言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

心的現象論•本論③ 身体論8 性器

2024-03-16 10:14:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り156心的現象論•本論③

身体論8  性器


心的現象論•本論 吉本隆明著 

2022年1月31日 初版一刷発行

発行所 (株)文化化学高等研究院出版部より抜粋


人間はどうやら高級哺乳動物にくらべてさえ、奇怪ともいえる時期をいくつか迎える。その最初の最大のものが、アドレッセンスの初葉からはじまるとかんかえられる。他の高級哺乳動物では肉体的な、またそれに対応する発育のすべてが完了する丁度そのときに、激しい最後の成長をむかえる。このとき〈年令〉はその〈空間〉的な尺度の目盛を拡大させて、社会的な存在のすべてに関係づけられるとともに、ひとつの特異な(あるいは奇妙な)〈空間〉を創設する。そして、この〈空間〉はじぶん以外の他のひとりの個体に働きかけるとともに、対手をおなじように働きかけさせる〈空間〉である。この特異な〈空間〉の創設に関与する(身体)の器官は、おもに〈性器〉である。

ところでこの時期になると〈性器〉には、かんがえられるほとんどすべての〈観念〉の働きが集中しうるようになる。なぜならば他の高級哺乳動物や、高級哺乳動物としての人間の〈身体〉は、この時期においてきぼりにされるからである。

ふつう正常と呼ばれている〈性器〉的な接触は、残念なことに〈性器〉に集中する〈観念〉の可能性としては、わずかにこの一例であるという意味しか与えられない。なぜならば、この時期に〈性器〉に集中する〈観念〉は動物生理をおいてきぼりにすることによって、あらゆる恣意性の前にたたされているからである。そこで人間は肉体の成熟に向かう丁度そのときに、〈性器〉に集中する観念としては、あらゆる恣意性の前に立っていることになる。そのために、〈性〉についての人間の観念の働きが〈倒錯〉しえないとしたらかえって不可解であるし、人間的であるとは〈性〉に関するかぎりでは〈倒錯〉しうる観念をもつことであるといってよいくらいである。

そこで逆説が成立する。

幼少年期と老年期とは〈性器〉として倒錯しうることによって、はじめて〈性〉の観念としても倒錯しうる時期であり、若壮年期とは〈性器〉に集中する観念として恣意的に倒錯しうることによって、〈性器〉としても恣意的な可能性をもつ時期であるというように。

このことは当然わたしたちに、青壮年期とは〈性器〉的にはじぶんと他の個体が関与する〈空間〉の創設に特徴があるにもかかわらず、〈性器〉に集中する観念としては、個体と他のひとつの個体とのあらゆる観念的な関係の〈空間〉を創設するところに特徴があるという考え方にみちびかれる。

これは、類型的にはふたつにわけることができる。

ひとつは対象とする〈性器〉にたいする観念的な倒錯であり、もうひとつは対象とする〈性器〉に到達できない観念的な倒錯である。そしてこれらの倒錯は、万華鏡のような多様な形態をとりうるはずである。フェティシズム、糞尿愛好、盗聴癖、覗見—露出狂、サド=マゾヒズム、同性愛等々といった多くの倒錯の例が挙げられているが、これらの個々についてとりあげることには、それほどの意義があるわけではない。また、あたらしくつけくわえようとすれば、いくらでもつけくわえることができるはずである。ただ、対象とする他の個体が〈性〉〈性器〉的にいってまったく恣意的に観念によって潤色しうるという問題があるにすぎない。

なぜ観念的な〈性〉の倒錯は起こりうるのだろうか。もっとも主要な回答のひとつは〈性〉についての観念、いいかえればひとつの個体が他のひとつの個体と関係するという〈空間〉が、アドレッセンスの初葉にはじめておとずれる認知であるため、不慣れ、不安、恐れ、過剰または過小の期望だからである。その方法を、かれは暗示とか書物とか見聞によってしか与えられない。だが、こういう種類の暗示や知識は、いずれにせよ個体的にかあるいは共同的にしか与えられないが、〈性〉の世界は個体が他のひとつの個体と創設する〈空間〉であるため、見聞や知識はほんとうは不安も、過剰あるいは過小な期待も充すことはない。ただ体験がはじめてわからせてくれる部分をかならず含んでいる。

この〈性〉的な〈空間〉、いいかえれば個体が他のひとつの個体と直接的に〈性器〉的に関係したときだけ覗かせる世界の〈空間〉が、人間にとって恐れや不安やうまくぴたりとしない期望であるとき、この偏差や的の狂いはどこへ行くのだろうか。

