城郭探訪

yamaziro

・近江大溝城

2013年06月17日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

高島病院の駐車場で、車中からの遠望

高島駅前の案内板

ガリバー像の説明板

 

2012.3.10 訪城時・・・

現在、遺構はあまり残っておらず、わずかに本の丸天守台の石垣が残るだけだ。 この天守台は、野面積みの石垣だが、一つ一つの石の大きさに驚かされる。

 本の丸天守台は田圃に囲まれているが、この田圃は水堀の跡だ。今も東側には沼が続き、琵琶湖は目と鼻の先まで迫っている。  この城が、坂本城・長浜城と同様に、琵琶湖に浮かぶ水城であった ことを、今でもその雰囲気をよく残している。
 三の丸に分部氏が建てた陣屋の総門が残っている。 この長屋門は、 現在民家として使用されていてる。  

 

天正7年、織田信澄(信長の弟、勘十郎信行の子)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって築城、打下城から居城を移した。

 大溝城は天正6年(1578)に、織田信澄(おだ・のぶずみ)が内湖(乙女ヶ池)畔に築いた水城です。信澄は織田信長の弟の子(甥)で、新庄城主(高島市新旭町)磯野員昌(いその・かずまさ)の養子となって当地に移り、新庄や南市(高島市安曇川町)などから商人らを移住させて城下町をつくりました。西近江路と大溝港が出会う水陸交通の要衝に位置することから、江戸時代以降も分部氏(わけべし)2万石の陣屋がおかれ高島地域唯一の城下町として繁栄し、今なお城下町の風情を色濃く残しています。

探訪 大溝城址 20120310

史跡大溝城本丸跡(参照‐滋賀県のお城)

 織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に大溝城が築かれた。この城は、琵琶湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。
 そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(1578)二月三日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄に宛行い大溝城主とした。
 城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。


  ところが、天正十年六月二日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は丹羽長秀と謀って、六月五日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を大坂城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。
 大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た。

 


 天正10年、本能寺の変によって、信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、明智方と見られて大坂で落命する。

 信澄の死後、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入城する。

 元和5年、京極氏に替わり分部光信が、伊勢上野より2万石で入封する。 この時、元和一国一城令の対象となり、三の丸を残して破却された。 分部氏は、 残された三の丸に陣屋を構え、明治まで代々この地を治めた。 

 

 

アクセス:JR湖西線近江高島駅~徒歩約5分                                                                                車アクセス:湖西道路南小松~R161号線~近江高島駅(第一駐車場・第二駐車場=ほぼ満車)

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


最新の画像もっと見る