城郭探訪

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西条城     近江国(安曇川)

2016年05月31日 | 居館

西条城

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町南船木   map:http://yahoo.jp/-cdeX5
現 状:公園(小学校跡)・宅地
区 分:居館
築城期:鎌倉期
築城者:佐々木長綱
城 主:佐々木氏・松下氏
遺 構:不明。
目標地:高島市安曇川世代交流センター
駐車場:高島市安曇川世代交流センター駐車場
訪城日:2016.5.22
お城の概要・歴史 
西条城は、安曇川河口の南部、南船木にある高島市安曇川世代交流センター(小学校跡)にある。
西条城の名は『高島郡志』以外には登場せず、その資料内容等考慮すると普門寺城と同一あったと考えられる。

『高島郡志』には、普門寺城について「正安元年(1298)船木城主佐々木長綱城内に一宇を建てゝ持念仏千手観音を安置す。此本寺の創始なり、地に船木城の出丸なり。伯綱の時姪能登守を船木城主とす。伯綱の子長伯西条城「三河に在り長綱以来両城主なり」に居りしが、没落して松下村に隠れ、後船木に移り普門寺城に居る。長享三年三月十七日兵乱の為め船木普門寺城両城とも炎上す。永正中能登守の助力を得て普門寺を再興す。」これは沢田氏郷の偽作とされている。

 西条城の土塁や堀などの遺構は残存していない、詳細不明。
松下氏は佐々木氏の分流で、元亀年間城とともに滅んだと伝えられている。
一方、西条城の名は『高島郡志』以外には登場せず、その資料内容等考慮すると普門寺城と同一あったと考えられる。
         
   
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布1、2(1984.3)(甲賀の城)8(1991.3)(高島郡の城)、遺跡ウォーカー
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普門寺城    近江国(安曇川)

2016年05月31日 | 平城

普門寺城

 

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町南船木(南舟木)  map:http://yahoo.jp/wJHpAc
現 状:寺地 西方寺(普門寺観音堂)
区 分:居館
築城期:鎌倉期
築城者:佐々木長綱
遺 構:不明。北に堀痕か(用水路)
目標地:西方寺
駐車場:船木事務所前に駐車・西方寺の駐車可
訪城日:2016.5.28 
お城の概要
 普門寺の名は、安曇川河口の南部、南船木にある西光寺内にある。普門寺観音堂と呼ばれているのが唯一である。
『高島郡志』には、普門寺城について「正安元年(1298)船木城主佐々木長綱城内に一宇を建てゝ持念仏千手観音を安置す。此本寺の創始なり、地に船木城の出丸なり。伯綱の時姪能登守を船木城主とす。伯綱の子長伯西条城「三河に在り長綱以来両城主なり」に居りしが、没落して松下村に隠れ、後船木に移り普門寺城に居る。長享三年三月十七日兵乱の為め船木普門寺城両城とも炎上す。永正中能登守の助力を得て普門寺を再興す。」これは沢田氏郷の偽作とされている。

 ただ、普門寺城は安曇川(南川)にかかる本庄橋の南にあり、城址には松下氏が住んでいたと言い伝えがあるが、普門寺観音堂がある西光寺に伝わる「松下氏氏寺普門寺萬要録」をみるとその中の宝永二年に書き写された絵図には、現在の本庄橋の南にあたる地域に、松下氏の一町四方ある普門寺が描かれており、城跡と思われる。
また、これとは別に、旧本庄小学校に隣接する東の地域に松下氏の館がありそこが普門寺城址」と言う話のある。
いずれにしても、普門寺城の土塁や堀などの遺構は残存していない、詳細不明。
松下氏は佐々木氏の分流で、元亀年間城とともに滅んだと伝えられている。
一方、西条城の名は『高島郡志』以外には登場せず、その資料内容等考慮すると普門寺城と同一あったと考えられる。
   
  
        
船木事務所前に駐車
参考資料:滋賀県中世城郭分布1・10・2(1984.3)(甲賀の城)8(1991.3)(高島の城) 、遺跡ウォーカー
  本日の訪問ありがとうございす!!

