言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

日本詩人選  12源実朝(事実)の思想その3 吉本隆明著

2023-01-30 10:17:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り 143日本詩人選 

12源実朝(事実)の思想その3

吉本隆明著




日本詩人選  12  源実朝

著者 吉本隆明

昭和四十六年八月二十八日発行

発行所 株式会社筑摩書房より抜粋


X I  〈事実〉の思想 その3


承前


実朝が営中の南庭で丑の刻、夢のようにして青衣の女人が走りさり、光物が松明のようにかがやいて消えるのをみたのは、その年の八月十八日であると記されている。それが幻覚か、刺客か、和田氏の亡霊かはわからないが、『吾妻鏡』の編著者は、伝説にしたがって、そう記するよりほかなかったかもしれない。


庭の萩わずかにのこれるを、月さしいでて後見るに、散りわたるにや花の見えざりしかばよめる

萩の花暮々までもありつるが

月出てみるになきがはかなき


それは萩の花であったのか、愛すべき老将の和田義盛のすがたであったのかわからない。


また

たそがれに物思ひをれば我宿の

萩の葉そよぎ秋風ぞふく


山辺眺望といふ事を

声たかみ林にさけぶ猿よりも

我ぞもの思ふ秋の夕べは


十二月三日、実朝は寿福寺に詣で和田義盛一族の亡卒の得脱のために仏事を修した。

また十二月二十九日(建保と改元あり)には、自筆の円覚経を写して寿福寺に供養し、その晩の夢告によって、この経巻を三浦の海に沈めて和田一族の霊を慰めた。

建保三年(一二一五年)十一月二十五日、実朝は昨夜義盛以下の和田一族の亡霊が幕下に群参する夢をみて、営中で供養の仏事を行なった。実朝の胸中を憶測すれば、宿将和田義盛とその一族の死は、ながく心の傷をあたえた。それ以後、実朝はほぼ自分の変死を信ずるようになったとおもわれる。あとには北条一族と巧妙な三浦一族しかのこっておらず、信頼すべき家人とて無い有様であった。もはや、何ものにもわずらわされず我意をおし通そうと心に決めたのである。それは、すくなくとも二つの事実となってあらわれている。

ひとつは東大寺の大仏修鋳を請負った宋人陳和卿の東下りをきっかけに渡宋を計画したことである。

もうひとつは、強引ともおもえる位階昇進を、京都の朝廷に促進させたことである。このいずれも北条氏の強力な反対にであったが、実朝はこれを卻けて強行した。

渡宋の計画は、母政子や北条義時や大江広元などの側近には気狂いの沙汰としかうけとられていない。実朝が和田合戦のあとで心中ひそかに決心してしまったことが北条氏や側近の重臣たちにはわからなかったのである。新しい仏教文化を媒介にした宋の文物に対する実朝の憧憬、すでにどんな希望ももちえなくなった幕府の統領としての生活、たび重なる天変と地異、陳和卿による挑発といった、ありうるすべての現実的な理由をかぞえても、渡宋の計画は突飛であった。しかし実朝の心の奥深くかくされたモチーフまでかんがえれば、あまり唐突だともおもわれない。たとえば和田朝盛ならば父祖一党にも加担しえず、また父祖一党に弓をひくことができないとすれば、難しくはあっても、髪をおろして京都に逃れて遁世することもできた。しかし、実朝が進むことも退くこともできないとすれば、結果や手続きがどうであれ、渡宋でも企てるよりほかにすべがなかった。

実朝は徹頭徹尾これを心中の奥深くにしまいこんだままもらさなかった。うわべは北条氏とも大江氏とも母政子ともうまくいっているようにみせていたのである。ただ、北条氏にとっても母政子にとっても、大江氏にとっても、すこしく常軌を逸したようにみえたことは間違いない。幸か不幸か、陳和卿の造船技術は拙劣で、船は浮ばす実朝の渡宋の計画は頓挫した。このしらけ切った気持ちは相当なものだったろうが、実朝はすぐにべつの吐け口をみつけだした。それは位階の昇進である。北条義時は大江広元にはかって、みだりに官職の昇進をもとむべきではないと実朝をいましめた。頼朝将軍は武門の一分を守って征夷将軍以外の官位を辞退した。しかるに実朝将軍は、さしたる勲功もなく父祖の跡目にすわり、また若年なのにしきりに位階の昇進をもとめるのはよろしくない。武門の統領として征夷将軍の役責だけにつとめ、年をへてのちいかようにも位階の昇進を願うべきだというのが義時や広元の諌言であった。実朝は、申し状はもっともだが、じぶんでもって源家の正統はとだえてしまう。せめて位階の昇進を願うのが家門の最後としてじぶんがなしうるすべてであるとこたえた。


