言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

ハラリ著作品⑤ 神話による社会の拡大

2020-02-29 10:52:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り84ハラリ著作品

⑤神話による社会の拡大

サピエンス全史上 表紙裏書







ユヴァル・ノア・ハラリ著作

柴田裕之訳

サピエンス全史・上 第2部農業革命 第6章神話による社会の拡大 

より抜粋


農業革命は歴史上、最も物議を醸す部類の出来事だ。この革命で人類は繁栄と進歩への道を歩み出したと主張する、熱心な支持者がいる。一方、地獄行きにつながったと言い張る人もいる。彼等によれば、これを境にサピエンスは自然との親密な関係を捨て去り、強欲と疎外に向かってひた走り始めたという。たとえその道がどちらに向かっていようと、もはや引き返すことはできなかった。農耕のおかげで人口が急速に増大したので、複雑な農耕社会はどれも、狩猟採集に戻っても自らを維持することは二度となかった。農耕へ移行する前の紀元前一万年ごろ、地上には放浪の狩猟採集民が、五〇〇万〜八〇〇万ほどいた。それが一世紀になると、狩猟採集民は(主にオーストラリアと南北アメリカとアフリカに)一〇〇万〜ニ〇〇万人しか残っておらず、それをはるかに上回るニ億五〇〇〇万もの農耕民が世界各地で暮らしていた。

農耕民の大多数は永続的な定住地に住んでおり、遊牧民はほんのわずかだった。定住すると、ほとんどの人々の縄張りは劇的に縮小した。古代の狩猟採集民はたいてい、何十平方キロメートル、あるいは何百平方キロメートルにさえ及ぶ縄張りに住んでいた。「住み処」はその縄張り全体で、丘もあれば小川もあり、森や頭上に広がる大空もそれに含まれた。一方、農耕民はほとんどの日々を小さな畑か果樹園で過ごし、家庭生活は、木、石、あるいは泥でできた、間口も奥行きも数メートル程度の狭苦しい構造物、すなわち「家」を中心に営まれた。典型的な農耕民はその構造物に対して、非常に強い愛着を育んだ。これは広範囲に及ぶ革命で、その影響は構造上のものであると同時に、心理的なものであった。以後、「我が家」への愛着と、隣人たちとの分離は、以前よりずっと自己中心的なサピエンスの心理的特徴となった。

新しい農耕民の縄張りは、古代の狩猟採集民の縄張りよりもはるかに狭かっただけでなく、はるかに人工的でもあった。火の使用を別にすれば、狩猟採集民は自分たちが歩き回る土地に意図的な変化はほとんどもたらさなかった。一方、農耕民は、周囲の未開地から苦労して切り分けた人工的な人間の「島」に住んでいた。彼らは森林を伐採し、水路を掘り、野を切り拓き、家を建て、鋤で耕し、果樹をきれいに並べて植えた。でき上がった生息環境は、人間と「彼らの」動植物だけのためのものであり、塀や生垣で囲われていることが多かった。農耕民の家族は、気まぐれな雑草や野生の動物を、全力を挙げて締め出した。そのような侵入者が入り込むと、追い出された。しつこく居座ろうとすると、宿敵である人間たちは駆除する手立てを探した。いえのまわりにはとりわけ強力な防御体制が築かれた。農耕の黎明から今現在に至るまで、枝やハエ叩き、靴、有毒スプレーなどで武装した何十億という人間が、たえず人間の住まいに入り込んでくる勤勉なアリや、こそこそ動き回るゴキブリ、冒険心にあふれるクモ、道を間違えた甲虫に対する容赦ない戦いを展開してきた。

歴史の大半を通じて、こうした人工の「孤島」は非常に小さいままで、広大な未開の自然に囲まれていた。地表はおよそ五億一〇〇〇万平方キロメートルあり、そのうち約一億五五〇〇万平方キロメートルが陸地だ。西暦一四〇〇年になっても、農耕民の大多数は、彼らの動植物とともに、わずか一一〇〇万平方キロメートル、つまり地表の二パーセントに身を寄せ合っていた。それ以外の場所はすべて、寒過ぎたり、暑過ぎたり、湿潤過ぎたりして、農耕に適さなかった。したがってこの、地上のわずか二パーセント、が歴史の展開する舞台を形成していた。

