城郭探訪

yamaziro

「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状(あてがいじょう) 広瀬兵庫助宛」

2015年10月30日 | 武将

秀吉家族の逃避行、原本発見 本能寺の変直後、恩賞約束

発見された「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 広瀬兵庫助宛」(長浜城歴史博物館提供)

 滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館は29日、本能寺の変(1582年)の際、羽柴(豊臣)秀吉の居城だった長浜城にいた母なか(大政所)や正室ねね(北政所)らが逃避行したことを記した文書「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状(あてがいじょう) 広瀬兵庫助宛」の原本が見つかったと発表した。

 文書の写しは複数存在し、ねねらの逃避行は史実として知られるが、原本は長く所在不明だった。同館は「文書の確認で史実がさらに裏付けられた」としている。

 文書は、逃避行を手助けした美濃国広瀬村(現岐阜県揖斐川町)の地侍、広瀬兵庫助の子孫という東京都在住の男性が所持していた。縦17・1センチ、横48・6センチで、1927(昭和2)年に編さんされた「東浅井郡志」に掲載された「甲津原区有文書」などと同じく、秀吉が兵庫助へ「母や妻らのために尽力してくれたことは喜ばしい。恩賞として五百石を与える」と書き送った内容。

 男性が同博物館に寄託することになり、同館で鑑定した結果、紙質が当時のコウゾであることや同時代の秀吉の花押と字体が同じであることなどから原本と断定した。

 本能寺の変の際、中国地方を攻めていた秀吉は長浜城に不在だった。城に本能寺の変の知らせが届いたのは翌日とされ、ねねらは明智光秀勢の攻撃を受ける危険があった。竹中半兵衛の子、重門が秀吉について記した「豊鑑(とよかがみ)」では、兵庫助が先導して自身の本拠地へ避難させたとある。

 同博物館の太田浩司館長は「リアルな史料が今回、見つかったことで、なかやねねの逃避行の事実や兵庫助が関わっていたことが明確になった」と話している。文書は11月11日から同30日まで同博物館で展示される。

■秀吉の生涯研究でも貴重な史料

 小和田哲男・静岡大名誉教授(日本中世史)の話 本能寺の変に際しての逃避行については史実としてよく知られていたが、この文書の発見により、広瀬兵庫助という地侍が関わっていたことが確実となった。秀吉の生涯研究においても貴重な史料の発見といえるだろう。

京都新聞2015.10.30

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


桑実寺(仮幕府)  近江国(安土)

2015年10月27日 | 陣所

紙本著色『桑実寺縁起絵巻』 2巻、附・後奈良天皇宸翰題籤(しんかん・だいせん)及び消息
 絵巻の絵画は土佐光茂(みつもち)筆。将軍足利義晴から寄進された。(京都国立博物館寄託所蔵)

室町幕府12代将軍足利義晴が、約3年在住し、宿坊のひとつである正覚院に仮幕府を置いたことでも知られる。『桑実寺縁起絵巻』を奉納、絵には桑実寺本堂をはじめ、多くの堂舎が描かれいる。

 信長は1534年5月12日尾張の那古屋城で誕生した時、安土では第12代将軍 足利義晴が観音寺城内の桑実寺内に室町仮幕府を開設。6月8日より10日まで3日間にわたりここで近衛尚道の娘と将軍義晴の結婚式が盛大に行われた。
長男は後の第13代将軍 足利義輝、彼は将軍の地位にあるが剣聖 塚原ト伝から奥義の伝授を受けた剣豪であり、腕が災いしてか、松永久秀の二条城襲撃の際に 壮絶な戦いで闘死。

将軍が戦った例は長い歴史の中でも無い。次男は第15代将軍 足利義昭、織田信長の擁立で将軍となったが、信長から九箇条の「殿中御掟」を突きつけられ、これに不満を持ち二度に渡り信長に逆らって挙兵したが、追放される。 室町幕府最後の将軍、足利義昭。

 観音寺城最盛期の一時期でもある。今では寂れた場所であるが当時は佐々木六角氏本拠地として近江の中枢であり、天下掌握、戦略の要衝であった。
 

仮幕府のデータ

所在地:近江八幡市安土町桑実寺675 map:http://yahoo.jp/tZDSK8

別 称:桑峰薬師

創 建:伝・白鳳6年(677年)

開 基:定恵(藤原鎌足の長男)

築城期:室町期・・・享禄4年(1531)

築城者:12代将軍足利義晴

仮幕府の概要

桑実寺(くわのみでら)(滋賀県近江八幡市安土町)は、標高433メートルの繖山(観音寺山)の中腹にあり、観音正寺へと登る途上に位置する。

 寺伝では、天智天皇の四女、阿閉(あべ)皇女(元明天皇)の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨し、阿閉皇女の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建したと伝えられている。

寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。

室町幕府

1532年には室町幕府12代将軍足利義晴が、ここに仮の幕府を設置。のちに15代将軍足利義昭も滞在する。

享禄4年(1531)近江守護職佐々木定頼を頼った将軍足利義晴が約3年在住し、宿坊のひとつである正覚院に仮幕府を置いたことでも知られる。
また、15代将軍足利義昭も滞在するなど、近江の中でも由緒ある寺院のひとつである。

桑実寺の位置(古地図)

門前に「景清の丈くらべ石」の残る

平景清も目の回復を願って、近江八幡の投宿して通った。影清道が残る

参考資料:桑実寺HP、ウィキペディア(Wikipedia)』、かくれ里を行く(書籍)

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


神明山陣城(大杉山砦)   近江国(余呉)

2015年10月26日 | 陣城
賎ヶ岳城塞群 神明山城と堂木山城 見学会に参加した
講師  愛知城郭研究会 長谷川博美氏
日 時 2015年10月24日(土)10
:05
〜16:00
 
先ずは、森林センターの研修室にてレジュメで概要講義!

城郭研究家の長谷川博美氏から「堂木山陣城・神明山陣城の縄張り図」について説明があり、郭・虎口・堀切などの位置を詳しく解説。
両陣城とも賤ヶ岳合戦の羽柴秀吉軍の陣城で、羽柴秀吉軍の最前線で、柴田勝家軍とにらみ合った古戦場。

堂木山陣城・明山陣城見学会 2015.10.24

神明山陣城(遠景・・研修バスの中から)

当日見学会、一緒の近江ノ国米ちゃんのWEBブログの【見学ルートをGPSトラックで取った図】をお借りしました


画像

 

旧余呉町火葬場跡地に車を駐車。

火葬場前の農道を約100m西進し山裾脇に神明山砦・堂木山砦の登城口があり、小さな案内看板がある。
獣除柵沿いに登って行き、獣除柵の扉を開け入ること2回、神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。

獣除柵沿いに登って行き、神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。

 左側の神明山砦に向かう。

神明山陣城へ

急な坂を登ってすぐに獣除柵の扉を開け、鉄塔のある丘を越えて尾根伝いに西進、途中に陣地跡のような盛り上がった台地を越え、約15分で土塁前に着く。土塁を越えると主郭東側斜面の郭で北側のも土塁が施されている。斜面を登ったところが主郭で一段高く、土塁に囲まれた削平地で中央に縄張図付の説明板がある。北側と南側に犬走りがあり、西側下にも郭がある。西側郭土塁を越えてすぐに2条の堀切が見られる。

