言の葉綴り

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〈信〉の構造2 キリスト教論集成 吉本隆明 ③現代キリスト教思想の諸問題 3イエスの史実性とキリスト教の観念性•党派性ーー「マチウ書試論」その2

2021-08-22 13:11:00 | 言の葉綴り

122〈信〉の構造キリスト教論集成

吉本隆明

③現代キリスト教思想の諸問題 3イエスの史実性とキリスト教の観念性党派性ーー「マチウ書試論」その2


投稿者 古賀克之助





〈信〉の構造2 ——キリスト教論集成

ニ〇〇四年十一月三十日 新装版第一刷発行 著者ー吉本隆明 発行所ー株式会社春秋社

現代キリスト教思想の諸問題 より抜粋






3イエスの史実性とキリスト教の観念性

その (当方注 その1より続く)


——「マチウ書試論」の終わりのほうに、よく引用される「関係の絶対性」というたいへんむずかしい言葉が出てくるんですが、この理解について私は、「吉本隆明における聖書」(本書「解説」)という拙論で、次のように書いたことがあります。つたない理解ですが、これについて吉本さんはどのようにお感じになるかお聞かせいただいて、「関係の絶対性」という言葉をもう少しわかりやすくおっしゃっていただくとありがたいのですが。私の文章を途中からですが読んでみます。

「イエスはパリサイ人に対し、『いまになって預言者たちを顕彰するようなことをしているが、おまえたちの先祖は預言者たちを殺してきたではないか』というとき、その同じことはイエスにつらなっているのちのキリスト者にも該当する。だから絶対的に正しい観念、『観念の絶対性』というものはない。およそ党派の思想、党派性とはこのように自己の観念を絶対化するものである。いかなる観念も思想も意志も、それが人間のもの、人間に関するものであるかぎり、すべての人間と人間との関係において存在する。その関係こそが絶対的であり、従って『関係の絶対性』ということになる——およそこういう論理ではないだろうか。/『関係の絶対性』というとき、関係とは相手があるということだから、それは当然、相対的な概念である。だからこの言葉には相対的なものが絶対的であるという逆説がある。いわば人間においては人間的なもの、人間に関するものこそ絶対的だという立場である。これが吉本にとっては社会思想であるだけではなく、宗教思想でもあるということに注目すべきだろう。ここで当然、従来の宗教の立場からは神という問題が提出されるところである。人間の存在を超えた絶対の存在とされる神を吉本は否定しているように思われる。しかしながら究極的には神を否定するにしても、その過程として神の問題を考えてみる必要があるのではないか。

(当方注 インタビュアー笠原芳光)


じぶんがその時にかんがえていたよりも、もっとよく読んでいただいているようにおもいます。ぼくの書いたときの実感の根拠から云いますと、学校もさぼりほうだいさぼって、かってに振舞っていたところに、急に工場に行って、工場ですから、もうほとんど肉体労働で、時間から時間までぴっちり働いて、そして作業着を着替えて帰ってくるみたいな、そういう生活に入ったから、もうびっくり仰天したってことなんです。そうすると学生という抽象的な身分から急に社会の具体的な身分に入った、つまり、こののっぴきならない感じっていうんでしょうか、これはいったいなんだろうみたいな、ぼくの実感からいうと、〈関係の絶対性〉という考え方の根底は、どうもそこらへんにあったような気がするんです。

具体的な云い方をしますと、学校で勉強にも実験にもその他にも、怠けることなく孜孜としてあい努め、積極的に化学の専門的なことについてはこういうことをやりたい、こういうことをやるためには、ふさわしい会社はどこだろうか、それじゃじぶんはあそこへ就職のねらいを定めて、そこへ行って交渉したり推薦したりしてもらおうみたいな、あることがらについて積極的な、あるいは意志的な取り組み方があることと、そうじゃなくて、ごく受け身に学校をやっとこさ出ればいいさっていう感じで、ぎりぎりの限度まで怠けて、社会に出たらどうしょうかっていう積極的な姿勢もなくて、学校を出たから工場に行って働くということとの違いがあります。抽象的に学生という身分のところでは、外観も変わらないし、考えていることも云ってることも、なにも変わらないとおもっているわけですが、抽象的な身分を離れて、具体的な身分にはめこまれてしまうと、姿勢によってもうまるで違うという感じです。つまりこの状態を関係としてかんかえれば、、どう動くこともできない必然的にはめこまれた場所なんじゃないか、この関係性を変更することはできないんじやないかなって感じから、たぶん〈関係の絶対性〉という概念の根柢は出てきているようにおもうんです。この〈関係の絶対性〉みたいな動かしてがたさというものをメタフィジカルな問題に転化していったら、いったいどんなことになるんだろうか、といったことをぼくなりにかんかえていったんだとおもいます。

