言の葉綴り

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共同幻想論③起源論…その1

2020-07-28 12:05:00 | 言の葉綴り

言の葉98共同幻想論 

③起源論その1






吉本隆明全著作集11 思想論II             共同幻想論 著者吉本隆明 発行所勁草書房 昭和四七年九月三〇日第一印刷発行 より抜粋


起源論その1


ここ数年のあいだに古代史家たちのわが〈国家〉の起源についての論議がわたしたちの耳もとにとどくようになってきた。わたしたちはその論議からあたらしい知識をえられるようになった。しかしそれと同時になにを〈国家〉とよぶのか、そして〈国家〉の起源というのはなにを意味するのかについて深刻な疑惑をもふりまかれたのである。えられた知識についてはよろこんでうけとることができるが、深刻な疑惑についてはいちおう返済しておかなくてはならない。これらの史家たちの論議はわたしたちが〈国家〉とはなにかの把握について、まったく未開の段階にしかないことをおしえている。


はじめに共同体はどういう段階にたっしたとき、〈国家〉とよばれるかを起源にそくしてはっきりさせておかなければならない。はじめに〈国家〉とよびうるプリミティヴな形態は、村落社会の〈共同幻想〉がどんな意味でも血縁的な共同体から独立にあらわれたものをさしている。

この条件がみたされるとき村落社会の〈共同幻想〉ははじめて家族あるいは親族体系の共同性から分離してあらわれる。そのとき〈共同幻想〉は家族形態と親族体系の地平を離脱してそれ自体で独自な水準を確定するようになる。

この最初の〈国家〉が出現するのはどのような種族や民族をとってきても、かんがえうるかぎりの遠い史前にさかのぼっている。しかしこの時期を確定できる資料はいずれのばあいものこされていない。考古資料や古墳や金石文が保存されているのは、たかだかニ、三千年をでることはないし、しかも時代がさかのぼるほどおもに生活資料を中心にしかのこされておらず、〈国家〉のプリミティヴな形態については直接証拠はのこされない。

しかし生活資料たとえば土器や装飾品や武器や狩猟、漁撈具などしかのこされていないにしても、その時代に〈国家〉が存在しなかったという根拠にはならない。なぜならば〈国家〉の本質は〈共同幻想〉であり、どんな物的な構成体でもないからである。論理的にかんがえられるかぎりでは、同母の〈兄弟〉と〈姉妹〉のあいだの婚姻が最初に禁制になった村落社会では、〈国家〉は存在する可能性をもったということができる。もちろんそういう禁制が存在しなくてもプリミティヴな〈国家〉が存在することを地域的に想定してもさしつかえないが、このばあい論理が語りうるのはただ一般性についてだけである。


日本経済新聞2020年5月2日(木曜日)令和新時代の一部神話時代より







よくしられているように、わが国の〈国家〉の存在についてさいしょに記載しているのは『魏志倭人伝』である。魏志によればわが列島はもと百余国にわかれており、そのうち大陸と外交的に交渉をもったためにはっきりわかっていたものは三十国となっている。そしてこの三十国についたは、その国名をあげているところから、大陸と交渉しやすい地理条件にあったことが知られる。

もし魏志の記載する百余国が、大陸と交渉のあった三十国と同じ段階にあったものと想定すれば、これらの〈国家〉は〈国家〉の起源から発して時代のくだったきわめてあたらしいものとかんがえるほかない。その理由は、この三十国のうち大陸沿岸にちかい〈国家〉について、魏志はそれぞれ統治する官名を記載しており、それによってこれらの〈国家〉はすでにさくそうする官制をもっていたことが推測できるからである。


対馬国 大官 卑狗(ヒク)

     副 卑奴母離(ヒヌモリ)

一支国  官 卑狗(ヒク)

     副 卑奴母離(ヒヌモリ)

末盧國 大官 爾支(ニキ)

     副 泄護觚(セモコ)

       柄渠觚(ヒクコ)

奴国   官 凹馬觚(シマコ)

     副 卑奴母離(ヒヌモリ)

不弥国  官 多模(タマ)

     副 卑奴母離(ヒヌモリ)

投馬国  官 弥弥(ミミ)

     副 弥弥那利(ミミナリ)

邪馬台国 官 伊支馬(イキマ)

     次 弥馬升(ミマツ)

     次 弥馬獲支(ミマエキ)

     次 奴佳鞮(ヌカト)


魏志には、このうち伊都国に代々〈国王〉がおり邪馬台国に属していると記載されている。邪馬台国はそのころ女王が支配していた。

またここに挙げられた官名は、総称的な意味をもっていて人名あるいは地域名とあまりよく分離することができないとかんがえられる。たとえば「卑狗」はおそらく『古事記』などの〈毘古〉、〈日子〉同義の表音であり、「卑奴母離」は〈夷守(ヒナモリ)〉と同義の表音ともかんがえられる。あるいは逆に、このような魏志の記載にのっとって、たとえばカムヤマトイハレヒコノミコト

