城郭探訪

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井元城 近江国(愛東)

2014年01月30日 | 丘陵城

 

井元城跡縄張図 (滋賀県文化財学習シートより)

 井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻め。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高い。

発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

 井元城と仮称されるこの城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられる。
なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城。

井元城跡縄張図

愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭です。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出されています。
 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分です。虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているのです。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したものです。そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えられます。

重ね馬出の土塁と空堀

 そうしたことを踏まえて考えると、井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻めがあります。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高いのではないでしょうか。発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

参考資料;淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、東近江市文化財専門委員の説明

本日も訪問、ありがとうございました。


鯰江城 近江国(愛東)

2014年01月30日 | 平城

鯰江バス停の石碑・説明板

鯰江町自治会館の地割図・説明板

お城のデータ

所在地:東近江市鯰江町 map:http://yahoo.jp/nsrKCn

区 分:平城

現 状:集落・宅地                                                                     築城期:織豊期
初城主:佐々木右衛門督義弼

遺 構:土塁、石垣、墓碑
城 域:400m×250m
訪城日:2014.1.26

戦 い :元亀の乱・・・終焉  元亀4年(1573)  ○織田信長VS六角義治

お城の概要

  鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。
元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。

 城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。

お城の歴史
 鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。

『淡海国木間攫』には、「愛知郡 鯰江森村 往古此里ニ森備前守・森又太郎在城之由、古城跡等残リアリ、領主タリシト云。」と記す。

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 鯰江城主 佐々木箕作義賢男 佐々木右衛門督義弼の名が見える。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した

\\\\\\\信長公記 巻六 元亀四年 15、小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事\\\\ 

 8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

  久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。

  翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

  小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。

こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。

 

 \\\\\\\信長公記 三巻  遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事\\\\\\\\

  5月19日、浅井長政は鯰江城(東近江市・愛東鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(旧永源寺町)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(旧永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 \\\\\\\信長公記 巻六  復讐  杉谷善住坊成敗の事\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

  杉谷善住坊という鉄砲の名手がいた。先年(元亀元年1570年)、信長公が千草峠を通行した際、六角承禎に依頼されて信長公をわずかに十二、三間の距離から鉄砲二玉で狙撃した者である。このときは天運あって玉は信長公の身を少しかすめただけで終わり、信長公は虎口を逃れて無事岐阜へ帰り着くことができた。
 その後善住坊は鯰江香竹を頼って高島に隠居していたが、このほど磯野員昌に捕らえられて9月10日岐阜へ護送されてきた。

   岐阜では菅谷長頼と祝弥三郎が奉行となって厳しい詮議をおこない、善住坊から千草山中での一件を余さず尋ね出した。これにより善住坊は路傍に立て埋めにされ、通行人に首を鋸で引かれる鋸引きの刑に処された。

  信長公は復讐を果たし、年来の憤りを鎮めた。上下の満足はこれに過ぎたるものはなかった

 \\\\\\\\\\\\\\\『信長公記』巻六-五、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事\\\\

 守山を出た信長公は百済寺(近江・愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(近江・愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった。そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった。信長公はその時に備え、大船を建造して五千・三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた。

\\\\『信長公記』巻六-五、百済寺伽藍御放火の事\\\\\

◆元亀4年(天正元年、1573)
「是より直に百済寺へ御出で、二三日逗留これあり。鯰江の城に佐々木右衛門督盾籠らる。攻衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮、仰付けられ、四方より取詰め付城させられ候近年鯰江の城百済寺より持続け、一揆同意たるの由聞食し及ばれ、四月十一日、百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉く灰燼となる。哀れなる様目も当てられず。其日岐阜に至って御馬納れられ候き。公儀右の御憤を休められず、終に天下御敵たるの上、定て湖境として相塞がるべし。其時のために大船を拵え、五千も三千も一度に推付け越さるべきの由候て―」

 

 

 専修寺境内土塁

http://yahoo.jp/qQmiPp

 

発掘調査から

【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

愛知川よりの物見櫓http://yahoo.jp/lUsrjv

大手門の土塁http://yahoo.jp/EBmDKL

大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

大手口横にあり、虎口を形成していた東側土塁。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

鯰江町の専修院(浄土宗)の山門と本堂

(豪士鯰江氏の五輪塔と森氏の墓石?

  鯰江城は、愛知川右岸の河岸段丘上に築かれた城です。この城は土豪鯰江氏の居城として知られていますが、それ以前は在地の土豪森氏が築いた居館であったと伝えられています。佐々木六角氏が信長の近江侵攻に対抗するために城は改修され、永禄11年(1568)には六角義賢、義治父子が入城し信長軍に抵抗しますが、天正元年(1573)9月落城しました。この鯰江城攻めのために築かれた陣城の一つが井元城跡と考えられています。
 城域は、現在の集落と重なっているため遺構の大部分は失われ、わずかに土塁の一部をみるだけです

集落の北端に残る土塁の痕跡

 『近江愛知郡志』掲載の図によると、東・西・北の三方を堀で、南を愛知川の段丘崖で囲まれた約半町域に「本丸」があり、その北西に変形六角形の土塁と堀に囲まれた「御殿屋敷」が、さらにその西に区画された「土屋敷」と記された曲輪群が、そして西端には三箇所の「遠見櫓」が描かれています。

 『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」

 『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類き所とす。

 

 これまで実施された発掘調査で、石組み暗渠排水遺構、堀跡・土塁の一部や門跡と考えられる石垣や礎石等が見つかっています(一部が用水場施設に復元されています)。城跡中心部=現在の鯰江集落中心部となっていることから、城郭遺構の大部分は未だに謎となっています。

用水場に復元されている鯰江城の石垣

 これらの他にも、旧愛東町から旧永源寺町にかけての愛知川右岸段丘上には中世城館跡が数多く残されています。

参考資料:信長公記、淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

本日も訪問、ありがとうございました。


六角氏最後の戦い~「鯰江城跡・井元城跡」現地見学会 近江国(愛東)

