言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

芭蕉 ② ー愛知県の地図で辿るー 熱田

2018-06-20 07:28:23 | 言の葉綴り
言の葉57 芭蕉 ②
ー愛知県の地図で辿るー 熱田

芭蕉 その鑑賞と批評(全)
山本健吉著 発行所 (株)新潮社 昭和32年8月25日発行より抜粋



『野ざらし紀行』「冬の日」以後

海くれて鴨のこゑほのかに白し
(甲子吟行)

愛知県地図 発行所 旺文社




歌川広重 東海道五十三次下巻
発行所 読売新聞





『甲子吟行』には「海邊に日暮して」と詞書があって、「馬をさへ」につづいて出ている。やはり熱田の句であり、『皺筥物語』(熱田東藤撰、元禄八年)には、この句を立句としての、桐葉亭での四吟歌仙を載せている。後に久村曉臺が、『冬の日』五歌仙の聲價に消された熱田での巻々を世にあらわそうとして、『熱田三歌仙』と名づけて刊行したうちの一巻である。ここには表六句を掲げて置こう。

尾張の國あつたにまかりける比、人々師走の海みんとて舟さしけるに
海くれて鴨の聲ほのかに白し 翁
串 に 鯨 を あ ぶ る 盃 桐葉
二百年吾此やまに斧取て 東藤
樫のたねまく秋はきにけり 工山
入月にいすかの鳥のわたる空 葉
駕籠なき國の露おわれ行 翁
この詞書によって、この句が十二月に作られたことがはっきりするが、芭蕉は十月に、熱田の「景清が屋敷」に近い林桐葉のもとに身を寄せながら、十月、十一月は名古屋に在ることが多く、その間に『冬の日』の五歌仙を仕上げたのである。その最後の巻は、「霜月や鸛(かう)の彳々(ツクツク)ならびゐて」という荷兮の句を立句としているから、十一月に作られたものである。この五歌仙の制作が、野ざらしの旅中のもっとも重要な事件なのであって、十二月にまた桐葉亭に戻って名古屋の連衆から見ればずっと作句技量の劣る熱田の連衆を相手に、やや輕い気持で歌仙を巻いたものと思われる。發句の破調を、連衆は言わば内容の破調で受けている。表六句からありそうもないことの連續であるが、芭蕉も苦笑しながらそれを許したのであろう。この句は、『甲子吟行』の詞書によると、濱邊で詠んだような體裁になっているが、それはくだくだしく述べなかったまでであって、『皺筥物語』や『笈日記』の詞書によって、濱から舟を乗り出して詠んだものであることが分かる。また、『笈日記』中の尾州熱田連中の「悼芭蕉翁」という一文に、「やみに舟をうかべて波の音をなぐさむれば 海暮れて鴨の聲ほのかに白し
とのべ」とあるので、夕闇のなかで詠まれたことも、はっきりするのである。
志田義秀が「水上以外は全く闇と思われるほど黒くなったが水上はまだ薄明を漂わしてゐるといふ如き状況の時」と言ったのは、はっきりその状況を限定したものと言えよう。また「鴨がその仄白さの中で鳴く爲その鳴聲が仄白いやうに感じられる、言ひ換へれば水の仄白さがその中で鳴く鴨の聲の色として感ぜられるといふ感想」と言っているのも聴くべき説であろう。波頭の白さや、人の息の白さなどから誘われた連想という説は言い過ぎで、芭蕉は鴨の聲を端的にほの白いと感じたのである。
鴨の聲は嗄れたような聲で、とくに美しいというわけには行かないが、内田清之助はマガモ(アオクビ)の鳴き聲を、雄はquorκ雌はquarκと聴かれると言っている。もちろん芭蕉が聴いたのはマガモであるかどうか分からないし、スズガモ・クロガモ・キンクロハジロその他の海鴨類であるかも知れず、これは土地の人の考證に待ちたい。だが、とにかく平安朝以後の歌人たちには、雁の聲に較べて詠まれることがほとんどなくなった。「鴨の浮寝」鴨の羽掻」「鴨の水掻」「鴨の上毛」(霜を結ぶ)などの言葉で、想が類型化されてしまったが、『萬葉集』には「吉野(よしぬ)なる夏實の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして」(湯原王)という、敍景歌の極致と言われる秀歌がある。また、大津皇子が死を賜わったときの歌、「百傳う磐余の池の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」の絶唱がある。芭蕉のこの句は、平安朝以来のブランクを超えて、直接この萬葉の歌につながるものであり、発想の類型化を脱した自由な抒情の囘複とも言うべきものである。抒情の對象としての鴨の聲の發見は、同時にまた古代の原始的な抒情の復権でもあった。「俳諧は萬葉の心」とは、こよのうな意味でも言われることである。
鴨の聲に見出だした感動は、芭蕉の發見の驚きでもあったが、その聲を白いと感ずる特異な知覚は、その姿のさだかには見えない夕闇を媒介として生じたものである。もちろんここには、聴覚を視覚に轉化せしめるところの、鴨の聲の「もの」としての把握がある。そしてこの場合、聴覚の視覚化は、視覚の消滅によって完成する。鴨の姿が見えないことによって、鴨の聲があたかも見えるもののように、暮れてゆく海上に浮かび出る。だから、あたりが仄白いために鴨聲が白く感じられるという志田説は、やや言い過ぎなのであって、やはり鴨の聲そのものがそこに仄白さを實在せしめる根源の力なのであり、言わばはてしもない薄暮の闇のなかに、さらに仄白い實體が感じられるのである。これは「石山の石より白し秋の風」の句より、ずっと感覚的に鋭く、またフレッシュな掴み方である。
この句の五・五・七の破調が、そのことを効果的に生かしている。もし「海暮れてほのかに白し鴨の聲」と作られていたら、その感動は死んでしまったろう。また意味の上でも、これでは鴨の聲そのものが白いということにはならぬ。「鴨の聲ほのかに白し」とは、おそらく芭蕉が瞬間的に見とめ聴きとめたことの、単刀直入な表現なのだ。その昂揚した内的リズムが、この句の破調を生かしているのである。『この句體にさーと拡って夕暗の中に消えて行くような感じがある」と言った安倍能成の指摘は鋭い。鴨の聲が消え、仄白いものが消えて行ったあとには、ふたたびはてしもない闇がある。「ほのかに白し」の余韻を、視覚的イメーヂとして描き出せば、そういうことになるであろう。

