食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『兼六園』

2014年05月03日 17時00分42秒 | 旅行

 会津若松への道中は金沢で1泊し、帰りにもここで1泊する予定。松江を7時に出発し約500km走って午後3時

頃に金沢に到着したので日本3大公園の一つ兼六園に行って見た。

自動車道を降りてナビの指令に従いすんなりと到着した。公園の入口に着き入場券を買おうとすると『市民の方で

すか?』と聞かれたので島根県から来たことを伝える。

『失礼ですが年齢は65才以上ですか』に対して自信満々で答える。

妻の免許証で確認すると『65才以上は無料ですのでごゆっくり』

有り難いような、有り難くないようなことで無料入場となる。園内は綺麗に手入れがされていて松江市よりは北に

あるから遅い桜は見頃で残されていた。日本武尊の大きな像に出迎えられる。

少しせこい話だが、こんな時、団体ツアーのガイドに付いて回るカルガモ観光は大変便利だ。物事の由来やエピソ

ードを丁寧に説明してくれる。

直ぐ前には有名な『根上り松』がある。この松にお願いすると株が『値上がり』するから・・・・こんな説明も織

り交ぜて。

そぞろ歩きをしていると急に賑やかな声、中国からの観光客だ。若い人から初老までのかなりの大人数だ。巷では

反日ブームで来日観光客は激減とあるのに、そんなに有名な観光地ではないこの地に中国の観光客。

少しばかりびっくりした。池の中に映る松や小川に架かる橋などを見て感嘆の声をあげ、近くで記念写真を撮って

いた。夕方近い時間になったから金沢の名物というあんころ餅を食べながら小さく1周して兼六園を後にした。

 

 


『カーナビの造反』

2014年05月01日 17時29分26秒 | 旅行

カーナビは知らない場所でも施設名や電話番号を入力すれば自動車道優先とか一般道路優先など条件別のルートを

探してくれる。地図は要らないし土地勘のない者には便利極まりないには違いない。ただ、選択してくれたものが

自分の思っているルートを選択してくれた場合には。

だからナビに身を託す場合にはある程度の地理的なことを知っておかないと、自分に最適なルートを選択してくれ

たのか否か分からないという不都合が生じる。ナビの種類によりその確認方法は異なると思うが。

滝桜の様子を確認した後に船引三春から自動車道に乗り会津若松のホテルまで帰るのに電話番号をナビにセットし

た。ナビは来た道を帰るルートに案内してくれ難なくホテルに到着、翌日は夜の移動になるが、これで迷うことな

く円滑に動けると安心していた。

南相馬市の帰り道、夜桜を見るため滝桜に寄り堪能した後、ナビに帰宅の昨日と同じように電話番号を入力した。

見慣れたような、違うような道を走り自動車道入口に案内しているとばかり思っていたが、どうも昨日とは違う道

のように思える。そして決定的に違うと思ったのは『間もなく踏切・・・・』のガイドがあったからだ。

明らかにおかしいから電話番号を入れ直してリスタート、少し戻ってから再び踏切の方に導く。ナビの入力を船引

三春ICにしてみるが酩酊した後からのリスタートは何もかも不信の塊になり、案内の途中で頭を冷やす為に停車

して、元々弱い頭の中のGPSをフル活動させてみる。

その結果、ナビは三春ICではなく郡山東ICを目指しているのではないかという事だった。リセットのリセットで

ホテルの電話を入力し何も疑いを持たずナビの通りに行ってみる事にした。

すると道路標識に郡山東インターの案内が出て来たので、それを頼りに先を急ぐとbingoのインターに到着した。

前日と同じ場所で同じ電話番号を入力したのに何故、ここから一つ先のICから入ろうとしたのか、その理由は分

からない。道を知らないからお任せする訳だが自分なりの案を持っている場合には、セットした後に自分の思って

いる通りになっているのかチェックする方法を調べておくべきだ反省することしきり。

このクルクル迷子により約1時間のロスとなりホテルには8時30分の到着となってしまった。幸いなことに今晩

はいくら遅くても明日の出発は遅いので焦る必要は全くなかった。

最後になってドタバタしたものの、こんなことがあってもやはり滝桜は最高だった。


『人のいない飯館村』

2014年04月30日 16時53分24秒 | 旅行

 