2014年01月28日 | 歴史講座・フォーラム

連続講座「近江の城郭」 第3回 六角氏最後の戦い~鯰江城跡・井元城跡

 鯰江城は愛知川右岸の河岸段丘を利用して築かれた城で、六角承禎・義治父子が信長によって観音寺城を追われた後、元亀争乱の頃に地元の土豪鯰江氏を頼ってここに籠もりました。天正元年4月、織田信長は佐久間信盛らに命じて鯰江城を包囲し、同年9月籠城していた六角義治は降伏して城を出ました。織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀争乱はここに終わりを告げます。この鯰江城の約1km東にあるのが井元城です。織田軍が鯰江城を包囲するために築いた付城で、城の入り口部分に馬出しと呼ばれる空間を二重に設けた「重ね馬出し」という珍しい構造を持つことで知られています。

 今回の講座では、現地に残された鯰江城跡・井元城跡の遺構を、地元東近江市の文化財専門職員の案内

日時 平成26年1月26日(日) 10:30~14:15

     ○鯰江町自治会館集合(東近江市鯰江町1296 ちょこっとバス鯰江下車徒歩5分)

       ※鯰江町自治会館の地図はこちら

○滋賀県平和祈念館解散(東近江市下中野町431 ちょこっとバス愛東支所・診療所前下車すぐ)

※平和祈念館は解散後自由見学(入館無料)

※ちょこっとバス愛東線北回り 愛東支所・診療所前14:59発→近江鉄道八日市駅15:22着

       ※ちょこっとバス愛東線の時刻表はこちら

場所 講義:鯰江町自治会館

現地見学:鯰江城跡・井元城跡(東近江市鯰江町・妹町)

行程 鯰江町自治会館(講義→昼食)→鯰江城跡→井元城跡→滋賀県平和祈念館 約4km(平坦道)

主催 滋賀県教育委員会

協力 東近江市教育委員会 東近江市鯰江町自治会

講師 講義「元亀争乱の終焉」 松下浩(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課)
    現地探訪 東近江市教育委員会文化財専門職員

定員 60名(事前申込制) 参加費 150円(保険料等実費分)

講座 

 鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。

 元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。

 城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。

 

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 鯰江城主 佐々木箕作義賢男 佐々木右衛門督義弼の名が見える。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した

\\\\\\\信長公記 巻六 元亀四年 15、小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事\\\\ 

 8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

  久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。

  翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

  小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。

こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。

-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで

歴史
 鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。

発掘調査から

【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる・2001年5月8日追記】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

 

 

 

 

鯰江バス停の石碑・説明板

鯰江町自治会館の地割図・説明板

所在地:東近江市鯰江町http://yahoo.jp/nsrKCn                                                                     築城期:室町後期
初城主:土豪 鯰江氏

改築期:織豊期

改築者:佐々木右衛門督義弼

区 分:平城

現状:集落・宅地
遺 構:土塁・石垣
城 域:400m×250m
戦 い :元亀の乱・・・終焉
 元亀4年(1573) ◎織田信長VS ●六角義治

  

 

専修寺境内土塁

http://yahoo.jp/qQmiPp

 

愛知川よりの物見櫓http://yahoo.jp/lUsrjv

大手門の土塁http://yahoo.jp/EBmDKL

大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

大手口横にあり、虎口を形成していた東側土塁。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

鯰江氏の墓石・五綸の塔

井元城

井元城跡縄張図(滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/zdVPWR

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

お城の概要

 愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭です。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出されています。
 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分です。虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているのです。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したものです。そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えられます。

重ね馬出の土塁と空堀

 そうしたことを踏まえて考えると、井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻めがあります。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高いのではないでしょうか。発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

\\\\\\\信長公記 巻六 元亀四年 15、小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事\\\\ 

  8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

   久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。 翌日公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

  小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。 

 \\\\\\\信長公記 三巻  遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事\\\\\\\\

   5月19日、浅井長政は鯰江城(東近江市・愛東鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(旧永源寺町)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだこれにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(旧永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 

 \\\\\\\信長公記 巻六  復讐  杉谷善住坊成敗の事\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

  杉谷善住坊という鉄砲の名手がいた。先年(元亀元年1570年)、信長公が千草峠を通行した際、六角承禎に依頼されて信長公をわずかに十二、三間の距離から鉄砲二玉で狙撃した者である。このときは天運あって玉は信長公の身を少しかすめただけで終わり、信長公は虎口を逃れて無事岐阜へ帰り着くことができた。
 その後善住坊は鯰江香竹を頼って高島に隠居していたが、このほど磯野員昌に捕らえられて9月10日岐阜へ護送されてきた。

   岐阜では菅谷長頼と祝弥三郎が奉行となって厳しい詮議をおこない、善住坊から千草山中での一件を余さず尋ね出した。これにより善住坊は路傍に立て埋めにされ、通行人に首を鋸で引かれる鋸引きの刑に処された。

 

  信長公は復讐を果たし、年来の憤りを鎮めた。上下の満足はこれに過ぎたるものはなかった

 \\\\\\\\\\\\\\\『信長公記』巻六-五、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事\\\\

  守山を出た信長公は百済寺(近江・愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(近江・愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった。そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった。信長公はその時に備え、大船を建造して五千・三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた。

\\\\『信長公記』巻六-五、百済寺伽藍御放火の事\\\\\

◆元亀4年(天正元年、1573)
「是より直に百済寺へ御出で、二三日逗留これあり。江の城に佐々木右衛門督盾籠らる。攻衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮、仰付けられ、四方より取詰め付城させられ候近年鯰江の城百済寺より持続け、一揆同意たるの由聞食し及ばれ、四月十一日、百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉く灰燼となる。哀れなる様目も当てられず。其日岐阜に至って御馬納れられ候き。公儀右の御憤を休められず、終に天下御敵たるの上、定て湖境として相塞がるべし。其時のために大船を拵え、五千も三千も一度に推付け越さるべきの由候て―」

