言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

良寛⑤ー僧侶1ー

2018-12-30 10:37:49 | 言の葉綴り
66良寛⑤ー僧侶1ー


良寛 吉本隆明著 株式会社春秋社
発行所 1992年2月1日発行より
抜粋



I 良寛
僧侶1


良寛 詩歌と書の世界 二玄社刊
谷川敏明著 小川新一写真より 法華讃の一部

良寛が師である備中円通寺の大忍国仙から印可をうけたとき、「良や愚の如く道うたた寛し」と評されました。この「愚」というのは、良寛の資質的な謎であるとおもいます。現在までたくさんの言説がこの良寛の「愚」の理解をめぐってつまれてきました。どれにもすこしずつ納得できない部分がありますので、今日はわたしなりにこの「愚」の理解から良寛の思想にはいっていく道をつけてみたいとおもいます。良寛の「法華讃」のなかに「常不軽菩薩品第二十」という、法華経の第二十章についてかかれた詩あるいは経文でいえば偈があります。

朝に礼拝を行じ暮に礼拝し
但礼拝を行じて此身を送る
南無帰命常不軽
天上天下唯一人
(「法華讃」の一つ」

法華経の常不軽菩薩というのはどこへ行っても、誰にでも、ただ礼拝ばかりしている菩薩です。いつも人を軽んじない菩薩なので常不軽と呼ばれていました。その常不軽菩薩が語るには、人間は誰でも菩薩あるいは仏になれる存在だからおれはいつどこでも誰にでも礼拝するのだということなのです。礼拝されたやつのほうでは馬鹿にするなと怒るのもいれば、罵るやつ、憎むやつもいてさまざまなのですが、そんな相手の反応に一切かまわず、ただひたすらどんなやつに出遇っても、礼拝ばかりしているんです。
良寛はこの常不軽についてこれ以外にも触れていますから、とてもつよい関心をもっていたことがわかります。
この常不軽にたいする関心のよせ方は良寛のある資質、人柄、あるいはそうなろうとした人柄とふかい関係があるとおもいます。それ以上ふみこんで、だから常不軽は良寛の理想像だとまでいいたくないのですが、良寛の心に常不軽のことがいつもひっかかっていたのはたしかです。目より下のところをいつも視る視線に関心があったようにおもいます。
こういうことでは、良寛にはひとすじの好みがありました。これも良い詩です。

仙桂和尚は真の道者
黙して作し言は朴なるの客
三十年国仙の会に在って
禅に参ぜず経を読まず
宗文の一句を道わず
園菜を作って大衆に供養す
当に我之を見るべくして見ず
之に遇うべくして遇わず
吁呼今之に放(なら)わんとするも得べからず
仙桂和尚は真の道者
(「仙桂和尚」)

備中の円通寺の国仙の下で坐禅修行をつんでいたとき、寺に坐禅など一度もしないし、お経も読まず、宗文の一句もいわずに、菜園をつくって修行僧たちの炊事当番ばかりしている仙桂という和尚がいました。その下男然たる男はひょっとすると道を極めた人だったんじゃないかとあるときふと気がつくのです。この詩が優れているのは「当に我之を見るべくして見ず 之に遇うべくして遇わず」というところだとおもいます。こういうとこが良寛の凄いとこといえばいえるんです。その人としょっちゅう遭ってあるけど、ちっとも意識していなかった。いまになって気がついたということだとおもいます。つまり、十年間も一緒のところにいたけれど、その人のことはまったく意識ぜず、ただ、いつも百姓仕事ばかりしていて、じぶんたちに炊事当番をして食べさせてくれた。その人が、そこにいることはしばしば見ているけれど、全然見ていなかったとおなじことだったというのです。後になってあいつは凄いやつだと気がついた。ああ、禅をきわめたというのはああいうんだなと、あとで感じるわけです。いまさら気がついてしぶんも模倣しようとしても、そんなことはできなくなっている。こんなふうに良寛はいっているとおもいます。こういう気づき方は暗く悲劇的です。気づくことにどんな効力もありませんし、気づかれた方にどんな受容も存在しないからです。それでもこの気づき方には、一種の内在性の交換があるのですが、これをかすかな気配として感ずること自体が悲劇的なことだとおもいます。このあたりてなんとなく、とんでもない世界に深入りするようないやな予感がしないではないのですが、ためらわずにもうすこし良寛の世界にはいってゆきましょう。