東電原発はメルトダウン、水素爆発により膨大な放射線物質を大気にまき散らした。核物質は灰のようなもので風

が吹けばそれに乘って何処へでも飛んでいく。風向き次第だから蒔き散らかされた時に吹いていた方向と風の強さ

で落ちる場所が決まる。不幸にしてその場所が飯館村だった。原発よりもっと近いのに頭ごなしに通り過ぎてしま

い難を逃れた地域は沢山ある。

飯館村は一番遠い所では原発から50km近く離れているのにこうした被害に遭っているのに、国の規定では原発か

ら30km圏内の数字が独り歩きしている。勿論、複合的な条件によって変わるから一律の数値で表せないにしても、

国は安全性を前面に出したいから飯館村の事は参考にしたくないのであろう。

私は飯館村が汚染されて大変だとは知っていたが避難の具合だとか居住制限区域に指定され、どのような制限を受

けながら暮らしておられるのかは知らなかった。地図で見ると私たちが向かった南相馬市と隣り合わせで自動車道

を降りてから真横に走り飯館村を横断するのに何の規制もなく行けるから『大変だったろうな』と過去形の思いだ

った。川俣町から飯館村に入り田舎町を感じさせる。開けた谷間のような所に来ると黒い袋に詰められた除染土の

山が見えた。幾つかの山には青いビニールシートが掛けられている。昨年、相馬市に行った時には何処の除染袋に

もビニールシートを掛けられることない黒い袋の山だった。

雨ざらしのままだと袋の劣化が早くなるから青いビニールシートが掛け、行き先が決まるまで長い年月に耐えられ

るようにしたのだろう。遠くには作業員らしい人たちが重機を使って除染作業と呼ばれる、土を10cmくらい剥ぎ

取ったり、手で何かを袋に詰め込んだりの作業をしている。村の中心地と思われる処には道路の両側に店屋や郵便

局が並んでいる。

飯舘村を通り南相馬方面に向かう車は信号で一塊になりやがてばらける、対抗車の量は左程多くはないが時折すれ

違う。順調に通り過ぎていくが人影は見えない。店によっては駐車場のような所にロープが張られているから、な

んでだろうかな、としか思わなかった。信号もありちゃんと動作している。小さな自動車工場のような所は、人は

見ななかったが明らかに仕事をしている様子が見て取れる。JAにも通勤者と思われる車が止まっており室内には

照明が点けられている。しかし周辺を歩いている人も家の周りで何かをしている人も見かけない。

南相馬市からの帰りにやっと気付いた。『この村には人が住んでいない』

家の玄関、カーテンは閉められたまま、雨戸も、障子も・・・・・

しかし家の周辺に草が生えているのではなく綺麗に手入れされ続けているように見える。

どこかの大臣がこうした風景を『ゴーストタウン』と表現して辞任させられた。

私は飯館村に人が住んでいない事を知らなかった。本当に人が住んでいないのか確認するため道から奥の方にある

家の方に向かってみたが、だれもいないゴーストタウンだ。

家々は手入れされているのに誰も住めない。道路には車が走り社会インフラは震災前と何一つ変わっていないよう

に見えるのに、人は住めないようだ。そう知ってから急に悲しいやら空しいやら何とも言えない気分に襲われた。

改めて一言でいうなら悲しいに尽きる。こんな時、東電の糞野郎とか政府や政治家の馬鹿とか、普段なら口汚く罵

る私の思考回路は遮断されてしまい、そんなものは何一つとして浮かんでこない。悲しい・・・・・

そして往路で見た小学校の児童たちは、復路の川俣市の避難校舎で元気よく遊んでいる姿を見ることが出来た。彼

らの将来はどの様な絵図面が描かれるのだろうか、と思うと再び先程の悲しさが甦って来た。

本当はこんなことではいけないことを知っているのに・・・・・・・

みんな、げっぱろー !

                               村の幹線道路、車は走っているが人の気配なし

                              除染作業中の人

 

                    除染中の重機

                   色の白い所は除染した所、右は未だ?

                                                          隣りの市に避難中の小学校

                        誰にも見捨てられた蕗の薹は花に・・・・ 


『写真のマナー』

2014年04月29日 17時00分00秒 | 旅行

有名な観光地ではどこでも記念写真や自分のベストショットを撮るためにカメラマン、俄カメラマンが同じような

位置に群がる。誰もが記録として残しておきたいから当然のことだと思う。

またカメラのデジタル化はカメラ人口を何倍にも増やした。カメラやビデオはデジタル化によって誰でも簡単に記

録できることに加え高価なフィルム代が不要となれば、その裾野が広がらない訳はない。以前はカメラを担当する

のは男性でしかも常にベストショットとなり得るような場所で限定的な撮影をしていた。ビデオに至っては8mm

が前身でフィルム、現像共に高価で僅か3分しか撮れなかった。

滝桜がライトアップされる随分前からカメラ親父たちは3脚を立て桜から離れた場所に陣取っていた。未だその時

間には早いが私たちもその隙間に入れて貰い待つことにした。桜の正面の人は減ってきたがその前で記念写真を撮

る人がいた。私が妻に『ライトアップされたら流石にあの場所には行けないだろうな』と言うと、すかさず隣にい

た女の人が『そうではないですよ。ほら、あそこに座っている人、皆がこうして後ろに並んでいるのに後から来て

平気で場所取りをしているんです。人のことなんか全く気にしていないでしょう』

そう言われた場所を見ると一人の男性が低い姿勢でカメラを持ち座っていた。誰もが良い場所で人の姿が入らない

写真を撮りたいのだと思う。カメラマンならずともカメラを構える人なら、今自分が居る場所はどんな場所くらい

かは分かるはずだ。あくまでも『はず』・・・こうした期待をしてはいけないようだ。こうしてその人のことを心

中で誹謗しながら『こうした観光地では観光協会の人か誰かが数分のシャッタータイムを作ってくれればいいのに

なー』と勝手な事を考えていた。そうすれば誰もが有名な地で人が映らないベストショットを私でも撮ることがで

きる。常識的な行動をとれば、このような事は必要はないのだが、どうも常識を守るべき又は規範を示すべき人生

の先輩方の多くが守っていないようだから、余計示しがつかない。

ライトアップされ少しずつ暗くなりかけた時、その非常識な親父以外に子供が2人だけになった。幸いな事におっ

さんは暗がりに紛れる格好となり桜と子供の写真を撮ることが出来た。子供たちはいつの世もどこでも少々のこと

は許されてしまう。『子供と桜はいいもんだな』と私が言う。『子供たちと一緒の桜ならいい』と妻。

こうしたチョイ悪親父はいるが観光地には親切な人も多い。セルフで写真を撮ろうとすると『撮りましょうか』と

声を掛けて下さる。美しい風景も優しい心で撮らないといい思い出も添えられなくなり旅をつまらなくしてしまう。

三春滝桜は念願が叶ったもの、ここの人たちの『おもてなし』も一緒に撮って帰ろう。

 