歌川広重 東海道五十三次下巻
発行所 読売新聞
宮の宿(今の名古屋市熱田区にあった)の熱田神事















芭蕉① ー愛知県の地図で辿るー御油、赤坂

2018-06-09 11:26:15 | 言の葉綴り
言の葉56 芭蕉 ①
ー愛知県の地図で辿るー 御油、赤坂

芭蕉 その鑑賞と批評(全)
山本健吉著 発行所 (株)新潮社 昭和32年8月25日発行より抜粋



談林時代

夏の月御油より出て赤坂や
(向之岡)

日本大地図(下巻)日本名所大地図2 企画・発行 ユーキャン より
愛知県地図(部分)





歌川広重 東海道五拾三次 読売新聞より





この句の製作年代には諸説あるが、『向之岡』(不ト撰)が延寳八年の撰と推定されているので、それ以前の作であることに間違いない。元禄十四年刊の『涼み石』(大町撰)にも同じ形で出ていて、次のように詞書がついている。「大都長途の興賞、わづかの笠の下すゞみと聞へける小夜の中山の命も、廿年前の昔なり。今もほのめかすべき一句には」——この詞書が、「命なりわづかの笠の下涼ミ」と同時の作であることを意味するならば、延寳四年ということになろう。そして、この詞書がかりに芭蕉の死んだ元禄七年(一六九四年)に書かれたとすれば、それは十九年前のことになり、「廿年前」という言葉にほぼ合致する。この歳の夏、芭蕉は江戸から伊賀の故郷へ歸っていて、小夜の中山も、御油も赤坂も、五十三次の宿驛であるから、道中に感を發したものとみられなくもない。
ただし、延寳の句は談林時代の句であり、比喩を以って詠するのが常であったから、この句も道中の實景を詠んだものと取ることはできない。御油と赤坂との間は十六丁であって、東海道五十三次のなかで、もっとも短いのである。そのことを前提として、これは夏の夜が明易くて、月の出の短いのを、喩えて言っただけの句なのである。自分が御油を立つてその夜赤坂に着いたというのでも、御油から月が出て赤坂に入ったというのでもない。眼目は「夏の月」を詠むことであって、北村季吟の『山之井』に「夏月(みじか夜の月、明けやすき月)」の項目中、「夕の影の涼しさをめで。いる事のはやきをおしみて。めぐるは扇車哉とも鳴門や落す月の舟などもつらね。」云々と言っているのをそのまま實行したまでのことである。言うまでもなく、季吟は芭蕉の師と言われ、『増山井』(山之井の改訂版)は芭蕉が人にもすすめ、座右にも置いた歳時記であった。
だが、それだけの理屈ならば、いっこうにつまらない句である。晩年芭蕉が、「今もほのめかすべき一句には」と言って、人に示したりするような價値があろうとも思われない。また、去来もこの句に感銘したらしい證據がある。では、この句のどういう點に、二十年後の芭蕉が愛着を持ち、去来が感銘したのであろか。それについて思い出すのは、芥川がこの句について書いた次のような文章である。「これは夏の月を寫すために、『御油』『赤坂』等の地名の與へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套の譏りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に與へる効果は如何にも旅人の心らしい。悠々とした美しさに溢れてゐる。」(芭蕉雑記)さらにまた彼は、この句を「リブレットオよりもスコアアのすぐれてゐる句」と言っている。つまり、歌詞臺本よりも楽譜の方がすぐれている歌劇に比しているのである。このことは、この句の意味するものの陳腐さや無内容にもかかわらず、美的効果のすばらしさを、彼が言っているのである。
