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城郭探訪

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安土城見学会

2016年01月26日 | 戦国山城

安土城見学会

 信長公記 巻九 天正四年1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。・・・・ 云々

 お城の概要

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、ウィキペディア

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安土築城  安土御普請の事

2016年01月26日 | 戦国山城

 

信長公記 巻九 天正四年

1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。

 4月1日からは大石をもって山内の塁壁地に石垣が築かれはじめた。また「城内に天主を築くべし」(安土城の場合、天守には「天主」の字を当てていたことが知られている)との信長公の命に従い、安土には尾・濃・勢・三・越五州に若州・畿内の諸侍、および京都・奈良・堺の大工諸職人が参集し、おのおの技巧のかぎりを尽くした。瓦焼には唐人の一観が加えられ、唐様に仕上げるよう申し付けられた。
 近接する観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊場山(伊庭山)(いずれも安土周辺(現近江八幡市~能登川町あたり)の山)からは大石が数多く引き出され、千・二千・三千とまとめられて安土山へ上げられていった。引き上げられた石は石奉行の西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某によって吟味され、小石は退けられて大石のみ選りすぐられていった。

 これらの石の中で、津田坊が運んできた蛇石と呼ばれる石はまた格別のものであった。すぐれた名石であったが、並はずれた大石でもあり、山麓までは運べたものの山上には一切上げられずにいたのである。結局この蛇石は羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の助勢一万人の手によって昼夜三日がかりで引き上げられることとなったが、このとき信長公は巧妙な手で(原文「御巧を以って」。足利義昭邸建造(巻二第二段)のときのように石を飾り立てて笛や太鼓で囃したものか)人足たちを囃し立て、いとも簡単に天主台へ引き上げさせることに成功したのであった。このように普請は昼夜の別を問わず、山も谷も動かんばかりの勢いで進められた。

 安土の普請が進む中、信長公はまた京都にも座所を造ろうと考えた。そして安土の監督は御息信忠殿に任せ、みずからは4月晦日に京都に入って二条妙覚寺に宿泊した。

 これが『蛇石』か?

 

安土城を築くため信長は石仏など多くの石を集めました。記録によると大きな石を上げるために数千人の人が必要であったといわれ、なかでも「蛇石」と呼ばれる銘石は7千人の人が昼夜を問わず引き上げたが、上がらず150人もの人が下敷きになり死んだそうです。今この石がどこにあるかわかっていません

★「蛇石」の話は信長公記の天正4年の”安土御普請の事”に津田坊という人が 運んだことが記載されている。しかし、これには150人が下敷で死んだ話はで ていない。

 

★フロイス日本史4(川崎桃太.松田毅一訳.中央公論)第33章の「信長がその統治の過程で行った他のことどもについて」には、「蛇石」とは記されていないが、特別の一つ(石)として150人以上が下敷きになり死んだ話が述べられている。二つの話をつなぐと「築城にまつわる話」となる。

 

★「蛇石」とはどんな石かわからないが、蛇紋岩という石ならある。一般的な特徴は暗緑色塊状のものが主であるが、繊維状の岩もある。 つるつると滑らかで、蛇の皮の紋様みたいな岩もあり、不規則な塊状をしている。また蛇紋岩の成分の一つであるクリソタイルは石綿の一種であり、これは、じん肺を 誘発する。私が関係している労働衛生とか職業病の分野では時々耳にする。

 

★蛇紋岩の産地
  安土に近い蛇紋岩の産地について、原色岩石図鑑で調べて見ると、愛知県.新城市と繊維状蛇紋岩(京都.宮津)が該当する。運ぶ時に滑りそうな石は愛知県.新城市の石のように思う。愛知県というと、信長と関係がでてきそうだが、こんな遠くから大石を運んだか疑問もでてくる。

 

■ 安土山を霊鷲山にする方法

★荒神山(彦根市)は霊鷲山だった

 二つの資料を並べてみて、ほとんど平仮名の文より漢文読み下しの方が読みやすい感じがするのですが、一般的にはどう感じられるのでしょうか? 初めのお話は、東大寺造営に力を尽くした僧である行基についての伝説なのですが、その中の太字で示した部分に、昔は平流山と呼ばれていた現在の彦根市にある荒神山の伝説がのせられています。

 荒神山はもともと、釈迦が法華経などを説いた天竺にある霊鷲山の一岳であり、その霊鷲山の一岳が蛇の背中に乗って日本へやって来て、蛇がそのまま石になった、という伝説です

★しっぽが無い

 このへび岩のしっぽは、かめ山(彦根市)むかし話では、北がわの石寺(彦根市)の村に出ている、と、伝えられているのですが、現在荒神山北側の石寺の方面には、しっぽらしい岩は存在しません。 2003年に彦根城博物館が編集した『荒神山と周辺地域の暮らし』の――聞き取り調査ノートより――には、「蛇岩のしっぽ側は曽根沼干拓前の昭和35年頃には、採掘され失われた…蛇岩は山の上の方にあり、採掘された石は、崖から谷筋へ転がし落とし、曽根沼際の石積み場へ運んだ。」 というように昭和35年ごろに採掘されたという証言がありますが、この中の、「蛇岩は山の上の方にあり」という証言から言って、昭和35年頃に採掘されたのは蛇岩では無いと考えられます、 なぜなら、もともと蛇岩は荒神山を乗せて来た蛇が石になったもので、頭側は山の下の方にあり地元の人に祭られている事から、しっぽ側の石も同じく、山の下の方にあって、地元で祭られていなければおかしいからです。 たしかに昭和35年ごろなら御神体の岩を工事用に採掘する事もありそうなのですが、その場合でもたたりを恐れて神事がとり行われるはずで、何の伝承もなしに蛇岩が採掘されてしまうのは不自然で、なおかつ山を乗せているはずの蛇のしっぽが山の上の方にあるという証言からして、この時採掘された岩は、もともとのへびのしっぽでは無いと考えます。

へび岩のしっぽが安土城へ運ばれた 

 以上の事から、安土城へ運ばれた蛇石とは、荒神山の へび石のしっぽ側の岩で、取られた荒神山石寺の人は、山の上の方にあった岩を新たにへびのしっぽに見立てたものと考えられ、この解釈なら信長公記から読み取れる蛇石の条件、安土山以外の場所から持って来た、もともと有名な石、という二つを満たし、聞き取り調査ノートの証言の説明も付けられます。

★安土城を霊鷲山にする方法

 安土城障壁画の復元考察を行った平井良直氏は『安土城天主五階の空間構成に関する一試論』の中で、「信長は、『法華経』の造形を、の装置として巧みに転用しているという可能性が、ここで新たに指摘できるのではあるまいか。」と結論部分で指摘しています。

 法華経が説かれたのは天竺の霊鷲山であり、三国伝記ではその霊鷲山が蛇の背中に乗ってやって来たのが荒神山であるとされているので、荒神山のへび石と、荒神山の土を安土城の天主に持って来れば、安土城天主は宗教的には霊鷲山と同じものになることができます。 つまり、へび石のエピソードも、安土城天主を、法華経の造形によって自己神格化の装置として取り入れた信長の、一貫した意思のあらわれだったのです。

