言の葉綴り153心的現象論序説④
Ⅲ心的世界の動態化 2原生的疎外と純粋疎外 吉本隆明著
心的現象論序説 吉本隆明著
昭和四十六年国九月三十日第1刷 出版 弓立社 より抜粋
2原生的疎外と純粋疎外
〈自然〉としての人間の個体が存在しなければ、どのような心的現象も個体にともなって存在しない、ということは実証のいらない自明の真理としては定立しえない。なぜならば、心的現象が存在するかいなか(あるいは心的現象が存在する)という命題は、心的現象が人間に存在するから命題を提起するのだという自同律的循環を前提として、定立されうるものである。ここでは、心的現象の内在的領域は、あたかも幽霊が存在するかのように、それ自体で存在するかのような仮象を呈する。心的現象がそれ自体として幽霊のように存在することを嗤うべき観念論としてしりぞけることはできる。しかし、そこでおわれば、嗤ったものは嗤われたものから復讐されるほかない。なぜならば、これを観念論として嗤った心的領域を、かれはあたかも幽霊のように観念の仮象として存在する現存性の歴史からかすめとったものだからである。この問題を、わかりやすく単純な例からおしすすめる。
いま、わたしが目の前の黄色のガラス製の灰皿を視たとする。この〈視た〉という現象は、さまざまな問題をふくんでいる。まず、わたしは灰皿を対象的な反映として視ている。ここでは灰皿はガラスでつくられた物体としてたしかにそこに存在し、それは視覚的にもたしかに受容している。しかし、この状態は〈注意〉と〈非注意〉の中間であやうく均衡しながらはじめて可能な状態であることがわかる。つぎに、わたしは、じぶんで視ている灰皿に〈注意〉を加える。そこには凹凸があり受け口が三つついており、キズが入っており、影の部分と明るい部分とがある。この状態では対象的な反映の段階を離脱し、わたしは〈視る〉ことにより灰皿を知覚的に加工している。しかし、わたしは依然として視覚という知覚的な現象の内部にいる。つぎに、わたしは灰皿を視ながら、このキズはかくかくの工場の製造過程のうちで、かくかくの理由でつくられたにちがいないと判断をめぐらす。またこの判断は、まったくべつの種類のものでもありうる。このキズのためにこの灰皿は美しくないとか、あるいはこのギズがあるのに高価でありすぎたというような。これらの判断も、わたしたちは灰皿を視ているという知覚の継続のはんい内で可能である。
このようにして、心的現象としての灰皿は、視覚による知覚作用のはんい内で、純粋視覚ともいうべきものにまで結晶しうることがわかる。この〈純粋視覚〉は、対象とする灰皿と、対象的な視覚なしには不可能であるが、視覚のはんい内で対象と対象への加工のベクトルが必然的にうみだす構造であり、その意味では、わたしにとっての灰皿と、灰皿にとってのわたしとがきりはなすことがでいないところでだけ成立する視覚を意味している。
この〈純粋〉化作用は、けっして客観の物体にたいする感官の作用、いいかえれば対照的知覚作用のはんい内でだけかんかえられるのではない。古典哲学が理性とか悟性とかよんでいるものの内部でもおこりうるものということができる。たとえば、わたしがいま〈Aはかくかくの理由で Bと同一であるにちがいない〉と判断したとする。このばあいA(なる物体でも事象でもよい)はわたしの判断作用にたいして外的な対象性であるかのように存在することができる。古典哲学が〈理性〉的な判断をわたしが所有するというとき、あたかもAなる対象がわたしの判断にたいして対象的な客観であるかのような位相を意味している。しかし、Aなる理性的対象とわたしの判断作用の位相はここに固定されるものではない。この位相は、あたかもAなる対象性とわたしの判断作用がきり離しえない緊迫した位相をもつこともできる。つまり、〈Aはかくかくの理由で Bと同一であるにちがいない〉というわたしの判断が、この判断対象ときり離すことができず、わたしにとって先見的な理性であるかのように存在するという位相である。ここで〈純粋〉化された理性の概念が想定される。わたしたちは、このような〈純粋〉化の心的領域を、原生的疎外にたいして純粋疎外と呼ぶことにする。そして、この純粋疎外の心的領域を支配する時間化度と空間化度を、固有時間性、固有空間性とかりに名づけることにする。
原生的疎外と純粋疎外の心的位相はつぎのように図示することができる。(第5図参照)
ここで、純粋疎外の心的な領域が、けっして原生的疎外の心的領域の内部に存在するとかんがえていのではない。それとともにその外部に存在するとかんがえているのでもない。構造的位相として想定しているのである。いいかえれば内部か外部かという問いを発すること自体が無意味であるように存在すると想定している心的な領域である。(註ー存在するというのは実在するという意味ではない。)
わたしたちは純粋疎外の心的な領域においては、たとえば知覚は知覚として失われてることなく、
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また意志は意志として失われることなく、理性は理性として失われることはないものと想定する。たとえば知覚を例にとれば、知覚に記憶や体験の痕跡が連合されて純粋化がおこるのではなく、あらゆる心的連合を排除して知覚は知覚とそのまま継続し、そのはんい内で〈純粋〉化を想定する。
わたしたちは、原生的疎外の心的な領域では、眼前に灰皿を視たということからはじまって、恋人の家でみた灰皿を連想することもできれば、その連想をどこまでも転換させて、眼のまえに灰皿を視たというはじめの出発点を忘れ去って遠くへゆくことができる。このばあい視覚はたんにあらゆる心的現象の契機をなすにすぎない。しかし、純粋疎外の心的領域では、眼のまえに灰皿を視たということから対象としての灰皿を離れることもできなければ、また対象的知覚をたんに視覚的反映の段階で手離して他の連合にとびうつることもできない。灰皿と対照的知覚とは離れることなく錯合される。この領域では、わたしたちの意識は現実的環界と自然体としての〈身体〉に依存するとかんがえない。同時に依存しないともかんかえない。依存することと依存しないこととは共時である。いいかえればひとつの錯合である。このような心的領域は、あらゆる個体の心的な現象が、自然体としての〈身体〉と現実的環界とが実在することを不可欠の前提としているにもかかわらず、その前提を繰込んでいるため、あたかもその前提なしに存在しうるかのように想定できる心的な領域である。原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。
誤解の余地はないものであるが、わたしたちの純粋疎外の概念は、たとえばフッサールの現象学的な還元や、現象学的なエポケーによって想定される純粋直観の絶対的所与性とちがう。現象学的な還元によれば経験的な諸対象は、経験的な諸対象についての意識とともに排除せられる。これらがどんなに客観的な確実さが証明されていてもつねに排除せられる。そして意識はそれ自体として固有の存在をもち、この固有性は現象学的などんな排除をほどこしても残留する本質としてかんがえられる。知覚についても現象学的な還元が残留させるものはおなじであり、知覚と知覚対象が統一的に内在化された客観として知覚作用の内部に残留し、その他は超越者としての方向へむけられる。しかし、ごらんのとおり、わたしたちの純粋疎外は(原生的疎外はもちろん)現実的環界の対象も、自然体としての(身体)もけっして排除しない。ただ、純粋疎外の心的領域では、これらは、ひとつの錯合という異質化をうけた構造となる。わたしたちの純粋疎外の概念は原生的疎外の心的領域からの切断でもなければ、たんなる夾雑物の排除でもなく、いわばベクテル変容して想定されるということができる。