城郭探訪

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近松別院(近松御坊) 近江国(大津)

2018年01月11日 | 城郭寺院

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外

お城のデータ

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外蓮如上人ゆかりの地

所座地:大津市札の辻4-26

築城期:応仁3年(1469) 

築城者:蓮如

目標地:大津赤十字病院

駐車場:近松別院

訪城日:2017.12.19

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/0

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の概要

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外近松別院 「顕証寺」 【含む 大塚のケヤキ・両願寺・等正寺】
大津市札の辻9-26
浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派の寺院。蓮如がここに顕証寺を創建したのが最初で長男順如、六男蓮淳と相続された。寺号は後に久宝寺御坊顕証寺(大阪府八尾市)に引き継がれた。近江における真宗教団初期の拠点。

京阪電車上栄駅下車、徒歩3分、大津日赤の近辺。 幼稚園を併設

正式には顕証寺であるが、一般には近松別院・近松御坊と呼ばれている。

お城の歴史

比叡山による堅田攻めの気配を察知した蓮如は、1469年に堅田から避難し、園城寺・五別所の一つ近松寺(高観音)の寺領を分与してもらい、坊舎を建立、親鸞上人の御像を安置したことに始まると伝えている。

このあたりは寺内(じない)と呼ばれ、江戸時代、近松寺を中心に、南・北・東の各町や末寺が取囲むという形の「寺内寺」という形態をとっており、大津代官支配の大津百町とは別に、独自の政治が行われていた。

昭和20年(1945)、陸軍の命により取り壊され

現在の建物は昭和56年(1981)に建立された。

浄土真宗本願寺派の寺院。蓮如がここに顕証寺を創建したのが最初で長男順如、六男蓮淳と相続された。寺号は後に久宝寺御坊顕証寺(大阪府八尾市)に引き継がれた。近江における真宗教団初期の拠点。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然昭和20年(1945)、陸軍の命により取り壊された。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

 
浄土真宗中興の祖・蓮如上人と、三井寺の出会い。
大衆に支持された人間蓮如。その行動力の源は…。
京阪電車京津線、上栄町駅の踏切近くに樹齢数百年は経つと思われる欅の大木ある。そのふもと「犬塚の欅」の碑には、今回の特集、蓮如が法難を避けて大津に滞在していたとき、毒を盛られた食膳を食べて死に、蓮如の命を救った犬を葬った塚であると記されている。また、逢坂一丁目の安養寺に伝わる「身代わり名号石」は、本願寺焼き討ちの後、逢坂で追手の比叡山延暦寺の衆徒に襲われた蓮如を身代わりとなって守ったという。

蓮如にまつわる様々な伝説や言い伝えは、布教活動の拠点、大津や堅田、守山(金森・赤野井)あたりに沢山残っている。中でも有名な「かたた源兵衛の首」の話は後に述べるとして、人間蓮如の人となりに稿を進めたい。

蓮如上人(一四一五.一四九九年)は本願寺第七世存如の長子として生まれる。幼名は布袋丸と呼ばれていた。本願寺は浄土真宗の祖、親鸞聖人の御影堂(廟所)であった。現在の本願寺とは比べものにならないほど、四軒幅の小さな寺であった。親鸞聖人没後、すでに百数十年が経ち、その遺徳をしのび本願寺へお参りする人も少く、本願寺はさびれ、しかも極貧状態であった。また母親は寺の下働きをする女性で、いわれもない差別を受けていた立場の女性だったという。

蓮如は本願寺で親鸞聖人の教えを解釈し、布教活動に専念、四十二歳で第八世を名乗る。蓮如は自分なりに平坦な言葉で浄土真宗の教え「御文(御文章)」を表し、文字の読めない農民、土地を持たない小作人、職人など下層社会に属する人たちの圧倒的な支持をえる。時あたかも南北朝時代末、朝廷が支配していた荘園制度が瓦解しようとしていたときである。

そんな大きな仏教界のうねりに危惧を抱いた比叡山延暦寺の衆徒は、寛正六年(一四六五)、本願寺を破却(焼き討ち)。寛正の法難として名高い。

犬塚の欅
(大津市指定天然記念物)


親鸞聖人・蓮如上人連座像(いずれも本福寺所蔵)


本福寺第三世・法住法師像


本福寺本堂内、蓮如殿に祀られる蓮如上人像。この蓮如殿は三井本家の寄進になるもの。


堅田、守山、そして北陸…大津でひととき安らぐ。

京から敗走した蓮如は、近江の国・堅田の本福寺住職の法住の世話になる。堅田は琵琶湖の西部に位置し、湖上交通の拠点として発展した自由都市的な賑わいを呈していた。本福寺住職法住は、その豊かな経済力を背景に、小作人や職人、など下層社会に属する人たちに教えを説くため、道場を開いていた。浄土真宗の教え「念仏」をとなえれば救われると教えた。蓮如は比叡山のふもとで法住と共に、新しい教えを説いた。応仁二年(一四六八)、再び山門の大がかりな攻撃を受ける。世にいう「堅田の大責」である。

蓮如は失意の中、五十七歳という当時では老齢の域に入った身を震い、浄土真宗の教えを広めるため越後、加賀地方へ旅に出る。今も北陸は真宗王国といわれる所以である。北陸地方にも、これが蓮如の座った石、使った筆・硯などと虚実入り交じった伝承が残っている。蓮如が北陸布教の拠点として選んだ吉崎(福井県金津町)は、日本海を望む北潟湖の入り江に突き出した半島の高台にある。吉崎に坊舎を構えた蓮如は、飢餓で苦しむ農民や、宗門内部の対立など問題の解決に奔走し、わずか三年で本堂、坊舎、庫裏、書院、楼門などを備えた一大寺院を築く。そして、都からやってきたありがたいお坊さんを拝みたいという素朴なお参りの人たちが大挙して吉崎に訪れる。それは、暗く厚い雲に覆われた北陸の地に現れた、蜃気楼のようだったに違いない。しかし、急速に巨大化した教団とその元に入る膨大な資金をめぐっての内部分裂、二千人以上の死者を出したという地侍と門徒集団のたび重なる戦い…。蓮如はその蜃気楼で出来た牙城を失意と共に去る。のち、天下統一をはかる織田信長の勢力と門徒衆が戦った一向一揆が勃発する。

参考資料:JAPAN-GEOGRAPHIC.TV、蓮如と三井寺の出会い(三井寺のHP)

本日の訪問ありがとうございす!!


