言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

硝子戸の中 ー地名から辿るー その3

2017-09-30 12:35:40 | 言の葉綴り
言の葉47 硝子戸の中
ー地名から辿るー その3
抜粋
硝子戸の中 夏目漱石著

漱石山房の夏目漱石 書斎で 大正3年前12月「硝子戸の中」執筆の頃(新潮日本文学アルバム)より


三十五

私は小供の時分能く日本橋の瀬戸物町(*)にある伊勢本(*)という寄席へ講釈を聴きに行った。今の三越の向こう側に何時でも昼席の看板が掛かっていて、その角を曲がると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。
この席は夜になると、色物(*)だけしか掛けないので、私は昼より外に足を踏み込んだ事はなかったけれども、度数からいうと一番多く通った所の様に思われる。私のいた家は無論高田の馬場の下ではなかった。(*)然しいくら地理の便が好かつたからと云って、どうしてあんなに講釈を聴きに行く時間が私にあったものか、今考えると寧ろ不思議な位である。
これも今から振り返って遠い過去を眺めている所為でもあろうが、其所は寄席としては寧ろ上品な気分を客に起させる様に出来ていた。高座の右側には帳場格子のような仕切を二方に立て廻して、その中に常連の席が設けてあった。それから高座の後が縁側で、その先がまた庭になっていた。庭には梅の古木が斜めに井桁の上を突き出たりして、窮屈な感じのしない程の大空が、縁から仰がれる位に余分な地面を取り込んでいた。その庭を東に受けて離れ座敷のような建物も見えた。
帳場格子のうちにいる連中は、時間が余って使い切れない裕福な人達なのだから、みんな相応な服装をして、時々呑気そうに袂から毛抜など出して根気よく鼻毛を抜いていた。そんな長閑な日には、庭の梅の木に鶯が来て啼くような気持もした。
中入(*)になると、菓子を箱入りのままを売る男が客の間に配って歩くのがこの席の習慣になっていた。箱は長方形のもので、まず誰でも欲しいと思う人の手の届くところに一つと云った風に都合よく置かれるのである。菓子の数は一箱に十位の割だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、後からその代価を箱に入れるのが無言の規約になっていた。私はこの習慣を珍しいもののように興がって眺めていたが、今となって見ると、こうした鷹揚で呑気な気分は、何処の人寄場へ行っても、もう味わう事が出来まいと思うと、それが又何となく懐かしい。
私はそんなおっとりと物寂びた空気の中で、古めかしい講釈というものを色々の人から聴いたのである。その中には、すととこ、のんのん、ずいずい、などという妙な言葉を使う男もいた。これは田辺南竜と云って、もとは何処かの下足番であったかという話である。そのすととこ、のんのん、ずいずいは甚だ有名なものであったが、その意味を理解するものは一人もなかった。彼はただそれを軍勢の押し寄せる形容詞として用いていたらしいのである。
この南竜はとっくの昔に死んでしまった。その外のものも大抵死んでしまった。その後の様子をまるで知らない私には、その時分私を喜ばせてくれた人のうちで生きているものが果して何人あるのだか全く分からなかった。
ところがいつか美音会の忘年会のあった時、その番組を見たら、吉原の幇間(たいこもち)の茶番(*)だの何だのが列べて書いてあるうちに、たった一人の当時の旧友を見出した。私は新富座(*)へ行って、その人を見た。又その声を聞いた。そうして彼の顔も喉も昔とちっとも変わっていないのに驚いた。彼の講釈も全く昔の通りであった。進歩もしない代わりに、退歩もしていなかった。廿世紀のこの急激な変化を、自分と時分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心の内で比較して一種の黙想に耽っていた。
彼というのは馬琴(*)の事で、昔伊勢本で南竜は中入前をつとめていた頃には、琴凌と呼ばれた若手だったのである。

解説
*瀬戸物町
日本橋区(現中央区)内の町名。三越呉服店のある室町ニ丁目の東側に接する。



江戸切絵図 人文社 ⑦日本橋北内神田両国浜町明細絵図(一八五七年)より



*伊勢本
「木戸口が広くてりっぱな寄席でした」(六代目三遊亭円生『寄席切絵図』青蛙房)