つまり受け身っていいましょうか。現実があって現実からじぶんが受け取るものと、じぶんが意志してそうなるものとのぶつかりあいは、個々の人によってちがうわけでしょうが、その主体にとってかなり絶対的なもんじゃないか、つまり外から絶対化されてくる原因と、じぶんの意志したりする内側からと、この矢印のぶつかるところは、たぶん絶対的なもんじゃないか、動かしがたいものなんじゃないかという感じ方が〈関係の絶対性〉という概念をつくるばあいにあったんじゃないかとなとおもいます。

もし人間が理念的におかれた場所、あるいは党派でもいいんですが、そういうものがあるとすると、その党派がおかれた場所は、人間の意志力の総和と、もうまったく人間の意思力と関係のない外から

やってくる原因と、その原因は形而上学的でもいいし、具体的原因でもいいわけですが、ぶつかりあう場所は、そうとう動かしがたい絶対的なもんなんじないか。つまり、個々のそれぞれの理念と、理念以外の外側からやってくるものとのぶつかりあいは、かなり絶対的に決まってくるものなんだ、というふうな観念を、ぼくはつくっていったとおもうんです。


ーーそれはたとえば、マルクス主義は物質とか社会を絶対化します。それにたいして、キリスト教にかぎらず宗教は、神を絶対化します。ところがそういう物資とか神というものが絶対ではなくて、人間とその世界というか、人間とその状況との関係が絶対的であると、こういうふうに理解してよろしいでしょうか。

もうひとつ、「マチウ書試論」の最後のところに出てくる有名な、しばしば引用される箇所があります。それは人間には三つのタイプがあると言及されているところです。トマスアキナス型とルター型とフランシスコ型であると。私の言葉でいいますと、秩序的と反秩序的と脱秩序的というか、トマスが秩序的、ルターが反秩序的、フランシスコは脱秩序的と。体制、反体制、脱体制といってもいいんですが、それがたいへんあざやかに書かれておったようにおもいます。それじやイエスはとの型になるんだろうかと考えて、体制的でもなく、反体制的でもなく、いちばん近いのは脱体制的ではないか、これはイエスを史的な存在としてみたばあいに、そういうふうに受けとれるわけです。あるいは、どの型にもはまらない脱秩序型といいますか、どこにもあてはまらない別のタイプなのかなあとおもうんです。吉本さんは、イエスがどのタイプだということはおふれになってないんですが、それについて、なにかお考えはございませんか。


「マチウ書試論」を書いたときでいえば、どこにじぶんが親近感を抱いたかといえば、ルター型に親近感をもっていたようにおもいます。それには戦後になってからですが、マルクスなんかを一所懸命読んだりした影響があるんじゃないかなとおもいます。じぶんの中でなにが生きるんだろうかをかんがえたら、それだけは戦争中から生きているものとして、残るんじゃないかという感じをもっています。


ーー私なんかも多少吉本さんよりも若いんですが、やはり戦後すぐの状況で反体制的であったんだすが、最近かなり考えが変わってきまして、どちらかといいますと、脱体制的な、ある意味じゃ私から見ても、吉本さんもそういうタイプになってこられたんじゃないかというふうにおもうんですが、当時としては、脱体制というかたちで、イエスをおもわれたわけでしょうか。


いまだったらぼくは、ちょっとちがう読み方をするんじゃないかって気がするんです。ちがう読み方といっても、基本的には聖書はそういうもんじゃないですかっていうことでいえば、そのとおりなんだとおもうんですが、現世において小であればあるほど、あるいは心が貧しければ貧しいほど、現世以外のところでは大なるものでありうるんだという、逆説があるでしょう。基本的には、聖書はそれしか残らないんじゃないか。それが新約聖書の唯一の基本理念で、人間の歴史の中で、それははじめてつくられたんじゃないか。ニーチェに云わせれば、それが反発したところであり、自然じゃあないと批判したところでもあります。現実的に偉大であれば現実的に偉大で、現実的に偉大でなければ偉大でない、現実的に強者であれば強者で、弱者は弱者である。弱ければ弱いほど、貧しければ貧しいほど、心が貧しいほど高いところに上げられるという、そういう視点はだめなんだと、ニーチェは批判しています。しかしぼくは、そういう思想とか内面というか、人間の観念のあり方をはじめて新約聖書は発明した、あるいは発見したんじゃないかとおもいますから、そこは基本のような気がするんです。

