食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『回顧録、面会拒否』

2013年01月31日 18時01分30秒 | 回顧録

誰にも知らせないこと、見舞客は全て断ることをコンセプトに気儘入院ライフを貫くつ

もりで、大方のところ成功しかけていたが、娘の嫁ぎ先だけは断り切れずお見舞い

を受けることになった。個室だから他の部屋のお見舞客がどのようなものだったのか

知らないが、休日には食堂に沢山の見舞客らしき人と患者さんが一緒に話したりお

茶を飲んだりしていたから、一般的には見舞客を断ることは余りなく少数派だろう。

間の悪いことに高校時代から仲の良かった友人が八王子から帰省して家に電話をし

てきたので入院していることを知らせたと言う。『元気だから見舞いに来なくてもいい。

退院して健康になったら会おう』と言って聞かないから見舞いには来ないで欲しいと

友人に伝え、見舞いを断念させた。

退院後にはがきを出し近況報告と見舞いを断った欠礼について謝っておいた。

自分ではそれほど強い気持ちで、気儘な入院ライフを貫くつもりでいた。親兄弟でさ

え手術のことも黙っていようと思っていたから、見舞に来て貰うなど考えられないこと

だ。だから、結果として来られた見舞客は1組という成績に終わった。

病気が癌だからと人に隠す必要はないし、他の病気だったとしても同じ行動をとって

いたと明言できる。

見舞客が来ないから全ての時間は自由気ままに使えるし、変に気を使うこともないか

ら療養の観点からみれば最高の環境と言えるのではなかろうか。


『春の一日、果樹の剪定』

2013年01月31日 17時59分14秒 | 日記

冬の朝、晴だから当然の事、少し冷え冷えとしたものではあったが、気温はどんど

ん上がり、私の出勤タイム9時過ぎの陽当たりのいい所では、外仕事もノープロブレ

ムというご機嫌な模様。このような天気は千載一遇、次はいつ来るか、ひょっとして

本当の春まで来ないのではないか、そう思うと躊躇なく外仕事に決定。畑に植えて

いるスモモとキウィの剪定をしなくてはならず、脚立を用意しパッチン、ギコギコと俄

剪定師は教わった剪定の仕方を思い出しイメージしながら、やってみる。

剪定の上手下手で収穫は大きく異なるらしいから、剪定良し悪しの結果は夏になっ

てみないと分からない。プルーンとスモモは一昨年の冬に伸び放題だった大枝を

ェーンソーで切断、裸近くまでの大手術をしたから、昨年の収穫は少量だった。

それに続いて今年の剪定ではあるが木の負担は前年ほどではないと思う。

来年の花芽の分化は終わっているから、幾ら私の剪定が悪くても花芽の枝を切っ

しまわない限り、大被害はないと思っている。

キウィは逆に伸び放題にしていたので、今年は抜本的な剪定に取り掛かった。

つまり、オスの木は主幹にみすぼらしい程の枝とし、メスは多少の枝分かれを残した

たが、全体からすると裸状態。でも、これくらいが普通のようで余所の木を見ると、こ

れ以上切ってあるものが大半だ。昨年のキウィは裏年に当たり収穫は少なかったか