*色物
講談・浄瑠璃に対して、落語・音曲・踊・奇術などの寄席演芸の総称。

*高田の馬場の下ではなかった。
①ある家に養子に
四ツ谷太宗寺門前等の名主であった塩原昌之助(天保十年〔一八三九年〜大正八年)・やす夫婦の養子となった。やすは昌之助と結婚する前は夏目家に奉公していた。以下の養家での出来事は『道草』の素材となった。
②浅草
この頃塩原昌之助は浅草を管轄する第五大区五小区の戸長となり、浅草諏訪町(現駒形)、次いで浅草寿町(現寿)に住んでいた。



*中入
寄席などの興行物で、番組の途中で一時休憩すること。またその時。

*吉原の幇間の茶番
吉原(現台東区千束四丁目)は江戸以来の有名な遊廓である。幇間とは酒宴の席に出て、客の機嫌を取り、座をにぎわすのを業とする男。茶番は「茶番狂言」の略。ありふれたものを材料とし、笑いを誘う滑稽芸。



*新富座
京橋区(現中央区)新富町にあった劇場。もともとは十二代目守田勘弥が建てた守田座で浅草猿若町にあったが、明治五年に移転新築し、明治八年に改称したもの。



*馬琴
宝井馬琴。嘉永五年(一八五二年)〜昭和三年。馬琴襲名は明治三十二年。

*中入前
中入直前に出演する芸人。真打ちに次ぐ人気・実力のある者が担当する。


三十九

漱石山房外観(新潮日本文学アルバム)より



今日は日曜日なので、小供が学校ヘ行かないから、下女も気を許したものと見えて、何時もより遅く起きたようである。それでも私の床を離れたのは七時十五分過ぎであった。顔を洗ってから、例の通り焼麺麭(トースト)と牛乳と半熟の鶏卵(たまご)を食べて、厠に上ろうとすると生憎肥取が来ているので、私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置の中で何か片付け物をしていた。不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周囲に女の子が三人(*)ばかり心地よさそうに煖を取っている様子が私の注意を惹いた。
「そんなに焚火に当たると顔が真黒になるよ」と云ったら、末の子が「いやあーだ」と答えた。私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦の融けつくした霜に濡れて、朝日にきらつく色を眺めたあと、又家の中に引き返した。
親類の子が来て掃除をしている書斎の整頓を待って、私は机を縁側に持ち出した。其所で日当たりの好い欄干に身を靠たせたり、頬杖を突いて考えたり、また小時(しばらく)は凝と動かずにただ魂を自由に遊ばせて置いてみたりした。
軽い風が時々鉢植の九花蘭(*)の長い葉を動かしに来た。庭木の中で鶯が折々下手な囀りを聴かせた。毎日硝子戸の中に坐っていた私は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、春は何時しか私の心を蕩搖し始めたのである。
私の瞑想は何時まで坐っていても結晶しなかった。筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持ちもするし、あれにしようか、これにしようかと迷い出すと、もう何を書いてもつまらないのだという呑気な考も起ってきた。しばらく其所で佇んでいるうちに、今度は今まで書いた事が全く無意味のように思われ出した。何故あんなものを書いたのだろうかという矛盾が私を嘲弄し始めた。有難い事に私の神経は静まっていた。この嘲弄の上に乗ってふわふわと高い瞑想の領分に上って行くのが自分には大変な愉快になった。自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下して笑いたくなった私は、自分で自分を軽蔑する気分に揺られながら、揺籃の中で眠る小供に過ぎなかった。私は今まで他(ひと)の事と私の事とごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、却って比較的自由な空気の中で呼吸する事が出来た。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺く程の衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。聖オーガスチンの懺悔(*)、ルソーの懺悔(*)、オビアムイーターの懺悔(*)、——それをいくら辿って行っても、本当の事実は人間のちからで叙述出来る筈がないと誰かが言った事がある。況して私の書いたものは懺悔(*)ではない。私の罪は、——もしそれを罪と云い得るならば、——頗る明るい処からばかりから写されていただろう。其所に或る人は一種の不快を感ずるかも知れない。然し私自身は今不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱きつつ、矢張微笑しているのである。
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭の葉を揺うご)かしに来る。猫が何処かで痛く噛まれた米嚙を日に曝して、あたたかそうに眠っている。先刻(さっき)まで庭で護謨風船を揚げて騒いでいた小供達は、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)とこの稿を書き終わるのである。そうした後で、私は一寸肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るのである(*)。