お城の概要

 神明山砦は余呉湖の北岸にあり、北東へ伸びた丘陵の頂部、標高294.5mの山頂に築かれている。同じ尾根の北東先端には堂木山砦、南西には茂山砦がある。

 神明山砦は山頂の主郭を中心に東西尾根に曲輪を配している。主郭は山頂にあり、中央が土壇となって一段小高く周囲を土塁が巡り南東側に虎口を開く。この土壇を取り巻くようにさらに土塁が周囲を巡り主郭を成す。西尾根は二条の堀切で遮断し、さらに西へ行くと西郭があり、堀と切岸による小郭となる。

主郭の東下には斜面の周囲に土塁を巡らせ、その内部に段々の削平地を設けた曲輪がある。東端の土塁下には浅いが堀切があり尾根を遮断している。

この東郭からさらに堂木山砦のほうに向かうと、切岸加工された土壇があり、

西端は尾根を遮断する空堀・窪地となる。

お城のデータ

 別 称:大杉山砦

所在地:長浜市余呉町八戸(旧伊香郡余呉町八戸) map:http://yahoo.jp/FPcKAEこの地図のURL

現 状:山林

築城期:織豊期  天正11年(1583)

築城者: 羽柴秀吉

区 分:陣城(砦)

遺 構:主郭・郭・土塁・堀切・犬走り

標 高: 295m 比高差:160m

駐車場:旧余呉町火葬場

訪城日:2015.10.24

歴 史

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。城将は蜂須賀彦右衛門尉家政と木村小隼人重茲。

尾根道を進むと小高い【古墳】に

いよいよ、神明山砦

 

主郭

三角点

主郭の西の堀切

西側下にも郭がある。西側郭土塁を越えてすぐに2条の堀切。

主郭へ方向、東へ戻る

参加者記念撮影(近江ノ国 米ちゃん撮影)

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・現地縄張り図(長谷川博美氏 作図)、近江ノ国 米ちゃんのルート図

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


堂木山陣城 近江国(余呉)

2015年10月26日 | 陣城
菖蒲谷砦賎ヶ岳城塞群 神明山城と堂木山城 見学会に参加した
講師  愛知城郭研究会 長谷川博美氏
日 時 2015年10月24日(土)10
:05
〜16:00
 
先ずは、森林センターの研修室にてレジュメで概要講義!

城郭研究家の長谷川博美氏から「堂木山陣城・神明山陣城の縄張り図」について説明があり、郭・虎口・堀切などの位置を詳しく解説。
両陣城とも賤ヶ岳合戦の羽柴秀吉軍の陣城で、羽柴秀吉軍の最前線で、柴田勝家軍とにらみ合った古戦場。

お城のデータ

別 名: 堂木山砦 

所在地: 滋賀県長浜市余呉町東野 map:http://yahoo.jp/N0YpPdこの地図のURL

現 状:山林

築城期:鎌倉期 改築:織豊期 天正11年(1583)

築城者:東野越前守道義

改 築: 羽柴秀吉

初城主:東野道義  合戦時城将:山路正国,木下半右衛門

区 分:山城・陣城(砦)

遺 構: 主郭・出郭・虎口・土塁・横堀・堀切 

標 高:283m 比高差:130m

駐車場:旧余呉町火葬場に駐車

訪城日: 2015.10.24

堂木山陣城・明神山陣城見学会 2015.10.24

 当日見学会、一緒の近江ノ国米ちゃんのWEBブログの【見学ルートをGPSトラックで取った図】をお借りしました

 画像

 堂木山陣城(遠景)

東野山陣城・今市上砦(久太郎小屋)菖蒲谷砦東野山砦(遠景)

旧余呉町火葬場跡地に車を駐車。

火葬場前の農道を約100m西進し山裾脇に神明山砦・堂木山砦の登城口があり、小さな案内看板がある。
獣除柵沿いに登って行き、獣除柵の扉を開け入ること2回、神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。獣除柵沿いに登って行き、
堂木山城概要図

お城の概要

神明山砦と堂木山砦の分かれ堀切を、右側に登ったってすぐに小さな出郭があり、尾根伝いに進むと土塁に上がる。

堂木山砦は余呉湖の北岸にあり、北東へ伸びた丘陵の先端頂部、標高238mの山頂に築かれている。同じ尾根の南東部には新明山砦、茂山砦がある。

堂木山砦は北東から南西に伸びた山頂に南北に二郭を設けている。主郭は北側で、土塁が巡る南北二つの曲輪があり南北両端に空堀を配して遮断する。内部は食い違い虎口によって繋がって南北二つの曲輪となり、南側の曲輪は中央部東側、北側の曲輪は北東部と南西部にそれぞれ虎口を開いている。この主郭部は西側に犬走があり、南の二郭から主郭部の外の犬走を通って北曲輪の虎口より入るようになり、この虎口は南北両側から横矢が掛かるようになっている。

南の二郭は削平状態は良くないが、周囲には土塁が巡らされ、東西二段となり、西下の段は南西尾根に堀切と土塁を設けている。

 

神明山砦と堂木山砦の分かれ道にある堀切に着く。

歴 史 

浅井氏の家臣で在地の土豪であった東野越前守道義の居城であった。この「堂木」の名称も「道義」からきたものだとか。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。調略によって秀吉方に寝返った長浜城主:柴田勝豊(病床の為)の代理の重臣で長浜衆と呼ばれた山路正国、大金藤八郎らが堂木山砦に布陣していた、山路正国は砦を脱走して柴田方へ走った為、その後には木下半右衛門が入った。

先ず、堂木山砦に向かう。

急坂を登り、尾根道を進むと【出郭の土塁】に着く

小堀切に土橋

西郭の土塁

主郭

主郭喰違い虎口(写真では、分かりにくい)

昼食【賤ヶ岳弁当】

昼食後、明神山陣城へ

明神山陣城へ

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・現地縄張り図(長谷川博美氏 作図)、近江ノ国 米ちゃんのルート図

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


山城サミット開幕 米原で大会、京極氏遺跡など見学

2015年10月25日 | 戦国山城

山城サミット開幕 米原で大会、京極氏遺跡など見学

米原市の担当者(右)による解説に耳を傾ける参加者たち=同市の上平寺城跡で

写真

 山城跡の魅力に触れ、まちづくりへの活用を考える「全国山城サミット米原大会」が二十四日、米原市内で始まった。二十五日まで。

初日は、上平寺(じょうへいじ)の京極氏遺跡で見学交流会があった。

 上平寺城跡、京極氏館跡などでなる遺跡では、県内外から参加した九十五人が四十五分かけて、麓から標高約六百六十メートルの城跡を目指して登山。現地では市の担当者が京極氏にまつわる歴史について解説した。