へび石の埋められた場所は 

へび石が、荒神山から運ばれた安土城天主を霊鷲山にする装置の一つと考えると、へび石が置かれた場所は、天守台を背中に乗せて運べそうな部分であると考えられ、具体的には天主から東に延びる天守取り付き台部分の地下ではないかと思われます。 発掘調査の際にもこの天守取り付き台部分から岩らしい物の反応があったので、天守台から左右に伸びる岩盤の東側の端に蛇のしっぽを付ければ、想像される蛇の頭は伝二の丸信長廟辺りに位置する事になり、天守指図の間取りから考えれば、信長の寝起きした常の御所は伝二の丸に想定されるので、へびの頭を押さえる位置に信長の座所が位置する事になり、自己神格化の装置としてちょうど良いのではないかと思われます。
 以上の事から、へび石は現在、天守取り付き台部分の地下に埋まっているものと、とりあえず考えておきます。


水口岡山城(水口古城山城)   近江国(水口)

2016年01月22日 | 戦国山城

お城のデータ

 

所在地:甲賀市水口町水口(甲賀郡水口町水口)    map:http://yahoo.jp/0cSWF4 この地図のURL

別 名 :水口古城城

現 状:城山公園・森林 

遺 構:曲郭・石垣、土塁、枡形虎口、竪堀、堀切

区 分:平山城

築城期:織豊期 天正13年(1585)

築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)

初城主:中村式部少輔一氏

廃 城:慶長5(1600)年

城 域:600m×200m

標 高:282m    比高差:100m

目標地:水口小学校

駐車場:水口岡山城登城口駐車場http://yahoo.jp/33mkhD

訪城日:2016.1.17

お城の概要

  「城山高く有らずとも 今の稚木の生い立たば やがて雲をも凌ぐべき 茂山なる日こそこめ」。巖谷小波(水口ゆかりの児童文学者)の作詞になる水口小学校の校歌ににも歌われる「城山」は、水口市街を見下ろすお椀を伏せたような「古城山」のことです。歌詞の通り標高289メートルと低い山ではありますが、独立丘であることから山頂からは眼下の水口はもとより、鈴鹿峠方面、日野、八幡方面まで一望することができます。 

この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」といい、山上には「岡観音」と呼ばれた大岡寺があったと伝えられますが、天正13(1585)年に、羽柴(豊臣)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城を築かせます。当時は「水口城」と呼ばれていました。近江東南部の支配とともに、鈴鹿峠をひかえ、東海地方への押さえが意図されたのでしょう。城主には一氏に続き増田長盛、そして長束正家と豊臣政権の「五奉行」があてられており、その重要性がうかがわれます。

この城は大きく、

(1)甲賀郡で最初の大規模な織豊系城郭である。

(2)中世以来甲賀郡各地に割拠した土豪・地侍集団である「甲賀衆」の在地支配が払拭された。

(3)水口が城下町として整備され近世甲賀郡の中心となった。などの歴史的意味がありますが、

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で、三代城主であった長束正家が西軍に与したため破却されてしまいます。

 近年の城郭調査により、山頂部には堀切などで区画された大規模な曲輪を複数配置し、とくに本丸には高石垣が築かれていたこと、山腹にも曲輪や帯曲輪、桝形を配し、竪堀なども見られることが分かってきました。また寛永期の絵図(幕府京都大工頭中井家文書)には、山上の「本丸」に「天守」とあるほか、南麓から西麓、さらに北側へと堀がめぐらせて城の内外を区画したこと、城下との出入り口として3カ所の枡形があったことが判明しています。城域の大半は未発掘ですが、本丸一帯からは大量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物が並んでいたようです。このように水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配の拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡です。なお、現存する縄張については、平成22年12月刊行予定の市史第7巻「甲賀の城」で詳しく紹介される予定です。

歴 史

 『江州佐々木南北諸氏帳』に、「甲賀郡 岡山寺 甲賀三郎兼氏」とあり、詳細は不明ながら、甲賀三郎兼氏は他の古文書には無い?

十王地蔵
この寺の境内には伊賀に通ずる御斎峠の路傍にあったという南北朝期の石仏十王地蔵がある。
天慶元年(938)、多羅尾の開祖甲賀三郎兼家が当地で出世すると、兄重宗、定頼の二人がこれおねたみ、
兼家を謀殺しようとして、かえって自亡した。その亡霊の冥福をいのるために地蔵尊十基が造られた。
もとは御斎峠の近くにあったものをここに移したと伝わる

 大岡寺・・・・古く、この寺は「龍王山観音院」と号し、俗に「岡観音」の名で知られています。寺伝によれば、僧行基が諸国行脚に際し、大岡山(おおおかやま)に一宇を建て、自彫の千手観音の木像を安置したのが創まりで、時は白鳳十四年(六八六年)六月十八日であったと伝う。その後、寺勢は盛大を極め、十六箇院が建立され、当山は、その東坊=本坊でありました。 当山の所在が要害の地で、交通も至便であったので、武将の布陣となったこともあり、源義綱(天仁二年)、鴨長明(健保の頃この寺で発心)、源光行(貞応三年)、それに一条兼良(文明の頃)などが宿ったことがありました。 また、元禄の頃には、俳人芭蕉も当山を訪れ、友人と会見「命ふたつ中には活きたる桜かな」の一句を残しています。

 「岡山の寺=大岡寺」は、中村一氏の築城時、天正13年(1585)中村一氏が秀吉公の命を受け、岡山城に築城にあたり、本堂は1716年(享保元)に当時の住職寂堂がそれまで古城山にあった東坊をふもとに移築し、山頂に城郭を構築しました。落城後、江戸期に加藤氏が水口城=碧水城(現在水口高校)の城主となるに及んで、当山をその祈願所とし、寺領および大般若経六百巻、梵鐘寺等を寄進しました。正徳5年(1715)僧寂堂は、藩主の好意を得て、古城山麓の現在地に中興開山し「龍王山大岡寺」と称し、時あたかも享保元年(1716)6月でした。

 水口岡山城は、天正13年(1585)羽柴(豊臣)秀吉の命で、家臣中村一氏によって大岡山(現在の古城山、通称「城山」)に築かれました。一氏の後、増田長盛、長束正家が城主となります。 眼下には東海道が東西に通り、鈴鹿越えの道を押さえることを意識した当時の戦略がうかがえます。水口岡山城は、豊臣政権における甲賀支配の中核となる城だったといえます。 

  水口城跡(水口御殿)から1kmほど北にある古城山(標高283m)の山頂にある城跡で、天正13年(1585)羽柴秀吉の命を受けた中村一氏により築かれたといわれます。文禄4年(1594)秀吉の五奉行の一人長束正家が城主となり、一帯五万石を領知したほか、蔵入地の代官を兼任しますが、関が原の合戦で西軍に属し、敗戦後廃城となりました。
 城跡は山頂部に東西に六郭からなる主部を配し、おのおの堀切、竪堀により区画され、周辺にも小規模な郭が4ヶ所ほど見られます。また、寛永11年(1634)の水口城築城に当たって当城の石材を利用したという説もあります。

西の丸

竪堀を北へ・・・すぐ石垣・・・城内最大の残存石垣へ

本丸の北の石垣へ

本丸石垣西天守

瓦の破片がいっぱい!丸瓦が!

