言の葉綴り

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西行論①ー著者から読者へ 西行論についてー吉本隆明

2017-11-24 14:53:02 | 言の葉綴り
言の葉48 西行論 ①
ー著者から読者へ 西行論についてー 吉本隆明




西行論 著者吉本隆明 発行所(株)講談社 1990年2月10日発行
より抜粋


西行庵 吉野町公式ホームページより

今年の十一月に、はじめて吉野の西行庵のあとに寄った。なが雨がふりつづいてやみそうもない日で、山々は湧きたつような雨雲の動きをかかえこんでいる。車からおりて山路の本道からすこしそれて、奥まった小路をひとしおりまがって下りたところに、ちょうど山の傾斜を切り割ったようなこぢんまりした平地があり、そこが西行庵あとになっていた。路はよく刈りととのえられていたし、滑らぬように石を埋め込んで最近つくったらしい段々がついて、歩きよくなっている。西行庵ももちろんあたらしく、西行の木像が小屋に置かれて、これもそんなに年代がたっているともおもえない。きりひらかれた平地には谷に面して休憩小屋までできている。だが三方をとりまく山々と谷間に湧きたつ雲のうごきをみているうちに、何となくここに庵をさだめた西行の気分になって、周囲の山の気配を見わたしていた。本道の山路からすこしだけ入り込んでいて、ちょうど山の傾斜を切りこんだように、ほんとに適当なひろさの一人住まいにふさわしい平地が三方にせまった山なみにとりかこまれている。食べものをを本道沿いの山里からつごうすれば、きっと一年の何分の一かは住むのにそれほどひどいところでもない。春にはこの地の桜も咲くだろうし、秋には黄葉の落葉をふみ、また目のまえの谷ごしの山々も色づくにちがいない。何となくこれが西行という感じが、わかりかけてくるようだった。
ときともなれば西行は吉野山にやってきて、ときに応じ庵をむすび、ある季節を過ごした。それはなぜだろうか。桜の花をとても好きだったからだ。それに目崎徳衛が確定したところによれば、西行の所領地が高野の山領の近くにあって、たぶん吉野は武門の時代から馴染みの深いところだったにちがいない。高空の写真でも、行ってみてもすぐにわかるのだが、ここは何といっても紀ノ川(吉野川)を麓にひかえた場所で、地質上の中央構造線がこの川沿いに通っている。この中央構造線は延びにのびて、四国の瀬戸内海側によったところを横断し、その地層の裂け目は、大分(豊後)をつらぬいて阿蘇山頂をわり、熊本(肥後)川まで走っている。帰りに吉野峡谷のそばまで下りて、ここのたたずまいが、高千穂峡谷と同じであることをみたとき、なぜひとは吉野、熊野の地に、根拠地のイメージをもとめるのか、理解できるような気がした。この中央構造線にそってゆけば、九州までまっすぐに走れたのだとおもう。大和朝廷は神話的拠点を高千穂にイメージしたとおなじ理由で、他界のイメージの拠点を中央構造線の境にもとめた。また野の宗教者が、律令制外の拠点をもとめるばあいもおなじだった。西行がこの地に庵をむすび、回峰の修行にかようというような、非常の心構えにのめりこむときに、吉野の地をめざしたのもおなじように、地勢のうえに地磁気のように惹かれる根源を感じたのかも知れないとおもった。これは今年になってはじめて吉野の西行庵に行って、その場所から感じたことだ。
西行論は研究もふくめて数えきれないほどたくさんある。わたしなどの念頭にある西行論のはじまりは、小林秀雄の「西行」ということになる。古典詩人の像とその歌の理解をこれほどわたしたちの目のすぐまえまて鮮やかにもってきた古典論は、それ以前にはまったくなかった。小林秀雄のこの仕事がなければ、わたしなどは古典を批評の対象にしようという意欲を、とうていもたなかったろう。それは小林秀雄の西行像が当たっているかどうかとは、ほとんどかかわりないといってよい。西行の像とその歌をたしかに手もとまでひき寄せてみせた批評がここにあった。それは言葉の時間と空間をま近にひきよせる方法的な成果を意味していた。西行論と研究の歴史からいえば、このあとに五来重の西行研究をもってくるとわかりやすい。それまで崇徳や鳥羽帝を中心にした貴族社会の側近として、その周辺に姿を出没させる由緒ある初期のエリート武門という西行像しかなかった。五来重の西行像は、それまでの西行像をいちじるしく修正して、高野の遊行聖としての西行という像に近づいていった。これによって世を捨てても、「捨てて捨てえぬ心持」がして、都の周辺に姿を現わす西行とちがって、どこまで世を捨てえたのかという、捨身の西行像に光があてられ、この面でも西行は、相当に徹底した世捨て聖として、底の深い像があらわにされることになる。西行論と研究の歴史からいえば、このあとに目崎徳衛の「西行の思想史的研究」をもってくれば、およその見取図または道しるべができあがるのではないかと思う。ここで目崎徳衛は当時「家富………」といわれた西行(佐藤義清)の所領が、高野山領の周辺にあり、西行の弟が高野山と所領の争いをやった記録をみつけだし、西行の豊穣な旅や遊行の像の背後にあるものをつきとめた。
わたしも西行の東北の二度の旅や、房総地や新編の武蔵風土記にのこる西行伝説などから、この筋に西行の旅を支えたものがあるのではないかという推論をたてたが、及ばなかった。千葉県館山の西行伝説のある寺を訪れたときのことを思いおこす。しずかな漁村の海岸からは奥まった山際のお寺で、住職は昔から三浦半島から館山へ渡る交通が海路ひらけていたことを語ってくれた。しずかな海岸、しずかな海辺の漁村。まるで水のなかに埋もれそうないいたたずまいだった。これは吉野の山奥とまるで対象的なのだ。西行はきっと海山ふたつの交通路によく通じていたにちがいない。