もともと実朝には俗世的な欲は薄かった。それゆえ、やたらに昇進をもとめたことのなかに、なにも私心がなかったことは確実である。ただ実朝の心中はかなり複雑であったにちがいない。和田合戦以後、北条氏の専断はつのり、渡宋事件をはじめ実朝がことごとく我意を通しはじめたとき、すでにそれ相当の覚悟が実朝にはあったはずである。また、北条義時も、すでに実朝を見捨て、ひそかに暗殺の画策もあったかもしれない。そういうことを見通せないほど実朝は愚かではなかったはずである。『吾妻鏡』はこの間の経緯についてなにも記載していないが、おそらく北条一族は、源家将軍なしでも武門勢力を統御できるだけの抜んでた実力を獲得していたとみることができる。

実朝が位階の昇進をもとめ、律令王権のクモの糸にみずからもとめてからめとられていったとき、じつは鎌倉幕府が創生期からもっていた限界が当然にゆきつくはずのものを〈象徴〉していた。頼朝には律令王権を打ち倒してしまうという発想はすこしもなかった。ただ武門の権力を、まったくちがった位相でうちたてたかったのである。そしてある程度はそれを実現したといってよい。実朝がつぎつぎに武門のうち信頼すべき  勢力を失ない、渡宋によって一切から逃れようとする(あるいは宋朝からの威信をとりつけようとする)企ても座礁したうえは、単独で律令王権の位階制のかげにかくれるよりほかにどんな方法ものこされていなかったとみてよい。この実朝晩年の意図は、文字通り並びたっていた勢力をつぎつぎに滅亡させて、武門勢力を掌中にして、武門政権樹立への自信を深くしつつあった北条氏の意図とはかけはられてゆくばかりであった。


実朝は建保六年(一二一八年)二月十四日、最後の二所詣でに進発している。


箱根の山をうち出て見れば波のよる

小島あり。供のものに此うらの名は

しるやとたづねしかば伊豆のうみとなむ答侍しをききて

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や

沖の小島に波のよるみゆ


あら磯に波のよるを見てよめる

大海の磯もとゞろによする波の

われてくだけて裂けて散るかも


又のとし二所へまゐりたり時箱根のみづ海を見てよみ侍る歌

玉くしげ箱根の海はけゝれあれや

二山にかけて何かたゆたふ


(当方注)けゝれあれやは、心があるからか


同詣下向後、朝にさぶらひども見えざりしかばよめる

旅をゆきし跡の宿守をれをれに

わたくしあれや今朝はいまだ来ぬ


走湯山参詣の時

わたつ海のなかに向ひて出る湯の

伊豆のお山とむべもいひけり


いずれも実朝の最高の作品といってよい。また真淵のように表面的に『万葉』調といっても嘘ではないかもしれない。しかし、わたしには途方もないニヒリズムの歌とうけとれる。悲しみも哀れも〈心〉を叙する 心もない。ただ眼前の風景を〈事実〉としてうけとり、そこにそういう光景があり、また、由緒があり、感懐があるから、それを〈事実〉として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。ことに二所詣の下向後に近習や警備の武士たちのすがたかみえないのを「をれをれにわたくしあれや」とかんがえる心の動き方は、瞋っているのでもなく、もとめているのでもなく、どこかに〈どうでもよい〉という意識があるものとよみとることができる。こういう〈心〉を首長がもちうることを推察するには、武門たちの〈心〉のうごきはあまりに単純であった。

たぶんこれが実朝のいたりついたじっさいの精神状態である。また、ある意味では鎌倉幕府の〈制度〉的帰結でもあった。源家三代の将軍職は、実朝まできて、そこに〈将軍職〉があるから将軍がいるのであって、必要だからいるのでもなく、また不必要にもかかわらずいるのでもなく、ただ〈事実〉としてそこにいるのだ、ということになってしまったともいえる。











日本詩人選 12 源実朝(事実)の思想 その2 吉本隆明著

2023-01-18 13:25:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り 142日本詩人選 12