 

参考資料:信長公記、愛東の歴史ダイジェスト版、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

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2014年01月26日 | 番外編

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秀次居館 近江国(近江八幡)

2014年01月25日 | 館跡

秀次居館

八幡山城の特徴として山城部分とは別に築かれた南山麓の居館部分である。谷地形の中央部分、標高約130mの地点より雛壇状に曲輪が配されており、最上部に位置するのが秀次居館跡で、巨大な内枡形の食い違い虎口があり、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えている。秀次居館跡の石垣も隅部分は算木積みで積まれており、直接的に傾斜する。この部分の築石は部分的ではあるが、鏡石積みで八幡山城の石垣石材の中で、非常に大きな石が使われており、権威の象徴的に使用されている。居館曲輪の平坦地は、東西300m×南北100m余りの大平坦地となっており、山斜面を切り土と盛り土から造成されていることが発掘調査から判明した。下部の家臣屋敷曲輪は誰が居を構えていたかは史料が残っていないため判明しておらず、また近世の改変をうけている部分もある。居館曲輪には大型の礎石建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝、建物に葺かれていた金箔瓦が出土しており、柱間が約2mになるもので、ここには書院造の御殿が建っていたと推定されている。また居館には一直線にのびる大手道があり、安土城の2倍に達する約270mの距離がある。

山城部分と居館部分は共に、総石垣作り、礎石立ち建物、瓦葺き建物など近世的な構造を持っている。しかし縄張り構造や石垣技法から山城の方がやや新しいとの指摘がある。『図説近畿中世城郭事典』によると「「雉城」状の突出部や矢穴石垣は、天正期の他の織豊系城郭に見られず、文禄・慶長の役の倭城やその後の国内城郭に多く見られる手法である。このことから山城部分は京極段階に改修された可能性が考えられる」としており、山城部分は倭城城郭の特徴と類似点があり、京極高次の改修が考えられるとしている。

八幡山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
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八幡山城
(滋賀県)
本丸櫓の石垣
本丸櫓の石垣
別名 八幡城、近江八幡城
城郭構造 放射状式連郭山城と居館
天守構造 不明(天守台あり:現存せず)
築城主 豊臣秀吉、豊臣秀次
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 京極高次
主な城主 羽柴秀次、京極高次
廃城年 1595年(文禄4年)
遺構 曲輪、石垣、空堀、犬走り、居館、
指定文化財 なし
再建造物 なし
マップ http://yahoo.jp/w_vggH

八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した山城。羽柴秀次の居城として知られる。別名近江八幡城とも呼ばれている。

概要

近江八幡駅より北西へ約2.5kmにある、独立丘鶴翼山、通称八幡山(標高283m、比高100m)の南半分山上に築城された。急峻な山城である。現在の八幡山は独立丘となっているが、築城当時は東西に内湖があり、南の平野部に城下町を配した構造は、安土城と類似した占地に築城している。城下町は安土城下町を移住させて形成された。かつての城下町の一部は日牟禮八幡宮境内地、八幡堀とともに近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。八幡堀は琵琶湖の水を引いて作られた堀で戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。1970年代には埋め立てて公園と駐車場にする計画が立てられたが「よみがえる近江八幡の会」「八幡堀を守る会」などの住民運動によって蘇り、時代劇の撮影に使われるなど名所の一つとなっている。

沿革

豊臣秀次像/瑞泉寺蔵

1582年(天正10年)の本能寺の変により灰燼に帰した安土城は、山崎の戦いの後の清洲会議によって織田秀信を城主に、織田信雄を後見人として再興することとなった。しかし翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。

軒丸瓦(八幡山城出土遺物)/近江八幡市立図書館所蔵

豊臣秀吉は安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。しかし、八幡山は安土山と違い険しい山で、山の斜面を十分活用できず麓の居館が城の中心となった。(ここから多数の桐紋の金箔瓦が出土している。金箔瓦には安土城、大坂城とよく似た形状の巴紋瓦もある。)

豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。

豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清洲城へ移封。代わって京極高次が2万8千石で入城したが、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹、聚楽第と同時期に八幡山城が廃城となると京極高次は大津城へ移った。築城から10年で廃城となった。

本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転されている。

城郭

八幡山城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

城跡は大きく分けて2つから成り立っている。一つは山頂部の山城と、2本の尾根に挟まれた谷筋の空間に居館を配置する。このように防衛空間としての山城部分と、居住空間の居館を分離する構造は、戦国期の城郭に数多く見られるが、近世城郭では珍しく、時代に逆行した二次元分離形態をとっている。これは築城時が小牧・長久手の戦いの翌年で、しかも徳川家康との講和以前の段階となっており、東国に対して臨戦態勢の緊張下にあり、防衛線として八幡山城が機能したことに起因する。

1967年(昭和42年)に山頂の本丸から山麓の居館部分に集中豪雨によって大規模な土砂崩れが発生している。近江八幡市では土砂工事に対応し 史跡指定も視野にいれた遺構の残存状態の確認のため発掘調査が行われている。

山城

枡形虎口の例

山城部分は総石垣作りで、本丸、二の丸、北の丸、西の丸、出丸がY字形に延びる放射状に配置され、それぞれに高石垣で構築されている。1963年(昭和38年)に京都より移築された瑞龍寺の門が八幡山城の本丸虎口となっている。また瑞龍寺の移築に伴い事前の発掘調査が行われ、建物礎石、鬼板、軒丸瓦などの多くの遺物が検出された。また礎石の中には五輪塔や宝篋印塔、層塔などの流用礎石を用いたものがあり、石垣の中にも含まれていることから、短期間で築城を目指したと考えられている。

埋門の例(松山城)