ひとつは安堵圏としての自己の〈性器〉にたいする自己接触や、家族の圏内と同等に馴染みのある〈空間〉ににゆきつく。自己愛(ナルチシズム)、その変成としての手淫、(転生想像)等々がここに入る。

個体が個体であるときと、直接に〈性器〉的な関係に入ったときとの個体とのあいだの観念的な〈空間〉の差異は、〈衣装〉や〈装飾具〉によって誇張される。とくに女性によって。しかも女性の〈衣装〉や〈装飾具〉が異性との接触期望によるかどうかは疑わしい。むしろ男性以上に〈性〉的な〈空間〉にたいする危惧や恐れは大きいにちがいないという器官的な根拠をもっている。そうだとすれば、〈衣装〉や〈装飾具〉をつけた女性は、女性にとって自己である別の異性という意味を充分もっている。そこで他の個体である男性にとって誤差はますます拡大されることなる。フェティシズムが男性にとって女性のきらびやかな〈装飾〉から〈性器〉をつつむ下着にまでわたる多様性があるのとおなじように、女性にとって自己がつける〈衣装〉や〈装飾具〉はそのまま自己にとってフェティシズムであるといってよい。

〈同性愛〉が成立するためにつぎのような事実が必須の条件であるようにおもわれる。男性同士の〈同性愛〉では、けっして異性にいきつかない〈性〉の観念をもつものの側からの〈強姦〉や〈強要〉がそれであり、女性同士の〈同性愛〉は、けっして異性を受けいれないものの側からする〈強姦〉や〈強要〉がその条件である。いいかえれば男性のばあいはマゾイストの側から、女性のばあいはサディストの側からの無理心中が必要である。そして、〈フェティシズム〉と〈同性愛〉は、、〈性〉の本質的な世界を、ひとつの個体と他のひとつの個体のあいだの〈性器〉による直接関係の〈空間〉とみなすかぎり、〈倒錯〉の典型的な形態を表象しているといっていい。ところで、問題はこのような〈性〉的な〈空間〉の創設が、観念的な生命活動の活発になる時期と一致し、しかもこの観念的な激発が、高級哺乳動物とくらべて人間に固有なものであるというところにあらわれる。いいかえれば、人間に固有な生命活動が活発であればあるほど〈死〉にむかって急ぐことになるという逆説を避けえない時にあたっている。

フロイトは晩年の著作で述べている。


そうしますと、我々がその存在を信じています諸本能は二群に分れ、常により多く生きている実質を集めてより大きい単位にしょうとするエロス的諸本能と、この傾向に抗して生きているものを無機的状態に還元する本能とになります。両本能の協力作用と反対作用とから、死を終末とする生命現象は生ずるのです。


(「続精神分析入門」古澤平作訳)


もし生命の目標が達成されたことのない状態であるならば、それは衝動の保守的な性質に矛盾するであろうから、むしろそれは、生物が、かって棄て去った状態であり、しかも発達のあらゆる迂路を経てそれに復帰しょうと努めるふるい出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るいう仮説がゆるされるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるDas Ziel Alles Leben ist der Tod. としか言えない。また、ひるがえってみれば、無生物は生物以前に存在したLeblose war froher den als des debende. としか言えないのである。

(「自我論」井村恒郎訳)


「エロス的諸本能」という概念をそのまま大ざっぱにつかうとして、この本能に従うほど、自然過程のしての「死」は自然化されるというほどの意味がここには見出される。だが「死の本能」といえどもみずからの「死」を確認できないことは先験的であり、そこからは本能的な不安がつきまとってくる。

フロイトのまぎらわしい言葉を捨てるとすればエロスの〈空間〉、いいかえれば個体と他のひとつの個体との関係によって創設される〈空間〉が、

あらゆる混乱と倒錯の可能性によって拡大される丁度そのとき〈死〉の〈空間〉もまた拡大されることはたしかである。そしてこの場合〈死〉の〈空間〉とは、自己が自己を他の個体とみなして〈無化〉させようとする〈空間〉からはじまって、共同観念によって個体の観念がまったく侵食された〈空間〉までの多様性をさしている。エロスの〈空間〉の拡大の時期が、〈死〉の〈空間〉の拡大の時期と同致することは、必然とはいえないまでも、とうてい偶然の一致として排除しえない根拠をもっている。それは〈エロス〉の〈空間〉の特殊固定の時期、つまり老年が〈死〉にむかって縮小する〈空間〉への刻みつけるような〈ケチ〉の時期と一致するのが偶然とはかんがえられないのとおなじである。

