城郭探訪

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ブロガー情報発信【英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡を訪ねて~高島市~】  INDEX

2013年06月17日 | INDEX

近江の国は、水と大地に刻まれた歴史遺産が全国屈指の散在し、そこに光をあて、その価値を高めて、その魅力を全国に情報発信するため、「近江水と大地の遺産情報発信致します。

英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡を訪ねて~高島市~ 

 

継体天皇ゆかりの地~安曇川・高島~

 

・三重生(みおう)神社     継体天皇の両親である彦主人王と振姫の二神が、つつましく寄り添うように祀られています。

 

 

・王塚古墳(彦主人御陵)     継体天皇の父である彦主人王と伝えられる。彦主人王御陵

 

・安産もたれ石   彦主人王のお妃、振姫が出産の際もたれたと伝えられています。この石をなで自分のお腹をさすって安産を願う慣わしが残っています。

 

・安閑(あんかん)神社の「神代文字石」  祭神は、継体天皇の長子安閑天皇。境内には「神代文字(かみよもじ・じんだいもじ)」ともいわれる謎の図像が陰刻された石がある。

 

・鶴塚  鎌倉時代中期頃に造立された宝塔で、高さは4mを測る。県内の石造宝塔内では最大級

 

・胞衣(えな)塚    6世紀代の円墳。衣(えな)とは胎盤のことで、振姫がお産のあと、継体天皇の「へその緒」を埋めたと伝わる。 継体天皇は高島の地に誕生され、母・振姫がお産のあと天皇の「へその緒」を埋めたのが、この胞衣塚だと。

 

・鴨稲荷山古    湖西地方では、平野部に立地する唯一の前方後円墳。明治時代に、後円部の横穴式石室から家形石棺が見つかり、豪華絢爛な副葬品が出土した。大陸との交流をもった地域の王が葬られたとみられる。

 

・高島歴史民俗資料館   鴨稲荷山古墳出土の復元宝冠と飾履は圧巻。また、貞観15年(873)と記された農業日誌的内容の木簡は全国の注目を集めました。高級陶器や銅製印「朝」の出土は国家的祭礼が行われていたのではないかと思わせます。民具クラブによる民具の収集も膨大なものであります。

 

 

織田信長と戦国武将ゆかりの地 ~高島市~

 

 

朽木 信長の隠れ岩     織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。

 

・興聖寺(旧秀燐寺跡)       足利庭園は、享禄元年(1528年)に室町幕府12代将軍足利義晴が兵乱を避けてこの地に滞在した際、朽木稙綱が将軍のために造営したことで知られる。

 

 ・新くつき本陣  【鯖街道交流館】道の駅朽木本陣の隣りに建てられた。観光案内所やバイキングレストラン、会議室、無料休憩所などがある。レンタサイクルの貸し出しも行っている。

 

・朽木郷土資料館(朽木城祉・朽木本陣跡)   朽木陣屋は、鎌倉時代、「承久の乱」の木陣屋跡があります。是非資料館と一緒にご覧下さい。資料館を含めた一帯が史跡公園となっています。

 

・近江大溝城   織田信澄(信長の弟、勘十郎信行の子)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって築城、打下城から居城を移した。

 

・白鬚神社  豊臣秀吉の遺命を受け、豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、播磨の大工の手によって造営されたものである

 

・鵜川四十八体石仏群  佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちようど対岸にあたる鵜川に建立したものです。 

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・朽木 信長の隠れ岩

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

信長の隠れ岩

この岩に通じる遊歩道を、地元のまちおこしグループがこのほど、新たに整備した。グループは「朽木の新たな観光名所に」と期待している。

信長軍敦賀侵攻 
 

「越州朝倉義景ハ、朝廷公方命ヲ軽シ、上洛在京ヲ不相勤、私(ひそかニ国ヲ領シテ、将軍ノ御敵トナル(信長公記)
この越前攻めは形式的には公方足利義昭による朝倉氏誅伐戦であり、織田信長は討手の大将である

シンク・・・金ケ崎退き口経緯

高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。                                                                               戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。

 信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。

 この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上にある。

 数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。

 しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。

 斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。

 岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と、夢を描く。

元亀元年(1570)、越前朝倉氏の攻撃中の織田信長は、浅井長政の裏切りにあって窮地に陥り、京へ戻る途中、一時ここに身を隠したと伝わる。                                                                                                   

 永禄11年(1568)の織田信長近江侵攻は近江国内の諸勢力にとって大きな転機となったが、朽木家にとってもそれは例外ではなかった。

元亀元年(1570)、織田信長が越前朝倉氏を攻撃中に浅井氏の裏切りにあい、湖西路を京都へと撤退する途中、朽木谷を通過するが、元綱はこれを容認するだけでなく、手厚く迎えている。高島七頭ら湖西の在地領主たちが浅井・朝倉に従う中、元綱は信長に対し、敵対的な態度を見せておらず、元亀2年(1571)には信長に使者を送って臣従の意を伝えている。