党派はだめじゃないかとい觀念はそのときじぶんの中にあったもんじゃないかとおもうんです。党派の観念は結局はだめなんだ、それは党派の内部だけでは真理の絶対性はいえても、党派の外部、あるいは党派のあいだでは真理はなにも決められない。党派と党派のあいだを決めるのは関係だけだ、〈関係の絶対性〉といってもいいんですが、それだけなんで、真理の多少とか、絶対か相対かすら自体で決められるないんだ。党派の内部だけで絶対化できる。この党派性じたいは結局だめなんだと理解する以外にないんじゃないか、といまでもかんがえています。

党派ということはべつな意味では、信仰と不信仰についても同じようにいえるとおもいます。信仰も不信仰も、いずれも党派性だって気がします。それはどっちに立ったてもだめなんじゃないか。また、神学にたいして唯物論がある。これもどちらかに立ったらもう党派性です。


ーーつまり教団も党派性だし、教団に反対する勢力も党派性である。右であれ左であれ党派性であると。それは「反」か「脱」かということでいえば、当時の吉本さんのお考えでは、むしろ「反」だっていうことになりますか。


いや、そうじゃないですね。アンチではだめだということになるから、そういう意味では「脱」ということになるんじゃないでしょうか。「脱」ということは、このフランシスコ型で、〈隠者〉あるいは〈隠遁〉に結びつけられますね。〈隠遁〉というか〈隠者〉というか、ぼくは西行も好きですし、良寛も好きなんです。資質として好きなんで、なんとかして、「脱」あるいは〈隠遁〉のあり方に積極的な意味を与えようと、いまもそうとうかんがえたり試みたりしているんだとおもいます。


ーーさっきルナンの話をされたんですが、ルナンの「イエス伝」の中に、イエスはアナキストであるという意味のことが書いてあるんです。ルナンは文学的な意味で、イエスはわれわれの言葉でいうと「脱」的な存在だということを言いたいんじゃないかとおもったんです。アナキストには集団をつくって、いわゆる党派的なアナキストもおるんですが、そうじゃなくて、もっとアナーキーというか、無権力、権力否定、あるいは脱権力としてのアナキストなんですか。


脱権力の理念あるいは宗教なんだとおもうんです。脱権力の宗教で、それに先鋭な倫理的、あるいは信仰的な意味を与えようとしたんだろうなとおもいますね。








〈信〉の構造2 キリスト教論集成 吉本隆明 ②現代キリスト教思想の諸問題 3イエスの史実性とキリスト教の観念性•党派性ーー「マチウ書試論」その1

2021-08-20 11:22:00 | 言の葉綴り

121〈信〉の構造キリスト教論集成

吉本隆明

②現代キリスト教思想の諸問題 3イエスの史実性とキリスト教の観念性党派性ーー「マチウ書試論」その1


投稿者 古賀克之助








〈信〉の構造2 ——キリスト教論集成

ニ〇〇四年十一月三十日 新装版第一刷発行 著者ー吉本隆明 発行所ー株式会社春秋社

現代キリスト教思想の諸問題 より抜粋







3イエスの史実性とキリスト教の観念性党派性ーー「マチウ書試論」その1


——それで「マチウ書試論」に入るわけですが、「マチウ書試論」お書きになったころと、教会へ行っていたころとはどういう関係になりますか。

(当方注 インタビュアー笠原芳光)


「マチウ書試論」はたぶん年代的には後なんです。僕はすでに学校をで出まして、東洋インキに勤めているとき、勤めの間に書いたっていう記憶があります。そのときすでにマルクスの物なんかもじぶんなりに十分読んだりもしているし、いわゆる社会主義的な思想についても、じぶんなりに、つかんでいて、聖書も、そのときじぶんなりに読んでいました。そういうことがじぶんの中でどう位置づけできるのか、できないのかっていう問題意識がありました。

もうひとつは、ぼくらは工科系の学校ですから、学校を出て町工場みたいなところへ勤めると、すぐに現場へ行くわけなんです。そのあまりの環境の隔たりというんでしょうか、つまり、もうまるで学校時代のじぶんなんてはるか遠くにかすんだ夢みたいな感じになって、そういう意味では、シモーヌヴェーユとはくらべものにはならないんですが、これはずげえところだなぁっていうか、工場で働くっていうことはすごいんだなあっていう衝撃がありました。