(ヒコに傍線)(神倭伊波礼毘古命)という神武の和名がつくりあげられたというべきかもしれない。

おなじように、伊都国の大官「爾支」は、アメニキシクニニキシアマツヒタカヒコホノニニギノミコト(ニキ、ニギに傍線)(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)の〈ニキ〉と無矛盾である。また、「多模」は、たとえばヌナクラフトタマシキノミコト(タマに傍線)(沼名倉太玉敷命)(敏達天皇)の「タマ〉などと無矛盾である。また、「弥弥」はマサカツアカツカツハヤヒアメノオシホミミノミコト(ミミに傍線)(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)の〈ミミ〉と無矛盾である。また、「伊支馬」はイクメイリヒコイサチノミコト(イクメに傍線)(伊玖米入日子伊沙知命)という垂仁天皇の和名と無矛盾である。

おなじように「弥馬升」はミマツヒコカエシネノミコト(ミマツに傍線)(御真津日子訶悪志泥命)という孝昭天皇の和名と無矛盾であり、おなじく「弥馬獲支」はたとえばメマキイリヒコイニエノミコト(メマキに傍線)(御真木入日子印恵命)という崇神天皇の和名と無矛盾である。

ここで無矛盾というのはこれらの初期天皇が、じっさいにその〈国家〉群の官であったとか、逆にその魏志の官名から名前をでっちあげられた架空の天皇だとかいうように単純化できることを意味するのではない。ただ現在でもたとえば〈鍛冶〉とか〈鹿地〉とかいう姓の人物がいるとすれば、鍛冶屋を職業とするとか、鍛冶という土地柄を姓としたとか速断できないとしても、〈鍛冶〉とか〈鹿地〉とかいう姓をえらんでつけたからには、鍛冶にかくべつな意識的あるいは無意識的な執着をもっていたか、現実上のなにかの関係がもとめられるはずだというのとおなじ意味をもっている。そしてこういうことがありうるのは、たとえば『古事記』の神代のなかでハヤスサノオノミコト(速須佐之男命)がコノハナノチルヒメ(木花知流比売)と婚してうんだ子、フハノモヂクヌスヌノカミ(クヌスヌに傍線)(布波能母遅久奴須奴神)の「クヌスヌ」が魏志に記された倭の三十國のひとつ〈華奴蘇奴〉國の名称からきているといったこととおなじである。


『隋書倭国伝』によれば、推古期には行政的に八十戸ごとにひとつの稲置(イナキ)があり、十稲置ごとにひとつの国造(クニノミヤッコ)をおき、国造は一百二十人あった。『古事記』の記すところでは、国造、和気(ワケ)、稲置、県主がわが列島の地域を統御する官名はであった。隋書の記載では〈和気〉と〈県主〉占める官制的な位置についてはすこしも明瞭ではない。しかし魏志の記載した〈官〉と〈副〉とはこれらの四つの管制となんらかの意味で関連があったとかんがえてもあやまらないだろう。そしてここで関連という意味は、この〈官〉と〈副〉は邪馬台国から派遣あるいは任命されたものであるかもしれず、戸とか稲置とか国造とか県主とかいうものの初期形態は土着的あるいは自然発生的な村落の共同規範にもとづいて確立されたのかもしれないことをふくんでいる。

これらの官制はその初期においてアジア的な呪術宗教的に閉じられた王権のもとにあったとみることができる。魏志にあらわれた倭の三十国では、すくなくとも邪馬台国に強大な支配権力があり、そのうち邪馬台よりも以北の大陸に近い諸国はその行政的な従属下にあったとかんがえられる。

魏志によれば、邪馬台国従属下の諸国の王権は卑弥呼とよぶ女王の統御のもとにあった。そしてその支配構成は、卑弥呼のシャーマン的な神権があり、その兄弟(男弟)が政治的な権力を掌握するというプリミティブな形態を保存していた。そしてこの支配形態は阿毎(アマ)姓と名のる支配部族にとってかなり以前から固有のものであったとみることができる。魏志は卑弥呼には「夫婿無し』と記しているがそれはたんに「夫婿」に政治的な意味がなく〈兄弟〉にだけ政治的な意味があったというほどに解すべきである。魏志はつづいて「唯々男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入りす」と記している。