朽木谷

鯖街道 

安曇川の上流に位置する山村で、鯖街道若狭路の要衝として、また朽木盆や朽木椀と呼ばれる器の木地を生産する木地師の村として知られている。近江を守護した佐々木氏の一族であった、朽木氏がこの一帯を治めていた。

朽木、それらは皆骨董屋さんの呼名だからあてにならないが、近江の朽木谷には古くから、木工を専門とする集団がいて、このような食器を大量に生産していた。
白洲正子が愛した近江「かくれ里』より 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・興聖寺(旧秀燐寺跡)

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

鯖街道(R367)に大きな案内板駐車場切岸か?

興聖寺も秀隣寺も当地の領主朽木氏にゆかりの深い寺院。                                                                           興聖寺は、道元が北国へ向かう途上、京都深草の興聖寺と地形が似ていることから、佐々木の祖・信綱に勧めて一字を開かせたと伝えられている。     当初は、安曇川対岸の上柏(かみかせ)にあり、享保一四年(1729)に現在地に秀隣寺跡に移された。

駐車場からの参道に・・・。

本堂に金の鯱・佐々木の斜め四目結ここにも四ツ目結

拝観料300円を払えば、パンフレットと本堂内で説明・撮影させて頂きました

 興聖寺は文政11年に本堂が焼失しましたが、安政4年(1857)3月に朽木大綱公の寄進で25世仙英和尚の代に再建されました。朽木家代々の菩提所です。
 本堂内には国の指定文化財の本尊釈迦如来像坐像が奉られています。
  

本堂は方状形式・九室を持ち、江戸時代に秀隣寺あった現在地に移された

ここにも四ツ目結縛り不動明王坐像本尊釈迦如来坐像(国・重文)

道元禅師の肖像描かれた掛佐々木氏に始祖【宇多天皇】

 

 

 

興聖寺(旧秀隣寺跡)境内の庭園は、享禄元年(1528年)に室町幕府12代将軍足利義晴が兵乱を避けてこの地に滞在した際、朽木稙綱が将軍のために造営したことで知られる。

名族朽木家

朽木家は室町幕府奉公衆として将軍を支える家柄であり、戦国期に京都を逐われて流浪する将軍(12代足利義晴・13代足利義輝)を朽木谷にある自身の館に迎えている。宣綱の父元綱も朽木家当主の時に将軍義輝を迎えている。

旧秀隣寺庭園

享禄元年(1528年)、足利義晴は細川晴元・三好元長らの反乱の難を避け、朽木稙綱を頼って享禄4年(1531年)まで朽木谷に滞在していた間、朽木氏一族を始め、京極高秀や浅井亮政、朝倉孝景らの協力のもと、管領細川高国が義晴を慰めるためにこの庭園を贈った。面積234坪の武家書院の蓬莱池泉式庭園で、池には鶴亀の島を配し、楠の化石の石橋を渡す。安曇川の清流と比良山系を借景とした静かな佇まいを誇る。

石は当然庭と結びつく。近江には、これもあまり人に知られていないが、名園が多い。                                                                    朽木谷の興聖寺には、足利将軍義晴が、ここに逃れた時造ったという石庭があり、安曇川の渓流をへだてて、比良山が眺められる。
白洲正子が愛した近江『かくれ里』より

「かつては朽木氏の壇那寺で、むかしは近江おける漕洞宗の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裏それに鐘楼といったものがおもな建物にすぎない」                                                                                                    司馬遼太郎『街道をゆく』より 

旧秀隣寺は、鎌倉時代初期、近江源氏佐々木信綱の要請によってこの地を訪れた曹洞宗の開祖・道元が、領主朽木氏に創建をすすめたのがはじまりといわれる。 国の名勝に指定されている境内の庭園は、京都を逃れた足利将軍義晴のために造営されたものという。

境内平面図

本堂の後に大土塁・空掘り前は石垣参道に向けL字に横矢?

駐車場の切岸か?

まさに、鎌倉時代初期の旧秀燐寺は足利将軍の城郭です

住所: 滋賀県高島市朽木岩瀬374                                                                                      お問い合わせ先: 0740-38-2103                                                                                                               アクセス: JR湖西線安曇川駅より朽木方面行きバス30分岩瀬下車、徒歩3分                                                                                            ・・・・・・・団体・バス受入:可

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

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・朽木城(朽木陣屋)

2013年06月17日 | 平城

 朽木陣屋は、鎌倉時代、「承久の乱」の戦功で、この地に入った佐々木信綱の居館でした。3代目義綱の時に朽木姓を名乗り650年の長きに渡り、この地を治めてきました。東西150m、南北300mを有し、御殿をはじめ多数の侍屋敷などがありましたが、明治維新と共にすべての建物が取り壊されました。現在は2ヶ所の井戸と堀、石垣などの遺構をわずかに残すだけとなっています、一帯が史跡公園となっています。


