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共同幻想論 ③起源論…その3

2020-08-20 11:44:00 | 言の葉綴り

言の葉100共同幻想論 

③起源論その3






吉本隆明全著作集11 思想論II             共同幻想論 著者吉本隆明 発行所勁草書房 昭和四七年九月三〇日第一印刷発行 より抜粋


起源論その3


このように魏志の記載から想定される邪馬台的な段階の〈国家〉は、『古事記』に記載されている神代や初期天皇期とどのように関係づけられ、どのように接触するだろうか?

これを解くための手がかりは、すくなくとも三つかんがえられる。第一は邪馬台的な段階の〈国家〉でも遺制として保存されている呪術宗教的な王権の世襲形態を考察することである。第二はプリミティブな刑罰法にはじまる〈法〉的な概念の層の新旧を追及することである。第三は初期天皇群に想定される王権の及ぶ規模を推定することである。


魏志の記載によれば、邪馬台の宗教的な王権は卑弥呼という巫女の手に掌握されている。そしてその〈弟王〉が政治的な権力を行使している。この権力形態は、規模の大小を問わなければ、氏族的(前氏族的)な共同体から最初の部族的な共同体(始原国家)に移行した段階、あるいはこういう移行とは別個の理由で部族的な〈国家〉がなんらかの理由で発生した当初の段階まで遡ることができるものである。『古事記』の神代篇は、〈アマテラス〉と〈スサノオ〉の関係になぞらえてこの形態を重要なものとして保存している。〈アマテラス〉は〈アマ〉氏の始祖女性に擬定されており、〈スサノオ〉は土着の水稲耕作部族の最大の始祖に擬定されており、そしてこの二人は〈姉〉と〈弟〉の関係にあるものと作為されている。この作為は『古事記』の編者たちの勢力が、魏志の邪馬台国家をモデルにして創りあげたか、そのような伝承が流布されていたのを拾いあげたものかは確定できない。ただこのような〈共同幻想〉の構成(ゲシュタルト)は、氏族的(前氏族的)な共同体から最初の部族的な共同体(いいかえれば最初の〈国家〉が成立したときまでさかのぼることができる。この意味では『古事記』の神代篇の本質的なパターンは、魏志の邪馬台的な段階の〈国家〉よりはるか以前の太古までさかのぼりうる時間性をもっている。『古事記』の〈アマテラス〉と〈スサノオ〉が実在の誰をモデルにして創られたか、まったく架空にただ神話的な構成の本質をえがくために創作せられたか、あるいは、古伝承によったかはここで問題にならない。『古事記』の神話的な時間がプリミティブな〈国家〉まで遡行する時間性をしめしていることが重要なのだ。そしてこのプリミティブな〈国家〉の成立に魏志に記された邪馬台連合などから遥か以前に想定されるものである。ただ、魏志の邪馬台的な段階の〈国家〉はほかの点では新しいとみることができるが、すくなくとも呪術宗教的な王権の構造についてだけは、このプリミティブな〈国家〉の遺制をのこして実在していたとみることができる。呪術宗教的な威力の継承という意味では、邪馬台的な段階の国家でも、さいしょの氏族制の崩壊の時期までさかのぼってかんがえることができるような時間性をもっている。ここは、天皇制の本質について重要な示唆がかくされている。

さきにものべたように魏志には邪馬台的な段階の〈国家〉において、〈法〉を犯すものは軽いものではその妻子を没し、重い者はその門戸および宗族を滅したことが記されている。また、隋書には推古期(おそらく統一部族国家)の〈法〉について、殺人、強盗、姦淫するものは死罪、せっ盗は盗物に応じて弁償させ、罪なきものは身を没してにおとしたとされ、その余は軽量によって流罪あるいは杖罪としたことが記されている。またごうもんや訴訟の判定について記している。

これらの記載は邪馬台的な段階の国家においても、統一部族国家においても、〈法〉的な概念のが呪術的な宗教的な段階をすでに離脱して、公権力による刑罰法の概念に転化していることを物語っている。

