリンディカ衣の軟らかな感触に譬えられようが、(それとても)ただ譬えというにすぎない。その上に足を下せば四指の幅まで凹み、 足をあげればまた四指の幅だけあがるのだ。また、午前の時分が過ぎると、これらの花はことごとく消え失せる。そのとき、かの仏国土は、以前の花の名残りはなく、寂静であり、心地よく、清浄なのだ。また、次に、風はあまねく四方より吹き起こり、新しい花を吹き散らすこと、前に説いた通りである。午前ののように、日中の時分と夕暮の時と、夜の初めの時、夜中の中頃の時、夜の終りの時にもそのようであるのだ。また、かの生ける者どもが、種々の香りを薫らせて吹きよせる風に触れて同様に快楽を感ずることは、(迷いを)滅ぼし尽くした境地にある修行僧のようであるのだ。(『大無量寿経』21 中村元・早島鏡正・紀野一義 訳註)

ここで浄土の宝石の木々から風に吹き散らされて、地上を七尋の深さに敷きつめる花びらは、ガラスのようにきらびやかで、多彩で、硬質な感覚を与える。わたしたちの伝統的な感性からいえば、濃厚で派手すぎる感じがする。浄土を荘厳にしているこの花の濃密な官能性や、熱帯的なきらびやかさをどう修正するかは、かならずや初期の浄土教の感性的な、また美的な課題だったに相違ない。西行の桜花浄土ともいうべき歌の理念が登場したのも、その場所だったとおもえる。
一方で、午前が過ぎると花々はことごとく消え失せて、静寂で清浄になり、また風があまねく四方から吹きおこると新しい花々が吹き散らされ、これが日中のとき、夕暮のとき、夜の初めのとき、夜の中頃のとき、夜の終りのときと繰返されるという描写は、むしろ桜の花になぞらえ、おきかえてよいほど、おなじ花を感じさせる。
西行は桜の花の淡白さで『大経』のいう浄土の花の濃厚さや、きらびやかさを、おきかえようとしたのではあるまいか。あまりに濃厚で、熱帯的な華やかさで、硬質すぎる『大経』の仏国土の花は、西行の感性には叶わなかった。桜の淡白で、半透明な艶と濡れたような色調をもった花びらを、かれの感性にふさわしい浄土の花においた。そして風に吹きさらされて、ひとよのうちにたちまち花びらを散らし、花びらが雪の積もるように地上に積もる有様を浄土の姿に見たてたようにおもえる。「ねがはくは花のしたにて」という「花」は浄土の花であり、しかも西行にとっては桜の花に変幻していたといってよかった。「ほとけにはさくらの花をたてまつる」というのは仏国土を桜の花で満たしてくれ、じぶんも後の世ではそこに住んでいるのだから、という意味にほかならなかった。そうかんがえたとき西行の偏執とでも云いたいような桜の花への固執が、謎のように解けてくる気がする。

一一九 おもへたゞはなのちりなんこのもとに なにをかげにて我身すみなん
(『山家集』上・春)

一〇三四 やま人よ吉野のおくのしるべせよ はなもたづねんまたおもひあり
(『山家集』中・雑)

一三四 さかりなるこの山ざくらおもいひをきていづち心の又うかるらん
(『『聞書集』)

一七八 ときはなや人よりさきにたづぬるとよしのにゆきて山まつりせん
(同)

ここにはひとより先に吉野の山の桜の花に心をうばわれて出かけ、花の盛りをそのなかに埋もれて過ごし、花が散ると木の下に茫然とたたずみ、もっと山奥のもっと高いところでは、まだ花が盛りのはずだと思いなおして、なお山の奥の方へ登ってゆく西行の姿が、ほうふつと浮かんでくる。桜の花に憑かれているのだが、それは願われる浄土の花でもあったので、憑かれても西行にとっては願望の成就とおなじだったのだ。

西行桜(京都)…国内旅行観光ガイド
「名勝・史跡☆百景」より
(洛西の花の寺 勝持寺の西行桜)