食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『術後の吸入器』

2012年11月30日 17時20分29秒 | 入院回顧

『バブルと忘年会』

私はリタイアした身なれど、町の活動団体と少しだけ関わりを持っているので、一人

忘年会なるのものに如何と声をかけられる。サラリーマン時代、バブル期の忘年

今では比べものにならない賑やかさ、言い換えれば昭和元禄で多くの老いも若

ってた。私は1人いい子ぶる気はないが本当に正しいことを言ってきたし、結

果はした通の世だ。昔を懐かしむ気はないが、田舎の松江でも夜の巷はそ

れなりに活気が溢れ、夜中のタクシーなど捕まえるのに苦労し、やっと捕まえたら午前

3時なんてことも。車通勤だったから飲んで帰るにも車を連れて帰らねばならない、その

手配もままならないらホテルで一泊なんてこともあった。

バブルの崩壊から市内の飲み屋街の灯は減り続け、以前のように徘徊する人も減り、

シーはお客待ちの長い列、昔とは大違いになった。結局、こうした所の経済は縮小し

まったのだ。これは松江市の一部の地域のことではなく、日本全体に当てはまる。

期にせっせと溜め込んだ巨額の富を企業も国も、永遠に得続けられると思った

のか、に捨てるが如く使い果たした。

先代が苦労して築いてきた暖簾を放蕩息子が食い尽くした結果が今だ。子供、孫には

り切れない大きなツケを残して。忘年会シーズンになると、バブルの馬鹿さを思い出

し忌々しくなってくる。ブログで紹介の通り、以前とは雲泥の差で酒の量は減ってしまう

し、食べることも小食になってしまったから完全に割り勘負けをしてしまう。それでも、たま

にこうした人たちと杯を交わすのは楽しいことだから昔、酒が飲めなくて苦労した宴席と

全く違う。こんな愚痴を綴り終えたら、今年最初の忘年会に出発。

 

 『術後の吸入器』

冬が近くなりふいと思い出したのが吸入器。手術を終え管が外れてから日に2度だった

うが、吸入器による喉の加湿?をしていた。何をすることはない、酸素マスクのような

ものて口を開けているだけでいい。喉の保湿や風邪の予防対策だったと思われる。

手術は食下部だから、この治療は直接それとは関係なさそうなので、2次的な予防治

療だったろう。

この年は新型インフルの年だったから、免疫力低下の状態にある身体に対して慎重だ

のかもしれない。毎日、吸入していたから退院後、部屋の湿度が下がらないように

と、退院の足で加湿器を買いに行った。物珍しもあり暫く使っていたが、いつの間にか使

わなくなり隅に追いやられ、それから押入れ行となり以後さっぱり姿を現さない。


『舌の苔』

2012年11月17日 18時27分11秒 | 入院回顧

手術をして水を飲めるようになり、重湯、お粥とグレードアップしていった頃、舌が白く

なり奇妙に見えた。痛みはないし味など自覚症状はゼロだから見つけたのは妻で私で

はない。鏡で見ると確かに下の上が白くなっており、今風に言えばキモイ。

先生に話をすると『苔』の仕業。黙っていることが多いとか、舌を動かすことが少ない場

合、こうした苔が生えることがあり、歯ブラシで舌を擦ると綺麗になると教えられ、歯磨き

と共にベロ磨きも行った。

磨き始めて直ぐに白いものは無くならなかったが、いつの間にか綺麗になっていた。入

院中、しょっちゅう話をすることはないにしても、日常生活と比べ極端に減ったとは思え

なかったが、原因はそんな説明だった。煙草も酒も『禁』の文字に囲まれていたから、舌

の奥の方をゴシゴシと掃除してもオエッとなることはなかった。

 