人々は自ら人工の島を離れなかった。重大な損失の危険を冒さずに、自分の家や畑、穀倉を放棄することはできなかった。そのうえ、時がたつにつれ、物がどんどん増えていった。簡単に運べない物が増え、それに縛りつけられた。古代の農耕民は、私たちの目には貧困の極めにあったかのように映るかもしれないが、典型的な家族は狩猟採集民の一部族よりも多くの人工物を所有していた。


未来に関する懸念


(中略)


……農業革命のせいで、未来はそれ以前とは比べようもないほど重要になった。農耕民は未来を念頭に置き、未来のために働く必要があった。農業経済は、何か月にも及ぶ耕作に短期の収獲繁忙期が続くという、季節の流れに沿った生産周期に基づいていた。豊作の年には、収獲期の終わりの晩に、農耕民たちは思いきり祝うこともあったかもしれないが、一週間ほどで、早朝から日がな一日畑で働く生活に戻るのだった。その日、翌週、さらに翌月分の食べ物は十分にあったものの、翌年や翌々年については心配せざるをえなかった。

未来に関する懸念の根本には、季節の流れに沿った生産周期だけではなく、そもそも農耕につきまとう不確実性もあった。ほとんどの村落では、育てていた作物や家畜の種類が非常に限られていたので、旱魃や洪水、悪疫に翻弄された。農耕民は、蓄えを残すために、自分が消費する以上のものを生み出さなければならなかった。サイロの穀物や、地下蔵の壺に入ったオリーブ油、食料品棚のチーズ、梁に吊るしたソーセージがなければ、不作の年に飢死してしまう。そして、不作の年は遅かれ早かれ、必ず訪れた。不作の年が来ないと決めつけて暮らしている農耕民は長くは生きられなかった。したがって、農耕が始まったまさにそのときから、未来に対する不安は、人間の心という舞台の常連となった。

(中略)

農耕民が未来を心配するのは、心配の種が多かったからだけでなく、それに対して何かしら手が打てたからでもある。彼らは、開墾してさらに畑を作ったり、新たな灌漑水路を掘ったり、追加で作物を植えつけたりできた。不安でしかたがない農耕民は、夏場のアリさながら、狂ったように働きまくり、汗水垂らしてオリーブの木を植え、その実を子供や孫が搾り、すぐに食べたいものも、翌年まで我慢した。

農耕のストレスは、広範な影響を及ぼした。そのストレスが、大規模な政治体制や社会体制の土台だった。悲しいかな、勤勉な農耕民は、現在の懸命な労働を通してなんとしても手に入れようと願っていた未来の経済的安心を達成できることは、まずなかった。至る所で支配者やエリート層が台頭し、農耕民の余剰食糧によって暮らし、農耕民は生きていくのが精一杯の状態に置かれた。

こうして没収された食糧の余剰が、政治や戦争、芸術、哲学の原動力となった。余剰食糧のおかげで宮殿や砦、記念碑や神殿が建った。近代後期まで、人類の九割以上は農耕民で、毎朝起きると額に汗して畑を耕した。彼らの生み出した余剰分を、王や政府の役人、兵士、聖職者、芸術家、思索家といった少数のエリート層が食べて生きており、歴史を埋めるのは彼らだった。歴史とは、ごくわずかの人の営みであり、残りの人はすべて、畑を耕し、水桶を運んでいた。


想像上の秩序


農耕民が生み出した余剰食糧と新たな運送技術が組み合わさり、やがてしだいに多くの人が最初は大きな村落に、続いて町に、最終的には都市に密集して暮らせるようになった。そして、それらの村落や町や都市はすべて、新しい王国や商業ネットワークによって結びつけられた。