 長野県上田市で山城の保全活動をする内田守之さん(78)は「見張らしがとても良く、魅力的な山城」と感心していた。

 この日は番場の鎌刃(かまは)城跡でも交流会があった。

 二十五日は、県立文化産業交流会館で、県立大の中井均教授(日本城郭史)による講演、福井県や岐阜県の城跡の調査成果、まちづくりの活動報告などがある。

(中日新聞)・・・木造康博

 

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

 

 


福満(ふくみつ)遺跡 現地説明会

2015年10月25日 | 遺蹟

滋賀・彦根に5世紀の円墳 初確認、空白期埋める

円墳の全周の4分の1に当たる周濠(手前)が確認された福満遺跡。中央付近に方形周溝墓の遺構も見える=彦根市小泉町

 滋賀県彦根市小泉町の福満(ふくみつ)遺跡で、古墳時代中期後半から末期(5世紀後半~末)にかけての円墳2基を確認したと、彦根市教育委員会が21日発表した。市内で5世紀代の古墳が見つかったのは初。4世紀代と6世紀代の古墳はすでに確認されており、市教委は「間の空白を埋め、市内の古墳の変遷過程を解明する上で貴重」としている。

 同遺跡は縄文期から中世までの複合遺跡。集合住宅の建設に伴い、7月中旬から11月上旬まで約400平方メートルを調査している。

 円墳2基のうち1基は調査地内の東側で、全周の約4分の1に当たる周濠(しゅうごう)(古墳の周囲の溝)を発掘。直径は約25メートルで、市内の古墳では規模が大きい部類に入る。周濠内からは多数の円筒埴輪(はにわ)の破片や、ふた付きの高坏(たかつき)、水などを入れる容器の提瓶(ていへい)といった須恵器、土師(はじ)器類も出土した。

 もう1基は調査地内西側で見つかり、周濠の土の状況から同時代の古墳と推定。また、中央付近では古墳時代前期(3世紀)とみられる方形周溝墓1基の遺構も発見した。

 市教委は、同遺跡の近隣地で過去にも古墳の埋葬施設らしき遺構や、周濠と考えられる溝なども確認していることで、「在地有力者の古墳群がこの一帯で形成されていた可能性もある」と推測する。

25日午後1時半から一般向けの現地説明会を開く。問い合わせは市教委文化財課TEL0749(26)5833。

 

出土品

須恵器 有蓋「高盃」・須恵器 「坏蓋」

左写真・・・須恵器 有蓋「高盃」に「坏蓋」を載せて

遺跡は、埋戻し『土中保存』・・・

所在地;彦根市小泉町大字大王870 map:http://yahoo.jp/ypodNs

参考資料:現地説明会・資料、京都新聞(10/22記事)

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


小堀氏館   近江国(長浜)

2015年10月24日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市小堀町 map:http://yahoo.jp/XL4GgO

区 分:平城

遺 構:碑・説明板 

築城期:室町期

築城者:小堀氏

目 標:小堀町公会堂

駐車場:小堀町公会堂

訪城日:2015.10.24

お城の概要

小堀町公会堂(公民館)の道を挟んで斜め前に石碑と説明板があります。その手前の路地を入ると池が有り、これは堀跡のようです

小堀氏館は、遺構などは何も残っていないが、小堀地区の総持寺西側住宅地の一角に石碑と案内板が立てられている。 

慶長7年の検地の絵図が残っていて、そこには「小堀新介殿屋敷」と記されていて道路と水路に囲まれた長方形の敷地であったようだ。

歴 史

小堀遠州出生地

小堀遠州をだした小掘氏の屋敷跡である。

 同家は山門領平方荘上郷内の小掘居住した土豪で、永享7年(1435)の勧進猿楽棧敷注文次第(『長浜八幡宮文書』)に『小堀殿』として登場するのが初見である。その後近くの総持寺の文書に土地の寄進者、売主として戦国初期まで登場する。浅井氏に仕えたことは間違いないが、その滅亡を待たずに秀吉の旗下に入ったらしい。

慶長七年(1602)検地の際作成された絵図が残っており、移住直後の状況を知ることができる。

 場所は、小堀町小字東方の一部で、絵図には「小堀新助殿屋敷」と記されている。絵図中の屋敷付近は、縦横に道と水路がめぐっていて、何処までが屋敷であるのか判断に苦しむ。同じく同村に残る検地帳によれば、六畝七歩を「新助殿やしき」として登録しているが、これでは規模が小さすぎるであろう。慶長絵図によると、南に「馬かけ場々」、「下司村堀」があり、屋敷との関連が指摘される。特に、後者は細長い池として現在も水をたたえており、地元では「ばんば堀」と呼ばれている。この堀が屋敷を回るものであったとすれば、先の屋敷地の比定は、もう少し東へ範囲を拡大させる必要。 

遠州は、天正7年(1579)当地で生まれた。その頃、父親の新助政次は、当時長浜城主であった羽柴秀吉に仕えていた。
 小堀町の共有文書の中に、江戸幕府が慶長検地に使用した慶長7年8月の年号のある「江坂田郡小堀村絵図」がある。それには「小堀新助殿屋敷」とあり、ここがすなわちその地にあたる。この東南には「馬かけばんば」「ばんば堀」、また、西南に「ばんば屋敷」などの地名があり、しかも、当屋敷を中心とした付近一帯の地形は、ほぼ絵図のまま今日まで残っており貴重である。

石碑・説明板(30年前の写真)


ばんば堀(30年前の写真) 

小堀 政次 (こぼり まさつぐ)  神主 侍大将 中陣副将

「・・・心の動揺は、刀や槍のさばきにも現れる。 心を弱くすれば、それは必ず相手にも伝わるもの。 一度敵と刀を交えたならば、決して迷うな。 気で倒せ」。豊臣秀吉 の配下として有名な武将。

最初は 浅井家 に仕えていたのだが、浅井家 が 織田家 に滅ぼされた後は 織田家 の家臣となり、秀吉の弟 「羽柴 秀長」 の配下となった。

羽柴秀長 の死後は 豊臣秀吉 の配下となり、主に内政や築城などで功績を上げ、備中(岡山県西部)の城主となっている。
「関ヶ原の戦い」 の後は 徳川家 に従った。

彼の息子の 「小堀 政一」 は 「小堀 遠州」 と呼ばれ、芸術的な 築城 や 庭作り で一躍有名になり、華道や茶道の 「遠州流」 の創始者となっている。

 小堀氏館は、築城年代は定かではないが小堀氏によって築かれた。 小堀遠州正一の父正次は、浅井氏に仕えていたが、浅井氏滅亡後に豊臣秀秀長に仕え3,000石を領した。 関ヶ原の役の後、幕府の備中総代官に補され、備中松山城に入りにて14,000石を領した。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、淡海の城

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


金剛輪寺城    近江国(秦荘)

2015年10月23日 | 城郭寺院

 

天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つ、金剛輪寺も被害を受けるが、本堂・三重塔は寺僧の尽力で焼失を免れた。

  

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町(旧秦荘町)松尾寺874 map:http://yahoo.jp/T5jHwg

区 分:城郭寺院

標 高:274m     ⑤比高:100m(黒門175m)