解説
*女の子が三人
当時漱石には筆子(明治三十一年生まれ)、恒子(明治三十三年生まれ)、栄子(明治三十六年生まれ)、愛子(明治三十ハ年生まれ)の四人の女子があった。

*九花蘭
長さ三十センチメートル位になる線形の葉を三から九葉つける。五月頃、花茎の先から五から二十の芳香ある黄緑色の花を開く。中国中南部、台湾原産。

*聖オーガスチンの懺悔
オーガスチンはアウグスティヌス(三五四〜四三〇)。その懺悔(以下略)

*ルソーの懺悔
ルソー(一七一八〜一七七八)。フランスの思想家・作家。その懺悔『告白』(以下略)


*オビアムイーターの懺悔
イギリスの文学者ド・クインシー(一七八五〜一八五九)の書いた『阿片常用者の告白』(以下略)

*況して私の書いたものは懺悔
『硝子戸の中』の数ヶ月後に発表された『道草』が「懺悔」かどうかは早くから議論の種だったが、(以下略)

*この縁側に一眠り眠るのである。
漱石山房の南の縁側に据えた椅子に座って寛ぐ、大正四年に漱石の写真が残されており、『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』等で見ることができる。



硝子戸の中ー地名から辿るーその2

2017-09-22 16:09:32 | 言の葉綴り
言の葉46 硝子戸の中
ー地名から辿るー その2
抜粋
硝子戸の中 夏目漱石著




二十一

私の家に関する私の記憶は、惣じてこういう風に鄙びている。そうして何処かに薄ら寒い憐れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間(こないだ)、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚いたのである。そんな派手な暮しをした昔もあったのかと思うと、私は愈々夢のような心持になるより外はない。
その頃の芝居小屋はみんな猿若町(*)にあった。電車も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、大抵の事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半(よなか)に起きて支度をした。途中が物騒だというので、用心のため、下男がきっと供をして行ったそうである。
彼等は築土(*)を下りて、柿の木横町から揚場(*)へ出て、かねて其所の船宿にあつらえて置いた屋根船に乗るのである。私は彼等が如何に予期に充ちた心をもって、のろのろ砲兵工廠(*)の前からお茶の水を通り越して柳橋まで漕がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼等の道中は決して其所で終りを告げる訳には行かないのだから時間に制限を置かなかったその昔が猶更回顧の種になる。
大川へ出た船は、流れを遡って吾妻橋(*)を通り抜けて、今戸の有明楼(*)の傍に着けたものだという。姉達は其所から上がって芝居小屋まで歩いて、それから漸く設けの席に就くべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間に限られていた。
これは彼等の服装(なり)なり顔なり、髪飾りなりが一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派手を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。(以下略)

解説
*猿若町
水野越前守の天保改革に江戸市内に分散していた芝居類の興行物を浅草聖天町の一郭に集中させた芝居町。現台東区浅草六丁目。



*筑土(つくど)
揚場町(次注参照)の西側の地域。『硝子戸の中』執筆時には牛込区
筑土八幡町や津久戸町に属す。

*揚場
牛込区揚場町にあった神田川の船着場。喜久井町の数キロ先。



*砲兵工廠
小石川区(現文京区)の後楽園の敷地にあった陸軍の兵器、弾薬を製造する工場。



*柳橋
神田川が隅田川に合流する手前の橋。またこの一帯にあった花柳街。



*吾妻橋
現、台東区浅草雷門ニ丁目から墨田区吾妻橋一丁目へ架かる橋。江戸時代は両国橋の上流に架かる次の橋。



*今戸の有明楼
浅草今戸橋(山谷堀が隅田川に合流する手前の橋)の袂にあった料理茶屋。俳優沢村訥升の経営といわれる。現台東区。



二十五

新潮日本文学アルバムより
団子坂(千駄木)



