城郭探訪

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古き宿駅「野路駅」の名残り

2016年09月21日 | 番外編

古き宿駅「野路駅」の名残り

萩の玉川

 源頼朝などが宿泊した中世の宿駅、野路宿は近年の発掘調査により、南草津駅の西側一帯の地にあったことが明らかになってきましたが、その故地には、宿駅を偲ぶ何らの遺構はない。

その中で、野路町の旧東海道沿いに復元された萩の玉川跡は、日本六玉川の一つ、野路の玉川の故事来歴を伝える唯一の名所であります。

その跡地には「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる波に月やどりけり」と詠った源俊頼の歌碑が残されています。

    

「野路の玉川」旧跡 (草津市野路四丁目)

 この町ほど紀行文や歴史書の中に多くその名をとどめているところはなく、「野路の篠原」として和歌などにも数多く詠まれています。
近江路や 野路の篠原 夕ゆけば 志賀よりかえる笹波の風(捨玉集)は、代表的なもので、このような歌が数多く詠まれるようになったのは、この地に野路の宿がおかれにぎわったことに起源します。
 都から東下りの旅人が、逢坂山をこえ瀬田の唐橋を渡って、一里山のだらだら坂経て野路の玉川に達すると、そこは今までとちがった広々とした野原の一本道となりますから、野路という実感を持ったことと思います。
 ことに都から離れ、東国への長い旅路を思うとき、はるか左手にかすむ琵琶湖の面、紫に煙る比叡、比良の山並みを望み、言い知れぬ思いに胸を打たれたことが想像されます。そのような哀愁を帯びたほとんどの歌が、野路の篠原という言葉の中に、含まれていると思われます。このような土地がらが、やがて地名となって野路と呼ばれたものでしょう。
 この地にまつわるお話も悲話が多く、たとえば平宗清(平宗盛の子)の最後の地である話であるとか、佐々木高綱の馬子切りの話などがあります。また、源平以後の争乱に多くの人家が戦災をうけたことはもとより、幾百人の人たちがその犠牲になったものか、今も町のあらゆるところに石仏の埋まっていることも、この土地の歴史上の位置を示しているように思われます。

            


矢橋城 近江国(草津)

2016年09月21日 | 平城

 比定地西端に建つ称名寺。

お城のデータ 

所在地:草津市矢橋町      map:http://yahoo.jp/9CfJnn

現 状:集落

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:矢橋氏

城 主:永禄十一年(1568)に矢橋和泉守安忠の名

遺 構:堀痕

目標地:矢橋シルバーセンター・

駐車場:矢橋シルバーセンター駐車場・路上駐車

訪城日:2014.10.21・2016.4.21

お城の概要

 矢橋城は、浜街道の西側の、2本の水路に挟まれたあたりに存在したとされています。矢橋は琵琶湖の重要な湖港であると同時に、対岸の大津へ船で向かうのが東海道の近道であるため、交通上の要衝でした。近江八景の1つ「矢橋帰帆」とは、このルートで賑わう船の列を指したものです。

 矢橋城の範囲は、浜街道から良覚寺および正高寺のあたりまでとみられていますが、集落内で屈曲する堀跡と思しき水路以外には遺構らしきものは見受けられません。


 矢橋城址の脇を流れる水路。堀跡か。


歴 史

 矢橋氏の居城とされる。矢橋氏の出自については不明であるが、『日本城郭大系』によれば、永禄十一年(1568)に矢橋和泉守安忠の名がみられるとされる。

『大系』では矢橋城を南北朝期の築城と推測しているが、理由は明らかでない。

・高井章博氏からコメント、ありがとうございます。

矢橋氏(日野町出身の高井と申します)

  矢橋氏は、後に、徳川幕府の御書院番頭を務める五百石取りの旗本となり、江戸麹町二番町に屋敷を構え、明治維新まで続きました。なお、分家の当主・矢橋良嗣氏(医師)とは、中学・高校の同期生でした。

 




           

 

 

矢橋小船入り航路絵図

大津歴史博物館蔵

  江戸時代に東海道の間道として利用された矢橋の渡しについて、天明5年(1785)、幕府の道中御用掛の求めに応じて大津と矢橋の船年寄が差し出した絵図。筆者は澤松翠。大津町から半島状に突き出ているのが島の関で、その東に位置する小舟入と、対岸の矢橋の間に渡し船が通っていた。東海道が大きく迂回して瀬田唐橋を渡るのに対し、矢橋渡しが近道であったことを巧みに描いている。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は平安時代の連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

【武士(もののふ)の やばせの舟は早くとも 急がば廻れ 瀬田の長橋】

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。

松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。【五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 橋桁の忍は 月の名残り哉】大きく迂回して瀬田唐橋を渡るのに対し、矢橋渡しが近道であったことを巧みに描いている。

急がば回れ」の語源:「危険な近道をするよりも、遠回りでも安全確実な道を歩いた方が結局は目的地に早く着ける。遠回りに思えても安全な手段を取った方が得策である」という意味をあらわす有名なことわざですが、実は、その語源は草津にあります。

当時、旅人が京へ向かうには、草津の矢橋(やばせ)から琵琶湖を横断する水路の方が、瀬田の唐橋を通る陸路より近くて早いのですが、比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により、危険な航路だったため、このような歌がうたわれました。

【武士(もののふ)  矢橋の船は早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋】

藤村も【菜の葉や みな出はらひし 矢走舟】

 

矢橋常夜灯http://yahoo.jp/aEfTiR 

2016.4.21

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア(Wikipedia)

            本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


鷹部(たかべ)屋敷 近江国(野洲)

2016年09月21日 | 居館

鷹部(たかべ)屋敷 

乙窪区の概要の石碑(城址の北の運動公園の建つ)

・・・乙窪には鷹部屋敷があって、井口家はその昔鷹部であった。、、、云々

お城のデータ
所在地:野洲市(旧野洲郡中主町)乙窪 map:http://yahoo.jp/FAZ2IO
区 分:居館
現 状:竹藪・茶畑
築城期:室町期/江戸期
築城者:鷹氏
遺 構:竹藪に土塁が残存する。
目標地:法性寺
駐車場:法性寺前に駐車
訪城日:2016.9.14
お城の概要 

旧中里村の落窪集落にあったとされる居館。詳細不明だが、江戸時代の絵図(延宝5年)延宝年間の絵図に屋敷が描かれている。

乙窪集落の西部、法性寺の西側にある竹藪が城域とされる。

お城の歴史

野洲川(やすがわ)の合戦

永禄13年(=元亀元年:1570)4月、織田信長が朝倉義景を攻めるために越前へと兵を向けたところ、突然に妹婿の浅井長政が叛旗を翻し、挟撃された信長は態で京都まで逃げ帰った(朝倉征伐:金ケ崎の退き口)。
このことにより、勢力圏と化していたはずの近江国では北部の浅井氏が敵対しただけではなく、甲賀郡に退いていたかつての南近江の領主である六角義賢・義治父子が勢力を盛り返す動きを見せたのである。