いずれも〈共同幻想〉としてかなり高度な段階にあったとみることができる。

この段階の〈法〉概念に対応している『古事記』の記載は、顕宗が災危にあって逃亡したとき、その乾飯を盗んだ豚飼の老人を、のちにアスカ河原に斬ってその一族どもの膝の筋を切ったという記載がはじめてであるといってよい。しかし『古事記』はすでに〈アマテラス〉と〈スサノオ〉の神話の段階で、のちに〈天つ罪〉の概念に分類される〈法〉的な概念のプリミティブな形を記している。〈スサノオ〉は〈アマテラス〉の料田の〈畔離ち〉、〈溝埋み〉、神殿の〈屎戸〉、所有馬の〈逆剥ぎ〉などをやってのける。またそれよりくだって仲哀の急死にさいして〈生剥〉、〈逆剥〉、〈畔離ち〉、〈溝埋〉、〈屎戸〉、〈上通下通婚〉、〈馬婚〉、〈牛婚〉、〈鶏婚〉、〈犬婚〉など、のちに〈天つ罪〉と〈国つ罪〉の概念にふりわけられる〈罪〉を国中(この国は邪馬台的な段階のの国である)からもとめて清祓を行ったことが記されている。

これらの〈罪〉概念は、〈法〉的には原始的な農耕法と家族法の概念に対応しているが、その〈罪〉概念自体が呪術宗教的な段階をあまり離脱していない。それゆえ『古事記』のなかで神代と初期に天皇群の記載に共通に登場したとしても、この〈罪〉概念に対応する〈法〉はプリミティブな〈国家〉の共同幻想にまで遡行する時間性をもっている。

またこれらの〈罪〉概念のうち、農耕に関する〈罪〉〈天つ罪〉は、清祓の対象であっても、同時に〈強盗〉のような他人の所有田の現実的な侵犯であるかぎり、魏志に記載する刑罰の対象ともなりえたはずのものである。このことは同じ所有田畠の侵犯であっても、それが世襲的な宗教的王権の内部でかんがえられるとき清跋行為の対象であり、政治的権力の強制力としてかんがえられるとき現実的な刑罰の対象であるという二重性をもつものであったとかんがえることができる。これに対して『古事記』仲哀期に記されている家族法(国つ罪)的など概念は、いかなる意味でも現実的な刑罰の対象とはならないものであり、ただ親子相姦や獣姦として清跋行為の対象となりうるのみであった。これらは、いずれも〈兄弟〉と〈姉妹〉とのあいだの同世代の近親相姦を禁制するという段階よりも前段階にある概念に相当しており、その意味ではプリミティブな〈国家〉の発生よりもさらに以前に遡行することができるものである。

こうかんがえてくると魏志や隋書に記された邪馬台的な段階や初期大和朝廷的な段階でつかまれている〈法〉概念は、『古事記』の初期天皇期に記された〈法〉概念にくらべて、はるかに発達した段階にあるとみなすことができる。

ここでわたしたちは、同じ田地の侵犯が世襲的な宗教的王権の内部で〈法〉概念と政治的な権力の核に想定される〈法〉概念とではそれぞれ相違していることになるという問題にであう。宗教的な王権の内部では田地の侵犯に類する行為は〈清跋〉の対象であるが、政治的権力の次元ではじっさいの刑罰に値する行為である。この同じ〈罪〉が二重性となってあらわれるところに、おそらく邪馬台的なあるいは初期天皇群的な〈国家〉における〈共同幻想〉の構成の特異さがあらわれている。

もちろんこのことは、王権の継承が呪術宗教的ななもので、現世的な政治権力の掌握とすぐに同じことを意味していないという初期権力の二重構造に根ざすものであった。

現在、古代史の研究家たちにとって〈国家〉の起源という意味は、我が列島における統一部族国家の成立という意味に理解されている。しかし、このばあい問題となるのは、はじめに一様に〈国家〉の本質とはなにかが問われていないか、あるいは非本質的にしか問われていないことである。すくなくともわたしがかんがえる〈国家〉本質にとって邪馬台的な段階にあった〈国家〉群でさえ、比較的新しい〈国家〉にすぎないことは申すまでもない。まして、〈国家〉の起源を我が列島における統一部族国家の成立としてかんがえる問題意識はとうてい肯首しえないものである。

いまこころみに神武から応神までの『古事記』の編者たちの勢力が、じぶんたちの直接の祖先に擬定した初期天皇群の和称の姓名をあげてみる。


カムヤマトイハレヒコ(ヒコに二重傍線)           神武


カムヌナカハミミ(ミミに二重傍線)            綏靖


シキツヒコタマテミ(ヒコタマに二重傍線)(テミに傍線)   安寧


オホヤマトヒコスキトモ(ヒコに二重傍線)          懿徳


ミマツヒコカエシネ(ミマツに傍線)(ヒコに二重傍線)   孝昭


オホヤマトタラシヒコ(タラシに傍線)(ヒコに二重傍線)   孝安


オホヤマトネコヒコフトニ(ネコに傍線)(ヒコに二重傍線)  孝靈


オホヤマトネコヒコオホヒヒ(ネコに傍線)(ヒコに二重傍線) 孝元


ワカヤマトネコヒコオホヒヒ(ネコに傍線)(ヒコに二重傍線) 開花


ミマキイリヒコイニエ(ミマキイリに傍線)(ヒコに二重傍線) 崇神


イクメイリヒコイサチ(イクメイリに傍線)(ヒコに二重傍線) 垂仁


オホタラシヒコオシロワケ(タラシに傍線)(ヒコとワケに二重傍線)      