『見参、滝桜』

2014年04月28日 16時42分05秒 | 旅行

南相馬市、飯館村を通り東北自動車道の福島松川インターに戻り、磐越自動車道の船引三春を目指す。前日の下見

で現地の様子は分かっているから慌てる必要はないし、桜に足が生えて逃げることもないから余裕を持ちながら車

を走らせる。自動車道は70km~100kmまでの速度で走る。普段は余り走ることのない私でも暫く走っているとス

ピード感覚が鈍くなることに加え、周囲の車のスピードに同調してしまう。頻(しき)りにスピードメーターを見て

いないと思わぬスピードに冷や汗ものになることがある。

東北自動車道は幹線だから交通量は多いし速度制限も100kmだから運転するのに忙しい、磐越道に乗り換えると

対面有り70kmとのんびりローカルの色合いが濃くなる。三春に近づくと観光バスが桜を目指しているのか先を急

いでいる様子。午後になってからは快晴の天気となり桜を観るのに最高となっている。

昨日チェックしておいた駐車場に向かうと平日の夕方近くということもあり、車を止めるスペースは十分にあるし

観光バスの方も同様だった。車を降り受付のある場所で観桜料300円を支払い屋台、出店のあるゾーンに向かう。

雨と風で寒さばかりだった昨日と大違い、傘は要らないし周りをゆっくりと眺めながら坂を上っていく。人出は少

ない方で込み合うこともなくマイペースで歩くことが出来る。視界が開けると青空の下、滝桜が明るく出迎えてく

れた。昨日は雨模様の桜だったが、桜は晴れた日が似合う。大きな混雑はなくセルフタイマーでも記念写真を撮る

ことができる。

近くに寄って見ると木を見て森を見ずのようになってしまうから、離れた所から全体を眺めるのが良さそうだ。ど

のアングルが一番いいのか木の周りを大きく回ってみた。正面はパンフレットや観光写真で紹介されている姿でポ

ピュラーな感じ、右側からだと見降ろすようになり桜の背景が雑で今一、真上後ろからだと植えられている黄色の

花との組み合わせで良さそうに見えるが肝心の桜は頭の部分しか見えない。

ぐるり周り左側に降りると、私はここが一番いいと思う。背景は青空、枝垂れは滝のように流れ、しかも全体の姿

を捉える事ができる。

滝桜は桜が滝のように流れる様を言うのではなく滝地区にある桜が由来だ。しかし滝桜を左から眺めると地区の名

前からではなく、その姿からつけられたと言ってもいい。遥々1000kmもの道のりを駆け抜けてやってきた甲斐は

ある。

近くではお婆ちゃんたち手作り品々を売っており、好物の干し柿があったので購入の際、妻が『こんなに綺麗に粉

がふかない』と言うと、お婆ちゃんが説明してくれたが土地訛りの言葉は半分くらいしか聞き取れなかった。

三春町は今の時期が書き入れ時だから農産加工品、桜の苗、名物油揚げの焼き物などを小さなグループが販売して

いた。これらの人は本格的な商売人ではないから夕餉になれば自宅の準備で帰るから、大半の店は5時位でclose

してしまう。これから陽が落ちてライトアップされるまで2時間ほど頑張ろうと近くの出店でコーヒーを頂くこと

にした。幾ら好きな桜の前とは言えすることもなく2時間もジッと待つのは辛いから、未だ残っている店を覗いた

り、車に戻り休憩したりして落陽を心待ちにする。

再び桜の前に戻って来て暫くするとライトアップが始まった。周りは未だ明るくライトアップが始まっても桜の姿

に何の変化はなく、ライトアップより落陽をお願いしたい。

西日本と東日本の日の出日の入りの違いは就職で米子から横浜に行った時にすごく感じた。朝は早く日の入りも早

く、その差は1時間以上違うように感じた。だから陽が落ち時間はもっと早いと思っていたのに以外にも粘り腰で、

中々暗くならない。ジワリと暗くなると同時にジワリと冷えてき始めた。体感条件は悪くなるが観桜条件はよくな

る、我慢比べだ。

ライトアップが始まる2時間以上も前には少し離れた場所から立派な3脚を立てて写真を撮ろうとする人たちがい

た。私たちは記念写真用のみすぼらしい3脚で仲間入り。そもそも一眼レフを使いこなせないのに持ち歩いている

が、バカチョンカメラと同じことしかしていないから、まともな写真は残らない。

一寸だけ勉強した知識で撮りかけるが実践が伴っていないから、大きく手ぶれになったり、露出過多で絵にならな

い等の体たらく状態。段々と暗くなり桜がぼんやりと浮き出る姿を目に焼き付けて滝桜と別れることにした。

三春町の滝桜


『南相馬市へ』

2014年04月27日 18時11分59秒 | 旅行

本来のざっくりとした予定では夜になってから遅れ気味ながら鶴ヶ城の夜桜を見に行こうかと思っていた。生憎の

雨は小休止の様子もなしの為、ホテル内のレストランで食事を摂り翌日に備えることにした。

レストランから遠くにライトアップされた鶴ヶ城を見ながら冷えた体に熱燗を注ぎ込む。明日天気になーれ。

天に祈りが通じたのか翌日には雨は上がり天気予報もしり上がりの回復を確約している。朝食を摂りながら桜見物

はライトアップされる前と後が見られ時間にして、それまでは津波被害、原発風評被害に遭っている南相馬市に行

ってエールを送ることにした。

会津若松からだと磐越自動車道に乗り郡山で東北自動車道に乗り換え、福島松川インターで下り地道を南相馬市ま

で行くルートがいいと聞いた。福島松川はスマートインターと呼ばれるものでETC車だけが自動車道の出入りが

出来るもので私たちは初めて利用した。インターとは名ばかりで工事中の現場に迷い込んだような所だった。

地道をのんびりと走るが桜前線は確実に私たちの住む処とは違っており、まだ花見に耐えられる花がついている。

幸いに混雑もなく飯館村に入って来た。道路沿いには『除染中』の旗が立てられており、測定器を手にしている人

も見られた。重機を使い地面を10cmくらい剥ぎ取って例の黒い袋に詰め込んでいるようだ。広い畑のような所で

は除染された土地とそうでない土地は色が違ってモザイク模様になっている。

畑か谷間か分からない所には『仮置き場』という名前を貰っているが恐らく半永久的に置いたままになるかもしれ

ない黒い袋が山のように積まれている。黒い袋はこれからも量産され続け、ここが一杯になったら次の場所に置か

れ続けることになる。そうした中を走っていくと村立なのか小学校や高校の校舎が見えるが生徒たちがいるのか、

いないのか遠目には分からない。

相馬市へは昨年出かけ献花をしてきたから、今回は南相馬市の道の駅に出かけ少しだが福島県産のものを買って帰

ろうと出かけたものだ。全く知らない道中は長く感じるものだが南相馬市への道のりは、それを全く感じさせなか

った。というのは、相馬市へは霊山という大きな山を越して行ったから、そのイメージが強く残っていて大変な道

中を覚悟していたからだ。東日本大震災と南相馬市と言えば津波被害に直結するが、海岸から離れた市内はそうし

た印象とは別世界。道の駅周辺も表面上は震災以前と何一つ変わっていないような表情をしていると思う。

お得意の迷子にもならず南相馬市の道の駅で昼食を摂り土産物屋や福島県産の米を購入する。道の駅には賑わいと

はいかないがお客さんもあり、お土産コーナーを物色する姿を見ることができた。私たちが少々の物を購入しても

屁のツッパリにもならない。気は心、私たちは福島の惨劇を忘れないし見捨てたりはしないことの証なのだ。


『雨の滝桜』

2014年04月26日 17時08分54秒 | 旅行

 