本丸と西の丸に接する西北隅に、15m四方の天守台があり天守がそびえていたと推定されている。本丸の西側の2ヵ所は1953年(昭和28年)の台風13号の影響で石垣が崩壊してしまい、現在はコンクリートで固められている。この部分は西の丸方向に埋門があり、通称「弁慶橋」といわれている埋門の上をかかる櫓の土台石があったと言われているが、これらも崩壊し全く跡をとどめていない。

本丸の虎口は、方形の空間を設け右に折れ内枡形となっている。本丸虎口より90度曲がり、そこから下り二ノ丸に至り、さらに90度に曲がると二ノ丸と平虎口に到っている。この平虎口から本丸に向う導線には、横矢がかかる仕掛けとなっており、鉄砲や弓矢が撃てるようになり防御性を高めている。二の丸には八幡山ロープウェーの八幡城址駅があり、展望館も建設されている。

各曲輪の石垣の隅部分は算木積みになっており、加工された石材が使われている。隅部分の石垣以外は粗割石か自然石が積まれており、本丸の石垣は比較的大きめの石材を使用している。石垣の傾斜も直線的で積まれ反りが見られない。本丸を取り巻くように帯曲輪があり、これは本丸を通らず各曲輪を往来できるバイパスの機能を兼ねている。西の丸、北の丸の地表面には建物礎石跡が露出しており、この曲輪にもなんらかの建物が建っていたと思われている。山城の大手は不明だが、二の丸にあるロープウェー八幡城址駅付近の石垣が大きく崩れており、この付近に存在していた可能性が指摘されている。

この城の石垣は『岩倉石工文章』によると、南方約4kmの地にある岩倉山より石材を運んだという記載がある。

本丸への虎口跡
本丸西側の石垣
二の丸下の算木積み石垣
西の丸下の石垣
瑞龍寺の中庭(本丸跡)
北の丸跡
ニの丸から城下町方向の眺望
西の丸から琵琶湖方向の眺望
近江八幡惣絵図/近江八幡市立資料館蔵

秀次居館

八幡山城の特徴として山城部分とは別に築かれた南山麓の居館部分である。谷地形の中央部分、標高約130mの地点より雛壇状に曲輪が配されており、最上部に位置するのが秀次居館跡で、巨大な内枡形の食い違い虎口があり、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えている。秀次居館跡の石垣も隅部分は算木積みで積まれており、直接的に傾斜する。この部分の築石は部分的ではあるが、鏡石積みで八幡山城の石垣石材の中で、非常に大きな石が使われており、権威の象徴的に使用されている。居館曲輪の平坦地は、東西300m×南北100m余りの大平坦地となっており、山斜面を切り土と盛り土から造成されていることが発掘調査から判明した。下部の家臣屋敷曲輪は誰が居を構えていたかは史料が残っていないため判明しておらず、また近世の改変をうけている部分もある。居館曲輪には大型の礎石建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝、建物に葺かれていた金箔瓦が出土しており、柱間が約2mになるもので、ここには書院造の御殿が建っていたと推定されている。また居館には一直線にのびる大手道があり、安土城の2倍に達する約270mの距離がある。

山城部分と居館部分は共に、総石垣作り、礎石立ち建物、瓦葺き建物など近世的な構造を持っている。しかし縄張り構造や石垣技法から山城の方がやや新しいとの指摘がある。『図説近畿中世城郭事典』によると「「雉城」状の突出部や矢穴石垣は、天正期の他の織豊系城郭に見られず、文禄・慶長の役の倭城やその後の国内城郭に多く見られる手法である。このことから山城部分は京極段階に改修された可能性が考えられる」としており、山城部分は倭城城郭の特徴と類似点があり、京極高次の改修が考えられるとしている。

 

居館下の高石垣
秀次居館曲輪跡
隅部分の算木積み
東側の四段高石垣
家臣曲輪跡と石垣
居館への大手

遺物

瓦質の香炉/近江八幡市立図書館所蔵

  • 天目茶碗/近江八幡市立図書館所蔵

古瀬戸の瓶子/近江八幡市立図書館所蔵

    • 軒平瓦/近江八幡市立図書館所蔵

    • 軒平瓦/近江八幡市立図書館所蔵

    • 唐草紋入りの軒平瓦/近江八幡市立図書館所蔵

城下町

城下町は、安土城の城下町の町民を移して町づくりを始め、近隣の町村からも移住を促した。町並みは横筋4通り、縦筋12通りを中心に基盤目状に作った。他の城下町は町筋をジグザグにし防備能力を高めるのに対して、八幡山城下町は、商業振興第一主義に切り替えた平和的な政策であったと考えられている。東からニ筋を大工町、鍛冶屋町、畳屋町、鉄砲町などの職人の居住区でしめ、三筋目から西へ十筋を、仲屋町筋、為心町筋、魚屋町筋、新町筋、小幡町などの商人とした。これら町名も安土城下町との共通町名が多い。

またこれも安土城同様中世の特権商人組織であった、座、市を外し八幡楽市楽座とした。これは羽柴秀次が築城した翌年天正14年(1586年)6月に掟書を発布した。八幡楽市楽座令は、13条からの条文で成り立っており、安土楽市楽座令と酷似している。両条文は細かな違いはあるが、それは歴史的条件の違い、織田信長と羽柴秀次の権力の違いによると考えられている。後日この地より近江商人が出て全国に発展することになり、この時の八幡楽市楽座令が基礎を築いた。

八幡城下町(新町筋)
八幡城下町(新町筋)
八幡城下町(新町筋)

八幡堀

八幡堀は琵琶湖から引いた八幡町の外に巡らし、八幡山の麓を八幡堀と塁で囲み、その中に羽柴秀次居館や武家屋敷を配し、防御と同時に運河として重視した。長さ6kmに及ぶ八幡掘は廃城後も明治時代、大正時代まで商工業の動脈として役割を果たしていた。堀幅11-18m、深さ1.4mの規模を持っている。琵琶湖から直接舟入できるようにし、羽柴秀次時代には往来する舟は八幡に立ち寄らなければならない決まりを出した。八幡浦は回船業を営むことができる親浦の一つで、琵琶湖では他に大津浦と堅田浦の三ヵ所だけであった。物流の拠点の一つであったが、北前船の開設により急速に減退していった。