『刃物しんけ』

『しんけ』と小難しい意味合いもあるが、こちらの方言で『のぼせ者』の意味合いでも使わ

れる。刃物に強い関心や執着心を持つ人のことだが、辻斬りをして刀の切れ味を試して

みるようなお方は、『刃物気ちがい』であり、この部類には入れないとする。

私も刃物には興味があり、日本刀、短刀なども許可証を得た上で所持している。日本の

刃物はどこの世界に持って行っても、これに勝るものはないだろう。そこには鋼なるものの

存在があり、普通の鉄で鋼を包み込む伝統の技は21世紀になった今でも、これに変わる

技術はない。日本には、こうした高い技術を持ちながら、一部では『刃物はドイツのゾーリ

ンゲン』などと宣伝されたこともあったし、『狩猟用のナイフはアメリカのバック』という風にな

り和物の出番は少なくなっていった。家庭用の包丁は錆びないからステンレスになり、や

ては危ないからの理由もあろうがセラミックも使われるようになった。

確かに鋼の包丁はきちんと手入れをしないとすぐに錆が出る、包丁を研ぐ事のできる男が

いなくなった、魚を捌くことをしなくなり包丁の種類も減ったなどの理由から、存在感が薄く

なってしまった。

以前、母が使っていた刺身包丁、柄は腐れ包丁本体も錆が奥深くまで入っており、研いで

も使えるとは思えない状態だった。要らないというから、貰って帰り錆落とし、柄を付け直し、

いよいよ砥石の出番になった。数十年ぶりに研がれた刃物の鋼の部分は再び輝きを取り戻

し、切れ味も復活した。見た目にはボロボロのものだったが流石、ジャパニーズ。

その刺身包丁は今でも使っている。

切れない刃物を使うと怪我をする。切れが悪いから無理に力を入れるから思わぬ方向に滑

ったりして傷をする。また、刃物を買う時はケチらないことが鉄則。安物の刃物は買わない方

がいいと断言できる。しかし、いい刃物を買ったらきちんと維持管理する、これが出来ないな

ら買わない方がいい。手入れの行き届いた包丁で料理すると、切れ味のよさが料理の味を

引き上げてくれる。台所の包丁が錆びていたり、刃先が欠けていたり、切れ味が悪い、これ

ら全ての責任は男にある。仮に刃物を研ぐ男がいたら、『砥石も研いで平坦にしておかない

と刃は付かない』このことをお忘れなく。


『入院時の一コマ』

2012年10月24日 18時03分07秒 | 入院回顧

手術の退院は10/31(H21年)で体力が回復したら、万が一の可能性をつぶすために

抗がん剤治療を受けるか否かを問われた時、『お願いします』と即答していた。副作

用は出ないだろうから何も躊躇する理由はない。ところがシンガポールのEさんが12

月の中頃、日本に来るので私の所に来たい、と連絡してきた。

先生に事情を話、日程の調整をとって11/25から11/8までにして貰うことができた。

治療は楽なものだから院内ウロウロ生活の再現になった。何か面白い事はないかと

掲示板や目新しいポスターも隈なく見た。その中に玄関ホールで音楽会が開かれる

ことを知り、楽しみにしていた。国立音大の関係者がピアノ、フルート、バイオリンなど

奏でる、クリスマスソングだった。聞くと時々ボランティアでこうした演奏会を開き、病人

の癒しになるよう活動しているのだ。

この時、バッテリー付の点滴車だったから、時間によっては充電が要るようになるかも

しれなかった。壁コンは他人が使っており空はなし、すると看護師さんがスルスルとコ

ードリールを持って来てくれ、電源を確保できた。

生演奏の音楽は、味気ない入院生活に一滴の活力エキスを与えてくれた。私が座っ

た所の横に『新型インフルエンザワクチン接種受付』なる大きな看板があった。急な流

行でワクチンが不足し、病気に対する弱者優先の割り当てをされた時だ。

私は手術をして免疫力が落ちているだろうから、と言う理由でこの枠の中に入れて貰

った。院内はインフルの予防で入口には消毒液での手洗い、マスクは必需品のようだ

った。野生爺の私は、消毒液は面倒だったから使わないし、マスクもせずに過ごした。

新型インフルの関係で、小さい孫たちは病棟に入ることができなかった。

この治療を終え退院し暫くしてからEさんが我が家に来た。娘たち一族を引き連れて、

入院中に6Fから眺めていた中華料理屋に出かけた。たどたどしい英語での会話を挟

みながら楽しいひと時を過ごした。Eさんは二晩泊まって帰国した。この時、初めて知

ったのがJALでシンガポール~羽田を利用し国内移動をJALですると往復10000円で

出来ること。私たちはこのようなケースはないから、教えようにもサッパリ。

 

