言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

〈非知〉へ——〈信〉の構造「対話篇」②わが思想と親鸞の世界…その2

2020-10-18 10:33:00 | 言の葉綴り

言の葉104〈非知〉へ——〈信〉の構造「対話篇」②わが思想と親鸞の世界その2







〈非知〉へ——〈信〉の構造

「対話篇」一九九三年一二月二五日発行      著者吉本隆明 発行所株式会社 春秋社

より抜粋






わが思想と親鸞の世界

対話者 中村了権


自力が働く共同社会への通路は意味がない  より抜粋


(前略)


中村  だけど、世の中を見つめて、これだけはどうしても許せないというものを発見して、かなりな行動をしておられる……

吉本  最近、そういうことでいえばいちばんひっかかることは、制度共同社会への〈善悪〉の通路とか、生き方の通路とか、〈自由〉というものの通路といいましょうか、それがなかなか見つけられにくいなということのような気がします。一人ひとりの覚者というか、悟り得た者というか、悟りを得られないがゆえに問題をかかえている人が、十人より集まれば十人の共同社会ができるかというと、なかなかそうはいきません。

つまり一人ひとりは覚者でない悩みをよく知っている、よく心得ている存在者だけれども、それが十人集まっちゃうとまた別な要因が出てきて、覚者同士あるいは覚者でないことの自覚をしている者同士が混乱に陥ってしまうということがあるような気がします。混乱に陥って一人ひとりとってきたら悪なのかというと決してそうじゃないのに十人集まってこういう制度の中に組み込まれてきたがゆえに悪になっちゃうことがあると思うんです。

そうすると一人ひとりは、単独に切り離したら決して悪ではないし、何でもないが、制度とか共同性②入ってくると悪も生じてくるし、善も生じてくる、また戦いも生じてくるようになっちゃう。そのメカニズムといいましょうか、その通路をどういうふうに辿ってゆけばいいのかということがむつかしいように思います。だからその通路がうまく出来ればなあ、という感じがするんです。

また男と女という問題、家族という問題で、一人ひとりが善であっても、覚者であっても、それが男また女として振る舞う場合には、矛盾とか葛藤とか嫉妬とかが出てきてしまう。本当は親鸞がそういうことについては書き残してくれたらたいへんよかったと思うんです。親子の問題で息子の善鸞を義絶したりしたんですから……

義絶した場合に、血縁としては親子なのに、一つの信仰を共にする者としてはこれを義絶する、これを断罪するという体験を親鸞はしています。書簡を見て、たしかにある意味ではその状況想像してみることはできますが、その問題にことさら思索をかためて書き残したものはないですね。

でも体験としては相当に悲しいめを自分にしているわけだし、またいろいろ異端の対立でもって自分の接した人が分裂して争うことも体験しているわけです。生臭い問題を全部体験しています。それをどう飲みこんだか、どうのみ込んで「自然法爾」みたいなところへ赴いたのか。またどうふうにのみ込めなかったから、書簡をさまざまな形で差し出しては説得したり、それは嘘だといってみたりしなくちゃならなかったのか。それは親鸞はよく体験しているわけです。今でも通用する形で具体的なイメージで取り出せたらたいへんいろいろなことがわかる気がするんです。

中村  晩年に別居もしているし……

吉本  そうそうとても現代に通用する興味深さがありますね。

中村  ところで、人間の行動姿勢という観点から、先におっしゃった通路の問題に関心が湧きますが、例えば覚者としての個善者としての個の行動も、制度や組織の中に組み込まれると混乱に陥り、悪も生じ、ひいてはファシズムに自分自身をおとしいれてしまうというジレンマが背負わされると思うのですが、結局、そのことは意志的に行動を制度化あるいは組織化してはいけないということを意味しているのでしょうか。やはり一人ひとりでやることに本来的な意味があるのであろうか。

吉本  やはり意志的に組織したら、それこそ凄惨な戦い、争いになるからそれはしたくないし、そしてそのような組織化はあまり意味がないんだと受け取れますね。

中村  そういえば吉本さんは、すでにそういうことを親鸞の書簡「御消息集」七をベースに思索しておられる。

「餘のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからひあわせたまふこと、ゆめゆめあるべからざるさふらふ」という親鸞の言葉を使引いて、こうおっしゃっている。