・鵜川四十八体石仏群

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

国道161号線を旧西近江路に折れ北進すると、草深い山中の墓地に、花崗岩石で作られた高さ1.6mの阿弥陀如来像群が見られます。この仏像群は、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちようど対岸にあたる鵜川に建立したものです。   

東(安土観音寺城)を向いて静かに並んで座っている石仏は、大きさも少しずつ異なり、慈愛に満ちた顔・あどけない顔・ユーモラスな顔など、姿もそれぞれ異なっています。
 現在、鵜川に33躰が、大津市坂本の慈眼堂に13躰が、それぞれ安置されており、残り2躰は行方知れずになっています。

 白髪浜

近江には、優れた石仏が多く、狛坂廃寺の石仏(奈良時代)をはじめ、花園山中の不動明王(鎌倉)、比叡山西塔の弥勒(みろく)菩薩(鎌倉)、鵜川の四十八体仏(室町)など、それぞれの時代にわたって、美しい作を見ることが出来る。
白洲正子が愛した近江・・・『かくれ里』より

 高さ1.6mもある花崗岩石製の阿弥陀如来像群。戦国時代に観音寺城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うために建立した。

住所: 滋賀県高島市鵜川                                                                                               問い合わせ先:                                                                                                      アクセス: JR湖西線近江高島駅よりバス鵜川下車徒歩15分、駐車場:石仏前に普通車5台                                                                         ・・・・団体・バス受入: 否

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・白鬚神社

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

琵琶湖畔に浮かぶ鳥居

白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水の中にはみ出てしまっている。
白洲正子が愛した近江 『近江山河抄』より

祭神は猿田彦命だが、本来は背後にそびえる山をご神体(比良明神)とした。湖中の朱鳥居が印象的で、湖水に臨む重要文化財の社殿とともに琵琶湖への深い信仰がうかがわれる。

白鬚神社(しらひげじんしゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。

全国にある白鬚神社の総本社。近江国最古の神社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居が浮かび、「近江の厳島」とも称される。社伝によると垂仁天皇の25年、倭姫命により社殿を創建したのに始まる。白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜った。

『延喜式神名帳』には記載されていないが、『日本三代実録』の貞観7年(865年)正月18日条に比良神が従四位下の神階を受けたとの記述があり、国史見在社である。

本殿・若宮社・伊勢両宮及び八幡三社は、豊臣秀吉の遺命を受け、豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、播磨の大工の手によって造営されたものである。

 

重要文化財

紫式部の歌碑

三尾の海に 網引く民のてまもなく 立ち居につけて 都恋しも 

三尾とは白髭神社のある岬

三尾が崎の浜辺で漁をしている人が、手を休めるひまもなく、立ったりすわったりして網を引くその姿を見て、都を恋しく思う

照子の句

芭蕉の句碑 四方より 花吹き入れて 鳰の湖   芭蕉(鳰(にお)とは カイツブリのこと。鳰の湖とは琵琶湖のこと)

神社の奥には白鬚神社古墳群もあり、古代からこの場所が神聖な場所であったとされる。また、「天の岩戸」と呼ばれる石室は岩戸社として祀られている。

砕石のノミの跡(本殿・社務所間の石垣に)

これは『与謝野鉄幹・晶子歌碑』、拝殿と社務所の間。

【海上安全心願成就】永久常夜灯・・・・【琵琶湖は鳰の海】

                                                                                                     

住所: 滋賀県高島市鵜川215
お問い合わせ先:白髭神社  電話 0740-36-1555  FAX 0740-36-1560                                                                                                     
アクセス: JR湖西線近江高島駅よりバス白鬚神社前下車すぐ。普通車30台
・・・・団体・バス受入: 可

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・近江大溝城

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

高島病院の駐車場で、車中からの遠望

高島駅前の案内板

ガリバー像の説明板

 

2012.3.10 訪城時・・・

現在、遺構はあまり残っておらず、わずかに本の丸天守台の石垣が残るだけだ。 この天守台は、野面積みの石垣だが、一つ一つの石の大きさに驚かされる。

 本の丸天守台は田圃に囲まれているが、この田圃は水堀の跡だ。今も東側には沼が続き、琵琶湖は目と鼻の先まで迫っている。  この城が、坂本城・長浜城と同様に、琵琶湖に浮かぶ水城であった ことを、今でもその雰囲気をよく残している。
 三の丸に分部氏が建てた陣屋の総門が残っている。 この長屋門は、 現在民家として使用されていてる。  

 

天正7年、織田信澄(信長の弟、勘十郎信行の子)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって築城、打下城から居城を移した。