朝国館 近江国(甲西)

2016年05月31日 | 居館

 

朝国館

 

お城のデータ 

 

所在地:湖南市(旧:甲賀郡甲西町)朝国  map:http://yahoo.jp/MxQGgx
現 状:宅地・田畑 
 構:圃場整備で消失
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:伴氏
目標地:
駐車場:路上駐車場
訪城日:2014.9.13・2016.522

城の概要  

地籍図により方形居館と推測される地点があるが、現状は圃場整備によって水田となり遺構はない。

お城の歴史  

詳細不明。伴氏の居館

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査2(甲賀の城)、史跡ウォーカー

         本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


横田城 近江国(甲賀・甲西)

2016年05月31日 | 丘陵城

 

 

お城のデータ

所在地:湖南市(旧甲賀郡甲西町)朝国/三雲  map:http://yahoo.jp/U6FgC2

区 分:丘陵城

現 状:TOTO工場

築城期:室町期

築城者:横田氏

遺 構:工場地の整備で消滅か

目標地:TOTO滋賀工場

駐車場:TOTO滋賀工場駐車場

訪城日:2016.5.22

 

お城の概要

甲西町と水口町の堺に位置し、国道1号線の横田橋の東詰の北側の独立丘陵の山頂部に、横田城はあった。また、旧東海道の「横田の渡し」や東海道を監視できる処に位置する。

・・・が、現在は、工場に丘陵は大きく削平され、遺構は工場の西側の丘陵麓に一部残るが断定は出来ない。 

お城の歴史

 近江国甲賀郡横田より起こった。家譜によれば「佐々木三郎秀義の末孫 次郎兵衛尉義綱、浅井伊予守吉高に属し戦功により、横田川和泉村のほとりに、采地を受け、家号を横田に改む」とある。また、中興系図には「横田・宇多、紋、釘貫」と出ている。

 横田橋で、その横田橋から上流が横田川と呼ばれていた。横田橋については、寛正二年五月二十四日付室町幕府奉行人奉書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」と記され、酒人郷領主京都西芳寺が橋賃を徴収していた。横田氏の家紋が、御上神社の神紋と同様に釘抜紋であることから、三上氏との関係も推測できる。また横田城は三雲城に近く、三雲氏との関係も考えられる。

 三雲氏は、室町将軍による六角氏征伐である長享・延徳の乱で、六角氏の命令によって観音寺城の出城として三雲城を築いた。

 三雲氏は甲賀郡の名族伴氏の一族で、鎌倉期には佐々木秀義の五男隠岐佐々木義清の次男泰清が三雲(見雲)氏を名乗ったとも伝えられ(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、源氏を称することもある。長享・延徳の乱では甲賀に積極的に逃亡した高頼を甲賀二十一家が支えた。そのひとりが三雲新蔵人である。その跡は武蔵七党のひとつ児玉党出身の典膳実乃が継ぎ、さらに小山田上杉行定が典膳実乃の婿養子となり三雲氏を継いだ。これが三雲氏に児玉党の系譜と家紋を伝え、さらに小山田氏という系譜伝承も伝えている理由である。大永二年(1522)、三雲源内左衛門(行定)は幕府から唐物赤毛氈の鞍覆と白傘袋を使用することを許されており(「御内書案」)、管領・守護に准ずる待遇を得た。『勝山記』(妙法寺記)によれば永正十七年に行われた甲斐小山田弥太郎十三回忌法要で施主が藤原氏を称しており、甲斐の郡内小山田氏も上杉流であった可能性がある。戦国期末の越中守信有の代に秩父平氏を意識したのだろう。このように、三雲氏は関東と深い関係にあった。横田氏が関東に転出したのは、三雲氏の出自と関係があったのかもしれない。