《つまり無縁の人々をむりやり縁として引っぱってきて、それを契機とした念仏をひろめるようなことをしちゃいけない。なぜなら、それは、一種の〈計い〉というか、自力の要素が入ってくるから、そういうことをするべきじゃないんだ。(中略)そういう念仏をひろめようとか、組織をひろめようとか、それは現在でも同じだとおもうんです。宗教のかわりに、政治組織でも、学問の派でもいいんですが、組織という一種の共同性は、人を獲得して員数が多ければ多いほど力を行使できるんだという考え方は、今でもあるわけです。それにたいしては、たいへん否定的です。むしろ逆に、そういうのをひろげるのはあまリ意味がないのだ、ということです。そこに自力が働くということもあるんですけれども、またその根拠にはきっと、そういうふうにしてひろげられた組織教団は、そんなに意味がないんだ、というふうに受けとれます。むしろ〈必然の受動性〉みたいなところで自然にできたものがものをいうので、それ以外はほんとはあまりものをいわないのだ、という認識が根底にあるんじゃないか。》(「親鸞固有の思想——『書簡集』から」ノートv

本来的な行動の在り方が、ここに学べるような気がします。


〈非僧非俗〉の生き方について  より抜粋


(前略)


吉本  マックス・ウェーバーがアジア的宗教を論じている中で、浄土真宗というのはどこが特徴かということを書いてて、やっぱりそのこと(〈非僧非俗〉のこと。当方にて補足)を言っています。僧侶主義でないところが真宗のいちばん特徴的なところだと。

ウェーバーの方から見るとそう見えると思うんです。インド的仏教の在り方とか中国的仏教の在り方がある中で、日本における仏教自体の在り方として、僧に非ず俗に非ずという親鸞的な在り方は、いってみれば仏教としてはとても特徴的と見えるんでしょうね。ウェーバーは、親鸞の教義じたいよりも、そこに目をつけてそういう言い方をしています。

とにかく外から見ても仏教思想から見ても、また浄土思想の流れから見ても、親鸞の〈非僧非俗〉の生き方とまたその布教の仕方、信仰生活の在り方は特徴的だと思います。現在ではそれほど不思議でもないということでしょうけど、当時でいえばたいへんなことでしょう。俗の方から見れば、それこそ「聖なるもの」というのは僧侶の概念の中にびしっと入って、僧を聖なるものと考えたでしょうしね。そこへ親鸞のような僧でもない俗でもないという考え方で、そこに入ってきて、さまざまな意味で大変だったんじゃないでしょうか。圧迫もあっただろうし……。一般の人びとからの受け取られ方もたいへんだったから、えたいの知れない人がいて、えたいの知れないことを言う、俗の方からそう見えたんじゃないかなと思います。また僧侶の方から見たら、まるで破壊の存在に見えたんじゃないでしょうか。

しかし、大なり小なりそこのところで親鸞の思想信仰の、同朋というのは広がっていったように思います。

中村  やはり吉本さんは『最後の親鸞』で、この〈非僧非俗〉の生き方に焦点をあて、親鸞の親鸞たるゆえんを浮き彫りにしておられる。ぼくは、あそこは吉本さんが親鸞に迫る思索的圧巻だと味わっています。いま、ここに圧巻的な吉本さんの思索の花びらを、思いのままに並べてみたい。

《越後配流の体験は親鸞にある感性的な転向を強いた。……〈衆生〉とは、たんに〈僧〉たるものが〈知〉の放棄によって近づくていの生やさしい存在ではなかった。また〈僧〉たるものが、安直に専修念仏をすすめれば帰依させうる存在でもなかった。》

《越後配流中に親鸞は、のちの恵信尼と同棲したとおもわれる。……妻帯して子をまじえて営んだ生活は、形から〈非僧〉だったばかりではない。このあたりで親鸞は易行道によって〈衆生〉を教化するという理念を放棄したとおもえる。かれ自身が〈衆生〉そのものになりきれないことは自明だったが、また〈衆生〉は、専修念仏によって釣り上げるべき与しやすい存在でもなかった。親鸞にできたのは、ただ還相に下降する眼をもって〈衆生〉のあいだに入りこんでゆくことであった。》

《親鸞がこの時期に体得したところでは、〈衆生〉はことのほか重い強固な存在で、なまじの〈知〉や〈信〉によってどうかなるようなちゃちなものではなかったのである。教化、啓蒙のおこがましさを、親鸞は骨身に徹して思想化するほかなかったとおもわれる。》

