言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

共同幻想論 ①祭儀論…その1

2020-06-28 11:11:00 | 言の葉綴り

言の葉94 共同幻想論 

①祭儀論その1


吉本隆明全著作集11 思想論II             共同幻想論 著者吉本隆明 発行所勁草書房 昭和四七年九月三〇日第一印刷発行 より抜粋


当方より

既にブログ言の葉綴り4で、共同幻想、対幻想、自己幻想について概略取り上げているので参照下さい。






共同幻想論 祭儀論その1


原理的にいえば、ある個体の自己幻想は、その個体が生活している社会の共同幻想に対して〈逆立〉するはずである。しかし、この〈逆立〉の形式はけっしてあらわな眼に見える形であらわれてくるとはかぎっていない。むしろある個体にとっては、共同幻想は自己幻想に〈同調〉するもののようにみえる。またべつの個体にとっては、共同幻想は〈欠如〉として了解されたりする。また、べつの個体にとっては共同幻想は〈虚偽〉として感じられる。

ここで〈共同幻想〉というときどんなけれん味も含んでいない。だから〈共同幻想〉をひとびとが、現代的に社会主義的な〈国家〉と解しようと資本主義的な〈国家〉と解しようと、反体制的な組織の共同体と解しようと、小さなサークルの共同性と解しようとまったく自由であり、自己幻想にたいして共同幻想が〈逆立〉するという原理は変わらないし、この〈逆立〉がさまざまなかたちであらわれることもかわらないのである。ここですこしつきつめてみると、もともと〈逆立〉するはずの個体の自己幻想と共同社会の共同幻想の関係が〈同調〉するかのような仮象であらわれるとする。

すぐにわかるように、個体の自己幻想にとって、社会の共同幻想が〈同調〉として感ぜられるためには、共同幻想が自己幻想にさきだつ先験性であることが自己幻想の内部で信じられていなければならない。

いいかえれば、かれは、じぶんが共同幻想から直接うみだされたものだと信じていなければならない。しかしこれはあきらかに矛盾である。かれの〈生誕〉に直接あずかっているのは〈父〉と〈母〉である。そしてかれの自己幻想の形成に第一次的にあずかっているのは、すくなくとも成年にいたるまでは〈父〉と〈母〉との対幻想の共同性(家族)である。またかれの自己幻想なくして、かれにとっての共同幻想は存在しえない。だが極限のかたちでの恒常民と極限のかたちでの世襲君主を想定すれば、かれの自己幻想は共同幻想と〈同調〉しているという仮象をもつはずである。あらゆる民族的幻想行為である祭儀が、支配者の規範力の賦活行為を意味する祭儀となぞらえることができるのはそのためである。

ところで、現実社会に生活している個体は、大なり小なり自己幻想と共同幻想の矛盾として存在している。ある個体の自己幻想にとって共同幻想が〈欠如〉や〈虚偽〉として感ぜられるとすれば、その〈欠如〉や〈虚偽〉は〈逆立〉へむかう過程の構造をさしているはずだから、本質的には〈逆立〉の仮象以外のものではありえない。

こういう個体の自己幻想とその個体が現存している社会の共同幻想との〈逆立〉をもっとも原質的に、あらわししめすのは人間の〈生誕〉である。

ふつう〈生誕〉について語るとき、〈父〉と〈母〉から〈子〉が生まれるという云い方がある。また、一対の男女の〈性〉的な行為から人間は生まれるものだという云い方がある。エンゲルスのように骨の髄まで経済的範疇が好きであった人物からすれば、最初の分業は〈子〉を生むことにおける男女の分業であったという云い方もできる。

けれど人間の〈生誕〉の問題がけっして安直でないのは、人間の〈死〉の問題が安直でないのとおなじである。しかも〈死〉においては、ただ喪失の過程であらわれるにすぎなかった対幻想の問題が〈生誕〉においては、本質的な意味で登場してくる。ここでは〈共同幻想〉が社会の共同幻想と〈家族〉の対幻想というふたつの意味で問われなければならない。心的にみられた〈生誕〉というのは〈共同幻想〉からこちらがわへ、いいかえれば〈此岸〉へ投げだされた自己幻想を意味している。そしてこのばあい、自己の意志にかかわりなく〈此岸〉へ投げだされた自己幻想であるために〈生誕〉は一定の時期まで自覚的問題ではありえないのである。そして大なり小なり自覚的でありえない期間、個体は生理的にも心的ににも扶養なしには生存をつづけることができない。人間の自己幻想は、ある期間を過程的にとおって徐々に周囲の共同幻想をはねのけながら自覚的なものとして形成されるために、いったん形成にされたあかつきにはたんなる共同幻想からの疎外を意味するだけでなく、共同幻想と〈逆立〉するほかないのである。そして、自己幻想の共同幻想にたいする関係意識としての〈欠如〉や〈虚偽〉の過程的な構造は、自覚的な〈逆立〉にいたるまで個体が成長してゆく期間の心的構造にその原型をもとめることができる。

