言の葉綴り

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山本健吉 短歌その器を充すもの 辺見じゅんの歌

2022-06-07 13:07:00 | 言の葉綴り

134 山本健吉 短歌その器を充すもの 辺見じゅんの歌


山本健吉

短歌 その器を充すもの

昭和五十七年三月十日 初版発行

著者 山本健吉 

発行所 株式会社 角川書店より抜粋


辺見じゅんの歌




日本経済新聞に『この父ありて③』掲載の映像
令和3年10月9日朝刊より




辺見じゅんなどという名前がまだなかった。幼いころの角川真弓ちゃんの印象が、私にある。それは越中水橋の角川源義君の母校での講演会のあとの立山登山に、小林秀雄氏父娘と角川源義父娘とそして私が、地獄谷の山小屋での、大勢の登山客に入り雑っての雑魚寝の夜、真弓ちゃんが急に激しい腹痛を起こし、女は女同士、小林令嬢が一晩寝ないで、心を尽くして看護したことが、強い印象として残っている。

一時はどうなることかと案じたのに、翌朝はけろりとして、真弓ちゃんはみんなと一緒に立山に向って行った。私はひとり室堂平の小屋に残って、あと頂上までの標高六百メートルほどを登って降る一行を、岩燕などの飛び交う谷間などを見ながら待っていた。すると今度は入れ代わって高山病を起こした源義君が歩荷(ぼっか)に背負われて、蒼白の貌で降りて来た。その後から真弓ちゃんはしっかりした足取りで、疲れた様子もなかった。

その夜宇奈月温泉に泊まって、元気になった源義君と将棋など指した。私がこの父とこの娘(こ)との特異な一対を、並べて見たのは、この時が始めである。もちろん父は、眼の中に入れても痛くない思いの娘を、立山に連れて登ったのだった。だが、この個性の激しい父への反撥も、同じく個性の強い反抗期の少女として、彼女は具えていた。あるいはいるように見えた。その証拠に、というのは可笑しいが、この父娘は入れ代わって体の不調を惹き起こしているのだ。

今は立派な歌人に成長したこのひとを、私はもう真弓ちゃんとは呼ばない。辺見じゅんという名で呼ぶことにするが、彼女を含めてその兄弟たちは(おそらく夭折した真理ちゃんも含めて)、「いのち」の火花を散らす、火の玉人種に属しているのだろう。そしてこの兄弟姉妹たちが、生まれ落ちてから何時も「いのち」の火花を散らしていた相手に、一番身近な肉親、最も強い個性を持った父という大きな存在があった。その巌のような存在に、子供たちが捨て身でぶつかることを覚え、激しく憤り、怨み、また憎み、また同時に惹きつけられるような形で抵抗を試み、それによって強く、まっすぐに生きて行くすべを身につけたのが、彼女を大姉とする角川姉弟だと思われる。言わば父親の胸を借りて、彼らは成人したようなものだ。

私はこの歌集の校正刷を読みながら、そんなことがしきりに頭を去来した。源義氏は何をやっても、趣味という域にとどまっていられない性格だった。本来の目標であった学問や、生活の手段で同時に理想でもあった出版事業も、力を尽くしてやり通したという外はない。それだけではない。俳句はもとより、謡いも将棋も書も、やりかかったらとことんまでやらないではいられなかった。その父親の性格を、やがて子供たちはそれぞれ自分たちの中に見出してしまうのだ。

辺見じゅんさんは、短歌の外に散文や俳句も手がけ、それぞれの分野で域を越えている。だが今度の歌集で、ことに後半の部分に到って、彼女も到頭ここまで到ったかという感慨に、私はひたらざるをえなかった。あの立山での幼い日を知っている私には、その感慨はことさら深いのである。

短歌にも俳句にも、いやあらゆる文学にも芸術にも、それぞれ時勢の装いがある。それが如何に新しい装いであっても、装いにとどまるかぎり、私の心に訴えることはない。若い辺見さんにも、新しい時代の波濤をかぶることは避けがたかったが、今度の歌集を見ても、それにとどまらない、辺見さん自身の「いのち」のきらめきが、否応なく読む者の胸にひびく。そしてそのきっかけが、かって彼女が拒み、あらがい、抗しつづけた亡父源義への千々の思いであることは、ほぼ間違いあるまい。それほどこの歌集は、しばしば父への思いを繰り返し述べ、それはことに後半において高まっている。