20日金沢で1泊し会津若松には午後の早い時間に到着する予定だったので、到着具合により三春町に出かけるこ

とが出来れば行こうと決めていた。ところが天気予報は下り坂を示しており朝の金沢も霧雨と小雨の間くらいの雨

模様。雨は西から東へ、南方向から北方向へと移動する予測通り、私たちが北に向かうと空は少し明るくなり雨脚

も緩やかになるが、暫くすると雨脚に追いつかれ再び雨の中、桜を観に行くような気分を削がれながら車を進める。

磐越道に入ると明らかに松江地方と桜の状態が違っている。染井吉野系は恐らく終わっているだろうが淡い色の八

重系の桜は、少し葉はあるものの未だ花見に耐えられる花を付けている。

会津若松に到着したのが2時前だったのでそのまま三春町を目指し滝桜に行ってみる事にした。人気のある桜だか

ら混雑が予想され、その緩和の為に交通規制も敷かれており、町の運動公園に自家用車を駐車し滝桜までは無料シ

ャトルバスで送り迎えしてくれるとあった。

桜の近くに駐車場はあるようだが状況がどのようになっているのか不明、ただ天気が悪いから観光客は少なく難な

く駐車できるのではないかと期待はさせたものの、安全策をとりシャトルバスの利用にした。

運動場に車を止めバスまで僅かな距離なのに雨に加え風もあり傘を差さないと歩けないほどの天気になっていた。

バスには私たち2人を含め7~8人の観光客しか載っていないから、やはりこの悪天候だから客足は伸びていない

のだ。15分ほど丘のような所を走り停車場から桜までは徒歩で10分ほどの距離、観桜料300円を払い進む。観光

客相手の屋台や土産物屋が沢山出ており、疎らながら観光客が店先を覗きこみ物色する姿が目に入った。

これらの店屋は桜が咲いている時期だけが稼ぎ時になる。桜の時期以外には売っていないであろう『桜・・・・』

『三春・・・』などの土産品が臨時の店先に並べられている。店から坂を上がっていくと普段は閑散とした道脇には、

ここに住む人たちの家並みがある。子供の頃から見慣れた桜の期間は日常生活を観光客に奪われて不便な暮らしを強

いられる、私たちの心の中の中にある歓びとは逆になる憂鬱、なんてお気の毒な事だ。

私たちは更に足を進めると左手に写真で見たあの滝桜が鎮座していた。雨は相変わらず降り注いでおり傘を差しながら

寒い中の無粋な花見となる。桜の周りを一周するように通路が設けられていて観光客はそれに従って歩いて

行く。私たちは人を気にしないで写真が撮れる場所に移動し3脚を立ててセルフタイマーで記念写真を撮った。

雨が降るから傘を持ちながら桜をバックに撮った写真、どう贔屓目(ひいき)にみても天下の滝桜を背景にした記念

写真にはそぐわない。こんな天気になったが観光バスで訪れる人たちは元からの日程通りにしか来られないから、

雨を恨みながら坂を上って来る。私たちの本番は明日、今日は近辺の様子を確認に来ただけだから雨の中、頑張る

ことはなく早々に引き揚げ会津若松のホテルに入った。


『回想旅行記、おわり』

2014年04月09日 17時55分38秒 | 旅行

思い出しながら、せっせと書き溜めてはブログに掲載してきた回想旅行記も、やっと終わることになった。トルコ旅行はブログにか

いつまんだものしか載せていなかった為、時系列のものを綴り直した。

私は結構、記憶力は良い方で海外旅行は古いものでもよく覚えていて、こうして文字に起こすのも余り苦労はしない。しかし、文章

纏めるセンスは欠けているから、冗長なところ、説明不足の塊であることは避けられないが、それでも負けずに記述を続ける根性

買って頂きたい。

今のところ海外旅行の計画は白紙状態。いい旅はないか探していたら、春分の日を挟んだカンボジアへのツアーがあり、これに参

加できないか検討してみた。昨年12月に就航したスカイマークで米子から神戸に飛び、そこから関空までフェリーで行くというものだ