応神くらいまでの初期天皇の和名をみると典型的に〈ヒコ〉と〈ミミ〉と〈ワケ〉という三種の呼び名が中核をなしていることがわかる。そして〈ヒコ〉には〈ネコヒコ〉と〈イリヒコ〉と〈タラシヒコ〉とただの〈ヒコ〉があり、〈ミミ〉をなのっているのは綏靖の〈カムヌナカハミミノミコト〉だけである。〈ワケ〉は応神の〈ホムタワケ〉あるいは〈オホトモワケ〉だけだが、応神以後にはよくあらわれている。〈ヒコ〉と〈ミミ〉はいずれも魏志の三十国の官名として記載され、〈ワケ〉も『古事記』に官名として記されている。そして景行のように〈ヒコ〉と〈ワケ〉を兼用してあるものがある。(オホタラシヒコオシロワケノミコト)(ヒコ、ワケに傍線)。

これらの擬定された初期天皇がそれぞれ邪馬台国的な段階の〈国家〉の〈ヒコ〉、〈ミミ〉、〈ワケ〉などの官職を襲った豪族の出身であったということはできないが、かれらの呼び名をこの三種からとっていることは、すくなくとも管制としての〈ヒコ〉や〈ミミ〉や〈ワケ〉が『古事記』の編者たちにとってかれらの先祖たちにあたえうる最高の権力にひとしいものであったとかんがえるこたができる。


『古事記』の応神紀にオホヤマモリとオホサザキの挿話がある。応神がじぶんの子のオホヤマモリとオホサザキに「おまえたちは兄である子と弟である子といずれが可愛いいか」とたずねる、オホヤマモリは「兄である子が可愛いいとおもう」とこたえる。つぎにオホサザキは、応神のそうたずねる心中を察して「兄である子はすでに成人して案ずることもないが、弟である子は、まだ成人していないので心もとなく可愛いいとおもう」とこたえる。応神は」オホサザキよ、おまえのいうことは、わたしの意にかなったこたえだ」といって〈オホヤマモリノミコトは山海の政治をせよ、オホサザキノミコトは国を治める政治を行え、ウヂノワキイラツコは天皇の位を継承せよ〉と命ずる個処がある。このことは初期〈国家〉の支配構成をかんがはえるうえで重要なことを暗示している。なぜならば、山部や海部の部民を行政的に掌握することと、中央で国家の行政にたずさわることと、天皇の位を継承することとは、それぞれ別のことを意味したことをはっきりしめしているようにおもわれるからである。とりわけ関心をそそるのは、国を治めることと天皇位を相続することが区別されている点である。この挿話によれば初期王権において王位を継承することは、かならずしも〈国家〉の政治権力をじかに掌握することとはちがっていた。そうだとすれば初期王権の本質は呪術宗教的な絶対権の世襲に権威があったとしかかんがえられないのである。そして応神から王位の相続者に擬せられたウヂノワキイラツコ(ワケに傍線)は、その和名をが暗示するように官名としては〈ワケ〉がつかわれており、もちろん強大な統一王権の継承者という規模でかんがえられていない。ここでいわれている〈国〉はせいぜい魏志に記載された倭三十国の一国あるいは数国の規模しか物語っていないのである。


(中略)


隋書の記載を信ずるならば、天皇位のもっているシャーマン的な呪術性が変質をうけたのは、七世紀の初頭であった。


開皇ニ十年、倭王あり、姓は阿毎(アマ——註)、字は多利思比孤(タラシヒコ——註)、阿輩雞弥(オホキミ——註)と号す。使を遣わして闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う。〈倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれれば便ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと」と。高祖曰く、「此れ大いに義理無し」と。是に於いて訓えて之を改めしむ。王の妻は雞弥(キミ——註)と号す。後宮に女六七百人有り。太子を名づけて利歌弥夕弗利と為す。城郭無し。


ここで未開に政務を聴聞する〈兄〉と、日が出ると交代で政務を行う〈弟〉が、じっさいの〈兄弟〉であるかどうかは問題ではない。ただ〈姉妹〉と〈兄弟〉の関係が、〈兄〉と〈弟〉の関係におきかえられ、依然として〈倭王〉〈天皇〉の本質が呪術的であることが問題なのだ。隋書を信ずれば、この呪術的な関係は合理的でないとして漢帝の勧告によって改められた。しかしいずれにせよ政治的な権力は〈弟〉によって掌握されていたのは確からしくおもわれる。

さらに倭王の妻は〈雞弥〉(キミ)と号したという記載は暗示的である。なぜならばわが南島において氏族集団の長である〈アジ〉にたいして〈アジ〉の血縁からえらばれた祭祀をつかさどる巫女の長を〈キミ〉とよんだように、倭王の妻の号した〈雞弥〉という呼び名は、いわば宗教的意味を暗示しており、それは母権的な支配形態の崩壊したあとの、その遺制をとどめているとみられるからである。








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