言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

新・書物の解体学 吉本隆明著 『三島由紀夫評論全集』その1

2022-10-23 09:58:00 | 言の葉綴り


言の葉綴り138新・書物の解体学

吉本隆明著

『三島由紀夫評論全集』その1







新・書物の解体学 著者 吉本隆明

199291日発行 株式会社メタローグより


『三島由紀夫評論全集』その1


作家のかく評論は、批評家のやる講演や対談と同じで、作品の手まえの結晶の種子みたいなものとおもえば、大過ない。そうでなければ作品の余滴として折りにふれて書かれた感想や随想のたぐいとみなせばよい。そのつもりで三島由紀夫の評論全集を読んだ、あらためて全体をとおしてみて、いままでとすこしちがう印象をうけた。この作家はすくなくとも晩年、肉体と行動とがたいへんな重みで自分の内部に蘇ってからは、評論を行動思想の骨組みをつくりあげる営みとみなしたのではないか。これはつよい印象でせまってくる。これはすこし意外だった。かれはしきりに行動的な思想家としてのじぶんを認めて、よく分析してみてほしいと、いろんなところで訴えているようにおもえた。いちばんはじめにここから入ってゆきたい。まず『太陽と鉄』をかれの行動思想の中核におき、行動の理念を『文化防衛論』にふりあて、行動の論理と心理の解明を『行動学入門』にみることになる。ついでにもうすこし先までいえば、『不道徳教育講座』は、ほんとはじぶんの乳幼児資質の無意識をうまく隠すように書かれたかれのいちばん朗らかな他人向けの顔のようにおもえる。そしてそのほかは剰余価値で、文学活動にまつわる作業や作品をめぐる随想とみなせる。

『太陽と鉄』が、行動思想家三島由紀夫の核心なのだが、ここでとられた文体のの形式について「告白と批評の中間形態」を見つけだしたと言っている。たしかにかれの思想の成立根拠と経路の必然が語られているのだが、読者のほうからは、あまりよく告白されているとはおもえない。そこでかれが評論で展開したかっ思想の骨組みを、すこし補ってみながら、いったい行動思想家三島由紀夫はどんな資質のうえに、じぶんの思想を構築したかったのか触れてみたいとおもう。

かれ自身はじぶんの資質を特異なものとみなした。じっさいに特異がどうかよりも、そうみなしたことのほうがはるかに重要だとおもえる。かれの言い方では生涯のごく初期に肉体を意識するよりさきに言葉を意識してしまい、身体的な行動よりさきに、言葉を表現することを覚えこんでしまった。だがこの自己解剖には意味がない。ひとは誰でも一歳未満で言葉を覚えるのだし、それまでは立居振舞いはできない、だから身体を動かして遊ぶよりも、じっとして何か言葉を書いているほうが好きだったというほどの意味にうけとれる。ただ幼児からの資質の延長線にじぶんの文学的な作業があり、それ以外の通路がなかったことが言いたいにちがいない。そこで言葉を紡ぐ作業は創る解放感よりも、かれには言葉で現実を腐食することで、その腐食した字形で築かれた世界のようにおもわれてくる。つまり生きた現実を蝕んでゆく作業というイメージで作品形成の毒性が語られている。これは注目にあたいする。そしてこの営為に深入りすればするほど、現実の腐食部分ははすすみ、このままではじぶんの肉体をじぶんで所有している感じすらなくなり、生きた現実と接触しているという実感を喪ってゆく一方におもえてくる。かれは何とかして言葉の営み(文学)とはまったくちがった次元で、生きた現実に出あおうと焦慮するようになる。そこではじめて「太陽」と「鉄」と、肉体でつきあう世界を欲望しはじめる。朝日新聞の企画で初めて世界一周旅行に旅立ち、ハワイへ向かう船上で日光浴をはじめたとき、暗い洞穴のなかからでて太陽を見つけだしたと回想している。かれのじぶんを改造しようとする意思はここからはじまる。いままではひそんでいたじぶんの肉体、行動、それから現実を奪回しようとする意欲が、思想の重要なモチーフとして登場してくる。