ら、今年は増えるはずだがこの剪定は如何なる結果をもたらすのか。


『回顧録、術後の説明』

2013年01月30日 17時56分09秒 | 回顧録

先生とは毎日、回診で顔を合わせているが術後の説明と今後について話があるか

ら、妻と二人で聞くように指示された。妻は術後すぐに手術内容の説明を受けてい

るが私は今回が初めてだった。PCの画面に映し出された摘出の食道と胃の写真を

見せられたたが、頭の中に残っている食道の『これぞ正しく癌』のようなものではなく、

安物のホルモンのようで、説明を受けたものの素人受けしないものだった。

病理検査の結果、食道と胃の癌は別物でリンパ節への転移はなかったが念のため

に32個のリンパ節郭清と胆嚢の摘出を行った。CT検査での結果から縫合した部分

に異常なしで順調に回復ししているとのこと。退院後、体力回復した後、念には念を

いれるため抗がん剤治療を行うことが望ましいが、私自身どういう考えかを問われた

ので迷うことなく『受けます』の一言。

リンパ節の郭清や疾患部の摘出はするものの、未確認のものや見落としもありうるか

ら、そうしたことを払しょくする為にも術後の抗がん剤治療は安心を増すと、そんな言

い方だった。先生としてもそうしたリスクが少しでも低くなるなら、受けて欲しいのだと

思われるが、それよりも副作用もゼロの私だから、断る理由はこれぽっちもない。

に、多少の副作用が出ていたとしても癌の再発リスクを低下させる可能性がある限り、

そちらに掛けるべきで、副作用と闘うことを選んだと思う。

退院後、1か月もすればその治療をと言われた時、以前我が家にホームステーしたこ

のあるEさんが12月の半ば前に来日するので、足を延ばして我が家まで来ると

うことを思い出した。その日は決まっていたから、先生にそれまでに治療を終えられ

るようにお願いしたところ、逆算して1か月経たない11/25から始める予定にして貰えた。

病院から直接、メールを送ることが出来ないので文章を渡して娘の家から送って貰っ

いた。こうした時、携帯電話は威力を発揮することは承知しているが、大の携帯嫌い

しかもそれでメールのやり取りなんて真っ平ごめんだから、文明の利器の恩恵に与か

ことはできない。そうとは言え、一人で山仕事をしていると危険がいっぱい、ケースバ

ケースで直ぐに連絡をとれるようにと通話のみ契約で携帯を持っている。普段は用無

だから、何処に行ったものか行方不明病にとりつかれ肝心な時は捜索してからでな

と使えない代物。


『ザーサイの収穫』

2013年01月30日 17時53分43秒 | 日記

育ては、いつがベストのタイミングか全く分からないので、ネットにあった『1月~2月

の間頃』を目安に、第一次収穫をしてみた。これからの時期、茎などは更に大きく育

つらしいが固くなってしまうらしい。

収穫したものをよく見てみると少し黄色がかったものがあり、切ってみると明らかに緑

色のものよりは固い、これが育ち過ぎのものみたいだ。

何かの臭いがすると・・・・・何か、何か・・・・・

暫くして出た答えは『高菜』、だからこれを生で食べると癖のある味になる?