《越後の在俗生活は、親鸞に〈僧〉であるという思い上がりが、じつは〈俗〉と通底している所以を識らせた。そうだとすれば〈僧〉として〈俗〉を易行道によって救い上げようとするのは、自己矛盾であるにすぎない。

〈衆生〉にたいする〈教化〉、〈救済〉、〈同化〉といったやくざな概念は徹底的に放棄しなければならない。なぜならばこういう概念は、じぶんの観念の上昇過程からしか生まれてこないからだ。観念の上昇過程は、それ自体なんら知的でも思想的でもない。ただ知識が欲望する〈自然〉過程にしかすぎないからほんとうは〈他者〉の根源にかかわることができない。往相、方便の世界である。〈他者〉とのかかわりで〈教化〉、〈救済〉、〈同化〉のような概念を放棄して、なお且つ〈他者〉そのものではありえない存在の仕方を根拠づけるものは、ただ〈非僧〉がそのまま〈俗〉ではなく、〈非俗〉そのものであるという道以外にはありえない。……かれの外貌は遁世の僧体とはならず、独自な思想を秘めた在家の念仏者のものであった。》(こういう吉本さんの思索の真意をつかむために、『最後の親鸞」の中の『ある親鸞」を熟読してほしい。)

親鸞のイメージについて語り合うことには、尽きるということがないようです。どうもありがとうございました。

吉本  まだ浄土の問題については、あなたにお聞きしたいことがたくさんあります。

る。


〈非知〉へ——〈信〉の構造「対話篇」②わが思想と親鸞の世界…その1

2020-10-11 10:33:00 | 言の葉綴り

言の葉103〈非知〉へ——〈信〉の構造「対話篇」②わが思想と親鸞の世界その1







〈非知〉へ——〈信〉の構造

「対話篇」一九九三年一二月二五日発行      著者吉本隆明 発行所株式会社 春秋社

より抜粋






わが思想と親鸞の世界

対話者 中村了権


親鸞と「新約聖書」への関心 より抜粋


(前略)


中村 「歎異抄に就いて」書かれたころの状況はいかがでしたか。

吉本 あの「歎異抄に就いて」は、戦争が終わってすぐに書いたんです。戦争中に一生懸命本を読んでいろんなことを学んだんですか、戦争が終わってがらりと世の中が変って、、戦争中の教養、知識というものはとにかく全部だめみたいな、そういう風潮がすぐに起こってきました。それに対して自分は、あんまりすぐについて行けないという谷間みたいなところにいました。戦争中の亀井さんの親鸞もそうだったけれども、そういう自分が当時の風潮に入り込んで読んだ古典の世界みたいなものに、自分なりの決着というか、決算みたいなものをしないと、どうしてもがらりと変った戦後の風潮についていけなかったわけです。それで少しいこじになって、あの戦争中に読んだ古典をまた改めて読んだんです。そのとき「歎異抄に就いて」もそのころ書いたんです。ちょうど三木清の親鸞が遺稿みたいな形で出たときでもあったし、ぼくの大学生の最後の年ぐらいということで、とても懐かしい文章の一つです。

中村  そのとき『歎異抄』が自らの生きざまの中に深く食い込んできたわけですね……

吉本  戦争中もそれなりに感銘して、好きなものの一つでしたが、そのとき本格的に食い込んできた感じがしました。つまり過去というものは一足飛びに捨てきれないみたいな、また捨てないで考えていくのが本当なんじゃないかみたいな、そういう気持ちがあって、かなり混乱した心境のときであっただけに食い込んできたですね。

そのあと、見え隠れに引きずってきたというのが自分の中の親鸞だと思うけど、その見え隠れに引きずったということは、こんどぼくの戦後の教養というものにかかわりがあります。これは『新約聖書』に対する関心とかさなって、見え隠れしたと思います。『新約聖書』は、かなり親鸞にに似ているところがあります。つまり『新約聖書』の世界の罪とか悪とかに対する理解の仕方に似てるんじゃないかというふうに、自分の中ではまったく歴史性ぬきにそう思いました。キリスト教に対する関心は代償みたいにぼくの中にあったから、それと見え隠れに、どうしても親鸞の像がかさなって、関心の的でした。