没後一七十年記念「良寛さん」東京展
二〇〇一年一月二〇日〜二月二十五日
発行 日本経済新聞社 〔9ー17〕正法眼蔵弁道話
より

良寛は人から揮毫を頼まれたりすると、道元の『正法眼蔵』の「菩提薩捶四摂法」の条を書いたといわれます。そのなかでとくに良寛が好んだのは「愛語」の文章なんです。この
「菩提薩捶四摂法」というのは、いまの言葉でやさしくいえば、どうしたら菩薩になれるか、四つの方法ということだとおもいます。道元があげている四つは、一つに「布施」、二つ目は「愛語」、第三に「利行」、第四は「同事」です。「布施」というのは人から心をとらないことです。つまり人の心をむさぼらないとか、人の感謝をとろうとしないという意味です。そして、このことをもっと敷衍すると、たとえば、木の葉が散るのは、風にまかせればいい、木の葉が散ることまでじぶんが散らしたのだとおもうことはだめなので、風のことは風にまかせればいいんだ、そういうことも布施の一種だと、いうことになります。
それから「愛語」というのは、ふだん乱暴な言葉とか憎む言葉を吐かないことです。つまり愛するとか、慈悲の心をもつとか、そういう言葉だけを口にして憎しみとか、ひっかかる言葉はつかわないことを意味しています。この「愛語」はとくに良寛が惹かれたものといわれます。
つぎに「利行」というのは、身分の上下、老若男女を問わず、他人の利益のためにだけ行うことです。最後の「同事」というのは道元の説によると、じぶんに違反しないと同時に他者にたいしても違反しないとこと、つまり、他者とじぶんがおなじだと考えることだと書いています。他者とじぶんが平等だという意味とはちょっとちがいます。じぶんがじぶんに違反するようなことをぜず、またそのことが同時に他者ととっても他者に違反しないことだ。そういう行いをさしています。
このなかで、良寛がとくに好んだのは「愛語」なんです。憎しみとか他者の勘にさわる言葉とか、そういう言葉を一切発せずに、愛する言葉とか慈悲の言葉だけを使うということです。


良寛 詩歌と書の世界 二玄社刊
谷川敏明著 小川新一写真より 愛語の一部

この「愛語」にたいする良寛のこだわり方は、きわだっています。良寛は「良寛禅師戒語」というものを九十ヵ条にわたって書きとめていますが、これはじぶんが他人と喋言るときにでてくる嫌なばあいを、よくもこれだけ鋭くとりだしたものだとおもえるほど拾いあげています。これを読んでいると良寛のすさまじさがわかるような気がします。
(中略)

ある理想の場面が、それを理想とみなさない者にとって無意味だという理想の在り方は、一般にアジアやオリエントの世界に共通のものです。良寛の「愛語」という理想もおなじ運命をもっています。
いま、おそれずにもっと色濃い〈アジア的〉な思想の特質のなかに良寛を沈めてゆくことにしましょう。良寛に「月の兎」という長歌があります。『今昔物語』の巻五にある寓話を主題にしたものです。今は昔、猿と狐と兎が一緒に暮らしていて、そこに天帝がよぼよぼのお爺さんに化けた格好でやってきました。
「何か食べさせてくれ」というのです。すると猿は木の実を採り、狐は魚を採ってきてその老人にあたえました。兎は何か採ろうとおもっても何も採れませんでした。そこで兎は猿に芝を刈ってきてくれと頼み、狐にはそれで火を焚かせ、じぶんは何もあげるものがないからと、焚火のなかに飛び込んで、じぶんの体を焼いてその老人に食べさせました。すると老人は忽ち天帝の姿にもどって、その兎を浄土へ連れて行きました。この長歌にも良寛のおなじ視線がさしこんでいます。
わたしたちはどうやら良寛の頭脳に巣くった風変わりな理想のイメージをひと廻りしました。この僧は耳をかすめていく言葉にたいして、油断ならない鋭敏な構えをもっています。小柄でやせていて、小づくりな目鼻だちをして待ち構えているのです。もちろん欠点ももっています。あまり緊張が続くと疲れてぐったりしてしまうことです。だからいまもっているイメージの圧電気を、もっと下げなければとたえずかんがえているのです。犠牲心を誇示したがっているのではないのに、自己犠牲とまちがえられやすいイメージをだいているのは、そのためだとおもいます。