最初の抗がん剤治療は、手術に向けて頑張るぞと檄を。

手術は、食事が楽しくなると檄を。

術後の治療は、徹底的に癌退治と檄を飛ばした入院生活だった。


『病院内の散歩』

2012年10月23日 17時52分44秒 | 入院回顧

点滴地獄の喜びはその管が一つ、ひとつと外れていくことだ。ICUにいた時は心肺装

置を口に咥えていた記憶があるものの、その時は麻酔の関係かウツラウツラしていたよ

うだったから、うっとおしくて我慢できないほどではなかった。

もし意識がしっかりしていたら、これほど邪魔で嫌なものはなかったのではないかと思う

が、生命線だから好き嫌いの選択はできない。

これらの管の中で鼻からのものは何とも言えない厭らしさ、不快だったが、こいつが取れ

ると天下を取ったようなものだった。バッテリー付の点滴車を引き連れて、病室のフロア

ーを散歩したいのに、当時は新型インフル予防の為、病院の方針も慎重。術後は出来

る限り早くから身体を動かそうとのご指導に従い、早く室外への外出を望んだのに、暫く

は室内に制限された。振り返れば、正式に許可を貰って室外散歩に出たのではなく、成

り行きで出かけるようになった。一番の楽しみは1Fにあるコンビニに出かける事。

まだ食事の制限があったから何かを買って食べることはできなかったが、良くなったらあ

れを食べてみたいと、見ながらショッピングを楽しんだ。

また、8Fにあるレストランの入り口まで出かけては、陳列ケースのメニューを眺めて、治っ

たら、これを食べてみたいと、ここでも見ながらイーティング。

重湯からお粥、軟食へと出世していく度に、普通食への憧れは、とても強かった。病室の

前にはソファーや椅子が置かれていて、休憩所やら面会に使われていた。そこから下界

を見ると、以前よく行った中華料理店が見える。目と鼻の先だ。早く出て、あそこの白湯仕

立ての五目そばを食べたいなーと眺めていたものだ。

最初の抗がん剤治療の時は、病院のルールも知らないから、直ぐ目の前にある遺跡公園

に出かけ、頂上でリラックス、ついでにあちこちをウロウロして帰院した。看護師さんに話す

と『散歩は病院から外に出ないように。外出する時には許可が要ります』・・叱られた。

何れの治療も順調で、食事に関する苦労は一切なかったから、食べたい気持ちが病をより

抑制してくれたのかも。抗がん剤治療の副作用で、術後の縫合不良などで苦労された方

などは、散歩どころではなかったろうが、私のように殆ど何もないこともある。


『病院サービスとは?』

2012年10月22日 18時06分02秒 | 入院回顧

昨日、登場の友人は日赤病院に入院している。暇つぶしに何をしているか、体力維持

のための運動なども話題になった。その中で、日赤では電気製品の持ち込みは一切

禁止でパソコンも駄目で話によると婦長の許可制らしい。友はパソコンを持ち込もうとし

て頼んでみたが許可は下りなかったらしい。

しかし、携帯電話の持ち込みはいい。冷蔵庫のように電気を食うものは常識的に不許可

だろうが、携帯は良くてパソコンが駄目の論理が湧いてこない。どちらも充電するための

電気は使用する。携帯の方が小電力だからだろうか?。

一方、私の入院した市立病院は常識的なものの持ち込みまでは禁止していなかった。

パソコンを持ち込みTVチューナーをつけてTVは只で観てたし、DVDを観たり落語を聞

いたり、パソコン本来のことも。TV代金だけでなくパソコンのお蔭で沢山の恩恵に与かっ