源実朝(事実)の思想 その2

吉本隆明著




日本詩人選  12  源実朝

著者 吉本隆明

昭和四十六年八月二十八日発行

発行所 株式会社筑摩書房より抜粋


X I  〈事実〉の思想 その2


承前

承元三年(一二九年)五月、頼朝以来の宿将のひとりであり、実朝が好意をよせていた和田左衛門尉義盛が、上総の国司に任じられるよう望んで内々に申し入れた。実朝はこの老将の望みをかなえてやりたいとかんがえ母政子にはかったが、頼朝の時代には武門の受領はこれを停止すべきよしの沙汰があり、このような例はゆるされなかった。いま、この願いをいれるのはあたらしい範例であり、女性の口を入れるべきことではないからとていよく拒否された。実朝はこの義盛の願いをかなえることはできなかった。

義盛は旬日をおいて、上総の国司を所望であるむねを、今度は陳情書をもって大江広元まで提出した。それには、治承以後の和田義盛一族の勲功をのべ、上総の国司の任を賜ることがこれからの余生にただひとつの望みであると記されていた。

いっぼう北条義時は、これより数ヵ月あとに、郎従のうち功あるものに侍に準じる位にとりたてる沙汰を賜りたいと申出た。実朝は無秩序にそういうことを許すのは後難のもとだとして、これを卻けた。また、おなじころ和田義盛の上総の国司所望の件について、内々に時をみてはからうから沙汰を期して待つようにとなだめた。義盛はよろこび感謝した。

このあたり実朝の決裁はさえている。たぶん、義時の所望もこのかぎりでは実朝の判断をこえるような不可解さはなかったのである。和田義盛と北条義時のちがいはなんであろうか。たぶん、義盛には〈制度〉としての武門という観点がなく、忠義一途の武将であったが、義時には〈制度〉も〈権力〉もなにを本質とするかがわかっていた。義盛が上総の国司を望んだのは、頼朝が蜂起してから忠誠と武勇をもってつくしてきた一族が、律令官制上の一国の国司を望むことは不当ではないというかんがえかたに基いている。だが、義時が郎従の功あるものを侍分にとりたててほしいと申出たとき、それは幕府国家の内部で処理しうるものだからという視点にたっていた。実朝はこのふたつの意味がよく判っていたはずである。

実朝は疱瘡のあとずっとそうであったといえばいえなくもないが、晩年にちかずくにつれて、神事仏事に熱がはいらなくなって、おおくは代理を奉幣させるようになっている。ようやく青年にたっしたときには、実朝のこころは乾いてしまっていたかもしれない。なぜそういう憶測をくだすかといえば、実朝の〈景物〉はあたかも〈事実〉を叙するというよりほかないような独特な位相であらわれ、けっして〈物〉に寄せる〈心〉でも、〈心〉を叙するために〈景物〉をとらえる叙情でもないとしかいいようがないところがあるからである。


みな月廿日あまりのころ夕の風すだれうごかすをよめる

秋ちかくなるしるしにや玉すだれ

小簾の間とほし風の涼しさ


萩をよめる

秋はぎの下葉もいまだ移ろはぬに

けさ吹くかぜは袂さむしも


十月一日よめる

秋は去ぬ風に木の葉は散りはてて

やまさびしかる冬はきにけり


もののふの矢並つくろふ籠手の上に

霰たばしる那須の篠原


笹の葉に霰さやぎてみ山べの

嶺の木がらししきりて吹きぬ


これらの〈景物〉を叙している歌は、八代集のどこにも場所をもうけることはできない。『万葉』後期にいれるには、あまりに〈和歌〉形式の初原的な形をうしないすぎているし、『古今』にいれるには、語法が不協和音をいれすぎている。『後拾遺』にさしこめば、あまりに古形を保存しすぎている。そうかといって『新古今』にさしこむには、もっと光線が不足している。この独自さは実朝の〈景物〉の描写が、〈景物〉をただ〈事実〉として叙して、かくべつの感情移入もなければ、そうかといって客観描写のなかに〈心〉を移入するという風にもなっていないところからきているようにみえる。実朝の〈心〉は冷えているわけではないが、けっして感情を籠めようともしていない。感情の動きがメタフィジックになってしまっている。実朝は青年期にたっしたとき、すでにこういう心を身につけなければならない境涯におかれていた。