これは独自な行動主義の思想家としての三島由紀夫の誕生を意味した。だがこの誕生は、読者であるわたしたちには、鋭利な分析的文体で心理のかたい構築物をつくりあげる作家三島由紀夫の、突然で異様な死とみえたのだ。すくなくともわたしには、なぜ晩年のかれが意思的に身体を鍛え(つまり「鉄」の亜鈴や器具をつかい、太陽を浴び、太陽と握手し)、「楯の会」をつくって私兵をを養い、軍事訓練に精をだし、『英霊の声』を書いて人間天皇を呪詛して現人神天皇の復権を主張しはじめたのか、ほとんど理解を絶していた。かれのなかではこのとき、じぶんの肉体よりも言葉の世界のほうがリアルに実感をされてしまう乳幼児からの資質を、転倒しようというたたかいが始められていたことになる。

まず土台に、資質からひとりでに開花した言葉の世界としての文学があり、そのうえに、肉体、行動、現実を文学とまったく別の次元に奪回しようとする理念と行動のせかいが築かれる。そういう階層をもった内面の図式をつくりあげることが、『太陽と鉄』を中核にとするかれの評論の営みとなったとおもえる。

三島由紀夫に悲劇と特異さがあるとすれば、ふつうどんな人間でもやすやすとひとりでに会得し、無意識にできているありふれた肉体感覚や行為の感覚、それがもたらす単純な快感や解放感に出会うのに、すでに言葉の世界に充分おかされたあとで、きわめて意志的に人為的に出会わなくてはならないところにあった。かれの評論をよむと、誇張いがいにそんなことはありえないとおもえるほどだ。だが、たしかに神輿を担いだ町内の若者たちが夢中で、いい気分で空に顔を仰向けて、わっしょいわっしょいやっているのを理解するのに、たくさんの思考をついやさなくてはならなかった。生涯のうち三回も四回も、この情景を重要な場面のひとこまとして描いているのをみると、こういった資質の悲劇を、ほんとだと信ぜざるをえない。

ここであらためて、発生期の状態(ナッセントステート)の三島由紀夫の悲劇の萌芽を、かれの評論の告白と自伝的作品(『仮面の告白』)からぬきだしてみる。


0歳 誕生のときの光景を覚えていると言い張る(うぶ湯をつかったダライのふちにあった日光の記憶)。

○    生まれて49日目に母からもぎとるように祖母の溺愛の手に移される。

1歳 階段の三段目から落ちた。

4歳 病弱のため遊び相手は、祖母のえらんだ女の子三人にかぎられた。

祖母は祭りの神輿担ぎの男衆を庭に呼びこんだ。

5歳 赤いコーヒー様のものを吐いた。

○   二時間心臓停止。

○  自家中毒が宿痾になる。

○  オワイヤさんになりたい。花電車の運転手になりたい。地下鉄の切符切りになりたい。兵士の汗の匂いへの執着。

○   男装の女への憎悪。

○   松旭斎天勝(女奇術師)になりたくて、母の着物を着て真似をした。

○   読み書きができた。

7歳 ○  禁じられていたブリが食べた。男の子の自覚。

○   戦争ごっこで死んだふりをすると快感。 

13•14歳 ○  口絵の血みどろの決闘の場面。腹を切る若者。弾丸にあたった兵士の胸の血。筋肉質の力士の身体への執着。

「聖セバスチャン」の絵をみてマスターベーション。

○  頭に油をつけた運転手や貧血症の娘にひかれる。

○   祖母とわかれて住むことになり、一週間に一度顔見せないと祖母は発作をおこした。

○  年上の同級生に同性愛。射精。ぶ厚い胸への憧れを感じる。


これは「事実」としてみるよりも「真実」としてみられるべきで、文学作品のフィクションを装わなければ、どんな作家でもこんな無意識がからみあったことは露わにすることはないものだ。わたしにいわせれば、生まれて四十九日目に母親からもぎ離されて、祖母の溺愛のと偏執的な独占の手にゆだねられ、別に住んでからも一週間顔をださないと祖母は発作をおこしたという「事実」とおもえる記述さえあれば、もうこの嬰児の無意識は、おまえは生きるなとたえず吹きこまれながら生きてゆくな等しかったもののようにおもえる。自家中毒の宿痾は、その結果の反応にしかすぎまい。近親がこの早熟児に天才をみたときには、もう充分に幼児の無意識は瀕死に陥っていたことを意味している。かれ自身も言葉にたいする早熟な才能という意味をこめて、じぶんの肉体に気づいたときには「言葉を用意してこれを迎える」という、ふつうの子供と逆の過程だったと告白している。だが、ほんとは、気がついたときには無意識としての自分の肉体はすでに死んでいて存在せず、意志的に肉体をつくり、現実をつくり、行動をつくるほかに、生き延びる術がなかったと記されるべきだとおもえる。