とはいえ、こうした新しい機会を活用するためには、余剰食糧と輸送の改善だけでは不十分だった。一つの町で一〇〇〇人を養えたり、一つの王国で一〇〇万人を養えたりするだけでは、人々が土地や水をどう分け合い、対立や紛争をどう解決するか、旱魃や戦争のときどうするかについて、全員が同意できるとはかぎらない。そして、合意に至ることができなければ、たとえ倉庫にあり余るほどの物があっても、不和が拡がってしまう。歴史上の戦争や革命の大半を引き起こしたのは、食糧不足ではない。フランス革命の先頭に立ったのは、飢えた農民ではなく、豊かな法律家だった。古代ローマ共和国(共和制ローマ)は、地中海全域から艦隊が財宝を積んできて、祖先が夢にも思わなかったほど豊かになった紀元前一世紀に権力の頂点に達した。だが、そうして豊かさを極めたまさにそのとき、ローマの政治体制は崩壊して一連の致命的内戦が勃発した。一九九一年のユーゴスララヴイアは、住民を養って余りある資源を持っていたにもかかわらず、分裂して恐ろしい流血状態に陥った。

こうした惨事の根本には、人類が数十人から成る小さな生活集団で何百万年も進化してきたという事実がある。農業革命と、都市や王国や帝国の隔てている数千年間では、大規模な協力のための本能が進化するには、短過ぎたのだ。

そのような生物学的本能が欠けているにもかかわらず、狩猟採集時代に何百もの見知らぬ人どうしが協力できたのは神話やおかげだ。だが、この種の協力は穏やかで限られたものだった。どのサピエンスの集団も、独立した生活を営み、自ら必要の大半を自らに満たし続けた。二万年前に社会学者が住んでいたなら、農業革命以降の出来事をまったく知らないから、神話が威力を発揮できる範囲はかなり限られていると結論づけるのではないか。祖先の霊や部族のトーテムについての物語は、五〇〇人が貝殻を交換し、風変わりな祭りを祝い、力を合わせてネアンデルタール人の集団を一掃できるほど可能ではあったが、それが限度だった。神話は何百人もの見知らぬ人どうしが日常的に協力することを可能にしうるとは、例の考古学者は、けっして思わなかっただろう。

だが、彼の考えは間違っていた。

じつは、神話は誰一人想像できなかったほどに強力だったのだ。農業革命によって、混雑した都市や無数の帝国を打ち立てる機会が開かれると、人々は偉大なる神々や母国、株式会社にまつわる物語を創作し、必要とされていた社会的つながりを提供した。人類の進化がそれまでどおりの、カタツムリの這うようなペースで続くなか、人類の想像力のおかげで、地球上ではかって見られなかった類の、大規模な協力の驚くべきネットワークが構築されていた。

紀元前八五〇〇年ごろ、世界で最大級の定住地はエリコのような村落で、数百人が住んでいた。紀元前七〇〇〇年には、アナトリアのチャタル・ヒュユクの町の住民は五〇〇〇

〜一万を数えた。当時そこは、世界最大の定住地だったかもしれない。紀元前五〇〇〇年紀と四〇〇〇年紀には、肥沃な三日月地帯[訳註パレスティナ地方からペルシア湾に及ぶ、弧状の農業地帯]には、何万もの住人を擁する都市が続々とでき、それぞれが、近隣の多くの村落を支配下に置いていた。紀元前三一〇〇年には、ナイル川下流域全体が統一され、最初のエジプト王国となった。歴代のファラオは、何千平方キロメートルもの土地と、何十万もの人を支配した。紀元前ニニ五〇年ごろには、サルゴン一世が世界最初の帝国、アッカドを打ち立てた[訳註 本書では通常は「王朝」となどと呼ばれる国家体制も、著者の語の選択に準拠して「帝国」と訳してある]。この帝国は、一〇〇万を超える臣民と、五四〇〇の兵から成る常備軍を誇った。紀元前一〇〇〇年から紀元前五〇〇年にかけて、中東では初期の巨大帝国が現れ始めた。後期アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシア帝国だ。これら三国はみな、何百万もの臣民を支配し、何万もの兵士を擁していた。紀元前ニニ一年、秦朝が中国を統一し、その後間もなく、ローマが地中海沿岸を統一した。秦は四〇〇万人の臣民から取り立てた税で、何十万もの常備軍をと、十万以上の役人を抱える複雑な官僚制を賄った。ローマ帝国は、その最盛期には、最大一億の臣民から税を徴収した。この歳入が、ニ五万〜五〇万の兵から成る常備軍や、一五〇〇年後になっても使われていた道路網、今日でも大がかりな出し物の舞台となる劇場や円形劇場の資金に充てられた。