現代の鑑賞者にこの句が愛惜されるのは、芥川のこの一文によることが多いのであって、これは芭蕉の句のなかにきわめて近代的な感覚を発見したものと言ってよい。もちろん芥川は、前掲のようなこの句の談林的解釋が成立することを、否成立していたことを、知らないで味わっていたのに違いない。そのようなこの句の前提條件についての無知に對して、潁原退蔵その他の國文學者は、芭蕉の談林的發想契機を明るみにさらけ出す。その結果、人々が抱いたこの句についての詩的イメーヂは、あっけなく雲散霧散してしまう。そしてそのような國文學者たちの指摘は、歴史的解釋に立つかぎり正しいのであった。芭蕉がこの句を作ったときは、短さの喩えに御油・赤坂を持ってきたのに違いない。だが、後年になって「今もほのめかすべき一句」としてこの句を挙げたとき、それはそんな幼稚な比喩の句としてであったろうか。そんな筈はないのである。現代の解釋家は、この詞書のもつ意味を、あまりにも忘れすぎる。
はじめ作者が意圖したもの以上に、作品が内包するものは拡がることがある。作者が作品を創り出したら、作品は作者を離れて獨り立ちをするのであって、作品そのものが次々に新しい解釋の行列を、後代に引きずって行くのだ。シェークスピアの如きは、その尤なるものと言ってよい。しかもこの句の場合は、作者自身がみずから創ったときの意圖とは離れた高い解釋を、後になって與えたものに違いないのだ。産み落とされた作品自身の成長に、作者の美意識が追いついている。作者みずから、この句に潜在した美の可能性を引き出したのである。談林的なあらわな比喩が、ここでは正風な隠微な照応(コレスポンダンス)に置き換えられて、解釋し直されたものに違いないのである。すなわち、「夏の月」と「御油より出でて赤坂や」とが、匂い・うつりの関係に立つのである。暗喩の世界の實現をここに見たと言ってよい。
御油・赤坂という地名の與える色彩感については、すでに芥川が指摘しているが、その色彩感は「夏の月」と象徴的に匂い合っているのである。油のような夜のとばり、真赤な丸い夏の月——と言ってしまうと言いすぎだが、夏の月夜の街道筋の風景が、ある色彩感をもって仄かに浮かび出てくることは否定できない。そしてその背後には、おそらくはこの十六丁の夏の夜道の經驗があり、また芭蕉のこの宿驛の名に對する愛着が附随し、一つの美しい情緒にまで高まるべき詩的體驗が籠っていたと想像してもいいのではなかろうか。この句の形が、發句としてはまた異體であって、別に「夏の月御油より出て赤坂か」(俳諧曽我・目團扇)の形で傳えられ、「御油を出てあか坂までや夏の月」(夏の月)の形としても傳えられている。長崎の宇鹿は、そのころの句作りならば「御油を出て赤坂近し夏の月」とあるべきだったろうに、「今流行の眞只中を句作り給ふ」と言って感心している。どの形で言い直してみてもつまらない。この句の發句としての不安定な感じは、後の「辛崎の松は花より朧にて」に似ている。どちらもはっきりした、断定の形ではないが、一種の音調的効果から朦朧とした情緒的イメーヂを導き出している。「御油より出て赤坂や」の主體が、月なのか旅人なのか、どちらでもあり、本来は月でありながら旅人にもかかるような感じが、言い淀んだような聲調子のなかににじみ出ている。「リブレットオよりもスコアアのすぐれてゐる句」である所以である。私はこの句をこのように解して、もう一度芭蕉の秀句として復権させたいと思うのである。