わたしの知見のおよぶかぎりでは、この問題にはじめて根源的な考察をくわえたのはヘーゲルであった。そしてヘーゲルの考察は根源的であったがために、〈前生誕〉ともいうべき時期の〈胎児〉と〈母〉との関係の考察においてもっとも鋭いかたちをしめした。


空間的なものおよび物質的なものの方から見れば、胎児としての子供は自分の特殊な皮膚等々のなかに実存していて、子供と母の連関はへそのお胎盤等々によって媒介されている。もし人々がこの空間的なものおよびこの物質的なもののもとに立ち止まっているならば、そのときはただ外面的な解剖学的生理学的現実存在が感性的反省的に考察されるだけである。本質的なもの、すなわち心的関係に対しては、あの感性的物質的な相互外在や被媒介態やはなんらの真理性をもっていない。母と子供の連関の場合に人々が念頭におくべきことは、ただ、母の激しい興奮や危害等々によって子供のなかに固定する諸規定が驚嘆すべきほど伝達されるということだけではなくて、ちょうど植物的なものにおける単子葉植物のように、媒体が全体的心理的判断(根源的分割)を行なって、女性的本性が自己のなかで二つに割れることができるということである。そしてまた子供はこの判断(根源的分割)において、病気の素質や、形姿感じ方性格才能個人的性癖等々におけるそれ以上の素質を、伝達されて獲得したのではなく、根源的に自己のなかへ受容したのである。


それに反して、母体のなかの子供は、われわれに対して、まだ子供のなかで現実的に独立的になっているのではなくてもっぱら母のなかで始めて独立的になっている心まだ自己自身を独立的な維持することができない心むしろもっぱら母の心によって維持されている心を明示している。その結果ここでは、夢見のなかに現存しているあの関係自己自身に対する心の単純な関係の代わりに、他の個体に対する同様に単純で直接的な関係が実存している。そして、まだ自分自身のなかに自己をもつに至っていない胎児の心はこの他人のなかに自分の自己を見いだすのである。(ヘーゲル『精神哲学』船山信一訳)


ひそかに推測してみると、人間の生存の根源的不安を課題にした『不安の概念』におけるキェルケゴールと、あらゆる不安神経症の根源を〈母胎〉から離れることへの〈不安〉に還元したフロイトとは、ともにヘーゲルのこのような考察からたくさんのものを負っているとおもえる。しかし、ヘーゲルのこの考察は、自己幻想の内部構造について立ち入ろうとするとき問題となるだけである。わたしたちが、ここでヘーゲルの考察から拾いあげるものをもつとすれば、〈生誕〉の時期における自己幻想の共同幻想にたいする関係の原質が胎生時における〈母〉と〈子〉の関係に還元されるため、すくなくとも〈生誕〉の瞬間における共同幻想は〈母〉なる存在に象徴されるということである。

人間の〈生誕〉にあずかる共同幻想が〈死〉にあずかる共同幻想と本質的にちがっているのは、前者が村落の共同幻想と〈家〉における男女の〈性〉を基盤にする対幻想の共同性との両極のあいだに移行する構造をもつということである。そして、おそらくは、これだけが人間の〈生誕〉と〈死〉を区別している本質的な心的差異であり、それ以外はすべて相対的なものに過ぎないことは、未開人における〈死〉と〈復活〉の概念がほとんど等質に見做されていることからもわかる。かれらにとっては〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は、繰返し行われる〈死〉と〈復活〉の交替であった。個体が生理的にはじめに〈生誕〉し、生理的におわりに〈死〉をむかえるということは、〈生誕〉以前の世界と〈死〉以後の世界にたいして心的にははっきりした境界がなかった。