つまり、その衝撃の問題と、観念的に教養とか精神的なことでとっかかったマルクスとか聖書とかから得た問題意識とを、いっしょに関連したかたちで、じぶんなりにつかみたいとかんがえたとおもいます。だから「マチウ書試論」は、あとからかんがえても誇大妄想で、こんなものじゃなくて、なんか文学的な作品とか作家を対象に、そんな問題を全部その中で解いていこうとか、身近にしていこうってかんがえれば、いいじゃないかとおもえるわけです。このときはもうほかのものは全部いやだ、つまりなんといだたらいいんでしょうか、読むことは読むけども論ずる気はしないっていうんでしょうか、まともに論ずる気はしなくて、一種の誇大妄想みたいなものがありましたね。だから、福音書の中で「マタイ伝」が一番好きだったですから、よしこれだって、これをじぶんの当面している問題に近づけてといいましょうか、引き入れてみたいなというふうにかんがえたとおもいます。

「異神」とか、ジイドの「アンドレワルテルの手記と詩」をまねして「エイリアンの手記と詩」を書いたときのころは、まだ戦争中からの小林秀雄なんかの影響が間接的に入っていたわけですが、もうこのときは、繰り返しますが、ぃちおうじぶんなりに聖書もマルクスもエンゲルスも読んでいたし、日本共産党についても、見てだいたいわかるぞっていうところにはいたわけです。それから学校を出て急に工場に行ったときの、一種の衝撃的な体験をじぶんなりに方向づけていこうみたいなことがあったとおもいます。


——そうすると「マチウ書試論」は、いわゆるジイドの影響をうけた初期の、若干キリスト教的な詩とも切れているし、また教会にしばらくかよわれた体験とも切れて、ある意味では、吉本さんなりの宗教の問題、信仰の問題との格闘というものの最初と考えていいわけですか。


そうだとおもいます。もし「異神」を書いていたころとつづいていることがあるとすれば、デカダンスというか、なにもかもおもしろくないなあという感じだとおもいます。


——「マチウ書試論」の中に、アルトゥルドレウスの「キリスト神話」から学ばれたということが書いてあります。この本では、イエスは歴史上の人物じゃなくて、原始キリスト教団が観念的につくった存在なんだということを言っているわけなんですが、それを吉本さんは、じぶんの立場とされて、つまり歴史としてのイエスよりも、信仰イデオロギーによってつくられたキリストを強調しておられるというふうに、私はおもったんです。つまり、イエスの史実性というものと、キリスト教の観念性あるいは党派性との問題が「マチウ書試論」では出てくる。私どももはじめて読みまして、イエスの史実性を否定しておられるところが若干気になったんですが、そのあたりのことをちょっとおうかがいしたいとおもいます。


このときこれを書くのにどんな本が、じぶんにいちばん影響を与えたかを話します。

ひとつは、ニーチェの「アンチクリスト」と「道徳の系譜」が、聖書にたいする考え方でおおきな影響を与えているんです。どんな影響かといいますと、キリスト教あるいは聖書は、ニーチェによれば、一種の弱者の怨恨なんで、すこしも雄々しいところがなくて、なんか恨みがましいんだというんですね。ぼくのそのときの感じ方はそうなんです。それから道徳というものの発生の起源は、キリスト教、もっといえば聖書にあるんだっていう観点がニーチェにあって、だからこれを壊さなければ、ほんとうに健康な文明は出てこないんだといいます。その二つが、ぼくにおおきくはいってきた影響のひとつなんです。

もつひとつは、伝記としてのルナンの「イエス伝」で、これはその当時読みましていちばんおもしろかったんです。とにかくおもしろく文学的に書いたであるんです。キリストイエスの生涯をひとつの伝記として読む、ということはこういうかといった印象がありました。

もうひとつは、エンゲルスの「原始キリスト教史考」で、これはキリストイエスを、当時のユダヤ教的秩序にたいする反逆者、革命者として見ています。いまでは否定されているでしょうが、「ヨハネ伝」なんかについての考証的なこともあったとおもいます。そういうのも興味深いことでした。