歌川広重 東海道五拾三次 読売新聞より






西行論⑧ ー歌人論ー その4

2018-06-01 07:41:29 | 言の葉綴り
言の葉55 西行論⑧
ー歌人論ー その4

西行論 著者吉本隆明 発行所(株)講談社 1990年2月10日発行
より抜粋



歌人論(4)「花」と「月」3より抜粋

(中略)

『新古今集』になると袖や袂に「月」の光をのせてみる(宿す)ことは、すでに風雅の遊びと情緒の様式として流布され、流行になってしまっていた。わたしたちがそこで見る「月」の歌は、ほとんど大部分が様式化の歌だといってよい。

『新古今集』の月の歌の例示

はらいかねさこそは露のしげからめ宿るか月の袖のせばきに
(巻第四・秋上 藤原雅経)

あかしがたいろなき人の袖を見よすずろに月も宿るものかは
(巻第十六・雑上 藤原秀能)

天の原はるかにひとり眺むればたもとに月のいでにけるかな
(巻第十六・雑上 増基法師)

昔見し雲ゐをめぐるあきの月いまいくとせかそでにやどさむ
(巻第十六・雑上 二条院讃岐)

うき身世にながらへばなほ思い出でよ袂に契るありあけの月
(巻第十六・雑上 藤原経通朝臣)

たぶん一方の手で袖袂の端をとり、一方の手を下に添えて横にひろげて、月の光を映すという風雅の行為は、物の形を照らし定かにする行為の様式のうえに、心をそっとおいて眺める象徴的な行為であった。それはもうそれだけで袖袂のうえに「月」の景観を写しだして、縮尺して包みこむことを意味した。それは景観や地上の事物の形にあかりや陰影をふるまうものとしての「月」という主題の完成であり、また同時にデカダンスをも象徴する風雅だったといえよう。
西行ももちろん同時代の歌人たちとおなじように、袖袂に月のひかりを宿す様式歌をたくさん作った。だがその意味を質でも量でもはるかに超えてしまったのが、いわば「月」を信仰のひとつの象徴とする「月」の歌であった。ここでも西行以前にも(たぶん以後にも)西行のように「月」を心の境位のよすがとする信仰の歌を創りだしたものは、いなかったのである。
空海は『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』のなかで、竜猛の『菩提心論』に触れながら、つぎのように記している。

一切の衆生はもともと金剛の薩埵(さった)なのだが、貪・瞋・癡という三つの煩悩のためにがんじがらめに縛られているため、諸仏は大慈悲、善なる巧みな智慧をもって、このきわめて深淵て秘された瑜伽(ヨーガ)を説いて、修行者にその心のなかにおいて日輪と月輪を観想せしめる。この観想を行うことによって本来の心を照らしだして見ると寂かに湛えられて清浄であることは、なお満月の光が、虚空をあまねく満たして分けへだてするところがないのとおなじようである。これは無覚了と名づけたり、または浄法界と名づけたり、また実相般若波羅蜜の海と名づける。いろいろな量りしれないほどの珍しい宝のような悟りの境地を含んでいることは、満月が清く明るくはっきりとしているようなものである。なぜかといえば、一切の生きものは、ことごとく普賢の心をもっているからである。わたしは、じぶんの心を見てみると、形が月輪のようである。どうして月輪にたとえるかといえば、考えてみると満月の円く明るい本体は、すなわち菩提心と似ているのだ。(空海『秘蔵宝鑰』第十秘蔵荘厳心)