月ノ木城(久徳城の出城) 近江国(多賀)

2017年09月15日 | 城郭寺院

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城のデータ

所座地:滋賀県犬上郡多賀町月之木30 map:https://yahoo.jp/-CM00j

別 称:久徳城の出城

現 状:寺院(青龍山 西性寺)

築城期:織豊期

築城者:開祖元亀年間(1570-1573)三修上人  中興 普広正林大徳

城 主:村山氏

目標地:久徳城

駐車場:路上駐車

訪城日:2017.9.5

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城の概要

 月ノ木城は、永禄11年(15689月、浅井長政の攻略によって落城していたので、その地に仏堂を建立して、敏満寺より搬出されていた仏像を再祀して、戦死者の菩提を弔ったことに始まる。

ゆえに西性寺の山号である青龍山は、敏満寺の山号であり、西性寺の寺号は、敏満寺山内にあった寺院名であると伝える。

お城の歴史

 月ノ木城は、永禄11年(15689月、浅井長政の攻略によって落城していたので、その地に仏堂を建立して、敏満寺より搬出されていた仏像を再祀して、戦死者の菩提を弔ったことに始まる。ゆえに西性寺の山号である青龍山は、敏満寺の山号であり、西性寺の寺号は、敏満寺山内にあった寺院名であると伝える。

 因みに、浅井長政に滅ぼされた当時の月ノ木城城主は、村山氏であって、伊井直弼大老の寵愛を受けた村山タカ女は、月ノ木城主村山氏の子孫であると伝えられている。

 承和年間(834-847)より元亀3年(1572)までの間、現在の名神高速道路多賀サービスエリアの地に清龍山敏満寺(伊吹山の三修上人が開山)があった。

敏満寺は、元亀3年(1572)の織田信長の兵火にかかり、全山消失してしまった

その際、幾多の仏像仏具が火難を逃れて、隣寺あるいは民家に秘蔵されていた。
 織田信長の法難を被る以前、現在の西性寺が所在する地に、久徳城の出城である月ノ木城があった。

 寛文年間(1624-1644)の中興以後、寺観も漸次調えられると、村山・川上・川口・信楽・北村・山路・山本の各家より住職となる人が出て、寺を営んでいたことが『過去帳』によって知られるが、このような制度は、典型的な氏族による寺院運営制として注目に値しよう。

 太平洋戦争後は、宗教法人法にのっとり法人格を得られたものの、兼務住職による活動によって支えられてきた。現在檀家は、山路氏・山本氏の2家のみである。

その他の写真 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/976847419144500

参考資料:遺跡ウォーカー、青龍山西性寺HP、ヒント:澤田様

訪問ありがとうございす!!


長泉寺館  近江国(浅井)

2016年09月08日 | 城郭寺院

長泉寺

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)内保町長楽寺 map :http://yahoo.jp/3BxqhS
区 分:城郭寺院
現 状:雑木林・宅地
築城期:
築城者: 
遺 構:土塁・曲廓・堀痕
目標地:内保農政会館
駐車場:内保農政会館
訪城日:2016.6.3
お城の概要
  内保農政会館の東側の道を北へ、(小字長泉寺)突き当り、幅4~5m×108mの藪地。雑木林の土塁・曲廓・堀が残存する。
明治期の地籍図には、川堀は八幡神社の北面から、現浅井西小学校付近まで続いていた。
また、小字長泉寺には、孫字堂ノ内・長泉寺・旧屋敷を伝える。同西に接する小字八幡にも孫字長泉寺・旧屋敷・城戸の名が残る。
長泉寺自体は不詳だが・屋敷名から長泉寺有縁の者が居を構えたか、長泉寺自体が寺坊の様相をしていた可能性ある。
お城の歴史
詳細不明。

内保農政会館

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』7(伊香郡・東浅井郡の城)

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飯福寺遺構(鶏足寺別院) 近江国(木之本)

2016年08月13日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町古橋町  map:http://yahoo.jp/xKWEMP

別 称:鶏足寺別院

区 分:城郭寺院

現 状:鶏足寺(旧飯福寺)

標 高:211m   比交差:34m(石道寺より)

築城年:

築城者: 

遺 構:石垣・坊跡 

目標地:石道寺の裏山

駐車場:石道寺の車場

訪城日:2016.6.26

お城の概要

木之本の石道寺裏山を越えて入る。

古橋から入るのが本来の道のようである。が、今は廃寺か?(無住寺)。しかしその後村人の努力により現在のように整備され「幽遂の仙境遠く俗塵を離れたたる古刹」の面影を残しつつ大切に守られている。

 本堂までの参道両側には石垣が積まれ、城郭寺院の面影をとどめている。また参道両脇にはもみじの木々が茂り、若葉,紅葉の時期には見事な景色を楽しむことができる。

鶏足寺(旧飯福寺)は、中世には僧兵を要するほどの大寺で、緩やかな参道の石段や苔むした石垣などの佇まいは今も往時を偲ばせます。秋は境内を埋める200本ものモミジの古木が紅葉し、一層の由緒深さが感じられます。現在は廃寺となっており、普段は地域住民の手によって管理がなされています。 秋は紅葉の名所「鶏足寺」として、毎年多くの方が紅葉散策に訪れることで知られています。 ゆるやかな参道の石段、苔むした石垣に二百本のもみじの古木が幽玄な情景を醸し出しています。

お城の歴史

鶏足寺(旧飯福寺)概要:現在鶏足寺と合併 

鶏足寺の創建は天平7年(735)、行基によって開かれたのが始まりと伝えられています。

その後衰退しましたが延暦18年(799)に最澄が再興すると寺運が隆盛し己高山は天台宗の一大霊場として多くの寺院が集まり、その中でも己高山七大寺(己高山五箇寺とも)の1つに数えられました。

文永6年(1269)に真言宗に改宗、中世は京極氏や浅井氏など歴代領主の祈願所として庇護され多くの僧兵を擁していました。

江戸時代に入っも徳川家から寺領が安堵されていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により急速に衰退し昭和8年の火災により事実上廃寺となります。寺宝の多くは鎮守社であった与志漏神社の境内にある己高閣、世代閣に移されています。

            

中世には僧兵を擁するほどの大寺で、時の権力者の庇護を受け安定した寺運を続けましたが、江戸幕府の終焉とともに衰微しました。

                     

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査、長浜市観光情報

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日爪の遺跡(南谷遺構=日爪のねごや)   近江国(新旭)

2016年05月17日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)新旭町饗庭日爪  map:http://yahoo.jp/Ki7VzN

別 称:南谷遺構(日爪のねごや)

現 状:山林

区 分:城郭寺院

築城期:室町期

築城者:地頭代 日爪右京介為治(西林坊)