現 状:寺院・山林

遺 構:堀切、空堀、曲郭(坊舎・宿坊)・石垣・本堂裏山上の出丸遺構

築城期:鎌倉期

築城者:佐々木頼綱によって建立された本堂

目標地:金剛輪寺

駐車城:参拝者用無料駐車場

訪城日:2015.10.22

 縄張り図(滋賀県中世城郭調査分布より)

国道307号線沿いの『金剛輪寺』の石碑

『金剛輪寺』総門(黒門)

総門(黒門)~明壽院(赤門)への参道

    

赤門からが城郭遺構―-概略図

赤門

 

お城の概要

湖東三山の一つ金剛輪寺(こんごうりんじ)も戦国時代には城郭であった。佐々木六角氏が百済寺と同じように拠点として利用した。
 金剛輪寺の戦国期は、参道両側に寺とし坊舎は、石垣塀で囲われた僧兵達の宿所跡(曲郭)として機能した。本堂(主郭=標高274m)の裏山には堀切、空堀・土橋で後方尾根を遮断で構成された「城山」標高396mと呼ばれる【出曲郭・物見曲郭】が残存する。当然のことながら、近江に攻め来る織田信長には邪魔な存在となったので焼こうとした。

白門から、高石垣の石塀が続く

白門

南曲郭の奥に虎口のような石垣と石段

水抜き口二天門近江守護職・佐々木頼綱によって弘安11年(1288)に建立された「本堂」・・・(敏満寺文書に記す)

三重塔

南谷堀切

「山中に城山という所のあるのは、当山衆徒の砦である」と記されいる。

砦概略図 

参考資料写真・「城山」標高396mに平削地『出丸・物見櫓か(東側の宇曽川ダムの上流左岸の林道から、行けそうだが?)

  「山中に城山という所のあるのは、当山衆徒の砦である」と記されている。金剛輪寺の境内には、多数の坊舎の跡が残る。

 本堂(標高274m)の裏山には堀切、空堀・土橋で後方尾根を遮断で構成された「城山」標高396mに平削地『出丸・物見櫓』http://yahoo.jp/qIKdxjがある、秦川山(468m)の北200mに、西側への舌状尾根の先端に位置している。                                                                                                              百済寺城の北坂本城(北坂城)と同じ役割をしていたか。

歴 史

 元寇の役(蒙古襲来)の戦勝記念として、近江守護職・佐々木頼綱によって弘安11年(1288)に建立された「本堂」は、鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されています。

応仁の乱後には、佐々木六角氏や京極氏が時々宿陣し、戦時には度々兵糧米、軍資金を強請され、当山においても弓矢をもって自衛し、衆徒の砦も築かれていた。
天正元年(1573)、百済寺が鯰江城を後援したことで、 信長は同寺を焼き払ったが、当山も同罪ということで火を放たれたが、当山僧侶の奇知により、本堂・三重塔・二天門等はその火を免れた。 『パンフレットより』

 堂内には御本尊をはじめ、阿弥陀如来坐像、十一面観音立像など平安から鎌倉時代の仏像が安置され、その多くが国の重要文化財に指定されています。
また、三重塔(鎌倉時代)および二天門(室町時代)も国指定重要文化財で、桃山時代から江戸時代の中期にかけて造られた本坊明壽院の庭園は近江路随一ともいわれ、国の名勝に指定されています。

三重塔(鎌倉時代)

 天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。

 本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上った奥。

参道も「食い違い虎口」のように四度曲り、本坊は、参道か見えない(見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかと)いう説もある。

しかしこの寺の僧たちは工夫をこらした。 

織田信長の軍勢が寺に攻め寄せた時、寺の伽藍が火の海になっているように見せかけたのである。                                                       金剛輪寺の近く流れる川は宇曽川がある。織田信長の焼き討ちの際に本堂が燃えているように見せかけ、嘘をついたから宇曽川とか?・・・。
 その甲斐あって寺は焼かれず、本堂は国宝、三重塔、(護摩堂)は重文として厳然として存在している。

  • 余談だが『石垣が違う」
     この寺には、「下倉米銭下用帳」という戦国時代の文書が残っています。これは寺のもろもろの活動に伴う支出台帳のようなもので、米や酒といった品目がどのような用途に使われていったのか、事細かに記録されています。
  •  その中の天文~弘治年間(1532~57)の項目に、観音寺城の石垣普請にあてがわれた支出記録が存在します。どうやら、観音寺城の石垣普請に金剛輪寺の勢力が関与しているらしいのです。
  •  織田信長の安土城に先行する総石垣として有名な観音寺城ですが、これまでの城郭研究では、観音寺城の石垣普請には寺院勢力が大きな役割を果たしたと考えられています。
  • 『金剛輪寺文書下倉米銭下用帳』があります。http://www.town.aisho.shiga.jp/rekibun/H24shinshitei/geyouchou.htm
    八斗    御屋形様人所下石垣打可申之由被仰出谷十介殿方被来候上下一宿飲酒
    六斗    同石垣之事に談合會衆
    二斗八升 同石垣之事に三上宗左衛門殿へ樽一荷遣候了
    一斗    同持行食
    三升    恒例銭不成候間右に遣候時承仕酒
    二斗四升 恒例銭利弁相果候間中村殿へ樽一つ
    八斗    御屋形様石垣打申に付て西座より賄之事御訴訟申上之由候て谷十介方被来候上下飲酒
    (中略)
    一斗六升 上之御石垣之事に三上殿使者十介方賄之事西座申通被仰候て御出之時上下両度飲酒
  • 安土城が天正4年(1576)に築城開始前に、金剛輪寺の石工の手で文~弘治年間(1532~57)の項目に40年前に「観音寺城の石垣普請」をしていた。

    金剛輪寺城  近江国(秦荘)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)』、淡海の城、金剛輪寺HP、湖東三山ブックレット

          本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


金剛輪寺

2015年10月23日 | 観光ボランティアガイド

淡海ボランティアガイド協会 現地研修会に参加

金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。地名から松尾寺ともいう。本尊は聖観音、開基(創立者)は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。

 歴史

琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。

 金剛輪寺は、奈良時代の中頃、天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山されました。言い伝えによりますと行基菩薩が一刀三礼で観音さまを彫り進められたところ、木肌から一筋の血が流れ落ちたため、その時点で魂が宿ったとして、粗彫りのまま本尊としてお祀りされました。後の世に「生身(なまみ)の観音」と呼ばれるようになり、全国の観音信徒より篤い信仰を集めています。
平安時代の初めには、比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場とされて以来、延暦寺の末寺、天台宗の大寺院となりました。

金剛輪寺HPより金剛輪寺HPより

その後、平安時代前期の嘉承年間(848 - 851年)には天台宗の僧・慈恵大師良源(三元大師)によって再興されたと伝え、寺では良源を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘があるが、これは前身本堂のもので、現存する本堂は南北朝時代の再興とみられる。

