言の葉綴り

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新・書物の解体学 吉本隆明著 『エロティシズムの歴史』ジョルジュ•バタイユ

2022-12-06 10:41:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り140新・書物の解体学

吉本隆明著

『エロティシズムの歴史』ジョルジュバタイユ







新・書物の解体学 著者 吉本隆明

199291日発行 株式会社メタローグより


『エロティシズムの歴史』ジョルジュバタイユ 湯浅博雄中地義和訳



人間の性交行為は、醜悪で、卑猥で、隠したくて仕方がないところに付いた器官を使って行われる。それなのに人間は性交の快楽の極限を体験する。本当はひどい矛盾なのだ。人々はこの矛盾に耐えられないので性交を侮辱したふりをしたり、逆にしたり顔で神が与えた自然には汚穢などないなどとすましてみせたりする。真直ぐに性交の現実面に顔を向けて、きっちりと対応しないで、眼をそらしてしまうのが通常なのだ。性交行為にまつわる人間の嫌悪と愉悦という矛盾の実感を、実感そのままの状態で論理と理念で整序してみたい。これがこの本の大切なモチーフだということがわかる。考えてみればこれはエロティシズムの解明だけに限らない。本当の思想は、本質直感が把握したものを、そのままの状態で、ともすれば被覆し、隠そうとする衝動を切り裂きながら、「天の底が開いたような感覚を伴うそれらの瞬間」のままに、解明することにあるといっていい。バタイユのこの本はほんとうの思想をもっているこの資質を、どの本よりも深刻な意味で具えている。

もうひとつ言ってみたいことは、この本の内実にかかわることだ。人間のさまざまな活動の目的は、過剰なエネルギーを無益に消尽しつくすところにあるので、それ以外の目的に服従させようとするすべての考え方は、ことごとく思想の自己放棄にほかならないという、バタイユは考えが、眼のさめるような鮮やかさで披歴されている。この考えはちょっと恐ろしいものだとおもう。この世界はいつも有効な目的と、有益な結果をもとめる思想で満ち溢れている。つまるところその種の思想が、推しあいへしあいしながら病的に肥大して、現在の政治、技術、文化を破滅のふちまで連れてきてしまった。これがこの本に盛り込まれたバタイユの本音の考えだといえよう。

わたしたちは誰も、バタイユの本音の思想に耐えきることは難しい。いったん他者との融和という考えにとらわれて、自他を赦す状態に、少しでも身を置くとすぐに、バタイユの本音は圧倒的な力で襲いかかってきて、ひきさらってしまう魔力を具えている。自他を少しでも赦すということは、有効な目的とか有益な結果とかにとり憑かれる最初の徴候だからだ。バタイユの思想を受け容れるかぎり、わたしたちは無益にエネルギーを蕩尽し、消費しながら、しかも弛緩することを許されない状態を強いられる。また無益に蕩尽し、消費しながら、そのことが、自他にとって結局は有効でも、有益でもない状態に、眼を向けることを強いられる。少なくともこの条件に叶う主題のひとつが、この本で考察された人間の動物的な性行為にまつわるエロティシズムの状態だとかんがえられている。

エロティシズムは、人間の性交行為が動物的な性活動に外観上はいちばん似てしまう瞬間に、自然の動物性と対立するものとして発現される人間に固有な雰囲気を指している。なぜエロティシズムは動物にはない、人間固有の雰囲気としてあらわれるようになったのか。レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』でやっている近親相姦の禁止にまつわる見解も、バタイユなりに俎上にのせて検討しながら、この近親相姦の禁止と、禁止すればするほど侵犯の意識も強化されてゆくという人間固有の性の両義性の矛盾に、エロティシズムもまた根拠を置いているとかんがえている。

ある太古の時期に男性はじぶんの娘や姉妹のような身近な血縁の異性を占有して、エロティックな結合を遂げたいという願望を断ち切った。そして他の氏族集団の男性に与えようとする意思を、制度化した(外婚性)。それは他の氏族集団の女性をおなじようにじぶんが所有し、エロティックな結合を遂げたいとかんかえたからだ。そして父の姉妹の娘との結合である平行いとこ(パラレルカズン)婚よりも母の兄弟の娘との結合である交叉いとこ(クロスカズン)婚の方が、より良いと考えられたのは、一方がじぶんの氏族の内部の男女の結合なのに、他方が女性の他の氏族への移動を通じて交通圏が拡大される利益があったからだ。レヴィ=ストロースのこの考え方の基本は、バタイユによっても容認されている。そのために男子は、異性の近親とのエロティックな結合の強い誘惑を切断して、他の氏族の男子に与えるために、近親姦の禁止を設けた。しかしバタイユによれば、この禁止はたんに他の氏族との交通が拡大し、経済上の繁栄も期待されるという理由だけにとどまらない。動物的な自然な性行為では決して得られなかった、禁止でかえって高められた近親姦の欲望と、耐える苦痛と快楽の共存を要素とした人間固有のエロティシズムが、この禁止によってはじめて獲得されるようになった。これがバタイユの主張である。強い性的な所有欲の対象であるじぶんの娘や姉妹との性的な結合を禁忌と定め、これを他の氏族の男に与えてしまうという逆説的な、自然に反する贈与の掟の奥深くに潜んでいる遠犯の恐怖は、バタイユによれば「一種の内面的な革命」であった。たんに異性と自然にしたがって性的結合を遂げたというだけでは得られないエロティシズムの高揚された価値をもたらす源だったからだ。この二重性、禁止の痛切さとそれを侵犯したときの恐怖のおびえこそが、エロティシズムの本質をなしている。