南側桝形虎口

本丸到着

東側天守

天守址で、特製「お市と三姉妹弁当」!「豊臣・・・茶々vs徳川・・・江」

大手道を下り

二の丸への枡形虎口

東天守の北側へ・・・食い違い虎口・・・石垣

主格と二の丸の間の箱掘

箱堀の北の土橋

食い違い虎口

東店主の北下の石垣二の丸の下の竪堀(笹で解りにくいが)

二の丸と三の丸間の箱掘を覗く!

二の丸と三の丸間の箱掘

三の丸へ

北側への竪堀

3の丸の東の郭

竪堀二条 山麓郭

参加者記念撮影《水口城で》

中村一氏

 一氏は多喜氏の出で、弥平治一政の子で、初め滝孫平治と称し、後中村式部少輔と改める。滝川一益と同じ伴家一族である。秀吉に仕えて戦功あり、岸和田城主となり従五位下式部少輔に任ぜられる。天正13年(1585)7月、6万石の水口岡山城主となる。

 この水口を含む甲賀の地は所謂甲賀流忍者の本拠であり、甲賀21家、53家で代表される群小の地侍層が甲賀郡中惣のもとに団結して外敵に対処してきた所である。信長の時代には六角氏と組んで敵対したこともある。畿内のひざ元にどっちへ就くか分からない武力集団を自由にしておけないというのが秀吉の考えだったのだろう。甲賀の中心地にぽっかり聳えた岡山に城を築いて甲賀全域に睨みをきかすこと、そのためには事情に明るいこの土地の出身武将を城主にする必要があると、多喜氏出身の中村一氏に白羽の矢が立ったと思われる。しかし、6万石といってもどこからか取ってこなければならない。

 甲賀武士は一時は逆らったものの、六角氏が滅びてからは信長につき、その後は秀吉の麾下に属している。領地を取り上げる口実を作らないと目的を達することができない。そこで考え出されたのが、まず第一に「敵に通心した」という濡れ衣を着せることであった。篠山氏はその例で、信長の時代から繋がりのあったことが災いして信雄攻めのときに「通心」の疑いをかけられ領地没収の憂き目をみた。二つ目は「落ち度を作ること」で、雑賀攻めのとき水攻めの土木工事がうまく進まなかったとの落ち度をつくり、領地没収を敢行した。佐治氏はこれに服さず反抗して滅ぼされている。領地はこうして岡山城主に集中された。

 中村氏はその後天正18年(1590)の小田原城攻めに武勇を奮い、封を駿河国府中に転じられ14万石を賜ることになる。あとを継いだのは増田長盛、ついで長束正家である。

 秀吉の死後は徳川家康に属し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには病のため参加できなかったが家臣は美濃大垣で活躍した。同年城中にて没す。

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の

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新発見 坂田郡巨大城『焼尾茶屋城』

2016年01月01日 | 戦国山城
近江公民館 坂田郡巨大城郭発見 冬の陣
 
平成驚愕の坂田郡ミステリー巨大城郭新発見
 見学城郭 新発見の中世城郭 2 小城 全長50m  櫓台跡あり
目指す、新発見の中世城郭『焼尾茶屋城…暫定名称』2 小城 全長50m  櫓台跡あり。
 
櫓台の北側えを回り込み
縄張り図が手元にあるが、公開に暫し時間が(著作権で)
虎口虎口に立つ、丸山竜平氏(櫓台から)丸山竜平氏も 、唖然!(元滋賀県中世城郭分布調査 事務局)
櫓台
櫓台からの眺望
 
主郭部に戻り
 
近江公民館 坂田郡巨大城郭発見 冬の陣
 
1214(月)
 
平成驚愕の坂田郡ミステリー巨大城郭新発見
現地見学会 城歩会  講師 長谷川博美 
集合場所 米原市 近江公民舘無料大駐車場=滋賀県米原市顔戸1513
集合時間 午前10時 公民館で受付開始 集合次第出発
 
交通アクセス 鉄道=JR米原駅からタクシー10分 徒歩約30分
       高速=名神米原インター下車 
       国道=国道21号 国道8号 信号顔戸を東に200m
弁当、水分、携帯雨具、手袋、ハイキングに適した靴と服装を各自用意
見学城郭 新発見の中世城郭 1 大城 全長250m 堀切、土塁あり。
              2 小城 全長50m  櫓台跡あり
     既存城郭     3 城域 全長300m 二重堀切石臼あり。
主催 米原市文化協会『城歩会』 
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新発見 坂田郡巨大城『白鳩城』

2016年01月01日 | 戦国山城
 見学城郭 新発見の中世城郭 1 大城 全長250m 堀切、土塁あり
 
 
目指す、新発見の中世城郭『白鳩城…暫定名称』 1 大城 全長250m 堀切、土塁あり。
 
 
縄張り図が手元にあるが、公開に暫し時間が(著作権で)
 
主郭部の眺望
丸山竜平氏も 、唖然!(元滋賀県中世城郭分布調査 事務局)

近江公民館 坂田郡巨大城郭発見 冬の陣
 
1214(月)
 
平成驚愕の坂田郡ミステリー巨大城郭新発見
現地見学会 城歩会  講師 長谷川博美 
集合場所 米原市 近江公民舘無料大駐車場=滋賀県米原市顔戸1513
集合時間 午前10時 公民館で受付開始 集合次第出発
 
交通アクセス 鉄道=JR米原駅からタクシー10分 徒歩約30分
       高速=名神米原インター下車 
       国道=国道21号 国道8号 信号顔戸を東に200m
弁当、水分、携帯雨具、手袋、ハイキングに適した靴と服装を各自用意
見学城郭 新発見の中世城郭 1 大城 全長250m 堀切、土塁あり。
              2 小城 全長50m  櫓台跡あり。
     既存城郭     3 城域 全長300m 二重堀切石臼あり。
主催 米原市文化協会『城歩会』 
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山室砦(名越ごえの山城) 近江国(山東) 

2015年12月20日 | 戦国山城

 南郭跡で発見された石臼

お城のデータ 

別 称:名越ごえの山城

所在地:米原市山東町山室/長浜市布勢町・名越町 map:http://yahoo.jp/fo9cTP

区 分:山城

標 高:277m 比高差:150m

築城期:室町期

築城者:子足備後守

遺 構:曲郭、土塁、堀切、二重堀切、土橋、竪堀 

目標地:長浜市名越町 後鳥羽神社

駐車場:後鳥羽神社の駐車場

訪城日:2015.12.14

お城の概要

名越ごえの山城は、長浜市名越町・布勢町と旧山東町(現米原市)山室の境界をなす横山連峰の尾根筋上および山室集落に向かって下る支尾根上に、南北約400m、東西約150mに亘って築かれている。この横山連峰の尾根筋上には、鳥羽上城や横山城も築かれている。

遺構は、三つのピークを利用し、南端の標高275mのピークに主郭(南北約80m、東西約43m)が置かれ、琵琶のバチの形をしている。主郭の南側下方には堀底を石塁で2重構造にした堀切に、さらに外方に土橋を付属させた堀切を設け、尾根続きの南側を厳重に防禦している。

主郭の東側は急斜面を下った所に堀切を、その先45m間に廊下状の郭と削平の不十分な郭を設け山室側より直登する尾根筋を防備している。
主郭の北側は、虎口部で東西面に土塁を伴う傾斜地となっており、その先端鞍部は堀切(切通し)で画されている。それより北へ40m程登った標高277mのピークを東西約25m、南北約30mの不整形な郭としている。

