言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

言の葉 22 言語にとって美とはなにか①序(なぜ、いかになそうとしたかというモチーフ 当方記す)

2016-11-23 16:05:00 | 言の葉綴り
言の葉22 言語にとって美とはなにか① 序 (なぜ、いかになそうとしたか
というモチーフ 当方記す)

言語にとって美とはなにか 第1巻
著者 吉本隆明 発行所 勁草書房
昭和40年5月20日発行



抜粋その1
同書 序より

(前の文一部略)
文学は言語でつくった芸術だといえば、芸術といういい方に多少こだわるとしても、たれも認めるにちがいない。しかし、これが文学についてたれもが認めるただひとつのことだといえば人は納得するかどうかわからぬ。いったん言語とはなにか、芸術とはなにか、と問いはじめると、収しうがつかなくなる。まして文学とはどんな言語本質のどんな芸術なのかという段になると、たれもこたえることができないほどである。文学のいくらかでもまともな考察が文学者の個性的な体験の理論となるか、政策からおっかぶせた投網のような政治的文学論とならざるをえないゆえんである。こういった厄介な問題の性格を熟知していたポール・ヴァレリーは「文学論」でたれも吐きたくなる名言を吐いている。

芸術にあって、理論は大して重
要でないという説があるが、これ
は讒誣も甚だしい。これは、理論
がただ世界的に共通する価値をも
たないということでしかない。理
論はいずれもただ一人のための理
論なのである。一人の道具なので
ある。彼のために、彼にあわせて
、彼によって作られた道具なので
ある。理論を平気で破壊する批評
には個人の欲求と傾向が分かって
いない。X氏の道具である理論は
X氏には真理であるが、一般的に
は真理でないと理論自身が宣言し
ないのが理論の欠点なのである。
(堀内大学訳)

名言が名言であるゆえんは、それが多数の人間の胸にすみつくことだ。今日、保守的な文学者にとって、理論はただ一人のための理論で、一般的に真理であるような理論
なぞありえないというヴァレリーのことばはうたがいようもない常識にすぎまい。いや、政治的文学論の網にかかった文学者にとっても、彼が創造を体験しているかぎり、頭はばたばたしながらヘソのあたりで密かにおしかくしている禁忌であるかもしれない。
ヴァレリーの言葉には、一般的にいってつぎのような問題がかくされている。
政治的に自由でなくとも、また現実的に苦しめられていても、文学の表現の内部では自由であるということがありうること。そして、表現内部での自由は、恣意的でありうる社会のなかでの(仮象)であること。
それゆえ、社会の外で、いいかえれば文学表現の内部(原文“内部”二文字に傍点あり)では、どのような政治的価値も、現実的な効力もかんがえられないこと。そして一般に、わたしたちは、二つの至上物を自己意識のなかで同時にもつことはできないこと、などである。
だから、ヴァレリーの言葉は、この場合、一般的に真理であるような二つの対象的な意識を、人間は同時にもつことはできないといいなおせば通用するはずである。
ヴァレリーの名言とまるで対象的なところに、文学芸術は典型的な情勢における典型的なキャラクターを描かねばならないというリアリズム論と、文学芸術によって人民を革命的に教育しなければならないとする政策論を二本の足にした社会主義リアリズム論がある。
そして、ヴァレリーの名言の範囲にも、倫理主義もあれば、美の純粋主義もあるように社会主義リアリズム論の範囲でも、アヴァンガルトもあれば、典型論もあり、ドキュメンタリズムもあるといった具合である。もっと微細にうがってゆけば、ヴァレリーのいうとおり「X氏には真理」である「X氏の道具である理論」が、文学者や芸術家の数だけ氾濫しているはずである。
これらは相乱れ対立しているようにみえる。しかし、じっさいは対立などという高級なことをしているのではない。文学者たちは自己主張しているにはちがいないが、ひとつの本質が他の本質と相容れずに角遂さているのではなく、ある現象が他の現象とときにはむき出しの感情をまじえてあらそっているにすぎない。
文学をひとつの円錐体にたとえてみれば、じぶんは古典主義者である、ロマン主義者である、リアリストである、超現実主義のである、社会主義リアリストである、アヴァンガルトである……というのは、円錐の底円周の一点を占めているだけなのに、文学そのものを占めていると錯覚して、おなじ円周の他の点と対立しているだけである。
こういう文学の理論をすべての個体の理論と呼ぶことができる。現在、文学の創造がいぜんとして個体の仕事であるという意味で、たれもヴァレリーの名言を否定することができない。おなじように、現在この社会に階級の対立があり疎外があるかぎり、ペンをもって現実にいどもうという文学者の倒錯した心情もしりぞけるわけにはいかない。ただし、いずれのばあいも人が頭なかになにをえがこうとだれにもおしとどめることはできないという意味からであり、どんな普遍性としてではない。こういう個体の理論はどんな巨匠の体験をもってしても、どんな政治的な強制をもってしても、文学の理論として一般化することがゆるされないだけである。
わたしが文学について理論めいたことを語るとすれば巨匠のように語るか、あるいは普遍的に語る以外にないことをプロレタリア文学理論を検討する不毛な日々の果てが体験的におしえた。わたしはまだ若く巨匠のように語ることはできない。そうだとすれば後者のみちをえらぶよりほかにないのである。
文学の理論が、文学そのものの本質をふくまなければならないとすれば、現在まで個体の理論として提出されたすべての理論とちがったものとならざるをえない。ただこれを、ひとが理解するかどうかは、またべつもんだいである。
わたしは、文学は言語でつくった芸術であるという、それだけではたれも不服をとなえることができない地点から出発し、現在まで流布されてきた文学の理論を、体験や欲求の意味しかもたないものとして疑問符のなかにたたきこむことにした。難しいのは言語の美学について一体系をつくることではない。まして〈マルクス主義〉芸術論といわれているリカーチやルフェーヴルの芸術論やソヴィエト芸術認識論や日本のプロレタリア芸術論やその変種を批判するという容易なわざにつくことではない。一方で体験的な文学論にてをかけることもべつに何の意味もない。もんだいは文学が言語の芸術だという前提から、現在提出されているもんだいを提出し、ろんじられている課題を具体的に語り、さてどんなおつりがあがるかという点にある。わたしがなしたことを語る前に、なぜ、いかになそうとしたかというモチーフをのべておきたかった。