見事であることには違いないが、ファラオのエジプトやローマ帝国で機能していた「大規模な協力のネットワーク」についてバラ色の幻想を抱いてはならない。「協力」というと、利他的に聞こえるが、いつも自発的とはかぎらないし、平等主義に基づいていることはめったにない。人類の協力ネットワークの大半は、迫害と搾取のためにあった。農民は急成長を遂げる協力ネットワークに対して、貴重な余剰食糧を提供させられた。収税史が皇帝の権威を振りかざして一筆書いただけで、まる一年分の重労働の成果を取り上げられるたびに、頭を抱えた。有名なローマの円形劇場は、裕福で暇なローマ人が、奴隷がさまざまな剣闘を演じるのを眺められるように、他の奴隷たちによって建設されることが多かった。監獄や強制収容所さえも、協力ネットワークであり、何千もの見知らぬ人どうしが、どうにかして協調行動を取ればこそ機能する。

古代メソポタミアの都市から秦やローマ帝国まで、こうした協力ネットワークは「想像上の秩序」だった。すなわち、それらを維持していた社会規範は、しっかり根づいた本能や個人的面識ではなく、共有された神話を信じる気持ちに基づいていたのだ。

(以下略)




脱出不能の監獄


想像上の秩序は共同主観的である


私が超人的努力をして自分の個人的欲望を想像上の秩序から解放することに成功したとしても、それは私ただ一人のことでしかない。想像上の秩序を変えるためには、何百万という見ず知らずの人を説得し、彼らに協力してもらわなければならない。なぜなら、想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、膨大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同の主観的秩序だからだ。

これを理解するためには、「客観的」「主観的」「共同主観的」の違いを理解する必要がある。

客観的現象は、人間の意識や信念とは別個に存在する。たとえば、放射能は神話ではない。放射線放射は、人類が発見するよりもはるか前から起こっていたし、人々がその存在を信じていないときにさえ危険だ。放射線の発見者の一人であるマリー・キュリーは、長年にわたって放射性物質を研究している間、放射性物質が自分の身体を害しうることを知らなかった。彼女は放射能で自分が死にうるとは思っていなかったが、それでも放射性物質への曝露が引き起こした再生不良性貧血で亡くなった。

「主観的」なものは、単一の個人の意識や信念に依存して存在している。本人も信念を変えれば、その主観的なものは消えたり変わったりしてしまう。自分以外の人には目にも見えず、耳にも聞こえない、想像上の友達の存在を信じている子供は大勢いる。その想像上の友達は、子供の主観的意識の中にのみ存在する。そして、子供が成長して、想像上の友達を信じなくなると、その友達は消え失せる。

「共同主観的」なものは、多くの個人の主観的意識を結ぶコミュニケーション・ネットワークの中に存在する。たとえ一個人が信念を変えても、あるいは、死にさえしても、ほどんど影響はない。だが、もしそのネットワークに含まれる人の大半が死んだり、信念を変えたりしたら、共同主観的現象は変化したり消えたりする。共同主観的現象は、悪意のある詐欺でも、取るに足りない見せかけでもない。放射能のような物理的現象とは違った形で存在するが、それでも世の中には非常に大きい影響を与えうる。歴史を動かす重大な要因の多くは、法律、貨幣、神々、国民といった、共同主観的なものなのだ。

たとえばプジョーは、プジョーのCEOの想像上の友達ではない。この会社は何億という人が共有する想像の中に存在している。CEOが同社の存在を信じているのは、取締役会も、同社の法律家たちも、近くのオフィスの秘書たちも、銀行の窓口係たちも、証券取引所の株式仲買人たちも、フランスからオーストラリアまで世界各地の自動車販売業者たちも、その存在を信じているからだ。もしCEOだけが突然プジョーの存在を信じるのをやめたら、彼はたちまち最寄りの精神科病院に入れられ、誰か別の人が後釜に座るだろう。