 大溝城は天正6年(1578)に、織田信澄(おだ・のぶずみ)が内湖(乙女ヶ池)畔に築いた水城です。信澄は織田信長の弟の子(甥)で、新庄城主(高島市新旭町)磯野員昌(いその・かずまさ)の養子となって当地に移り、新庄や南市(高島市安曇川町)などから商人らを移住させて城下町をつくりました。西近江路と大溝港が出会う水陸交通の要衝に位置することから、江戸時代以降も分部氏(わけべし)2万石の陣屋がおかれ高島地域唯一の城下町として繁栄し、今なお城下町の風情を色濃く残しています。

探訪 大溝城址 20120310

史跡大溝城本丸跡(参照‐滋賀県のお城)

 織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に大溝城が築かれた。この城は、琵琶湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。
 そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(1578)二月三日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄に宛行い大溝城主とした。
 城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。


  ところが、天正十年六月二日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は丹羽長秀と謀って、六月五日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を大坂城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。
 大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た。

 


 天正10年、本能寺の変によって、信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、明智方と見られて大坂で落命する。

 信澄の死後、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入城する。

 元和5年、京極氏に替わり分部光信が、伊勢上野より2万石で入封する。 この時、元和一国一城令の対象となり、三の丸を残して破却された。 分部氏は、 残された三の丸に陣屋を構え、明治まで代々この地を治めた。 

 

 

アクセス:JR湖西線近江高島駅~徒歩約5分                                                                                車アクセス:湖西道路南小松~R161号線~近江高島駅(第一駐車場・第二駐車場=ほぼ満車)

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・高島歴史民俗資料館

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

  滋賀県指定史跡である鴨稲荷山古墳の近くに昭和56年10月に開館しました。テレビなどの報道で一躍有名になった鴨遺跡の発掘の木製遺物(木簡、木沓)や市内の考古、民俗、歴史資料が展示されています。

特に、鴨稲荷山古墳出土の復元宝冠と飾履は圧巻です。また、貞観15年(873)と記された農業日誌的内容の木簡は全国の注目を集めました。高級陶器や銅製印「朝」の出土は国家的祭礼が行われていたのではないかと思わせます。民具クラブによる民具の収集も膨大なものであります。

 鴨稲荷山古墳の近接地にあり。高島市域の歴史・民俗・考古資料を収蔵、展示する。

打下古墳複顔

住所:滋賀県高島市鴨 【地図(GoogleMap)】                                                                      アクセス:JR湖西線「安曇川駅」下車 徒歩 10 分・普通車8台                                                                         料金:無料                                                                                                         開館時間:9:00~16:30                                                                                                   休館日:月曜日、火曜日、祝祭日(5/5・11/3は開館)、年末年始(12月28日~1月4日)                                                     問合せ:高島歴史民俗資料館 TEL:0740-36-1553 FAX:0740-36-1554

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・鴨稲荷山古墳

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

 湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳。明治時代に、後円部の横穴式石室から家形石棺が見つかり、豪華絢爛な副葬品が出土した。大陸との交流をもった地域の王が葬られたとみられる。

JR近江高島駅の北約4kmの鴨川右岸に広がる沖積地に位置する古墳。古墳時代後期のもので、湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳です。現在は、家形石棺のみ現地保存されています。古墳の全長は埋没周湟を含めて約60mと考えられます。明治時代に、後円部から横穴式石室と刳抜(くりぬ)き式家形(いえかた)石棺が掘り出されました。また、石棺内から、金銅冠(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾・鏡・玉類・環頭大刀(かんとうたち)・鹿装大刀(ろくそうたち)・刀子(とうす)・鉄斧(てっぷ)などの象豪華絢爛な副葬品が発見されました。のちに、これらの副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることがわかり、この古墳の被葬者や場所と大陸との交流関連について、様々な興味と話題を呼んでいます。

鴨稲荷山(かものいなりやま)古墳(近江の三尾氏を葬ったとされる古墳)

 彦主人王が別荘を持っていた近江国高島郡三尾にいた豪族といわれる三尾氏の墓と推定されています。
 鴨稲荷山古墳は鴨川の右岸に位置し、近くには鴨川に掛かる天皇橋や志呂志神社があります。
 当初は稲荷塚と呼ばれていましたが、東側を通る街道が県道に昇格した際の改良工事で、盛土が土取りされた際、墳頂から棺の中身が朱で真っ赤な石棺が現れて大騒ぎになりました。明治35年(1902年)のことでした。
 その後、大正11・12年(1912・13年)に京都帝国大学による調査が実施された結果、後円部に横穴式石室があり、その中に二上山の白色系の凝灰岩を棺材にした家形石棺が納められており、石棺の外面もベンガラで塗られていたことが判明しました。石棺内には、金銅製の冠や沓(くつ)、魚佩(ぎょはい)、金製耳飾、鏡、刀子(とうす)、鉄斧(てっぷ)といった豪華な副葬品が納められていました。朝鮮半島の新羅王朝の出土品と類似しており、被葬者は大陸との交渉に明るかったと考えられています。