『古事記』には、〈死〉と〈生誕〉がそれほどべつの概念として存在しなかったことを暗示する説話が語られている。


伊耶那岐(イザナギ)は死んだ伊耶那美(イザナミ)を追って死後の世界へ行き、「おれとおまえが作った国はまだ作り終わっていないから、還ってこないか」といった。伊耶那美は「もっとはやく来てくれればよかったのに、わたしは死の国の食物を食べてしまった。だが、せっかくあなたがきてくれたのだから、死の世界の神にかけあってみましょう。わたしを視ないでください」とこたえて家の中へ入ったがなかなか出てこなかったので、伊耶那岐が燭をつけて入ってみると、伊耶那美の頭や、胸や、腹や、陰部や手足には蛆がわいてごろごろ鳴っていた。伊耶那岐は恐怖にかられて逃げだすと、伊耶那美は「わたしに辱をかかせた」といって死の世界の醜女に追いかけさせた。


海の神の娘、豊玉姫が「しぶんは妊娠していて子を産むときになった。海で産むわけにいかないから」というので、海辺に鵜の羽で屋根を葺いて、産屋をつくった。急に腹がいたくなったので産屋に入るとて、日子穂穂出見に「他国の人間は、子を産むときは、本国の姿になって産むものだから、わたしも本の身になって産みます。わたしを見ないで下さい」といった。妙なことを云うとおもって日子が子を産むところを覗いてみると、八尋もある鰐の姿になって這いまわっていた。日子はおどろいて逃げだした。豊玉姫は恥ずかしくおもって子を産んだ後で、わたしの姿を覗かれてはずかしいから、本の国へかえると云って海坂をわふさいで還ってしまった。


この〈死後〉譚と〈生誕〉譚とはパターンがおなじで、一方は死体が腐って蛆がわいてゆく場面を、一方は分娩の場面をみられて、男は驚き、女は自己の変身をみられて辱かしがるというようになっている。死後の場面も生誕の場面もおなじように疎通しており、このふたつの場面で、男が女の変身にたいして〈恐怖〉感として疎外され、女が一方では〈他界〉の、一方では「本国の形」の共同幻想の表象に変身するというパターンで同一のものである。

男のほうが〈死〉の場面においても〈生誕〉の場面においても場面の総体からまったくはじきだされる存在となる度合は、女のほうが〈性〉を基盤とする本来的な対幻想の対象から、共同幻想の表象へと変容する度合に対応している。『古事記』のこのような説話の段階では、〈死〉も〈生誕〉も、女性が共同幻想の表象に転化することだという位相でとらえられている。いいかえれは人間の〈死〉と〈生誕〉は〈生む〉という行為がじゃまされるかじゃまされないかというように、共同幻想の表象として同一視されていることを意味している。

では、人間の〈死〉と〈生誕〉が〈生む〉という行為がじゃまされるか、されないかという意味で同一視されるような共同幻想は、どのような地上的な共同利害と対応するのだろうか?

これがもっともよく象徴する説話が『古事記』のなかにある。


須佐男(スサノオ)は食物を穀神である大気都姫(オオゲツ)にもとめた。そこで大気都姫は、鼻や口や尻から種々の味物をとりだして料理してあげると、須佐男はその様子を覗いてみて穢いことして食わせるとおもって大気都姫を殺害してしまった。殺された大気都姫の頭に蚕ができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳に栗ができ、鼻に小豆が、陰部に麦が、尻に大豆ができた。神産巣日(カムムスビ)がこれをとって種とした。


この説話では、共同幻想の表象である女性が〈死〉ぬことが、農耕社会の共同利害の表象である穀物の生成と結び付けられている。共同幻想の表象に転化した女〈性〉が、〈死〉ぬという行為によって変身して穀物になることが暗示されている。女性に表象される共同幻想の〈死〉と〈復活〉とが穀物の生成に関係づけられる。


ここまでかんがえてくると、人間の〈死〉と〈生誕〉を、〈生む〉という行為がじゃまされるかじやまされないかのちがいとして同一視されている共同幻想が、初期の農耕社会に固有なものであることを推定することができる。かれらの共同幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生むという結果をもたらすことが重要なのではない。

女〈性〉だけが〈子〉を分娩するということが重要なのだ。だからこそ女〈性〉はかれらの共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉という行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。そしてこの同一視は極限までおしつめられる可能性をはらんでいる。女〈性〉が殺害されることによって穀物の生成が促されるという『古事記』のこの説話のように。