私がまだ千駄木(*)にいた頃の話だから、年数にするともう大分古い事になる。
或日私は切通し(*)の方へ散歩した帰りに、本郷四丁目(*)の角に出る代わりに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲がった。その曲り角には其の頃あった牛屋の傍に、寄席の看板が何時でも懸かっていた。
雨の降る日だったので、私は無論傘をさしていた。それが鉄御納戸の八間の深張りで、上から洩ってくる雫が、自然木の柄を伝わって、私の手を濡らし始めた。人通りの少ないこの小路は、凡ての泥を洗い流したように、下駄の歯に引っ懸かる汚いものは殆んどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば侘しかった。始終通りつけている所為でもあろうか、私の周囲には何一つ私の眼を惹くものは見えなかった。そうして私の心は能くこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐食するような不愉快な塊が常にあった。私は陰鬱な顔をしながら、雨の降る中を歩いていた。
日蔭町の寄席(*)の前まで来た私は、突然一台幌俥に出会った。私と俥の間には何の隔りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などの出来ない時分だから、車上の女は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながら凝とその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、殆んど事実のように、私の心に働きかけた。すると俥が私の一間ばかり前に来た時、突然私を見ていた美しい人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴うその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒(*)さんであった事に、始めて気が付いた。
次に会ったのはそれから幾日目だったろうか、楠緒さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私の有のままを話す気になった。
「実は何処の美しい方かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです。」
その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんは些とも顔を赧らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねて来てくれた事がある。然るに生憎私は妻(さい)と喧嘩をしていた。私は嫌な顔をしたまま、書斎に凝と座っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
その日はそれで済んだが、程なく私は西片町(*)へ謝りに出掛けた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私は又苦々しい顔を見せるのも失礼だと思ってわざと引込んでいたのです。」
これに対する楠緒さんの挨拶も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事の出来ない程、記憶の底に沈んでしまった。
楠緒さんが死んだという報知が来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃(*)であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。
私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という手向けの句を楠緒さんの為に咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

解説
*千駄木
本郷区(現文京区)駒込千駄木町五十七番地の家(当方注 現文京区向丘二丁目二十番七号)に漱石が住んだのは、英国から帰った明治三十六年三月から同三十九年十二月までで、約ハ年前。なおこの家は愛知県の博物館明治村に保存されている。



*切通し
上野不忍池の池之端から湯島切り通しを経て本郷四丁目の四つ角へ到る一帯。


*本郷四丁目
現文京区。東大に近く、漱石の小説にしばしば登場する。



*日蔭町の寄席
本郷区本郷四丁目の東裏にあった講釈亭「岩本亭」のことであろう。

*大塚楠緒
漱石の友人で美学者の大塚安治の妻。明治ハ年〜明治四十三年。美貌の才媛として知られ、小説『空薫』等が漱石の依頼で「朝日新聞」に掲載された。

*西片町
当時大塚家は本郷区西片町十番地にあった。西片町(現西片)。



*胃腸病院にいる頃
胃腸病院は麹町区(現千代田区)内幸町の長与胃腸病院。明治四十三年漱石は転地療養にいった伊豆修善寺温泉で重態となり、帰京後十月から翌四十四年二月までそこに入院していた。楠緒が転地先の大磯で死去したのは四十三年十一月九日だった。
『思い出す事など』に訃報を聞いた衝撃が記されている。