 データ
  • 墳形/周濠を巡らせた中規模の前方後円墳。帆立貝形とする見解もある。                                                            規模/全長約45m、後円部径約23m、高さ約5m、前方部長約23m
  • 時期/6世紀前半
  • 高島市鴨
    地図を見る
  • アクセス/JR湖西線「近江高島駅」下車 車5分
所在地:滋賀県高島市鴨 【地図(GoogleMap)】                                                                  アクセス:JR湖西線「近江高島駅」下車 車 5 分

 

「鴨稲荷山古墳」というのは、三尾の豪族彦主人王(ひこぬしのおおきみ)の墓と伝えられ、明治の中頃、金の王冠と装飾品のたぐいが出土した。
白洲正子が愛した近江『近江山河抄』より

鴨川の南側に位置する古墳で、古墳時代後期の前方後円墳。後円部からは、横穴式の石室と石棺が掘り出された。内部から発見された豪華絢爛な副葬品の内容から、新羅王陵との関連が指摘されている。

住所: 滋賀県高島市鴨
お問い合わせ先:
アクセス: JR湖西線安曇川駅よりバス宿鴨下車徒歩5分
団体・バス受入: 否

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・胞衣(えな)塚

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

   

6世紀代の円墳。衣(えな)とは胎盤のことで、振姫がお産のあと、継体天皇の「へその緒」を埋めたと伝わる。

 継体天皇は高島の地に誕生され、母・振姫がお産のあと天皇の「へその緒」を埋めたのが、この胞衣塚だと伝えられています。胞衣(えな)とは胎盤のことのようです。
この塚は、直径約11.5m、高さ約2.5mの円墳で、6世紀の築造と推定されています。

平地に気付かれて円墳。オホド王(継体天皇)が出産された際の胞衣(ヘソの尾)を、ここに埋めたとの伝承。

古墳の上の松は、「ごんでんの松」と呼ばれ、また胞衣塚のすぐ南を流れる川を御殿側、付近の小字名も「上御殿」「下御殿」といい、継体天皇にまつわる伝承に満ちあふれています。

アクセス:JR安曇川駅より高島・安曇川線バスで約10分「三尾里」下車、徒歩約7分                                                                  住所:滋賀県高島市安曇川三尾里                                                                                                        問合せ:(社)びわ湖高島観光協会 TEL:0740-22-6108 FAX:0740-22-6113

 

 

 

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

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・安閑(あんかん)神社の「神代文字石」

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

安閑神社全景

祭神は、継体天皇の長子安閑天皇。境内には「神代文字(かみよもじ・じんだいもじ)」ともいわれる謎の図像が陰刻された石がある。

JR安曇川駅の近くにある安閑神社(あんかんじんじゃ)の「神代文字石」
 駅から徒歩10分のところにありますが、駅前の交番で聞いても、知らないと言われました。交番にあった詳細な住宅地図にあったので・・・ お巡りさんが知らないのも無理ないくらい、小さな神社。

 

琵琶湖湖西、安曇川近辺には継体天皇に纏わる史跡も多いが、JR湖西線安曇川駅近くの北出集落にはその子、安閑天皇を主神とする神社があり、境内傍に「神代文字石」と呼ばれる見慣れない象形を線彫した石が置かれて居る。

「神代文字石」とは言え、文字と云うより子供のイタズラ書きのようにも見えるそれはペトログリフとも呼ばれ、当時の事象をシンボライズした形で表しているとも言われて居る・・・。

ここでも、はてさて・・・・、安閑天皇を主神とする此の安閑神社は式内社でもなく村の小さな鎭守に過ぎない。この「神代文字石」も近くの小川で橋桁に使われていたそうで、出所は全く不明だとか??・・・蕨手紋のように見える触手のようなもの、方形渦巻きのような形、波頭のようにも見える下方三角形・・・・興味深いが其処から先に進めない・・・・・、

いずれ人工的に何かの目的が有って刻まれたものには違いない。安山岩と言う比較的軟らかい石に浅く削られたものにしてはかなり保存が良いようにみかける。傍らには力石と呼ばれる・・・・・、これはただの、のっぺら坊。

 

 

 

 

 

 

門題の石は、神社の柵の中ではなく、上の写真で言えば、向って右の手前の方にありました。「力石」と2つ並んで立ててあり、次のような説明がありました。

 神代文字の石

字とも絵とも判別のつかない陰刻がされた石である。 元は知らないで橋に使われていたというが、一説には古墳の一部ではなかったか、とも言われる。 この陰刻の解明は未だなされていないが、この種の記号文字は神代文字と呼ばれ、不思議な歴史の貴重な遺産である。 