西行が空海の『秘蔵宝鑰』を読んでいたかどうかはまったくわからないが、月輪を観想することの真言宗派的な意味を知り、その種の修練を積んでいたことは確実だとおもえる。
西行が「月」を眺めるということは、心の境位をとぎ澄ますという意味をもつように、叙景の意味を変えていった。また「月」を見て清浄になりえないのは心に現世的な憂いをもつからであるという意味を、歌に賦与した。また「月」が西の山の端に傾いてゆくのを眺めるときには、西方浄土にゆく心を「月」に憑かせるという意味を包括させた。「あはれなるこころのおくをとめゆけば月ぞおもいのねになりにける」という西行の心ばえは、空海のとく、月輪を観想するときの心を動きを追うものであった。
しかしながら、西行をもし特異な宗教の詩人に閉じこめるのではなく、『新古今集』の最大の詩人として遇するのなら、「月」を叙景歌にしたり、相聞の歌にしている西行を忘れるべきではないだろう。それを逸すればどうしても片手落ちということになってしまう。

日本経済新聞2013年4月14日(日曜日)日刊 美の美
西行 花の下にて 上より
山折哲雄著「西行巡礼」山にかかる月に



三二五 なべてなを心のなをやおしむらん あかしはわきて月のさやけき
(『山家集』上・秋)

三四二 身にしみてあわれしらする風よりも 月にぞ秋のいろはありける
(同)

三七四 月さゆるあかしのせとに風ふけば こほりのうへにたゝむしらなみ
(同)

五二〇 こほりしくぬまのあしはら風さえて 月もひかりぞさびしかりける
(『山家集』上・冬)

六二〇 ゆみはりの月にはづれて見しかげの やさしかりしはいつか忘れん
(『山家集』中・恋)

九四ハ ひとりすむいほりに月のさしこずは なにか山べの友にならまし
(『山家集』中・雑)

一〇ハ七 なみだのみかきくらさるゝたびなれや さやかにみよと月はすめども
(『山家集』下・雑)

松のたえまよりわづかに月のかげろいてみえけるをみて
一一五一 かげうすみ松のたえまをもりきつゝ 心ぼそしやみかづきのそら
(同)いりひのかげにかくれけるまゝに、月のまどにさしいりければ
一一五三 さしきつるまどの入り日をあらためて ひかりをかふる夕づくよかな
(同)

高野のおくの院のはしのうへ(※注1)にて、月あかゝりければ、もろともにながめあかして、そのころ西住上人京へいでにけり、その夜の月わすれがたくて、またおなじはしの月のころ、西住上人のもとへいひつかはしける
一一五七 ことゝなく君こひわたるはしのうえに あらそふ物は月の影のみ
(同)

月のよ、かもにまいりてよみ侍りける
一四〇二 月のすむみをやが原(※注2)に霜さえて 千鳥とをだつ声きこゆなり
(同)

一二六 ちどりなくふけゐのかた(※注3)をみわたせば月かけさびしなにはづのうら
(『聞書集』)

ここには「月」のある景観の真ん中を、すたすたと歩いてきては佇 つくし、泊まってはまた歩いて去る西行の姿が鮮やかに印写されている気がする。「月」のしたに存在していたときの西行の影が、これらの歌にほかならなかった。


日本経済新聞2013年4月21日(日曜日)日刊 美の美
西行 花の下にて 下より
大峰山系、吉野から熊野まで幾重にもつらなる山々は険しく、深い。




当方(※註1)山家集 金槐和歌集
日本古典文文学体系29発行所 岩波書店 頭注より
おくの院…高野山蓮華谷の東、弘法大師入定の地。はしのうえ…奥の院玉川の流れに掛けた橋。御廟橋(ごびょうばし)。

日本大地図 中巻 日本名所大地図1
企画・発行 ユーキャン より
奥の院へ玉川に掛かる御廟橋



当方(※注2)同じく頭注より
みをやが原…御祖川原。下鴨神社の糺川原(当方より…神社の境内であるの糺の森の両側を高野川と賀茂川が流れて三角州で合流し賀茂川となるがこの二つの川のことを指している)。

下鴨神社(正式名称…賀茂御祖http://www.shimogamo-jinja.or.jp/より



当方(※注3)同じく頭注より
ふけゐのかた…和泉の国歌枕