硝子戸の中ー地名から辿るーその1

2017-09-15 14:06:01 | 言の葉綴り
言の葉45 硝子戸の中
ー地名から辿るー その1

抜粋
硝子戸の中 夏目漱石著





硝子戸の中(*)から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝など、無遠慮に直立した電信柱などがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てる程のものは殆んど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである。
その上私は去年の暮れから風邪を引いて殆んど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり座っているので、世間の様子はちっとも分からない。心持ちが悪いから読書もあまりしない。私はただ座ったり寐たりしてその日その日を送っているだけである。
然し私の頭は時々動く。気分も多少変わる。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起こって来る。それから小さい私と広い世の中を隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それが又私にとっては思い掛けない人で、私の思い掛けない事を言ったり為たりする。私は興味に充ちた眼を持ってそれ等の人を迎えたり送ったりした事さえある。
私はそんなものを少し書きつづけてみようかと思う。(以下略)

注解
*硝子戸の中(うち)
『硝子戸の中』は、大正四年一月十三日から同年二月二十三日まで、東西の『朝日新聞』に連載された。その頃の漱石は牛込区(現新宿区)早稲田南町の、いわゆる漱石山房に住んでいた。(中略)
執筆の場は、板敷きの八畳の書斎に客用の八畳間が続いた部屋で、三方の壁にはガラス窓がはまり、その外を巡る手摺のついた縁側越しに庭が見える構造になっていた。漱石は板の間に絨毯を敷き、そこに座卓を据えていたが、訪問者には「荒れ果てた禅寺」(森田草平)という印象を与えた。(以下略)



十九

私の旧宅(*)は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下(*)という町にあった。町とは云い条、その実小さな宿場町としか思われない位、小供の時の私には、寂れ切ってかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるいう意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分からない辺鄙な隅の方にあったに違いないのである。
それでも内蔵造の家が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上ると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などはその一つであった。それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。尤もこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、枡酒を飲んで打ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞ其所に仕舞ってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代わり娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声が其所から能く聞こえたのである。春の日の午過ぎなどに、私は恍惚とした魂を、麗らかな光に包みながら、御北さんのお浚いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を凭せて、佇立んでいた事がある。そのお蔭で私はとうとう「旅の衣は鈴懸の」などという文句を何時の間にか覚えてしまった。
この外には棒屋が一軒あった。(以下略)

注解
*私の旧宅
漱石の生家。漱石は江戸牛込馬場横町で生まれた。次注参照。

*馬場下
牛込の地名。明治以前に馬場下町、馬場下横町があり、前者は現在まで存続し、馬場下横町は明治二年近隣の地区と共に牛込区喜久井町となった。



二十

この豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢幻のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場のあろう筈がないというのが、私の記憶に霞を掛ける所為だろう。私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去を振り返るのが常である。(中略)

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、竹藪とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物は大抵神楽坂(*)まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のある筈もなかったが、それでも矢来の坂を上って酒井様(*)の火の見櫓を通り越して寺町に出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
あの土手の上に二抱えも三抱えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間々々をまた大きな竹藪が塞いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちに恐らくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄などを穿いて出ようものなら、きっと非道い目にあうに極まっていた。あすこの霜融は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染み込んでいる。
その位不便な所でも火事の虞はあったものと見えて、八張町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型の如く釣るしてあった。私はこうした有のままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋もおのずと眼光に浮かんで来る。縄暖簾の隙間からあたたかそうな煮〆の香(におい)が煙(けぶり)と共に往来へ流れ出して、それが夕暮れの靄に溶け込んで行く趣なども忘れる事が出来ない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。


解説
* 神楽坂
現新宿区。喜久井町や早稲田南町の東に当たり、漱石の生家からは約二キロほどの距離。「明治から昭和初期まで山の手随一の繁華街」(角川地名大辞典」)。



*酒井様(矢来町)
牛込区矢来町の元小浜藩主酒井氏の邸宅をさす。酒井邸の垣の柵が矢来であったところから町や坂の名がおこった。




当方より
半世紀以上前上京して、新宿区の本塩町、改代町、弁天町に半年程住んだ。今回、「硝子戸の中」ー地名から辿るーの中で、その又半世紀前にはこの界隈が漱石の生活圏であった事に、往時の当方の地名や風景の記憶をかさねて強く惹かれた。