122〈信〉の構造2 キリスト教論集成
吉本隆明
③現代キリスト教思想の諸問題 3イエスの史実性とキリスト教の観念性•党派性ーー「マチウ書試論」その2
投稿者 古賀克之助
〈信〉の構造2 ——キリスト教論集成
ニ〇〇四年十一月三十日 新装版第一刷発行 著者ー吉本隆明 発行所ー株式会社春秋社
現代キリスト教思想の諸問題 より抜粋
3イエスの史実性とキリスト教の観念性
その2 (当方注 その1より続く)
——「マチウ書試論」の終わりのほうに、よく引用される「関係の絶対性」というたいへんむずかしい言葉が出てくるんですが、この理解について私は、「吉本隆明における聖書」(本書「解説」)という拙論で、次のように書いたことがあります。つたない理解ですが、これについて吉本さんはどのようにお感じになるかお聞かせいただいて、「関係の絶対性」という言葉をもう少しわかりやすくおっしゃっていただくとありがたいのですが。私の文章を途中からですが読んでみます。
「イエスはパリサイ人に対し、『いまになって預言者たちを顕彰するようなことをしているが、おまえたちの先祖は預言者たちを殺してきたではないか』というとき、その同じことはイエスにつらなっているのちのキリスト者にも該当する。だから絶対的に正しい観念、『観念の絶対性』というものはない。およそ党派の思想、党派性とはこのように自己の観念を絶対化するものである。いかなる観念も思想も意志も、それが人間のもの、人間に関するものであるかぎり、すべての人間と人間との関係において存在する。その関係こそが絶対的であり、従って『関係の絶対性』ということになる——およそこういう論理ではないだろうか。/『関係の絶対性』というとき、関係とは相手があるということだから、それは当然、相対的な概念である。だからこの言葉には相対的なものが絶対的であるという逆説がある。いわば人間においては人間的なもの、人間に関するものこそ絶対的だという立場である。これが吉本にとっては社会思想であるだけではなく、宗教思想でもあるということに注目すべきだろう。ここで当然、従来の宗教の立場からは神という問題が提出されるところである。人間の存在を超えた絶対の存在とされる神を吉本は否定しているように思われる。しかしながら究極的には神を否定するにしても、その過程として神の問題を考えてみる必要があるのではないか。
(当方注 インタビュアー笠原芳光)
じぶんがその時にかんがえていたよりも、もっとよく読んでいただいているようにおもいます。ぼくの書いたときの実感の根拠から云いますと、学校もさぼりほうだいさぼって、かってに振舞っていたところに、急に工場に行って、工場ですから、もうほとんど肉体労働で、時間から時間までぴっちり働いて、そして作業着を着替えて帰ってくるみたいな、そういう生活に入ったから、もうびっくり仰天したってことなんです。そうすると学生という抽象的な身分から急に社会の具体的な身分に入った、つまり、こののっぴきならない感じっていうんでしょうか、これはいったいなんだろうみたいな、ぼくの実感からいうと、〈関係の絶対性〉という考え方の根底は、どうもそこらへんにあったような気がするんです。
具体的な云い方をしますと、学校で勉強にも実験にもその他にも、怠けることなく孜孜としてあい努め、積極的に化学の専門的なことについてはこういうことをやりたい、こういうことをやるためには、ふさわしい会社はどこだろうか、それじゃじぶんはあそこへ就職のねらいを定めて、そこへ行って交渉したり推薦したりしてもらおうみたいな、あることがらについて積極的な、あるいは意志的な取り組み方があることと、そうじゃなくて、ごく受け身に学校をやっとこさ出ればいいさっていう感じで、ぎりぎりの限度まで怠けて、社会に出たらどうしょうかっていう積極的な姿勢もなくて、学校を出たから工場に行って働くということとの違いがあります。抽象的に学生という身分のところでは、外観も変わらないし、考えていることも云ってることも、なにも変わらないとおもっているわけですが、抽象的な身分を離れて、具体的な身分にはめこまれてしまうと、姿勢によってもうまるで違うという感じです。つまりこの状態を関係としてかんかえれば、、どう動くこともできない必然的にはめこまれた場所なんじゃないか、この関係性を変更することはできないんじやないかなって感じから、たぶん〈関係の絶対性〉という概念の根柢は出てきているようにおもうんです。この〈関係の絶対性〉みたいな動かしてがたさというものをメタフィジカルな問題に転化していったら、いったいどんなことになるんだろうか、といったことをぼくなりにかんかえていったんだとおもいます。
つまり受け身っていいましょうか。現実があって現実からじぶんが受け取るものと、じぶんが意志してそうなるものとのぶつかりあいは、個々の人によってちがうわけでしょうが、その主体にとってかなり絶対的なもんじゃないか、つまり外から絶対化されてくる原因と、じぶんの意志したりする内側からと、この矢印のぶつかるところは、たぶん絶対的なもんじゃないか、動かしがたいものなんじゃないかという感じ方が〈関係の絶対性〉という概念をつくるばあいにあったんじゃないかとなとおもいます。
もし人間が理念的におかれた場所、あるいは党派でもいいんですが、そういうものがあるとすると、その党派がおかれた場所は、人間の意志力の総和と、もうまったく人間の意思力と関係のない外から
やってくる原因と、その原因は形而上学的でもいいし、具体的原因でもいいわけですが、ぶつかりあう場所は、そうとう動かしがたい絶対的なもんなんじないか。つまり、個々のそれぞれの理念と、理念以外の外側からやってくるものとのぶつかりあいは、かなり絶対的に決まってくるものなんだ、というふうな観念を、ぼくはつくっていったとおもうんです。