った。いつもだと高速バスとリムジンの乗り継ぎで5時間半くらいかかるのが半分以下になるから試してみたかった。それにアンコール

ワットの中央の塔から朝日が昇る春分の日に滞在できるビッグチャンスだったが、我が家の予定と合わず断念した経緯がある。同じ

くスカイマークは4月から沖縄、北海道便が就航し、羽田、成田、茨城を加えた地域への移動が可能になり、国内旅行の利便性

も飛躍的に高まった。国内は思いつけば簡単に行けると思うから中々、順番が回ってこないが国内で行って見たいのは三春町滝

桜、白神山地に日光東照宮で、それ以外の序列は同列だ。

一方、海外は北欧、マチュピチュ、アフリカのビクトリアの滝で条件的には厳しいが是非ともこの目で見てみたいと思っている。

元気でいればこそ、あちこちと動けるのだから健康を保ち、好奇心を失わないでアグレッシブな自然爺でいきたいと思う。

これまでに、治療回顧録、夢追人、回想旅行記と3つの本を綴ることができた。これらを纏めてHPに載せるよう編集してみようと思って

いる。いつになるかは不明だが、今は無料HPが沢山あるので是非とも開設にこぎつけたい。


『回想旅行記、トルコ旅行こぼれ話Ⅱ』

2014年04月08日 18時41分41秒 | 旅行

『日本と北朝鮮の関係』

トルコのガイドさんは名前が難しいので『クドウさんと呼んで下さい』と自己紹介。山口大学に留学経験をもつ博学な方だから、日本

の歴史などについても私たちより詳しく、こちらが恥ずかしくなるくらいだった。色々と教えられたことの受売りシリーズ。昔からトルコとギリ

シャは仲が悪い。歴史的にみても領土を盗られたり盗ったりの繰り返しもある。

日本と北朝鮮の間にある深い溝の中身と、同じような中身ではないが、クドウさんの説明によると『日本と北朝鮮のよう』。私たちに

分かり易くするための比喩なのだろうが、本当にギリシャが嫌いらしい。遺跡に残る建築様式などギリシャのものをトルコの人はどうい

う目で見ていることやら。

 

『チューリップの原産国は?』

こう問われると日本人の殆どは『オランダ』と答える。

焼き物が有名だからとトイレ休憩とショッピングを兼て、焼き物工場へ。沢山の焼き物の図柄には必ずチューリップが描かれているし、

モスクのタイルなどにも。ありとあらゆる物と言うとオーバーだがトルコ=チューリップ。オランダへはトルコから輸出されたものが、多く生

産され外国に出回ったそうだ。トルコの左半分をバスで回ったが、チューリップ畑らしきものは一つもなかった。現在、トルコのチューリッ

プがどのような状況にあるのか分からないが、原産国はト・ル・コ。

 

『トルコのホテル』

今回、泊まったホテルは何れも観光地の中にあり5つ星と言われる所だった。星は勝手につけたものだろうから、権威あるものではな

い。しかし、観光地の中にあるというものの全てのホテルが辺鄙な場所にあり、周辺を散歩するなど向かないし、商店はおろか人家

さえ少なく、オーバーにいうと畑の真ん中にホテルがある。

更に、レジ袋なんかにペットボトルなどを入れたままホテルに入ると、『持ち込み禁止』と文句を言われるらしい。ホテルの作りは日本で

いうと、中くらいのビジネスホテル、ただロビーなどは建築様式が異なるから多少、上級に見える。

設備面では日本の方が圧倒的に優れている。スリッパなし、アメニティーグッズなし、ドライヤーなしは標準、冷蔵庫はあるが中身は

空、TVはリモコンの電池なし(2か所)、などなど、何処が5つ星なのか教えて欲しい。最後の日はイスタンブールに泊まるから、街中

か今までとは違う環境を期待していたが、街中には違いないが周辺は住宅街で、最後まで繁華街のホテルとは縁がなかった。

移動、移動で毎日ホテルを変わったから、落ち着く暇はなしの旅。ホテルは食事をとり寝るだけの役目になっており快適さは求めてい

なかったから不便でも不快でもなかった。しかし、5つ星のホテルに泊まって・・・・と思っていた人にはガッカリだったろう。

 