フロイトのいう生命の目標は〈死〉であるという考え方は、多くの現代のペシミストたちを惹きつけているが、わたしたちはこれにたいして、〈死〉とか〈自己破壊〉とかいう概念が、いずれも現実的には自己確認しえない本質をもっていることを強調すれば足りる。



心的現象論•本論② あとがきにかえて➖『心的現象論』の刊行にあたって   吉本隆明インタビュー

2023-12-13 10:50:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り155心的現象論•本論② 

あとがきにかえて➖『心的現象論』の刊行にあたって

  吉本隆明インタビュー


心的現象論•本論 吉本隆明著 

2022年1月31日 初版一刷発行

発行所 (株)文化化学高等研究院出版部より抜粋






『心的現象論』を書きはじめた時、個人の幻想が共同幻想につながるところ、それは集団性と社会性につながるところまてのびていけばいい、その意図が推察してもらえるところまでいけばいいというかんがえで、「このように完成する」という意味合いはなく、「だいたい、いくところまでいったな」というところで止めて、そのままになっているのですが、その間、わたしの姪が子宮がんになり、医者から「これ以上の治療はない」といわれた。姪から「あてがないのならば、治療を打ちきりたい」という相談が来たのです。

それはちょっと待ってくれ、そういうことを決めるのは、お医者さんは医学的見地からそうおっしゃるだろうけれども、家族親族の見地からすると、最終的によく看護なさっている方の意向を確認して、「治療を打ちきって結構です」と承認を得なければ、今の段階では確認できないし、強行することもできないはずだ、そういって待ってもらったのですが、当人はよくわかっていて、わたしに「おじさん、どうかんがえたらいいの」とたずねられた。要するに死ぬとわかったばあいのじぶんの気持ちをどうかんがえたらいいのと聞かれて、それに答えられなかったのです。今も答えられないかもしれませんが、その時はもろに答えられなかった。

なにをどういっていいのかじぶんでもわからない、病院の中だけで車椅子で散歩しながら、世間話、何気ない会話をする以外何もできない、じぶんは何もできない、本当に答えがない。「もういかんよ」と知っていて、医者からもそういわれ、そんな状況にある人から、「どうかんがえたらいいの」といわれたら、答えられるか今でもすこぶる疑問です。そういうことが途中で入った、それが気分として、あるいは記述として入っているのではないでしょうか。

本来的に、死の問題はそこに入っていたわけでも何でもないという意味合いからすれば、べつにどうという

こともないと思っていたら、全然知らない読者の方から「交通事故」について「どうかんがえたらいいのかわからないから、もし何かあったらいってくれないか」とべつの機会に尋ねられたのですが、これも何もいえなかった。

『心的現象論』を連載して最中に、姪たちからそのことをいわれて、ほどほどまいったというか、反省にもなりました。つまり通りやすいところばかり通るな、通りやすいところばかり通ると必ず抜け落ちてしまう重要なことがあって、実際問題としては、人にとっては重要なのであり、そこを適当なところで済ましているのではないか、それはきちんとしっかりかんがえぬかねばならない、それでなけれは思想などといえないとおもったのです。

答えることができないこれでは駄目だ。こんなことに答えられないのに、何か書いたり、やったりしても、そんなことでは意味がない。ほんとうに駄目なのだとおもいはじめるようになって、そのことをそれなりに一生懸命にかんがえたりしたのですが、姪のことで自分の思想的範囲、囲い、守備範囲の中では答えるだけのものは、しぶんにはない。徹底的に、はじめからこれは駄目だ。これについては、もしじぶんなりにやるならば、これからかんがえていかなければいけない。そういうふうにおもうまま、姪は亡くなったのですが、それは今もひっかかっています。なんとかじぶんなりの出口はないのか。じぶんだったらどうなのか。そういうことは今でもじぶんでわからないけれども、ひとつの問題としてはいつでもあります。

とりあえず、わたしなりのフーコーの読み方と、わたしなりの親鸞の読み方があります。親鸞は「死なんてものは、かんがえるな。それがいちばんいい」といっている。死というものは、当人にとっては、いつどんなばあいにどんな病気でやってくるのか、予測も何も全然できない。そういうものに、わかったようなことをいうのはおかしい。死については、かんがえるなというのです。