害虫によって網目のようになるまで痛めつけられた苗、被害程度と反比例してか、出

来は大小様々。今回の収穫は第2農場のもので、これよりも更に小さいものは畑に放

置してあり、第1農場のものは様子を見ながら収穫のつもりだ。

収穫したものの葉を取り除き根の上から膨らんでいる茎を食すものだ。葉は沢山出て

いるが茎は意外と小さいし、根の近くは固いので食べられそうにない。食べられそうな

固さの所を残し写真にパチリ。我が家の毒見は失敗したが,先達の話によると『浅漬

け、炒め物』を試食してみたら、評判はgooだったそうだ。我が家でのリベンジがあるの

か否かは別にして、私の使命は本格的なザーサイ漬けに挑戦することだ。

ブログ上のレシピで完成の所まで見ていないので、最後がどのようになったのか不明

ではあるが、兎に角、塩漬けから始めればいいとしてgoサインを出した。

これから1年近くかかるらしいので失敗したら結構、大きなダメージになりそう


『回顧録、あれも食べたい、これも食べたい』

2013年01月29日 17時53分45秒 | 回顧録

食事の時、看護師さんがポットにお茶を入れて病室まで届けてくれていた。しかし、

それ位のパワーは十分にあるので、食事前は食堂までお茶汲みに出かけるのが習

慣になった。先生からは刺激の強いもの以外は食べても構わないと許可が出たから、

1Fのコンビニに出かけ物色するのが楽しくなっていった。

しかしコンビニにあるもので、病院食のサイドメニューになるようなものは海苔の佃煮

や、簡単な惣菜のようなものに限られた。私は惣菜を買って食べることをしないので、

実際に買うものといったら菓子パンのようなものばかりだった。

他の病室の人を観察してみると、中にはカップ麺を買い食堂の湯を使っている人もあ

り、私も一度でもいいからカップ麺を食べてみたかった。先生に許可を貰う程のことで

はないのか、とんでもないことなのか判断つかず結局あきらめ、そして羨ましく眺めて

いた。病院食は全体的に薄味で元々、塩辛いものが好きだからとても物足りない感じ

がしていた。しかし、病院食の定番かぼちゃは家ではあまり食べないのに、ここでは残

すこともなく食べ、全体的に完食で生臭い魚の時に残すことがある程度だった。

自由に動けるようになったから1Fから8Fまで階段を歩いてうろついた。8階にはレストラ

ンがあり、奥の方に図書室のようなものが開設されていた。レストランのメニューを見な

がら早くこんなのを食べてみたいと随分羨ましがっていた。

治療は毎日の喉への吸入を午前と午後に10分くらい行うこと、4~5日に1回、早朝に採

血、朝一で主治医の先生の回診だけで薬の服用もないから、本当に静養している感じ

だ。傷口はガーゼ交換が主で膿が出るとか縫合の問題などは皆無だったから思ったよ

り早く抜糸があった。この時、あばらの傷も抜糸しているから開胸手術の意味が分かりそ

うなのに、ここでもあばら骨が痛い理由について分かっていない。

外科の抜糸は背中に粉瘤が出来、摘出して貰って以来だがチカッとするだけで何でも

ない。抜糸の終了は風呂の解禁に一歩前進することになるが、管どもが居なくならない

と叶わない。

入院以来、風呂とは縁がなかったから一日でも早く湯船につかりのんびりしたかった。こ

このシステムは風呂の入口にある時間表に自分の入浴時間を記入する。空いていれば

一日に何回入浴しても構わないから、朝夕の2回を予約していた。一度に2~3人は入れ

る風呂場なのに、予約は1人単位だから、駄々広い感じがする。

湯船のお湯は一人様限りで風呂から出る時は湯船を掃除して、次の人が気持ちよく入れ

るようにしていた。最初に入った時は垢が溜まっていたろうから、ボディーソープをつけて

3度も身体を洗い流した。


『暑すぎる山小屋』

2013年01月29日 17時52分50秒 | 日記

ここ10日前程から山小屋の温度に変化を感じ取っている。雪が降ったり、朝は道路

の雪が凍ってバリバリ音を立てるなど、冬真っ只中にいることには間違いないのだが、

ストーブを焚いていると暑くなり過ぎ外気を入れることがある。

特に、昼食づくりで七輪に火をいれ小鍋でうどんやラーメンを作ると、部屋の中は一段

と温かくなり、その上で温かいものを食べるから、温かくなりすぎて汗をかくほどになる。

今朝も雪がバリバリ状態、普段通り作業着を着て出かけたと思っていたら、1枚薄着で

も、それを感じさせなかった。特別な寒がりの私でさえ、こんなことあるの?