ところで、ここでバタイユの考え方が誤解されそうな気がしていたので、もうひとつの特徴を挙げさせてもらう。それはかれが感性的な自然と反自然に、つまり、人間の快感と嫌悪感にどんな思想家にもまして大きな場所を与えていることだ。これは一見すると恣意的な、根拠の薄いものに見せはするが、決してそうではない。人間は自然を否定する動物であり、動物的な性の欲求にたいする激しい嫌悪によって、動物から人間への移行を成し遂げた。近親姦に禁止を設けた感性的な根拠は、じぶんの動物的な結合欲にたいする嘔吐を催すような自己嫌悪感なのだ。人間は性交行為を夜の幕のなかに隠し、裸体からその器官の部分だけを醜悪なもののように包み込んでしまった。もっと極端なことをいえば、人間は血なまぐさい汚穢のなかから、また身体のなかでも排泄孔と隣りあった恥部の膣孔から生まれてくるのだが、誰もがかんがえるのもいやなほどその生理的な出自に嫌悪感をもっている。そして嫌悪して触れないように幕を張りめぐらし、しぶんの肉体的出自を消そうとしている。少なくとも感性的な基礎ではそうだ。

このあたりでわたしたちは、人間の動物的欲望とその結果である、じぶんの生まれにたいするバタイユの癒し難い嫌悪と自己抹殺の願望につきあたるようにおもえる。出産の汚穢、経血、糞便の汚穢に人間を近づけ、強制的に接触させたのは元をただせば親たちの、獣的な行為の結果なのだ。人間を人間にさせているものが、この動物的な欲望から離せないとしても、人間を区別し、差異づけ、価値の序列を作れるものは、肉体の力価でもなければ、社会的な富や財や地位でもない、動物的な性の欲望から、どれだけの距離を、どんな方向におおく取れるか、どこまで遠く自然に対立し、自然から離脱できるかどうかということに外ならない。これを富や人種や国境の外と内に還元することも、眼に視える物質的な外観の差異に対比させることも、不当な間違いでなくてはならない。これが、バタイユがこの本で表明している奥深い思想であろう。もちろんこの思想は、バタイユにおいて両義的なものになっている。獣性的なものや、肉体的出自である汚穢や、また肉体の腐敗や死の不可避さにどんなに反抗し、離脱して、自然に対する嫌悪の本質を貫こうとしても、いつかどこかで必ず挫折し、自然な動物的な欲望を容認させられてしまう。それが人間という起源なのだ。

人間は屍体を恐怖したり、嫌悪したりする。さまざまな禁忌を、死という事実にくっつけて、恐怖や嫌悪から眼をそらそうとする。それは何故かといえば、意識の底をかきわけていけば、死を何者かによる殺人とみなし、殺人にまつわる無意識の衝動と、それを侵犯することへの畏怖との両義性にさいなまれているからではないのか。バタイユはほんとうは人間が夜の幕や心層の暗部に秘匿したがっているエロティシズムにまつわる人間の本質を、明るみにひき出しては、きちんと把みとって、わたしたちの眼前につきだしてみせる。ひとつの本が、読者に根源的な事柄について、心底からの震撼を迫り、また根源的な事柄以外のことは触れようともしないという恐るべき実感を与える体験は、ニーチェの著作を除いたら(サドの奇譚小説を除いたらということも加えるべきか)、この本と著者であるバタイユ以外には、誰もいないのではないだろうか。読者がこのあたりでもうたくさんだ、ひき返したい、あまり触れたくもないし、触れてもいい気持ちはしないといくらおもっても、用捨なく奥底を切り裂いて臓器も、血のりも血管もすべて明るみにだして、決してやめようとしない。これは文字で描かれた、とび切りのホラー映画なのだ。

人間のエロティックな結合の行為は、そのさ中にあるとき恍惚であったり、死のなかにあるような不安であったり、快楽であったりするが、その奥には結合している男女がじぶんたちだけが宙に浮かんでいて、根こそぎ環境がないような感じに襲われるのは、どうしてなのか。わたしたちは瞬間的にそれを感じ、またもう次の瞬間には弛緩してしまう。そしてまたその次の瞬間には、子供の育て方などをめぐって、当の男女が言い争ったりすることもできる。そういう存在なのだ。

この高揚の瞬間の感じが何であるか、思想はきちっといえなければほんとうの思想ではない。そしてこれをいっているのは、この半世紀ではバタイユだけだといって過言ではない。「要するに、欲望の対象は宇宙であり、この宇宙は抱擁のなかでその鏡である女性の形を取るが、この鏡にはわれわれ自身が映し出されている。そして、もっとも熱烈な融合の瞬間には、突然の稲妻のように純粋の光輝が可能性の広大な領野を照らし出し、そこで個々としての恋人たちはもみ消され、とろけ、興奮のなかで、彼らの欲した鋭敏さに従順になる。」(「エロティシズムの歴史」)

「欲望の対象は宇宙」というのは、一見すると大げさな文句のようにみえるが、よく考えを沈めてゆくと、実感に叶い、しかも見事な形而上学になっていることが判る。わたしたちも且て、対幻想は国家の共同幻想と逆立するものだといったことがあるが、対幻想がじつは「宇宙」だけを存在せしめるような心的な運動に属するとまでは、考え及ばなかった。メタフィジックを呼び起こし、それを制圧力とするだけの孤独な存在感を欠いていたのだ。ほんとうはバタイユがこの本で説いている文学と供犠の同一性や、意識の過剰なエネルギーと戦争の関わりについて、触れてみたかったが、もう触れることができない。しかしこの本にたいするわたしたちの読みは、それほど間違っていないとおもう。

(哲学書房刊)