 天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。

国道307号

境内

西面する総門を入ると左に愛荘町立歴史文化博物館があり、その奥に塔頭の常照庵がある。

総門から参道を進むと左に

本坊の明寿院があり、そこから両側に千体地蔵の並ぶ参道を数百メートル進んだ地点に二天門、その先に本堂、本堂左手の高所に三重塔がある。かつてはこの参道に沿って多くの僧坊が建ち並んでいた。

 
堂(国宝)
入母屋造、檜皮葺の和様仏堂で、中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。桁行(間口)、梁間(奥行)とも7間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。須弥壇の金具に弘安11年(1288年)の銘があるが、本堂の建築様式・技法は鎌倉時代まではさかのぼらず、南北朝時代の建立とみられ、前述の金具は前身堂のものとみられる。1988年の屋根葺替え修理の際の調査の所見でも、須弥壇の年代は金具銘の1288年まではさかのぼらないとしている。様式は和様を基調とし、正面柱間をすべて蔀戸にするのは和様の特色であるが、内部の組物の拳鼻などに禅宗様の要素がみられ、拳鼻の彫刻の様式も、本建物を南北朝時代の建立と判定する要素の一つである。本尊を安置する厨子は建築的細部をもつもので、入母屋造、檜皮葺きとする。この厨子は建物と同時期の作とみられ、本堂の「附」(つけたり)として国宝に指定されている。本尊の聖観音立像は、他の多くの天台寺院の本尊と同様、秘仏である。この像は一見、未完成像かと思われるほど、体部の彫りが荒々しく、平安時代後期の鉈彫像の系譜に属するものとみられる。
二天門(重文)
様式上、室町時代前期の建築。寺伝では、元来は楼門(2階建て門)だったが、2階部分が失われたものという。組物の形式などからみて、伝承どおり楼門の上層部分が失われたものか、または楼門として建立する予定だったものが未完成に終わったものとみられる。屋根は入母屋造、檜皮葺とするが、屋根材は江戸時代のもので、当初からこの形式であったかどうかは不明である。
三重塔(重文)
本堂の左(北)の一段高い場所に建つ。寺伝では鎌倉時代の寛元4年(1246年)の建立というが、様式的には南北朝時代の建築とみられる。織田信長の焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃し、塔の初層と二重目の軸部(柱、梁などの根幹材)と組物がかろうじて残るだけで、三重目はなくなっていた。
現状の塔は1975年から1978年にかけて修理復元されたもので、欠失箇所は同じ滋賀県内の西明寺三重塔などを参考に復元したものである。
明寿院
金剛輪寺の本坊。桃山時代から江戸時代にかけて整備された池泉回遊式庭園がある。1977年の火災で書院、玄関、庫裏が焼失し、現在の建物はその後に再建されたものである。
 
火災をまぬがれた護摩堂(正徳元年・1711年建)と茶室水雲閣(安政年間・1854-1860年)がある。

 

桃山時代から江戸時代の中期にかけて造られた、本坊明壽院の庭園は近江路随一ともいわれ、国の名勝に指定されています。

池泉回遊式庭園。

桃山、江戸初期、中期の三庭からなり、作者不詳でありますが、老杉蒼松の自然を背景とし、灯籠泉石樹木の配置等、素晴らしく、晩秋の深紅に染まる色鮮やかな紅葉は「血染めのもみじ」と広く知られております。観音様のやさしいお心が満ち、湖東三山一の名園古庭であり、国の名勝にも指定されております。

  • 石楠花(4月中旬より末まで)
  • さつき花(新緑の頃5月より6月中旬)
  • 紫陽花(6月末より8月下旬)
  • 睡蓮(6月より9月)
  • 紅葉(10月より11月 血染めのもみじ)
  • 雪(紅葉の散る頃より2月)

 

金剛輪寺(こんごうりんじ)阿弥陀石仏 (鎌倉時代後期、花崗岩、高さ 136Cm 座高 83Cm)

ニ天文

元寇の役(蒙古襲来)の戦勝記念として、時の近江守護職・佐々木頼綱によって建立された本堂は、鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されています。堂内には御本尊をはじめ、阿弥陀如来坐像、十一面観音立像など平安から鎌倉時代の仏像が安置され、その多くが国の重要文化財に指定されています。
また、三重塔(鎌倉時代)および二天門(室町時代)も国指定重要文化財

桜が咲いてました

 金剛輪寺石造宝塔 (町指定文化財、鎌倉時代後期、花崗岩、後補の請花・宝珠を除く高さ 261Cm)

石造地蔵菩薩座像

舟形状に加工した一石の表面に、錫杖と宝珠を執る地蔵菩薩を浮彫で表現しています。二重円相光背を線刻し、蓮華座の下に格狭間入りの基壇をあらわすのが特徴です。

参考資料:金剛輪寺HP、ウィキペディア(Wikipedia)、湖東三山ブックレット

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


依智秦氏の里「古墳公園」と道標・石仏地蔵を訪ねて

2015年10月23日 | 観光ボランティアガイド

淡海観光ボランティアガイド連絡協議会交流会に参加しました

交流会

講演『築城の名手・・・藤堂高虎』

 

現地研修会

研修コース説明

古墳発掘出土品

高砂ゆりが咲いてました

像高約70cm、肉付きがよく、表情は、石仏としての魅力(南北朝期)http://yahoo.jp/YK74st

高さ1.1mの表面を舟形に彫りくぼめて蓮華座上の阿弥陀坐像を厚肉彫り

金剛輪寺の近くにあって、昔ながらの上蚊野集落で、集落中ほどの小さな辻の「辻堂に阿弥陀坐像石仏」http://yahoo.jp/cVAqmn

境内には小石仏の集積があって地蔵や阿弥。

八幡神社

八幡神社裏の古墳

依智秦氏の里古墳公園 http://yahoo.jp/mXOq6j

渡来系氏族の「依智秦」氏。
 「依智秦」氏は「秦」氏の一族と考えられ、現在の愛知郡を中心とした湖東平野を本拠地として活躍した古代の渡来系氏族です。10世紀以前の文献を調べてみると、郡の役所の主要なポストを依智秦氏がほぼ占めていたことがわかっており、当時の愛知郡内において絶大な力を誇っていたことが想像できます。近江を代表する渡来系氏族といえるかもしれません。
 この「依智秦」氏の墓ではないかと考えられているのが、金剛寺野古墳群をはじめとした愛知郡内を中心に集中して分布する群集墳です。
 金剛寺野古墳群、戦前には298基の古墳からなる群集墳であったことがわかっています。ただ残念なことに戦後の開拓により大部分が削平されてしまいました。

現在は、残った古墳の内10基を「依智秦氏の里古墳公園」として整備して整備・保存されています。

〒529-1203
滋賀県愛知郡愛荘町上蚊野

小曽川沿いで研修バスに「金剛輪寺」に向かいます

宇曽川です

参考資料:公益財団法人滋賀県文化財保護協会HP、愛荘町観光ボランティアガイドさん

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


箕川館 近江国(永源寺・箕川)

2015年10月21日 | 居城


お城のデータ

所在地:東近江市箕川町  (旧神崎郡永源寺町箕川) map:http://yahoo.jp/l1Rla6この地図のURL

現 状:山林・社地+寺地:(永昌寺・八坂神社ほか)