まさか、『暑さ、寒さも分からなくなった』なんてことはないだろうが、24節季だともうすぐ節

分だから、冬から春に分かれ行くことになるから、多少なりとも温かくなるのかも。

小物入れは手直しや塗装落としに精を出している。塗装はカシュー(漆)のクリアと木工オ

イルを夫々2度塗りと丁寧にやったから、ペーパーで落とすのは大変な作業になった。明

日には目の細いペーパーで仕上げになると思う。

それを完成させたら、次の沢庵漬け、ザーサイの漬物にため畑で収穫に出掛けたいから、

『♪明日、天気にしておくれ♪』


『回顧録、術後初めての水』

2013年01月28日 18時15分52秒 | 回顧録

こんなに簡単に煙草を欲しがらなくなったことが不思議で仕方がない。『吸う、吸わ

ない』は意識の問題だか、今までは意識と関係なく煙草のタイムキーパーが存在し

ており、30分くらいの間隔で『煙草を吸え』の指令を受けてきた。身体も欲しがって

いたのだろうから忠実に従っていた。8/26からの禁煙で、こんなに簡単に欲しがら

なくなり、あれほどニコチネルパッチを貼り続けた努力にどんな意味があったのか、

結果として大きな成果はなかったことを考え合わせると、当事者の私としましては語

るに語れないのでございます。

管も減り、水が解禁された。看護師さんたちの細かい指導がある訳でもなく『喉が乾

いたら、ゆっくりと飲んで下さい』術後1週間以上は経っていたから、嬉しくてコンビニ

の普通のお茶を買ってきて貰った。コップに入れて少しだけ飲もうと口に含むと、す

ごく濃い味でそれが苦味のように感じ咽て、とても呑み込めるようなものではなかった。

お茶が合わないのではないかと、癖のない番茶ならいいだろうと番茶を口にしてみる

も、味が濃すぎて飲めるようなものではないから、薄めて々、やっと飲める味になった。

水は抵抗なく飲めるしお茶は薄くすれば飲める。喉から食道、胃へと上手く下がって

いるようだった。お茶の味は徐々に慣れていき翌々日くらいには元のように復活を果

たした。飲めるようになると、食べることが次の目標になってくるが、縫合部位の確認

で異常なしにならないとOKは出ない。中心カテーテルと経口食との関係について、

どうだったかの記憶は定かではない。

最初の経口食は重湯、糊を舐めているようで食べる感覚には程遠く物足りないどころ

か、こんなものだったら要らないし欲しくないから先生に、もう少し何とかならないかと

懇願してみた。すると『調子がいいようでしたら、三分粥にしてみましょう』とあっさりグ

レードアップを認めてくれた。

三分粥は重湯に毛が生えたようなものだから、喉の通りは良くてもそれは術前と同じだ

から、もっと硬いものを食べて、治療効果を知りたかった。何も異常はないから日毎に

粥のグレードが上がり、柔らかいながら固形物も副食に付き、頂点の軟食に辿り着い

てしまった。術前に、これと同じような軟食を食べていたのに注意深くしても、食道狭窄

の進行で詰まったりし、ゲロすることで嫌悪感からの解放を得ていたが、憎々しい癌を

退治して貰ったから、今はもうその心配は必要ない。

物を食べて詰まらない、たったこれだけのことを取り戻すために、大変な試練を乗り越

えなければならなかったが、自覚症状から数えると僅か3か月ほどの期間内に凝縮され

ている。本当に、凝縮だと思う。


『ブログ本の作り方』

2013年01月28日 18時01分30秒 | 日記

ネットに載せてある『本の自作』に関する情報をパクリながら、紆余曲折の結果、私の

行き着いたベストを紹介。

 【ブログデータの準備】

Gooブログの書籍化サービスでブログ内容のPDF化までは無料でして貰えるが、ダウ

ンロードしたデータの修正ができないので、これを自作本にするのは困難。バックアッ

プ機能を使ってブログ記事をダウンロードして貰うことができる。ファイル変換の方法を

知らないので、必要なデータだけを抜き出すのが大変。

 以上の経験を踏まえ、毎日のブログはWORDで下書きしておき、それをブログ記事にコ

ペ、ブログ本用に蓄積保存している。写真は面倒だがその都度『画像の挿入』、後か

ら入れようと写真の確認のために一々、ブログを覗かなくてはならなくなる。

 1. 製本キットについて

   このキットはネットで宣伝、販売されています。これだけではなく、色々なノウハウも教

   えて貰えそうで便利だと思うが、割と高価だったので自作してしまった。これ以前は、板

   2枚で紙を挟み、『ハタガネ』という大工道具で締め付けていた。

   このキットだと挟んで紙がずれ難い。

 