た。また、高い個室にはLANの設備が整えられていた。インターネットに接続できれば入

院中に沢山の勉強だってできる。時間はたっぷりあるから、あとは本人のやる気次第だが。

闘病ブログの中には入院リアルタイムのブログをパソコンでアップしている人も沢山おられ

る。最近は流行のスマホでアップの人も多くなってきた。

私は退院する時のアンケートに『全室は無理としてもせめて個室にLAN環境を整えるべき

だ』と記した。都会のようにWIFIやWIMAXなどの利用が身近にあれば便利だが、この地で

の充実は望めそうにない。

友の別の嘆きは運動不足の解消場所がないことだった。この病院は階段がなくエレベータ

ーのみ。だから散歩をするにも同一フロアーだけでは直ぐに終わってしまう。他のフロアー

に行くにはエレベーターでは運動にはならない。私は6Fにいたから毎日、数回は階段で上

り下りしていた。そのついでに、他のフロアーの視察を。ウロウロとまるで徘徊老人のように。

当時、万歩計をつけており多い日には10000歩もうろついた。

階段は動ける病人のためには格好の体力回復の場となる。病院を作る時、病人のためにな

ることを考えなかったのだろうか。それとも、それよりも大事なことがあり優先されたのだろうか。

このようなことは直接的な病院サービスではないが、広義のサービスと言っていいと思う。


『回顧、きょうは入院日』

2012年10月06日 18時02分01秒 | 入院回顧

 

記録によると平成21年10月7日、今日が手術のための入院日だ。そのちょっと前の9

月14日から29日までの2週間ほどは術前の抗がん剤治療で入院していたから、退院

後1週間ほど自宅で休養し、また入院ということになる。

入院手続きは『がん相談窓口』と隣り合わせのような所で行う。余り間のない入院だか

ら慣れたもので、余裕をかました牢名主のような気位で行った。元来の寝つき不良、人

のイビキ寝言にはとても敏感なので、ゆっくりできる個室をお願いした。普通個室は42

00円/日、ランクが上の個室は8400円/日と倍の値段だが、大きなソファーもあり見舞い

客が来てもゆったりできそう、また家族が泊まることが出来るのではないかと思うほど。

この部屋の何よりも魅力的だったのはLANが設置されていることだ。ネットがつながれ

入院中の退屈凌ぎや、色々な調べごとに便利だったと思う。術後の最後の頃は余

りにも退屈でLANのある部屋に代えて欲しいと申し出たら、退院間近で叶わなかった。

この度の入院は翌々日の一大イベント、食道と胃の噴門部の摘出手術のためで、明

日は手術の準備で忙しいから、本当にくつろげるのは今日だけだった。抗がん剤治

療で癌の硬化縮小が見られたものの、最初に自覚症状が出た7月中過ぎごろと比べ

ると、状況はかなり悪化してきており、このまま放置していたら、あと数週間で食べ物

が通らなくなりそうとの予測は簡単にできた。

しかし、食べる時に注意深く、注意深く食べれば詰まりを避けることもできたし、それ

以外に何の症状も無かったので、傍から見れば病人らしからぬ振る舞いをしていた。

食べ物が詰まる、この苦しみから解放される手術だから、ジャンヌダルクに出会った

ような、『いざ、いざ参ろう』、こんな気分だった。

難病や、手術に耐える健気な赤子の姿は私の勇気の源になり、手術の不安は金輪

際なし、むしろ待ち遠しいくらいだった。


『病院食、かぼちゃ』

2012年09月18日 18時38分33秒 | 入院回顧

 