八幡堀
明治橋
八幡堀
八幡公園の駐車場http://yahoo.jp/kPMPBY

本日も訪問、ありがとうございました。


水茎岡山城 頭山(主郭) 近江国(近江八幡)

2014年01月24日 | 戦国山城

政争に敗れた足利将軍を迎え入れた、近江の浮城

水茎岡山城祉石碑 頭山(主郭)

・別 名:水茎城・岡山城
・所在地:近江八幡市牧町 Map:http://yahoo.jp/Zl7zwU
・目標地点:牧水泳場
・形式:山城、水城                                                            ・比高:70m 
・現況:山林

・遺構等:堀切・竪堀・説明板・石碑
・築城期:室町期
・築城者:九里氏・伊庭氏                                                           ・主郭までの所要時間:牧水泳場の駐車場より15分
・訪城日:2014.1.24

水茎岡山城は近江八幡城の西方、琵琶湖に面した頭山に築かれた山城である。

伝によれば、南北朝時代に六角氏の 湖上警備の城として築かれ、戦国時代最中の永正五年(1508)ころより本格的な築城が行われたようだ。かつては 琵琶湖に浮かぶ水城であったが、戦後の干拓事業によって周囲が埋め立てられてしまい、戦国時代に「湖中の浮城」と いわれた風情はない。戦国時代の城主は、六角氏の被官九里氏であった。

 水茎岡山城が戦国史に大きな足跡を刻んだのは、幕府内における抗争に敗れた十二代将軍足利義澄をかくまったことで ある。当時、幕府は管領細川氏の内部抗争が続き、将軍はまったく政争の具ともいえる傀儡状態であった。 義澄は細川澄元にかつがれて将軍職にあったが、細川高国と大内義興のかつぐ前将軍足利義尹(のち義稙)に 京を追われ、近江に逃れて岡山城に入り再起を期したのである。しかし、京への復帰はならず、永正八年(1511年)、 むなしくこの城で病没した。

その後、六角氏と伊庭氏との間で抗争が起こると、 九里氏は伊庭氏に与して活躍したが、敗れて岡山城は廃城となった。

 

【水茎岡山城の縄張り】

 

縄張り図【頭山に本丸。大山に二の丸。亀山に三の丸

 

水城(昭和24年頃)・・・戦争の引揚者の為に干拓

 

発掘調査の遺構図

 

県道沿い・・・尾山(東)側に

ムベなるか・・・と天智天皇が

不老長寿伝説~天智天皇のむべなるかな~http://www.nube.jp/mube-densetsu.html
 蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。
この時に発した「むべ」という言葉がそのまま果物の名前の由来となりました。
そして、これより朝廷に毎年献上することになったのです
10世紀の法典集「延喜式」31巻には、諸国からの供え物を紹介した「宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)」の段に、近江の国からムベがフナ、マスなど、琵琶湖の魚と一緒に朝廷へ献上されていたという記録が残っています。
以後、北津田町は朝廷や幕府からの賦役の免除、献上の道中に帯刀するなどの恩典を受けました。献上は1982年まで続きました。天智天皇を祭神とする大津市の近江神宮へも1940年の創祀(そうし)以来、毎年献納を続けています。

主郭の石

「削岩のノミ跡」がはっきり三つ。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 (蒲生郡の城)、淡海の城、城郭巡り備忘禄、

本日も訪問、ありがとうございました。


四つ谷城(奥師城) 近江国(日野)

2014年01月15日 | 平城

昭和40年代の牧野造成で貴重な城郭遺構が消滅したが、この場所に四ッ谷城という中世の城があった。 室町時代の初期嘉吉3年(1433)に築城してと伝えられるこの城は上下二段に分かれ東西約40m、南北約50mで周囲を高い土塁で囲み、城内に井戸を設ける等雄大な本格的中世城郭であった。 小倉氏の本城佐久良城に対する支城であり、一時期蒲生氏も領有していたという。一部の残存もあるが姿を消したのは惜しい。 現地説明板 (日野観光協会・東桜谷公民館)

四ツ谷城

お城のデータ 
所在地:滋賀県蒲生郡日野町中之郷奥師 マップ:http://yahoo.jp/RjBGGu
城期:町時代の初期嘉吉3年(1433)
築城者:小倉実隆
遺 構・池・土塁・土橋
区 分:平山城(丘陵)。林・牧場。 
訪城日:2013.12.25  2012.01.1.9 

お城の概要
 四谷城は、日野町東桜谷奥師地区の背後の小高い山の尾根上に築城されている。
 東桜谷・奥師地区へ入る手前の空き地に車を置いて歩くと、すぐに「四ツ谷城址」を示す標識ある。
 丘陵沿いに進むと、テレビ塔の建っているところが「四ッ谷城」だということで約15分、林道の右手に谷が現れる。
しばらく進むと平削地・土塁・武者隠し・・・・・。

この林道が2つに分かれ、谷側を進み林道先が矢竹で・・・左手斜面に登ると曲輪(テレビ共同アンテナ)に出た。

 曲輪内部は草が刈られていたが、曲輪周囲は背丈1~2mの矢竹が生い茂る。周囲には谷側に浅い堀跡が確認できたが?