2.紙の綴じ方

(1)     紙の背中を目の小さい鋸で切れ目を入れ、そこを糸でしばりつける

(2)     綴じしろの両面に小さい釘を打ち込む。もし長い場合は、先端を叩き潰す。

    (1)も作ってみたが(2)の方が頑丈な仕上がりになった 

3.背中を木工ボンドで固める

 速乾のボンドだと30分くらいで乾燥する。せっかちな人は『瞬間接着剤のゼリー

 タイプ』のものをお勧め。

4.綴じしろを製本テープで貼る。


『回顧録、煙草との決別』

2013年01月27日 17時29分35秒 | 回顧録

うっとおしい管は最初に鼻の酸素が取られ、尿管などと日に日に管が減る度に、快

適さを取り戻していった。こうなるとお茶でもいいから自分の口から飲みたいし、何か

食べ物を食べてみたいとの思いが強くなっていった。特に、コーラをグビグビと言わ

せながら飲み干すなんてことが出来たら最高だろうなと強く思いをはせた。

この頃には煙草や酒の呪縛は解かれていたらしく、『退院したら、まず一服してから、

禁煙か減煙について検討しよう』は検討材料から外れて、議題にも並ばなくなってい

た。ならばグビグビと飲むものはコーラではなくビールであるはずなのに、何故かそ

れもそうではない。

『おい、どうしたんだ。煙草も酒も止めてしまう気か。それでいいのか?』

こんな悪魔の囁きさえ聞こえなくなっていた。

禁煙の最初は『アーあ、今日でXX日目か』なんて指折り数えていたのに、徐々に

『もう、XX日も経ったのか、折角ここまできたのだから・・・吸い始めるのはもったいな

いな』に変わり、遂には先述の様に変わり果てている。過去、減煙に何度か取り組み

一度もまともな成績を上げたことはない。禁煙などという崇高な目標を立てようなんて、

おこがましくて出来るはずなどなかった。

今回の騒動の前にニコチネルパッチを貼り、あわよくば禁煙に持ち込めればなんて

思い、ある程度の成果をあげたものの禁煙には程遠かった。私なりに煙草を減らす

努力をしたはずなのに、病院で何もしていないのに禁煙を可能にしてしまった。禁煙

に成功or不成功よりも『煙草を吸いたい』という欲望が全くなくなったのだ。

入院当初に思っていた『退院したら一服して・・・・』を仮に実行していたら、きっと咽て

ゴホゴホとなり、『こんなんじゃ、煙草なんか吸えないな』となっていたかもしれない。


Windows 8再インストール

2013年01月27日 17時26分13秒 | 日記

『山籠もり』

冬将軍のお出ましで日本海側は荒れた天気模様、昨晩からチラホラしていた雪で朝

は一面は白く染められていた。時折、薄日を射したり回復の芽はあるかと思わせるもの

の、見せかけばかりで午後、遅くなってからは深々モードになり、時計を昨日に戻した

ような状態になった。大根を抜いてもう一回、大根漬けを作ってやろうかと思っているの

に、畑にも出かけられず、山小屋でごそごそ仕事をしている。過日、完成させたはずの

小物入れは、どうも気に入らない所があり、塗装を落とし一部の手直しにかかった。

作りながら、気になっていたからその時に、やっておけばよかったものを、急ぐこともな

いのに横着した始末をつけなければならなくなった。妻に見せても『ここがおかしい』と

クレームをつけられるようなものではないが、私のような下手な製作者でも、時にはこん

なこともある。改めて急ぐものではないから、と言いながらの指物大工さんもどき。

 昨日、ブログのアップ後にWin8の再セットアップを思いつき、どのようなことになるのか

試してみた。購入はダウンロード版だからMSからのメディアはないが、ダウンロードした

時SDカードに落としているので、それから立ち上げる。

このPCは実績があるから、最初のように     Win8に適合するか否かのチェックはなく、

プロダクトキーの入力後、直ぐにインストールの準備に入り、『すべてを引き継ぐ』の指

示をすると勝手に黙々と作業をしている。

私は夕食を食べたりTVを観たり、PCはチラ見程度。やがて設定作業の時に無線ラン

の暗号キーを入力せよに応える。こうなるとほぼ終了。以前のようにバックアップを取

ることも要らないし、メールや自分で埋め込んだAPもそのまま引き継いでくれるから再

インストールも簡単になった。最近、流行のPC高速化のソフトを買って、それを走らせ

るよりも、一寸時間はかかるがロハの再インストール対応なんて如何?