遺 構:土塁・段遺構・説明板

標 高:155m 比高差:30m

目標地:日爪バス停・日爪区農村集落センター・慈恩寺

駐車場:日爪バス停

訪城日:2016.4.16・2016.5.15


訪城日:2016.5.15

日爪区農村集落センターに駐車



訪城日:2016.4.16

現地説明駒札には、『南谷遺構(日爪のねごや)』

 この地域には、「ねごや」の地名とともに坊跡と考えられる数段の平担地が残っていいて、西方の山の上には、戦国時代の山城跡が位置しています。ねごやの語源は、一般に「山の根にあること」や「寝るための小屋」と考えられています。

 応永二十九年(1422)に記された「木津荘検注帳」によると、この「南谷」には、西福寺という寺院があり、「西林坊」と「栄承坊」という寺坊があったことがうかがえ、伝承などからの、戦国時代には、山上の日爪城も含め饗庭三坊の内、西林坊との関わりが推測せれています。

 元亀三年(1572)に織田信長の命をうけた明智光秀は、饗庭三坊の三つの城を城下とともに放火し、攻略しており、日爪城はこの三つの城の一つに推測されてます。                高島市教育員会

お城の概要

「日爪のねごや」は、饗庭野と呼ばれる丘陵の山麓に築かれ、集落の南東に標高155m程の山麓位置する。 東麓の日爪の遺構(日爪のねごや)の共同墓地となっている部分が根小屋と呼ばれ10ヶ所以上ある、土塁などを設けた段遺構が残る。周辺には、「本堂ヶ谷」の地名だあり、石仏が出土することから寺坊の可能性が

 日爪城(標高207m」)への城道に、遺構や「祠・駒札」・「南谷遺構」の説明板があり、その山頂部が日爪城。

お城の歴史

『近江與地志略』には、日爪村内には、「高島七箇寺の一院の大慈寺」あったとされる。

 この地は保延4年に成立した山門領木津荘で(戦国時代は饗庭荘と呼ばれ)饗庭氏の西林坊・定林坊・宝光坊の三坊に分かれ、日爪は西林坊が領した。

 日爪氏は土岐氏を出自とする饗庭氏の一族で、貞治6年(1376)饗庭氏は日爪右京介為治を地頭代として日爪村に住まわせたと云われ、これが東山麓の根小屋付近は西林坊との伝承がある。

 元亀三年(1572)に織田信長の命をうけた明智光秀は、饗庭三坊の三つの城を城下とともに放火し、攻略しており、日爪城はこの三つの城の一つに推測されてます。

獣害ヘンスと開けて、入ると・・・

南谷遺構 日爪のねごやの駒札ある

さらに登ると「南谷遺構」説明板がある・・・日爪城は更に50m程上ある。

ここを登ると日爪城へ

日爪城から帰り道・・・「南谷遺構」

獣害フェンス

日爪集落に戻り『日爪区農村集落センター』

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8、現地説明板、近江與地志略、近江山城ベスト50を歩く

 本日の訪問ありがとうございす!!


歓喜寺城(歓喜寺)   近江国(大津・志賀)

2016年04月25日 | 城郭寺院

 

歓喜寺(薬師堂)

               

歓喜寺城

お城のデータ

所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)大物  map:http://yahoo.jp/Tw6PSl

現 状:山林

区 分:城郭寺院

築城期:室町期

築城者:比叡山延暦寺

遺 構:寺院・石垣・庭園・堀切・土塁

標高:309m 比高差:ー バイパスから172m

目標地:歓喜寺

駐車場:歓喜寺駐車場

訪城日:2016.4.23

お城・寺院の概要

 百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基したと伝えられている歓喜寺の薬師堂がひっそりとたたずんでいる。幸い、車で歓喜寺まで舗装の参道がついている。

 お堂に向かって左手に斜面を平削地に造成した、石垣や堀切で区切られたいくつかの歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。

志賀町大物所在の 歓喜寺・歓喜寺は、かつての元亀の騒乱に対処しては、僧坊跡が三カ所豪快に堀切で城郭化されている。いずれも僧坊を破壊して砦化した平削地の作事で建物は城砦・曲郭に転用したのであろう。石垣や堀切で3つに区切られた歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。

 歓喜寺は、 山岳寺院の一角に築造された「平地の城館をモデルとしての山岳寺院」で、僧坊をの城館・廓に転用したのである。

その 築城契機は明確ではないが、背後山頂の 歓喜寺山城の城郭遺構や土塁・石垣・堀切も残存する。

 余談ですが、2008年の開帳(33年に一度開帳されて来た)の準備のため、薬師堂を開けたとこと、本尊が消えていたという。警察に被害届を出したが発見されていない。歓喜寺は戦国時代の頃には、土塁や石垣で囲われた山城のような寺だったは、元亀3年(1572)織田信長軍の焼き討ちに逢う。その際、もの際、本尊の薬師瑠璃光如来立像を僧侶が山中に埋めて守り、後に住人が発見。文禄元年(1592)に住民らが薬師堂を建て、志賀地域一帯の信仰を集めていきたという。

お城・寺院の歴史

木戸庄は、木戸城主の所領である。木戸庄には、木戸城・荒川城・歓喜寺城・南比良城・北比良城・比良城がある。

歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されいます。

また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺山城も残存する。

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町)  元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

  元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

 『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

 信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

  信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

 信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

  7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。 

           

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、遺跡ウォーカー、 

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酒波(さかなみ)寺遺構   近江国(今津)

2016年04月06日 | 城郭寺院

現地にのこる中世酒波寺の遺構

 現在の本堂の東の山麓から山腹にかけて、消失前の寺坊跡とみられるテレス上の平坦地多く残されています。

 特に東山山腹側には、後述の『青蓮山絵図院内』(以下『絵図』)に記載される「祖師堂」から延びる直線道路とその両脇に「氏名坊」や「元援坊」や「三ツ星寺」と総称される「牛女院」「北斗坊」「明星坊」など、かつての寺坊の遺構が良好な状態で残っています。方形を基調とした平坦面が段々畑のように並び、高低差が少なくなる山麓部では、土塁などを築いて寺坊が区画されてうたようです。また、この平坦面の東端には、塚状の高まりで残る中世慕がみられ、周囲に石仏や五輪塔の一部など多く散乱していることから、往時は慕城であったと考えられています。

本堂の西側は『絵図』左側に記載される「岩尾坊」「危祐坊」にあたると考えられており、十二世紀から十六世紀の陶磁器等をを初めとする遺物とともに、テラス状の平坦面の中に石垣や溝状遺構、土壙などが検出されています。