三島由紀夫のなかのこの微妙な認識の誤差は拡大していく一方だった。言葉の世界は早熟の才能という自負を原動機にして、次第に意志的につくりあげた肉体、現実、行動を、理想のようにみなしてそれを追いはじめる。そしてその果てにはじぶんの肉体のすみずみ、筋肉のひとつひとつの動き、臓器の自動的なはたらきをすべて、精神の作用でおおい、観念の金属でできた鎧に化してしまおうとする極限の渇望にむかって歩みはじめる。思考することが一般に夜の営みであり、思考の進む方向が精神の深みにゆくことだとすれば、肉体、現実、行動にむかう思考は、太陽に、皮膚の表面に、筋肉の隆起へと浮かびあがり、それを理想的なかたちに造形することでなくてはならない。これはよく太陽に灼け、艶のある皮膚をもち、隆起する筋肉をたたえた肉身を訓練でつくりあげることと同義になる。そこでかれの「太陽」と「鉄」(亜鈴やアスレチックの鉄製器具)に親しむ過程がまるで知識や教養を蓄えてゆくのとおなじようにはじめられる。「楯の会」をつくり、そのメンバーと一緒に自衛隊に体験入隊し、軍事訓練や飛行降下訓練をやることと、その裏づけとして書かれた『行動学入門』とが照応するような場所が、かれの思想の棲み家になる。『行動学入門』は、行動の心理と論理をつづった本で、行動の思想をのべた書ではない。かれがこの本を解析していることは、いくつかある。ひとつは目的をもった行動はおわりには肉体の行動に帰着することだ。そして目的をとげるために集団的な行動が起されるとき、それを統御するには、全体を把握する頭脳と眼を行使しなくてはならず、いきおい肉体の行動は最小限になってしまう矛盾にさらされる。また行動者の権力はかならず行動せずに頭脳と眼を行使するものに集まっていることになる。もうひとついえば、肉体的な行動には、想像力があらかじめつくりあげる行動のイメージに沿って不安がかならず伴ってくる。この不安はまた行動の原動力にもなっているということだ。その行動は正義を目的とするかぎり、かならず無効性に徹することでしか効果をもちえない。だから政治的効果を求めることの対極にあるものだ。また芸術や芸能は『決定的なことがくりかえされうる」ところに本質があるが、行動は美として成り立つためには、一回きりの性質をもっていなくてはならない。こうみてくると三島由紀夫の『行動学入門』が、集団を組み、目的をもった「行動」が当面する心理と論理について実践的な指針を与えようとしたものだということは明瞭におもえる。一見すると粗雑な悪ふざけのようにみえるが、こんど読んでみて、かなしいほど真剣に生真面目に、じぶんの意図する肉体的な行動にともなう心理を予言し、論理的な分析して、それを冷静に根拠づけようとしていることがわかった。(当方より その2に続く)






新・書物の解体学 吉本隆明著 サルトル書簡集1『女たちへの手紙』

2022-10-07 12:25:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り137新・書物の解体学

吉本隆明著

サルトル書簡集1『女たちへの手紙』







新・書物の解体学 著者 吉本隆明

199291日発行 株式会社メタローグより


サルトル書簡集朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳

『女たちへの手紙』



このサルトルの書簡集にはとびきりおおきな特色がある。生涯平坦に、ほとんど直線的に続いたボーヴォワールとの関係はそのまま心棒をおいて、別の女たちとそのときどき熱烈に愛しあったり、憎みあったり出会ったり、離別したりした記録をボーヴォワールに告白した形になっている。いずれにせよ盛りあがり、また滅衰する曲線を描いた恋人たちとの体験を、微細に、露出症的に描写して、直線的な愛人ボーヴォワールに知らせた珍しい書簡集だ。ボーヴォワールの手で保存され彼女の検閲を経て公刊されたことも加算すると、珍しいという意味は、やや変態的な性愛という含みも存在している。ただこの変態には病的な意味はない。サルトルとボーヴォワールの性愛にたいする並外れた知的な透徹性が救っているからだ。この奇妙な並外れたカップルは、男女のあいだに性愛をめぐって引き起こされるトラブルについて、心理的な陰影から社会的な通念にいたるまて、たぶん徹底して考えつくしていた。