その三つがぼくに深い影響がありました。じぶん自身の読んだ「マタイ伝」とどこかであうところがあったら、そこで書こうとしてノートをとったりしていたんです。たまたま偶然なんですが、岩波現代叢書にドレウスの「キリスト神話」が出てたんです。それでぼくが影響を受けた大思想家や大学者や大伝記学者の人たちがつくってくれた像と、じぶんの直接的な聖書の幼稚な読み方から受けとるものとの、あまりにおおきな空隙をどうやってつなげたらいいんだ、もっとかっこよくいえば融和させたらいいんだみたいなことが考えどころでした。もしうまくできないで簡単に短絡したら、お里が知れちゃう。まるで段ちがいなものをひっつけようったって、それは無理だょっていうふうなことになるわけです。ドレウスの本が適当に通俗的であり、適当に考証的ですから、そこで空隙をつくところがあったんですね。そして、これは使いやすいといったらおかしいんでしょうか、つまり実証的かどうかはべつとして、ここも嘘だ、ここも嘘だ、あるいは、旧約聖書との類推がつく、対応がつくところはもう対応がつくっていうことで、ドレウスのやり方を踏襲して、のけられるものは全部退けたあとに何が残るかってことだけを、じぶんなりの思想的な課題として描けばいいじゃないかとかんかえたとおもいます。だから、ニーチェとルナンとエンゲルスという大巨匠と、じぶんの聖書の読み方との空隙をドレウスのやり方がいちばんよく埋めてくれるとおもって、こんなおもしろいことはないって感じになりました。それでずいぶんドレウスの立証したこの対応説を使ったんだとおもいます。

それから、日本のキリスト教の思想家とか学者の中でイエスや聖書について論じたもののいくつかは見た気がします。たとえば、吉満善彦とか、河上徹太郎とか、亀井勝一郎とかのもののいくつかは読んだとおもいます。日本人が聖書について書いたものは、あまりじぶんの理解のしかたや読み方と、おなじようなのがなかったんですね。それじゃあ、芥川龍之介とか、北村透谷とか、太宰治とかはどうかというと、それぞれに感銘は受けているわけですが、ぼくの関心のもち方とはつながらなかったんです。ですから、こういうつながらなさを中途半端にもちだすよりも、もうただ立証できるかどうかはべつとして、ドレウスのやり方でやったほうがいいというふうに、ぼくはかんがえたとおもいます。


——ドレウスが旧約と対応させているところは、実証的にも正しいところが多いとおもいますが、ただその大本になっているイエスが歴史的には存在しなかったんだという問題については、吉本さんはイエスが歴史的に存在していようがいまいが、少なくともじぶんの課題においては問題ないと、むしろ、キリスト教の観念性、党派性というものが、当時のユダヤ教団との確執の中で生まれてきたんだという受けとめ方をしていて、それにたいする批判であったり、ある意味では共感であったり、参考になるというか、そういうものとして重きをおいておられたようにおもえるんでずが。


そうなんです。ドレウスはキリストの史実性をまったく否定しているとおもいます。ルナンは否定していないとおもいます。エンゲルスも否定していないとおもいます。ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならないんじゃないか、つまりほんとうに歴史的イエスは実在したかどうかという問いを発する必要はないんじゃないかとおもいました。それはたぶんいまでもそうおもっています。そういう意味では、日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川建三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているとおもえないところがあります。

(当方注 この著述その2に続く)


〈信〉の構造2 キリスト教論集成 吉本隆明 ① 序

2021-08-10 10:51:00 | 言の葉綴り

120〈信〉の構造キリスト教論集成

吉本隆明

 


投稿者 古賀克之助







〈信〉の構造2 ——キリスト教論集成

ニ〇〇四年十一月三十日 新装版第一刷発行 著者ー吉本隆明 発行所ー株式会社春秋社 序より



いま宗教の領域が非信というモチーフで、わたしに残っているとすれば、ふたつしかない。ひとつはほんとうの考えとうその考えを分けることができれば、その方法さえ確定できれば、ということだ。これはかって宮沢賢治がべつの形でしきりにゆめみたとおなじことだ。

もうひとつは「死」の水準を確定し、そこからの逆視線を、すくなくとも感性的な次元でははっきりさせることだ。「信」にまつわることでほかのことはわたしのなかから消去されてしまった。そしてこの消去は主観によるというより、客観的な根拠からきている気がしている。

「生」ということを宗教の領域としてかんがえるかぎり、わたしたちはもっと「無意味」にむかって、その意義を立てるため、もっとはやく駆けぬけてゆかなければならないのではなかろうか。「無意味」ということの本格的な意味は、非信ということの「信」としての意義と対応している。その課題の途次で、まだこれからもさまざまな形をくぐらなけれはならないとおもっている。

              吉本隆明