また現本堂の南東は、『絵図』の下方の「伝法院」にあたると考えられ、十二世紀から十五世紀の遺構が検出されています。特に十四・十五世紀がこの寺坊の最も盛んに活動が行われた時期とみられ、掘立柱建物のほか金属製錬時に生じるスラグの付着したるつぼなどが投棄された土壌・焼土・炭・灰の溜まった土壙、石組の隙間を粘土でふさいだ水留遺構、寺の必需品で剃刀なども検出とされたため、鋳造に関与する施設が営まれていたことが明白になりました。寺坊には学僧だけでなく鋳造職人といった商工業者、あるいは職人の役割を担った寺僧が存在した可能性があります。また「三ツ星寺」と総称される寺坊グループは「暦」を作っていた集団と伝えられることから、中世の酒波寺は純粋な宗教活動を行う他に様々な集合体であったと考えられます。・・・・(河上庄の城と寺より)

 

所在地:高島市(旧高島郡)今津町酒波727  map:http://yahoo.jp/y_kRGL

訪城日:2016.4.5

酒波寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

酒波寺(さなみじ)は、滋賀県高島市今津町酒波にある真言宗智山派 の寺院・京都智積院の末寺。山号は青蓮山。

歴史

 天平13年、行基により開かれたと伝わる。創建時は興福寺末で56坊を抱えた。

元亀3年、津田信澄により焼失し寺領を没収された

天正年間に再興が図られたが成功せず、再興が叶ったのは寛文2年に伊香郡の菅山寺より覚仁上人を招いて後である。延宝7年に京都智積院末になった。高島七ヶ寺のひとつという。

 
 

 大津あたりではソメイヨシノが散り始めている頃でも、湖西から湖北にかけては、まだまだきれいに咲き誇る桜を楽しむことができます。今回はソメイヨシノのようにたくさん植えられている桜ではなく、凛として佇む桜の木をご紹介します。
 山でよく見るヤマザクラもそういった趣きのある桜ですが、今回ご紹介するのはエドヒガンという桜です。エドヒガンは樹高15~25mで、名前のとおり春の彼岸頃に、ソメイヨシノより早く花が咲き始めます。ヤマザクラとともに桜の中ではとても長寿の種であることが知られていて、樹齢2,000年を超えるといわれるものもあります。花が多く咲く特性から多くの品種の母種として使われていて、ソメイヨシノの片親としても知られています。
 このエドヒガンですが、高島市今津町から同マキノ町にかけて多く自生していることが知られていて、水上勉の小説「桜守」に登場する「清水の桜(しょうずのさくら)」もその1つです。「清水の桜」は滋賀県自然記念物に指定されている、県内最大級のサクラの巨木です。江戸時代に加賀藩の前田候が上洛の際に、何度も振り返ってその美しさを愛でたので、以来「見返りの桜」と呼ばれるようになったとの由緒もあります。

 JR近江今津駅の北西約4.5km、山麓にある真言宗智山派の寺。奈良時代に行基によって開かれ、観音堂の素晴らしさは、遠く都の人々の噂になるくらいであったと伝えられています。現在の観音堂は、江戸時代に再建したものです。
 境内は、山腹を利用し、本堂・書院・庫裏・護摩堂・鐘楼などが、古寺らしいたたずまいを見せています。

参道の長い寺院で、春になると桜の花が見事に咲き乱れ、参拝する人の目をなごませます。

昔、周囲の谷川に村人を困らせる大蛇が棲んでおり、酒を呑ませて退治をしたことから、この土地を酒波(さなみ)と呼ぶようになったといいます。寺名も同じ由来です。

 奈良時代、行基の開基の真言宗の寺院。「諸人のなべてより来るさかなみのうみやまふかき誓いたのみて」

 

参考資料:河上庄の城と寺(高島市歴史探訪ガイドブック)、ウィキペディア(Wikipedia)新近江名所図会

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新庄寺城(神照寺陣所) 近江国(長浜)

2016年03月21日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市新庄寺町  map:http://yahoo.jp/vDDo-I

別 称:神照寺陣所

区分:城郭寺院

現状:神照寺

築城期:織豊期(城郭寺院化)

築城者:神照寺

遺 構:曲廓・土塁・空堀

目標地:神照寺

駐車場:神照寺の参拝者用無料駐車場を利用

訪城日:2016.3.20

お城の概要・・・萩の寺として有名な古刹がお城跡。

新庄寺城(神照寺:新庄寺町/神照町 )と神照寺城(田地:新庄中町小太郎 )とは、別で混同されているか?

 新庄寺城は、その名の通り神照寺が城郭化したものである。鎌倉期には足利尊氏と直義との対面が、また室町期には京極氏の陣所であったり、浅井氏に属し姉川の合戦時に信長によって焼き討ちにあうといった実に多くの戦火を見てきた寺院であった。

 寺の東側の稲荷神社・県営住宅も含めた長方形の曲輪であったと推定される。資料によれば、寺の南にある般若院から東の熊野神社境内を結ぶラインを内堀が巡らされ、その外側に更に外堀があったとか。

お城の歴史

 神照寺は、寛平七年(895)第五十九代宇多天皇様の勅命により、益信僧正(本覚大師)様が、初代の住職となり、七堂伽藍の具わった古刹を建立したのがおこりである。のち、兵火天災等の為、一衰一興する。
 花園天皇様の御代に、足利義政が、堂舎を修補し、中興開基の實雄僧正と共に寺門を興隆し、法流神照寺流を創始する。(寺運の隆盛、三百余坊の堂舎。寺門盛観を極める)
 観応二年(1352)九月下旬、足利尊氏公と実弟直義との和解の為、11月2日浅井郡錦織興福寺にて兄弟対面ののち、神照寺に仮泊して帰る。(このとき尊氏公が境内に萩を植えたと伝わる。)
 貞治年間 住僧菩提坊隆信本堂を再建企画。新造するが、天災にて焼失
 康暦二年(1381)隆信本堂を再建(京都嵯峨天龍寺より、本尊を迎える、入仏落慶は30年後(応永十七年二月五日)執行。
 大永三年(1523)京極氏の陣所となり兵火で山内が荒廃、焼失した。のちに、浅井氏が旧観通りに再建、天文年間(1533~1554)に浅井氏が中心となり正月三日に新年茶会を催していた。
 元亀元年(1570)姉川の戦いによる兵火で焼失した。
 天正元年(1573)小谷城の落城と共に兵火に遭い一時衰退した。
 天正十一年(1583)秀吉公が天下を統一すると、安堵状を頂き伽藍の大改修を行った。
 徳川の時代に朱印状を賜った。天阿上人が京都の愛染寺より住職となり、寺運の興隆に尽くした。(真言宗醍醐派)。
 明治時代中ごろ智山派に転派して今に至る。かつては神照寺流という雅楽の吹奏があり、毎年3月15日の涅槃会に吹奏されていた。

 秋には萩咲き乱れる「萩の寺」として有名。『神照寺案内板』より

 萩の寺で有名な神照寺は、

土塁西角の竹藪に残る土塁西から北へと土塁が残存駐車場から入った所に低土塁

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、遺跡ウォーカー

  本日の訪問ありがとうございす!!