ここから西へ下ると布施へ、北西へ下れば名越へ通じ、要の郭である。更に北方に、一段下がって廊下状通路が約45m続き、先端部が15m×18mの不整形な郭になっている。

 その北面、段築の痕跡を残す急斜面を下った所には、中央と北側に土塁を伴う二重の堀切を配し、北からの侵入を防いでいる

堀切外側は緩やかな鞍部を隔て廊下状の尾根道となり、90m先の西面には浅い堀切が見られ、最北端の外郭と考えられている。

郭を取り巻く土塁もなく、削平も不完全で、自然地形に大きく制約されており、古い形式の山城と思われる。

お城の歴史

名越ごえの山城に関する直接史料は見つかっていないが、縄張りが北・東・南の三方に対して防備されているのに対し、西方は手薄なことから、長浜市側の勢力による築城と考えられる。

湖北の坂田郡という地域は,南北につらなる 横山丘陵を囲むように東山道・北国街道・北国脇往還の三街道が通り,戦略的にも重要な交通の要路である。三街道が形成する三角形の中心地区に,いつの頃からかはわからないが,(おそらく室町時代後期には,)小足郷(村)もあった。

『大洞弁天当国古城主名札』に名越館に京極氏の家臣・小足備前守が在城していたとあり、同氏の「詰城」の可能性が高いとされている。

また、『淡海国小間攫』にも、「名越村小足備前守此地ヲ領スル由、古記ニノス」とあり。

名越ごえの切り通し(堀切)

東側の郭

東郭跡で発見された石臼

277m

東端の二重堀切

登り口に下山

和尚谷地蔵堂

背後の郭址堀切堀切

後鳥羽神社

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城、淡海の城、『大洞弁天当国古城主名札』『淡海国小間攫』

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平田山城(雨壺山城・徳川家康陣城) 近江国(彦根)

2015年11月30日 | 戦国山城

11/29月(現地見学会/特別研修会)

地元の人にも知られず、訪城されていない穴場の城

お城のデータ

 所在地::彦根市山之脇町・芹川町・和田町・岡町(雨壷山) map:http://yahoo.jp/TzGG6b

別  名:雨壺山城

現  状::山林・千鳥ヶ丘公園

遺  構:曲輪・土塁・虎口・竪堀・横矢・塹壕・石積

 区 分::平山城 137.3m  比高差:25m(千鳥が丘公園より)

築城期 :室町期

歴代城主:平田宗左衛門高慶、徳川家康陣主

目標地:新神社・千鳥ヶ丘公園無料駐車場

 駐車場: 千鳥ヶ丘公園無料駐車場

 訪城日:2013.3.13・.215.11.29

平田山城


千鳥ヶ丘公園に立つ駒札
歴 史

応仁の乱の騒乱の中でも平田山が軍事拠点として使われていたとも伝えられていますので、実は彦根市内でも古いタイプの山城形式をもった平山城だったのかもしれません戦国時代は、領主平田氏の城であった

『肥田城と水攻め』の話で登場しました六角義賢の父親・六角定頼が上坂景宗と対陣した時に平田山を中心に矢を射ち合う“矢戦”が行われて、「江北軍(上坂軍)・磯野源三郎為員の軍勢、が江南軍(六角軍)・吉田安芸守定雄の軍勢と戦った結果、磯野為員が耐え切れずに退却した」という記録が残っています。六角定頼が当主になった永正15年(1518)から磯野為員が山本山で戦死する天文元年(1532)の間である事は間違いありませんので戦国時代前半には城として戦略拠点になっていた。


元亀佐和山城は8ヶ月間と籠城戦が長い

元亀元年(1570)に織田信長が磯野為員の甥・磯野員昌が守る佐和山城を攻めた時には、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて佐和山城を囲む一端を担っていた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後に行われた佐和山城攻めも、平田山に徳川家康、井伊直政の本陣もおかれました。家康の本陣が置かれ、家康はここから佐和山城が落城する様子を眺め、戦いが終わった後に麓の長久寺で休息しました。

江戸時代になると平田山城跡は井伊家の狩場となっていました。七代藩主・井伊直惟は特に好んで鷹狩を楽しんでいたそうです。

現在、城跡は千鳥ヶ丘公園として整備されている所もありますが、山の中に入って行くと、土塁や曲輪の跡、そして石垣(近世のもの)も残っています。この石垣が近世の物ですが興味が引かれる遺構の一つです。

山城攻めの時には城としての機能がどれほど残っていたのかははっきりしませんが、彦根市内の戦いでは絶対に必要となる城。

  • 城攻めには、
  • A「仕寄」=接近包囲 包囲殲滅 
  • B「遠巻」=遠方包囲 糧道封鎖  の二種類攻城戦にあります。

山頂から佐和山や彦根山※が一望できます。」とあるが、今は、千鳥が丘公園の東尾根頂の古墳上の「展望台から」

※彦根山は、彦根城が立つ山で、別名:金亀山(こんきさん)(彦根城築城以前は金亀寺が建っていた)

 彦根古図略図

  

 戦国時代後期に佐々木六角と江北軍合戦の舞台として史実に登場、以降佐和山城に対する争奪戦の舞台の一部となる。

平田山城新規巨大詳細図面発表

先ずは、千鳥が丘公園散策~見晴らし台から彦根佐和山城・彦根城・里根城・彦根市内の眺望

公園の見晴らし台

織田信長の佐和山包囲網

 元亀元年(1570)に織田信長は浅井長政の重臣磯野員昌が籠る佐和山城を攻囲しているが、そのときに織田勢は佐和山城を四方から囲むように陣城を構えている。北の山(物生山城)に市橋長利、西の彦根山or尾末山に河尻秀隆、東の丸山砦(百々屋敷の詰め城)に丹羽長秀、そして南の山(里根山城)には水野信元が布陣した。

西の城(金亀山=彦根城or尾末山)

佐和山城

南の城(里根城=彦根カントリークラブ)

北の城(物生山城) 物生山城出丸(松原内湖遺構)、東の城(丸山砦…百々屋敷城)

 徳川家康 没後400年 本格城郭見学会 

特別企画 アフター関ヶ原合戦 彦根平田山城(徳川家康陣) 奇跡の復活

 

 

 ここから【平田山城(雨坪山城)】

石碑に社地=新神社の鎮守の森弓座&銃座

主郭下の土留め石積み(後世のもの)

頂部の主郭

主郭中央に円石柱で円形に日露戦争の忠魂施設(何故か破壊されている)日露戦争の忠魂墓

参加者の記念撮影大手の家臣団の曲郭割

 

平田山城新規巨大詳細図面発表

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、平田山城見学会資料

11月29日(日)30()

集合場所:彦根市平田町の信号雨壺山旧彦根市火葬場駐車場10時集合

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


近江佐々木の【観音寺城】の「石垣見える化」

2015年11月30日 | 戦国山城
  • 観音寺城のぼりを立てた城跡の大石垣周辺で、雑木などを片付けるボランティア作業の人たち=近江八幡市
  •   
 

 近江八幡市の観音寺城の大石垣を新幹線から見えるようにしよう、と活動している地元の人たちの集まり「豊かな杜(もり)づくり隊」が29日、城郭跡に続く山道の階段づくりや、石垣を崩す雑木の伐採などの活動を本格的に始めた。