私が入院していた市立病院の食事に『かぼちゃ』がよく出た。緑黄色野菜で軟ら

かいながら繊維質もたっぷりあり栄養価も高いが、大方の男性群は苦手。普段、

食事に出ても一口食べるくらいで、しかも『美味しい』といいつつ、もう一口なん

てなかった。

入院中は術前、術後とも軟食と指定されていた。それからすると消化もいいのだ

ろう。何回食べたのかは覚えていないが、感覚からして数年分は食べたような気

がする。病院で頻繁に出るし、割と保存が効きそうだから、値段は高くないと思っ

ていた。

以前、スーパーでかぼちゃが目に入り『幾らくらいするのかな?』と値段を見ると、

種類によっては数百円するものもある。私には、ビックリだった。

かぼちゃは蔓が延び場所をとるが、種からでも簡単に栽培でき、特段の手入れ

はいらない。

自家用に作っても1個あれば当分は要らないから、他人にあげるが、先方もそう

そうは要らないから、あげる所がなくなり往生しまっせ。

だから、坊ちゃんかぼちゃのような小さいかぼちゃを栽培するようにした。大型で

はないから2~3個あげても喜ばれる。

かぼちゃの由来は『これは何という名前ですか? 』と問うたはずが『どこの国から

来た?』に間違われ『カンボジア』と答えたのが訛り、『かぼちゃ』になったとさ。

そういえばアンコールワットのオールドマーケット近くには沢山のレストランがあり

夜になると賑やかさを一段と増す。その一角にかぼちゃスープ専門店があった。

この辺りでは有名な店らしいが、私たちからみれば幾らリーズナブルとはいえ、

現地の人には高価らしく、客は観光客ばかりだった。現地の人は強烈な臭い付

きのオールドマーケット内の屋台で食べていると思う。


『禁煙記念日』

2012年08月28日 18時03分58秒 | 入院回顧

胸部食道がん、吻門部胃がんと正式に病気に命名された時には『禁酒、禁煙』の

通告はなかった。病気の主要因だろう、このお二方がそのまま許されるはずなど

ないことくらい私にもよーーーく分かっていた。医者からそう言われなくても止める

のが当り前のことだが、今更ジタバタしても癌が小さくなるのではないし、急激に

悪化することもなかろうと、このお二方に寛容な姿勢。

医者から『禁酒、禁煙』の通告後も暫くは煙草を吸っていたし、酒も少し減らしたく

らいだったが8月26日を禁煙と決めた。心は『暫くの間は休煙とする。癌の摘出

手術が終わり退院したら、まず一服する。それから減煙か禁煙か考える』

その頃には2箱/日だったものが1箱弱/日と減っていたが、煙草への執着は筋

金入りだったから本当に煙草を吸わない日々が過ごせるの? と懐疑的。

あれほど煙草を減らそうと努力しても効果は少なかった・・・・・人からは『意志が弱

い』と決めつけられてきた。身を賭して高い税金を納めてきたにも関わらず、納税

の評価をされるでもなく、医者からは嫌味のオンパレード、散々な思いをしながら

の煙草人生。

よく決心した、と言いたいが医者からは『喫煙年数の長い人ほど術後に痰がきれ

なくなる。そうなると処置も貴方も大変だ』また『術後、ICUにいる期間が長くなり

復帰に時間がかかる』

色々と言われるが、それがどれくらい大変なものか、深刻なものかなんて何も分

からない。しかし、感覚的には分かるから仕方なしに決心したのであって、女々し

いものだった。

あれから、もう3年も経ってしまった。喫煙期間からすれば未だ3年ということにな

ろうが、禁煙をしたことによる心境、体調の変化はない。

悶々としながら禁煙生活を送るはずだったのに、『手術して退院すれば、また吸

える』が後押しをしていく内に『今日で禁煙XX日目』に変わっていき、これの延長

線に『知らず知らずの内に煙草との決別』があった。


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