新善光寺館 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 城郭寺院

 お城のデータ

所在地:栗東市林(旧:栗太郡栗東町林) map:http://yahoo.jp/BmJ3VO

区 分:城郭寺院

現 状:寺院

標 高:210m 比高差:40m

遺構等:寺院、堀・庭園

築城期:鎌倉期

築城者:平宗定(高野左衛門尉宗定)

目標値:栗東市林の新善光寺

駐車場:新善光寺駐車

訪城日:2016.3.17

 

歴史…開基(鎌倉時代中期)

開基については、鎌倉時代の中期、平清盛の9長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定が信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢で託宣を受けて、分身の阿弥陀如来の持ち帰り(造像したとも言われています)、建長5年(1253)、この地に一宇を建立して安置したのが始まりと言われています。

平家の落武者伝承

 一説には、小松宗定は平重盛の末裔で、名前を平宗定といい、当地に落ち延びた宗定は、高野左衛門尉と称し、平家一門追善のために開いたとも言われています。 また、新善光寺は、金勝寺別院の一つだったとされる多福寺が前身であったのではないかと推測されています。

 栗東には、その他にも平家の落武者伝承は残っていて、金勝寺で仏門に入り、修行を積んで山麓に御堂を建て、農業をしながら平家一門の菩提を弔ったという三因寺(栗東市井上)や出家して金勝寺で修行し、金勝山にある国見岩より故郷を偲んだとされる伝承などが残っています。

建長5年(1253) 平清盛の長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定

 鎌倉中期、平家一門の菩提を弔うために、信濃の善光寺へ四十八度の参詣をして、願を成就して善光寺如来の分身を安置したことに始まる。

新善光寺略縁起 開山上人
 源平の乱(治承の内乱)の後、平清盛の長子、小松内府重盛の一族で、小松左衛門慰尉宗定という人が、この地にのがれ住み、当地の地名を取って、高野宗定と称された。宗定公は、平家一門の菩提をとむらうため、信濃善光寺へ48度の参詣を発願された。

夢定中の霊告(ゆめのおつげ)
 その後、宗定公は12年を経て、この願を成就されたが、その満願の未明の頃、信濃善光寺如来より、夢の中でおつげを賜り、「江州(滋賀県)一円の衆生済度(しゅじょうさいど)のため、我、(善光寺如来の御分身)を連れ帰れ」という霊告を得られた。宗定公はこの霊告(おつげ)を深く慶び、夢より覚めると御分身如来が、宗定公の眼前におたちになっていた。

御分身如来の請来
宗定公は深くよろこび御分身如来を頂き、現在のこの地に請来された。時に建長5年(1253年・鎌倉中期)1月13日のことである。宗定公の御影は、50年に一度の御開帳の秘仏として、御奉安している。

本田俊次候(ほんだとしつぐこう)
寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次候は、あらたかな善光寺如来に深く帰依(きえ)され、三間四面の本堂を寄進され、略縁起(りゃくえんぎ)を著され、奉納された。 その後、県下一円に当寺の名が広まり、多くの信者が集まる所となり、地方屈指の名刹となった。中でも、1月13日御判日(ごはんび)、春秋のおひがん、8月のおせがきは、多くの参詣者がおまいりされた。

有栖川宮家御帰依(ありすがわのみや ごきえ)
明治元年、有栖川宮殿下の三回忌に当たり、宮家より追善のため御尊牌(おいはい)が奉安された。この際、宮家から御幕と提灯(ちょうちん)の寄進と、各種証文を賜った。                     

枯山水庭園

 膳所藩主本多俊次が本堂を再建した時、回廊(西側)と庫裡(南側)に囲まれた枯山水庭園を一緒に作りました。

 庭の北側から東側にかけては、高さ1.6メートルほどの築山となっています。さらに北側には第二次世界大戦まで百畳敷きの客殿があったといわれ、この築山が本殿と客殿の境界の役目をしていたと思われます。

 また、近江富士として知られている三上山や菩提寺山などを借景した庭には、中央に大きな亀島を設けることで、その護岸には亀の手脚を表現する横石手法が見られ、巨大な亀が北上する動きが表現されています。

 参考資料:栗東市観光協会の新善光寺HP、史跡ウォーカー、栗東市地域資源活用ビジョン資料

  本日の訪問ありがとうございす!!


高野館  近江国(高月)

2016年02月21日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市(旧・伊香郡)高月町高野map:http://yahoo.jp/2UVOXO

現 状:寺社地、宅地

区 分:居館

築城期:弘安6年(1283年)

築城者:高野の臣

遺 構:土塁・空堀・石垣?

標 高:145m  高差:-

駐車場:高野神社前駐車場スペース

目標地:満願寺(高野神社)

訪城日:2016.2.20

お城の概要

比定地は高野集落の背後の山裾に位置す、高野神社。

滋賀県中世城郭分布調査に記録が無く、遺跡ウォーカーや長浜市の遺跡リストに丸山城遺跡と検索できる。

高野神社に観音堂・満願寺が同居する、集落側は石積みで、両脇・背後は土塁で囲む。

お城の歴史

城郭の歴史は不詳ながら、寺院や神社の歴史・由緒は明確に残

長谷川博美先生に現地説明頂きました。参加者も吃驚!大満足!

寺院・神社の由緒

満願寺の伝・伝教大師坐像、像内に墨書があり、これによると鎌倉時代、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことが判明し、国の重要文化財に指定されている。良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には「法華経」に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛筆を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。

高野観音堂

大師堂に安置されている像は、天台宗の開祖・伝教大師(最澄)の肖像と伝えますが、そのお姿から比叡山中興の祖・慈恵大師良源(元三大師)を表しているとみられます。弘安6年(1283年)仏師院信によって作られたことが判明し、国の重要文化財に指定されました。

木造伝教大師坐像 
  高月町高野・高野神社(大師堂安置)
  一躯 鎌倉時代 弘安6年(1283)院信作

  檜材 寄木造  彩色 玉眼  像高75.8cm
伝教大師最澄像と伝えるが、鋭く前方を凝視し、右手に独鈷杵、左手に念珠を執る姿から「叡山中興の祖」と称された慈恵大師良源(元三大師)の肖像と考えられる。
頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛跡を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。
像内に墨書があり、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことがわかる。
良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には『法華経』に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。

社伝によると、高野の臣が始祖大名草彦命を祀ったのを始めとする。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺とは己高山五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺、観音寺別院として飯福寺、鶏足寺、圓満寺などがあり、鶏足寺の末寺が己高山満願寺である。

  高野神社 滋賀県長浜市高月町高野297 

「高野の祝」が、その始祖大名草彦命を奉祀するという。
この地は伊香郡最古の寺院、己高山諸寺(五ヶ寺)であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。
飛地境内地に式内天比々伎命神社がある。