 しかし甲賀衆に横田氏の名は見えない。『淡海温故録』には横田美作守秀長が記されているが、その系譜は知られていない。横田氏の中祖佐々木義綱の名に注目すれば、甲賀郡川田神社の由緒に、嘉禎二年(1236)佐々木義綱が社殿を再興したと記されていることを見つけられる。系譜は不明だが、鎌倉前期であることから、定綱の孫伊佐二郎左衛門尉義綱(七郎左衛門尉行綱の長子)の可能性がある。秀義から見れば曾孫であり、横田氏の系譜伝承と矛盾しない。また三上一族であれば、『群書類従』所収三上氏系図(巻百三十)で三上氏を清和源氏賀茂次郎義綱流としており、その系譜が佐々木氏系図に混入したとも考えられる。たしかに義綱の一族は弟義光の陰謀により甲賀山(義光領甲賀郡柏木御厨)で滅んでいる。しかし三上氏が賀茂次郎義綱の子孫とする系図は、宇多源氏行実(「源行真申詞記」)の長男井盛実(守真)を賀茂次郎義綱の子とするなど矛盾があり、同系図にとらわれる必要はないだろう。佐々木氏であることを重視すれば、甲賀郡川田神社の社殿を再興した伊佐二郎左衛門尉義綱の子孫である。

 この甲賀横田氏の出身と考えられる横田村詮は、三好康長の甥で従兄弟三好康俊に仕えた横田宗昭(日上人「己行記」元亀四年一月・二月)と同一人物とも考えられる。しかし、このことは村詮が近江甲賀郡出身であることを否定しない。近江守護六角氏の被官であると同時に細川氏の被官でもあった河田氏や、三好義継の家老である若江三人衆の筆頭多羅尾常陸介(右近)綱知のように、近江武士で細川氏や三好氏に仕えた者はいた。『古今消息集』に(年未詳)正月七日付甲賀諸侍中宛細川氏綱書状(使者三好筑前守[長慶])、望月修氏所蔵文書に(年未詳)八月十八日付村島殿(望月重元)宛細川氏綱書状が所収されているように、細川氏と甲賀衆の関係は深い。また佐治・和田・池田らが尾張に進出しているように、甲賀衆は近隣諸国に積極的に進出していた。行定の子三雲対馬守定持(新左衛門尉)は天文年間に、明の吏部尚書聞石塘から紅鞍龍を贈られているように日明貿易にかかわっており(蒲生郡志三巻および甲賀郡志下巻)、横田氏も三雲氏との関係で日明貿易にかかわり、やがて三好氏と関係を持ったと考えられる。

横田村詮(内膳)は、三好氏が没落すると、同じ甲賀出身の近世大名中村一氏(瀧孫平次)に迎えられた。羽柴秀吉の命により中村一氏が天正十三年(1585)、甲賀郡の支配の拠点として水口岡山城を築き、横田橋も中村氏の管理下に入った。横田村詮は中村一氏の妹婿となり、天正十八年(1590)中村一氏が駿府城主となると、駿府に同行している。関が原の戦いでは、中村一氏は村詮の意見を容れて駿府城下の村詮屋敷で徳川家康との会談を行い、東軍に加わることを決めた。戦後、徳川家康は中村一氏の嫡子一忠を十七万五千石伯耆米子城主に任じており、中村氏は国持大名になった。さらに家康は村詮に六千石を与えた上で、一忠の後見役とした。村詮は城下町を建設し、現在の米子市の発展の基礎を築いた。しかし慶長八年(1603)村詮を妬んだ一忠の側近によって殺害されてしまった。村詮の子主馬助や柳生宗章(五郎右衛門)らは飯山に立て籠もったが、一忠は出雲の領主堀尾吉晴・忠氏父子に助勢を求めて鎮圧した。徳川家康は自ら派遣した村詮の殺害に激怒し、中村氏は断絶となった。

 中村氏と横田氏の関係からも、甲賀郡に横田氏があったことは認めていいようである。そうであれば横田高松はどのような縁故で甲斐武田氏に赴いたのだろうか。ここで注目できるのが、三雲実乃が武蔵児玉党の出身であり、行定が小山田氏の出身であったことである。三雲氏と小山田氏の関係が、近江佐々木氏と甲斐武田氏を結んだと考えられる。

 こののち元亀・天正期に、六角義堯は甲斐武田氏と結び、さらに武田勝頼と上杉謙信に和を結ばせて織田信長包囲網を築いている。上杉氏では、六角氏旧臣の河田豊前守長親が執政を勤めていた。