遺 構::曲輪・土塁

区 分:居館(城館)

築城期:室町期

築城者:

目標地:箕川バス停

駐車場:路上駐車(八坂神社・永昌寺周辺)

訪城日: 2015.10.21

集落東丘陵部の削平地は遺構

 臨済宗永源寺末の永昌寺

 集落東寄に臨済宗永源寺末の永昌寺がある。

  石段を上りささやかな境内に進むと本堂前の前に宝篋印塔を中心に据えた苔むした庭ある(寺院の庭は、本堂の裏が多いが)。寺は元々西北方、谷を隔てた山裾の寺屋敷と呼ばれる場所にあった。が後に現在の場所に移され宝篋印塔も一緒に移建されたとされる。さらにその後の道路拡幅でも1mばかり移動していると。

 

南北朝期の他と多少異なる特徴を有する宝篋印塔(永昌寺)

箕川バス停

箕川集会所

 八坂神社八坂神社

右奥は永昌寺)

 室町初期の狛犬」

本殿拝殿 神社の裏は

お城の概要

 箕川には、南北朝期の他と多少異なる特徴を有する宝篋印塔(永昌寺)や、「牛頭扁額」を揚げ「室町初期の狛犬」を所蔵する。(箕川・八坂神社)もあり、愛知川上流最奥地にも拘わらず歴史の古さを残す。

 

歴 史

元は、大字箕川字川東、標高378mの御池川左岸に所在した。

蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門の『大岩日記』は、

 蛭谷・君ケ畑の支配所役人が全国の木地師を訪ね歩き、金銭を徴収した記録である氏子駈帳・氏子狩帳の現存分を翻刻。さらに廻国先の現代地名を注記した。主要な木地師関係文書と「大岩助左衛門日記」(33代大岩助左衛門尉重綱が、1695(元禄8)年にまとめたものである)

 

「明応二年十月十日、川上村にて野良畑と一義に付、今日より取合しける。左衛門尉、大岩助殿、両家大将して同四月一六日、当四ケ村の定を書留て其時に大利を得る。箕川道善も手がらして、万惣公事を免じけろ。」記されている。

箕川館 近江国(永源寺・箕川)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、城郭分布調査4、遺跡ウォーカーβ(滋賀県の遺跡)

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


杠葉尾城 近江国(永源寺・杠葉尾)

2015年10月21日 | 丘陵城
六角氏一門である佐々木定頼の弟で右近大夫・佐々木高実氏邸・杠葉尾(ゆずりお)城
 銚子ケ口岳登山口(標高340m)、駐車3台可
 
お城のデータ

所在地:東近江市永源寺杠葉尾町 (旧神崎郡永源寺町大字杠葉尾) map:http://yahoo.jp/3kngOHこの地図のURL

区 分:丘陵城(邸址)

現 状:山林 

築城期:室町期

築城者:佐々木高実(梅戸高実)

遺 構:曲郭、土塁、石積み、櫓台

標 高:360m   比高差:20m  

目標地:銚子ケ口岳登山口(標高340m)

駐車場:銚子ケ口岳登山口(標高340m)、駐車3台可

訪城日:2015.10.21
 
お城の概要

杠葉尾(ゆずりお)は、石榑峠、三重県へと続く八風街道の近江側最後の村である。

 八風街道は保内商人や山越え商人が街道と利用していた。(今掘日吉神社文書)織田信長も峠を越え、伊勢から京へ。

 杠葉尾(ゆずりお)城は、永源寺町杠葉尾集落(標高330m)の南側の舌状張出した丘陵中腹にあった。(国道421号線から杠葉尾の銚子ケ口岳登山口)

旧八風街道の『近江の城館の最東端」。近江の抑えに、六角氏一門である佐々木(梅戸)高実氏邸跡(銚子ケ口岳登山道)沿いに、曲郭、土塁、石積み、が残る。背後尾根から2mの掻揚げ土塁で遮断し、八風街道の監視の役割を担っていた。

新設された国号421号線で分断されたが、集落の南側の丘の頂部に、平削地(出丸・物見櫓)が比高差10mを図る。(茅葺屋根の西側・・・杉・竹・雑草)

 梅戸氏(梅戸城・・・いなべ市大安)は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である佐々木高実氏【永源寺町杠葉尾(ゆずりお)住】を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

 
歴 史
 
「神崎郡志稿」(下巻)には、
梅戸氏邸 梅戸高実の邸址といて、杠葉尾(ゆずりお)に潤き一区があると記す。
 
梅戸城 伊勢国(大安町)

梅戸氏(うめどし)は、伊勢国の国人で北勢四十八家の内の一つ。田光隼則の後裔で、戦国時代に六角高頼の子高実が入嗣。永禄11年(1568年)、織田信長の北伊勢侵攻の時に攻め滅ぼされた。

梅戸高実は 佐々木定頼の弟で右近大夫と称し、伊勢の神戸家を継いだ」とある。詳細不明

 六角高頼
          ┃
    梅戸高実
          ┣━━━┳━━━┓
     高宗  実秀  高資 

梅戸 高実(うめど たかざね、 文亀2年(1502年)- 永禄4年(1561年))は、戦国時代の武将。六角高頼の子で梅戸氏に養子に入る。梅戸氏は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である高実を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

後に梅戸城(現・三重県いなべ市大安町門前字天水。光蓮寺山公園として整備されている)を築城する。高実の死後は次男の実秀が家督を継いだが、1568年に織田信長に攻められて滅亡している。

 文献(角川日本地名大辞典)では、

 千種峠(根の平峠のこと?)などと共に、応仁文明の乱以降、警戒が厳重になったそうだ。盗賊などが出没する物騒な峠道でもあり、応仁2年(1468年)に尾張商人が八風峠を越えた時は、警固の武士数10名を率いて山上の宿に泊まったとのこと。また、連歌師宗長が桑名から近江へ越える折りにも、峠の旅宿で一夜を過ごしたと「宗長日記」にあるそうだ。大永6年(1526年)のことで、当時は「昔より馬・輿(こし)も通らぬという険しい八風峠」と言われたとのこと。ただ、険しいながらも峠に宿があったことに驚く。
 
<八風峠とし石榑峠>
 石榑峠の道が今でも八風街道と呼ばれるのは、やはり歴史的に八風峠の方が石榑峠より早くから通じていた道だったからであろう。ただ、その八風峠は江戸時代に入るとほとんど使われなかったようだ。一方、石榑峠は明治期まで、近江から伊勢参りをする近道として、また伊勢方面からは政所へと茶摘み女が越える道として使われたそうだ。旧永源寺町は政所茶の生産地として知られる。その延長として石榑峠に車道が通じ、遂には石榑トンネルが開通することとなったと言える。
 
 では何故、八風峠に代わって石榑峠が用いられるようになったのだろうか。一つは、標高かとも思った。八風峠は938m、石榑峠は689m(どちらも文献より)で、石榑峠の方がやや低い。近江から伊勢に通じるには、より南に位置する八風峠の方が近いが、全体的な道の容易さから、石榑峠のルートが選択されたのかと思ったのだ。

