言の葉綴り 143日本詩人選
12源実朝(事実)の思想その3
吉本隆明著
日本詩人選 12 源実朝
著者 吉本隆明
昭和四十六年八月二十八日発行
発行所 株式会社筑摩書房より抜粋
X I 〈事実〉の思想 その3
承前
実朝が営中の南庭で丑の刻、夢のようにして青衣の女人が走りさり、光物が松明のようにかがやいて消えるのをみたのは、その年の八月十八日であると記されている。それが幻覚か、刺客か、和田氏の亡霊かはわからないが、『吾妻鏡』の編著者は、伝説にしたがって、そう記するよりほかなかったかもしれない。
庭の萩わずかにのこれるを、月さしいでて後見るに、散りわたるにや花の見えざりしかばよめる
萩の花暮々までもありつるが
月出てみるになきがはかなき
それは萩の花であったのか、愛すべき老将の和田義盛のすがたであったのかわからない。
また
たそがれに物思ひをれば我宿の
萩の葉そよぎ秋風ぞふく
山辺眺望といふ事を
声たかみ林にさけぶ猿よりも
我ぞもの思ふ秋の夕べは
十二月三日、実朝は寿福寺に詣で和田義盛一族の亡卒の得脱のために仏事を修した。
また十二月二十九日(建保と改元あり)には、自筆の円覚経を写して寿福寺に供養し、その晩の夢告によって、この経巻を三浦の海に沈めて和田一族の霊を慰めた。
建保三年(一二一五年)十一月二十五日、実朝は昨夜義盛以下の和田一族の亡霊が幕下に群参する夢をみて、営中で供養の仏事を行なった。実朝の胸中を憶測すれば、宿将和田義盛とその一族の死は、ながく心の傷をあたえた。それ以後、実朝はほぼ自分の変死を信ずるようになったとおもわれる。あとには北条一族と巧妙な三浦一族しかのこっておらず、信頼すべき家人とて無い有様であった。もはや、何ものにもわずらわされず我意をおし通そうと心に決めたのである。それは、すくなくとも二つの事実となってあらわれている。
ひとつは東大寺の大仏修鋳を請負った宋人陳和卿の東下りをきっかけに渡宋を計画したことである。
もうひとつは、強引ともおもえる位階昇進を、京都の朝廷に促進させたことである。このいずれも北条氏の強力な反対にであったが、実朝はこれを卻けて強行した。
渡宋の計画は、母政子や北条義時や大江広元などの側近には気狂いの沙汰としかうけとられていない。実朝が和田合戦のあとで心中ひそかに決心してしまったことが北条氏や側近の重臣たちにはわからなかったのである。新しい仏教文化を媒介にした宋の文物に対する実朝の憧憬、すでにどんな希望ももちえなくなった幕府の統領としての生活、たび重なる天変と地異、陳和卿による挑発…といった、ありうるすべての現実的な理由をかぞえても、渡宋の計画は突飛であった。しかし実朝の心の奥深くかくされたモチーフまでかんがえれば、あまり唐突だともおもわれない。たとえば和田朝盛ならば父祖一党にも加担しえず、また父祖一党に弓をひくことができないとすれば、難しくはあっても、髪をおろして京都に逃れて遁世することもできた。しかし、実朝が進むことも退くこともできないとすれば、結果や手続きがどうであれ、渡宋でも企てるよりほかにすべがなかった。
実朝は徹頭徹尾これを心中の奥深くにしまいこんだままもらさなかった。うわべは北条氏とも大江氏とも母政子ともうまくいっているようにみせていたのである。ただ、北条氏にとっても母政子にとっても、大江氏にとっても、すこしく常軌を逸したようにみえたことは間違いない。幸か不幸か、陳和卿の造船技術は拙劣で、船は浮ばす実朝の渡宋の計画は頓挫した。このしらけ切った気持ちは相当なものだったろうが、実朝はすぐにべつの吐け口をみつけだした。それは位階の昇進である。北条義時は大江広元にはかって、みだりに官職の昇進をもとむべきではないと実朝をいましめた。頼朝将軍は武門の一分を守って征夷将軍以外の官位を辞退した。しかるに実朝将軍は、さしたる勲功もなく父祖の跡目にすわり、また若年なのにしきりに位階の昇進をもとめるのはよろしくない。武門の統領として征夷将軍の役責だけにつとめ、年をへてのちいかようにも位階の昇進を願うべきだというのが義時や広元の諌言であった。実朝は、申し状はもっともだが、じぶんでもって源家の正統はとだえてしまう。せめて位階の昇進を願うのが家門の最後としてじぶんがなしうるすべてであるとこたえた。