信長は岐阜と京都を結ぶ通路を塞がれることを懸念し、守山に稲葉一徹を派遣した。一鉄 は六角氏に与する国人領主たちを打ち破って琵琶湖沿岸の地を制圧する働きを見せる。信長はすぐに近江国の長光寺城に柴田勝家、永原城には佐久間信盛、安土城に中川重政を配して琵琶湖南岸の通路を暫定的に確保した。
勢力回復の好機として挙兵した六角勢は、5月下旬より甲賀・伊賀の国人を中心とした数千の兵力で草津方面に進出。6月4日に義賢・義治父子は野洲川畔に兵を進め、川の西岸の笠原に布陣した。先陣は三雲三郎左衛門・高野瀬美作守・永原遠江守らである。それに続いて甲賀武士団が構えた。 対する織田勢は柴田勝家・佐久間信盛も野洲川畔に兵を出し、落窪(乙窪)に布陣、川を挟んでの決戦が始められた。
この戦いは2、3時間の戦闘で織田勢の勝利に終わり、六角方では重臣の三雲・高野瀬以下8百人弱の犠牲者が出たという。
この後の6月、信長は横山城に柴田勝家、翌年の2月には佐和山城に丹羽長秀を置き、南近江の支配体制をさらに固めたのである。

 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、さきろぐ、ウィクペヂア
本日の訪問ありがとうございす!!

今村氏館 近江国(近江八幡)

2016年09月21日 | 居館

お城のデータ

所在地:近江八幡市浅小井町 map:http://yahoo.jp/u3sLlc

区 分:居館

現 状:宅地・集落

築城期:鎌倉期

築城者:今村氏

遺 構:現地説明板

目標地:地蔵堂・金毘羅神社

駐車場:地頭堂前空き地に駐車

訪城日:2016.8.18

お城の概要

浅小井氏の家臣・今村氏の居館。とされ 今村氏は浅小井城の南大手門を守備していたとされる。

詳細は不明だが、浅小井城の南大手門跡に案内板が建つ。

浅小井城

鎌倉時代初頭、浅小井(深尾)四郎家長が築城した。深尾氏十代

    加賀守元泰が足利軍義正の幕下にあって当地を領有後、十一代元範は佐々木(六角)高頼の命により、文亀元年(1501)築城した。十二代元秀、十三代元忠と続き,永緑年間:伊庭氏が領有を画策したが、六角承禎義賢はそれを避け、甲賀武士の山中大和守俊好に与えたが、永禄十一年(1568)信長の侵攻で落城した。安土城築城後、城はこの地の豪族:伊佐志摩守に預けられ,信長の鷹狩りの際には伊佐氏別邸で休息したと伝えられている。

天正十二年(1584)秀吉は池田秀氏にこの城与えたが、池田氏が文禄四年(1595) 伊予大洲に転封し城は破却された。 (現地の説明板より)
 

参考資料:さきろぐ、現地説明

本日の訪問ありがとうございす!!


長光寺城(瓶割山城) 近江国(八日市)

2016年09月19日 | 山城

御沢神社は、推古天皇の時代に聖徳太子によって創建されたといわれる神社です。境内にある池には、白水池伝説が残っています。
 他国にまで名高い美男子小野時兼(おののときかね)は、村を通りかかった美女三和(みわ)姫と恋におち、幸せな日々を送っていました。やがて三和姫は、自分は平木にある御沢の池の主であることを告げ、玉手箱を渡して百日開けずに置くことを言い残して去っていきました。三和姫を片時も忘れられない時兼は、御沢池に出かけていき、白い大蛇に変身した三和姫に会いました。恐ろしさのあまり99日目に時兼が玉手箱を開けると、中から竜が刻まれた釣鐘が現れました。現在も竜王寺にある釣鐘がその時のものと伝えられ、それ以来御沢池で竜を見かけなくなったとも伝えられています。
 この池の地下より引かれている神鏡水は、御沢の名水としても名高く、病気が治り、縁結び、安産、諸願成就のご利益があります。 5月には藤の花が咲きます。

御澤神社

聖徳太子が蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾したときに、水田用の溜池として清水池、白水池、泥水池をつくり、神社を創建したのがはじまりといわれている。境内から湧き出る水は、近江の名水として知られている。

お城のデータ 

所在地:東近江市(旧八日市市)上平木町    map:http://yahoo.jp/7jWM-p

別 名:瓶割山城

現 状:山林

築 城:鎌倉時代中期

築城者:佐々木四郎政堯

初城主:佐々木四郎政堯

改築期:織豊期(元亀年間)

改築者:柴田勝家

区 分:山城

遺 構:一の郭・二の郭・三の郭・米倉・古井戸・大石垣・堀切・土橋

城 域:150mx150m

標 高:234.5m      比高差:120m

目標地:御澤神社

駐車場:御澤神社に駐車

戦 い : 応仁2年(1468)  ○六角高頼(西軍)  VS  ●六角政堯(東軍)

      元亀元年(1570)  ○織田信長     VS   ●六角承禎 

訪城日:2016.9.18

お城の概要

 長光寺城は標高234mの瓶割山の山頂付近に築かれ、北側眼下をはしる中山道が八風街道と交わる武佐までは直線距離にして約1km。東近江における要衝の地にある。

瓶割山の山頂を主郭の一の郭とし、南西に二の郭、北西に三の郭、東に東郭が、それぞれ尾根上に伸びる構造となっている。一の郭は南北55m、東西65mの規模であり、その西面の南側端部に石垣が存在する。

登り口は、東近江市上平木日吉神社から、山頂までは約25分程度。道は水道タンク管理道となっており、途中から電波塔から城址へ。

主曲輪西側の堀切に出る。堀切横の大石垣は、高さ6mを越え城内最大のものである。長光寺城は15世紀中期に佐々木四郎政堯によって築かれたのを創築とし、その後は六角氏が入り、元亀年間には織田信長の家臣・柴田勝家が入っているが、この石垣は斜度をもたせて積んでいることから、後年の柴田勝家時代のものではないかと思われる。