具体的に、医学的に、科学的に、死といっているものは、死ではなくて、親鸞は浄土教だから、そこからすぐに浄土に行ける。ふつう人が死といってるものは、そういうことであって、実際の死とちがう。死に至ってどうするのかといえば、浄土というか、天国というか、理想社会かもしれませんが、そこへ行く前提のところまでは行けることは、非常にわかっていることなのですが、それ以上のこと、いつどういう形でどういう病気で死ぬかは全然わからない。死について何かをいうと、まるで見当ちがいなのです。それが、親鸞が浄土教として最後に到達した観念です。

フーコーは、人間は生まれた時から、死ぬ時までを全部が見える場所にあるのではなく、死はその人にくっついているわけではない。いってみれば、対極的には親鸞と同じような考え方をしています。死んだと人がいっていることも、医学的にいえば、ほんとうの死は細胞がすべて死んだ時は死といえるけれども、いくらかでも生きた細胞が残っている時に、死というのはほんとうはちがうのだ。すると、死というものは、人がかんがえるように、ここまで生きて、ここで死んだという区切りはできないのであって、死とは時間であって、厳密に科学的、医学的にいえば、ひとつの細胞も生きていないところまでいった時、はじめて死というべきであって、それは当人にわかるわけもない。そんなことをわかったようにいうのはおかしい。科学的な考え方にたいして、親鸞は宗教的にかんかえて、そんなものわからないのに、かんがえるのはおかしいという考え方です。

親鸞は思想的にはもうすこし重大なことをいっています。浄土教は、インドでは今でもそうだとおもいますが、死にそうな人を集めてきて、仏像の手から五色の紐を垂らして、その紐をつかみながら最終的に臨終の念仏を唱えるという考え方を編み出していったが、親鸞はそういうことは徹底的に嘘だ、そんなことはわかるはずがない。わからないのにそういうことを予め想定するのはおかしい。浄土あるいは天国でもいいが、実体として、死んだ後にどこかにあるという考え方自体が間違いだ。だから臨終に際して、臨終の念仏を重要視する浄土教の考え方を間違いだ、浄土とはそういうものとはちがうのだ、親鸞は、その説明として、料理の「科」という字を使っています。それを過程なのだという意味合いだと使ってしまうとちがってくるし、それはひとつの手段、というとまたちがうのですが、とにかく、実体として浄土があるという考え方を否定してしまうのです。だいたい、わかりもしないことをいうのはおかしい、予め設定するのはおかしいという考え方だとおもいますが、徹底的にそこまで持っていってしまっています。それがいちばんいい考え方というか、フーコーも『臨床医学の誕生』の中でやっていることもいちばん妥当なかんかえで、死は生まれた時から死ぬ時まで見ているもの、つまり本人にくっついているものでは全然ないのだ、ということです。この考え方はたいへんわかりやすくて、いい考え方だとおもいます。親鸞も宗教的に、ほぼ同じところにあって、取りようによっては、仏教における死や念珠や念仏や浄土を実体化する考え方を徹底的な否定してしまった。その考え方は宗教として最終的な考え方ではないかとおもいます。

ガンジス川の河川敷に小屋が建っていて、死にそうな人をそこに連れてきて、坊さん階級の人が世話したり、説教したりして、最後は行けそうな感じがするやり方をしています。日本でも仏教が入ってきた時、鴨川のほとりにそういうものをつくってやっていた。親鸞はそういうものを徹底的に否定します。

こういう問題が途中であったのです。聞かれても何も答えられない。このざまはないな、と。交通事故でケガしたことをどうかんかえればいいのか。そういう思想的な問題にたいして、何も答えられなかったし、しぶんではショックでした。「こんなこともいえないのに、やったような顔をするな」とじぶんでおもって、一生懸命にかんかえたのですが、そういうことが途中で入って、脇道に逸れたりしています。


ーー実際に、『心的現象論』は三十年以上かかって書かれました。『序説』(一九七二年九月刊行)におさめられたのが、一九六五年十月から一九六九年八月まで、この本論は、一九七○年一月から一九九七年十二月までです。これはたいへんな思想の持続力です。三十二年間、どういう状況だったのでしょうか。


なぜ、まとめなかったかというと、いろいろな面で理由があるのですが、何がいちばんひっかかって問題だったのか、それは言葉による表現もそうでが、一種の自己疎外なのです。自己疎外は、何かをすれば、されたものは皆、価値化する。マルクスの言い方をすれば、あらゆる行為の対象となったことは、精神的行為ないし身体的行為の対象自体は、その人の身体の延長線に変わってしまう。そのことをもし価値化といえば、価値化してしまう。元のありのまま、物質とか、自然とは、それはちがうものである。価値化した自然は、人間化した自然といえるものです。