『回顧録、手術Ⅳ』

2013年01月26日 18時06分26秒 | 回顧録

体重測定を終えナースステーション隣にある部屋に連れていかれると、個室ではな

く相部屋で先客がおられる。手術を終えてここの病棟に戻って直ぐの人が、ここで一

晩なり落ち着くまで看護師さんの目の届く部屋で過ごす。

だから患者さんは寝たままの人が殆どだから、普通の患者のように自己紹介をする機

会はない。また本人たちも身体にメスを入れた直後でもあり、自分のことで精一杯だか

ら、自分にとって快適か否か以外の他人のことなど全く関心を持てない。

相部屋で多少なりとも気を使う、自分も管攻めに慣れない、ICUと違って意識ははっき

りとしているから入院以来、最悪のコンディションだった。幸いにも一晩泊まりで元の部

屋に戻ることができ、やっと自宅に戻ってきたような、おかしげな安堵感を覚える。管攻

めの状態は変わりなく、寝返りも満足にうてない。いつもは横寝かややうつ伏せ気味が

お気に入りのスタイルなのに、仰向けばかりでも不自由はなかったようだ。しかもベッド

は少し頭の方を高くしていないと、食道や胃を摘出しているので残胃の中にあるものが

逆流する可能性もある。今も思うけど多動症の爺さんがよくあの格好で我慢していたも

のだと。私の本当の姿は、芯が強く何事にも屈することのない我慢強い人間ではない

かと思わせるほど。術後からは絶食の代わりに、中心カテーテルとやらで栄養分の補給

をされており、食事の心配は要らない。

しかも空腹感を覚えないから食欲は湧かない。食べたくて我慢するのは辛いから、こちら

の方がまだ、ましかも。ここまで耐えてきた目的は癌の摘出により、食べ物が詰まる症状と

の決別だ。それが手術により回復したのかどうかは実際に食べてみなければ分からない

ことだから、早く口から食べる日が待ち遠しい。

また、手術の後は熱が出るから湯たんぽ等で体温を上げることがよくある。私はICUでの滞

在が長かったから、もしそうしたことが必要なら無意識の中で処置されていたと思われる。

他人の話だと麻酔が覚めたら電気あんかを入れて貰ったとか、熱が出たのをよく覚えてい

ると聞く。この辺りの経過は他の患者さんと様子が異なっている。

 最初の儀式は『オナラ』を出すこと、つまり腸が以前のように整列したことの確認だ。看護師

さんとの会話のキーワードは『オナラは出ましたか?』、腹がゴロゴロと鳴ったり、張ったりの

候はなく、私は勿論の事、皆がその臭い朗報を待ち望んでいた。今となっては何時だっ

たかはっきりしないが弱々しいものが通過して行った。幸いなことに熱、血圧などにも異常

は認められていなかったから、『オナラ』のお知らせは全て順調にお墨付きを与えるものに

なった。


『どうなる原発防災計画』

2013年01月26日 17時37分51秒 | 日記

今朝の新聞に原子力規制委員会は原発事故時の防災計画のモデルケースの提示

を断念とあった。それを受けて自治体は具体的な防災計画を今年の3月18日までに

作ることが法律で定められているのに、自治体は屋根に上がったら梯子を外された格

好になり大きな困惑を招いている。

断念の理由は地域間の格差があり参考にならないから、その代わり作成マニュアルを

提示するから、これを参考に自治体で勝手に作れというものだ。

『凄い、すご過ぎるぞ、規制委員会』

『国も凄い、原発事故の対応できないのに、ベトナムに原発を売り込む。すご過ぎるぞ

Japan』もっと凄いのは東電だ、誰も勝てないほど凄い。下の新聞記事のように、福島原

発の当事者であることを忘れたかのような、責任はないかのような、今後も自分たちだけ