横田氏の家伝に浅井氏が登場するのは、元亀の争乱で浅井長政・朝倉義景と武田信玄が結んだことを隠喩していよう。「浅井吉高」は六角義堯のまちがいかもしれない。これらのことが一気に結びついてくる。元亀四年三月十日に将軍足利義昭が織田信長に対して挙兵すると、信虎は義昭の命で甲賀に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図している(『細川家文書』)。やはり甲賀衆と甲斐武田氏は関係が深いようである。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査2(甲賀の城)、武家家伝横田氏(Wikipedia)、遺跡ウォーカー

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万木(ゆるぎ)城    近江国(安曇川)

2016年05月31日 | 居館

万木城

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町西万木   map:http://yahoo.jp/45pPUI
現 状:神社・宅地
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:佐々木惟綱
城 主:佐々木惟綱・能登守高城・中村五良左衛門
遺 構:城郭地名
目標地:旧国道161沿い日吉神社
駐車場:日吉神社の駐車場
訪城日:2016.5.28
お城の概要
 安曇川の旧国道161沿い「日吉神社」が史跡ウォーカーの比定地であるが、「日吉神社と旭砂稲荷社の間に鎮守の森」が残る。また、北東に堀(用水路)が流れる。
 万木は、現在安曇川町大字西万木と大字青柳(旧:東万木)にあたる。西万木には、中世城郭と関係する可能性の小字名「今城」「備後城」「殿馬場」などがあるが、地名以外に資料は無く詳細不明。また、東万木「現青柳」には、「城ノ腰」の地名が残る。
お城の歴史
 佐々木定綱の長男広綱、その子惟綱が万木に移り、万木氏を称し、その居館が万木城である。

なお、青柳(東万木)の徳正寺は『高島郡志』によれば、開基は、中村五良左衛門は、万木城主能登守高城の末裔で朽木氏仕え、天正の兵乱に本願寺蓮如に帰依し同寺を創建したいう。(滋賀県中世城郭分布調査8(高島の城)の解説)

.佐々木広綱~ (万木氏等)

広綱ー|ー惟綱ー|ー範綱ー|―範信
    |   |ー範定 |ー頼定
    |   |    |ー章綱
    |   |    |―彦三郎
    |   |―綱ーー惟定
    |   |ー惟景
    |ー為綱ー|ー為定ー|ー定義ーー|ー泰定
    |    |    |ー源三郎 |―頼直
    |    |    |ー義綱  |―泰広
    |    |ー清綱ー|ー頼清ーー|ー信実
    |    |    |     |ー信範
    |    |    |―秀清ーー|―秀貞高康ー定広清広ー定好
    |    |ー信成ー|―泰成ーー|―義尚
    |           |        |―朝氏
    |           |―信豪
    |           |―彦三郎
    |ー親綱ーー清定
    |―勢多伽丸
日吉神社 
            

旭砂稲荷社  

参考資料:滋賀県中世城郭分布10、2(甲賀の城)(1984.3)、8(高島の城)(1991.3)、高島郡志、遺跡ウォーカー
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「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」三成など豊臣政権の重鎮5人

2016年05月31日 | 古戦場

安土城考古博物館 所蔵品「特別陳列」

=「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」三成など豊臣政権の重鎮5人=

                          滋賀報知新聞■平成28年5月31日(火) 第17512号
天下分け目の関ヶ原の合戦の軍の配置を示す絵図

◇近江八幡
 県立安土城考古博物館の特別陳列「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」が開かれている。七月三日まで。
 秀吉の五奉行とは、豊臣政権で重要な政務を担当した武将「浅野長吉(長政)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以」のことで、五人は側近として活躍したが、秀吉の没後の関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍に分かれて戦った。
 特別陳列では、同館や琵琶湖博物館(休館中)が所蔵する「石田三成等水論裁許状(すいろんさいきょじょう)」や「増田長盛書状」、「徳川家康禁制」などの古文書のほか、三成の居城だった「佐和山城跡出土遺物」や「関ヶ原合戦図」などの貴重な史料十点余りを出展している。
 また、六月十一日午後一時半から博物館講座「石田三成と佐和山城」が同館セミナールームで開かれる。彦根市教委文化財担調査担当者から最新の佐和山城の調査成果を聞く。参加費二百円(資料代)。定員百四十人(当日受付、先着順)。
 近江出身(長浜市)の石田三成は、現在放映中のNHK大河ドラマ「真田丸」に登場し、秀吉の家臣として活躍、また秀吉の死後も五奉行の重鎮として手腕を発揮するようすが描かれたり、最近ではゲームソフトのキャラクターとしても登場し人気を集めている。
 同博物館では「大河ドラマを思い浮かべながら、三成をはじめ五奉行をより深く知っていただく機会になれば」と、来場を呼びかけている。


