言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

惜別 なかにし礼さんそして「石狩挽歌」②「石狩挽歌」

2021-02-24 14:05:00 | 言の葉綴り

言の葉111惜別 なかにし礼さんそして「石狩挽歌」②「石狩挽歌」

BSTBS TV放送 悼作詞家 なかにし礼の世界及びB S11TV 2021.2.10放送 追悼 なかにし礼 より抜粋(映像一部引用)


「石狩挽歌」

歌  北原ミレイ

作詞 なかにし礼

作曲 浜圭介


海猫(ゴメ)が鳴くからニシンが来ると

赤い筒袖(ツッポ)のヤン衆が騒ぐ

雪に埋もれた番屋の隅で

わたしゃ夜通し飯を炊く

あれからニシンはどこへ行ったやら

破れた網は問い刺し網か

今じゃ浜辺でオンボロロ

オンボロボロロ

沖を通るは笠戸丸(かさとまる)

わたしゃ浜辺でにしん曇の空を見る


燃えろ篝火朝里の浜に

海は銀色にしんの色よ

ソーラン節に頬そめながら

わたしゃ大漁の網を引く

あれからニシンはどこへ行ったやら

オタモイ岬のニシン御殿も

今じゃさびれてオンボロロ

オンボロボロロ

かわらぬものは古代文字

わたしゃ涙で娘ざかりの夢を見る


〈本人語りまたは著述より〉

①「石狩挽歌」という歌は、僕自身の兄貴との体験とか、色んなことがあった。また、その体験によって僕は現場を知っている。そして僕があげた「失われた時を求めて」という、日本にかってあった風景で、今はない風景を歌おうじゃないか。そこには恋愛もなければ何もない。

おばあさんが出てきて、昔を懐かしむ風景。浜辺に立ってね。そういう歌でもいいからいい歌であれば、絶対に書くべきだと思って書いた。

②ただ、大衆性の面では寄り添う温かさに欠ける。作詞家として更なる力を傾けた。結果、歌詞の中にオノマトペを加える事とした。これによりぐっと大衆性が増し、人々の心に寄り添う作品が完成した。オンボロロ オンボロボロロ(作者の造語)である。

これまで技法として封印して使わなかった七五調での、確かな言葉と文句使って書いた。

④石狩挽歌の原風景

遅れて小樽に帰ってきた14歳年上の兄正一と見た石狩湾の風景こそが、この歌の原風景である。昭和23年(1948年)3月、兄はニシン漁に手を出した。家を担保にして25万円をこしらえ、それを元手に増毛の網元から三日間の網を買ったのだ。そのうち1日でも大漁があったら、元手の10倍似膨れ上がるものだったが、失敗した。小樽の家が1軒消えた。

一家は追われるように東京に出た。

それから約30年後の1975年、「石狩挽歌」発表となった。


〈旧満州から引き揚げで、親の故郷小樽に住むまでの略歴〉

昭和13年(1938年)9月中国黒竜江省(旧満州牡丹江)誕生

昭和2089日ソ連が満州侵攻

昭和219月両親の故郷北海道小樽へ引き揚げ(ソ連侵攻から牡丹江ハルビンロコ島引き揚げ船まで広い満州を12ヶ月逃げ回わる壮絶な体験をした)

あの12ヶ月にまさる飢えと恐怖に襲われたことはない。

あの12ヶ月にまさる失意と絶望に落ち込んだことはない。

あの12ヶ月は私の人生の核であり私の感受性の中心部である。

と述懐している。


〈歌詞、文句の説明〉

○ゴメ(海猫) 魚が来るのをしらせる鳥で東北地方の方言

○赤いツッポ(筒袖) 赤いケットと呼ばれた防寒着

ヤン衆  臨時の漁師たち

番屋  網元が鰊漁を経営のため造った住居兼漁業施設

問い刺し網  大群で押し寄せたニシンの白子で、海が白濁する現象を確認する試し網のこと

オンボロロ オンボロボロロ  オノマトペ=擬態語、擬声語 オンボロ+ロ オンボロ+ボロロ、なかにし礼さんの造語

笠戸丸  ブラジル移民船や定期航路船、漁業工船等として用いられた。往時、石狩湾沖を定期航路船として通っていた。今はもうない

にしん曇  北海道の早春(2月〜4月)ニシンの漁期になると周期的に崩れる曇り空 (なかにし礼さんは夕方独特の色合いの曇り空と)

朝里の浜 小樽の浜の一部 石狩市寄りの海岸

ソーラン節に頬そめながら  ヤン衆が唄うソーラン節の猥歌に娘盛りが頬をあからめる

オタモイ岬 小樽にオタモイという地名はあるが、オタモイ岬はない(オタモイはアイヌ語で砂浜の意)

古代文字  北海道異体文字は1886年に発見された文字 アイノモジ、アイヌ文字とも呼ばれる

〈ニシン漁に関する追補〉

江戸末期から昭和20年代までがニシン漁の最盛期であり、昭和30年代にはまった

くニシンが来なくなった。

29年に中学生だった方の話では、忍路漁港のニシン漁に駆り出されて1ヶ月ちょっとの報酬が、13万円(現在の300万円)だったとのこと。網元達の中には、一万石(75千トン)の漁獲量をあげ、現在換算で25億円を稼ぎ出すこともあり、豪邸が建てられニシン御殿と呼ばれた。

昭和30年を境に、歌詞の文句「あれからニシンはどこへ行ったやら」となってしまった。


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