〈夕べの風がすだれをうごかして透ってくる涼しさ〉という表現は、〈涼しいな〉という主観でもなく、〈涼しくわたってくる風〉という客観描写でもなく「風の涼しさ」という状態でとめられている。それだからどうしたということではない。この止め方は実朝の詩の方法のひとつの特徴である。この特徴が表象しているものは、「風の涼しさ」を感じているじぶんを、なんの感情もなく、じぶんの〈心〉がまた〈物〉をみるように眺めているという位相である。だから心情の表現が叙景の背後にかくされているのではなく、〈じぶんの心情をじっと眺めているじぶん〉というメタフィジックが歌の背後にあらわれてくる。このメタフィジックもまた詩人としての実朝に独特のものであるといってよい。

「けさ吹風は袂さむしも」というのは、まったく主観的に〈さむいことであるな〉といっているにもかかわらず、さむがっている作者ではなく、さむがっているじぶんという〈事実〉をながめている位相しかつたわってこないようにおもわれる。なぜこういうことになるのだろうか。たぶん実朝の〈心〉が、詩的な象徴というよりも、もっと奥深くの方に退いているからである。この独特の距離のとり方が実朝の詩の思想であった。「秋は去ぬ風に木の葉は散りはてて」の歌でもおなじなのだ。「山さびしかる冬はきにけり」を〈山はさびしき〉とか〈山ぞさびしき〉と表現すれば、並の叙情歌になったろうが「山さびしかる」と表現しているために、〈心〉は奥のほうに退いて〈山はさびしくなるだろうなとおもっているじぶんを視ているじぶん〉というようにうけとれることになる。

「ものゝふの矢並つくろふ」は真淵もあげ、子規も引用している周知の歌だが、かれらのいうこの万葉調の力強い歌は、けっしてそうはできていない。名目だけとはいえ征夷将軍あったものが、配下の武士たちの合戦の演習を写実した歌とみても、そういう情景の想像歌としてみても、あまりに無関心な〈事実〉を叙している歌にしかなっていない。冷静に武士たちの演習を眺めている将軍を、もうひとりの将軍が視ているとでもいうべきか。

「笹の葉に霰さやぎてみ山べの」も叙景のようにみえて、〈景物〉を叙しているじぶんの〈心〉を〈心〉がみているという位相があらわれざるをえない。

実朝の詩の思想をここまでもっていったものは、幕府の名目人として意にあわぬ事件や殺戮に立ちあいながら、祭祀の長者として振舞わねばならない境涯であった。

建暦元年(一二一一年)十二月二十日、和田義盛は上総の国司を所望した陳情書を、子息四郎兵衛尉を介して返却してもらいたい旨を大江広元に申入れた。業を煮やしたというべきであろうか。あまりに沙汰がないところから、義盛はいまはこれまでとかんがえたにちがいない。実朝は、しばらく余裕をみてうまくはからう旨つたえてあるのに、この挙におよんだことを心持よくおもわなかった旨を『吾妻鏡』は記している。しかし義盛にしてみれば、北条氏があれほど特権をうけながら、忠誠一途の宿将である和田一族にたいして、それくらいのことが握りつぶされていることが耐えがたかったにちがいない。おそらく母政子と北条一族のさしがねであった。実朝としては、この一徹の老将の心事をおもって心苦しかったにちがない。建暦二年も六月になって、実朝は和田義盛の邸を訪れてこの宿将を慰めねぎらっている。

さらに八月には、北面の三間所に伊賀前司朝光とともに和田義盛をつめさせるようにはかった。つまり近習なみにあつかおうとしたのである。宿将ではあるが、昔の物語などをききたいからだというのが実朝の名目であった。実朝は義盛がおもいつめている気配を感じて、これを慰めようとしたかもしれないし、この老将がじぶんの気ごころを理解する最後の生き残りとかんがえたかもしれなかった。実朝はよく気がつくやさしい心くばりをもっていた。

ところが、建保元年二月十五日、安念という僧侶が捕えられたのを期に、謀反の企てがあったことが発覚したと『吾妻鏡』はつたえている。そのなかに和田義盛の子息義直、義重の名があげられ、和田平太胤長もとらえられた。謀反といっても、もちろん北条氏を除こうとする企てであった。義盛は上総の伊北庄にいたが鎌倉にはせ参じ、わが子義直、義重らの助命をこうた。実朝は忠誠一途の老将の心にめでてこの二人を赦した。義盛は「老後の眉目を施して退出」したが、翌日、一族九十八人を引率して南庭に列座し、一族和田胤長の助命をも請うた。実朝は和田胤長が張本人とされているため、北条氏の手前、どうしても赦すわけにゆかなかった。そして和田一族の前で、胤長に縄をかけたまま奉行山城判官行村にひき渡させた。万事休すであり、この屈辱をうけた和田一族は、北条氏から実朝を奪うため蹶起する以外に道がなかった。胤長の屋敷領地は北条義時に拝領となり、もはや合戦よりほかに和田一族のなすべきことはのこされなくなったのである。