の都合のいいようにしたいようだ。

仮に規制委員会がモデルケースを示したとしても、国や自治体に出来ることは一時凌ぎ

に原発近くから逃げ出す手立てをすることだけなのだ。事故の時に大混乱してもいいと

は言わないが、逃げ出す際の混乱は避けられないとしても一時的なことだから我慢に我

慢するにして、避難先での生活、元の居住地に戻れるかなどなど『課題』なんて生易しい

言葉で語れないことは、今の福島をみれば一目瞭然だ。

逃げる算段ばかりして逃げたら地獄が待っているのではないか。同じことを何度でも言う

が『福島を今もこれからも100%救済できないのに、次に起こった場所は本当に救済できる

のか、出来ないなら福島の二の舞になるから4649とでも言うのか』


『回顧録、手術Ⅲ』

2013年01月25日 18時05分54秒 | 回顧録

感覚的には昨日の朝、手術室に入り手術をしてその翌日のように思っていたのに、

妻の話だと4日目に麻酔が解かれ、やっとお目覚めになったと言う。

手術は9時過ぎから始まり夕方の5時頃までかかったそうだ。術後、摘出した食道と

胃は標本のようにピンで開きにされ、先生はそれを見ながら説明された。食道と胃

はつながっており全長、約20㎝くらいの大きさの哀れなホルモン状態。

癌の部分の説明をされたものの素人目にはよく分からなかったらしい。妻たちも

『This is Cancer』と言えるもだと期待していたのに何の変哲もないホルモンを見せ

られ拍子抜けだったとか。

後日、私も写真を見せて貰ったが脳裏に残っている胃カメラで見たものとは似ても

似つかぬものに見えた。立体のものと平面べったんこの写真との違いもあろう。二つ

の癌はすぐご近所なのに氏も素性も違うことは後の病理検査で確定した。

ICUの中でのことは、それぞれの部屋に居た記憶はあるが、時系列的なものはなく

アバウトできちんとした説明はできない。痛み止めの麻酔をかけられていたのか否

かも定かではないが、手術の痛みの覚えは全くない。記憶が明確になってからも傷

の痛みは感じなかったから、麻酔で静かにさせなければならない状態ではなかった

と思われる。

ICU個室から一般病棟に戻る時、車椅子に乗せられナースステーション横へ、そこ

で体重測定をした。車椅子に乗り込むのも自分でできたし、体重測定で体重計に

乗っても平気だった。

食道と胃の1/3だから100g位を摘出されただけなのに体重は、極超スリムの38Kg

と小学生並になっていた。身は軽やかでもフラフラすることもないし、管さえなけれ

ば散歩でも行ける感じだ。

私の性分からすると、たくさんの管で繋がれ不自由な身体なれど、痛くはないし管

を動けるように纏めてくれたら,チョロチョロくらい出来そう。ベッドでじっとしているな

んぞは苦痛では済まないはずなのに、とんでもない目に遭ったという記憶もゼロだ

った。

この管どもは酸素吸入、中心カテーテル、腹の中に溜まる血液や汁を吸いだすも

の、尿管、などが腕、腹などからニョロニョロと出ており、動く時も管が交差して絡ま

ったりしないよう、一定のルールに従わないとナースコールのお世話になる。

この頃の仕事は、動けないから音楽を聞き、テレビを観て、点滴の終了のナースコ

ールくらいしかないし、昼寝をすることはないから暇をもて遊んでいたと思うが、そん

な苦痛を味わった記憶はない。


『祝、一次ソーラー発電完成』

2013年01月25日 17時40分44秒 | 日記

昨日、注文していたデーブサイクルバッテリーが来たので、その取り付けを行うつい