雪野山古墳周辺群・雪野山城・後藤氏館 2014.12.7

2016年05月30日 | 遺蹟

 

『雪野山古墳周辺群・後藤氏館』訪城日:2014.12.7

                                                  

雪野山城

             

雪野山城南面石垣    

                             

           

 後藤氏館 

               

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南殿は1489年に造営された蓮如の隠居所   山城国(山科)

2016年05月30日 | 居館

北側土塁、北東向き 京都・山科本願寺南殿跡

        京都新聞 2016.5.29

南殿跡で見つかった土塁の基底と堀の跡。土塁の裾には補強のために石が敷き詰められていた(京都市山科区音羽)

 本願寺中興の祖・8代蓮如が晩年を過ごした京都市山科区音羽伊勢宿町の「山科本願寺南殿跡」の発掘調査で、南殿の中心部を囲んだ土塁の北西角の基底と堀の跡が28日までに見つかった。

■京都市発掘 復元図、大幅書き換えか

 北西のコーナーが確認されたことにより、北側の土塁が北東向きに斜めに築かれていたことが分かり、南殿の復元図が大幅に書き換わる可能性が出てきた。

 南殿は1489年に造営された蓮如の隠居所。ほかの宗派との対立もあり、中心部を二重の土塁と堀で囲っていた。市の発表によると、見つかったのは内側の土塁で基底の幅は約5メートル。内郭の規模が東西100メートル、南北125メートルと分かった。土塁の裾には、補強のために石が敷き詰めてあり、山科本願寺ではみられない工法で作られていた。堀の幅は約8メートル。最初の堀を埋め立ててから造り直した跡がみられた。

 これまで北側の土塁は、今回の調査地点から東方向に延びていたとみられていたが、調査により、北東方向に角度を付けて造られたことが判明し、市文化財保護課は「内郭の土塁は周囲の道路と同じ角度で造られていた。今は手がかりのない外郭部分でも、同様の傾きとなっている現在の道路が、土塁と堀があった範囲である可能性が高い」とみている。


島津家家紋?キリシタン?謎の「十」刻印石    山城国(山科)

2016年05月30日 | 遺蹟

島津家家紋?キリシタン?謎の「十」刻印石、京都の石切場で発見

   京都新聞 2016.5.30

新たに見つかった「十」が印された大名刻印石(京都市山科区小山)

 伏見城や大坂城の石垣の石切場だったとされる京都市山科区の山中で、「十」の印が入った大名刻印石が29日までに見つかった。漢数字か島津家か、はたまたキリシタン大名を示すのか…。山科の地に新たに現れた刻印石はどんな意味を持つのか、採石場跡の謎はさらに深まっている。

 新たな刻印石は、市遺跡地図台帳に記載されている「大塚・小山石切丁場」がある同区小山の麓付近で地元住民らの研究グループが見つけた。こけむした大きな石の表面に縦棒約14センチ、横棒約10センチの「十」の印が刻まれ、石を割るための矢穴も入っていた。

 採石場は豊臣時代から徳川時代にわたって使われたとみられている。これまでに毛利家の「一に○」と、「平四つ目結」など15個の刻印石が見つかっている。

 「十」の意味は、研究グループの中でも議論が分かれており、漢数字で採石場の範囲を表した▽島津家の家紋で採石範囲を示した▽キリシタン大名の暗喩-などの意見が出ている。ただ、近くに毛利家の石切場があるため、同じ西国大名の島津十文字を示す可能性は高い。