堀切の左(東)は主曲輪、右(西)は二の曲輪で、堀切に渡した土橋が非常に状態良く残っている。主曲輪は東西50~60m、南北30mほどで、東尾根に三の曲輪を配置した連郭式の曲輪配置である。二の曲輪は主曲輪と同程度の広さと推定されるが、雑木が生い茂り広さを読み切れない。曲輪西側の尾根筋は堀切で処理し、虎口部は石垣が積まれている。主曲輪東側の三の曲輪は南側斜面に3~4段の帯曲輪を配している。東尾根は堀切で処理されておらず、城域ラインは不明。この長光寺城は主曲輪以外の二の曲輪、三の曲輪にも石垣、石積みが見られる。特に主曲輪と三の曲輪の境界部分(井戸跡下)には一辺が50~60cm、大きなものは一辺が1mを越える石が散乱しており、主曲輪の西虎口に見られるような石積みがされていたことを予感させるが、現地では確証がとれなかった。おそらく廃城の際に徹底して破壊されたのではないだろうか。信長公記には信長が安土城を築城する際、観音寺山(繖山)、長命寺山、長光寺山、伊場山から石を集めたと記述されており、長光寺城の破城が暗示されている。

 

日吉神社・・・上平木

上平木の日吉神社大祭では、3日間にわたって祭礼が行われる。初日の宵宮、二日目の昼の大祭と夜の御託宣。そして三日目の卯の刻渡り、御面渡行そして神輿渡行である。今回、奉拝・撮影させて頂いたのは、二日目の御託宣から三日目の御面渡行である。
ここでは年齢階梯制による宮座が立派に機能しており、しかも集落の人々が篤い心で祭礼を行っておられることに感動した。斎行している若者から長老男性のみならず、御面渡行が行われる時にはご婦人も道路に膝まついて拝礼されるのには、感服した。そして御面渡御においては、静寂のところで粛々と鬼面が祝福していく所作も、感動的であった。
宮座制度は年齢階梯制で、若年から長老にむかって、 子烏帽子・済美会・神事家・中老・大中老・十人衆・年行司・沙弥美師 で構成されている。鳴り物の太鼓と鉦は済美会が受け持ち、行事において重要な役割をしている。特に二日目の御託宣と命名されている松明行事は、済美会による行事である。御面渡御では桃山時代作とされる鬼面が御神体となって町内を渡御し、沙弥美師の一番、二番の家と区長宅の三軒を回る。もう一つ特徴的なのは、中老九人による門踊りである。宵宮・本祭・卯の刻渡りの三回舞われるが、剣を抜刀しての祓えの舞であることは自明である。

 

瓶割山の山頂を主郭の一の郭とし、南西に二の郭、北西に三の郭、東に東郭が、それぞれ尾根上に伸びる構造となっている。一の郭は南北55m、東西65mの規模であり、その西面の南側端部に石垣が存在する。

  登り口は東近江市上平木の日吉神社から、山頂までは約25分程度。電波塔・水道タンク管理道を進み、電波塔から城址へ。

一ノ廓の西(堀切横)の大石垣は、高さ6mを越え城内最大のものである。長光寺城は15世紀中期に佐々木四郎政堯によって築かれたのを創築とし、その後は六角氏が入り、元亀年間には織田信長の家臣・柴田勝家が入っているが、この石垣は斜度をもたせて積んでいることから、後年の柴田勝家時代のものではないかと思われる。

堀切の左(東)は主曲輪、右(西)は二の曲輪で、堀切に渡した土橋が非常に状態良く残っている。主曲輪は東西50~60m、南北30mほどで、東尾根に三の曲輪を配置した連郭式の曲輪配置である。二の曲輪は主曲輪と同程度の広さと推定されるが、雑木が生い茂り広さを読み切れない。曲輪西側の尾根筋は堀切で処理し、虎口部は石垣が積まれている。主曲輪東側の三の曲輪は南側斜面に3~4段の帯曲輪を配している。東尾根は堀切で処理されておらず、城域ラインは不明。この長光寺城は主曲輪以外の二の曲輪、三の曲輪にも石垣、石積みが見られる。特に主曲輪と三の曲輪の境界部分(井戸跡下)には一辺が50~60cm、大きなものは一辺が1mを越える石が散乱しており、主曲輪の西虎口に見られるような石積みがされていたことを予感させるが、現地では確証がとれなかった。おそらく廃城の際に徹底して破壊されたのではないだろうか。信長公記には信長が安土城を築城する際、観音寺山(繖山),長命寺山,長光寺山,伊場山(伊庭山)から石を集めたと記述されており、長光寺城の破城が暗示されている。

お城の歴史

野洲河原の戦い 

野洲河原の戦い 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野洲河原の戦いは,元亀元年6月4日(1570年7月6日)に現在の滋賀県野洲市で起こった合戦。落窪合戦とも呼ばれる。

経緯

 織田信長は朝倉義景征討の途上で浅井長政の離反に合い敗退(金ケ崎の戦い)。体勢の立て直しを図り、宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川重正を配置したが、観音寺城の戦いで信長に追われ伊賀に逃げていた六角義賢・義治父子が甲賀武士達と糾合し、北進する。

元亀元年6月4日、六角軍は信長の重臣柴田勝家、佐久間信盛と野洲河原で衝突。落窪(乙窪)で交戦の末、六角方の三雲父子・高野瀬・水原・伊賀甲賀衆780人が討ち取られた。

その後、6月28日には信長・徳川家康連合軍と、浅井・朝倉連合軍の姉川の戦いが起こり、浅井・朝倉側が敗退する。

長光寺城の戦いと瓶割り柴田

野洲河原の戦いに先立ち、柴田勝家の守る長光寺城で戦いがあったともいい、このときのエピソードが「瓶割り柴田」の名の由来となっている。しかし、この話は『武家事記』が初出であり、事実ではないと見られている。

『武家事紀』によると、元亀元年(1570年)6月に六角義賢父子は長光寺城を囲んだ。義賢は郷民から長光寺城内は水が出ず後ろの谷から掛け樋で引いていると聞き、平井甚助に水源を止めさせた。勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしようと言うと、皆が賛成した。そこで三つの瓶を打ち割り捨て、翌16日に城外へ打って出て六角の旗本を切り崩し、野洲河原で三雲・高野瀬・水原の六角勢を討ち取ったという。ここでは、これより勝家を俗に「ツボワリ柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったとする[3]

この話は次第に尾ひれがつき、『常山記談』では、六角側が水源を絶った後、平井甚助が和平の使者に立って城内に入った。対面の後手水を請うと、勝家は缸(かめ)に水を入れて小姓二人で担いで来させ、甚助が手洗いを済ませると、残った水を庭に捨てさせた。甚助が帰って城内には水が豊富だと報告し、六角側は困惑。勝家は最後の宴をして水を皆に飲ませると、缸を眉尖刀(なぎなた)の石突で砕き、夜明けに六角側を急襲して大敗させ、800余の首を上げた。信長は勝家に感状を与え、これより勝家を世に「缸砕り(かめわり)柴田」と称したとなっている。