              景行


ワカタラシヒコ(タラシに傍線)(ヒコに二重傍線)     成務        


タラシナカツヒコ(タラシに傍線)(ヒコに二重傍線)     仲哀


ホムタワケ(ワケに二重傍線)応神

(オホトモワケ(ワケに二重傍線))           


これらの呼び名はかならずしも定型があるわけではないが、たとえば『隋書倭国伝』に『開皇二十年(六〇〇年——註)、倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩鶏弥と号す。」とあるように、もし〈アマタラシヒコ〉という和称があったとすれば〈アマ〉が姓であり〈タラシヒコ〉がアザ名であるとみなすことができる。たとえば神武のばあい〈カムヤマト〉が姓であり〈イハレヒコ〉が名である。そして〈カムヤマト〉などというとってつけたような姓がありえないとすれば、それは後になって〈神〉という概念と〈倭〉という統一国家の呼称をつなぎあわせることにより、神統であり同時に国主であることをしめそうとして名付けられたものと考えることができる。そして〈イハレヒコ〉の〈イハレ〉はおそらく地名であり、この地名は出身地を語るか支配地を語るかは不明であるとしても、〈イハレ〉という地名と関係があると擬定された人物であるとみることができる。このようにかんがえてゆくと、初期天皇の和名は〈ヒコ〉、〈ミミ〉、〈タマ〉、〈ワケ〉などを字名の中心的な呼称として、その最も前(ときには後)に姓をつけ、直前(あるいは直後)はおそらく地名を冠しているというのがきわめて一般的であるということができよう。もちろん例外をもとめることもできる。


これらの姓名の解釈や詳細は研究家にまかせるとしても、これらの初期天皇群につけられた〈ヒコ〉、〈ミミ〉、〈タマ〉、〈ワケ〉などがいずれ邪馬台的な段階と規模の〈国家〉群における諸国家の大官の呼称であるという事実はここでとりあげるに値する。このうち〈ワケ〉は応神以後にあらわれるとしても、それ以外は魏志に記載された官名に一致している。たとえば〈ヒコ〉は、魏志によれば、対馬国、一支国、など邪馬台から遠隔の国家の大官の呼称であり、〈ミミ〉は対馬国、〈タマ〉は〈不弥国〉の大官の名とされている。もちろんこれらの初期天皇が魏志を粉本にして創作されたといおうとしているのでもなければ、これらのいずれかの国家の支配者として実在したといおうとしているのでもない。現在の段階ではこれらについて断定することはどんな意味でも不可能である。ただわたしたちは、これらの初期天皇の名称から、これらの世襲的な宗教的王権の規模が、たかだか邪馬台的な段階の〈国家〉をしか想定していなかったということを問題にしたいのだ。


『古事記』の編者たちの世襲勢力が、かれらの直接の先祖として擬定した〈アマ〉氏の勢力は、大陸の騎馬民族の渡来勢力であったかどうかはべつとしても、おそらく魏志の記載している漁撈と農業と狩猟と農耕用具などの制作をいとなんでいた部族に関係をもつものであったと想定することができる。それにもかかわらず太古における農耕法的な〈法〉概念は〈アマ〉氏の名を冠せられ〈天つ罪〉、もっと層が旧いとかんがえられる婚姻法的な〈法〉概念は土着的な古勢力のものになぞられている(国つ罪)。この矛盾は太古のプリミティブな〈国家〉の〈共同幻想〉の構成を理解するのに混乱と不明瞭さをあたえ、幾重にも重層化され混血されたとみられる我が民族の起源の解明を困難にしている。


さもあれ、『古事記』の編者たちの勢力は、かれらの先祖たちを描きだすのにさいしてたかだか魏志に記された邪馬台的な段階の一国家あるいは数国家の支配王権の規模しか想定することができなかったことはたしかである。この事実は初期天皇群のうち実在の可能性をもつ人物がきわめて乏しかったにしろ、そうでなかったにしろ、かれらの直接の祖先たちの勢力が邪馬台的な段階の国家の規模を占めていたに過ぎなかったことを暗示しているように思われる。


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