 研究グループの武内良一さん(75)は「採石場から切り出して麓へ運ぶ途中で置いていかれた石ではないか。淀城などでも似た刻印石があり、伏見城から転用された流れがある程度分かってきた。まだまだ多くの石があると思うのでほかの人も見つけて報告してほしい」と言う。

 採石場に詳しい芦屋市教育委員会の森岡秀人さんは「初めて『十』の刻印が出てきたのは重要だ。漢数字の可能性は低く、家紋のほかにはキリシタンの印や『×』なども考えられる。今後の調査に期待したい」と話している。

「十」の刻印石が見つかった現場「十」の刻印石が見つかった現場

旧彦根藩足軽組屋敷「瀧谷(たきがい)家住宅」 近江国(彦根)

2016年05月30日 | 居館

足軽の生活に興味津々 滋賀、旧彦根藩足軽組屋敷を一般公開

      京都新聞 2016.5.30

一般公開に合わせて展示された、瀧谷家に伝わる火縄銃の弾丸や弾造りの道具、射撃訓練の記録簿など(彦根市栄町1丁目・瀧谷家住宅)

 旧彦根藩足軽組屋敷「瀧谷(たきがい)家住宅」(滋賀県彦根市栄町1丁目)の一般公開が29日行われ、江戸末期に建てられた由緒ある建物の内部や、同家に伝わる工芸品、文書などの貴重な資料を来場者が見学した。

 2013年から毎年5月と10月の年2回、「まちかど資料館」として公開。今回は28日に続き実施された。

 瀧谷家住宅は旧彦根藩足軽組のうち中藪組の屋敷の一軒で、1855(安政2)年築。主屋は接客用と日常用に間取りが分けられ、座敷から庭園を望めるなど足軽屋敷の典型的な造りで、当時の姿を現在も良好にとどめ、市指定文化財となっている。

 住宅公開に伴い同家の所蔵品約100点も展示された。火縄銃の弾丸、射撃訓練用の的、胴具足などの武具や、鳥羽伏見の戦いなどの回顧録もあり、足軽としていくさに備え、実際に従軍もしたことがよく分かる。

 足袋や煙草(たばこ)入れなど旅道具も多数並んだ。中には、参勤交代の折に土産で買ったとみられる歌川広重の錦絵「冨士三十六景」も複数あり、来場者の関心を集めていた。


中ノ谷(馬かけ場)の遺構   近江国(マキノ)

2016年05月30日 | 陣城

中ノ谷(馬かけ場)遺構の縄張図=『近江の山城 ベスト50を歩く』(2015.1.18のレジュメより)

田屋城縄張り図=『近江の山城 ベスト50を歩く』・・・中ノ谷城(馬かけの縄張図)(2015.1.18のレジュメより)

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)マキノ町辻  map:http://yahoo.jp/7lm22w

現 状:山林(山頂)

区 分:陣城砦

築城期:織豊期

修築者:丹羽長秀

遺 構:山麓屋形・曲郭・土塁・堀切・虎口 

標 高:240m  下城口~比高差:100m

目標地:極楽寺・大虎神社

駐車場:極楽寺・大虎神社付近に駐車

訪城日:2016.5.28

 滋賀県中世城郭分布調査8(高島の城)より

お城の概要

 浅井亮政の娘婿田屋氏の「馬かけ場」と伝えられる遺構は、森西集落より北西の山尾根上にあるが、田屋城より集落に近い場所に位置し、『滋賀県中世城郭分布調査1(1983.3)の地図番号50マキノ町』には、位置も森西集落の隣の辻集落の山中の「馬かけ場」で、名称も田屋城を田尾城と誤記。

 「馬かけ場」の北端にあたるが、そこから北側が急斜面で、馬かけ場と呼称する尾根そのものが独立丘・独立山地である。周壕で形成された変形の円状の小台地が二ヶ所、ほぼ方形の小台地が一ヶ所との周辺に平削が認められる。・・・既存の古墳を利用した城郭砦と考えられる。

「馬かけ場と伝えられる平坦地」の部分は、呼称のように山上での平凡な平坦地である。・・・が、堀切・そして土塁には見事な横矢折れも見られ、虎口・長方形を意図した土塁囲みの郭での東側面の出来ばえ等からは、既に築城に際して石垣・石積みを体験していたか?・・・偲ばせるものがある。

お城の歴史

天正11年賤ヶ岳の合戦時の陣城砦の構築を想起させ、又彷彿させられる。賤ヶ岳の合戦時に羽柴秀吉方の丹羽長秀が田屋城を修復して入城の口伝が残るが、それが此処か・・・を思わせる。

しかし、その構築の意図も周壕を持つ円形台地(古墳)に、大いに制約された。或いは大いに利用したか・・・?