<八風峠>
 国道421号が八風街道と呼べるのは、この八風谷橋を渡った所までであろうか。
 
 以前は八風峠への分岐の角に、永源寺町教育委員会による「八風峠」と題した立札が立っていた(写真)。「八風の名は古く、伊勢風土記逸文、神武天皇東征神話に早くも八風の文字がある。」と始まる説明文は、最後に
「戦国時代を全盛とした峠道も、信長は安土城下に楽市を開いて山越商人を禁止、江戸幕府の関所徹底取締令などで八風越えは殆んど消滅したことは、慶安三年(1650)の黄和田文書が示しており、今も荒廃のままである。」と結んでいた。
上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます

八風峠の看板 (撮影 1992.10.21)・・・(画像は不鮮明です)

背後を遮断、掻揚げ土塁背後を遮断、掻揚げ土塁

曲郭は三段

曲郭から国道421号線へ

集落背後の平削地(茅葺屋根の背後)

リンドウの花

佐々木高実氏邸【杠葉尾(ゆずりお)城】 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、遺跡ウォーカーβ

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


菅浦城(菅浦惣村) 近江国(西浅井・菅浦)

2015年10月21日 | 城郭寺院

菅浦城(菅浦惣村)のデータ

所在地:長浜市西浅井町菅浦(旧:西浅井郡西浅井町菅浦)

      map:http://yahoo.jp/-tYUvEこの地図のURL

時 代:鎌倉期~戦国期

領 主:領主円満院

訪城日:2014.8.26

菅浦城

 菅浦文書は、中世に成立した自治権の強い村「惣村(そうそん)」の様子を記した現長浜市西浅井町菅浦の区有文書。主に鎌倉-戦国時代の1261点が重文に指定されている。

 菅浦の住民は、大浦庄の一部の領域を自領とすることで、村の領域空間を独立させようとしました。両村間の紛争の発端は永仁3年(1295)のこと。日指・諸河の田畑の所有権をめぐって大規模な紛争が始まりました。

 「菅浦所置文(ところおきぶみ)」(1346年)には、菅浦が惣村だったことを示す「そう(惣)」の字が初登場する。「浅井長政撰銭条目案(えりぜにじょうもくあん)」(1566年)は、銭の信用が低下する中、よほどの悪銭でない限りは使用するよう命じた文書で、戦国大名・浅井長政の名も見られる。

 このほか、菅浦の北に位置する大浦荘との間で土地の所有権争いがあったことが分かる文書や絵図など貴重な史料が残る。

要塞の役目を果たしたと伝わる「四足門」

「陸の孤島」「隠里」の異名をもつ菅浦。琵琶湖に突き出た葛篭尾崎半島の懐に抱かれた湖畔の集落です。山と湖に囲まれたたたずまいはどこか神秘的な雰囲気が漂います。この地には、奈良時代に帝位を追われた第47代・淳仁天皇が遠座されたと伝えられ、集落内にはゆかりの場所が多く残されています。住民の祖先は、平安時代以前の、天皇に納める食料を調達する「贄人(にえびと)」と呼ばれた小集団にたどり着きます。この地に住み着き、漁労と水運に従事した住民たちが、平安時代には「供御人(くごにん)」として自立したと伝えられています。中世には全国的にもいち早く「惣(そう)」といわれる自治的村落を形成し、住民自らによる自治が発達してきました。菅浦ではまた、早くから警察・軍事が行われ、要塞の役目を果たしたと伝わる「四足門」が集落の東西の入り口に残されており、往時を偲ばせています。

 「菅浦文書」には、隣の大浦との境界紛争への訴訟のための文書が多く見られます。菅浦はもともとは園城寺円満院領大浦庄に属する浦でした。

  菅浦は領主円満院と対立関係にあった比叡山延暦寺檀那院や竹生島などをたのみ、約150年にわたり争いました。永きにわたる紛争を治めるために活躍したのが、乙名清九郎です。彼は後に出家して道清と改名しましたが、菅浦の危機的状況を救った英雄として語り継がれています。

「菅浦文書(すがうらもんじょ)

 近江は全国に先駆けて「惣」が発達した地域で、ここには鎌倉時代から明治に至るまでの集落の様子を書き記した「菅浦文書」が残されています。この文書は、わが国の中世惣村の歴史を解明する上で重要な史料であることから、重要文化財書跡の指定を受け、現在は滋賀大学に保管されているほか、菅浦 郷土史料館に一部、写しが展示されています。
 住民には、供御人出身の者のほか、神社に仕えていた者や百姓など、様々な身分の者があり、貧富の差も存在したことは言うまでもありません。それにもかかわらず、すがうらではすべての構成員を供御人とすることにより、平等な構成員による惣共同体を作り出しました。

菅浦与大浦下庄境絵図

 菅浦が正式に独立した惣村として幕府に認定されるまでには、文安3年(1446)まで待たなければなりませんでしたが、この界相論をめぐる運動はまた、同時に自治的村落としての独立のための運動でもありました。

 湖岸の僻地で、名もない庶民が自立意識を保持し、自治を維持するために行った活動が「菅浦文書」の中に息づいています。脈々と受け継がれてきた生活経験は、時とともにその形を変えてきましたが、年中行事に、また錯綜した村の「取り決め」や「個人の人権」を守ることが、日常生活に何の抵抗もなく溶け込み、生かされている集落が菅浦なのです。住民自らの手による地域作りが求められる今日、その手がかりを菅浦の歴史の中に見ることができます。

四足門

ゆたかな緑に包まれた須賀神社は、この地に隠れ住んでおられたと伝えられる淳仁天皇を祀った物であり、もともとは保良神社と呼ばれたところです。明治42年(1909)に小林神社・赤崎神社を合祠し須賀神社と改称されました。
天皇自ら榧(かや)の木でご自身と皇后様の肖像を彫刻し「何処に寿を終わるも神霊必ずこの肖像に留め置く」と伝えられる地だけに、凛とした気高さの漂う湖岸の社です。
拝殿の裏には、淳仁天皇の舟型御陵が今でも残されており、水屋から素足で参拝する氏子たち。

竹生島(旧びわ町


船木城  近江国(安曇川)

2015年10月20日 | 平城

 

船木城(主郭)に願船寺が建つ。

天正3年(1575)開基は岌善(岌善は、船木城主佐々木能登守の二男で、知恩院の第29世)

お城のデータ

所在地:高島市安曇川町北船木(旧高島郡安曇川町北船木)map:http://yahoo.jp/tqOS5c

現 状:寺地・水田

築城期:南北朝期

築城者:佐々木師綱

区 分:平城

遺 構:郭・堀・石垣 

目標地値:願船寺

訪城日:2015.10.18

 本堂

 

  

堀・石垣

願船寺(主郭)と石垣・水田(堀跡)

願船寺(主郭)と石垣・水田(堀跡)