同様に、ドルや人権、アメリカ合衆国も、何十億という人が共有する想像の中に存在しており、誰であれ一人の人間がその存在を脅かすことはありえない。仮に私だけがドルや人権やアメリカ合衆国の存在を信じるのをやめても、どうということはない。これらの想像上の秩序は共同主観的なので、それらを変えるためには、何十億もの人の意識を同時に変えなくてはならない。これはなまやさしいことではない。これほど大規模な変化は、政党、イデオロギーに基づく運動、カルト宗教といった、複雑な組織の助けがあって初めて達成できる。だが、そのような複雑な組織を確立するためには、説得によって、多くの見知らぬ人どうしを協力させる必要がある。そしてこれは、それらの人々が何らかの神話を共有してして信じているときにしか起こらない。したがって、既存の想像上の秩序を変えるためには、まず、それに代わる想像上の秩序を信じなくてはならないのだ。

たとえは、プジョーを消滅させるには、フランスの法制度のような、より強力なものを想像する必要がある。フランスの法制度を消滅させるには、フランスという国家のような、さらに強力なものを想像する必要がある。そして、その国家さえ消滅させたければ、なおいっそう強力なものを想像しなければならない。

想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいるわけだ。







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ハラリ著作品④農業革命 ー農耕がもたらした繁栄と悲劇ー

2020-02-12 12:01:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り83ハラリ著作品

④農業革命

ー農耕がもたらした繁栄と悲劇ー

11







ユヴァル・ノア・ハラリ著作

柴田裕之訳

サピエンス全史・上 第2章農業革命 第5章農耕がもたらした繁栄と悲劇 より抜粋




人類はニ五万年にわたって、植物を採集し、動物を狩って食料としてきた。そして、これらの動植物は人間の介在なしに暮らし、繁殖のしていた。ホモ・エレクトスやホモ・エレガステル、ネアンデルタール人は、野生のイチジクを摘み、野生のヒツジを狩リ、どこでイチジクの木がねづくかや、どの草地でヒツジの群れが草を食むべきか、どのオスヤギがメスヤギを孕ませるかを決めることはなかった。ホモ・サピエンスは、東アフリカから中東へ、ヨーロッパ大陸とアジア大陸へ、そして最後にオーストラリア大陸とアメリカ大陸へと拡がったが、ホモ・サピエンスもどこへ行こうが、野生の植物を採集し、野生の動物を狩ることで暮らし続けた。他のことなどする理由があるだろうか?なにしろ、従来の生活様式でたっぷり腹が満たされ、社会構造と宗教的信仰と政治的ダイナミクスを持つ豊かな世界に支えられているのだから。

だが、一万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾けて始めたときだった。人間は日の出から日の入りまで、種を蒔き、作物に水をやり、雑草を抜き、青々とした草地にヒツジを連れていった。こうして働けば、より多くの果物や穀物、肉が手に入るだろうと考えてのことだ。これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった。

地図2









農耕への移行は紀元前九五〇〇〜ハ五〇〇年ごろに、トルコの南東部とイラン西部のレヴァント地方の丘陵地帯で始まった。それは地理的に限られた範囲でゆっくりと始まった。紀元前九〇〇〇年ごろまでに小麦が栽培植物化され、ヤギが家畜化された。エンドウ豆とレンズ豆は紀元前八〇〇〇年ごろに、オリーブの木は紀元前五〇〇〇年までに栽培化され、馬は紀元前四〇〇〇年までに家畜化され、ブドウの木は紀元前三五〇〇年に栽培化された。ラクダやカシュウナッツなど、さらにその後、家畜化されたり栽培化されたりした動植物もあったが、紀元前三五〇〇年までには、家畜化栽培化のピークは過ぎていた。今日でさえ、先進的なテクノロジーのいっさいをもってしても、私たちが摂取するカロリーの九割以上は、私たちの祖先が紀元前九五〇〇から紀元前三五〇〇年にかけて栽培化した、ほんの一握りの植物、すなわち小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦に由来する。過去ニ〇〇〇年間に家畜化栽培化された動植物にめぼしいものはない。私たちの心が狩猟採集民のものであるなら、料理は古代の農耕民のものといえる。