田屋氏の馬かけ場は、田屋城の別廓でなく、「馬かけ場を利用した城郭砦]であろう。


田屋城 近江国(マキノ)より続き・・・

 

「馬かけ場」へ林道を東へ下り・・・堀底道を馬かけ城へ       林道から「馬かけ場遺構」へ 

すぐ堀切(不明瞭だが) 

東側土塁  

                                              

辻集落へ下城したが、

下山・・・山麓屋形遺構か?

      

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・8(高島の城)、『近江の山城ベスト50を歩く』、

 本日の訪問ありがとうございす!!


田屋城   近江国(マキノ)

2016年05月29日 | 山城

 

縄張り図=『近江の山城 ベスト50を歩く』・・・中ノ谷城(馬かけの縄張図)(2015.1.18のレジュメより)

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)マキノ町森西  map:http://yahoo.jp/9Ypr7R

目標地:極楽寺

区 分:山城

標 高:310m  登城口~比高差:205m

現 状:山林

遺 構:山麓屋形・曲郭・土塁・堀切・竪堀・説明碑 

築城期:織豊期

築城者:饗庭命鶴丸が築城。

城 主:応永年間に清原蓮廉・応永年間に田屋淡路守
訪城日:2015.10.18・2016.5.28

5月28日工程

 1 新発見山麓居館墓石 暫時見学 図面有

 2 田屋城本城    見学   図面有

 3 田屋城搦め手   暫時見学 図面無
 4 馬かけ場城     暫時見学 図面無
 5 馬かけ場城     見学   図面有
 6 森西城土塁残骸  暫時見学 図面無
 7 馬掛かけ城 堀切で 祈念撮影 

お城の概要

 田屋城は、琵琶湖の北岸高島市マキノ町森西地区の背後の丘陵通称城山(標高:310m)に築かれた山城。

 田屋城は少し変わった山城で、ほぼ同じ高さで土塁囲みの曲輪が五つある。主郭はこの中で一段小高くなった北奥にあり、「奥ノ丸」と呼ばれている。土塁囲みで南北に長い長方形の曲輪であるが、南側に内桝形状の虎口を設けている。北背後は大堀切で、東側面の部分は連続竪堀になっている。さらに北尾根には食い違いになった竪堀が両サイドに落ちている。

主郭の南下は少し低い谷間でここに二の曲郭がある。この曲輪も土塁囲みであるが、東の土塁は先の主郭の桝形へ繋がる土橋のようになっている。

二の曲郭の南に東西二つの土塁囲みの曲輪が並んでおり、西曲輪の南端から南へ伸びる尾根には二条の堀切とそれに付随する竪堀によって遮断している。東曲輪とその北東にある曲輪との間が通路となっており、その入口に桝形状の虎口がある。この虎口は西側から竪堀と土塁で防御した横矢が掛かり、北の曲輪からも土塁越しに横矢が掛かるなどなかなか堅固で、側面には竪堀が設けられて山腹の移動を防いでいる。

お城の歴史:・・・『田屋城跡を歩く』高島歴史探訪ガイドブックより

観応3年(1352)頃、足利尊氏の持童(側近)、饗庭命鶴丸(あいばみょうつるまる)が築城したと伝えられる。『海津之城私考応永年間(1394~1428)清原蓮兼(はすかね)が城主と伝えられている。

永正年間(1504~1521) 田屋淡路守が領主と伝えられる『長法寺伝』 天文7年(1538) 六角定頼のもと、高島七頭らが、海津方面を攻略。このとき浅井方で挙兵した田屋氏は、「山城へ引退」したとされる『鹿苑目録』