でに、設置場所周辺の片付けや掃除もやった。見た目には何も変わることはなく、た

だバッテリーが怪しい軽自動車用から純正品になった、そんな感じだ。バッテリーの

中身の事は知らないが、大きさはさほど大きくなったのではないのに重量は11Kgもあ

る。軽そうに見えても構えないと、運ぶのも容易ではない。容量は50AHとかなり大き

めのものにしたから、今程度の使用量ならば、おつりがくるのではないかと期待して

いる。最初は様子が分からず慎重にならざるを得なかったが,この規模のものなら何

てことはない。本格的な数KWのものを発電、売電なんてことを考えず、独立した電

気システムとして使う程度のものなら余り知識のない人でも出来そうだ。

ただ、コスパを気にするようになると再考の余地はあると思う。ともあれ、山小屋には

電気がないから、遊び半分でお金をかけて電気を作りまた遊ぶ。

お金に換算してなんて・・・野暮なことは止ーめ。

 


『回想録、手術は終わった?』

2013年01月24日 17時43分51秒 | 回顧録

もう一つ、身体拘束に関する同意書の提出は別の形の問題としての対策だ。

病院が拘束を必要とするようなケースは、患者が痛がってもがき苦しむのを無理やり

ベッドに縛り付けるなんてことではなく、無意識の中で起こす行動に対してだと理解

していた。だから『先生、もし騒ぎ出したら、恐らく無意識のことですから叩くなりして

気絶でもさせて静かにさせて下さい。その時のことは覚えていないだろうから、後で

問題になることはないでしょう。もし叩いてたん瘤でも出ていたら、ベッドから落ちた

時のものとでも言っておけばいいから』と軽口を叩いていた。

こうした書類を読み直していたら、手術室に入る時の看護師さんとのやりとりを思い

出した。

『指輪や貴金属など身体に付けているものが何かありますか?』

『いや、何にもないはずだけど・・・ああ、あった金二両』

『それは、いいです』

こんな馬鹿げたことを言いもって、普段の心境では潜る(くぐる)ことのできない手術

室のドアを軽やかに通過し、何があっても後戻りはなくなったことを肌身で感じた。

何やら遠くの方で人の話をする声が聞こえてきた。意識はもうろうとしており、やがて

自分に向けて声をかけられているのではないか、いや只の他人同士の会話だ。

それから、そんなことを何度経験したのかも分からない。妻の『お父さん』と呼ぶ声に

目を覚ましたように思うが、前後の関係は支離滅裂だ。看護師さんの『音楽を聞きま

すか』に対して『ビートルズ』と答えたらしい。そしてビートルズの曲を聞いていたの

あろうが、その時ビートルズを聞いた記憶はない。

かなり意識が戻り自分の意志で話したのは『手術は終わったのか?』だった。手術

をしたようには感じない。色々な管は繋がれているものの傷口が痛むとか、摘出箇

所が痛いなど予想していたことは何一つなく、ベッドで安静状態を強いられているだ

けだったから。それでも、ICUの中にいて何かを思ったり、考えたりすることは出来な

かったようで、殆ど覚えていない。日本の病院は看護師不足で外国から特別に在留

許可を与えて資格を取得して貰い戦力になって貰う。こんなことが頭にあったのだろ

うか、ICUにもそうした研修生がいて片言で話をした。私も何か手助けになるように、

参考書を寄付してあげよう、こんなことがあったと思っていたが、実際にはそんな研修

生はいなかったから、夢を見ていたのに現実と思い違いをしていたようだ

 


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