逆説をもって「真」に迫る論理 より抜粋


中村  そのようにして『歎異抄』に触れられたとき、どういうところに共鳴されましたか。

吉本  それはまったくぼくらの戦後の混乱と一種のデカダンスみたいなものと、それから民主的な文化国家を建設すべきだけどいう、戦後すぐのそういう掛け声に建設的についていけない谷間みたいなところでふれていたから、そうするとやっぱり人並みなんですが、「善人でさえもなお往生をとげることができます。まして悪人ならばなおさらのことです」というような、一種の逆説といいましょうか、逆説でしか善悪の問題には迫っていけないんだというように、ぼくらは読みかえて、これは自分の言葉で相当深いところまでものごとを言っている宗教家というよりも、ぼくらは思想家というふうに思って、これは本当に自分の言葉で善悪の問題の核心に迫ることができる人だと解しました。

つまりそういう逆説で、論理というものの中心をつくっていくやり方に共鳴したんですね。いまでもそういう言い方がぼくは好きです。「いずれの行(ぎょう)も及びがたいこの身であるから、地獄はわがすみかであると定まっています」という言い方で、やっぱり悪という問題が、いつでも論理の裏側にちゃんと意識されていて、それを包みこもうという考え方が流れています。これをまともに述べるとどうしても核心の部分が自己欺瞞になってしまう。その自己欺瞞をどうやって避けていくかと考えると、やっぱり悪の部分が正義なんだという、そういう言い方以外にないみたいな、そういう善悪の機微をよく理解して、そこに迫っている思想家なんだという、そういう読み 方をしました。


(中略)


中村 そのように自分の身に引きよせてこられた『歎異抄』と『新約聖書』には、どのように脈打つものがありますか。

吉本  ぼくは『新約聖書』の中で『マタイ伝』が好きでした。たとえばキリストが故郷で説教をしていたとき、群衆にまじって母や兄弟が聞きにきていた。それでそばのだれかが、「あそこでお前の母や兄弟が聞いてるぞ」というと、キリストは「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とはだれのことか」(「マタイ」一ニ)というふうに言ったり、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(「マタイ」一ニ)と言い切っているところがあります。そういうところは『歎異抄』の中にもあって、「親鸞は父母の追善供養のためということで、一度でも念仏を申したことは、まだありません。そのわけは一切の生きとし生けるものは、みなほんとうに世々生々にわたる父母兄弟なのです」と言っています。

つまり、自分の血縁の父母・兄弟姉妹だからどうということではないんだ、同朋同行が父母兄弟であって、もっと極端にいえば、生きものというものはみな父母兄弟だ。自分の父母兄弟の孝養みたいなところで念仏したことはないし、そういうふうに考えているわけじゃないというところは、たいへん両者は似ています。肉親と信仰あるいは思想というものを、どういうふうに考えるのか、わきまえるのかということについての考え方が、かなり核心に迫る迫り方で似ていると考えられますね。

(以下略)



宿業について  より抜粋


(前略)


吉本  つまり宿業というものを決定論、すでに決められているものと受け取るとたいへんまずいことで、親鸞はそういう受け取り方をしていないように思います。

ただ、ぼくはあるところまではわかるんです。つまり、人間のやる善悪というものは、そんなに大したことはない。ほんとうに大きな善悪というものは、向こうから何らかのはからいでやって来る。人間が他に施せる慈悲なんか、そんなに大したものじゃない、大きな慈悲は、向こうからやって来るはずなんだから、とにかく向こうというようなものは、意識としては除いているべきだ、そしてそこからまた帰ってこなければほんとうの意味で善とか悪とかいうことはできない。そういう考え方があるように思います。この考え方は、宿業の決定論じゃないと思いますね。

中村  その宿業と決定論は、また行動に限界をつける可能性がありますね。

吉本  なんといいますか、人間がやる善悪で善悪の限界線を決めてしまうと、その善と悪はその時代社会が墨守する善と悪の中に入ってしまう。その時代社会で、善と悪とはこうだというふうに精いっぱいふるまったとしても、その善悪はその時代社会を超えることはありえない。ほんとうは善悪はというものは大きな規模で考えた方がいいんだ。また人間がやる慈悲とか思いやりというようなものは、そんな大きなものじゃない。だからその慈悲とか思いやりとかあわれみというようなものに限定をつけてしまえば、やっぱり時代社会の枠を超えられない。だからもっと大きな慈悲はもうひとつあって、その大きな慈悲に照らして人間の大したことのない慈悲の意味が決まってゆく。だから前の世からというふうに下降してくる時間の取り方は、難解なのだと思います。

(以下略)



 生死を照射する浄土  より抜粋


(前略)