 ここが主曲輪と思いきや、下山途中の中腹に脇道があり、その先には高い土塁で虎口を設けた25×35mの曲輪があった。
山肌を10m近く掘り下げて造った削平地である。構造からしてここが主曲輪。

奥師若宮八幡神社

集落入口・・・前川・西口橋渡った所の空き地に駐車

四つ谷城(遠景)

お城の歴史

四ツ谷城(遺構消滅・伸明寺文書にある実隆によって築かれた「奥師城」)。ごの支城として築かれたといわれる。享保年間
に刊行された『淡海温故録附巻 古城之図』の「蒲生郡奥津保四ツ谷古城全国」には削平地が四ヵ所描
かれ「砦」とのみ記されているという。

『近江蒲生郡志』全10巻に「蒲生郡日野町の旧東桜谷村にある小倉氏が築いた5つの城」『近江の城』第15号 )

小倉実隆 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小倉 実隆(おぐら さねたか、生年不詳 - 永禄7年(1564年))は戦国時代の武将。蒲生定秀の3男。蒲生賢秀、青地茂綱の弟で蒲生氏郷の叔父にあたる。子に実資、行春などがいる。官位は左近将監、三河守。佐久良城主。

生涯

南近江の国人小倉氏の当主である小倉実光が実子無く死亡した為、蒲生定秀の意向で養子として小倉氏に入り名籍を継いで佐久良城主となる。

しかしながら当時、小倉氏は庶流家との内訌状態が続いており、特に領を接する山上の小倉西家は独立志向が強く、お互いの領の用水の権利などをめぐっても対立して時折小規模な武力衝突を繰り返しており、西家の兵に永源寺が焼かれるなど緊張状態が続いていた。

永禄7年(1564年)、小倉西家の山上城主小倉右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領。

これに怒った六角義治は小倉宗家の当主である実隆に右京大夫の討伐を命じた。実隆は直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて右京大夫の討伐に出る。これに対し右京大夫は、山田城・和南城・八尾城・相谷城ら支城の小倉西家一門たちに応援を要請。戦闘域は山上だけに留まらず、小倉宗家と小倉西家全体の戦に発展した。

実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、小倉宗家方は敗北してしまう。勢いづいた右京大夫は奥津保の辺りを制圧し勢力を拡大した。

この事態に蒲生定秀も介入し、兵を率いて小倉西家の所領へ侵攻し右京大夫ら小倉西家を討伐した。沈静化には成功したものの一連の内訌は小倉氏の力を大幅に衰退させ、以後の小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在になっていく。

参考資料・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、滋賀県中世城郭分布調査3(旧野洲・栗太郡の城)

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寺村城(寺村館) 近江国(蒲生)

2014年01月12日 | 平城

 

 得照寺

 

寺村城の土塁の一部寺村城(てらむらじょう)は寺村城の土塁の一部http://yahoo.jp/2RIAo0

寺村氏によって築かれた平城である。寺村館(てらむらやかた)ともいわれる。

近江寺村城の築城年代は室町期ともいわれるが定かではない。

位置は旧近江国蒲生寺村地域で、土塁の一部が現在の滋賀県東近江市蒲生寺町40番地と綺田町351番地の境あたりに残っており、「高薮」と呼ばれる竹藪から得照寺を含めた西側一帯が寺村城址である。現在も土塁の一部が約10m程度残っている。

天正年間には寺村半左衛門が居城した記録が残っている。

『近江蒲生郡志』によれば、寺村城址近くの得照寺は、天正年間に寺村半左衛門の邸地に草堂を営んだことに始まる。

得照寺の宗派は西本願寺(正式名称は本願寺)を本山とする浄土真宗本願寺派である。

寺村城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』logo
 
所在地:東近江市蒲生寺町寺 (旧:蒲生郡蒲生町寺) マップ:http://yahoo.jp/arUX9e
別 名:寺村館
城 郭:平城
築城主寺村盛久
築城年:室町期
主な城主:寺村半左衛門盛久
遺 構:土塁・得照寺
訪城日:20131.12

 

 

この近くに『小姓が淵』という場所があり、ここは日本書紀の人形伝説のある。

http://yahoo.jp/_h67HK

寺公民館 駐車5~6台可http://yahoo.jp/GGZSNw

寺村橋の上の方に、小姓が淵という所があります。今はすっかり埋まってしまい、跡形もありませんが、数十年前までは、まだ、冷たい清水が湧いていました。ここで泳ぐと、「人魚が出て来て、足を引っ張るから、早く帰っておいで」と、言われた所でした。


小姓が淵は大字名が示す様に、大きな寺が二つもありました。二つとも天台宗の寺で、この寺の住職の身の回りを世話する男の小間使いが、幾人かいました。いつも、美しくお化粧をし、袴をはいてお手伝いをしていました。小姓が淵の「小姓」とは、身の回りの雑用をした少年という意味せす。
ある夏の事、二人の小姓が、夏の暑さにたまりかね、佐良久川の上流へ、涼を取りに泳ぎに行きました。水がよどんで、大変深そうな所で泳ぐことにしました。いまでいう、準備運動をせず、入水したのです。清水が冷たく、心臓麻痺を起こして死んでしまいました。
 この事があってから、やがて村の人々の間に、「人魚」が出るという噂が広がりました。この人魚が、大水で下の方に流されてしまい、それが、川合の願成寺にある「人魚のミイラ」になったと、言われています。
 そのミイラはもと明治の中頃、日野のある人が、松平城主より大金で買い受けたものでした。ところが、買い受けた後、夜な夜な、家中の者がうなされ、大声をあげたりして、夜も寝られなかったのです。あまりにおかしいので伺ってもらいましたら、
「私らは修行して僧になる身だったのに、修行中、人魚になり、こんな醜い姿となって、人の前にさらされる身となりました。こんな取り扱いをされているのは、情けない事です。念仏の声のする所に行きたいのです。」と言って、さめさめ泣いているということです。
大金を出して買ったものですが、「こんなに苦しんでいるとは、一大事」と、はじめ、流れ着いた場所へ持って行って、さらに観音様のお慈悲にすがってもらわねばと思い、願成寺に届けられたということです。
体長は六十センチばかり、桐の箱に入って、「顔は猿の如し」と聞いています。三十年に一度の秘仏聖観音の御開帳の時、一部の信者にだけ拝観させています。