下に掲げるのは、吉田信啓著『ペトログラフ・ハンドブック』(1994)のカラーページに掲載された同じ石の写真です。上下が逆になっています。場所も、写っている背景からすると、別の場所のようです。
 この解説板の「古墳の一部」という説は、なるほどと思いました。九州の装飾古墳の壁画と同様の造型感覚を感じるからです。
 しかし、そうでなく、「雨乞いの儀式のための石」かもしれません。
 今の置き方で、この「絵」を読み解いて見ましょう。
 まず、上下にある平行に並んだ3本の線、これは、漢字の「川」=「水」です。地上と天上の双方に川があります。天上の川は「天の川」でしょうか。それとも、空の青が天上の水と考えられていたのでしょうか。
 下方には、山の形も見えます。そして、山の頂上から、上方に向って、蕨形の「気=雲」が立ち昇っています。「気」の一部は、四角形の渦になっています。この形は、「雷文」です。すなわち、「積乱雲」でしょう。
 ただ、右上の曲線が気になリます。石の角の部分が傷んでいて、はっきりしないのですが、この曲線の具合はどうも「蛇神」の尾のように思えます。上記の気象現象を「蛇神」が支配している図なのでしょうか。

 

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考:『ペトログラフ・ハンドブック』より
 
ペトログラフは、岩に刻まれた古代人の祭祀の痕跡です。古代文字の場合もあれば、盃状穴の場合もあります。
 しかし、それが、現在、地表にあるものとして見られるのは、大変幸運な場合に限られます。「聖なる山」は、後の時代にも「聖なる山」ですから、仏殿などの建築のために山頂が整地されてしまうことも珍しくないでしょう。また、木々が茂り、木の葉で埋まってしまう可能性も大いにあります。

 

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

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・鶴塚

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

  

     

 

満願寺跡宝塔 鶴塚塔

安閑神社と目と鼻の先 、神社のある道筋の先、次の辻を右に廻れば民家の軒先狭い空間に巨大なそれは建っている。琵琶湖の周り、特に湖西の安曇川付近には優れた宝塔が集中しているような気もするが??・・・石塔には門外漢の僕も興味は有って、石仏と共にある石塔などには良くお目にかかるが、これほどの見事なものは珍しい。この地は満願寺と呼ばれる廃寺跡で、この宝塔もその遺物なのでしょう。県内きっての規模だと言われる宝塔は総高約4m、台石の1辺約1.5mそれでも頂部の相輪は、後補でやや低く造られ、元々の高さはもう少し高かったようです。素人目にも軸部と笠部にかけてのバランスが良く、鎌倉中期頃の造立だと考えられているようです。軸部には並座する阿弥陀のようにも見える??二仏が彫られている。

 

鶴夫婦愛を讃える宝塔 

安曇川(あどがわ)の住宅地に、ひときわ大きな石の宝塔が立っています。
 昔、ある武士が雄の鶴を射落としましたが、首がありません。翌年、別の雌鶴を射落としたところ、その鶴は昨年射落とした雄の首を羽の間に抱いていました。鶴の夫婦愛にうたれた武将は、この塚を立て、鶴を弔ったと伝わります。
 鶴塚は高さ4.2mあり、鎌倉時代の建造とされています。
 また、湖南の野洲(やす)市にも同じような民話が残されています。