蚕の生成については『遠野物語』は、いわゆるオシラサマの起源譚として、馬と女の婚姻説話のかたちで記載しているが、穀物の生成についてはわたしたちは北方民譚である『遠野物語』を捨てなければならない。『古事記』は穀物についての説話をいくつも書きとめているが、このことは、『古事記』の編者たちの権力が、はじめて穀物栽培の技術を身につけて古代村落をせきけんした勢力を始祖たちとかんかえたか、かれらの勢力が穀物栽培の発達した村落の社会に発祥したか、あるいはかれらの始祖たちの政治的制覇が、時代的に狩猟漁獲を主とする社会から農耕を主とする社会への転化の時期にあたっていたかのいずれかを物語っているようにおもわれる。

この『古事記』の説話的な本質は、石田英一郎の論文「古代メキシコの母子神」が記載している古代メキシコのトウモロコシ儀礼とよくにている。古代メキシコの「箒の祭」ではから選ばれた一人の女性を穀母トシ=テテオイナンの盛装をつけさせて殺害する。そして身体の皮を剥いで穀母の息子であるトウモロコシの神に扮した若者の頭から額にかけて、彼女のももの皮をかぶせる。若者は太陽神の神像の前で〈性〉行為を象徴的に演じて懐胎し、また新たに生れ出るとされている。

『古事記』の説話のなかで殺害される「大気都姫」も、「箒の祭」の行事で殺害される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の表象である。これらの女性は共同幻想として対幻想に固有な〈性〉的な象徴を演ずる矛盾をおかさなければならない。これは、いわば絶対的な矛盾であり、したがって自ら殺害されることによってしか演じられない役割である。自ら殺害されることによって共同幻想の地上的な表象である穀物として再生するのである。


(以下は祭儀論その2にて)







 




ハラリ著作品 ⑩雇用…その2

2020-06-07 11:44:00 | 言の葉綴り

言の葉93ハラリ著作品

⑩雇用その2






ユヴァル・ノア・ハラリ著作

柴田裕之訳 発行所 (株)河出書房新社 20191130日初版発行

21 Lessons

21世紀の人類のための21の思考

テクノロジー面の難題 雇用ー あなたが大人になったときには、仕事がないかもしれないか より


搾取から存在意義の喪失へ


解決策の候補は、三つの主要なカテゴリーに分類できる。仕事がなくなるのを防ぐために何をするべきか?

十分な数の仕事を創出するには何をするべきか? 最善の努力をしたにもかかわらず、なくなる仕事の方が創出される仕事よりもずっと多くなったら、何をするべきか?

仕事がなくなるのを防ぐというのは、魅力的な戦略ではないし、おそらく達成不可能だろう。なぜならそれは、A Iとロボット工学が持つ莫大な好ましい可能性を捨てることを意味するからだ。

(中略)

変化のペースを遅らせれば、失われた仕事の大半に取って代わる新しい仕事を創出する時間が得られるわかもしれない。それでも、すでに指摘したように、経済的な起業家精神には教育と心理における革命が伴っていなければならない。新しい仕事が、政府でのただの閑職でないと仮定すれば、おそらくそうした仕事には高いレベルの専門技術や知識が求められ、A Iが進歩し続けるなか、人間の被雇用者は繰り返し新しい技能を習得し、職業を替える必要があるだろう。政府が介入して、生涯教育部門に助成金を支給するとともに、次の仕事までの避けようのない移行期を乗り切るためのセーフィネットを提供せざるをえなくなる。もし四歳の元ドローン操縦士がバーチャル世界のデザイナーに自分を仕立て直すのに三年かかるとしたら、その間、自分と家族を支えるには政府の援助がたっぷりと必要だろう(この種の計画が現在、他に先駆けてスカンディナビアで進められており、そこでは政府が「仕事ではなく労働者を守れ」をモットーにしている。


もっとも、たとえ政府から十分な支援が提供されたとしてさえ、何十億もの人が心の安定を失わずに繰り返し自分を仕立て直すことが可能かどうかは、およそ明白ではない。したがって、私たちがどれほど努力したとしても、人類のかなりの割合が雇用市場から排除されるのなら、ポスト・ワーク社会やポスト・ワーク経済やポスト・ワーク政治のための新しいモデルを探求せざるをえないだろう。最初のステップは、私たちが過去から受け継いだ社会モデルやモデルや政治モデルは、そのような課題に取り組むのには不適切だと、正直に認めることだ。


共産主義を例にとろう。自動化によって資本主義体制が根底から揺るがされようとしているので、共産主義が復活できるかもしれないと思う人もいるだろう。だが、共産主義は、この種の危機に乗じるように構築されたわけではない。ニ〇世紀の共産主義は、労働者階級は経済にとって不可欠であるという前提に立ち、共産主義の思想家は、無産階級(プロレタリアート)に彼らの巨大な経済力を政治的影響力に変える方法を教えようとした。共産主義の政治プランは、労働者階級の革命を必要とした。だが、これらの教えは、一般大衆が経済的価値を失い、したがって、搾取ではなく存在意義の喪失と戦う必要があるなら、どれほど当を得てることになるのか? 労働者階級なしで、どうやって労働者階級革命を始めるというのか?