この書簡集にでてくるさまざまなタイプの女性との、サルトルの性的交渉の記述を読んでいくと、ごく普通の男女と同じように怒ったり、機嫌を直したり、憎み合ったかとおもうと、抱き合って寝ることで仲直りになったりといった、ありふれた場面が繰返されている。ところがこのサルトルの微細で率直で、露悪的な、きわどい性交渉の場面の描写から陰画のように浮かびあがってくるのは、逆にボーヴォワールとの特異な関係の仕方だとおもえる。真っ先にそこからいってしまえば、サルトルと他のそのときどきの女性たちの交渉は、官能やフィーリングや精神が融けあった正常な普通の性愛だが、サルトルとボーヴォワールのあいだの結びつきは、いってみれば〈知〉としての性愛ともいうべきものだったようにおもえる。これは肉欲や官能やフィーリングの親愛がまったくなかったという意味ではない。およそ〈知〉自体がエロチックでありうることを、はじめて提起しているといった意味だ。男女の性愛にまつわるあらゆる陰影を、体験によってではなく〈知〉によって知りつくすこと。この稀にみる領域を、サルトルとボーヴォワールは、、はじめて新たに提起している。もしかすると人間の男女のあいだの性愛は、肉体愛や精神の官能や愛のほかに〈知〉としての性愛という項目をつけ加えなくてはならぬかも知れぬ。そんな方向性を、この書簡集は予言しているといえなくもない。これがこの書簡集のただひとつの存在価値だ。

シモーヌ・ジョリヴェとの恋愛では、サルトルは男としてすこし小うるさずぎる人物になり、シモーヌ・ジョリヴェの方は、すこし蓮っ葉に男に感情を流しずぎる女の像になっている。ジョリヴェにたいしては、どうしてもその場の雰囲気で上着を脱がせ、裸にして寝るという行為がいちばん自然で、必然なんだという感じを描きだしてボーヴォワールに報告している。リュシルにたいしてはただ行きずりの関係だったというほどのことにして、別れたい気分を暗示している。ブルダン嬢との交渉については、その毛深さや、体の匂いや、お尻の形や、愛撫の仕草や、性交以外のことならどんなこともやった有様を、微に入り細をうがってボーヴォワールに描写してみせている。ベットでサルトルの性器をなめ、じぶんの体の中にはいってきて欲しいと訴え、痛がったり拒んだりしながらそれが実現するさまを、小説のヒトコマのように微細に、ボーヴォワールに告げ知らせる。このブルダン嬢との交渉の性描写は、、書簡集のなかで圧巻である。ターニャとのあいだでは処女を奪い、愛し合っているかとおもうと瞬時に、女が苛立って憎悪を吐き散らし、感情も行為も行き違ったとおもうと、また激しく抱き合い、翻弄されて自失の状態に落ち込むサルトルの気持が描かれて、ボーヴォワールに報告されている。

いったいサルトルは、何のためにこんな何人もの恋人との性愛の交渉の場面を微細に描いて愛人ボーヴォワールあての書簡にしなければならなかったのか。そしてこんな別の複数の女との交渉を描写して愛人に送る男の神経と、それを受け取り読んで、怒りを爆発させもせず、破り棄てもせずに、その書簡を保存しておいた女の神経とは、いったいどうかんがえれば、阿呆でないのか。これがこの書簡集が最終的に読者に提起する謎々みたいなものだ。そしてこの謎々の周辺からはもうひとつ、当の恋愛相手の女たちにたいして、こまごまと理屈っぽい手紙をだす、くどすぎる嫌な男サルトルという像が立ちのぼる。フランスの知識人は、みな恋愛中の女にたいして、こんな書誌的になるものなのか。またフランスの女たちは、それでも嫌にならず、すんなりと受け入れるものなのか。これが第二番目の馬鹿らしい謎だ。これは色男が複数の恋愛をそれぞれの女性に判らないように、巧みにさばいてみせた報告書ではない。壊れかかった官能(本能)の代わりに、〈知〉としての性愛という範疇をもってこなければ謎は解けないし好意的にもなれない。そんな男が、魅力的な官能をもった女性たちとやった性的な交渉の記録を、愛人の女に告げ知らせることで、じつは報告の告白自体が〈知〉としての性行為になっている、奇妙で特異な記録ということになりそうだ。(人文書院刊)