 観音寺城は、近江の守護大名・六角氏の居城で、繖(きぬがさ)山(433メートル)西斜面にあり、今は石垣群が残る。この日集まったのは地元の森林組合や企業など約170人。雰囲気を盛り上げるために用意したホラ貝の音を合図に、3班に分かれて作業を始めた。山道に木を組んで階段をつけたり、石垣の間に根をはる雑木をチェーンソーで切ったりした。また、枯れた倒木を運び出すなどで約3時間。参加者のひとりは「ここまで登ってくるのがひと苦労。そのうえ斜面で足場が悪い」と額の汗を拭いていた。

 毎月1回こうした活動を続け、来春には城郭跡を見て回れるように遊歩道や案内板を整備していく。杜づくり隊隊長の木野和也さん(69)は「こんなに多くの人が参加してくれるとは思ってもいなかった。いろんな人から、いい汗をかいた、楽しかった、などと声をかけてもらい、感無量です」と話した。

朝日新聞 2015.11.30より

新幹線から観音寺城石垣見て 滋賀で住民らが手入れ

 

観音寺城跡の石垣周辺を手入れし、のぼりを立てる参加者ら(近江八幡市安土町石寺)

 滋賀県近江八幡市安土町石寺に残る中世の山城、観音寺城跡の石垣を、近くを走る東海道新幹線の車窓から見えるようにしようと、29日に住民や地元企業の従業員ら約170人が草刈りなどの作業を行った。

 観音寺城は、標高432メートルの繖(きぬがさ)山南西側一帯に築かれた、近江守護・六角氏の居城。安土城以前の城としては例外的に石垣が多用されていて、城跡は国史跡に指定されいている。

 繖山周辺で森林や古道の整備を行う住民グループ「豊かな杜(もり)づくり隊」が、観音寺城を地域の宝として広く知ってもらおうと、城の遺構を巡る登山道や石垣の手入れを呼び掛けた。

 参加者は三つのグループに分かれ、ほら貝の音に合わせて作業を開始。登山道約400メートルでは下草を刈って階段を造った。築城当初の大手門とされる中腹の石垣では、うっそうと茂る雑草や雑木を取り除くと、眼下に新幹線や国道8号が見渡せるようになり、遠くから分かるようのぼりを立てていた。

 同隊代表の木野和也さん(69)は「石垣も道もとても良くなり感無量。皆が熱心に作業してくれて感激した」と話していた。

京都新聞 2015.11.30より


西岡城 近江国(西浅井・塩津)

2015年11月23日 | 戦国山城

北の日計山

塩津最強の城 西岡城見学会

 

お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町山門~余  (旧西浅井郡西浅井町山門~余)   map:http://yahoo.jp/iYfv_t

現 状:山林

区 分:山城

遺 構:土塁、横堀、曲郭

築城期:室町期   

改築期:織豊期(天正11年期の賎ヶ合戦)

築城者:熊谷氏   

改築者:丹羽五郎左衛門尉長秀

城 主:熊谷下野守直房

陣 主:丹羽五郎左衛門尉長秀

目標地:横波・日吉神社

駐車場:横波・日吉神社駐車場

訪城日:2015.11.22

西城主城東砦

見張砦

お城のデータ

滋賀県中世城郭分布調査7に160頁に城郭図面(長谷川博美氏作図)東西60間×南北30間があり、今回の見学会に先立って長谷川博美氏自身が、再踏査・測量図面を作成。此度見学しました。

西岡城=遺跡見学  1 主城 2西城 3東砦 4見張砦

西岡城の特徴=主郭 土塁全長25間 (因みに、佐久間玄蕃盛政行市山城 土塁全長25間) 

  A 土塁の総囲いからなる。織豊系城郭=天正11年期の賎ヶ合戦に、改修をうけた可能性を示唆する、矩形土塁の縄張、北西に2ヶ所馬出的機能。

  ★ 遺跡の残存状態が異常なほどに良好。城跡の土塁も明瞭に見学可能。

  B 中世城郭として完成度の高さ。土塁の美しさ、堀切の鋭利さ、大掘切の深さ。

歴 史 

西岡城は塩津熊谷氏の宗家 「国人衆」熊谷下野守直房の居城と、推定される、壮大堅固かつ顕著な中世城郭遺跡

甫庵太閤記巻第六:丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

近江熊谷氏

  熊谷直貞の長男・直正が、近江国浅井郡塩津郷に住んだことに始まる。熊谷氏惣領を称した。室町時代には足利家奉公衆として室町幕府に仕えている。「塩津熊谷衆」はその筋にあたる。 近江国で地頭職を与えられ、赴任して以後、湖北地方一帯に勢力を延ばした。

 直正は近江国浅井郡塩津郷に住んで、近江熊谷氏の惣領として豪族化した。この直正の弟が一の谷の合戦で平敦盛を討った次郎直実である。直実は石橋山の合戦では源頼朝を攻めたが、のち源頼朝に従い平家追討に功をたて本領を安堵された。  しかし、建久三年(1192)一族の久下直光との所領争いに敗れて家督を嫡子直家に譲り、法然上人に帰依して出家した。出家後の直実は蓮生房を名乗り、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。熊谷郷に帰った後は草庵を建て念仏三昧の生活を送り、承元元年(1207)上品上生を予告し往生したと伝える。直家は頼朝の奥州征伐に功があり、陸奥国本吉郡に所領を賜わり、その子直宗は下向して赤岩館に住して奥州熊谷氏の祖となった。一方、熊谷氏の本貫の地である武蔵の熊谷郷に住んだ直国は、「承久の乱(1221)」の時に戦死し、その功により子の直時は新たに安芸国安北郡三入庄の地頭職を与えられた。直時の子孫は法然が直実に授けた「迎接蔓茶羅」を携えて、元冦のあった弘安以後(十三世紀後半)三入庄に下向し、大林伊勢ヶ坪城に拠った。

長浜市西浅井町横波の日吉神社

  南北朝合戦の爪

長浜市西浅井町横波の日吉神社の建つ五輪塔群【南北朝~室町期=戦国時代】

日吉神社の境内に、大小16基の五輪塔が低い段上に建っている。これらは、平成18年に背後の山際の斜面から発掘されたものだが、それに先立つ平成11年には、同地域から「延元戦没」と記された石碑が発見されていた。

この周辺は、織田信長の元亀兵乱で破壊された石塔が埋まっているという伝承があったが、平成になってその事実が確認された。

発見された石塔は錯乱状態であったが、村の有志が現在の「地・水・火・空」風輪の組み合わせは、再建当時の推測である。

「延元戦没」と刻まれた石碑には、「古えを しのばざらめや 今とても 色を得能の 塚の紅葉は/玄夢作」と和歌が刻まれている。ここで「延元戦没」とあるのは、南北朝期延元3(1336)年10月11日に、足利尊氏によって京を追われた新田義貞軍の一部が戦没したこと指す、本隊に遅れていた河野・土居・得能三将が率いる300騎は雪が降りしるなか、塩津の谷で、敵軍に取り囲まれて自害した。(太田浩司…横波の西田覚氏から聞きとり)

  駐車場で1/2500の踏査・測量図で概要説明

山麓に戻りました。

1122() 西浅井町最強の城 西岡城見学(丹羽長秀) 参加費1000
集合場所 長浜市西浅井町 道の駅無料駐車場 10時 講師 長谷川博美

集合案内

1 滋賀県長浜市西浅井町塩津浜 1765 道の駅=塩津港遺跡案内展示建物

参考資料:西岡城見学会のレジュメ、滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア

本日の歩数   10,806歩 

本日の歩行距離 8.1km

実歩行時間   2:06:22

消費カロリー  2,212.2Kcal

脂肪燃焼量   30.3g

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


西岡城を見て 唖然絶賛!