補足 当方より
序で述べられている他、『吉本隆明が語る戦後55年2 戦後文学と言語表現論』編集=吉本隆明研究会 三交社
に、本作品成立の経緯や意図がインタビューを受けて、平易に語られています。



無用者の系譜 ④ 永井荷風

2016-11-08 12:16:44 | 言の葉綴り
言の葉21 無用者の系譜④永井荷風

無用者の系譜 唐木順三著 筑摩書房
昭和35年2月20日発行



抜粋1
一 無用者の系譜
三 連歌師俳諧師及びデカダンの世界
ー なし得たり風情終に
菰をかぶらんとは ー
より

折口信夫氏に「無頼の徒の藝術」といふ一文がある。昭和十一年に雑誌「水甕」に載つたもので、全集第十七巻に収められてゐる。これは講演筆記で、(略)くりかへしていつてゐることは、鎌倉、室町の時代は武家の土地に對する執着は少なかつたのに、徳川の時代になると土地に對する執着が強くなり、土地を放さなくなったといふことである。小田原の早川氏が中國に移って小早川氏となつたり、伯耆の名和氏が懐良親王に從つて九州へ下り、さらに琉球まで移動したり、さらにさかのぼれば木曾義仲が信州を歩くと、多くの従ふものがでてきて行を共にし、都に入つても、そこに一時落着き、主君が没落すればともにそこで没落してしまふといふやうな例があげられてゐる。いはばそれらは移動村落であつた。
折口氏は武士いふ言葉は野伏、山伏の、野や山がとれたものであり、いはばもともと流離の民であつたことをその言葉が示してゐるといつてゐる。さういふ流民はいくつかあり、今日まで殘つたものが山窩だといつてゐる。ところが、江戸時代になると、それまで動いてゐたものが次第に土着し、殘つたものは所謂非御家人、浪人として浮浪をつづけた。浪人は歩き歩いて江戸に出て、いはゆる奴の生活、不良の生活を始めるようになる。それがここにいふ無頼の徒なのである。この奴風は不良であり、自由であり、モダンでもあるため、次第に世を風靡して、旗本奴がでてきたり、歌舞伎者がでてきたりする。歌舞伎といふ言葉はもともとは、かぶく、卽ち亂暴の振舞ひをすることを意味したといふ。そして元禄までの文學はこの無頼の徒の文學であり、近松にも芭蕉にもまた西鶴にも無頼の味がある。芭蕉の隠者ぶりも、無頼の味をもつて、世間を見たものであると折口氏は言つてゐる。
折口氏はまた世をしのんだ隠者は幇間のやうなことをやつてゐたといつてゐる。一方では彼等は新興貴族たちに、男女の間のもののあはれや、その教材になる和歌などを教へた。またそういふ弟子たちを新興特殊階級である遊女のもとにつれていつて、實地にあはれを味はしめた。遊女はまた遊女で、いきとかあはれとか、はりとかいふ様式をつくりあげたが、それらは無頼の幇間、いはゆる通によつて教へられたものであつた。とにかく江戸の藝能、文學は無頼の徒のそれであつたといふのが折口氏の意見である。
この折口説は伊藤整の『小説の方法』に示された逃亡奴隷説に系統をつたへてゐる。伊藤説は、自然主義作家、殊に私小説作家は文壇といふ特殊にたてこもり、健全な公民、市民から逸脱し、無頼放蕩の特殊人として、自己の情痴、不健全、のろけを、思ふままに書いたといふのである。いはば現世放棄者、市民社會から逃亡した無頼の徒の文學である。岩野泡鳴、徳田秋聲、近松秋江、葛西善藏もその代表であらうが、私の頭の中には永井荷風がある。江戸時代の文人墨客の最後の名殘として私は荷風散人を考へてゐる。