この小姓が淵の話は日本に二十二か所の人魚伝説がある内の一つで、日野にも「人魚塚」があると聞いています。

寺村氏

家紋丸に隅立て四つ目結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本姓:宇多源氏佐々木氏流
種別:武家
出身地近江国蒲生郡寺村
主な根拠地:近江国・土佐国
著名な人物:寺村小八郎・寺村半左衛門・寺村重友・寺村道成
 

寺村(てらむら)氏は、日本の氏族。

概要

宇多源氏佐々木氏の庶流。家紋は佐々木氏の代表家紋である「平四つ目結」から派生した「丸に隅立四つ目結(まるにすみたてよつめゆい)」などを使用。近江国蒲生寺村の領主であったことから寺村の姓を名乗るようになり、室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に仕えた。六角氏の家臣の多くは国人領主であり、被官化されていたとはいえ独立性が高かった。

1563年(永禄6年)に六角氏の御家騒動(観音寺騒動)が起こると、六角氏本家だけではなく、南近江の国人連合の結束と勢力の衰退につながり、さらに六角氏が観音寺城の戦いで織田信長の上洛軍に敗れると、寺村氏一族は、浅井長政に仕える者、羽柴秀吉に仕える者、山内一豊に仕える者、蒲生氏郷に仕える者、蒲生郡小野村に居住する者などに分かれた。

近江寺村氏

寺村小八郎は、浅井長政に仕え、1570年に姉川の戦いに従軍し、以後1573年まで4年にわたり小谷城に詰めた。最後まで浅井家への忠誠を変えない者達に長政は感状を与えたが、有名なのが寺村小八郎に与えたもので、「ここ4、5年骨身惜しまぬお働き忠節これに勝るもの無く、ことに今度の籠城は誠に神妙に存じ候。愈々この上ともご奔走が大切、心底より望むところ確かりと申し付け候」がある。

寺村盛久(寺村半左衛門)は、蒲生氏郷に仕え、天正年間には近江寺村城に居城した。 蒲生氏郷の伊勢、会津への移封に従い、葛西大崎一揆の平定にあたっては、氏郷本隊の三段目を任された。

寺村家の枝連衆であった寺村重友は、当初は羽柴秀吉に仕え、その後、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕えた。天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となり、山内一豊の移封に従い、遠江国(静岡県)掛川を経て、土佐国(高知県)に移り、初代土佐寺村氏となった。

本陣寺村氏(近江)

六角氏の滅亡後に、寺村行隆と、その子寺村規行は病身であることから武士を捨てて小野村に移り、本陣役を務めるようになった。寺村規行には2人の兄弟があり、共に長浜城主であった山内一豊に仕え、のちに土佐へ入った。 佐和山城の落城後は小野宿は廃止され、1603年(慶長8年)、中山道の整備に伴って小野村から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣役を務めていた寺村庄兵衛は鳥居本に移り、引き続き鳥居本宿でも本陣役を務めた。寺村規行から数えて10代目の寺村義貴の時に、本陣は廃止となった。

本陣寺村家の家紋は「五段梯子(はしご)」であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。

土佐寺村氏

当初は羽柴秀吉に仕え、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕えた寺村重友は、天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となった。山内氏の遠江国掛川入封時は家老職400石、土佐国入封時は中老格4400石を給され、初代土佐寺村氏となった

二代目の寺村淡路重次は3200石、三代目の寺村主膳重昌は山内可氏の三女を妻に迎えた。

また、四代目の寺村淡路重信は、山内可氏の子である山内定氏の長女を妻に迎えた。

幕末には、寺村成相(中老格700石)の三男寺村道成(左膳)は参政として藩政の中枢にあった。薩長に近づきたい土佐藩は、ついに1867年(慶応3年)の6月に京都の三本木の料亭吉田屋において土佐藩と薩摩藩の首脳会談をもった。土佐からは後藤象二郎・寺村道成、薩摩からは小松清廉・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保利通、仲介人として坂本龍馬・中岡慎太郎が参加し、薩土盟約を締結した。盟約破綻後も大政奉還路線を進め、主君山内容堂ほか4名(後藤象二郎・寺村道成・福岡孝弟・神山左多衛)の連名で大政奉還建白書を提出した。幕末の政治活動を記した『寺村左膳手記』『寺村左膳道成日記』は、幕末の土佐藩の中心にいた人物の記録として貴重な史料である。

維新後、土佐寺村氏の多くは「日野」と改名し、家紋は「鶴に丸」を使用した。姓や家紋を改めた理由は不詳であるが、公家の日野家との古くからの関係から「日野」と「鶴に丸」を使用したようである。高知県立図書館の山内家宝物資料館所蔵『侍中先祖書系図牒』の系図には、「寺村」という箇所に「日野」と改めた紙が貼ってあり、家紋は「鶴二蝶梯子」とある。寺村道成は日野春草(春章)と改名したが、祐天寺(東京都目黒区)の日野春草の墓には「五段梯子」の家紋が刻まれている。

寺村道成の次の当主である日野成義(軍馬)は板垣退助の姉である勝子を妻に迎え、勝子は日野成文(次郎三)や山田平左衛門の妻となった信(のぶ)を生んだ。

寺村氏と「日野」の接点

  • 鶴紋を使う蒲生氏と関係があるとする説。近江国蒲生郡には日野町という場所があり、蒲生定秀(氏郷の祖父)が1533年(天文2年)から3年程かけて日野城を築城した。
  • 「鶴に丸」紋を使う公家の日野家と関係があるとする説。本願寺第三世である本願寺覚如の父覚惠は、日野広綱と親鸞の末娘覚信尼との間の実子である。浄土真宗の宗祖である親鸞は日野有範の息子であるため本願寺は日野家である。本願寺第十一世である本願寺顕如は、1557年(弘治3年)4月17日、宇多源氏佐々木氏嫡流である六角定頼の猶子の如春尼と結婚した。
  • 土佐寺村氏の初代寺村重友が日野家の流れを汲んでいたとの説があるが不詳である。
  • 近江寺村城に居城した寺村盛久の草堂から始まった得照寺は、親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派である。
  • 日野唯心は、徳川家康側近の僧侶として仕え、崇伝、天海に次ぐ地位にあり、近江国蒲生郡に1,030石余の所領をもった。唯心の次代で、日野家は朝廷に仕える堂上家と、幕府に仕える高家に分かれた。