かって学者たちは、農耕は中東の単一の発祥地から世界各地へ拡がったと考えていた。だが今日では、中東の農耕民が革命を輸出したのではなく、他のさまざまな場所でもそれぞれ完全に独立した形で発生したということで、学者たちの意見は一致している。中央アメリカの人々は、中東での小麦とエンドウ豆の栽培については何も知らずに、トウモロコシとマメを栽培した。南アメリカの人々は、メキシコやレヴァントで何が起こっているかを知らずに、ジャガイモとラマの育成の仕方を身につけた。中国の最初の革命家たちは、稲とキビを栽培化し、ブタを家畜化した。北アメリカの最初の園芸家たちは、下草を掻き分けて食用になるウリ科の植物の実を探すのにうんざりして、カボチャを栽培することにした。ニューギニアの人々はサトウキビとバナナを栽培化し、一方、西アフリカの農耕民はトウジンビエやアフリカ米、モロコシ、小麦を自分たちの必要性に適合させた。これらの初期の各中心点から、農耕は至る所に拡がっていった。一世紀までには、世界の大半の地域で、大多数の人が農耕民になっていた。

では、農業革命はなぜオーストラリアやアラスカや南アフリカでなく、中東と中国と中央アメリカで勃発したのか?その理由は単純で、ほとんどの動植物種は家畜化や栽培化ができないからだ。サピエンスは美味しいトリュフを掘り出したり、ケナガマンモスを狩ったりすることはできたが、その栽培化や家畜化は問題外だった。菌類はあまりに捕らえにくく、巨獣はあまりに獰猛だった。私たちの祖先が狩猟採集した何千もの種のうち、農耕や牧畜の候補として適したものはほんのわずかしかなかった。それらは特定の地域に生息しており、そこが農業革命の舞台となったのだ。


かって学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言した。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉楽に満ち足りた暮らしを楽しんだ。

だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命はるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によつて、手に入る食糧の総量はたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。

それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

ここで小麦の立場から農業革命について少し考えてほしい。一万年前、小麦はただの野生の草にすぎず、中東の狭い範囲に生える、多くの植物の一つだった。ところがほんの数千年のうちに、突然小麦は世界中で生存するまでになった。生存と繁殖という、進化の基本的基準に照らすと、小麦は植物のうちでも地球の歴史上で指折の成功を収めた。一万年前には北アメリカの大草原地帯グレートプレーンズのような地域には小麦一本も生えていなかったが、今日そこでは何百キロメートルを歩いても他の植物はいっさい目に入らないことがある。世界全体では、小麦は二二五万平方キロメートルの地表を覆っており、これは日本の面積の約六倍に相当する。この草は取るに足りないものから至る所に存在するものへとどうやって変わったのか?

小麦は自らに有利な形でホモ・サピエンスを操ることによって、それを成し遂げた。


中略


それでは、いったいぜんたい小麦は、(略)農耕民に何を提供したのか? じつは、個々の人々には何も提供しなかった。だが、ホモ・サピエンスという種全体には、授けたものがあった。小麦を栽培すれば、単位面積当たりの土地からはるかに多くの食物が得られ、ホモ・サピエンスは指数関数的に数を増やせたのだ。野生の植物を採集し、野生の動物を狩って食いつないでいた紀元前一万三○○○年ごろ、パレスチナのエリコのオアシス周辺地域では、比較的健康で栄養状態の良い人々およそ一○○人から成る放浪の集団を維持するのがせいぜいだつた。ところが、紀元前八五○○年ごろ、野生の草が小麦に取って変わられたときには、もっと大きいものの窮屈な、一○○○人規模の村がやっていけた。ただし、人々は病気や栄養不良にはるかに深刻に苦しんでいた。

進化の通貨は飢えでも痛みでもなく、DNAの二重螺旋の複製だ。企業の経済的成功は、従業員の幸福度ではなく、銀行預金の金額によってのみ測れるとちょうど同じで、一つの種の進化上の成功は、DNAの複製の数によって測られる。DNAの複製が尽き果てれば、その種は絶滅する。資金が尽きた企業が倒産するのとまったく同じだ。ある種が多数のDNAの複製を誇っていれば、それは成功であり、その種は繁栄する。このような視点に立つと、一〇〇〇の複製は一〇〇の複製につねに優る。これ、すなわち以前より劣悪な条件下であってもより多くの人を生かしておく能力こそが農業革命の神髄だ。

とはいえ、この進化上の算盤勘定など、個々の人間の知ったことではないではないか。正気の人間がなぜわざわざ自分の生活水準を落としてまで、ホモ・サピエンスのゲノムの複製の数を増やそうとしたのか? じつは、誰もそんな取引に合意したわけではなかった。農業革命は罠だったのだ。