新・書物の解体学 吉本隆明著 辺見じゅんの『闇の祝祭』

2022-10-03 11:43:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り136 新・書物の解体学

吉本隆明著

辺見じゅんの『闇の祝祭』







新・書物の解体学 著者吉本隆明

199291日発行 株式会社メタローグより


辺見じゅん『闇の祝祭』


辺見じゅんの歌集『闇の祝祭』の特色は何だとおもうかと訊ねられたら、印象の消えないうちなら、すぐに下句の起こし方の特異さ、下句の位置の原始性、それがひとりでに短歌の声調を短詩の方に近づけていることをあげるとおもう。


かりがねの

伊吹の山をわたるとき

滅びゆくもの清しと思ふ


大津絵の

鬼にかつぎし鉦の音の

光でとよむ

桃のおぼろ世


腋くらし鳥の翔び発つあさまだき

厨に菜種油こぼるる


をみならは花のゆらぎに似てゆるる

雪ふれば雪の暗きしづまり


この種の下句の特異な歌は、半分以上を占めるとおもう。下句の起こし方、呼吸、リズムの非短歌性といったものが、わたしに『万葉』東歌の声調をすぐに連想させた。


3351  筑波嶺に雪かも降らる否をかも かなしき

子ろが布干さるかも


3425  下野安蘇の河原よ 石踏まず空ゆと来ぬよ

汝が心告(の)れ


3451  風の音の遠き我妹が着せし衣

手本のくだり紕(まよ)ひ来にけり


この印象の類似を何とか言葉にすれば、語音とリズムの響き合いからくる高揚が、下句のところで、もう一度やってくるから、一首の歌がふたつの呼吸を含んでいるともいうべきものになっている。東歌がそうなっているのは、わたしどもの解釈では短歌がまだ古歌謡のうたい方を保存しているため、複数の付け合いの呼吸がのこされているからだ、ということになる。

辺見じゅんさんの歌が『闇の祝祭』まできて、このリズムの複核性をあらわにしてきたのは、どんな理由によるのだろうか。わたしには現代短歌の声調を無意識のうちに壊して、短詩性に近づこうとしているのではないか、と思われてならない。このことを直接本人に訊ねてみたことがあった。答えは見掛けのうえでは逆で、この歌集ほど短歌を短歌として意識して作ったことはなかったということであった。これはじつに興味ぶかいことに思われた。

そこでじぶんの理解をもう少し先まで延長してみたくなった。この歌人の歌のモチーフの奥深くにあるのは広義で、そして原始的な意味での巨大家族の意識のようにおもえる。まだ部族以上には共同体をつくれなかった太古に、姪も甥も氏族の子供みな娘や息子と呼ばれ、叔(伯)父や叔(伯)母もまた父や母と呼ばれた時代があった。そのおおきな家族の親和性と暗さのようなものが、辺見じゅんの人間関係をうたうモチーフに潜在していて、人間をうたうことと家族をうたうことが同一の色濃い執着と思い入れに充たされている。重苦しくくらい情念の世界だが、同時に濃厚な親和感が充ち溢れている。この特異な感性の世界から『闇の祝祭』の複核的な初源性はやってくるのではないかと思われてくる。


ふるさとの古井に水の動かねば

祖母の小櫛のくらきくれない


滅びたるものに寄りゆく雪の秀に

野太き声の父帰り来よ


越後路は雪のまほろばはろばろと

わが形代のとほき夕映え


木には木の鳥には鳥の鬱あるや

いもうとの死に若葉しづくす


書き沈む父の背中に沼ありて

この世あの世の万燈絵かな


これもまた限りが無く深い底と、終りがない時間の無意識の向うまで続く歌物語のモチーフのようにおもえる。この歌人のなかでは過去をうたい語ることと現在をうたっていることとがおなじであり、歌の物語のなかでは大過去と過去と現在完了とが境界のない混融された時間のなかに一体になっている。また近親をうたうこととまったく別の地域の住人をうたうことが同一化されて、どんな山里も都会もおなじ感性の空間に包まれてしまう。わたしにはそれが未開の部族社会の時代の習俗を、無意識の夢の痕傷として指しているように感じられる。(角川書店刊)