参考資料・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・滋賀県中世城郭分布調査

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矢島御所(矢島館) 近江国(守山)

2014年01月10日 | 平城

矢島御所は、現在の自治会館のあたりにあったとされ、会館前に石碑

お城のデータ

所在地:守山市矢島町   

map:http://yahoo.jp/6SxjWAこの地図のURL

別 名:矢島館

区 分:居館

現 状:宅地

遺 構:堀跡・土塁跡・石碑

築城者:矢島越中守

築城期:天文年間(1532~54)

城 主:足利義昭

目標地:少林寺・矢島自治会館

駐車場:矢島自治会館の駐車場

訪城日:2014.1.9

石碑より

 奈良、一乗院門跡は永禄八年五月に甲賀の和田惟政の館を経てこの矢島少林寺に入室した。観音寺山佐々木六角承禎の命に依って建立した館を本拠として、土豪矢島越中守に庇護を受けて永禄九年二月に還俗して名を足利義秋(後の義昭)と改めた。同年九月に西江州にて三好長逸の乱あり永く続かなかった矢島の館を去ることになる~

堀跡?(児童公園)

少林寺

一休(一休さん)禅師の居住地。滋賀県守山市矢島町1228

HPより

矢島町のほぼ中央に禅宗の名刹である少林寺がある。文明年中(1469~1487)に一休宗純の嗣法である桐嶽紹鳳が興したのが少林寺で、現在も数多くの文化財を伝える。
一休和尚像一幅は墨谿の筆による肖像画であり、椅子に坐した和尚と太刀が描かれていて、享徳元年(1452)の銘の和尚直筆の賛があるところから、一休存命中に完成された代表的肖像画である。

境内の足利庭園

少林寺本堂

一休禅師お手植えの『ヒイラギ』

境内の足利庭園

歴 史

 矢島館は、在地領主矢嶋氏の居館である。守山市公文書館発行の『守山城物語』には、天文年間(1532~54)の築城とあるが、詳細は不明。       永禄八年(1565)、将軍足利義輝が暗殺されると、興福寺を脱出した義輝の弟覚慶(義秋⇒義昭)は甲賀の和田氏を頼った。さらに覚慶は、観音寺城の六角承禎を頼り、承禎は矢島に覚慶の居所を建築した。

覚慶は矢島で還俗し、足利義秋と名乗った。後の足利義昭である。矢島の義秋居館は矢島御所と呼ばれ、矢嶋越中守が警固に当たった。永禄九年(1566)、西近江で三好長逸が乱を起こし、矢島御所にも三好三人衆の兵が攻め寄せたとされる。また、庇護者であるはずの六角承禎・義治父子が三好三人衆と結んだとの情報にも触れ、義秋は矢嶋御所を去り、若狭へと下った。それゆえ、実際に矢島御所と呼ばれたのは1年少々に過ぎなかったことになる。

江戸時代には、矢島周辺は大溝藩分部氏2万石の領地となり、現地案内板によれば、御所跡に飛び地である矢島周辺の統治のための行政府が置かれた。

現 状

 矢島御所は、現在の自治会館のあたりにあったとされ、会館前に石碑が建てられています。隣接する児童公園に当時の堀跡があるとされていますが、判然としませんでした。また自治会館の西にある少林寺は、矢島館の跡ということです。境内に土塁が残っているとのことですが、新築の割に余り手入れされておらず、どこが該当箇所か良く分かりませんでした。

矢島御所は、おそらく矢島館の外側に隣接して増築され、両者が一体となって城郭としての体を成していたものと思われます。最後の将軍が過ごした由緒ある場所とは思えないほど集落。

 

隣の武道神社

参考資料:現地石碑文・滋賀県の城・少林寺HP・守山城物語・滋賀県中世城郭分布

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欲賀城畑(ほしかしろはたけ)城 近江国(守山)

2014年01月10日 | 平城

新守山川左岸の欲賀大橋から犬飼橋辺り

土塁・堀(現在は用水路)

欲賀集落の中の堀跡(現在は用水路)

所在地:守山市欲賀町  マップ:http://yahoo.jp/89fQF8

区 分:平城

築城者: 本間氏

築城期:文和二年~三年(1353~4)

遺 構 : 土塁跡、堀跡

訪城日:2013.1.9

滋賀県教育委員会の資料によると、新守山川左岸の欲賀大橋から犬飼橋辺りであろうと思われる。

 ただ1ヶ所だけ、それらしき竹藪があり、その竹藪の中には2mほどの土塁を認めるのだが・・・・。

 お城の歴史 

本間氏の居城と伝わる。『守山市史本間文書』によれば、文和二年ないし三年(1353~4)に杉江の本間又四郎が足利義詮より欲賀郷の一部を与えられたとされる。応永四年(1397)には、本間詮季が足利義満より欲賀郷の半分を与えられたとされる。城が本間氏の居城とすると、この頃の築城と考えられる。

『本間氏系図』によれば、応安元年(1368)に本間資冬が欲賀郷公文所職に就き、応永12年(1405)には資富が欲賀郷下司職にあったとされる。欲賀城畑城南東の欲賀城主寺田氏も、永和三年(1377)に欲賀の公文所職に就いているが、両者の関係については不明である。
  応仁元年(1467)ないし文明元年(1469)に、本間重利が欲賀城を再興したとある。資富について、領所欲賀山賀杉江とあることから、一時本間氏が居所を山賀ないし杉江に移していたとも考えられるが、詳細は不明である。本間氏のその後についても詳らかでない。

参考資料・滋賀県の城

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