薬師堂と社叢

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祭神  大名草彦命、大山咋命

 

鳥居と拝殿

由緒

 『近江伊香郡志』によると、「神亀元年(724)創建、式内、往昔高野の臣此の土地を開拓し祖神大名草彦命を奉祀す。」とある。『新撰姓氏録』の和泉国神別によると、大名草彦命之後也として高野がある。紀の国造の紀直と同じ祖。
 社伝によると、「高野の祝」が、その祖大名草彦命を奉祀するによってその始めとしている。
 後、この地は伊香郡最古の寺院と認められる己高山諸寺が存していた。現在、境内に己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺に含まれる観音別院の鶏足寺の末寺が己高山満願寺にあたる。行基菩薩がこの地で薬師の像を刻み一堂を立てたと言う。
 また最澄が薬師如来に詣で、百日の参籠をなし、願満ちて薬師堂を建立し、満願成就に因み、己高山満願寺と号したと伝えられる。この時、最澄が天台の守護神である大山咋命を合わせ祀ったと寺伝、社伝で伝えている。

本殿 間口五尺・奥行き五尺の流れ造。天保年間(1830~)再建。

お姿
 道路の正面には薬師堂が建っている。西向き。南側が神社の境内だが、神社の正面は釣り鐘、その北側に池があり、石組みが整っている。
 背後は山林。

 高野の集落に入る所に「野大神」が鎮座している。

神池と釣り鐘堂

 

 

 

 

 

 

 

参考資料:遺跡ウォーカー、203 - 001 43 妙覚院遺跡 神前町 寺院跡 その他 平地 社地 203 - 002 、高野神社・満願寺HP

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


金剛輪寺城    近江国(秦荘)

2015年10月23日 | 城郭寺院

 

天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つ、金剛輪寺も被害を受けるが、本堂・三重塔は寺僧の尽力で焼失を免れた。

  

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町(旧秦荘町)松尾寺874 map:http://yahoo.jp/T5jHwg

区 分:城郭寺院

標 高:274m     ⑤比高:100m(黒門175m)

現 状:寺院・山林

遺 構:堀切、空堀、曲郭(坊舎・宿坊)・石垣・本堂裏山上の出丸遺構

築城期:鎌倉期

築城者:佐々木頼綱によって建立された本堂

目標地:金剛輪寺

駐車城:参拝者用無料駐車場

訪城日:2015.10.22

 縄張り図(滋賀県中世城郭調査分布より)

国道307号線沿いの『金剛輪寺』の石碑

『金剛輪寺』総門(黒門)

総門(黒門)~明壽院(赤門)への参道

    

赤門からが城郭遺構―-概略図

赤門

 

お城の概要

湖東三山の一つ金剛輪寺(こんごうりんじ)も戦国時代には城郭であった。佐々木六角氏が百済寺と同じように拠点として利用した。
 金剛輪寺の戦国期は、参道両側に寺とし坊舎は、石垣塀で囲われた僧兵達の宿所跡(曲郭)として機能した。本堂(主郭=標高274m)の裏山には堀切、空堀・土橋で後方尾根を遮断で構成された「城山」標高396mと呼ばれる【出曲郭・物見曲郭】が残存する。当然のことながら、近江に攻め来る織田信長には邪魔な存在となったので焼こうとした。

白門から、高石垣の石塀が続く

白門

南曲郭の奥に虎口のような石垣と石段

水抜き口二天門近江守護職・佐々木頼綱によって弘安11年(1288)に建立された「本堂」・・・(敏満寺文書に記す)

三重塔

南谷堀切

「山中に城山という所のあるのは、当山衆徒の砦である」と記されいる。

砦概略図 

参考資料写真・「城山」標高396mに平削地『出丸・物見櫓か(東側の宇曽川ダムの上流左岸の林道から、行けそうだが?)

  「山中に城山という所のあるのは、当山衆徒の砦である」と記されている。金剛輪寺の境内には、多数の坊舎の跡が残る。

 本堂(標高274m)の裏山には堀切、空堀・土橋で後方尾根を遮断で構成された「城山」標高396mに平削地『出丸・物見櫓』http://yahoo.jp/qIKdxjがある、秦川山(468m)の北200mに、西側への舌状尾根の先端に位置している。                                                                                                              百済寺城の北坂本城(北坂城)と同じ役割をしていたか。

歴 史

 元寇の役(蒙古襲来)の戦勝記念として、近江守護職・佐々木頼綱によって弘安11年(1288)に建立された「本堂」は、鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されています。

応仁の乱後には、佐々木六角氏や京極氏が時々宿陣し、戦時には度々兵糧米、軍資金を強請され、当山においても弓矢をもって自衛し、衆徒の砦も築かれていた。
天正元年(1573)、百済寺が鯰江城を後援したことで、 信長は同寺を焼き払ったが、当山も同罪ということで火を放たれたが、当山僧侶の奇知により、本堂・三重塔・二天門等はその火を免れた。 『パンフレットより』

 堂内には御本尊をはじめ、阿弥陀如来坐像、十一面観音立像など平安から鎌倉時代の仏像が安置され、その多くが国の重要文化財に指定されています。
また、三重塔(鎌倉時代)および二天門(室町時代)も国指定重要文化財で、桃山時代から江戸時代の中期にかけて造られた本坊明壽院の庭園は近江路随一ともいわれ、国の名勝に指定されています。

三重塔(鎌倉時代)

 天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。

 本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上った奥。

参道も「食い違い虎口」のように四度曲り、本坊は、参道か見えない(見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかと)いう説もある。

しかしこの寺の僧たちは工夫をこらした。 

織田信長の軍勢が寺に攻め寄せた時、寺の伽藍が火の海になっているように見せかけたのである。                                                       金剛輪寺の近く流れる川は宇曽川がある。織田信長の焼き討ちの際に本堂が燃えているように見せかけ、嘘をついたから宇曽川とか?・・・。
 その甲斐あって寺は焼かれず、本堂は国宝、三重塔、(護摩堂)は重文として厳然として存在している。