良寛④ー思想詩4ー

2018-12-08 12:11:44 | 言の葉綴り
65良寛④ー思想詩4ー


良寛 吉本隆明著 株式会社春秋社
発行所 1992年2月1日発行より
抜粋



I 良寛
思想詩4


没後一七〇年記念「良寛さん」東京展
二〇〇一年一月二〇日ー二月二十五日
発行 日本経済新聞社


同じく (91)七言詩曽従先師遊此地の一部

同じく (91)七言詩曽従先師遊此地の一部


同じく (91)七言詩 曽従先師遊此地の一部



良寛の漢詩や長歌に目をうつしますと、さらにそれをはっきりさせられるようにおもわれます。良寛の和歌と漢詩と長歌をならべてみます。たぶん良寛自身は漢詩をいちばん本領とかんがえていたでしょう。漢詩は対句をもとにしてモチーフを展開していきますから、和歌にくらべてかなり、自在に物語性とか心の起伏の襞を表現できる詩型だといえそうです。良寛は人間の心の起伏をよくつかまえる方法を、漢詩の修練から得ていたのではないかとおもわれるのです。おなじ手毬つきの主題をあげてみますと、

裙子は短く褊杉は長し
騰々兀々只麼に過ぐ
洦上の児童忽ち我を見
手を拍ちて斉しく放毬の歌
(「騰々」)

じぶんは衣と短いはかまを着て、それでまあ、悠々歓々したり、兀々としたり、毎日毎日過ぎていっている。街の路上で子どもたちが、じぶんをみつけて、誘うので、たちまち子どもたちの仲間にはいって手毬歌を歌ったという詩です。
これを良寛の和歌で表現します。

霞たつながき春日を子供らと手毬つきのつゝこの日くらしつ

これをさきの漢詩とくらべると、漢詩の方がはるかに、情景や気持の起伏、それから自分の服装からはじまり、じぶんの歩いている姿が髣髴とするような姿を歌いえています。子どもが路上で毬をついているのに、たまたま出遇って、誘われるままに一緒に手毬歌を歌って遊んだという、情景の起伏と推移を、和歌にくらべたらよりおおく表現しています。おなじ手毬つきの主題を、良寛の長歌にしています。

霞たつ ながき春日に
飯乞ふと 里にゆげば
里こども いまは春べと
うち群れて み寺の門に
手毬つく 飯はこはずて
そがなかに うちも交りぬ
そのなかに 一二三四五六七
汝はうたひ 吾はつき
吾はうたひ 汝はつき
つきうたひて 霞たつ
ながき春日を 暮らしつるかも
(「手毬つき」)

もしかするとそうみえないかもしれませんが、もっとも自由で起伏ある心の動きと情景の動きを表現しているのは、長歌だということがわかります。同時代の橘曙覧や香川景樹も、みな長歌をもっていますが、比べればこれだけ自由な長歌は、良寛に限るといっていいでしょう。
この「手毬つき」の長歌は、明治初年の五七調の新体詩にくわえても異和がないくらいです。曙覧や景樹では、伝統の長歌を試みたといったものですが、良寛の長歌は、和歌でもいえることを長歌にしてみたということにはなりません。漢詩の展開になぞらえて、詩を和語で作ったという意味をもっています。微細なことがらの起伏と情景を描ききっています。良寛は若い修行時代から漢詩をよく作っていましたから、詩の展開の仕方を漢詩から得たのでしょう。そのために、微細な心の動きと情景の動きを、長歌形式の詩にすることができたようにみえます。根本的には、良寛のもっている精神の新しさに帰着してしまいましょう。その新しさは、たぶん越州出雲崎にも京阪や江戸からもたらされた、町人社会の賑々しさにたすけられています。良寛が沸騰している世相とその草深い陰翳と不安にたいして、なにか鋭い目差しをもっていたと想像するのが妥当です。
良寛は漢詩や和歌からやってくるものを、いわばじぶんのなかをくぐって長歌へと抜けていった、その長歌が新体の詩になって表現の新しさ、微細さ、生々しさ、心の起伏というものを獲得したとみえます。その経緯は、漢詩から発して和歌へ、そこから長歌へと、いわば廻り道を通過するあいだに、方法的な自在さを獲得していったのでしょう。
良寛の難解さと新しさがどこまで走っていったのか、そしてすべての虚構を、どのようにひき剥がしていったかを、ほとんど理想的な形で、それほどおおくない長歌の作品が示しています。病床歌ともいうべき「眠れぬ夜」という作品です。