もちろん、実朝にはその帰すうはよくわかっていた。義盛には兵をあげるほかに道はのこされていないはずである。

すでに和田一族の蹶起は、幕下の諸将においても自明のこととしてうけとられるようになった。実朝の近習として信任の厚かった和田新兵衛尉朝盛は、父祖一党の蹶起が近くにあるのを知って蟄居していたが、実朝の下に参上して「公私互に蒙霧を散じ」(「吾妻鏡」)、心ゆくまで交歓を遂げたのち退出し、そのまま髪を切って蓮浄房の草庵で得度し、実阿弥陀仏と号して、郎党数人をつれて京都へ旅立った。板ばさみの苦しさを逃れるためである。朝盛の出家を知らせるため、郎党は義盛のもとに書状をたずさえていった。「叛逆の企ては、いまにおよんではとどめることもできません。しかし一族にしたがって実朝公に弓矢をむけることもできませんし、幕下に参じて父祖に敵することもできません。それよりも世を逃れて自他の苦しみを免れたいとおもいます。」とかかれていた。義盛はこれをきいて、僧体になっていても連れもどしてこいと四郎左衛門尉義直に命じた。朝盛は武勇にすぐれ、合戦のばあいに将としての器量をもっていることを惜しんだのである。実朝は、翌々日朝盛が出家したことをきいて、衝撃をうけ、人をやって「父祖の別涙を訪はしめ」た。

和田義直は朝盛入道を駿河国手越駅のあたりでつれもどしたが、義盛は朝盛を叱責した。また朝盛は黒衣のまま幕府に参上し実朝に挨拶した。これは実朝より慰撫のよびだしがあったためである。義盛は年来帰依するところ厚かった道房という僧を追放したが、人々は追放に名をかり、和田一族勝利の祈祷をなさしめるため大神宮へ遣わしたのだという風評をたて、ますます物情騒然となった。

実朝は、宮内兵衛尉公氏をつかわして和田邸におもむかせ、合戦の準備をしていると風聞があるが本当かどうかを問わせた。しばらくして義盛は寝殿からでてきて造あわせをとびこすとき、烏帽子がぬけて公氏のまえに落ちた。ちょうど人の首が打ち落されるのに似ていた。公氏は心中で、義盛は一族が叛乱にたつときはいさぎよく誅に服する志をあらわしているのだな、とうけとった。公氏は実朝からの問いただしの旨をのべた。

義盛はこたえた。頼朝将軍が在世のときは忠誠をはげみわれながら功をつとめた。そのために恩賞にあずかることも過分に過ぎるほどであった。頼朝将軍がなくなられたあとは、まだ二十年を経ないのに、おきわすれられたものの恨みをかこっている。たびたび陳情愁訴におよび、涙ながらに訴えるところがあったが実朝将軍の心にとどかない。これでは退いて家門の運つたなさを恥じるばかりであり、すこしも謀反の企てなどないーと。言葉がおわって保忠、義秀以下の勇士たちが列座して、兵具を開陳した。公氏は帰ってこの旨を報告した。その間、相州北条義時は参上して鎌倉在所の御家人たちを御所に呼んだ。そして義盛は日ごろ謀反の疑があり、蹶起の事はすでに決まっているかもしれないから、準備をおこたらぬよう指示した。ただし、まだ甲冑をつけるにはおよばないと申し伝えた。夕刻に、刑部丞忠季を使者にたて、和田義盛のもとにやった。和田氏反逆の風聞があるが驚いている。まず蜂起をやめて実朝将軍の裁可をまつべきであるとおもうーと。義盛はそれに答えていった。実朝将軍になんの恨みもいだくものではないが、相州北条義時の振舞いは、あまりに傍若無人でほかに人なきが如くであるので、問責のために鎌倉に発向しようとする群議が、近ごろ和田一族の若武者のあいだにある。義盛は度々これを諌めようとしたが、一切無効でもはや決意を交わしてしまっている。この期に望んでは老骨の力のとどかぬものとなってしまったーと。