  • 余談だが『石垣が違う」
     この寺には、「下倉米銭下用帳」という戦国時代の文書が残っています。これは寺のもろもろの活動に伴う支出台帳のようなもので、米や酒といった品目がどのような用途に使われていったのか、事細かに記録されています。
  •  その中の天文~弘治年間(1532~57)の項目に、観音寺城の石垣普請にあてがわれた支出記録が存在します。どうやら、観音寺城の石垣普請に金剛輪寺の勢力が関与しているらしいのです。
  •  織田信長の安土城に先行する総石垣として有名な観音寺城ですが、これまでの城郭研究では、観音寺城の石垣普請には寺院勢力が大きな役割を果たしたと考えられています。
  • 『金剛輪寺文書下倉米銭下用帳』があります。http://www.town.aisho.shiga.jp/rekibun/H24shinshitei/geyouchou.htm
    八斗    御屋形様人所下石垣打可申之由被仰出谷十介殿方被来候上下一宿飲酒
    六斗    同石垣之事に談合會衆
    二斗八升 同石垣之事に三上宗左衛門殿へ樽一荷遣候了
    一斗    同持行食
    三升    恒例銭不成候間右に遣候時承仕酒
    二斗四升 恒例銭利弁相果候間中村殿へ樽一つ
    八斗    御屋形様石垣打申に付て西座より賄之事御訴訟申上之由候て谷十介方被来候上下飲酒
    (中略)
    一斗六升 上之御石垣之事に三上殿使者十介方賄之事西座申通被仰候て御出之時上下両度飲酒
  • 安土城が天正4年(1576)に築城開始前に、金剛輪寺の石工の手で文~弘治年間(1532~57)の項目に40年前に「観音寺城の石垣普請」をしていた。

    金剛輪寺城  近江国(秦荘)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)』、淡海の城、金剛輪寺HP、湖東三山ブックレット

          本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


菅浦城(菅浦惣村) 近江国(西浅井・菅浦)

2015年10月21日 | 城郭寺院

菅浦城(菅浦惣村)のデータ

所在地:長浜市西浅井町菅浦(旧:西浅井郡西浅井町菅浦)

      map:http://yahoo.jp/-tYUvEこの地図のURL

時 代:鎌倉期~戦国期

領 主:領主円満院

訪城日:2014.8.26

菅浦城

 菅浦文書は、中世に成立した自治権の強い村「惣村(そうそん)」の様子を記した現長浜市西浅井町菅浦の区有文書。主に鎌倉-戦国時代の1261点が重文に指定されている。

 菅浦の住民は、大浦庄の一部の領域を自領とすることで、村の領域空間を独立させようとしました。両村間の紛争の発端は永仁3年(1295)のこと。日指・諸河の田畑の所有権をめぐって大規模な紛争が始まりました。

 「菅浦所置文(ところおきぶみ)」(1346年)には、菅浦が惣村だったことを示す「そう(惣)」の字が初登場する。「浅井長政撰銭条目案(えりぜにじょうもくあん)」(1566年)は、銭の信用が低下する中、よほどの悪銭でない限りは使用するよう命じた文書で、戦国大名・浅井長政の名も見られる。

 このほか、菅浦の北に位置する大浦荘との間で土地の所有権争いがあったことが分かる文書や絵図など貴重な史料が残る。

要塞の役目を果たしたと伝わる「四足門」

「陸の孤島」「隠里」の異名をもつ菅浦。琵琶湖に突き出た葛篭尾崎半島の懐に抱かれた湖畔の集落です。山と湖に囲まれたたたずまいはどこか神秘的な雰囲気が漂います。この地には、奈良時代に帝位を追われた第47代・淳仁天皇が遠座されたと伝えられ、集落内にはゆかりの場所が多く残されています。住民の祖先は、平安時代以前の、天皇に納める食料を調達する「贄人(にえびと)」と呼ばれた小集団にたどり着きます。この地に住み着き、漁労と水運に従事した住民たちが、平安時代には「供御人(くごにん)」として自立したと伝えられています。中世には全国的にもいち早く「惣(そう)」といわれる自治的村落を形成し、住民自らによる自治が発達してきました。菅浦ではまた、早くから警察・軍事が行われ、要塞の役目を果たしたと伝わる「四足門」が集落の東西の入り口に残されており、往時を偲ばせています。

 「菅浦文書」には、隣の大浦との境界紛争への訴訟のための文書が多く見られます。菅浦はもともとは園城寺円満院領大浦庄に属する浦でした。

  菅浦は領主円満院と対立関係にあった比叡山延暦寺檀那院や竹生島などをたのみ、約150年にわたり争いました。永きにわたる紛争を治めるために活躍したのが、乙名清九郎です。彼は後に出家して道清と改名しましたが、菅浦の危機的状況を救った英雄として語り継がれています。

「菅浦文書(すがうらもんじょ)

 近江は全国に先駆けて「惣」が発達した地域で、ここには鎌倉時代から明治に至るまでの集落の様子を書き記した「菅浦文書」が残されています。この文書は、わが国の中世惣村の歴史を解明する上で重要な史料であることから、重要文化財書跡の指定を受け、現在は滋賀大学に保管されているほか、菅浦 郷土史料館に一部、写しが展示されています。
 住民には、供御人出身の者のほか、神社に仕えていた者や百姓など、様々な身分の者があり、貧富の差も存在したことは言うまでもありません。それにもかかわらず、すがうらではすべての構成員を供御人とすることにより、平等な構成員による惣共同体を作り出しました。

菅浦与大浦下庄境絵図

 菅浦が正式に独立した惣村として幕府に認定されるまでには、文安3年(1446)まで待たなければなりませんでしたが、この界相論をめぐる運動はまた、同時に自治的村落としての独立のための運動でもありました。

 湖岸の僻地で、名もない庶民が自立意識を保持し、自治を維持するために行った活動が「菅浦文書」の中に息づいています。脈々と受け継がれてきた生活経験は、時とともにその形を変えてきましたが、年中行事に、また錯綜した村の「取り決め」や「個人の人権」を守ることが、日常生活に何の抵抗もなく溶け込み、生かされている集落が菅浦なのです。住民自らの手による地域作りが求められる今日、その手がかりを菅浦の歴史の中に見ることができます。

四足門

ゆたかな緑に包まれた須賀神社は、この地に隠れ住んでおられたと伝えられる淳仁天皇を祀った物であり、もともとは保良神社と呼ばれたところです。明治42年(1909)に小林神社・赤崎神社を合祠し須賀神社と改称されました。
天皇自ら榧(かや)の木でご自身と皇后様の肖像を彫刻し「何処に寿を終わるも神霊必ずこの肖像に留め置く」と伝えられる地だけに、凛とした気高さの漂う湖岸の社です。
拝殿の裏には、淳仁天皇の舟型御陵が今でも残されており、水屋から素足で参拝する氏子たち。

竹生島(旧びわ町


多賀城 近江国(多賀)

2015年10月07日 | 城郭寺院

多賀城遺跡(たがじょういせき)

 

所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀546 map:http://yahoo.jp/n3TYnfこの地図のURL

区 分:平城 
現 状:宅地・多賀交差点  
築城期:鎌倉期
築城者:多賀氏
城 主:河瀬主馬(多賀大社の神官)
遺 構:土塁・堀・ 西徳寺石碑
訪城日2015.10.4 
 