この夜らの いつか明けなん
この夜らの 明けはなれなば
をみな来て 尿をあらはむ
こひまろび 明かしかねけり
ながきこの夜を
(「眠れぬ夜」)

これは長歌と呼べず新体の詩と申すべきです。病気で臥して苦しんでいる、この夜が明けたら、世話をしてくれる女性が来て、じぶんのした尿のたれ流しを、洗ってくれたりするだろう。早く夜が明けてその女性がきてくれたらいいと悶え苦しんで、眠れないで、この長い夜の明け方をまっている歌です。いってみれば〈苦〉の詩です。これは生理的な〈苦〉、つまり老齢で病身で、起き上がることもできず、尿はたれっぱなしでという身体の痛苦です。けれど、ここにある〈苦〉の表現は、もちろん近世の和歌や長歌や漢詩などで、これほどの表現をみることはできません。
〈苦〉を歌って詩になるという考え方は、近世にはまったくありませんでした。明治になっても、初期の新体詩にはありようがなく、そこでは花鳥風月と物語の詩があっただけです。良寛にしてみれば、天地の合一や生死の超越を説く道元禅や荘子の思想からもっとも遠ざかった場所でじぶんというものを凝視せずには、こんな詩は創れないはずです。つまり、仏教禅の生死を超える悟りの世界や、境地から、いちばんへだたってしまったじぶんの姿に、ほんとは良寛はまだやってこない近代の痛苦をみていたともいえるのです。
それは、良寛が堕落したからではなく、虚偽の思想からひとりでに脱出したからです。病苦を詩に表現するという考え方は、良寛が〈アジア的〉な古典思想の迷路のなかで、どれだけ覚めていたかを象徴しています。近代と呼ばないうちに、近代をつかもうとしています。近代的な人間苦、あるいは社会苦に近づくような〈苦〉の表現をじぶんの病苦をもとにして、じぶんの仏教や老荘の思想からいちばん遠ざかったところで、無意識に良寛は表現しました。
人間が人間であるということはべつに天地と一緒になることではありません。社会のなかにあり、制度のなかにあり、そして同時に自然のなかにあるこたから由来するかもしれないし、〈苦〉の問題に集約されるかもしれません。良寛が青年期に志した道元禅の思想や老荘の思想からは、だらしなく病苦を歌い、看護の女性をまちこがれる詩を作ることなど、挫折の極致にちがいないでしょう。しかしわたしたちからみると、近代というものの萌芽が、その〈苦〉を正面に運びこんだこの良寛の詩にあるということになります。
この〈苦〉の表現が詩でありうるという概念は、明治二十年代に北村透谷よって実現されました。花鳥風月を友とするような詩のなかから、はじめて可能になったのです。もとより良寛の〈苦〉の詩は、透谷のように社会〈苦〉でも世界〈苦〉でもなく、いわば病苦、生理的な痛苦を通じての〈老い〉の苦悩です。だから〈苦〉が詩として成り立ちうることを、近世の月並みな花鳥風月詠に取り囲まれたなかからとりだしたことで先駆的だということです。
良寛の生涯の流れからすれば、こんな作品は道元禅の境地や荘子の無為からの転落を意味しましょう。けれど逆に、ヨーロッパからまねきよせた近代思想から眺めれば、その予兆と萌芽になっています。さきほどからの続きがらでいえば、良寛はこんな長歌形式の詩で、はじめて近代の世界認識の視野に時代に先がけて貌をだしたことになります。
(中略)
……。ただ良寛にしてみれば、この新しさはむしろ失敗として不本意にあらわれたものです。道元禅の思想から離れたあとも、良寛の理念が自我をおし殺して、天地自然と融和することを願ったのは疑いをいれません。だから、良寛の理想の破れ目から貌をのぞかせた挫折の瞬間が、かくあったかもしれないものです。けれど、詩はいつも失敗をもとにあらわれるともいえます。ただ失敗の詩を不思議とも唐突ともおもわない感性の時代は、良寛のあとにやってきました。むしろ良寛にとって詩は不本意の果てにあらわれました。また良寛の生涯にとって失敗は最後にあったものです。どうかんがえても、良寛が意志したものに反してでてきたそのものの新しさ、難解さが、たぶん良寛の本質的な問題ではないかと、わたしにはおもわれます。