行住坐臥のはしばしまで法度、禁令によつて縛りあげられ、食物衣類まで制令によつて規定される絶對制のもと、デスポティズムの支配下では、詩人は意識してデカダンの徒とならざるをえない。江戸期のいはゆる文人墨客の生き方である。明治が一應の市民社會となり、文明開化の世となつたとき、成島柳北等の舊幕臣もその『柳橋新誌』の示すやうに新時代に背を向けたが、始め文明批評家としてとにかく新時代に協力的であつた永井荷風も、大逆事件を契機として時代に背を向けた。文明開化、西欧化のもたらした俗物性、ブルジョワ的俗物根性にがまんならず、十九世紀のボードレール、ヴェルレーヌが生国のブルジョワジイにそむいたやうに、そむいた。江戸趣味、戯場と遊女の戯作者世界が偏奇館主人荷風の唯一のいきぬきの場所となつた。

抜粋2 二 文人氣質

一 文人としての永井荷風
ー附、成島柳北・大沼枕山ー

より

四月三十日(1959年 昭和34年、当方注)に永井荷風が市川の自宅で急に死んだ。近所に住んでゐる通ひの婆さんが、いつものやうに朝の八時頃行つてみると、古びた紺の背廣に、よれよれのこげ茶のズボンをはいたまま、血を吐いて死んでゐたといふのである。數へ年で八十一歳であった。死因は胃潰瘍から来た吐血であつたといふ。私は心がけによつては、自分らしい最期がとげられるものだな、と思つた。若い時から書きつづけてきた『断腸亭日乗』が、「四月二十九日。祭日、陰」で終つたことにも、感慨を催さずにはゐられなかつた。かつて敗戰後の、まだ諸事不自由な時代に、粗末な紙にすられた『罹災日録』を讀んだとき、荷風文學の亡びるときはあつても、『断腸亭日乗』は殘るだらう、といふ感慨をもらしたことがある。荷風散人の急死を同じ日の夕刊が報じた夜、私は配本になつたまま、机上につんでおいた『永井荷風日記』の第五巻をあらためて繙いてみた。昭和十二年の六月二十二日の日記は、「快晴、風凉し。朝七時樓(吉原の松木樓)を出て京町西河岸裏の路地をあちこち歩む。起稿の小説主人公の住宅を定め置かむとてなり」で始まつてゐる。散人はその途上、浄閑寺をみつけてそこへ入り、比翼塚をみいだしたり、遊女若紫の塚をみつけて、その碑背の文を丹念に寫しとつてゐる。そしてかういふことを書きつけてゐるのである。
「六月以来、毎夜吉原にとまり後朝のわかれも惜しまず、歸道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十餘年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど、心嬉しき事はなかりき。近郊さま變リたれど、寺の門と堂宇との震災に焼けざりしは、かさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域、娼妓の墓亂れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さは五尺を超ゆべからず。名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」この日記を書いたとき荷風は數へ五十九歳であつた。私はこの老文人の墓が浄閑寺内に建てられるのも惡くないと思つた。浄閑寺の方からも、そのやうな申出をしたといふも、その後の新聞に出たこともあつたが、結局は雑司ヶ谷の永井家の墓地に葬られることに決つたやうである。
(略)

