言の葉4 共同幻想論
吉本隆明全著作集 11 思想論 II
昭和47年9月
抜粋その1 共同幻想論序
注(言語にとって美とはなにかから、心的現象論、共同幻想論へ)
言語の表現としての芸術という視点から文学とはなにかについて体系的なかんがえをおしすすめてゆく過程で、わたしはこの試みには空洞があるのをいつも感じていた。
注(言語にとって美とはなにか)
ひとつは表現された言語のこちらがわで表現した主体はいったいどんな心的な構造を持っているかという問題である。
注(心的現象論)
もうひとつは、いずれにせよ、言語を表現するものは、そのつどひとりの個体であるが、このひとりの個体という位相は、人間がこの世界でとりうる態度のうちどう位置づけられるべきだろうか、人間はひとりの個体という以外にどんな態度をとりうるか、そしてひとりの個体という態度は、それ以外の態度とのあいだにどんな関係をもつのか、といった問題である。
注(共同幻想論)
抜粋その2 共同幻想論、国家論
……僕の考え方では、一つは共同幻想ということの問題がある。それが国家とか法とかいうような問題になると思います。
注(共同幻想)
……もう一つは、僕がそういうことばを使っているわけですけれども、対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸が一つある。それはいままでの概念でいえば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。
注(対幻想)
……もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく。
注(自己幻想)
……共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉(Stamm-vater)も〈種族の母〉(Stamm-mutter)も〈トーテム〉も、たんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表れ方であるということができよう。
人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることを知りながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。
注(共同幻想、対幻想、自己幻想)
国家論
……現在さまざまな形で国家論の試みがなされている。この試みもそのひとつと考えられていいわけである。ただ、ほかの論者たちとちがって、わたしは国家を国家そのものとして扱おうとしなかった。共同幻想のひとつの態様としてのみ国家は扱われている。それにはわけがある。わたしの思想的な情況認識では、国家をたんに国家として扱う論者たちの態度からは現在はもちろん未来の情況に適合するどんな試みもうみだされるはずがないのである。つまり、かれらは破産した神話のうえに建物をたてようとしているのだが、わたしは地面に土台をつくり建物をたてようとしているのである。このちがいは決定的なものであると信じている。
注は当方で付記したものです。
吉本隆明全著作集 11 思想論 II
昭和47年9月
抜粋その1 共同幻想論序
注(言語にとって美とはなにかから、心的現象論、共同幻想論へ)
言語の表現としての芸術という視点から文学とはなにかについて体系的なかんがえをおしすすめてゆく過程で、わたしはこの試みには空洞があるのをいつも感じていた。
注(言語にとって美とはなにか)
ひとつは表現された言語のこちらがわで表現した主体はいったいどんな心的な構造を持っているかという問題である。
注(心的現象論)
もうひとつは、いずれにせよ、言語を表現するものは、そのつどひとりの個体であるが、このひとりの個体という位相は、人間がこの世界でとりうる態度のうちどう位置づけられるべきだろうか、人間はひとりの個体という以外にどんな態度をとりうるか、そしてひとりの個体という態度は、それ以外の態度とのあいだにどんな関係をもつのか、といった問題である。
注(共同幻想論)
抜粋その2 共同幻想論、国家論
……僕の考え方では、一つは共同幻想ということの問題がある。それが国家とか法とかいうような問題になると思います。
注(共同幻想)
……もう一つは、僕がそういうことばを使っているわけですけれども、対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸が一つある。それはいままでの概念でいえば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。
注(対幻想)
……もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく。
注(自己幻想)
……共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。〈種族の父〉(Stamm-vater)も〈種族の母〉(Stamm-mutter)も〈トーテム〉も、たんなる〈習俗〉や〈神話〉も、〈宗教〉や〈法〉や〈国家〉とおなじように共同幻想のある表れ方であるということができよう。
人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることを知りながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここではとくに対幻想とよぶことにした。
注(共同幻想、対幻想、自己幻想)
国家論
……現在さまざまな形で国家論の試みがなされている。この試みもそのひとつと考えられていいわけである。ただ、ほかの論者たちとちがって、わたしは国家を国家そのものとして扱おうとしなかった。共同幻想のひとつの態様としてのみ国家は扱われている。それにはわけがある。わたしの思想的な情況認識では、国家をたんに国家として扱う論者たちの態度からは現在はもちろん未来の情況に適合するどんな試みもうみだされるはずがないのである。つまり、かれらは破産した神話のうえに建物をたてようとしているのだが、わたしは地面に土台をつくり建物をたてようとしているのである。このちがいは決定的なものであると信じている。
注は当方で付記したものです。