その一端を、少し拾ってみよう。



朝日新聞『語る人生の贈りもの5』掲載の映像
令和2年10月9日朝刊より


ねむりうすき父の呑みつぐ錠剤のかがやくほとりわれも眠らな

ひとひらの雲に茜をみる夕べまぼろしの河渉る父の背

遥けくも古代のことば父のこゑひと日を水に遊び思ほゆ

きれぎれの夢のなかよりあらはれてほれぼれたのし父のどぶろく

蒼穹に一脚の椅子透きとほり吹かるるままに父坐りをり

父逝きて三とせの春を訪ひくるは胸の地蔵会卯の花ざかり

騒さゐとなりゆく父の息の緒に速鳥といふ船かも発たむ

死に急ぐ父のまなじり浄くして三井楽の浜月白く差す

馬兵にて夏の焦土に帰りこし父のうたへり大和うるはし

佇てるまま影の濃くなる榛の木の水に映りて父の揺り椅子


これはほんの一部を抄出したのだが、これらを見ても、作者の父への思いは複雑である。だが、少女時代からさまざまの屈折を経て来た思いが、ここに到って、直情的になり、一途の父恋いに昇華していることが思われる。折口学徒であった父が執心した「古代のことば」に、辺見さんも次第に深く魅せられるようになり、これまで作歌に採用していた新かなづかいを捨てて、文語の歌には古典的かなづかいを採るに到った心構えの変化も、自然なこととうべなえるのである。

「速鳥といふ船」も、魂が通う「鳥船」であろうし、「大和(し)うるはし」も、臨終の倭建命の望郷の歌である。値賀の島三井楽の崎が、日本の西の果、遣唐使最後の発船の港であるとともに、「其所には夜となれば死たる人あらわれて父子相みると云々」(顕昭『袖中抄』ともいう伝承を、おそらく父君の教えを体して、歌いこんでいるのだろう。

あるいはまた、「胸の地蔵会卯の花ざかり」とは、幼いころ父の膝下を離れて富山にあったころの悲しみが、甦って来たのか。地蔵会が子供たちの祭りであることは決まったことながら、「卯の花ざかり」も小学唱歌の旋律を伴ってひびく。

椅子に掛けている父の姿をうたった歌が、ニ首もある。「蒼穹に一脚の椅子透きとほり」には、昼と夜との違いはありながら、私は源義氏の臨終に近い一句、

月の人ひとりとならむ車椅子

を思い浮かべる。しかも井上靖氏が想い描いたような、「車椅子ごと月に向かって上って行きつつある童画的なもの」と受け取ってである。もう一首、「父の揺り椅子」は、病間を憩う、晩年の父の姿を懐かしく描き出していよう。

このような歌が、あちこちに散りばめてあることから、この集の詩因は、父恋いによって貫かれているではないかとさえ思う。父の相貌はまったく現れない歌にも、どこかに父の翳を落としているようだ。


補陀落の海恋ひわたるかりがねの舟に遅れて一羽漂ふ

いづかたへ精霊とんぼ還らむよ血縁もまた淡くあをく煙りて

いつさいを降りくらめくる雪しまきまなこ閉ぢつつ鳥にはなれず

村の子は木の実のごとく睡りつつ斑雪の山は春の浅黄に

はろばろと琴になる木となれぬ木といづれさびしき海の音聞く

あかときは胸の手さびしさばしるは

鵙の遠ごゑ飛騨は山ん中


挙げるのは、もうこれくらいにする。父源義は、自分の思いを俳句に果し、歌は空しく見送った。本当は彼は、歌への思いの方が、よほど強烈であったはずなのにーー。

彼の思いは屈折に屈折を重ねて、歌わぬ人となる。彼が歌わなかったことが、やがて辺見じゅんの歌を花開かせた。この不思議な父娘の因縁の深さを、この歌集を読んで改めて思った。

これからが、本当の辺見じゅんの季節だろう。長い闘いを経て、ある意味ではこの歌集が父源義との和解の書である以上、もはや源義という意識は消えて、じゅん独自の洋々とした世界が開けてくるだろう。それを期待させる種子が、この集にははっきり存在している。

(昭和五十六年四月『水祭りの桟橋』跋)




日本経済新聞『この父ありて⑦』に掲載の映像
令和3年11月6日朝刊より