2015年11月23日 | 戦国山城

西岡城を見て 唖然絶賛!

 

所在地:滋賀県長浜市西浅井町余 map:http://yahoo.jp/BesmQh

この城がJR湖西線やJR北陸腺の合流する点、国道303号線や国道8号線の交わる交通の要衝として、滋賀県民に大きな貢献をもたらしてくれる。

城の特調

 天正11年賎ヶ岳合戦の頃の佐久間玄蕃盛政の行市山陣城に、土塁構成や縄張構成が類似しており是非一見の価値ある屈指の遺跡。

西岡城=遺跡見学会
 1 主城 2西城 3東砦 4見張砦


城の歴史

西岡城は塩津熊谷氏の宗家「国人衆」、熊谷下野守直房の居城と、推定される、壮大堅固かつ顕著な中世城郭遺跡。

 西岡城の特徴=主郭 土塁全長25間 (因みに、佐久間玄蕃盛政行市山城 土塁全長25間)
 ・土塁の総囲いからなる。織豊系城郭=天正11年期の賎ヶ合戦に、改修をうけた可能性を示唆する、矩形土塁の縄張、北西に2ヶ所馬出的機能。
 ★ 遺跡の残存状態が異常なほどに良好。城跡の土塁も明瞭に見学可能。
 B 中世城郭として完成度の高さ。土塁の美しさ、堀切の鋭利さ、大掘切の深さ。
甫庵太閤記巻第六  丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に…云々

 

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


雪野山城 近江国(八日市)

2015年11月21日 | 戦国山城

伝 雪野山城 

後藤氏の羽田館の詰城:雪野山古墳に築かれた雪野山城だった。

お城のデータ 

所在地:東近江市上羽田      map:http://yahoo.jp/FF3kwx

現 状:雪野山古墳・ハイキングコース

区 分:平山城

築城期:南北朝期

築城者:後藤氏

城 主:後藤賢豊

標 高:308m 比高差:200m

遺 構:石垣・竪堀・畝状竪堀・曲郭基壇

目 標:東近江側・・雪野山公園駐車場・竜王町側・・妹背の里無料駐車場

駐車場:雪野山公園駐車場・妹背の里無料駐車場

訪城日:2014.10.26 2015.11.20

お城の概要

  雪野山古墳は、本市と竜王町、近江八幡市との境界にある雪野山の山頂にある古墳で、石室が全く荒らされていない未盗掘の状態で発見されました。平成元年から発掘調査を始め、石室からは、三角縁神獣鏡や漆を丁寧に塗った矢を入れる容器「ユキ」など、多くの副葬品が出土し、当時大変話題になりました。

 今年は雪野山古墳の発掘調査が行われてから25周年を迎え、また、平成26年3月に国史跡に指定されたことを記念し、10月25日(土)に「雪野山古墳-過去・現在・未来-を語るシンポジウム」を開催。

 このシンポジウムでは、まず雪野山古墳発掘調査団長を務めた大阪大学の都出比呂志名誉教授らが古墳に秘められた謎に迫る講演会を行います。その後、3人の考古学者によるシンポジウムを行い、雪野山古墳の今後のあり方について話し合っていただきます。

 

歴 史

佐々木六角義治であるが、永禄6年(1563年)に六角氏の有力な重臣であった後藤賢豊を観音寺城内において暗殺してしまった。

賢豊は定頼時代からの六角家中における功臣として人望も厚く、進藤貞治と共に「六角氏の両藤」と称されるほどの宿老で、奉行人として六角氏の当主代理として政務を執行できる権限を有していたことから、賢豊の権力と若年の当主・義治とが争った末に、当主としての執行権を取り戻すために暗殺したと言われている。

 

後藤屋敷雪野山城

アクセス

後藤氏の羽田館の詰城が雪野山古墳に築かれた雪野山城であった。

雪野山古墳発掘調査団長の「都出比呂志名誉教授」講演! 

雪野山古墳の発掘時団長の都出比呂志(大阪大学名誉教授)に確認(2014.10.25)

    本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝


鎌刃城 近江国(米原)

2015年11月19日 | 戦国山城

城 名: 鎌刃城
所在地: 滋賀県米原市番場
現 状: 山林
築城期:15世紀後半~16世紀後半
築城者:土肥氏
区 分:山城
遺 構:主郭・南副郭・北副郭・堀切・土塁・石垣・虎口
標 高:384m、比高差:250m

駐車場:番場駐車場
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2015.11.16

お城の概要

鎌刃城案内板のある南へ向かう路地へ入り、すぐに道の左側に案内板がある山道のような側道を名神高速沿いに南下、彦根45のガード前に動物避けの門扉があり、開けてカード下をくぐると登城道に出る。くれぐれも門扉は開けたら閉めてください。
山道を入って行くとあと1.7kmの案内板のある分かれ道があり、案内に沿って斜面を上がった畝道を山中に入って行く。途中にあと1.3kmの案内板のあるところに土橋がある。後半は、山裾道を歩き、最後は、折れ曲がり道の斜面を登り切ったところに大堀切が見られる。ここまでやく50分。
大堀切から北の尾根を少し下ると堀切がある。さらに大堀切の西斜面を南へ100m行くと大石垣が見られる。
大堀切の南斜面を登ると北副郭に着く。登り切ったすぐの大穴のところが大櫓跡らしいです。中央東側には石垣造の桝形虎口、中央部に箱に入ったパンフレットがあるのでもらうと良い。
一段上がった南の曲輪には物見やぐらが復元されている。この付近の西側斜面に角石垣と小石垣が残っている。
北副郭の段々曲輪を登ると主郭へたどり着く。主郭北面に石垣造の桝形虎口、南面には土塁跡があり、土塁上に木製の鎌刃城趾碑が建っている。
土塁下に堀切があり、主郭南側が南副郭です。南副郭の奥には土塁跡と消えかけた説明板が建っています。
南副郭の土塁下には深い堀切、鎌刃城の名の由来である南の尾根に続く鎌の刃のような細い土橋が続き、堀切が途中にあります。細い尾根の最後には深い切り通しがあり、道が滝につながっています。
帰り道を引き返す途中、西番場集落へ降りる三叉路を西番場方面へ降りていくと大手口へ出ます。名神高速高架下の彦根43ガードを抜けるた右側の田んぼが殿屋敷跡で田んぼの前に小さな説明板が建っています。