 水田より1.5m程高い城址

お城の概要 <script type="text/javascript" language="JavaScript"></script>

願船寺の建つ郭跡は約65mで周囲より約1.5m高く、周囲には一見して空堀跡と分かる帯状の水田が取り巻き、その堀を含めると約100m四方の単郭方形をしている。

石碑や案内などはありませんが、全体分かりやすく、比較的残存状況の良い城跡。

船木城は、安曇川が河口付近で北川と南川とにわかれた三角州の中、高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内に所在し、古くから湖上交通の要衝として軍事的にも重要な位置をしめていた。

城の歴史は、高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内の北船木集落に隣接する南北朝期ころの平城。

近江の在地領主の城の多くが集落のなかに築かれているので、船木城や南西3㎞ほどにある小川城の立地は、珍しい部類といえます。

また、船木城は大溝城を除く高島の中世諸城のなかで最も湖岸に近い位置にあります。おそらく、船木には琵琶湖の湖港があった。船木城と平井氏の重要性がうかがえます。

船木城は、安曇川河口の三角州内部にある船木集落の西に位置する

ちなみに、平井氏といえば、娘が浅井長政の最初の正室となった六角氏家老の平井定武が知られていますが、こちらの平井氏は同じ佐々木氏ではあるものの、まったくの別系統のようです。

鬼門除けの諏訪神社

  願船寺の北東には、鬼門除けの諏訪神社があります。諏訪神社は、明応六年(1497)に平井氏によって造営された。このころまでには、城として船木城が造営されていた。

歴 史

『高島郡誌』や『近江與地志略』に高島七頭の佐々木能登守が城主であったと記されている

 佐々木能登守は、新旭町平井に住していた平井氏から分かれて、受領名を能登守と名乗っていたことから能登氏を称するようになったとされ、師綱、時綱、頼泰、長綱、高勝、定持、持国と続くが、能登守を名乗ったのは時綱以降とされる。

鎌倉時代末期に佐々木師綱によって築かれた。 師綱は、高島佐々木氏の一族で平井に氏から分かれ、能登守を称した時綱-頼泰-長綱-高勝-定持-持国と続いたと云われて、後に受領名から能登氏を称している。 

 、能登氏が安曇川河口部に位置する船木に入部した時期については、南北朝期の応安元年(1368)12月と同2年11月に平井師綱の子能登九郎左衛門尉師信が平井村内の土地を饗庭氏に売却していることから、この頃に移ったのであろうと推測されている。

  明応6年(1497)、北船木の氏神である若宮神社の社殿を能登守長綱が造営しており、また、船木城の北東、鬼門の方角にある諏訪神社も勧請したと伝えられ、このころまでには城として船木城が整備されていたと考えられている。
唯一琵琶湖に面した立地の船木城は、重要な位置を占めていたと思われ、元亀3、4年(1572、3)織田信長が高島に侵攻した際、他の西佐々木一族の諸城とともに落城し、廃城になったようである。

天正3年(1575)には、能登守の子孫が城跡に願船寺を建立して現在に至っている。

 総領家が高島家で、越中守を称し清水山城を居城とし、朽木城、永田城、横山城・武曽城、田中城、船木城、五番領城などが高島一族の居城として築かれました。

北船木の氏神”若宮神社の社殿”を能登守長綱が造営

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 8 高島郡の城、近江の城郭、淡海の城、『滋賀県百科事典』

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


長法寺館(田屋氏館) 近江国(高島・マキノ)

2015年10月20日 | 居館

 

石垣寺門・館門(四足門)跡の敷石

お城のデータ

所在地:高島市(旧高島郡)マキノ町沢   map:http://yahoo.jp/JtbkUq

現 状:長法寺

区 分:居館

遺 構:土塁、類似石碑・駒札

築城期:室町

築城者:田屋淡路守

目標地:長法寺

駐車場:長法寺

訪城日:2015.10.18

本堂再建の石碑には領主田谷氏 

海津衆田屋氏の説明駒札

お城の概要

百瀬川と生来川が平行して東流するその北岸の沢集落内の長法寺一帯にあったされる居館。

 今も、境内北側・東側にL字状の土塁が残る。土塁内側は庭園化しているが。

明治期の地籍図からは、二重の堀の存在が確認できる。

マキノ町沢には2つの城跡。長法寺館(田屋氏)とこの地の西にある沢村城(饗庭氏)がある

長法寺は戦国期の天文4年(1555年)に田屋(田谷)氏の居館が建立されたのが、

江戸時代の大火で焼失し、寛文3年(1663年)に田屋(田谷)氏の居館跡に本堂が建立されている。

 内側の庭園部

お城の歴史 

長法寺館は、

寺伝によると永正年間に田屋淡路守の家臣 宮島四朗兵衛が証如に帰依し、天文四年に宮島四朗兵衛・菊松親子が道場を開いたのが始まり、また三世了空の代に、丑寅の方向にあった道場を田屋氏居館に移し、永応元年道場を建立したと伝えられ、田屋淡路守の居館

 内側の庭園部

  長法寺の裏に、土塁が残る。

室町幕府の政所執事代の蜷川親元が記した『蜷川親元日記』には、康正6年(1456)9月10日の条に、「江州海津衆」として、饗庭・新保・田屋が蜷川親元の一族蜷川信賢の若君誕生祝いに上洛した記されている。

『鹿苑日録(ろくおんじつろく)』には、

天文7年に高島七頭と呼ばれる高島群内有力領主佐々木六角定頼の命により海津を攻めた合戦では、田屋氏(浅井方)は長法寺館を捨て、山城へ引き(結城である田屋城へ立て籠もっる)饗庭氏は海津西城浜に陣を敷いた。 その後、天正元年に浅井氏が滅ぶと田屋氏も浅井氏と運命を共にしたと考えられている。

  本能寺の変後の天正10年(1582)6月、近江高島郡は丹羽長秀に与えられた。翌年3月に賤ヶ岳の合戦が起こり、羽柴秀吉方の長秀は、柴田軍の南下を阻止するために知内浜城をはじめ、森西城・沢村城・田屋城(詰め城)等を修築したと伝わる。 

田屋氏は北近江・高島郷を支配する土豪であった。

田屋 明政(生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称は新三郎、石見守。近江国の戦国大名浅井氏の一族(浅井亮政の婿養子)。

浅井氏当主・亮政の嫡子・新四郎政弘には嗣子がいないまま早世したため、嫡女・浅井鶴千代(政弘の同母姉)の婿として亮政の養子となった。この時、「浅井新三郎明政」と名を改めている(新三郎は亮政の通称であったものを受け継いでいる)。

だが、後に亮政は庶長子(諸説あり)の久政(海津殿の異母弟)を自身の後継者と定めたため明政は姓を「田屋」に戻して、身を引いたという。

養父・亮政の死後、京極氏と手を組み後継者の義弟の久政と争ったという説と、家督の移譲が滞りなく行われたため、争いがなかったとされる説(上の争いには明政が関わっていなかったとする)がある。婿養子は、浅井政高。明政の長女は海津局(婿養子・政高室)、二女は饗庭局。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(高島の城)、レジュメ、高島の城と城下パンフレット

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!