 
「絵本太閤記」の瓶割り柴田

『絵本太閤記』になると、元亀元年5月21日(1570年6月24日)に六角軍は兵800余人の籠城した長光寺城を攻撃するが落ちず、六角側に多数の死者がでた。義賢は家老三雲新左衛門と図り、城中への水源を止めた。義賢は平井甚助を使者とし勝家に士卒の助命を条件に降伏勧告を行うが、勝家はこれを拒絶した。甚助が部屋を出ると、多数の兵が庭で沐浴していた。甚助は帰って城中には水が充分にあると報告した。一方、勝家は残った水瓶三つを庭に置き、これから討ち死にしようと思うが、老父母や幼子のいる者は城を出て落ち延びよと言うと、誰も逃げる者はいなかった。勝家は皆に思う存分水を飲ませると、もはや蓄えは無用と長刀の石突きで瓶を砕いた。6月3日早朝、勝家は敵が油断しているところへ打って出て、300余人を討ち取り、義賢は石部城へ落ち延びた。信長は勝家を称えて手ずから感状を与え、これより世人は勝家を「瓶割り柴田」と呼んだとする。

ここでは佐久間信盛は登場せず、代わりに木下秀吉が手柄をたてている。長浜城にいて長光寺城の窮状を聞いた秀吉は、勝家なら簡単には落城しないだろうと踏み、この間に義賢が留守の鯰江城を攻め取れば、長光寺城の囲みも解け一挙両得と考える。秀吉は加藤清正と福島正紀に兵1,000を預けて出陣させ、計略を用いて鯰江城を乗っ取る。しかし、このころの清正や正則はまだ子供のはずであり、秀吉が長浜城主になるのは天正元年(1573年)、鯰江城落城もその年で、実際には佐久間盛正・蒲生兼秀・丹羽長秀・柴田勝家によってであるから、この話はまったくの創作に過ぎない。

長光寺城の戦い

元亀元年(1570)4月、織田信長は 越前国の朝倉義景を討滅すべく出陣した。この侵攻戦で織田勢は快進撃を続けたが、浅井長政の不意の離反にあって撤退を余儀なくされる(朝倉征伐:金ケ崎の退き口)と、反信長勢力がにわかに活気づいたのである。
かつての南近江の領主・六角義賢もそのひとりであった。義賢は信長が永禄11年(1568)に上洛する際に居城を逐われて(箕作城の戦い)より旧領回復を目論んでいたが、この機を逃さず旧臣や一向宗徒らを糾合して挙兵に及んだのである。
六角勢は5月には稲葉一鉄の守る近江国守山城を攻め、6月には野州川畔にて織田勢との交戦(野州川の合戦)に臨んだ。この両度の合戦ともに敗れたが、なおも織田氏重臣・柴田勝家が守備する近江国長光寺城に攻めかかったのである。

8千ほどの兵を率いて来襲する六角勢に対し、織田勢は長光寺城の守兵と永原城から救援に駆けつけた佐久間信盛の軍勢を合わせても2千ほどであった。兵力に劣る勝家は長光寺城に籠城し、城を堅く守って後詰を待つ策を取った。しかし六角勢によって水の手を断ち切られたために城内は水不足に陥り、渇きで倒れる者が続出したのである。
窮した勝家は、水を入れるための甕(かめ)を自ら叩き割ってもう後がないことを将兵に思い知らせ、決死の覚悟で六角勢に挑みかかり、ついにはこれを打ち破ったのだった。
この武勇談が『瓶割り柴田』の逸話として残っている。

ただしこの長光寺城の戦いは、比較的信頼度が高いとされる『信長公記』などの史書に記述のないことから、その実在を疑う意見もある。

信長公記 巻三 元亀元年

4、金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

・・略・・・越前撤退後、信長公は明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、武藤上野守友益に人質供出を要求させた⑤。交渉の末、武藤の母親が信長公のもとへ人質として差し出され、武藤の城は破却された。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
 このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村⑥に火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。

 その後信長公は京表の諸大名から人質を取かためて公方様へ進上し、大事出来の際には時日を移さず必ず入洛することを誓い、5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀・宇佐山の城に森可成を残し、12日に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。

信長公記 巻九 天正四年

1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。

 4月1日からは大石をもって山内の塁壁地に石垣が築かれはじめた。また「城内に天主を築くべし」①との信長公の命に従い、安土には尾・濃・勢・三・越五州に若州・畿内の諸侍、および京都・奈良・堺の大工諸職人が参集し、おのおの技巧のかぎりを尽くした。瓦焼には唐人の一観が加えられ、唐様に仕上げるよう申し付けられた。
 近接する観音寺山(繖山)・長命寺山・長光寺山・伊場山(伊庭山)からは大石が数多く引き出され、千・二千・三千とまとめられて安土山へ上げられていった。引き上げられた石は石奉行の西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某によって吟味され、小石は退けられて大石のみ選りすぐられていった。

 これらの石の中で、津田坊が運んできた蛇石と呼ばれる石はまた格別のものであった。すぐれた名石であったが、並はずれた大石でもあり、山麓までは運べたものの山上には一切上げられずにいたのである。結局この蛇石は羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の助勢一万人の手によって昼夜三日がかりで引き上げられることとなったが、このとき信長公は巧妙な手で③人足たちを囃し立て、いとも簡単に天主台へ引き上げさせることに成功したのであった。このように普請は昼夜の別を問わず、山も谷も動かんばかりの勢いで進められた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia

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冨波城(富波城) 近江国(野洲)

2016年09月17日 | 平城

冨波

お城のデータ

所在地:野洲市(旧野洲郡野洲町)冨波 

比定地は不明

別 称:富波城

区 分:平城

現 状:

築城期:

築城者:

遺 構:

目標地:

駐車場:路上駐車

訪城日2016.9.14

旧祇王村にあったとされる平城。冨波集落にあったとされるが、場所は 詳細は不明だが、

 関白・近衛政家の日記に名前が登場することから室町時代中期に存在したものと考えられる。(さきろぐ)