人間はけっして経済的な存在意義を喪失しえない。なぜならたとえ人間は職場でA Iに太刀打ちできなくても、消費者としてつねにひつとされるだろうから、と主張する向きもあるかもしれない。とはいえ、将来の経済が、私たちを消費者として必要とするかどうかは、およそ定かでない。機械とコンピューターがあれば事足りる可能性がある。理論上は、こんな経済もありうるだろう。鉱山企業が鉄を製造してロボット工学企業に売り、ロボット工学企業がロボットを製造して鉱山企業に売り、鉱山企業はさらに多くの鉄を採掘し、それを使ってさらにロボットが製造され……という具合だ。こうした企業は銀河の果てまで成長・拡大しうる。しかも、ロボットとコンピューターさえあればいい。人間に製品を買ってもらう必要さえないのだ。


(中略)


では、もし人間が生産者としても消費者としても必要とされなくなったなら、何が人間を守って、身体的に生き延びたり、心理的な健康を保ったりできるようにしてくれるのか?

私たちは、本格的な危機が起こる前に、その答えを探して始めなければならない。ぐずぐずしていると、手遅れになる。前例のないニ一世紀の技術的破壊や経済的混乱に対処するためには、新しい社会モデルと経済モデルをなるべく早急に開発する必要がある、そうしたモデルは、仕事ではなく人間を守るという原理に導かれたものであるべきだ。退屈で骨が折れ、存続させる価値のない仕事は多い。レジ係になることを一生の夢にしている人などいない。私たちは人々の基本的な必要を満たし、社会的地位と自尊心を守ることに重点的な取り組むべきだ。


しだいに注目を集めている新しいモデルがある。普遍的な「最低所得保障」と呼ばれる発想で、アルゴリズムとロボットと制御している億万長者と企業に政府が課税し、その税収を使って、すべての人に気前よく一定額を定期的に支給し、基本的な必要を満たしてもらうという発想だ。これによって、貧しい人は失業や経済的混乱から守られ、裕福な人はポピュリズムの激しい怒りから守られる。それと関連した考え方に、「仕事」と見なされる人間の活動の幅を拡げるというものがある。現在、何十億もの親が子供を養育し、近所の人々が世話をし合い、市民がコミュニティを組織しているが、こうした有益な活動のどれ一つとしてしごとは認識されていない。私たちは発想を変え、子供の養育はこの世でおそらく最も重要で大変な仕事であることに気づく必要があるのかもしれない。もし仕事の幅が拡がれば、コンピューターやロボットが運転者や銀行家や弁護士にすべて取って代わったとしてさえ、仕事が不足することはなくなる。もちろん問題は、新たに認められた仕事を誰が評価し、お金をはらうか、だ。生後六か月の赤ん坊が母親に給料を払うはずはないから、たぶん政府が肩代わりせざるをえないだろう。そして私たちは、その給料で家族全員の基本的必要が満たされることを望むだろうから、けっきょくそれは最低所得保障と大差なくなる。

あるいは、政府が普遍的な最低所得保障ではなく最低サービス保障の助成金を支払うことも可能だろう。人々にお金を与え、好きなものを買えるようにする代わりに、政府は無料の教育や医療や交通などを提供してもいい。これはじつは共産主義のユートピアのビジョンた。労働者階級の革命を始めるという共産主義の計画はおそらく時代遅れになったとはいえ、私たちは他の手段によって、共産主義の目標の実現を依然として狙うべきかもしれない。

人々に普遍的な最低所得保障(資本主義の楽園)と最低サービス保障(共産主義の楽園)のどちらを提供したほうがいいかについては、議論の余地がある。どちらの選択肢にも長所と短所がある。だが、どちらの楽園を選ぼうと、真の問題は、「普遍的」と「最低」という言葉が本当は何を意味しているかを定義することだ。


普遍的とは?

(全略)


最低とは?