かくして、いわゆる和田合戦の火ぶたはきられたことになる。和田一族の企図は、北条氏を打倒して、実朝将軍を奉ずるというところにおかれた。

和田義盛は兵を率いて将軍の幕下に攻め入った。同時に北条義時邸と大江広元邸を囲んだ。和田合戦の模様は、嘘も真もこきまぜて『吾妻鏡』が詳細に描写している。しかし、わたしにはそれほど興味がない。和田四郎左衛門尉義直が伊具馬太郎盛重のために討取られたのをきいて、義盛は、この愛する武勇の子のためにこそじぶんは上総の国司を所望したのだ、いまはもう合戦にはげんでも何の意味もなくなった、と声をあげて「悲哭」し、狂乱の態をなし、ついに江戸左衛門尉能範に撃たれたという。

実朝はもちろん、和田義盛をはじめ一族が、じぶんに謀反の気がなく、ただ北条義時一族の勢力をそぐのが目的であったことをよくしっていた。また、一途な宿老の心中もよく察していた。北条氏一族もまた、それをよく心得ていて、『吾妻鏡』は北条泰時に「義盛上に於て逆心を挿まず、只相州に阿当(あだ)せんが為」、謀反をおこしたのだ、といわせているくらいである。

実朝がついに父頼朝の代からの忠誠一途の老将たちのすべてを失ったことを悟ったに違いない。実朝の心にもはや何の希望もなくなったのは、たぶん和田合戦のあとであった。実朝の乾いた心は、そのまま冷えたといってよい。

(その3に続く)


言の葉綴り 日本詩人選 12源実朝 (事実)の思想 その1 吉本隆明

2023-01-05 11:26:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り141  日本詩人選12源実朝 (事実)の思想 その1        吉本隆明著




日本詩人選  12  源実朝

著者 吉本隆明

昭和四十六年八月二十八日発行

発行所 株式会社筑摩書房より抜粋


X I  〈事実〉の思想  その1


建仁三年(一二三年)八月、実朝の兄頼家は心身の病脳がはなはだしいという理由で、弟実朝(千幡)に関西三十八ヶ国の地頭職ならびに惣守護職をゆずり、わが長子一幡に関東二十八ヶ国の地頭職ならびに惣守護職をゆずる旨をあきらかにした。しかし、この申出が頼家の自発的な意思によるものであったかどうかは疑わしい。また、心身の病脳というのも、じつは無茶苦茶な所行によって北条氏に抗ってみたものの、思いどうりにゆかず、身辺がすこぶる危うくなったことから必然的にノイローゼにかかったということかもしれなかった。

頼家の外戚比企能員は、当然、頼家の子一幡が将軍職につくべきものであるのに、弟実朝に関西全域の地頭職が分配されるのが不満であった。また実朝に地頭職を分配することは、やがて外孫一幡と実朝とのあいだに、将軍職の継承について争いがおこり、この争いは北条氏との争いに帰することは眼にみえていた。比企能員は、北条氏を除くのはいまをおいてないと判断し、将軍頼家にはかって北条氏を討伐しようと企てたが、孫一幡もろともに、かえって北条氏与党に攻め亡ぼされた。あとから、能員と我が子一幡が殺されたことをきかされた頼家は、「欝陶に堪えず」宿老和田義盛と新田四郎忠常にはかって北条一族を誅討しようと企てた。だが、これらの宿老を動かすだけの器量と威力がなかった。かあえって母北条政子から、ノイローゼで統率の器なしという理由をつけた僧体にさせられ、伊豆修善寺に態よくおしこめられてしまった。

実朝は執権を北条義時として、兄にかわってすぐに将軍職についた。翌年、頼家はなにものともわからぬものから、無惨な殺され方をした。『吾妻鏡』は元久元年(一二四年)七月十九日の項に「伊豆国の飛脚参着す、左金吾禅閣(年廿三)当国修善寺に於いて薨じ給ふの由、之を申すと云々」とそしらぬ風をよそおっているが、頼家を殺害したものが、なんらかの意味で北条氏の息のかかったものであることは、まったく疑問の余地はなかった。豪勇の頼家は不意をうたれ、首に縄をかけ睾丸を斬りとられたりして斬殺されたといわれている。

