もう一つ、身体拘束に関する同意書の提出は別の形の問題としての対策だ。
病院が拘束を必要とするようなケースは、患者が痛がってもがき苦しむのを無理やり
ベッドに縛り付けるなんてことではなく、無意識の中で起こす行動に対してだと理解
していた。だから『先生、もし騒ぎ出したら、恐らく無意識のことですから叩くなりして
気絶でもさせて静かにさせて下さい。その時のことは覚えていないだろうから、後で
問題になることはないでしょう。もし叩いてたん瘤でも出ていたら、ベッドから落ちた
時のものとでも言っておけばいいから』と軽口を叩いていた。
こうした書類を読み直していたら、手術室に入る時の看護師さんとのやりとりを思い
出した。
『指輪や貴金属など身体に付けているものが何かありますか?』
『いや、何にもないはずだけど・・・ああ、あった金二両』
『それは、いいです』
こんな馬鹿げたことを言いもって、普段の心境では潜る(くぐる)ことのできない手術
室のドアを軽やかに通過し、何があっても後戻りはなくなったことを肌身で感じた。
何やら遠くの方で人の話をする声が聞こえてきた。意識はもうろうとしており、やがて
自分に向けて声をかけられているのではないか、いや只の他人同士の会話だ。
それから、そんなことを何度経験したのかも分からない。妻の『お父さん』と呼ぶ声に
目を覚ましたように思うが、前後の関係は支離滅裂だ。看護師さんの『音楽を聞きま
すか』に対して『ビートルズ』と答えたらしい。そしてビートルズの曲を聞いていたの
であろうが、その時ビートルズを聞いた記憶はない。
かなり意識が戻り自分の意志で話したのは『手術は終わったのか?』だった。手術
をしたようには感じない。色々な管は繋がれているものの傷口が痛むとか、摘出箇
所が痛いなど予想していたことは何一つなく、ベッドで安静状態を強いられているだ
けだったから。それでも、ICUの中にいて何かを思ったり、考えたりすることは出来な
かったようで、殆ど覚えていない。日本の病院は看護師不足で外国から特別に在留
許可を与えて資格を取得して貰い戦力になって貰う。こんなことが頭にあったのだろ
うか、ICUにもそうした研修生がいて片言で話をした。私も何か手助けになるように、
参考書を寄付してあげよう、こんなことがあったと思っていたが、実際にはそんな研修
生はいなかったから、夢を見ていたのに現実と思い違いをしていたようだ