普遍的な最低支援とは、人間の基本的な必要を満たすことを意味するが、その定義は確立されていない。純粋に生物学的な視点に立てば、サピエンスは生き延びるためには毎日一五○○〜ニ五○○キロカロリー摂取するだけでいい。それ以上はみな贅沢だ。ところが歴史上のどの文化も、この生物学的貧困線以外に、さらなる必要を基本的なものと定義してきた。中世のヨーロッパでは、教会での礼拝へのアクセスは食べ物以上に重視された。礼拝は、儚い身体ではなく永遠の魂の世話をしてくれたからだ。今日のヨーロッパでは、人並みの教育と医療サービスが人間の基本的な必要と考えられており、今や大人にとっても子供にとってもインターネットへのアクセスさえ不可欠であると主張する人もいる。もし、ニ〇五年に世界連合政府が、グーグルやアマゾン、百度(バイドウ)、騰訊(テンセント)に課税して、(デトロイトだけでなくダッカでも)地球上のすべての人に最低支援を提供することに合意したら、「最低」はどの定義するだろう?

たとえば、最低教育には何が含まれるのか?読み書きだけか、それとも、コンピュータープログラムの書き方やバイオリンの弾き方も含めるのか? 小学校の六年間だけか、博士課程まで全部か?そして医療は?医学の進歩でニ〇五年までに、加齢の過程を遅らせ、人間の寿命を大幅に延ばすことが可能になったら、新しい医療や処置は、地球上の一○○億人全員が受けられるのか、それともほんの一握りの億万長者だけが利用できるのか? もし、バイオテクノロジーのおかげで親が子供をアップグレードできるようになったら、それも人間の基本的な必要と見なされるのか、それとも、人類が異なる生物学的社会階級に分かれ、裕福な超人が貧しいホモ・サピエンスをはるかに凌ぐ能力を享受するところを私たちは目にすることになるのか?


「人間の基本的な必要」をどのように定義することを選ぼうと、それをいったんすべての人に無料で提供すれば、それは与えられるのが当然のものとなり、その後、基本的でない贅沢——それが高級な自動車であれ、バーチャルリアリティの商業施設へのアクセスであれ、生物工学で能力を強化した体であれ——をめぐって熾烈な社会競争と政治闘争が起こるだろう。とはいえ、もし 失業した一般大衆には自由に使える経済的資産がなければ、彼らがそのような贅沢を手にすることはけっして望めないように思える。その結果、裕福な人(騰訊の経営陣やグーグルの株主)と貧しい人(最低所得保障に依存している人)どの格差が拡がるばかりでなく、埋めることは不可能になりかねない。

したがって、たとえニ〇五年には何らかの普遍的な支援制度によって貧しい人に今日よりはるかに優れた医療と教育を提供したとしても、彼らは依然として、グローバルな不公平や社会的流動性の欠如に対して極端な怒りを覚えるかもしれない。世の中は自分たちに不利にできている。政府は大金持ちのことしか考えない。将来は自分や子供にとってなお悪くなる、と人々は感じるだろう。


ホモ・サピエンスは満足できるようには断じてできていない。人間の幸せは客間的な境遇よりも期待にかかっている。ところが、期待は境遇に適応しがちで、境遇には他の人々の境遇も含まれる。物事が良くなるにつれて期待も膨らみ、その結果、境遇が劇的に改善しても、私たちは前と同じくらい不満足のままでありうる。もし最低所得保障がニ〇五年の平均的な人の客観的境遇の改善を目指していたら、成功する可能性はかなり高い。だが、もし人々を自分の境遇に主観的にもっと満足させ、社会的不満を防ぐことを目指していたら、おそらく失敗する。


最低所得保障が本当に目標を達成するためには、スポーツから宗教まで、何かしらの有意義な営みで補わなければならないだろう。ポストワーク世界で満足した人生を送る実験が、これまで最も大きな成功を収めているのはイスラエルかもしれない。この国では、ユダヤ教超正統派の男性の半分が一生働かない。彼らは聖典を読み、宗教的儀式を執り行うことに人生を捧げる。彼らと家族が飢えずに済むのは、一つには妻たちが働いているからで、一つには政府がかなりの補助金や無料のサービスを提供し、基本的な生活必需品に困らないようにするからだ。つまり、最低所得保障という言葉が登場する前から、それが実践されていたわけだ。