まず、将軍職になったばかりで、兄頼家の惨殺をきき、その惨殺を密命したものがじぶんであるということになる政治的論理にくりこまれたとき、実朝はなにを感じたであろうか。実朝は頼家とちがって文学好きであり、頼家のようにことごとくに横車をおして北条氏に抗うということではなかった。しかしどうかんがえても、将軍職は居心持のよいはずはなかったにちがいない。頼家の殺害が、ちょうど実朝が「痢病」にかかって臥していたあいだにおこなわれたのも偶然とはかんかえられない。実朝は十三歳になっていたが、じぶんの行手が幸先のよいものでないことを充分にしったはずである。実朝は頼家とちがって、複雑なよく耐える心をもった人物であって、ある意味では北条時政にもそう手易く御しうる存在ではなかった。その年に嫁をむかえる段になって、きめられていた上総の前司足利義兼の娘をめとることをを拒絶して、京都から迎えようという意志をしめしている。もし、足利義兼の娘をめとれば、たとえ北条氏の息がかかっているとはいえ、やがて外戚となった義兼と北条氏とのあいだに争いが生ずることになるにちがいない。そうすれば、じぶんの運命は頼家とひとしいものになる。それより累系もなく、また〈和歌〉や文筆をつうじて関心をもっており、またべつに武力で北条氏と争う力も必然もない京都の堂上から嫁をむかえるほうがずっとよかった。実朝が和歌の習作や遊びごとから、京風の文化にあこがれていたという説もあるが、ほんとうかどうかわからない。生涯のうち京へ出かけてみようという発想を実朝がいだいたことはない。だが、宋へ渡ろうという発想はあったのである。祭祀権者としての義務であった伊豆箱根権現への〈二所詣で〉をのぞいて、実朝が鎌倉幕府の周辺をおもいたったことがないのは興味ぶかい。また、どうせゆくならば京都ではなく〈宋〉の国だという発想はけっしてわるくない。

こういう実朝にとって、歌ははじめ〈玩具〉であったかもしれない。幼少のときから、あたかも謎ときのように作歌に熱中した。元久二年、十四歳のとき、はじめて十二首の和歌を詠んだことが『吾妻鏡』にみえているが、もちろんその以前から習作にうちこんでいたであろう。それはこの年九月二日の記事に、実朝が和歌を好むことが京都にきこえているように記していることからも推察される。また、『金槐集』に集められた実朝の作品が、何歳からのものか確定できないとしても、創造はまず幼少期の模倣からはじまるということを、あまりにはっきりみせていることからも推察される。

実朝が将軍職について、まずはじめに当面しなければならなかったのは、宿老畠山重忠の伏誅であった。北条時政の後妻牧氏が、時政をそそのかして、女婿平賀朝雅と不仲であった畠山重忠父子一族を謀叛の企てありとして、強引に滅ぼしてしまった事件である。牧氏は時政とはかり、勢いにのって、実朝を殺害し、女婿平賀朝雅を将軍職につけようとした。しかし時政の子義時も、時政の娘、政子もこれを許さず、実朝を擁して逆に平賀朝雅の一党を滅ぼし、同時に父時政を僧体にして隠居させてしまった。この一連の事件で、実朝がどんな貌をみせたのかまったくわからないが、危うく命をおとすようなはめにであったことはたしかである。

この事件をへて北条氏の実権は義時にうつり、また義時のひきいる北条一族に相伴うような形で、実朝の地位も安泰になったかのようにみえた。しかし、この事件をへて、実朝ははじめてじぶんをとりまいている武門の内訌がどうしておこり、またどういうことによって安定するかをみきわめたにちがいない。

実朝はじぶんがたんなる武門権力の御輿にのってかつぎあげられた〈象徴〉にすぎないことをしった。そして同時に、この〈象徴〉が武門勢力にとって絶対に必要であるゆえんも悟ったにちがいない。もしじぶんが存在しなければ鎌倉の幕府はゆくところまでゆきつくまでは、陰謀と不意打ちと合戦の府にかわってしまうだろう。なぜ武門は弱年のじぶんをひつようとするのか。それはじぶんが幕府を創始した将軍の正統をつぐ子孫であることが第一の条件である。第二の条件は、じぶんが武門の実力者に強いて抗おうとしないかわりに、かれらが自由に将棋の駒のように動かそうとするには、少しばかり烟ったい人格でもあるということであるにちがいない。歌を詠んでも権力などそなわるはずもないが、歌作の修練がひとにあたえるものは、徒労の生命でさえ、なお超えて通りぬけてゆかねばならない体験ににていないことはない。