歴 史

  • 土肥氏が築城、のち堀氏が居城する。
  • 文明四年 (1472) 坂田郡の土豪今井秀遠が堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻める。
  • 文明十八年 (1486) 多賀宗直に属する鎌刃城主堀氏成が今井秀遠に攻められる。
  • 天文二年 (1533) 同四年(1535)、同七年(1538)に近江守護六角定頼が今井定清に命じて鎌刃城を攻め島秀安が城代となる
  • 佐々木六角氏に降った堀氏が再び城主となる。
  • 禄二年以降 (1559) 浅井方の城となる。
    元亀元年 (1570) 浅井長政は織田方に降った堀氏に換えて百々越前守を入れる。
  • 姉川合戦後には織田信長が堀氏を最前線基地となる。
  • 元亀二年 (1571) 浅井軍に攻められるが、横山城を守備する木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の加勢により落城を免れる。
  • 天正二年 (1574) 堀氏が改易され廃城となる。

 

『江州南北諸士帳』に番場鎌刃城主 門根帯兼頼氏男 堀 次郎、樋口次郎左衛門、樋口三郎兵衛とあり

 

『江州南北諸士帳』に番場 住 佐々木随兵鎌倉平氏 土肥三郎、同     同男左京進とあり

 

 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。
番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であったのではないかと推測される。

 

 鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられている。
しかし、土肥氏は番場に残る「殿屋敷」に居城していたと考えられ、鎌刃城は番場地区から離れた山中にあり、在地支配の城(仕置きの城)ではなく、軍事目的で築かれた城ではないかと考えられている。
 一説には、鎌刃城近くを通る間道(通称年貢道)を押さえる城であったともされる。

 鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として、文献にも文明4 年(1472)以降に登場し、室町時代に築城されたと考えられている。
 六角氏方の今井氏が京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めたことや、堀氏が後に六角氏方に降り、再入城したことなどが知られている。

 元亀元年(1570)堀氏は姉川の戦いに際し、樋口氏と共に織田信長に降り、翌年5月6日浅井長政に鎌刃城を攻められている。
 この時横山城(長浜市)を守備していた木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)が応援に駆けつけ、長政軍を撃退したことが「信長公記」に記されている。

鎌刃城見学会の見学ルート順に、

新林道を車で頂部へ(清流の滝の上、旧林道の終点)、駐車!

いざ、鎌刃城へ南から

 

横堀(堀切)を9を数え、細い尾根を南郭まで!

七堀切と書いてますが、九堀切があります!

南曲郭~副曲郭~主郭

副郭へ

主郭の東側の石垣

大手口の下の石垣(2015.11.29まで、以後埋め戻し(11.23狼煙リレー))

主郭の大手桝形虎口より主郭へ

 

主郭のクマ除け半鐘のBOXに【発掘資料】があります。穴型主郭CG復元図

 

 主郭より、北の展望

狼煙リレーの準備に、杉の枝を背負って「鎌刃城を考える会のⅠさん」の遭遇

主郭で主郭で遺物(茶碗の)発見、写真はないが、碁石8mmも発見…Tさんが!。当然、遺物は元の位置に!

主郭西側石垣

 

北部遺構

大堀切

 

 

主郭西の犬走りの大石垣

 

 

 

主郭のクマ除け半鐘のBOXに【発掘資料】があります。穴型主郭CG復元図

 

西側の刃の部分へ

ここで、林道に降り

林道を「清流の滝」=「水の手」まで約200m

清流の滝

林道の終点

駐車位置の戻り、塩津の「西岡城」の踏査・測量図を披露!

見学会記念撮影(参加者+シャッターマン(小生)=14名)

東側の新林道を車で下山…西に鎌刃城(車中より遠景)

 

集合場所の近くの中山道沿いの案内板

参考資料:鎌刃城見学会のレジュメ、滋賀県中世城郭分布調査、鎌刃城 近江国(米原・番場)講座 鎌刃城まつり、 鎌刃城まつりに参加しました(鎌刃城見学会)

本日の歩数   10,530歩 

本日の歩行距離 7.8km

実歩行時間   2:03:33

消費カロリー 192.4 Kcal

脂肪燃焼量  27.4g

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


鎌刃城見学会(隅から隅まで)

2015年11月18日 | 戦国山城

鎌刃城見学会(隅から隅まで)



お城の歴史

  • 土肥氏が築城、のち堀氏が居城する。
  • 文明四年 (1472) 坂田郡の土豪今井秀遠が堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻める。
  • 文明十八年 (1486) 多賀宗直に属する鎌刃城主堀氏成が今井秀遠に攻められる。
  • 天文二年 (1533) 同四年(1535)、同七年(1538)に近江守護六角定頼が今井定清に命じて鎌刃城を攻め島秀安が城代となる
  • 佐々木六角氏に降った堀氏が再び城主となる。
  • 禄二年以降 (1559) 浅井方の城となる。
    元亀元年 (1570) 浅井長政は織田方に降った堀氏に換えて百々越前守を入れる。
  • 姉川合戦後には織田信長が堀氏を最前線基地となる。
  • 元亀二年 (1571) 浅井軍に攻められるが、横山城を守備する木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の加勢により落城を免れる。
  • 天正二年 (1574) 堀氏が改易され廃城となる。

八尾城 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺山上町  map:http://yahoo.jp/CEbqQE

現 状:森林

区 分:山城

築城年 :南北朝期

築城者:小倉右京亮実房

城 主:小倉右京亮実房

遺 構:低土塁・基壇・自然の地形を利用した堀・区割

城 域:200m×100m

標 高:270m 永源寺そば、から比高差50m

目標地:東近江市永源寺支所・永源寺そば(滋賀県東近江市山上町123)

駐車場:路上駐車

訪城日:2105.11.14

 

お城の概要

小倉氏が伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に、応仁の乱の頃より山上城を主力に出城として山田城、八尾城等を構えていた。
小倉氏は、承暦年間(1077~80)に清和源氏満季流の小倉景実が小椋庄の愛知川を望む天然の要害に築いた小倉城を本拠として、以後、愛知、神崎、蒲生三郡の東部に勢力を伸長し、隣強の佐々木六角、蒲生の両氏と雄を競った一族である。
しかし、室町中期には三・四家に分流し、本家が蒲生郡佐久良庄に移り

小倉西家が神埼郡御園庄を支配し、山上城を本拠に和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等の支城を設け一族を配した。

愛知川本流と東側は渋川(藤切川)に接し西側と南側は最高270mの累々たる山岳ひ連なる天然の要害地に営まれた八尾城は、本城の『山上城の奥の支城』として、構築された。中世数百年の歴史の中で、大々的に戦闘が行われた史実は無く反永久的に城砦の遺構が残る。

 

歴 史

山田城主・小倉右京秀の詰城として築城。

 永禄年間(1558~69)に至ると小倉氏一族の間に内訌が起こり、山上の小倉西家は独立志向が強く、用水の権利などをめぐって小倉宗家と対立、時折小規模な武力衝突を繰り返していたが、