これらのユダヤ教超正統派の男性は貧しく、職に就いていないものの、どの調査でもイスラエル社会の他のどんな区分の人よりも高い水準の生活満足度を報告する。これは彼らが属するコミュニティの絆の強さのおかげであるとともに、聖典を学び、儀式を執り行うことに彼らが深い意味を見出しているおかげでもある。タルムード(訳注 ユダヤの口承律法とその注釈の集大成)について論じるユダヤ人男性でいっぱいの小部屋は、仕事熱心な工員がひしめく繊維業の巨大な労働搾取工場よりも多くの喜びを生み出し、積極的な関与を促し、見識を育むことだろう。生活満足度のグローバルな調査では、イスラエルはたいてい上位に入る。それは一つには、こうした職に就いていない貧しい人々の満足度が高いおかげだ。

非宗教的なイスラエル人はしばしば苦々しげに不平を言う。ユダヤ教超正統派は社会に十分貢献しておらず、他の人々が汗水たらして働いているのに、その脛をかじっている、と。非宗教的なイスラエル人はまた、ユダヤ教超正統派の暮らしは維持していかれない、とくに、彼らの家族には平均で七人子供がいるから、とも主張する。遅かれ早かれ、国は職に就いていない人をそこまで大勢支えられなくなり、ユダヤ教超正統派も働きに出なくてはならなくなるだろう。とはいえ、それとは正反対のことが起こるかもしれない。ロボットとA Iが人間を雇用市場から押しのけていくにつれ、ユダヤ教超正統派は過去の化石ではなく将来のモデルと見なされるようになる可能性があるのだ。誰もがユダヤ教超正統派になって、イェシバ(訳注 タルムードを学ぶためのユダヤ教の教育機関)に行くというわけではない。だが、すべての人の人生で、意味とコミュニティの探求が、仕事の探求の影を薄くさせるかもしれないということだ。


普遍的な経済的セーフティネットを強力なコミュニティや有意義な営みと首尾良く結びつけられれば、アルゴリズムに仕事を奪われることは、じつは恩恵となるかもしれない。とはいえ、自分の人生を思いどおりにできなくなることのほうが、はるかに恐ろしい筋書きだ。私たちは大量失業の危険に直面しているとはいえ、それ以上に憂慮するべきことがある。すなわち、人間からアルゴリズムへの権限の移行であり、それは、自由主義の物語に対してまだ残っている信頼を根こそぎにし、デジタル独裁制の台頭への道を拓きかねない。


(当方より)

最後に目次を掲載します。

一連の作品の中で、「無用者階級」の出現が提示され、それが強く興味を惹きました。以前、唐木順三さんの「無用者の系譜」をこのブログで取り上げましたが、「無用の用」の者でした。つまり、有用者でした。

今回は、経済的にA Iとロボットによる大量雇用喪者発生の可能性です。

どう対処するか?です。







ハラリ著作品 ⑩ 雇用…その1

2020-06-02 11:18:00 | 言の葉綴り

言の葉92ハラリ著作品

⑩雇用その1






ユヴァル・ノア・ハラリ著作

柴田裕之訳 発行所 (株)河出書房新社 20191130日初版発行

21 Lessons

21世紀の人類のための21の思考

テクノロジー面の難題 雇用ー あなたが大人になったときには、仕事がないかもしれないか より


(前段略)


……人間には、二種類の能力がある。身体的な能力と認知的な能力だ。過去には機械は主にあくまで身体的な能力の面で人間と競い合い、人間は認知的な能力の面では圧倒的な優位を維持してきた。だから、農業と工業で肉体労働が自動化されるなかで、人間だけが持っている種類の認知能力、すなわち学習や分析、意志の疎通、そして何より人間の情動の理解を必要とする新しいサービス業の仕事が出現した。ところが今や人工知能(A I)が、人間の情動の理解を含め、こうした技能のしだいに多くで人間を凌ぎ始めている。人間がいつまでもしっかりと優位を保ち続けられるような、(身体的な分野と認知的な分野以外の)第三の分野を、私たちは知らない。


A I革命とは、コンピューターが速く賢くなるだけの現象ではない。それに気づくことがきわめて重要だ。この革命は、生命科学と社会科学における飛躍的発展によっても勢いづけられる。人間の情動や欲望や選択を支える生化学的なメカニズムの理解が深まるほど、コンピューターは人間の行動を分析したり、人間の意思決定を予測したり、人間の運転手や銀行家や弁護士に取って代ったりするのがうまくなる。

