言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

ロシア、粛清の記録と文学 毛糠秀樹

2023-03-20 09:58:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り 146  ロシア、粛清の記録と文学 毛糠秀樹



ロシア、粛清の記録と文学 

日本経済新聞 文化時評 毛糠秀樹

2023年(令和5年)2月12日朝刊

より


「国家の中の国家」。1930年代に旧ソ連へ密入国し、スターリン粛清を生き延びた日本人で21年前に死去した寺島儀蔵さんの手記に、こんな表現が何度も出てくる。「国家保安委員会」と呼ばれる情報機関K G B(旧 G PU)のことである。現在はFS B(ロシア連邦保安局)と改組した。

寺島さんは、身に覚えのない国家反逆罪でいったん銃殺の判決をうけながら突如、25年の禁錮に減刑、極寒の収容所で20年近く労働を強いられた。手記には、やってもいない罪を吐かせるための苛烈な暴力を伴う取り調べや、釈放されてからも続く執拗な監視が描かれている。

その後の東西の冷戦期、旧ソ連では強権と専制で人々を圧する非常な組織が国中枢に揺るぎなくそびえて統治の「かたち」「決め」、政治、経済、外交を操っていた。

その組織で育ったプーチン大統領による「特別軍事作戦」という名のウクライナ侵攻から、近く丸1年となる。

この間、私たちはたびたび目を背けたくなる残虐な映像に触れ、むごい報に接してきた。21世紀に起きたとは思えない数々の蛮行。手段を選ばず、時に人の尊厳さえ軽んずるK G B的な思考と行動様式の発露とも見える。

そもそもこの組織の誕生は社会主義革命にさかのぼる。帝政の圧迫から自由を求めて蜂起した末の産物だ。歴史の痛烈な皮肉と言わざるをえない。

1917年に十月革命で政権を奪ったレーニンは同年12月、早くも反革命的な策動やサボタージュを取り締まるための「全ロシア非常委員会」の設置を命じた。略称「チェーカー」と呼ばれ、令状なしでの容疑者の逮捕や投獄、処刑などの権限を縦横にふるった。多くの無実の人が犠牲となる「赤色テロル」の嵐が吹き荒れたわけである。後のスターリンによる大粛清にもつながる有無を言わさぬ弾圧のさきがけともいえる。後継組織のK G B本部があるモスクワ市内の一区画はかって初代トップの像が立ち、その名から「ゼェルジンスキー広場」と呼ばれた。

「我々は一度も間違った逮捕はしたことがない」「事実の究明に興味がない」。寺島さんを取り調べた捜査官は、こう言い放ったという。

革命を防衛するための暫定的な部署だったはずが、独裁体制を維持するため手段を選ばぬ治安機関に変貌を遂げた。1世紀以上を経て、その体質はグロテスクな形で進化し、プーチンに受け継がれ、世界を振り回している。

英フィナンシャルタイムズの元モスクワ特派員、キャサリンベルトンの著書「プーチン ロシアを乗っ取ったK G Bたち」(日本経済新聞出版)は、幾多の謀略的手法で一国を絡めとったトップと取り巻き(シロヴィキ)の実像を赤裸々にルポしている。

プーチン氏は旧ソ連崩壊後、サンペトロブルクの副市長として、時に民主派の顔を装いつつ、地方の暴力組織と組み石油輸出利権をK G Bに誘導した。やがて、首都へ出たプーチン氏は前任の大統領エリツィン氏の忠実な僕として権力を蓄えた。

ほどなくして、前政権下でのし上がった振興財閥(オリガルヒ)を検察も巻き込む脱法的な手管で駆遂して利権を奪い取り、メディアを締め上げていく。イデオロギーの殻さえ投げ捨て、謀略的な手段と非合法的な実力行使で自らの国を〝掠奪した後は、かっての勢力圏を取り戻さんとの野望に向け躍起になっているように思える。




国際社会はロシアの将来に光明を見いだすことができるだろうか。

「ロシア人は他の民族に対して偏見がなく非常に寛大で人なつこい」「おおらかで人種差別もなく親しみやすい」ー。異国で筆舌に尽くしがたい労苦を味わった冒頭の寺島さんは、手記で何度も獄中や収容所で会ったロシアの庶民への共感を語る。

そこには権勢へ牙をむく荒々しい姿はなく、他者への優しさだけがにじんでいる。

トルストイの描く人間愛、ドストエフスキーが「罪と罰」で強調した魂の底からの回心。母なる大地が生み、日本、いや世界を魅了した文化の底力にいちるの望みをつなげたい。

帝政が動揺し、新時代の予感が満ちる20世紀初頭、戯曲「桜の園」で

チェーホフは大学生にこう語らせた。

「人類は、この地上で達しうる限りの、最高の真実、最高の幸福をめざして進んでいる。僕はその最前列にいるんだ!」(神西清訳)。こんな言葉をトップの口から聞ける日は来るだろうか。

毛糠秀樹