永禄6年(1563)には永源寺が蒲生の軍勢に力を貸したとして、西家の小倉右京太夫が同寺を攻撃し、翌7年3月23日堂塔が悉く焼き払われるなど緊張状態が続いた。

和南の合戦
また、同年 右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、怒った六角義治は佐久良城主である宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じた。 実隆は、直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて討伐に出るが、これに対し右京大夫は山田城・和南城・八尾城・相谷城ら支城の西家一門に応援を要請し、戦闘域は山上だけに留まらず宗家と西家全体の戦に発展した。宗家の実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、宗家方が敗北してしまった。 勢いづいた右京大夫は、奥津保(愛知郡、蒲生郡)の辺りを制圧し勢力を拡大するが、この事態に実隆の実家である蒲生(定秀)氏が介入し、兵を率いて西家の所領へ攻め入り、右京大夫らの西家を討伐した。 佐々木六角義賢・義弼親子によって攻められ、八尾城で小倉右京秀切腹。これにより内訌の沈静化には成功したものの小倉氏の力は大幅に衰退し、以後の小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在になっていった。小倉実房の妻・鍋と子の小倉甚五郎・小倉松寿は、尾張に落ち延びました

その後、鍋は織田信長の側室となり、子は織田信長の家臣となりました。小倉甚五郎のその後はよくわかりませんが・・・
松寿は本能寺の変の際に京におり、変を聞きつけて本能寺へ向かいました。そこで明智軍と戦って討死しました。

  • 永禄元年(1558)織田信長の八風峠越えの道先案内が縁で手を組む、これより佐々木六角との関係を断つ。
  • 永禄2年(1559)の信長上洛の帰路では美濃衆の襲撃を回避する為に、小倉領から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける八風峠越えを行ったが、実房その際に織田軍の水先案内を務めた。
  • 永禄3年(1560)六角のゆかりの寺院永源寺に放火
  • 永禄4年(1561)永安寺・興源寺・退蔵寺他永源寺はの寺院に放火
  • 永禄13年(1570)に起きた金ヶ崎の戦いでも千種越えに協力して織田軍の岐阜城帰還を助けたが、これが承禎の怒りを買い攻め滅ぼされた。

八尾城への林道

 

→星野溜

 

八尾城(遠景)・・・愛郷の森の道より

神埼郡御園庄を支配した小倉西家は山上城を本拠とした。小倉西家の小倉右近太夫、山田城主・小倉三河守良秀が支城として築いたのが相谷万灯山城。小倉右近太夫らが築いた支城には、和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等がある。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『神崎郡志』・『安土城郭研究所』・『永源寺町史』・『近江小倉城』

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境目の城~長比(たけくらべ)城 近江国(山東) 

2015年11月17日 | 戦国山城

 境目の城~長比(たけくらべ)城

  戦国時代の近江では江北を支配する京極氏・浅井氏と、江南を支配する六角氏が勢力争いを繰り広げており、現米原市域は両者の勢力圏の境界に位置していました。またその東側は美濃と国境を接しており、領国の境界でもありました。こうした境界警備を目的として築かれた城を「境目の城(さかいめのしろ)」と呼んでいます。米原市長久寺の長比城はそうした境目の城のひとつで、元亀元年(1570)、浅井長政が織田信長に敵対し、近江と美濃との国境付近に築いた城です。標高400mの野瀬山の山頂部にあり、土塁(どるい)や食い違い虎口(くいちがいこぐち)などの遺構を見ることができます。

 今回の講座では、濃尾国境に位置する長比城跡を、文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

 日時 平成27年11月15日(日) 10:20~16:30

 場所 講義:米原市柏原生涯学習センター(米原市柏原)講義・昼食

    講師 講題「戦国期の近江と美濃」 松下浩氏(滋賀県教育委員会文化財保護課)

現地見学:柏原宿歴史館・旧中山道柏原宿・長比城跡(米原市柏原・長久寺)・成菩提院

 現地探訪ガイド 桂田峰男氏(米原市柏原宿歴史館館長)

 行程・柏原宿歴史館(自由見学)→柏原宿本陣跡→八幡神社→長比城跡(※急峻な山登り)→成菩提院→JR柏原駅 全行程約4km 

柏原宿歴史館の近くに(箕浦館)

 

柏原宿本陣跡

八幡神社

長比城跡(※急峻な山登り)→

お城の概要

 長比城は、江濃国境(近江と美濃の国境)近くの中山道(現国道8号線)沿いにある標高(約390m)の山の山頂付近に築かれた山城である。

長久寺の神明神社鳥居をくぐり、神明神社と秋葉神社方面への分かれ道を秋葉神社側にに登る。神明神社方面から登ると、道なき急斜面を登ることになる。

 秋葉神社の北からは、5m程で左へ尾根道をのなるが、神社の横を30~40分ほども登ると虎口を設けた曲輪に出る。
曲輪は東西30m、南北20mほどで周囲を高さ1.5m~2mほどの分厚い土塁を廻らせ、東側に虎口を配し、食違い虎口としているのが印象的だ。

 食違い虎口を抜け、更に登ると山頂の主曲輪に出る。周囲は土塁で固められているが、南側、および北側の土塁は低くあまり明瞭ではない。
主曲輪の南側は山の斜度がきついために防御する必要性がなかったのか。北側の食違い虎口を抜けると北に延びる尾根へと続く。

歴 史

 長比城は須川山砦,大峰砦,干畳敷遺構(別名を田中の城)等と共に中山道沿いにあって、浅井氏の江濃国境(近江と美濃の国境)の防塞ラインの重要拠点として補強改築砦城である。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前・朝倉氏攻めの軍を起こすと、近江路を経て若狭・国吉城に逗留した後、越前に攻め込んだ。

 織田軍は4月25日には疋壇城手筒山城(天筒山城)を落とし、手筒山城とは峰続きの金ヶ崎城を攻める織田信長に「浅井長政離反」の報せがもたらされた。

 信長は朽木谷の朽木元綱の協力を得て、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。これが世にいわれる「金ヶ崎の退き口」である。

しかし、守将の堀秀村・樋口直房が信長の調略に乗り、戦うことなく呆気なく開城してしまった。

 美濃へ帰国して軍を立て直す信長に対し、浅井長政は江濃国境を固めるために中山道を押さえる長比城、および北国脇往還道を押さえる刈安尾城と上平寺城を改修した。

この時のことが、信長公記に

・・・たけくらべ・かりやす取出の事・・・・

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ侯。信長公御調略を以つて、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「たけくらべ」は長比城のことであり、「かりやす」とは刈安尾城、および上平寺城のことである。また、堀とは門根城城主で浅井氏の重臣・堀次郎のこと、また樋口とは堀氏の家老・樋口三郎兵衛直房のことである。

 嶋記録には姉川の戦いの中で、「さるほどに元亀元年春の頃、織田信長、浅井下野守久政、同備前守長政がことにおよびしかば、小谷(小谷城)より箕口おさえとして、野瀬、堀次郎、同家の子樋口三郎兵衛之丞を入れおきけるが、その頃堀若年なりしが、三郎兵衛の所存にて、たちまち心変わりし野瀬の要害へ信長勢を引き入れ、おのが居城鎌の刃(鎌刃城)へ引きしりぞきしかば、刈安をはじめ近辺の城々ことごとく、あけしりぞけり、されば、今井小坊師丸母は堀次郎が伯母なり云々」とある。

 なお、嶋記録に記述されている「箕口」とは美濃口、つまり関ヶ原に通じる今須口のことである。

成菩提院へ

皇帝ダリア満開

2015.11.15 (日)連続講座「近江の城郭」【境目の城~長比(たけくら)城】「戦国の近江」

 主催:滋賀県教育委員会 協力:米原市教育委員会      

 参加者:60名(事前申込制) 参加費 無料

 〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所

  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『日本城郭大系』・『信長公記』 

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