さて、荷風によつて示されてゐる文人氣質をここでまとめてみよう。
その第一は離俗または叛俗の精神である。既に荷風のやつし趣味、變装趣味については書いた。みづからの宅に偏奇館の名をつけたこと、葷齋といふ齋號をもつたことなどからもそれが察しられよう。奥野信太郎は荷風の発想が「東洋文人的な市隱精神が、近代的文明批評への表現をとらうとする願望」に基いてゐることをいひ、「市隱は花卉を樂しみつつ、小窓から社會を眺め人生を眺めて、鋭くこれを批評してやまない」といつてゐる。高見順は、『麻布襍記」の序文の末尾に「荷風病客麻布窮巷の陋居にしるす」と書いてゐることから、「落魄趣味」といふ言葉を考え出してゐる。
荷風は身に近い俗を嫌った。青年期の兩親への反撥、妻をめとれば妻への反撥、妾をおけば妾への反撥があつた。『歓樂』では兩親を偽善者の中に數へ、『雨瀟瀟』では「十年前新妻の愚鈍に呆れてこれを去り、七年前には妾の悋気 深きに辟易して手を切つてからこの方、わたしは今に獨で暮している。」といつてゐる。荷風の孤獨、また人間嫌ひは、周圍に俗氣の近づくを嫌つたためといつてよい。明治に住んでは明治を嫌つて江戸趣味にのがれ、大正に住んでは大正を嫌つて、「われは明治の兒ならずや、去りし明治の世の兒ならずや」と詠つた。「葷齋漫筆」(大正十五年)では、「大正以降、我文運の衰頽と趣味の低落とに至つては、何人か能く之を挽囘することを得べき」と書いた。
荷風のフランスへの憧憬も、近い日本に對する絶望に由来してゐた。然しボードレールやヴェルレーヌの十九世紀のフランスと、江戸とはどういふ共通點をもつてゐたらうか。日本に對するフランス、明治に對する江戸といふ比較では共通しながら、神の問題、罪の問題に苦しんだ世紀末のフランスと、奇妙に明るく洒脱な江戸末期とでは大きな差違があらう。かういふ差違など、日本を嫌ひ、明治を嫌つた若い荷風にとつては、大した問題ではなく、嫌いなものからただ脱れでればよかつたといふことにならう。父の死を契機としてよみがへつた東洋文人趣味において、始めて荷風は流竄の眞の樂土をみいだすことになる。
荷風の陋巷趣味、落魄趣味が、花柳界や私娼や踊子の世界において始めて滿足しえたこともまた當然といはなければならない。彼女等は意識しないひかげの花であつた。文明開化に抗する毒草であつた。荷風の離俗、叛俗の精神は、ここへ逃亡することによつて、恰好なたまり場をえたといつてよい。

文人氣質の第二は、自分の行動または判斷基準を、自分の好惡によつてきめたことである。(略)

荷風における文人氣質の第三の要素は、博雅といふことである。(略)

当方より、参考まで。
この後に、著者は「荷風散人から逆に遡ってゆき、文人氣質の源にまで達してみたいと考えた。」として、「『詩とデカダンス』のなかで、殊に蕪村を扱つたところでこの問題にふれてゐる。云々」と述べています。