同時に、それは、人間が自然に変わっている時だ。精神的な行為をしたとか、精神的にかんかえたとか、身体的に行為をしたとか、精神と身体のどちらでも、何かにたいして仕掛けたばあい、人間は本来的な人間ではなく、マルクスはそれを有機的自然といっている。つまり生きた自然に変わってしまってる。自然の方は生きていない。価値物に変わってしまっており、元の物質でもなければ、観念でもない。そのように変わっており、それを承知の上で、人間は有機的な自然物に変わっている。

そのことは、言語の表現にももちろんなりたつわけで、マルクスの基本的な自然哲学であると、観念でわかっても、実感的として、具体性を帯びたひとつの考え方としては、どうしてもこちらには入ってこなかった。

「表現は自己疎外のひとつだ」という言い方をこの本でしていると思いますが、「それをじぶんはほんとうにわかっているだろうか」とたいへん疑問であり、具象性を帯びて、わかったという感じにはならなかった。それが嫌で、この本を刊行するという話が出ても流れてきたという案配です。これをまとめるという気にならないというかんがえになっていたのです。

今はほとんど具象性を持っている気がじぶんではしています。マルクスの考え方は最終的に、未だ滅びていないと、じぶんが信じているところなのです。後の話はたいてい、困った話ではないかととおもっています。レーニンの『唯物論と経験批判』とか、スターリンの「上部構造論」は全然駄目じゃないか、「駄目だ、駄目だ」とあまりいわないようにしているのですけれど、じぶんの中では、生きているのはたぶん、マルクスの自然哲学だけです。人間の観念の作用と、実際的な身体行為と、それ以外のものとの関係の仕方を自然哲学とすれば、それだけは今現在も残っているとおもっています。その他のことは駄目になっているのではないかと。わたしはそうおもっています。


以下略


ーー吉本隆明インタビュー ニ○○七年三月六日 聞き手 山本哲士


心的現象論•本論① 本論 まえがき 吉本隆明著

2023-09-30 11:16:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り154心的現象論本論①

本論 まえがき 吉本隆明著






心的現象論本論 吉本隆明著 

2022131日 初版一刷発行

発行所 (株)文化化学高等研究院出版部より抜粋



本論 まえがき


この稿を始めるとき、一番はじめに問題となったのは、ヘーゲルの『精神現象学』のうち、感覚と物の関係についての考え方の微細化に当たるフッサールの純粋現象学の方法だった。ヘーゲルの『精神現象学』は多様で巨大だがフッサールの現象学は感覚と物との間に附着する多様な現象をどう還元すべきかに重心を移した。物と感覚のあいだには「見る」「聞く」「触れる」など感官的に多様で、これも微細に分別することができる。しかし、物と感覚のあいだはあくまでも一義的(アインドイッテッヒ)とみなされてきた。ヘーゲルの『精神現象学』が古典的だとすればそこにあるといえる。フッサールではおなじ物とおなじ感官のあいだでも、一刻前と一刻後では附着する精神現象は異なる。先ほどは幼児のときの遊びの思い出を附着させていたが、現在の瞬間は明日の仕事の進行を附着させていた。この附着作用の実体もまた無限に多様でありうる。本当はこの附着する精神現象なしには感官と物との相互関係は成り立っていない。これはフッサールの現象学の考え方が、はじめて〈発見〉したと言うべきだった。ヘーゲルの『精神現象学』は見かけよりも遥かに深く巨大なものだ。古典的だが比類のない巨大なものだと思える。フッサールの現象学は感覚と物との関係について微細でなまなましいが、機能主義的なものに思える。フッサールの現象学的な還元(消去と選択)もまた機能主義的にすぎるように思える。機能主義(ファンクショナリズム)は科学的なのではなく、科学のひずみでしかないが、わたしには唯物論のロシア的な形態と同じ退落におもえてならない。

わたしはこの『心的現象論』で自分なりの「還元」を試みようとした。それはつづめていえば、自分なりに本稿の試み以前に成立させていた〈幻想論〉と架橋することであった。うまくできているかどうか、わたし自身にもまったくわからない。しかし兎にも角にも夢中になってやった。

(ニ○○八年七月)







心的現象論序説④ Ⅲ心的世界の動態化 2原生的疎外と純粋疎外 吉本隆明著

2023-09-22 11:14:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り153心的現象論序説④