過去数十年の間に、神経科学や行動経済学のような領域での研究のおかげで、科学者は人間のハッキングがはかどり、とくに、人間がどのように意思決定を行なうかが、はるかによく理解できるようになった。食物から配偶者まで、私たちの選択はすべて、謎めいた自由意志ではなく、一瞬のうちに確率が計算する何十億ものニューロンによってなされることが判明した。自慢の「人間の直感」も、実際には「パターン認識」にすぎなかったのだ。優れた運転者や銀行家や弁護士は、交通や投資や交渉についての魔法のような直感を持っているわけではなく、繰り返し現れるパターンを認識して、不注意な歩行者や支払い能力のない借り手や不正直な悪人を見抜いて避けているだけだ。また、人間の脳のアルゴリズムは、完全には程遠いことも判明した。脳のアルゴリズムは、都会のジャングルではなくアフリカのサバンナに適応した経験則や手っ取り早い方法、時代遅れの回路に頼っている。優れた運転者や銀行家や弁護士でさえ、ときどき愚かな間違いを犯すのも無理はない。


これは、「直感」を必要とされている課題においてさえA Iが人間を凌ぎうることを意味している。


(中略)


……雇用の喪失の恐れは、情報テクノロジー( I T)の興隆からのみ生じるわけではない。I Tとバイオテクノロジーの融合から生じるのだ。機能的磁気共鳴画像法(fM R I)スキャナーから雇用市場までの道は長く曲がりくねっているが、それでも数十年のうちにはたどり終えられるだろう。今日、脳科学者が扁桃体と小脳について突き止めている事柄が、ニ〇五〇年にはコンピューターが人間の精神科医やボディーガードを凌ぐことを可能にするかもしれない。


このようにA Iは、人間をハッキングして、これまで人間ならではの技能だったもので人間を凌ぐ態勢にある。だが、それだけではない。A Iは、人間とは無縁の能力も享受しており、そのおかげで、A Iと人間の違いは、たんに程度の問題ではなく、種類の問題になった。A Iが持っている、人間とは無縁の能力のうち、とくに重要なものが二つある。接続性と更新可能性だ。

人間は一人ひとり独立した存在なので、互いに接続したり、全員を確実に最新状態に更新したりするのが難しい。それに対してコンピューターは、それぞれが独立した存在ではないので、簡単に統合して単一の柔軟なネットワークにすることができる。だから、私たちが直面しているのは、何百万もの独立した人間に、何百万もの独立したロボットやコンピューターが取って代わるという事態ではない。個々の人間が、統合ネットワークに取って変わられる可能性が高いのだ。したがって、自動化について考えるときに、単一の人間の運転者の能力と単一の自動運転車の能力を比べたり、単一の人間の医師の能力と単一のA I医師の能力とを比べたりするのは間違っている。人間の個人の集団の能力と、統合ネットワークの能力とを比べるべきなのだ。

たとえば、多くの運転者は、次々に変わる交通規則をすべて熟知しているわけでなく、しばしば違反する。

そのうえ、それぞれの乗り物は独立した存在なので、二台の乗り物が一つの交差点に同時に近づくとき、運転者は自らの意図を伝えそこねて、衝突することもありうる。一方、自動運転車はすべて接続しておくことが可能だ。接続した自動運転車が二台、一つの交差点に近づくと、両者は実際には二台の別個の存在ではなく、単一のアルゴリズムの一部だ。したがって、両者が自らの意思を伝えそこねて衝突する可能性は、はるかに低い。そして、交通を管轄する官庁が交通規則を変更することにしたら、自動運転車はすべて完全には同時に、たやすくアップデートでき、プログラムにハグがないかぎり、どの車も新しい規則を厳密に守る。


同様に、もし世界保健機関(W HO)が新しい疾病を認定したり、研究所が新薬を開発したりしたら、こうした進展を世界中の人間の医師全員に知らせることは不可能に近い。それに対して、たとえ世界中に一〇億のA I医師が存在し、それぞれが一人の人間の健康状態をモニターしていたとしても、そのすべてを瞬く間にアップデートでき、それらのA I医師はみな、新しい疫病や薬についての自分のフィードバックを伝え合える。このような接続性と変更可能性の潜在的な恩恵はあまりに大きいので、少なくとも一部の職種では、すべての人間をコンピューターに取って変わらせることが理にかなっているかもしれない——たとえ個別には、機械より腕の良い人間がいくらかいたとしても。


(以下略)


モーツァルトと機械

(全略)

新しい仕事?

(全略)