『草食系男子、肉食系女子』

合計38人のツアーで、男が7~8人と圧倒的に女子が多い。数の差だけではなく旅先で見た近年(10年スパンくらい)の男女気質

の変化ぶりをたっぷりと見せて貰った。『草食系男子』『肉食系女子』とはよく言い当てた表現だ。TVなどではお馴染みだが、若い人

たちと数日間でも一緒に生活や行動を共にすることはなかったので、感覚として理解していた。

だが、今回のグループでもかなり色濃くそれを表していた。食事時の飲み物注文で、殆どの男子はアルコール類の注文なし、女子

は少数だがビールありワインあり。癌病み上がりの爺さんは毎回『エフェス・ビール』あるいは『白ワイン』のご注文。

レストラン、観光地などでも非常におとなしく、馬やロバのよう、女子は我何事にも動ぜずと、はしゃぎ過ぎのライオンや虎のよう。私たち

には、今風の人たちに対するアレルギーはちっともないので、寛容な心で日々を過ごしたが、もっと昔気質の尺度を以てすれば、口

汚く罵りながら過ごしたに違いない。


『回想旅行記、OPツアー、ボスポラス海峡クルーズ』

2014年04月05日 18時05分16秒 | 旅行

午後の自由行動はルステムパシャモスクとボスポラス海峡クルーズを一緒にしたOPツアーを申し込んでいたのは30人ほどの内、私

たち二人だけ。最初にルステムパシャモスクに連れて行って貰う。ここのモスクは解説によると『本当に、地図を見ながらでないとたど

りつけないような小さなリュステムパシャモスクだが、建築はオスマン帝国時代の1561年にまでさかのぼり、担当したのはあの天才建

築家ミマール・シナン。建築の命を出したリュステムパシャも、スレイマン大帝の娘、ミフリマ・スルタンの夫で有名な大宰相でもある。

というわけで、実はとても謂れのあるモスク』

行って見ると確かに小さくブルーモスクを見た後だと、バッと見た感じは貧弱に見えるが、他のモスクではみる事のない青いタイルが

特徴的だ。建屋に入ると、壁は青を基調とした味わい深いタイルが貼り合わせてあり、床に敷かれているレンジ色の絨毯とマッチして

いた。ここのモスクも補修や維持にお金が不足しているらしく、タイル模様を図柄にした栞を売って資金を集めていたので、私たちも数

種類の栞を土産に購入した。小じんまりとしたモスクではあるが品格の高いところだと言える。

モスクから船着き場に移動、クルーズ船乗り込むが私たち以外の客はおらず、完全に貸切り状態。それと言うのも、朝から天気はパ

ッとせず雨は落ちてこないものの曇天で、海辺に来てみると強い風が吹き波しぶきを立てていた。イスタンブールから黒海に通じるボ

スポラス海峡を海上から観るだけのことだが、この海峡を挟んで西側はヨーロッパ、東側はアジアとされているから、その意味からは

ちょっとだけ有難味のあるクルーズだ。

海峡という事になっているが幅は狭く、少し大きめの川と言われても頷ける。岸辺にある建築物、遠くに見えるモスクなどはやはりイス

ラムの国であることをよく表していた。ガイドが色々と説明してくれたが、いずれも耳の肥し、目の肥しでしかなかった。黒海方面に30分

ほど向かってからUターンしてツアーは終了。はっきり言って感動するものは何ものなかった。これで黒海沿岸にまでも行って、こことは

違う風景でも観る事ができたならば収穫はあったと思うが・・・・・

 