元亀年間(1570~1573)浅井・朝倉氏の高島における戦略的拠点として、田屋城は大規模な改造が加えられたとされる。

天正年間(1573~1592)田屋山城守由頼朝臣(よしよりあそん)が城主される。天正の頃、織田信澄(信長の甥)が廃城したとされる。『海津之城私考』 

天正10年(1582) 対柴田勝家の賤ヶ岳合戦に備え、羽柴秀吉の命を受けた丹羽長秀が城の改修を行ったとされる。

天正18年(1590)以降 一説でが、豊臣政権が実施した兵農分離政策の結果として、地侍の長としての「田屋氏」は消滅したと伝えられる。

JRマキノ駅で研修バスの乗り込む。

田屋城登城口へ

獣害ヘンスを入って、すぐ右手に 進む。

・新発見山麓居館か?安楽寺跡か?】・・・・五輪塔(墓石か?)

・森安の極楽寺の薬師堂本尊は、森西山中にあった安楽寺の本尊とも伝わる。

    コアジサイが満開      

敷割りの角に五輪塔が 基壇・土塁も

城山頂部の田屋城へ s     桝形登城路登城路の中間(休憩ベンチがある)

登城路(堀底道を200m登る)        大手口『重桝形虎口』

両側から横矢  

『伝口の丸』(三の曲廓) 公園化され、東屋や桜等植樹され、田屋城のビューポイント『琵琶湖・竹生島や対岸賤ヶ岳』を望む。

『伝口の丸』(三の曲廓)はススキや雑草で遺構は把握出来ず、竪掘り

 

東屋で昼食

 

北曲廓へ         

二の曲廓へ        

主郭の南西の竪堀 

主郭虎口へ   主郭(奥ノ丸)  内桝形虎口

    

主郭の東の箱堀(大竪堀)

 

主郭の北の土橋を持った堀切・・東側四条の連続竪堀。   

西側は連蔵竪堀 土橋   

土橋を超えると捨て曲廓登城記念!

更に進むと「駒返し」  

更に堀底道を進む     

搦手に至る 

 

この後、中ノ谷(馬かけ場)の遺構

参考資料:『田屋城跡を歩く』高島歴史探訪ガイドブック、『近江の山城ベスト50を歩く』、城郭フォーラムレジュメ、講師の説明、滋賀県中世城郭分布調査8(高島のしろ)

本日の訪問ありがとうございす!!・・・この後、中ノ谷(馬かけ場)の遺構をご期待を!


新野砦 近江国(日野)

2016年05月26日 | 

新野砦

お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町石原  map:http://yahoo.jp/vhBbiD
現 状:山林(丘陵)
区 分:砦
築城期:鎌倉期
築城者:蒲生氏郷
遺 構:土塁・廓・敷割・切岸(東側)
標 高:160m   比高差:10m
目標地:石原集落の墓地
駐車場:墓地の駐車場を利用
訪城日:2016.5.23
お城の概要
 蒲生氏郷が築いたもので、前面に城川が流れる。礎石はすべて正崇寺に運ばれたとされる。
蒲生氏の支流小谷氏の居城で、「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。が、小谷城から、わずか600m程北の丘陵に築かれ、今も、土塁・廓・敷割りもはっきり確認出来る。
お城の歴史 

「江州佐々木南北諸士帳」に、小谷住 蒲生末 小谷次郎三郎の名が見える。蒲生氏の支流小谷氏の居城で、「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。 南北朝時代、蒲生氏が南朝に味方したとき、高師泰に攻められて落城している。

また、正崇寺(日野町大窪)は、蓮如上人のご旧跡で、上人が比叡山から追われることになった時、金ヶ森・道西坊の案内で日野の里に隠れ住まわれました。「正崇寺」の寺号も蓮如上人からいただき、上人直筆の額が残されています。数々のご宝物も。

近江日野は、蒲生氏の日野城城下町・近江商人ゆかりの地。

 

           獣害ヘンスにつかまり、川を背に回り込む。
獣害ヘンスの東側遺構へ 
                          
駐車位置(墓地駐車場)からの遠景
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・4 、遺跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』、『蒲生旧址考』
  本日の訪問ありがとうございす!!