近江・佐々木氏

 鎌倉中期以後庶子家がつぎつぎに独立し、京極家が関東とのつながりを深める中で、六角氏は近江国内の支配体制の整備に着手した。その結果、秀義流の馬淵氏、佐々貴氏から分かれた三上・平井・真野・木村・伊庭・楢崎氏、他姓出身と考えられる目賀田氏や高井氏らを家臣団に編成した。彼らの大半は蒲生・神崎・愛知川に集中しており、近江国北部には存在していない。
 中でも馬淵氏は、六角泰綱のころから守護代の地位にあった。その本拠地は蒲生郡馬淵荘(近江八幡市)で、佐々木庶子家の中では六角氏の居館小脇(八日市市)に近いことが、馬淵氏の早い段階での家臣化、守護代化につながったのであろう。当時の守護は在京しているのが通例であったので、国元で守護の職務を代行する守護代の存在を必要としたのであり、泰綱以後一部の例外を除いて、代々馬淵氏が守護代に補佐されている。六角氏は守護代の下に、郡単位で守護の遺志を執行する「郡守護使」と呼ばれる代官を設置して領国経営にあたった。任国におけるこのような支配体制の整備は、同時代の他の守護には認められない動きである。六角氏が独自の領国経営を模索した背景のひとつとして、泰綱の時代に家督相続をめぐる相論をきっかけとして近江国内の所領の多くが幕府に没収されたことが挙げられよう。勢力交代の危機感の現われが六角氏に任国の支配体制の整備を急がせた要因と考えたい。
 一方、京極氏は泰綱の弟氏信から始まる。母は泰綱と同じく北条泰時の妹で、三庶子家の中でもっとも優勢を誇ったのはこのためである。その名称は在京御家人をして京都に構えた屋敷が高辻京極にあったことに由来する。おそらく父信綱が泰綱に六角東洞院、氏信に高辻京極の邸宅を分け与えたのであろう。坂田郡柏原荘(山東町)に本拠を置いたが、京極氏の主たる活動の舞台は近江国ではなかった。泰綱と信綱に分配されたのは京都における邸宅だけではなかった。父の担った職務に関しても、両者は分かち持つことになるのである。
 泰綱が信綱の近江守護職を継いだのに対し、氏信は父同様、幕府から評定衆に選ばれるとともに、伯父広綱以来の検非違使に任命された。氏信の子孫も続いて続いて評定衆や検非違使に補任されており、京極氏の活動の場は京都や鎌倉にあったのである。鎌倉は、西国主出身の御家人という秀義以来の佐々木氏の血筋をかって、公武関係の調制を京極氏に期待したものと思われる。しかもそれを京極氏に割り当てることで、近江国における佐々木氏の勢力を分断する意図が働いたに違いない。このような幕府側の意図が、室町期の六角・京極の並存という状態を生み出したのである。

 

謎の平坦地=遺構か?

後法興院記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後法興院記(ごほうこういんき)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白太政大臣を務めた公卿近衛政家日記

概要

現在、陽明文庫には寛正7年(1466年)の年始から永正2年6月4日1505年7月5日、政家死去の半月前)までの自筆原本30巻(ただし、文明元年(1469年)から10年間分は欠失)が残されている。また、宮内庁書陵部静嘉堂文庫京都大学などに写本も残されている。

応仁の乱山城国一揆明応の政変などの動乱期の政治情勢、家領の経営・維持に関する記事、当時の公家社会の伝統行事や風俗に関する記事など、その内容は多岐にわたっているため、当時の状況を知る上で貴重な史料となっている。

 戦国期の近江 六角討伐

戦国期の近江における勢力は、六角氏が江南八郡を京極氏が江北三郡を占め、十五世紀後半、対立の続く六角氏と京極氏が再び相対する事態がおとずれた。応仁元年(一四六七)、将軍家と管領家との権力争いに端を発し、細川勝元と山名宗全に二分して京都において激突した。いわゆる応仁・文明の乱である。この折、細川勝元以下、京極持清・赤松政則・武田信賢などの東軍方に、山名宗全以下、近江国守護六角高頼、畠山義就・斯波義廉・土岐為頼などが西軍となって相対した。
 応仁の乱始まった時、六角の当主は亀寿丸(高頼)で、まだ幼少であったために一族の山内政綱が補佐してこの乱にのぞんだ。もちろん近江もこの戦乱にまき込まれたことはいうまでもない。
 家臣の子息(伊庭満隆の子)を殺害したために家督をおわれた六角政堯と江北の京極勝秀は東軍に属して、応仁元年(一四六七)六角の本城観音寺城を攻めた。六角勢は翌二年守山城で大敗し、観音寺城も落城した。
 六角氏内部でも家督相続を続けていた高頼の叔父政堯・持清が観音寺城・近江八幡長光寺城・守山などで戦ったほか、野洲の三上で数十回にわたって陣をはった。蒲生・野洲郡をめぐる戦いでは、守護高頼が伊賀に逃げ、足利義視を擁した政堯が一時的に江南の守護となったが、細川勝元の叔父としてその中枢にあった京極持清の権威が増し、応仁三年(一四六九)、江北三郡に江南九郡を加えた近江一国の守護職となり、政堯は持清の代行者に落ちた。
 六角高頼は、この間も蒲生・愛知・神崎郡内で京極持清と戦い、文明二年(一四七〇)持清の死によって高頼は再び湖南を制した。しかし守護職は持清の子孫童子丸(勝秀)に譲られ、更に幼少の孫童子丸に危機を感じた幕府は、政堯に守護職を補佐させた。ここで再び高頼と政堯が蒲生・野洲郡内(三上など)で戦い、政堯の死によって高頼の江南支配は確立した。しかし、幕府は高頼の荘園横領に立腹する山門勢力の支援を受けて、京極政高に守護を任じ高頼討伐を行った。しかし、西軍の斯波・土岐の支援を受けた高頼の支配は変わらず、文明七年(一四七五)幕府と和議が成立し、実に十一年に及んだ争乱は幕府に屈することのなかった高頼の守護再任で一応収拾をみた。
  しかし、荘園押領を続ける高頼に業を煮やした将軍義尚(義煕)は、長亨元年(一四八七)近江六角征伐を決し、将軍自ら坂本から栗太郡鈎に陣した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査3、遺跡ウォーカー、『後法興殷記』、さきろぐ

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虫生城 近江国(野洲)

2016年09月17日 | 平城

所在地:野洲市虫生154  map:https://yahoo.jp/hufaDp

区 分:平城

現 状:神社(虫生神社)宅地・集落

築城期:室町期

築城者:虫生丹後守

目標地:虫生神社

駐車場:虫生神社・虫生自治会館に駐車

訪城日:21016.9.14

お城の概要

虫生氏代々の居城。
虫生集落を治める豪族に「虫生丹後守」の名が確認できる。虫生神社を含む住宅地一帯が城域とされる。
付近に「源兵衛但馬守の屋敷」とする伝承地が残り、同地からは近世のものとされる壺などが出土した。
虫生神社の北西には平虎口を備えた土塁と思われる土盛りがL字状に残る。(さきろぐ 虫生城より)

お城の歴史

連署 社 奉書 第三巻 沙 前丹後守 (松田長秀) 竪紙 弥 六 …

www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/regular/img/ninnaji_3_6.pdf

『仁和寺旧蔵古文書』 第三巻 / 六 通目 室町幕府奉行人連署奉書( 竪紙 石山寺領近江国虫生 社 沙 ) 事、任当知行之旨、被全 領知 ...