雨いたくふれる夜ひとりほととぎすを

郭公なく声あやかな五月やみ

きく人なしみ雨はふりつつ


実朝は、しばしば深更に起きだして、廊から南庭をながめるのが好きであった。この詠み口は『古今集』のわりあい初期のものに似ている。とすればそれほど後期の作品ではないはずである。しきりにふる雨の夜ふけに、郭公の声をききわけようとして南面の廊に佇っているすがたは、実朝にわずかにゆるされた固有の時間である。おなじような歌はまだある。


雨のふれるに庭の菊をみて

露をおもみまがきの菊の

ほしもあへず

晴るれば曇る村雨の空


これは昼間の歌だが、けっして明るいものではない。

〈景物〉の描写がまったく詠むものの〈心〉にかかわるようになったのは『後拾遺集』以後であるとみてよいが、実朝の歌がおのずからそこにゆきついたのは、まったく固有の理由によるといいきるべきか。すでに十三歳の弱小で将軍職となってから、かれは鎌倉幕府の〈象徴〉的な統領としての役割を背負わされた。政策向のことは、おおく北条時政、義時の父子と、母真子の手に握られていたが、祭祀権の所有者としては、ほどんど寧日なく神事と仏会に立ちあわなければならなかった。これはたんなる信仰の問題ではなく、むしろ〈制度〉に属していたとかんかえたほうがよい。

京都の律令王権のもとでは、とうの昔に制度としての宗教は停滞して慢性化した行事になりかわっていたが、関東武家層ではこの意味はまだ生きていたのである。実朝の位置は、諏訪明神社の〈大祝(おおほうり)〉の位置ににている。近隣の集落から素質のありそうな子供をえらんできて、精進潔斎をさせたあとで、磐座の石のうえで盟いをたて〈現神(あらがみ)〉としての即位の式をやらせる。烏帽子をのせ束帯をつけてからは、かれは〈現神〉として振舞わなければならない。しかし近隣の集落を支配するものはこの〈現神〉ではなくて、司祭たる神長氏一族である。〈現神〉は少数の重要な祭事のほかあまり出あるくことはないが、その代理はむりやり択ばれ、馬にのせられて近隣の集落に〈神〉の加護をふりまいてあるく、そのあげくに密殺されることもあったといわれている。つまり、かれはある共同体の宗教的象徴であるとともに、なにかあるときの犠牲の生け贄でもあった。

実朝は十七歳のとき疱瘡にかかり、二十日ばかりで平癒したが、それからあと数年は神仏事から遠ざかった。しかし、それ以外では晩年をのぞいて、祭祀権の統領としての役割を忠実につとめあげている。ただかれを将軍職につけて、祭祀の長者にまつりあげるための〈座〉は、けっして磐座のように強固な不動のものではなかったのである。むしろ、すきがあればむ武器を行使して、とってかわろうとする武門勢力の拮抗しあう力の場が、実朝をささえている磐座であるといってよかった。これが居心持のよい座であるわけがなかった。実朝がわれにかえることができるのは詠歌のなかだけであったかもしれない。これは、べつの言葉でいえば〈景物〉に接する時間だけが実朝に属するものであった。その意味で実朝はどんな言葉をつかっても不可避的に『後拾遺集』以後の歌人であらざるを得なかったのである。

実朝はすでに特異な国家にまで成長した武門勢力のあいだに育ったが、実朝にのみこみにくかったのは、武門に固有な倫理であったかもしれない。関東の武家層の倫理では、惣領にたいして絶対の忠誠をいたさなければならない。これは血縁のきずなよりもはるかに重いといってよかった。しかし、惣領であるものは、実力手腕家人たちの所有領の安堵力のすべてについて、じぶんたちを心服させるだけの器量をもっていなければならない。もし惣領としての器量にかなわないならば、無造作に首をすげかえても、とって代わっても、あるいは殺害してもよかったのである。これは武家層の倫理では絶対の忠誠心と矛盾するものではなかった。初代の頼朝は、もちろん充分にこれを心得ていた。かれは幼少から、まだ在地の武器をもった土豪にすぎなかった時代のかれらの手のうちで育てられ、その風習にしたがって武技をみがき、生活する体験をもっていたからである。しかし、実朝は、頼朝の〈貴種〉性が律令王権とのつなぎになるといった環境で育っていて、理解力はあっても、それほど馴染めない世界であったにちがいない。

(その2に続く)