心的世界の動態化 2原生的疎外と純粋疎外 吉本隆明著


心的現象論序説 吉本隆明著 

昭和四十六年国九月三十日第1刷 出版 弓立社 より抜粋



2原生的疎外と純粋疎外 


〈自然〉としての人間の個体が存在しなければ、どのような心的現象も個体にともなって存在しない、ということは実証のいらない自明の真理としては定立しえない。なぜならば、心的現象が存在するかいなか(あるいは心的現象が存在する)という命題は、心的現象が人間に存在するから命題を提起するのだという自同律的循環を前提として、定立されうるものである。ここでは、心的現象の内在的領域は、あたかも幽霊が存在するかのように、それ自体で存在するかのような仮象を呈する。心的現象がそれ自体として幽霊のように存在することを嗤うべき観念論としてしりぞけることはできる。しかし、そこでおわれば、嗤ったものは嗤われたものから復讐されるほかない。なぜならば、これを観念論として嗤った心的領域を、かれはあたかも幽霊のように観念の仮象として存在する現存性の歴史からかすめとったものだからである。この問題を、わかりやすく単純な例からおしすすめる。

いま、わたしが目の前の黄色のガラス製の灰皿を視たとする。この〈視た〉という現象は、さまざまな問題をふくんでいる。まず、わたしは灰皿を対象的な反映として視ている。ここでは灰皿はガラスでつくられた物体としてたしかにそこに存在し、それは視覚的にもたしかに受容している。しかし、この状態は〈注意〉と〈非注意〉の中間であやうく均衡しながらはじめて可能な状態であることがわかる。つぎに、わたしは、じぶんで視ている灰皿に〈注意〉を加える。そこには凹凸があり受け口が三つついており、キズが入っており、影の部分と明るい部分とがある。この状態では対象的な反映の段階を離脱し、わたしは〈視る〉ことにより灰皿を知覚的に加工している。しかし、わたしは依然として視覚という知覚的な現象の内部にいる。つぎに、わたしは灰皿を視ながら、このキズはかくかくの工場の製造過程のうちで、かくかくの理由でつくられたにちがいないと判断をめぐらす。またこの判断は、まったくべつの種類のものでもありうる。このキズのためにこの灰皿は美しくないとか、あるいはこのギズがあるのに高価でありすぎたというような。これらの判断も、わたしたちは灰皿を視ているという知覚の継続のはんい内で可能である。

このようにして、心的現象としての灰皿は、視覚による知覚作用のはんい内で、純粋視覚ともいうべきものにまで結晶しうることがわかる。この〈純粋視覚〉は、対象とする灰皿と、対象的な視覚なしには不可能であるが、視覚のはんい内で対象と対象への加工のベクトルが必然的にうみだす構造であり、その意味では、わたしにとっての灰皿と、灰皿にとってのわたしとがきりはなすことがでいないところでだけ成立する視覚を意味している。

この〈純粋〉化作用は、けっして客観の物体にたいする感官の作用、いいかえれば対照的知覚作用のはんい内でだけかんかえられるのではない。古典哲学が理性とか悟性とかよんでいるものの内部でもおこりうるものということができる。たとえば、わたしがいま〈Aはかくかくの理由で Bと同一であるにちがいない〉と判断したとする。このばあいA(なる物体でも事象でもよい)はわたしの判断作用にたいして外的な対象性であるかのように存在することができる。古典哲学が〈理性〉的な判断をわたしが所有するというとき、あたかもAなる対象がわたしの判断にたいして対象的な客観であるかのような位相を意味している。しかし、Aなる理性的対象とわたしの判断作用の位相はここに固定されるものではない。この位相は、あたかもAなる対象性とわたしの判断作用がきり離しえない緊迫した位相をもつこともできる。つまり、〈Aはかくかくの理由で Bと同一であるにちがいない〉というわたしの判断が、この判断対象ときり離すことができず、わたしにとって先見的な理性であるかのように存在するという位相である。ここで〈純粋〉化された理性の概念が想定される。わたしたちは、このような〈純粋〉化の心的領域を、原生的疎外にたいして純粋疎外と呼ぶことにする。そして、この純粋疎外の心的領域を支配する時間化度と空間化度を、固有時間性、固有空間性とかりに名づけることにする。

原生的疎外と純粋疎外の心的位相はつぎのように図示することができる。(第5図参照)

ここで、純粋疎外の心的な領域が、けっして原生的疎外の心的領域の内部に存在するとかんがえていのではない。それとともにその外部に存在するとかんがえているのでもない。構造的位相として想定しているのである。いいかえれば内部か外部かという問いを発すること自体が無意味であるように存在すると想定している心的な領域である。(註ー存在するというのは実在するという意味ではない。)