虫生神社の御由緒
その起源は詳らかではないが、かつてこの地域の服部郷があり、このうちの錦織部の人々がここに居住して、虫生社を勧請したと伝えられる。嘉元四年(一三〇六)に記された「昭慶門院御領目録」(吉野神宮蔵)に「「勧喜光院、近江国石山寺、虫生社、三条局」とあり、のち、
地元の豪族虫生丹後守の被護下にあり、永正年中には「正一位虫生大明神」と奉称されてきた。
徳川の治政下では、天領として、小堀遠江守、芦裏観音寺の代官支配を受けたが、明治に入って村社に加列、この時境内、諸設備の充実が計られ、神饌幣帛料供進指定となる。
 
 
参考資料:虫生神社の由緒、『仁和寺旧蔵古文書』、さきろぐ
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常念寺(永原氏の菩提寺) 近江国(野洲)

2016年09月17日 | 文化財

室町時代に地域で勢力を誇った永原氏の菩提寺です。

常念寺概要

 常念寺の創建は不詳ですが平安時代に慈覚大師円仁によって開かれたのが始まりと伝えられています。当初は天台宗の寺院でしたが貞治年間(1362~67)に火災により多くの堂宇、記録、寺宝が焼失し一時衰退し、応永3年(1396)、常誉真巖上人が再興した際浄土宗に改宗します。

 中世以降、当地の領主となった永原氏の菩提寺として庇護され永正3年(1506)に堂宇を再建、戦国時代には織田信長が帰依し天正8年(1580)には安土城の城下に境内を移しています。

 信長が本能寺の変で没すると庇護者を失い、天正13年(1585)に現在地で再建されました。

 江戸時代には幕府から庇護され寺領5石が安堵されていました。

寺宝は多く木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期作、像高80.6cm、寄木造)が国指定重要文化財に永原重頼画像、永原重頼側室画像、永原重虎画像が野洲市指定文化財にそれぞれ指定されています。又、境内に建立されている石造五重塔(正応元年の銘、高さ2.55m)が国認定重要美術品に認定されています。室町時代に地域で勢力を誇った永原氏の菩提寺です。

鎌倉後期作である本尊の木造阿弥陀如来立像は国の重要文化財になっています。境内の石造五重層塔は国指定の重要美術品です。

お問い合わせ

常念寺

TEL:077-588-1791

 

  

室町時代に地域で勢力を誇った永原氏の菩提寺です。鎌倉後期作である本尊の木造阿弥陀如来立像は国の重要文化財になっています。境内の石造五重層塔は国指定の重要美術品です。

所在地 野洲市永原690
アクセス
駐車場
普通車 5 台
お問い合わせ

常念寺

TEL:077-588-1791

参考資料:常念寺http://www.sigatabi.com/yasu/jyounen.html

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観音寺城2 近江国(安土)   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年09月16日 | 山城

観音寺城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

その後の観音寺城の戦闘年表

和暦西暦主な出来事
文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。

廃城

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢義治父子の頃には浅井長政野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張織田信長足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。一方で、構造的に元亀年間(1570年頃)に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性がある[2]

構造

現在のような観音寺城になるまで幾度かの改修が実施されたことが、文献や発掘調査などから明らかになっている。

観音寺城改修の歴史
回数年代主な特徴
築城当時 建武2年(1335年) 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。
第1次改修 応仁・文明年間
(1467年 - 1487年)
城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。
第2次改修 大永5年(1525年) 城といえる城郭が完成していたと推定されている。
第3次改修 天文元年(1532年 12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が
誕生していたと推定されている。
第4次改修 天文19年(1550年)前後 鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが
発掘調査から確認されている。

観音寺城は現在、正確な曲輪の数はわからないが1000箇所以上の曲輪があり、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であったと見られている。山城の特徴として、居住に便利なように山麓に居館を設け、山上付近に戦闘、防備施設があるのが一般的だが、観音寺城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されている点が他の山城とは大きく異なる。

これは六角氏の政治的立場と関係が深いと考えられている。もともとこの地域は自立意識の高い国人衆が多く、彼らと連合政権のような政治を実施していくために、城郭も広い屋敷をもつ曲輪が必要であったと思われている。

昭和57年の繖山カラー空中写真

このため規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城ではあったため、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と言われている。六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた。

これに対して『戦国の堅城』では、一定の防備が整っていたのではないかとしている。観音寺城の攻め口は、南側と北側になる。南側、つまり楽市や六角氏の居館があった方向から攻め上ろうとすると、そこには強固な石垣がある平井丸、池田丸があり、また山裾の平地部分に部隊を展開しようとすると、観音寺城の支城、箕作城、長光寺城があり挟撃される可能性がある。また北側、安土山(現在の安土城)の方向になると、曲輪はないものの尾根沿いに切岸と巨大な土塁をもって防衛ラインを形成したと考えられている。つまり山の尾根そのものを土塁としていたのではないかと『戦国の堅城』は指摘している。

この後、山城も大きく進化していき、一線防備でなく曲輪の配置や形状に工夫が見られて拠点防備になっていくが、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている。

本丸

標高は395m、面積は約2000m2、主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡(ためます、貯水槽)、幅4mの大手石階段などがある。またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。

平井丸

平井丸は、標高375mで面積は約1700m2、平井氏の居館があったのではないかと思われている。観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。その中で特徴的なのが、高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡があり、2m以上の石も使用されている。また南側には幅0.8m、高さ1.3mの潜り門もある。また北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。

池田丸

池田丸跡

池田丸は標高365m、面積は約2700m2で、最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっている。またこの曲輪は南曲輪と北曲輪に分けられ、周囲は土塀をめぐらし、南面には庭園をもつ主殿や溜枡等が発掘されている。

淡路丸

観音寺城の東の端に一郭独立したような形で、府施氏の居館淡路丸の曲輪跡があり、丁度観音寺城の鬼門の方向に当たるとされている。

大きさは、東西43m×南北50mの規模があり、周囲には土塁、東西、南側には土塁の内、外側に石垣を築いている。この曲輪は、南西、西の中間、北東の3か所の虎口を設けている。また南外側では、道路を挟んで上下斜面に腰曲輪跡が残っているが、この淡路丸に付随したものと考えられている。

曲輪を土塁で囲む、構築法がシンプルであるなど、府施氏の城であった府施山城、大森城と類似点が多いのもこの曲輪の特徴である。

佐々木古城跡繖山観音山画図

その他曲輪

その他曲輪として数多く存在する。

  • 伊藤丸
  • 沢田丸
  • 馬渕丸
  • 三井丸
  • 馬場丸
  • 大見付丸
  • 三国丸
  • 伊庭丸
  • 進藤丸
  • 後藤丸
  • 観音寺

このように曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されている。これは、六角定頼の時代に家臣団、国人衆を観音寺城へ居住させ、文献上では初めて「城割」を実施したためではないかと推定されている。

繖山山頂からの眺望

後方が安土山
 
天満宮の参道
 
六角氏の御館跡

六角氏の御館

観音正寺への巡礼参道である赤坂道の参道入り口を右におれ、突き当りの石段を上がると六角氏の御館跡がある。ここも3方向を土塁と切岸で囲まれた「上御用屋敷」という地名の場所があり、南東には高く積まれた石垣が残されている。