中村  しかし、吉本さんは『最後の親鸞』における『教理上の親鸞」の項で、かなり親鸞の浄土観について思索しておられますね。

吉本  そうなんですが、これも親鸞の難解なところなんです。親鸞は、書簡集などの言い方では、また再び浄土でお会いしましょうみたいな言い方をすることがあります。そういう言い方をされたときはその通りで、ぼく、そういう言われ方の中でいえば、ぼくのおやじおふくろはそうでなかったけど、おじいさんおばあさんは文字どおり浄土は実体的に存在する。死んだら必ずそこへ行けるというふうに信じていたと思うんです。

しかし、親鸞が浄土思想として厳密に詰めたときの浄土は、ぼくの理解の仕方では、死後に浄土の実体があるというふうには理解していないと思います。つまりどう言ったらいいんでしょう……。自然の流れのようなところに生きている生というものと、その流れがとまる死というものがあるとすれば、その生と死の、場所的な中間ではないけれども、その中間のところに浄土という言葉がさす何かがあって、そこから死というものも、また生というものも見られている。結局、浄土というものがそこに想定され、かんがえられる、そういう意味なんだとはいうふうに受けとられます。

中村  そのことを吉本さんは、『最後の親鸞』につぎのように書いておられる。

《親鸞は死を生の延長線に、生を打ち切らせるものというようにかんがえなかった。死はいつも生を遠方から眺望するものであり、人間は生きながら常に死からの眺望を生に繰入れていなければならない。。このとき精神が強いられる二重の領域、生きつつ死からの眺望を繰入れるという作業に含まれた視線の二重化と拡大のなかに、生と死、現世と浄土との関係があるとみた。》(「教理上の親鸞」)

吉本  親鸞はそういう意味では浄土というのを実体化しないし、死後に浄土の世界があるということをどんどん拒否して、あるきわどい言い方をすれば、それは「無」なんだ、「空」なんだと言っていると思います。自分がそういう言い方をしなくても、そういう場所をちゃんと引用して『教行信証』などを著作しています。

中村  もう一つ、吉本さんはこの浄土の概念について、「浄土は阿弥陀という光にあふれた仏性の本願の力によって像出された世界であり、この仏性の四十八願が存在しなければ存在することができない。またこの本願力が存在できるとみなされたところで、はじめて存在する世界にほかならない」(前出)という視点をしめしておられますね。

吉本  本格的な浄土の理念ということになれば、そうなりますね。ともかく人間の生死というものの両方を見つめる場所をといいますか、その両方が見える場所といいましょうか、そういうところがあるんだ、そういうところに行くと生も見えるし死もまっすぐに見えてしまう。そういう場所へいたるみたいなことが、つまり「無」であり「空」であり「涅槃」であるような、そういう想定の仕方があって、それで浄土をさそうとしていると思われます。

中村  やはり浄土の問題は、人間の生死ということに深くかかわってくるわけですね。

吉本  サルトルやフーコーでもそうなんですが、彼らはだいたい三十代の後半ぐらいから、かなり死ということを徹底的に考え詰めていますね。そして、ちゃんと論じていますね。そして彼らは親鸞に近いことを言っています。

つまり死ということにはどう意味があるのか、また死というのはどういうふうに想定されるのかということです。サルトルもフーコーもフランスのカトリックの伝統的な中で言っているわけでしょうが、彼らはもちろんカトリック的な意味での天国とか神の国を少しも考えないで、やっぱり死というのは本格的な肉体の死と肉体の生をどっか照射するところにあるというふうに言っています。死から照らし出されるものが、やっぱり人間の本当の存在の仕方といいましょうか、そういうもんなんだという言い方をしていますね。

ぼくは、そういう考え方に身を引きよせるもんだから、親鸞が浄土というのをどう理解したのか、あるいは浄土へ行くとか行けるとか、念仏を称えたときには行けるんだと考えている場所といいますか、それはどういうもんなのかということに関心をもち、自分に引きよせているわけですけど、そこがたいへん微妙なように思います。

中村  どうやら浄土ということも最後には「自然法爾」(当方註1)ということの詰め方によって、味わいが出てくるかもしれない……

吉本  それに集約されるような気がします。つまり当時でいえば日本人の平均寿命は四十歳前後。 そのくらいで多くの人たちは人生を終っていたわけでしょう。親鸞の場合はその倍ぐらい生きてます。現在なら平均寿命七十四、五歳だから百五十歳ぐらい生きて、結局、最後のところで、ふっと、「あー、わかった」という感じで、そのとき〝自然法爾だという、これはちょっと超人的ですね。