わたしたちは純粋疎外の心的な領域においては、たとえば知覚は知覚として失われてることなく、







また意志は意志として失われることなく、理性は理性として失われることはないものと想定する。たとえば知覚を例にとれば、知覚に記憶や体験の痕跡が連合されて純粋化がおこるのではなく、あらゆる心的連合を排除して知覚は知覚とそのまま継続し、そのはんい内で〈純粋〉化を想定する。

わたしたちは、原生的疎外の心的な領域では、眼前に灰皿を視たということからはじまって、恋人の家でみた灰皿を連想することもできれば、その連想をどこまでも転換させて、眼のまえに灰皿を視たというはじめの出発点を忘れ去って遠くへゆくことができる。このばあい視覚はたんにあらゆる心的現象の契機をなすにすぎない。しかし、純粋疎外の心的領域では、眼のまえに灰皿を視たということから対象としての灰皿を離れることもできなければ、また対象的知覚をたんに視覚的反映の段階で手離して他の連合にとびうつることもできない。灰皿と対照的知覚とは離れることなく錯合される。この領域では、わたしたちの意識は現実的環界と自然体としての〈身体〉に依存するとかんがえない。同時に依存しないともかんかえない。依存することと依存しないこととは共時である。いいかえればひとつの錯合である。このような心的領域は、あらゆる個体の心的な現象が、自然体としての〈身体〉と現実的環界とが実在することを不可欠の前提としているにもかかわらず、その前提を繰込んでいるため、あたかもその前提なしに存在しうるかのように想定できる心的な領域である。原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。

誤解の余地はないものであるが、わたしたちの純粋疎外の概念は、たとえばフッサールの現象学的な還元や、現象学的なエポケーによって想定される純粋直観の絶対的所与性とちがう。現象学的な還元によれば経験的な諸対象は、経験的な諸対象についての意識とともに排除せられる。これらがどんなに客観的な確実さが証明されていてもつねに排除せられる。そして意識はそれ自体として固有の存在をもち、この固有性は現象学的などんな排除をほどこしても残留する本質としてかんがえられる。知覚についても現象学的な還元が残留させるものはおなじであり、知覚と知覚対象が統一的に内在化された客観として知覚作用の内部に残留し、その他は超越者としての方向へむけられる。しかし、ごらんのとおり、わたしたちの純粋疎外は(原生的疎外はもちろん)現実的環界の対象も、自然体としての(身体)もけっして排除しない。ただ、純粋疎外の心的領域では、これらは、ひとつの錯合という異質化をうけた構造となる。わたしたちの純粋疎外の概念は原生的疎外の心的領域からの切断でもなければ、たんなる夾雑物の排除でもなく、いわばベクテル変容して想定されるということができる。


心的現象論序説③ II 心的世界をどうとらえるか 2 心的な領域をどう記述するか 吉本隆明著

2023-08-29 10:18:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り152心的現象論序説③

II  心的世界をどうとらえるか

心的な領域をどう記述するか

吉本隆明著


心的現象論序説 吉本隆明著 

昭和四十六年国九月三十日第1刷 出版 弓立社 より抜粋


心的な領域をどう記述するか


心的な領域を、個体が外界と身体という二つの領域からおしだされた原生的な疎外の領域とみなすという了解からなにがみちびきだせるか。

つぎの課題はどうしてもそうならざるをえない。いまのところ心的な領域はもやもやとした塊りであり、かろうじてその輪郭を判別できるだけである。そしてこの輪郭たるやどんなものでも観念の働きに属するかぎりはそのなかに包みこめるわけだから、そんなものあってもなくてもおなじだとかんがえられても仕方がないのである。実在することが疑えないのは、いまのところ人間の〈身体〉と現実的な環界だけであり、観念の働きはなんらかの意味でこの二つの関数だということである。

それには心的な領域をささえる基軸をみつけだすことが必要である。さしあたって、わたしたちはひとつの仮説をもうけることにする。その仮説は、

生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、時間性によって(時間化の度合いによって)抽出することができ、現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとみられる心的領域の構造は、空間性(空間化の度合)によって抽出することができる。ということである。現在までのわたしたちの記述のはんいでは、これだけの仮説しかとりだしえない。