繖山の山麓にあり石寺城下町付近になる。

 
石寺楽市の案内看板
 
石寺楽市の推定地

石寺楽市

現在の近江八幡市安土町石寺に、石寺楽市が開かれていた。楽市とは、非課税等を通じて自由な売買を可能にした市のことである。石寺楽市は日本国内での文献上の初見で城下町に築かれたとされている。この地域は下御用屋敷、犬の馬場、馬場道、講口といった、城下町をうかがわせる地名が伝えられている。

これに対して『日本城郭大系』では、近江八幡市安土町石寺以外に、もう1カ所、楽市があったのではないかと指摘している。この石寺の地域には多くの武家屋敷もあり、ここに楽市も混在していたとすれば、規模が小さいとしている。また石寺楽市の古文献には「保内町」という記載が見受けられ、石寺にはない。石寺の隣になる近江八幡市安土町東老蘇には「保内町」という地名が伝わる場所があり、この周辺には3千軒も家が建ち並んでいたと伝承されている。これらのことにより、当初石寺に築かれていた楽市は、後に東老蘇にも新市として増設されたのではないかと指摘している。

この石寺楽市は、近隣にある安土城の楽市にも影響を与えることになる。

この石寺には楽市以外にも犬追物馬上跡があり、ここで佐々木流馬術を伝授していたと思われている。また犬追物絵図が現存しており、本丸の屋形二階に飾られていた土佐光茂が描いた障壁画の写しであるといわれている。

犬追物図/本丸の屋形に飾られていた絵図の写しと伝承されている

支城

観音寺城に数多くの支城があるのが特徴の一つである。

佐々木城の石碑

城郭、出城としての役割を果たした城もあれば、居館程度の城など様々な支城があったと推定されている。

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観音寺城 1 近江国(安土)   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年09月16日 | 山城

観音寺城

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観音寺城
滋賀県
食い違い虎口跡
食い違い虎口跡
別名 佐々木城
城郭構造 山城
天守構造 なし(屋形二階)
築城主 六角氏頼
築城年 応仁文明年間(1467年 - 1487年
主な改修者 佐々木六角氏
主な城主 佐々木六角氏
廃城年 永禄11年(1568年
遺構 本丸、二の丸、曲輪、土塁、石垣、堀、門跡等多数
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
位置 北緯35度8分43.6秒
東経136度9分46.55秒

観音寺城は、近江八幡市安土町にあった山城支城和田山城佐生城箕作城長光寺城などがある。

概要

佐々木氏の家紋(目結紋「平四つ目」)

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

歴史・沿革

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを打ち破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している[1]

応仁の乱

室町時代応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い

第一次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日応仁2年(1468年)4月1日
場所:観音寺城一帯
結果:京極持清・京極勝秀連合軍の勝利
交戦勢力
京極持清軍
京極勝秀軍
六角高頼
指導者・指揮官
京極勝秀 伊庭行隆
 
   
 
  観音寺城は開城

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

観音寺城の模型 / 滋賀県立安土城考古博物館所蔵

第二次観音寺城の戦い

第二次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)11月8日
場所:観音寺城一帯
結果六角政堯・京極持清連合軍の勝利
交戦勢力
六角政堯軍
京極持清軍
六角高頼軍
指導者・指揮官
六角政堯
京極持清
山内政綱
 
   
 
  観音寺城は開城

応仁2年11月初め、陣代山内政綱がようやく京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守り切ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。

繖山

第三次観音寺城の戦い

第三次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日文明元年(1469年)5月
場所:観音寺城一帯
結果:六角高頼軍の勝利
交戦勢力
六角高頼軍 六角政堯軍
京極持清軍
指導者・指揮官
六角高頼、山内政綱
伊庭貞隆、伊庭行隆
多賀高忠
六角政堯
 
   
 
   

東軍の細川勝元は8代将軍足利義政を擁して官軍となった。この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、3度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極軍を撃退することに成功する。

その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

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野田城 近江国(中主)

2016年09月16日 | 平城

野田城

お城のデータ
所在地:野洲市(旧野洲郡中主町)野田 map:http://yahoo.jp/tLH0KF
区 分:平城
現 状:宅地・集落
築城期:
築城者:
遺 構:
目標地:八幡神社・正法寺
駐車場:自治会館前(八幡神社隣)
訪城日:2016.9.14
お城の概要

旧兵主村の野田集落にあったとされる平城、詳細不明。

集落内の正法寺付近が城域と考えられるが、宅地造成により遺構は?。

お城の歴史
正法寺

 

八幡神社
自治会館前に駐車
考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、さきろぐ
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吉川城 近江国(中主)

2016年09月16日 | 平城

お城のデータ

所在地:野洲市(旧野洲郡中主町)吉川  map:https://yahoo.jp/SVNcc1

区 分:平城

現 状:宅地・集落

築城期:室町期

築城者:進藤山城守貞治・進藤賢盛

遺 構:堀痕・微高地

目標地:安楽寺

駐車場:安楽寺の前

訪城日:2016.9.14

お城の概要

吉川東出集落の西端に堀に囲まれた一画あり、城館の可能性あり。

 進藤神社周辺は、吉川東出遺跡とよばれ、中世の城館跡と考えられている。また、字「進藤屋敷」と呼ばれるところが進藤神社の西側にあり、こちらを吉川城址とする向きもある。遺跡ウォーカーでは常照寺付近を、『中世城館調査報告書集成』では安楽寺付近を城址に比定している。
南西すぐのところに進藤氏の「小浜城(守山市小浜)」があり、「吉川城は小浜城の出城」か?。

常照寺と光輪寺の間に進藤神社があり、吉川城の比定地は不明。 

進藤神社と常照寺の間に水路がL字型に走っており、これを堀跡か?、光輪寺のあたりが城の南東隅になる。

六角氏の重臣・進藤氏の居城のひとつ。小浜城の出城として築城されたと考えられる。

集落の西側に「進藤屋敷」の旧地名が残り、進藤神社を中心に光輪寺から常照寺・安楽寺に至る集落一帯が城域。

お城の歴史

佐々木六角氏の重臣 進藤氏は木浜・小浜の要津を領した、六角氏の重臣として観音寺城内に上屋敷を構えていた。

参考資料:遺構概要城郭分布調査1・3、遺跡ウォーカー、さきろぐ

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朝日山陣屋 近江国(湖北)

2016年09月16日 | 陣屋

お城のデータ

所在地: 長浜市(旧東浅井郡)湖北町山本(朝日小学校) map:https://yahoo.jp/ugeuqV

区 分:陣屋

現状:朝日小学校付近 

築城期:明治期(明治3年(1870)

築城者:水野忠弘

遺 構:堀痕(水路)・道路より50cm程の微高地?