ーーそれはたとえば、マルクス主義は物質とか社会を絶対化します。それにたいして、キリスト教にかぎらず宗教は、神を絶対化します。ところがそういう物資とか神というものが絶対ではなくて、人間とその世界というか、人間とその状況との関係が絶対的であると、こういうふうに理解してよろしいでしょうか。
もうひとつ、「マチウ書試論」の最後のところに出てくる有名な、しばしば引用される箇所があります。それは人間には三つのタイプがあると言及されているところです。トマス•アキナス型とルター型とフランシスコ型であると。私の言葉でいいますと、秩序的と反秩序的と脱秩序的というか、トマスが秩序的、ルターが反秩序的、フランシスコは脱秩序的と。体制、反体制、脱体制といってもいいんですが、それがたいへんあざやかに書かれておったようにおもいます。それじやイエスはとの型になるんだろうかと考えて、体制的でもなく、反体制的でもなく、いちばん近いのは脱体制的ではないか、これはイエスを史的な存在としてみたばあいに、そういうふうに受けとれるわけです。あるいは、どの型にもはまらない脱秩序型といいますか、どこにもあてはまらない別のタイプなのかなあとおもうんです。吉本さんは、イエスがどのタイプだということはおふれになってないんですが、それについて、なにかお考えはございませんか。
「マチウ書試論」を書いたときでいえば、どこにじぶんが親近感を抱いたかといえば、ルター型に親近感をもっていたようにおもいます。それには戦後になってからですが、マルクスなんかを一所懸命読んだりした影響があるんじゃないかなとおもいます。じぶんの中でなにが生きるんだろうかをかんがえたら、それだけは戦争中から生きているものとして、残るんじゃないかという感じをもっています。
ーー私なんかも多少吉本さんよりも若いんですが、やはり戦後すぐの状況で反体制的であったんだすが、最近かなり考えが変わってきまして、どちらかといいますと、脱体制的な、ある意味じゃ私から見ても、吉本さんもそういうタイプになってこられたんじゃないかというふうにおもうんですが、当時としては、脱体制というかたちで、イエスをおもわれたわけでしょうか。
いまだったらぼくは、ちょっとちがう読み方をするんじゃないかって気がするんです。ちがう読み方といっても、基本的には聖書はそういうもんじゃないですかっていうことでいえば、そのとおりなんだとおもうんですが、現世において小であればあるほど、あるいは心が貧しければ貧しいほど、現世以外のところでは大なるものでありうるんだという、逆説があるでしょう。基本的には、聖書はそれしか残らないんじゃないか。それが新約聖書の唯一の基本理念で、人間の歴史の中で、それははじめてつくられたんじゃないか。ニーチェに云わせれば、それが反発したところであり、自然じゃあないと批判したところでもあります。現実的に偉大であれば現実的に偉大で、現実的に偉大でなければ偉大でない、現実的に強者であれば強者で、弱者は弱者である。弱ければ弱いほど、貧しければ貧しいほど、心が貧しいほど高いところに上げられるという、そういう視点はだめなんだと、ニーチェは批判しています。しかしぼくは、そういう思想とか内面というか、人間の観念のあり方をはじめて新約聖書は発明した、あるいは発見したんじゃないかとおもいますから、そこは基本のような気がするんです。
党派はだめじゃないかとい觀念はそのときじぶんの中にあったもんじゃないかとおもうんです。党派の観念は結局はだめなんだ、それは党派の内部だけでは真理の絶対性はいえても、党派の外部、あるいは党派のあいだでは真理はなにも決められない。党派と党派のあいだを決めるのは関係だけだ、〈関係の絶対性〉といってもいいんですが、それだけなんで、真理の多少とか、絶対か相対かすら自体で決められるないんだ。党派の内部だけで絶対化できる。この党派性じたいは結局だめなんだと理解する以外にないんじゃないか、といまでもかんがえています。
党派ということはべつな意味では、信仰と不信仰についても同じようにいえるとおもいます。信仰も不信仰も、いずれも党派性だって気がします。それはどっちに立ったてもだめなんじゃないか。また、神学にたいして唯物論がある。これもどちらかに立ったらもう党派性です。
ーーつまり教団も党派性だし、教団に反対する勢力も党派性である。右であれ左であれ党派性であると。それは「反」か「脱」かということでいえば、当時の吉本さんのお考えでは、むしろ「反」だっていうことになりますか。
いや、そうじゃないですね。アンチではだめだということになるから、そういう意味では「脱」ということになるんじゃないでしょうか。「脱」ということは、このフランシスコ型で、〈隠者〉あるいは〈隠遁〉に結びつけられますね。〈隠遁〉というか〈隠者〉というか、ぼくは西行も好きですし、良寛も好きなんです。資質として好きなんで、なんとかして、「脱」あるいは〈隠遁〉のあり方に積極的な意味を与えようと、いまもそうとうかんがえたり試みたりしているんだとおもいます。
ーーさっきルナンの話をされたんですが、ルナンの「イエス伝」の中に、イエスはアナキストであるという意味のことが書いてあるんです。ルナンは文学的な意味で、イエスはわれわれの言葉でいうと「脱」的な存在だということを言いたいんじゃないかとおもったんです。アナキストには集団をつくって、いわゆる党派的なアナキストもおるんですが、そうじゃなくて、もっとアナーキーというか、無権力、権力否定、あるいは脱権力としてのアナキストなんですか。
脱権力の理念あるいは宗教なんだとおもうんです。脱権力の宗教で、それに先鋭な倫理的、あるいは信仰的な意味を与えようとしたんだろうなとおもいますね。