もともと実朝には俗世的な欲は薄かった。それゆえ、やたらに昇進をもとめたことのなかに、なにも私心がなかったことは確実である。ただ実朝の心中はかなり複雑であったにちがいない。和田合戦以後、北条氏の専断はつのり、渡宋事件をはじめ実朝がことごとく我意を通しはじめたとき、すでにそれ相当の覚悟が実朝にはあったはずである。また、北条義時も、すでに実朝を見捨て、ひそかに暗殺の画策もあったかもしれない。そういうことを見通せないほど実朝は愚かではなかったはずである。『吾妻鏡』はこの間の経緯についてなにも記載していないが、おそらく北条一族は、源家将軍なしでも武門勢力を統御できるだけの抜んでた実力を獲得していたとみることができる。
実朝が位階の昇進をもとめ、律令王権のクモの糸にみずからもとめてからめとられていったとき、じつは鎌倉幕府が創生期からもっていた限界が当然にゆきつくはずのものを〈象徴〉していた。頼朝には律令王権を打ち倒してしまうという発想はすこしもなかった。ただ武門の権力を、まったくちがった位相でうちたてたかったのである。そしてある程度はそれを実現したといってよい。実朝がつぎつぎに武門のうち信頼すべき 勢力を失ない、渡宋によって一切から逃れようとする(あるいは宋朝からの威信をとりつけようとする)企ても座礁したうえは、単独で律令王権の位階制のかげにかくれるよりほかにどんな方法ものこされていなかったとみてよい。この実朝晩年の意図は、文字通り並びたっていた勢力をつぎつぎに滅亡させて、武門勢力を掌中にして、武門政権樹立への自信を深くしつつあった北条氏の意図とはかけはられてゆくばかりであった。
実朝は建保六年(一二一八年)二月十四日、最後の二所詣でに進発している。
箱根の山をうち出て見れば波のよる
小島あり。供のものに此うらの名は
しるやとたづねしかば伊豆のうみとなむ答侍しをききて
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
沖の小島に波のよるみゆ
あら磯に波のよるを見てよめる
大海の磯もとゞろによする波の
われてくだけて裂けて散るかも
又のとし二所へまゐりたり時箱根のみづ海を見てよみ侍る歌
玉くしげ箱根の海はけゝれあれや
二山にかけて何かたゆたふ
(当方注)けゝれあれや…は、心があるからか
同詣下向後、朝にさぶらひども見えざりしかばよめる
旅をゆきし跡の宿守をれをれに
わたくしあれや今朝はいまだ来ぬ
走湯山参詣の時
わたつ海のなかに向ひて出る湯の
伊豆のお山とむべもいひけり
いずれも実朝の最高の作品といってよい。また真淵のように表面的に『万葉』調といっても嘘ではないかもしれない。しかし、わたしには途方もないニヒリズムの歌とうけとれる。悲しみも哀れも〈心〉を叙する 心もない。ただ眼前の風景を〈事実〉としてうけとり、そこにそういう光景があり、また、由緒があり、感懐があるから、それを〈事実〉として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。ことに二所詣の下向後に近習や警備の武士たちのすがたかみえないのを「をれをれにわたくしあれや」とかんがえる心の動き方は、瞋っているのでもなく、もとめているのでもなく、どこかに〈どうでもよい〉という意識があるものとよみとることができる。こういう〈心〉を首長がもちうることを推察するには、武門たちの〈心〉のうごきはあまりに単純であった。
たぶんこれが実朝のいたりついたじっさいの精神状態である。また、ある意味では鎌倉幕府の〈制度〉的帰結でもあった。源家三代の将軍職は、実朝まできて、そこに〈将軍職〉があるから将軍がいるのであって、必要だからいるのでもなく、また不必要にもかかわらずいるのでもなく、ただ〈事実〉としてそこにいるのだ、ということになってしまったともいえる。