『回想旅行記、ブルーモスクとバザール』

2014年04月04日 17時50分49秒 | 旅行

最終日は時間一杯まで観光して帰途に就く。イスタンブールの最大の見ものはスルタンアフメット・ジャミィ、通称ブルーモスクと呼ば

れ通常のモスクではミナレット(尖塔)は4本なのに、ブルーモスクには6本あり、それが何故なのかは分かっていない。

世界中のモスクで6本のミナレットがあるのはブルーモスクだけだそうだ。外から見ると普通のモスクの大きいだけのように思うが、中に

入るとそれは一掃されてしまうほど、広く高い空間を有する壮大な建築物だと知る事ができる。モスクの中央の一番高いところは地

上から45mくらいある。昔々、今のような重機もない時に、どのようにして作られたのか、興味深い。ここも他のモスク同様、女性は2

階から礼拝するような作りになっている。

昔、一時的にキリスト教の協会になったことがあり、モスク内の壁にキリストの絵が描かれた。再び、イスラム教の教会に復活した時、

通常ならその絵をはぎ取ってしまうのに、その上に塗料を塗ったらしい。その塗料が剥げて再びキリストの絵が出てきた。イスラム教会

にキリストの絵とは・・・・

バーミヤンの大仏はタリバンによって破壊されてしまった。アンコールワットでも神が変わる度に石像や壁のそれが壊された。宗教は

他を相容れない厳しい所もある。ブルーモスクはこうした出来事を歴史的な事として捉え、その価値を残そうとしているのだろうか。もし

これが政教分離でない他のイスラム教の国だったら、どうなるのだろうか。

イスタンブール観光の肝、アヤソフィア博物館はこのモスクのすぐ傍にある。ツアーでは入館しなかったが、もし見たければ午後に設

定されている自由時間に入館も可能だが、私たちは海峡クルーズを予定していたので写真のみの観光で終えグランド・バザールに

向かった。バザールの入口で中の様子について説明を受ける。大小4,000軒ほどの店が入り組んでいるので、通りの名前を覚えて

おくこと、迷子になった場合、入口の見つけ方を教えて貰い、其々がバザールに散って行った。時間的に早いこともあり人通りは少

なく活気溢れるとは言い難い。殆どの店は開いているが店員もエンジンがかからないためか、客の引き込みも弱々しい。

バザールをウロウロして迷子になったら困るし、買うものは土産のピスタチオだけだったから近場を回ってみた。ガイドブックに載っていた

地図を確認していたが、実際の場所に立つと、どれくらいの広さがあり、端っこは何処かも分からない。

途中に見つけたカフェでイスタンブール・コーヒーを頂く。

買い物に来たのに買ったものはほんの少しだけのピスタチオ、原産地でもあるからもっと安いかと思っていたのに結構いい値段がして

いた。後ほど移動した市場では量り売り、1kgが1,000円ほどを紙袋に入れてくれた。


『回想旅行記、イスタンブール着』

2014年04月03日 17時56分37秒 | 旅行

半島に渡り今度は東の方向に走りイスタンブールはシルケジが目的地、ここはオリエンタルエキスプレスの始発駅、かの有名なアガ

サクリスティーの『オリエンタル急行の殺人』にも登場する。

有名な駅だからさぞかし賑やかで混雑していると思っていたら、ここでも人は疎らでイメージ余りにも違い過ぎて拍子抜けする。

駅にあるレストランは1950年代から1960年代にかけてジャーナリスト、作家そして他のメディア出身の著名な人々の待ち合わせ場所

となった。このレストランは「Orient Express」と呼ばれ、旅行者の間では人気のスポットとなっており、私たちもここで夕食を摂る。

レストランの中はアガサクリスティーの写真や古い写真が飾られている他は、わりと質素だった。食事にしても格別・・・・ということもな

かった。食事後、駅構内の始発場所を示す小さなモニュメントに立ち寄り、記念写真を撮るのはポピュラーなことのようだった。

シルケジ駅はとても有名な所で色々な国からの観光客も沢山いるだろうとばかり思っていたのに余りにも静かで、しかも観光客らしい

人影は私たちだけ。しかも始発場所で写真を撮っているのも私たち日本人だけ、ひょっとしてシルケジ駅は日本人だけに有名なんて

ことないだろうが・・・・

長いようで足早のトルコ横断観光も今晩が最後の宿泊、ホテルの周りをぶらり歩きでも出来ればと期待した。食事を摂りホテルに着く

と、周りは住宅地のような所でしかも時間的に遅くなり、帰り支度もあるからブラリ歩きどころではなくなった。

明日の今頃は既に機上の人。

                                         海峡を渡った後に立ち寄った土産物屋、TL/EURO/US$が使えた

                           畑ばかりの景色から家のかたまりが見え始めた

                  シルケジ駅構内、歩いているのは日本人ツアー客

                          撮影者は日本人ツアー客

                        レストラン 『オリエント・エキスプレス』


『世界3大がっかりに加えたい、トロイの木馬』

2014年04月02日 18時13分15秒 | 旅行

トロイ遺跡は有名で昔に習ったことながら誰でも名前くらいは覚えている。そして必ず出てくるのがトロイの木馬にまつわる話。歴史、遺

跡に興味を持つ人には奥の深い所で、それこそゆっくりとじっくりと観察しながら一日中いても飽きないかもしれない。私たちは運に見

放されてしまったようだ。朝から強い風に雨混じりの天気で寒さがぶり返してきた。憂鬱なスタート、バスから見たトロイの木馬は遊園

地にある出来の悪い作品の様相で、完全に盛り下がってしまう。遺跡群の中には時代が何代も変わったことを示す貴重な地層を

みる事ができ、学術的な価値は高いものであることが私でも分かる。

しかし、私にはそれよりも寒さが堪えるから遺跡より、一時も早くバスか建屋に避難を欲す。しかし、事もあろうかトロイの木馬に登りたい

人は・・・・そんな所には登らないで資料館のような所に避難する。世界3大がっかりがあるとシンガポールのガイドに教えられた。ブリ

ュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫そしてシンガポールのマーライオン。この他にもドイツのローレライ、イタリアの真実の

口、シドニーのオペラハウスが候補として挙がっているらしいが、私は是非ともトロイの木馬も加えて欲しい。遺跡として発掘されたもの

ならば展示だけでも成程感はあるが、訳の分からない造作物を恭(うやうや)しく『トロイの木馬』でございはないと思う。

もし天気が良ければ、もう少し腰を入れた遺跡見学になっただろうが、雨女か雨男の被害者にさせられてしまった私にそんな余裕や

興はなかった。本日は長距離ドライブの日、イスタンブールまで約500kmを移動する。トロイ遺跡からは345kmあり、途中でイスタンブ

ール側の半島に行くためダーダネルス海峡をフェリーで渡る。

トルコの面積は日本の約2.8倍あり大半が平坦地、人口は7,200万人だから人口密度は大まかに1/6となる。ところが日本は山林

が多く僅かな平坦地に人口が集中する反面、トルコは全体が平坦地で分散している。数値だけでは比較できない歴然たる差は移

動中のバスの中から見ることもできる。兎に角、人影がない。畑と思われる広い々ところでも端境期ということもあろうが、人、農耕

車なども皆無。町に近くなり商店などがボチボチ見え始めても店先にすら人影はない。たまに老人を見かける程度。集合住宅が林

立しているような所でもチラホラと人の少なさを妻と不思議がっていた。ならばフェリー乗り場なら車や人影も多かろうと思ったが、ここ

でも疎らな人影。

フェリー客の内トルコ人客は数人で全員が男たち、チャイを飲み、パンにオリーブオイルをつけて食べていた。オリーブオイルを日本人

は油という、彼らは調味料として食べている。その後、イスタンブールに到着したら、他の場所とは違い人影は多くなっていったが、日

本の都会のように混雑さは見られなかった。

 

 

 


