R307側・・・側溝か・堀か、土塁の痕跡がはっきりと!
お城のデータ
所在地:東近江市池尻 (旧愛知郡愛東町池之尻) map:http://yahoo.jp/2nZnwp
築城者:不明・・・六角氏の家臣?
築城期:
現 状:集落・竹藪
区 分:平城
遺 構:土塁
目標地:恵比寿池
駐 車:恵比寿池の駐車場http://yahoo.jp/z5SWWd
訪城日:2013.6.13
国道307沿いの聖地された隣の竹藪・・・堺には溝(水が溜まっていた)
土塁の痕跡か?
武藪の中にも、土塁らしきものが・・・!全く中へは入れず!
お城の概要
池之尻集落の南東隅に土塁の痕跡をのこされており、中世城郭遺構と考えられる。現在は池之尻館と称しているが、その歴史については不詳である。
なお、池之尻館より、出土したと伝えられる、十五世紀の「古戸菊花紋水壺」がある。(参考資料:愛東町誌2巻より)
池之尻城(竹藪)の遠望(国道307)
歴 史
近江愛智郡志には、池尻氏は、角井村池尻に住す。池尻平左衛門は織田信長に仕え後に伊勢に浪人す。又此村に堤氏在す。・・と記す。
池尻氏・・・梶川正治の嫡男正信は、梶川市郎右衛門と称し織田信秀に仕えた。正信の嫡男正繁は、梶川を嗣がず池尻の姓を名乗り、正繁の子正相もまた池尻を踏襲し池尻平左衛門を名乗っている。正信の母の箇所に姓名が書かれておらず、室の名も記載されていないことなどから何れかが池尻氏の娘で外姓を名乗ったとも推察されるが確証はない。平左衛門正相は織田信雄に仕え、信長の伊賀征伐の際には信雄から柘植城(福地城)を与えられている。
池尻平左衛門正相の嫡男正武は、系図からは正相の嗣子であるにもかかわらず「水野右馬助」を名乗り豊臣秀頼に仕えているが、正武の仔細については詳らかではない。 なお、梶川氏については何故か正信の二男が継ぎ代々子孫に継承されていった。
恵比寿池・・・この池の下に、池尻集落に「池尻城」が!
聖徳太子百済寺建立の際参籠され、御用の箸を池のほとりに挿して誓願されたところ、この箸から芽が出て大樹となったという伝えが残っており、この端気をよろこんで大貯水池を作り、当社を創祀したものといわれている。
本日も、訪問ありがとう御座いました!