目標地:朝日小学校・朝日山神社

駐車場:朝日小学校の職員駐車場(朝日山神社駐車場)

訪城日:2016.9.9

お城の歴史

明治3年(1870年)水野忠弘によって築かれた。

明治3年(1870年)出羽国山形藩水野忠弘は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と交戦したが降伏、近江国浅井郡で五万石を領して転封となった。
明治4年(1871年)には廃藩置県で朝日山県となり存続期間は僅か1年であった。

朝日山神社 御由緒
明治5年朝日山の山頂に鎮座されていた白山宮と中腹に鎮座の八幡宮を合祀し、且つ古殿地に古くから奉祀していた綏靖、安寧、懿徳の3帝をも合せ祀り、明治41年村社となった。山本山を背にした朝日郷は古くから開け開化天皇の皇子彦坐命の4世の孫が当地に住せられた時祭神の3帝を祀られたと伝承されている。平安期に僧最澄が山頂に白山比売神を勧請し、山本源氏義定同義経が中腹に源氏の守護神である八幡宮を奉斎したといわれる。あった。現社殿は天永年間の建造と伝えている。当社には古くから放生会という祭儀が伝えられており9月15日の例祭に行なわれる。朝日山は山本山ともいゝ、近江高天原の一説がある。
 
【山本源氏山本義定義経のよろいかけの松】が残る。

お城の概要  

現在は長浜市立「朝日小学校」となり遺構は?。

  

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、史跡ウォーカー、朝日山神社の由緒

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今西城 近江国(湖北)

2016年09月16日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町今西  map:https://map.goo.ne.jp/place/25003051921/

区 分:平城

現 状:神社・宅地・集落

築城期:室町期

築城者:今西野弥次郎直光

目標地:比伎多利神社

駐車場:比伎多利神社の横に駐車

訪城日:2016.9.9

お城の概要

今西城の場所は詳らかではないが、今西集落の東端にある比伎多利神社の境内には東辺から南辺に掛けて土塁と堀が残されている。西側には小字「政所」、「熊谷屋敷」、「弓削屋敷」などが残る。

 

お城の歴史

京極氏の家臣今西氏代々の居館で、今西野弥次郎直光、その子今西忠兵衛などが知られる。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 今西 住 佐々木浅井隋兵 熊谷小市郎・熊谷弥次郎」の名を記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』11、遺跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』

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旧・蒲生・神崎郡:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月16日 | INDEX

近江八幡市 23


蒲生郡 安土町 10

安土城見学会観音寺城御屋形・ 武藤氏屋敷(安土城山麓館)香庄館(香庄城)観音寺城(佐々木城) 観音寺城木村城(常楽寺城)金剛寺(こんごうでら)城 金剛寺城根来陣屋桑実寺(仮幕府)
武藤氏屋敷(安土城山麓館)

蒲生郡 蒲生町 9

大塚城・大森館・岡本城(岡本館)葛巻(かずらまき)城川合城河合城・越後城・寺村城(寺村館)横山館(横山氏館)上南(かなみ)城木村城鈴村館寺村氏(蒲生)

蒲生郡 日野町 45

新野砦太田氏館勝長氏館・神戸氏館(西大路-位置不明)・森氏館・遠城(杣‐位置不明)・木津森西城/森安城四つ谷城(奥師城)薬師堂遺構(妙楽長興寺)・落合城(落合-位置不明)・音羽城跡雲迎(うんこう)寺(音羽城出丸)鎌掛城 鎌掛城・残念!鎌掛山屋敷・鎌掛長野館・鎌掛古館・木津岡山城(岡宗左衛門屋敷)小谷山城小谷館・駒月館(位置不明)・駒月城(位置不明)・小御門(こみかど)城佐久良城桜谷城中山陣屋・外池氏館・園(おん)城鳥居平(とりひら)城長寸(ながす)城 長寸城(上の城)中野城(日野城) 日野城跡(中野城跡)音羽城(日野城/智閉城/智関城)・中郷城(中之郷城)・仁正寺陣屋西大路城西大路館馬渡氏城内池館山本館木津岡山城(岡屋敷・木津館)丸山城(澤山城)矢野屋敷上迫(かみはざま)城/(儀俄(ぎが)氏城)下迫(しもはざま)城(三木氏屋敷/三木氏城)小井口城(原氏城・原城)清田城御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)勝長氏館仮称)中山城清源寺(定秀の別邸桂林庵・西大路藩/仁正寺藩主市橋氏の菩提寺)興敬(こうきょう)寺遺構信楽(しんぎょう)院標(しめ)の松塚(蒲生貞秀の墓所)蒲生氏ゆかりの地十禅師館(下司坊)

蒲生郡 竜王町 8

鏡城(井上館)川守城(吉田城)・大木城・星ケ崎城 星ヶ崎城弓削城林城(赤座城)村田氏館信濃館丸山城岡屋城鵜川館鏡陣所裏山遺跡・西川館山副氏館(山副館)・山之上館・竜王山遺跡(野寺城下屋敷)

八日市市  29

池田城林田館瓜生津城大森城 大森城(上大森城) 大森城仙台藩代官屋敷上羽田陣屋建部氏館 建部館 (松尾神社庭園)柏木館狛氏館小脇館小脇城後藤氏館 後藤氏館小脇山城布施山城 布施山城布施館南城(柴原屋敷)上村館安村館最上陣屋(大森陣屋)雪野山城 雪野山城建部城岡田館

織田 信次の墓織田淡水の墓(供養塔) 織田淡水の墓船岡山」古戦場なり川合寺館(津田氏邸)

神崎郡 永源寺町 26

石谷城市原野城(野村氏館)市原野白鳥社城上二俣城高松御所一色城・一式城・黄和田(きわだ)城(黄蘗城)九居瀬城甲津畑城・・池之脇城・高木城・高野城高野館(お鍋館=姫屋敷)殿屋敷城相谷城山城(鶴尾山城) 相谷万灯山城山上城(山上陣屋) 山上藩は山上陣屋和南城山田城八尾城箕川館杠葉尾城坂の頭関所蛭谷館(蛭谷城)佐目館
信長の千種越え 千草峠にて鉄砲打ち申すの
神崎郡 五個荘町 7
金堂陣屋箕作城(箕作山城)和田山城 和田山城小幡館塚本館宮荘清水ヶ井(しずがい)城宮荘殿屋敷遺構建部城(建部伝内屋敷)奥村館七里館下日吉城辻伊賀守墓

神崎郡 能登川町 16
福堂館阿弥陀堂城伊庭城(伊庭陣屋)今村城猪子館 佐野館小川城垣見城川南(かわなみ)城種村城新村城(志村城)八仏手城山路城徳永城(徳永氏館)躰光寺館伊庭古城(いばふるしろ)城須田館佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 佐生日吉城 近江国(能登川・五個荘)
仮称)伊庭山城仮称)北須田山城仮称)石馬山城