『回想旅行記、エフェソス遺跡』

2014年04月01日 18時13分36秒 | 旅行

この日も朝から快晴、規模的にも大きくご当地ビールにも命名されているエフェソス遺跡を見物する。ローマ時代の都市遺跡、解

説によると保存状態は抜群にいいとある。遺跡の詳細は別の書に譲るとし、ここでは私が歩いてみた様子を残しておく。広大な遺跡

群には現代社会に通じるものが、既に完備されている。

パムッカレに来るまでの道中は小高い岩山や日本で言えば荒れた畑ばかりのような景色、昔は岩だった所が風化して徐々に砕か

れ、更に風化が進んだ所に畑が出来た。そんな流れではないかと思う。パムッカレからエフェソスに移動する、つまり内陸部から暖

かい西のエーゲ海方面に向かっている。殺伐とした景色に緑の牧草のようなものが一面に見え始めた。時折、ピンク色の花をつけ

た木々も見られ一気に春めいてきた。一昨日の夕方アンカラ近郊に到着した近辺やハットゥーシャス遺跡は雪だったから、その変わ

り目に心もウキウキモード。トルコは火山が多くあるらしく地熱発電に力を入れているとガイドの説明がある。湯気か煙のようなものを上

げている施設が遠くに見えた。トルコで稼働する何基かある内の1基だという。日本は火山列島で地熱を利用するには抜群の環境

にありながら、その大半は国立公園の中にあり、研究開発の足かせ手かせになっている。

また温泉施設で生計を立てている人たちからは、そうした設備により温泉の枯渇を心配するため調査さえできないようだ。

遺跡は一つの町が残されていて、それの目ぼしいところをつまみ食いしながら見学する。それぞれの場所に来ると歴史的な背景、逸

話などを詳しく説明してくれると同時に、日本の時代では・・・・とそれも詳しく説明してくれる。

トルコ遺跡の歴史を説明して貰うのは有り難いが、トルコのガイドに日本の歴史を説明されてもよく分からない自分が恥ずかしい。

遺跡を歩き始めるといきなり、倒れた柱や門、壁などがゴロゴロしており、そのすぐ横や跨いで行くから、歴史的価値のあるものを何と

無造作なこと。最初の大物は円形劇場、最初に見た時は途轍もなく大きいと思っていた。後に出かけたクロアチア、プーラの円形

劇場の説明を聞くとかなり大きな部類になるとあったが、私はトルコの方が圧倒的に大きいと思っていた。トルコ編を書くに当たり写真

を見直したところ、大きな勘違いでクロアチアの方が大きいと判明した。

昔の町がそのまま掘り起こされた、こんな表現がぴったりだ。通りの石畳、両側には柱や壁、中には部屋が残された家並みを通り、

当時の生活様式や社会構造などの説明が続く。その中には、当時から整備されていた水洗の公衆便所、下水道に跨りトイレをする

ようなものだが、上下水道の整備は他の遺跡でも同様だから、日本人より綺麗好きだったようだ。

ガイドブックにも必ず出てくるセルシウス図書館は建物の原型の一部が2階建てで残されている。この前は写真スポットだから人の入

れ替わりが激しい。こうしてみると公共施設の概念がかなり発達していたことが、この遺跡から読み取れる。

非情に残念至極なことは、沢山の説明を受けていながら改めて写真を見ても、その説明を断片的にしか覚えていない事だ。

まあ、こうした遺跡を素人が見て、誰かに受け売りの薀蓄(うんちく)で伝えようなんて烏滸(おこ)がましいことだ。

曇りながらゆっくりと遺跡見物を終え、今宵の宿泊地アイワルクまで250kmのドライブで本日は締めくくる。海岸線に出て時折、海が

見え隠れする。天候は崩れ始め厚い雲は黒くなり、やがて大粒の雨が落ち始めた。後はホテルで寛ぐだけだから雨でも槍でも降って

くれ。ホテルに到着すると雨脚は酷くなり、窓のから見える穏やかなはずのエーゲ海は大変身して、数々の唄でその美しさを讃えられ

ている景色とは程遠い。

                                                   地熱発電所

                           トルコには猫が多くいる

                         ニケの掘り出し物

                      水洗式の公衆便所跡


『回想旅行記、パムッカレの石灰棚』

2014年03月30日 17時30分02秒 | 旅行

私が目玉としていたパムッカレには案外早く到着した。駐車場はヒエラポリス遺跡の中にあり、ここから石灰棚のある所へは20分くら

いの移動が必要だが、遺跡のど真ん中を歩いて行く。ヨーロッパ遺跡の典型的な大理石の柱や桁がゴロゴロしており、歩いている

道のすぐ傍を掘り返している所からも別の礎のようなものが顔を出していて、遺跡なんて珍しいものではない・・・こんな具合の中をテク

テクと歩く。

歩いて行けども石灰棚のような美しい物の欠片や雰囲気すら感じることのない所ばかり。そしてその神秘的な場所は突然に目の前

に開け、生まれてこのかた見たことのない景色に感動させられた。白い石灰棚に温泉水がかけ流しのようになっているから、水の入

れ替えがあり中に溜まっている水は澄んでいて青く見える。

白い棚の浅い湯船のような中に沢山の人がズボンをまくり上げて入っている。以前は靴を履いたまま観光していたが、石灰棚保護

の観点から靴を脱ぎ裸足になって石灰棚を歩くことになっているので、用意していたビニール袋に靴を入れて持ち歩く。美しい景色に

感動したばかりなのに随分と無粋な格好だ事。そうした場所に入ってみると、ぬるま湯くらいの温度で暖かいものではないが、周囲の

温度からすれば暖かさを十分に感じる。中央を流れる溝には勢いよく温泉水が流れていて、溝の淵に座り足湯をする人が沢山い

た。石灰棚は水との組み合わせだから、とても滑り易く移動する場合には、下の石に対して足の裏を真上から降ろして体重移動しな

ければならない。私たちがいる間に陽が落ちかけ、白い棚に赤い夕陽色で染められていた。

名残惜しく石灰棚を離れパムッカレ温泉なる施設に入ってみる。倒壊した柱や欄干のようなものが水中に見える温泉施設。つまり遺

跡に温泉が溜まりパムッカレ温泉となったもので、かのクレオパトラもここで入浴したと逸話がある。湯気は立っていないし、どう見ても

入りたい温泉には見えなかった。季節的にもう少し暖かい時期なら水着を着て温泉を楽しむ観光客も多いだろうが、いくら簡易施設

の中であっても今の時期だと寒中水泳までいかなくても覚悟が要ると思う。

時間があったので温泉から少し離れた場所に行って見たら、土を被った石灰棚が見えた。石灰棚の実態は土中にあり、私たちが

見ていたものは長い年月をかけて土が流され風雨で漂白されたものだった。かなり先の方まで土に汚れた石灰の層を見ることができ

た。再び駐車場に戻りバスに乗ってからも白と黒の層を見ることができ、この辺り一帯には未だ沢山の石灰棚が地中にあるのではな

いかと思う。景色を堪能しホテルに到着した時は、もう真っ暗になっていた。

今回の最大の目的場所は、日本から長時間かけて来る価値のあるものだったのはいう事はない。

                                                     遺跡の中のパムッカレ温泉


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