言の葉綴り

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ハラリ著作品④農業革命 ー農耕がもたらした繁栄と悲劇ー

2020-02-12 12:01:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り83ハラリ著作品

④農業革命

ー農耕がもたらした繁栄と悲劇ー

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ユヴァル・ノア・ハラリ著作

柴田裕之訳

サピエンス全史・上 第2章農業革命 第5章農耕がもたらした繁栄と悲劇 より抜粋




人類はニ五万年にわたって、植物を採集し、動物を狩って食料としてきた。そして、これらの動植物は人間の介在なしに暮らし、繁殖のしていた。ホモ・エレクトスやホモ・エレガステル、ネアンデルタール人は、野生のイチジクを摘み、野生のヒツジを狩リ、どこでイチジクの木がねづくかや、どの草地でヒツジの群れが草を食むべきか、どのオスヤギがメスヤギを孕ませるかを決めることはなかった。ホモ・サピエンスは、東アフリカから中東へ、ヨーロッパ大陸とアジア大陸へ、そして最後にオーストラリア大陸とアメリカ大陸へと拡がったが、ホモ・サピエンスもどこへ行こうが、野生の植物を採集し、野生の動物を狩ることで暮らし続けた。他のことなどする理由があるだろうか?なにしろ、従来の生活様式でたっぷり腹が満たされ、社会構造と宗教的信仰と政治的ダイナミクスを持つ豊かな世界に支えられているのだから。

だが、一万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾けて始めたときだった。人間は日の出から日の入りまで、種を蒔き、作物に水をやり、雑草を抜き、青々とした草地にヒツジを連れていった。こうして働けば、より多くの果物や穀物、肉が手に入るだろうと考えてのことだ。これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった。

地図2









農耕への移行は紀元前九五〇〇〜ハ五〇〇年ごろに、トルコの南東部とイラン西部のレヴァント地方の丘陵地帯で始まった。それは地理的に限られた範囲でゆっくりと始まった。紀元前九〇〇〇年ごろまでに小麦が栽培植物化され、ヤギが家畜化された。エンドウ豆とレンズ豆は紀元前八〇〇〇年ごろに、オリーブの木は紀元前五〇〇〇年までに栽培化され、馬は紀元前四〇〇〇年までに家畜化され、ブドウの木は紀元前三五〇〇年に栽培化された。ラクダやカシュウナッツなど、さらにその後、家畜化されたり栽培化されたりした動植物もあったが、紀元前三五〇〇年までには、家畜化栽培化のピークは過ぎていた。今日でさえ、先進的なテクノロジーのいっさいをもってしても、私たちが摂取するカロリーの九割以上は、私たちの祖先が紀元前九五〇〇から紀元前三五〇〇年にかけて栽培化した、ほんの一握りの植物、すなわち小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦に由来する。過去ニ〇〇〇年間に家畜化栽培化された動植物にめぼしいものはない。私たちの心が狩猟採集民のものであるなら、料理は古代の農耕民のものといえる。

かって学者たちは、農耕は中東の単一の発祥地から世界各地へ拡がったと考えていた。だが今日では、中東の農耕民が革命を輸出したのではなく、他のさまざまな場所でもそれぞれ完全に独立した形で発生したということで、学者たちの意見は一致している。中央アメリカの人々は、中東での小麦とエンドウ豆の栽培については何も知らずに、トウモロコシとマメを栽培した。南アメリカの人々は、メキシコやレヴァントで何が起こっているかを知らずに、ジャガイモとラマの育成の仕方を身につけた。中国の最初の革命家たちは、稲とキビを栽培化し、ブタを家畜化した。北アメリカの最初の園芸家たちは、下草を掻き分けて食用になるウリ科の植物の実を探すのにうんざりして、カボチャを栽培することにした。ニューギニアの人々はサトウキビとバナナを栽培化し、一方、西アフリカの農耕民はトウジンビエやアフリカ米、モロコシ、小麦を自分たちの必要性に適合させた。これらの初期の各中心点から、農耕は至る所に拡がっていった。一世紀までには、世界の大半の地域で、大多数の人が農耕民になっていた。

では、農業革命はなぜオーストラリアやアラスカや南アフリカでなく、中東と中国と中央アメリカで勃発したのか?その理由は単純で、ほとんどの動植物種は家畜化や栽培化ができないからだ。サピエンスは美味しいトリュフを掘り出したり、ケナガマンモスを狩ったりすることはできたが、その栽培化や家畜化は問題外だった。菌類はあまりに捕らえにくく、巨獣はあまりに獰猛だった。私たちの祖先が狩猟採集した何千もの種のうち、農耕や牧畜の候補として適したものはほんのわずかしかなかった。それらは特定の地域に生息しており、そこが農業革命の舞台となったのだ。


かって学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言した。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉楽に満ち足りた暮らしを楽しんだ。

だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命はるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によつて、手に入る食糧の総量はたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。

それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

ここで小麦の立場から農業革命について少し考えてほしい。一万年前、小麦はただの野生の草にすぎず、中東の狭い範囲に生える、多くの植物の一つだった。ところがほんの数千年のうちに、突然小麦は世界中で生存するまでになった。生存と繁殖という、進化の基本的基準に照らすと、小麦は植物のうちでも地球の歴史上で指折の成功を収めた。一万年前には北アメリカの大草原地帯グレートプレーンズのような地域には小麦一本も生えていなかったが、今日そこでは何百キロメートルを歩いても他の植物はいっさい目に入らないことがある。世界全体では、小麦は二二五万平方キロメートルの地表を覆っており、これは日本の面積の約六倍に相当する。この草は取るに足りないものから至る所に存在するものへとどうやって変わったのか?

小麦は自らに有利な形でホモ・サピエンスを操ることによって、それを成し遂げた。


中略


それでは、いったいぜんたい小麦は、(略)農耕民に何を提供したのか? じつは、個々の人々には何も提供しなかった。だが、ホモ・サピエンスという種全体には、授けたものがあった。小麦を栽培すれば、単位面積当たりの土地からはるかに多くの食物が得られ、ホモ・サピエンスは指数関数的に数を増やせたのだ。野生の植物を採集し、野生の動物を狩って食いつないでいた紀元前一万三○○○年ごろ、パレスチナのエリコのオアシス周辺地域では、比較的健康で栄養状態の良い人々およそ一○○人から成る放浪の集団を維持するのがせいぜいだつた。ところが、紀元前八五○○年ごろ、野生の草が小麦に取って変わられたときには、もっと大きいものの窮屈な、一○○○人規模の村がやっていけた。ただし、人々は病気や栄養不良にはるかに深刻に苦しんでいた。

進化の通貨は飢えでも痛みでもなく、DNAの二重螺旋の複製だ。企業の経済的成功は、従業員の幸福度ではなく、銀行預金の金額によってのみ測れるとちょうど同じで、一つの種の進化上の成功は、DNAの複製の数によって測られる。DNAの複製が尽き果てれば、その種は絶滅する。資金が尽きた企業が倒産するのとまったく同じだ。ある種が多数のDNAの複製を誇っていれば、それは成功であり、その種は繁栄する。このような視点に立つと、一〇〇〇の複製は一〇〇の複製につねに優る。これ、すなわち以前より劣悪な条件下であってもより多くの人を生かしておく能力こそが農業革命の神髄だ。

とはいえ、この進化上の算盤勘定など、個々の人間の知ったことではないではないか。正気の人間がなぜわざわざ自分の生活水準を落としてまで、ホモ・サピエンスのゲノムの複製の数を増やそうとしたのか? じつは、誰もそんな取引に合意したわけではなかった。農業革命は罠だったのだ。


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