鎌倉時代中期頃に造立された宝塔で、高さは4mを測る。県内の石造宝塔内では最大級

【民話】
むかし、三里尾の里に亀吉という百姓が住んでいた。
子供はなくて妻のお松と二人暮らし、真面目でしっかりした働き者やった。
そんな亀吉にも一つだけ道楽があった。鉄砲撃ちである。
百姓仕事が暇になる冬の季節には、毎日の様に琵琶湖の岸辺に行ってガンやカモを撃った。
今日も亀吉は、手に重い獲物をさげ、
「おれの鉄砲の腕も、だいぶ上がってきたなあ。」
と、顔をほころばせながら帰って来た。
しかし、出迎えた妻のお松は、あまり嬉しそうな顔を見せなかった。口にこそ出さなかったけど、心の優しいお松は、亀吉が生き物を殺して来る事に心を痛めていたんや。
そんなある日、亀吉は湖の近くで一羽のツルを撃ち落とした。田圃から飛び立とうとしたところを仕留めたものやった。
ツルは首が取れていた。
「どうや、この大きなツルは。見事なもんやろ。」
亀吉は家に帰ると、獲物をお松に自慢した。
「まあ、こんなに奇麗なツルを撃ち落とすなんて。あれ、このツルには首があらへんわ。」
「ツルの首に狙いを付けて撃ったからな。見事に命中したら首が飛んでしもた。たいした腕やろ。」
亀吉は、得意そうにいうた。
その夜、お松はいつまでも眠れなかった。首の無いかわいそうなツルの事が、頭から消えんかった。
お松は、こんな事を考えた。
(わたしらに子供が産まれたら、うちの人の鉄砲撃ちも少し熱がさめるのかもしれへん。神様にお願いしてみよう。)
次の朝から、お松は、子宝がさずかりますようにと、近くの神社へおまいりを始めた。
亀吉には、そのお松の気持ちは分からない。次の冬が来て、亀吉は、前よりも熱心に鉄砲を撃ちに出かけた。
ある日、亀吉は一羽のツルが飛んでいるのを見つけた。すぐ近くのアシ原に隠れて、降りて来るのを待った。
ツルは亀吉から遠くない所に舞い下り、こちらに向かって歩いて来る。亀吉は狙いを定めた。
ズダーン。
鉄砲が火を噴き、ツルの体がはじかれた様に浮き上がった瞬間、大きな光が走った。亀吉の体は、雷に打たれた様に地面に叩き付けられた。
「う、いたい。」
亀吉はしばらく動けず、そこにうずくまっていた。少しして体が動く様になると、撃ち落としたツルを見に行った。
倒れたツルの体を起こすと、翼の中に何やら抱え込んでいる。それは、雄のツルの首だった。
亀吉は思わず声を上げた。
「そうか、このツルは、おれが去年撃ち落としたツルと夫婦やったのか。」
雌のツルは、雄の首を一年間だいじに抱えて飛んでいたのである。
亀吉は、いたわり合って生きるツルの夫婦の愛情に心を打たれた。そして、生き物を殺
す事の罪深さをさとったんや。
「おれが悪かった。ツルよ、堪忍してくれ。」
亀吉とお松は、家の庭にツルを埋めて塚を作った。
そこは、鶴塚と呼ばれたという。

所在地:高島市(旧・安曇川町北出)

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

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・三重生(みおう)神社

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

式内社である三重生神社(みおうじんじゃ)には、継体天皇の両親である彦主人王と振姫の二神が、つつましく寄り添うように祀られています。

祭日の4月18日に「牛の祭り」と呼ばれる祭礼があり、今では4月29日に古き良き時代を思わせる神事が厳粛に執り行われます。

 住所:滋賀県高島市安曇川町常盤木1239                                                                                     アクセス:JR安曇川駅より古賀線または朽木線バスで約5分「三重生」下車すぐ、普通車4~5台                                                  問合せ:(社)びわ湖高島観光協会 TEL:0740-22-6108 FAX:0740-22-6113                                                                    備考:毎年4月29日「牛祭り」

 

以下は秀真伝序説二「伝来享受・諸本」の第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)からの引用  速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が『秀真伝(ほつまつたゑ)』の根幹思想である天成る道を学んだことによって、玄孫(やしゃご)である彦太尊(ひこふとのみこと)、すなわち第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)がその思想を受け嗣ぎ、天つ日嗣を知ろしめたのち、天成る道によって国を治めた。
 ・・・・

 (旧、産所-さんじょ)の三尾神社のものとして伝わる『和解三尾大明神本土記』より

 其子太程ノ皇子、諱一成ト名ツク。其子枝裴皇子、諱頼一ト名ツク。其子淡海主人、諱一元ト名ツク。コノ君、三尾氏七世ノ孫振姫(六世三聞大一太范王ノ女振姫ナリ)、容顔美麗ナルヲキキ玉ヒテ、使者ヲツカワシ、三国ノ坂井に聘テ、水尾宮ニ納テ妃トシ、遂ニ、三子ヲウメリ

 とあり、この三子の一人こそ、のちの継体天皇であるとする。

 さらに『和解三尾大明神本土記』には、次のようなことも記されている。
 妃が臨月になった時、三尾大明神が一元王(かずもとおう)の夢に現れ、皇位を継承する皇子が生まれるので、お産にあたり父母ともに謹慎せねばならないと告げた。
 そこで、一元王(かずもとおう)は、神職の山崎氏を招いて相談したところ、山崎氏は山崎社の拝殿をもって産所とし、自らは南天に向かい安産を祈り、一元王(かずもとおう)は北に360歩離れた仮宮にて北極星に祈り、これによって三つ子を産んだというのである。
 この「産所」とは、のちの近江国高島郡産所村にあったとされる三尾神社跡のことであろう。
 滋賀県高島郡高島町下拝戸に鎮座する水尾神社の社記によれば、のちに継体天皇の両親を北の仮社跡に祀って三重生神社(みおう)と三重生(みえなり)の地名が残っているとする。興味深いことに、地元ではこの三重生の地は縁起のよい安産の場所として知られ、昔神道が盛んだったころは、臨月の女子がこの村に来てお産をし、産後75日してから帰ったということが伝えられている。この75日というのは、おそらく『秀真伝(ほつまつたゑ)』26紋(26-5)に記される、鵜葺草葺不合尊が生まれたときに、お産の神である勝手神(かってかみ)が彦火々出見尊に、
「君は産屋を覗いてはなりません。4月の望の日より75日間、日ごとに卯葺草(うがや)の産湯をお上げください。これは古より伝わる教えにございます」
 と進言した旨が記されていることと関連するものと思われる。
 三重生の地にて、産後75日過ごしたというのは、ただ居ただけでなく、薬草による産湯をつかわせていたのではないだろうか。
 また、安曇川町の伏原付近には第26代継体天皇の胞衣塚が残っている。
 元来新生児の胞衣は、その処理次第によって産婦に禍いをおよぼしたり、後日の出産に祟るとされ、日取りや方角に注意したり、それを行う物も定められているというような忌避すべき存在とされるが、これは『秀真伝(ほつまつたゑ)』にみえる胞衣の伝承が時代が下るにしたがい変質したものとみなせよう。