もちろん、この仮説と逆に、身体から疎外されたものとしてみられる心的領域を空間化の度合によって、現実的環界から疎外されたものとしてみられる心的領域を時間化の度合によって位置づけでもよいようにみえる。ただ、わたしたちは、脳生理学や神経生理学の成果が、身体現象の心的な疎外を時間性に意味づけることをよしとし、感官による現実的環界との関係は知覚的な空間意識を基底にすることをよしとしているようにおもわれるためにこのような仮説を設定するにすぎない。このような仮説が、仮説以上の意味をもちうるかどうかはこれから決定されてゆく問題である。

この仮説は、つぎのようなことを意味する。

たとえば、古典哲学が、〈衝動〉とか、〈情緒〉とか、〈感情〉とか、〈心情〉とか、〈理性〉とか、〈悟性〉とかよんでいるものを、身体から疎外された心的な領域としてかんがえるばあいには、それらは心的時間の度合とみなすことができるということである。たとえば、〈衝動〉とか〈本能〉とかよばれる心的な領域は、有機的自然に固有な時間と対応させることができる。〈情緒〉とか〈心情〉とかよばれるものは、もはや有機的自然の時間性と対応させることはできないし、そこでは時間化度により抽象され、この時間化度の抽象性は、〈理性〉とか〈悟性〉とよばれるものでは、もっと高い。

おなじように、心的な領域を現実的な環界との関係においてみるばあい、空間化の度合は、たとえば視覚的な領域では、対象となった〈自然〉の空間性とある対応を設けることができるが、触覚のとりこむ空間性は、もはや対応というよりも接触とみなされる特異な空間性であり、また聴覚の空間性になると、その抽象性は高い、とかんかえはることができる。

脳生理学者や神経生理学者のうちには、心的な領域の時間性が、身体の神経伝達の速さの時間性のちがいであり、知覚現象の時間性が感官の外界からうけとる神経の受容性と脳中枢における対応する個所の翻案作業の結果であるかのようにかんがえたがる傾向も存在する。しかし、それはまったく誤謬である。なぜならば、心的な領域は、このような生理機構への還元が不可能な領域だからこそ、はじめて人間的に存在する心的領域とよびうるからである。

これを図示すれば第2図のようになる。ここで、A•B•C•D•Eという点をめぐるそれぞれの円環は、時間化と空間化のちがった心的な働きであり、たとえばAを味覚や嗅覚のような知覚の領域とすれば、Eは視覚や聴覚のような心的作用であるし、またAを〈衝動〉とか〈本能〉とかの心的作用とすれば、Eは〈悟性〉とか〈理性〉とかいう心的作用の層面である。

ところで、このようなモデルには説明が必要である。わたしたちがほんとうに構成したい心的ななモデルは、心的現象として動的であり、しかも心的な構造として本質的なものであるはずだから。さしあたってここに提出されたモデルは静的であり、まったくおあつらえむきにつくられているといっておかなければならない。おあつらえむきというのは、たとえば、身体的な疎外としての心的なものが〈衝動〉あるいは〈本能〉と古典哲学がよんだものであり、現実的環界からの疎外としての心的なものが、〈視覚〉的なものであれば、その心的領域の構造は、図のAの領域でしめされるということである。じっさいは〈衝動〉または〈本能〉が、視覚的なものと交叉するとはかぎらないから、図の円錐状にしめされた心的領域は、無数の錯綜した時ー空性の構造としてかんかえるべきである。ただ、ここでは、心的な領域か時間性と空間性の度合いがつくる層面として、構造的に了解されるということを示したにすぎない。






つぎに、このような心的なモデルは、個体としての人間の存在が、百年たらずのあいだに生誕と死にはさまれた時ー空性の曲線をえがくという問題とどこでかかわるのだろうか?

心的な領域の時間性の度合は、身体の成熟が完成する時期まで高まり、それ以後はゆるやかに減衰してゆくとかんがえられる。しかし、心的領域の空間性は、現実的環界にはたらきかけることによってどこまでも抽出の度合を高め、かつひろげ、その結果、人間の〈年齢〉は心的な世界に錯合をくわえてゆくはずである。

それゆえ、ふつうの老化(もうろく)としてよばれているものは、新薬の宣伝がかんかえているような、たんなる思考力の衰退や記憶力の喪失や、耐久性の脆さではない。心的な領域としてみられた老化はゆるやかに減衰してゆく時間性と、どこまでも抽出度と錯合をましてゆく空間性との矛盾である。死は、それゆえ心的時間性の無機的自然の時間性への同化であり、同時に心的空間性の突然の切断であると解される。(第3図)