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

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・安産もたれ石

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

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【三尾神社旧跡】碑と【もたれ石】 

木車の車輪か?

彦主人王のお妃、振姫が出産の際もたれたと伝えられています。この石をなで自分のお腹をさすって安産を願う慣わしが残っています。


 三尾神社旧跡は、彦主人王に天成神道を教授した山崎命の創祀と言われます。ここに彦主人王の后振姫が産屋を構えたその折、振姫がもたれたと伝えられるのが「もたれ石」です。この石を撫でて自分の腹をさすり、安産を願うという素朴な習わしが今も残っています。

所在地:高島市安曇川町田中                                                 アクセス:JR湖西線「安曇川駅」タクシーで5分 徒歩20分・駐車場:普通車路上2~3台

 

 

 

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・王塚古墳(彦主人御陵)

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

 

 

 

継体天皇の父である彦主人王と伝えられる。彦主人王御陵として陵墓参考地に指定される。

滋賀県高島郡は男大迹王(おおどのおおきみ、後の継体天皇)、その両親の彦主人王(ひこうしおう)と振姫(ふりひめ)が生活した三尾の別業(別荘)である。越の国から彦主人王に嫁いできた振姫はここで三つ子をもうけたが男大迹王が5歳の時に彦主人王は没した。振姫は遙か故郷を離れた近江の土地でどうして子を育て親に孝行できようかと嘆き、幼い子を連れて高向(たかむこ、福井県坂井郡丸岡町高田付近)に戻ったと日本書紀は伝えている。彦主人王の本慣(本拠地)としては3つの候補地があり、高島郡三尾、琵琶湖北東の息長、越前の三国の名が挙がっている。滋賀県では高島町から安曇川町にかけて彦主人王(ひこうしおう)や振姫(ふりひめ)に関わる遺跡が幾つも現存する。

田中王塚古墳(彦主人王の墓に比定され、宮内庁の管轄下にある古墳)

 明治38年(1905年)に宮内庁が継体大王の父である彦主人王墓と比定し、その南の陪冢(ばいちょう、主たる古墳に随伴する古墳)三基とあわせ、陵墓参考地としました。泰山寺野(たいさんじの)という丘陵の突端に位置し、頂上からは高島市が一望できる場所にあります。
 この付近には40数基の小型墳が集まっており、田中古墳群と呼ばれています。採集された須恵器や埴輪などから、5世紀後半の古墳群であると考えられており、田中王塚古墳はその主墳であり、小型墳は陪冢(ばいちょう)とされています。

  • 墳形/円墳ないし帆立貝形前方後円墳
  • 規模/全長約70m、後円部径約58m、高さ約10m、前方部長約12m、同高さ1.7m
  • 時期/5世紀後半
  • 高島市安曇川町田中1877-1
    地図を見る
  • アクセス/JR湖西線「安曇川駅」下車、車で5
  • 問合せ:(社)びわ湖高島観光協会 TEL:0740-22-6108 FAX:0740-22-6113
     

彦主人王御陵(ひこうしおうごりょう、滋賀県安曇川町)は、周囲に大小40数基以上の陪塚(ばいちょう、ばいづか)を持つ田中王塚古墳群の中では最大規模のもので通称「王塚」とも「ウシ塚」とも言われる。1905年(明治38年)に宮内庁が彦主人王墓の参考地としてから宮内庁管轄下にあり、現地を訪れてみると古の世界に誘われるような雰囲気を持っているがこれとて王墓として何ら確証があるわけではない。築造は5世紀後半で直径58mの2段築成の帆立貝式古墳だが、もともとは円墳だったと推定される。

 鴨稲荷山古墳(かもいなりやまこふん、滋賀県高島町)は近江の三尾氏の首長を葬ったとされているが、彦主人王の御陵とする見方も根強い。

 胞衣塚(えなづか、滋賀県安曇川町)は三尾里集落の南にあり直径11.5m、高さ2.5mの円墳である。振姫が継体天皇を出産した時の胎盤とへその緒を埋めたという伝承がある。

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ/blog 等々

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