 
お城の概要
平成14年滋賀県遺構地図には、多賀交差点周辺を比定しているが、(国道307号線と県道227号) 

多賀町の城

 多賀町内に存在する中世の城館跡は21を数えます。城館と一口にいっても城と館では性格が異なっています。館とは、おおむね平野部や丘陵のすそ部などの居住に最適な地で、交通・軍事のかなめにあたるところにつくられた屋敷のことです。水堀や土塁をめぐらしており、緊急時には防御施設になります。
 一方、城は山や丘陵の自然地形を利用し、堀や土塁を築いた軍事施設で、非常事態に立てこもるという性格が強いものです。ただし、久徳城のように平野部に城が築かれ、城と館の区別が明確ではない場合もあります。
 滋賀県内の城館跡は1300カ所と、全国でも有数の城館数を誇っています。多賀町は以外に少なく感じられるかもしれませんが、平均くらいでしょうか。多賀町の場合、多賀社、敏満寺などの社寺が大きな勢力を持っており、ほかの地域に比べて特殊な様相を呈していたと考えられます。
 今後、多賀町内に所在する城をご紹介していきたいと思います。

さ307号沿いの土塁?
お城の歴史

河瀬氏の支城。城主に多賀大社の神官「河瀬主馬」の名が。
河瀬氏は河瀬城を拠点に犬上郡に勢力を持つ一族で、織豊期には「多賀大社」の大神主であった。

江州佐々木南北諸士帳』に、「多賀 一宮士 川瀬主馬・二宮士 川瀬斎宮・三山田宮士 大岡玄蕃」とある。

・西徳寺(さいとくじ) 多賀町多賀 承和二年法相宗から天台宗に改宗。建長七年親鸞聖人三日間滞在。永正二年浄土真宗に改宗。

元亀元年織田浅井の兵火により焼失。元亀四年顕如の命を受け、僧證慈門徒760人をもって石山合戦に参加し討ち死に。

 多賀氏

  多賀氏は、古代より多賀地方および近接の甲良地方に土着の豪族であり、多賀社を氏神にしていたと考えられる。しかし、家系図の上では公家の中原氏と結び付けられ、天武天皇皇子・舎人親王の末裔である中原真人長谷に始まる江州中原氏が、多賀社の神官を務め、多賀氏を名乗ったのが始まりであるとされている(旧説では、江州中原氏は崇峻天皇皇子・定世親王の後裔と見なされていたが、今では仮冒[他人の名を語る偽称]と判じられている)。

いずれにしても、多賀氏は鎌倉初期から中期にかけて多賀と甲良に勢力を張る氏族であり、室町時代には犬上郡および坂田郡にて同族間で争いながらも隆盛であった。

 戦国期には、甲良の下之郷城に居城した多賀高忠を始めとする幾人かの著名な武将の名が見え、織田政権下・豊臣政権下でも為政者に直仕する、堀氏と縁戚関係になるなどして有利に活動していたが、関ヶ原の戦いの際、敗軍となる石田三成方についたことが禍し、戦後、所領を没収されて没落した。

 多賀氏であるが愛知大領成行なる人物から5代目信景が多賀へ移って多賀神社の神官を勤めたことから多賀姓を名乗った、平安時代中央官僚の中原氏が愛知郡の大領に任じられ長野郷に住したので長野姓を名乗り秀定の時多賀姓に変えたなどの説があるがもともとは多賀神社を氏神にする土豪だったらしい。その後侍所京極持清によって若宮氏と交替で京都所司代を勤めた。しかし多賀氏は豊後守系と出雲守系とに別れた。出雲守清直が失脚後、京極高数の次男が多賀家を継ぎ豊後守高忠となり持清を助け、六角氏の湖北侵略に対抗した。持清の存命中湖北は安定していたが、その死後失脚した清直が下坂家の内紛に介入して再び表舞台に出てきた。その子宗直は三田村定元の協力を得て高忠に勝利して湖北を支配した。これに対し持清の遺児秀綱が宗直に反発する勢力を集結、反撃に出て宗直・定元を破って湖北を奪回した。
高忠の子孫が貞能である。信長のもとで働くが本能寺の変で明智光秀についたため没落した。貞能には男子がなく、信長の側近だった堀秀政の弟を養子に迎えた。

西徳寺(さいとくじ) 多賀町多賀

承和二年法相宗から天台宗に改宗。建長七年親鸞聖人三日間滞在。永正二年浄土真宗に改宗。

元亀元年織田浅井の兵火により焼失。元亀四年顕如の命を受け、僧證慈門徒760人をもって石山合戦に参加し討ち死に。
西徳寺 西徳寺

慶照寺

多賀の古代・中世
奈良時代
  • 和銅5年(712年、奈良時代初頭) :この年に編纂された『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。
  • 天平宝字3年(759年)頃か :坂田郡側の霊山(現・霊仙山)山麓にて霊仙(長じて日本で唯一の三蔵法師となる人物)が生を受けたと伝えられる。この後、奈良の興福寺に入山する15歳頃までは霊仙山にある寺院(松尾寺など)で修行に励んだという。
  • 奈良時代 :霊山(現・霊仙山)山頂に霊仙寺(非現存)が建立されたと伝えられる。
平安時代
  • 天安2年(858年) :惟喬親王が藤原良房の追討を逃れて京の都から逃れる際、犬上郡の鞍掛峠(現・多賀町大君ヶ畑〈おじがはた〉の鞍掛峠)にて馬の鞍を外して休憩をとらせたと伝えられる(鞍掛峠および大君ヶ畑の地名由来)。
  • 延長5年(927年、平安時代後期) :この年に編纂された『延喜式神名帳』に「近江国犬上郡 多何神社二座」とあり、後世の多賀神社(多賀大社)のことと考えられる。
鎌倉時代
  • 鎌倉時代 :胡宮神社(このみやじんじゃ)が天台宗・敏満寺の鎮護として繁栄し、48伽藍120坊の規模を誇った。
室町時代
  • 明応3年(1494年、室町時代中期) :神仏習合が進み、多賀神社境内に神宮寺として不動院(天台宗)が建立される(多賀大明神の隆盛期の始まり)。
  • 永禄5年(1562年) :浅井長政の攻撃を受ける久徳氏に味方した敏満寺が長政に攻められ、焼き討ちに遭って120以上あったという堂宇が炎上焼失する。
安土桃山時代
  • 元亀3年(1572年) :命に応じなかった敏満寺を織田信長が攻め、残りの堂宇をことごとく焼き討ちにした上、寺領も取り上げ、これによって敏満寺は廃寺に追い込まれる。唯一残った福寿院が胡宮神社の別当寺院となったが、胡宮神社も被害甚大で衰退期を迎える。
  • 天正年間(1573-1592年) :胡宮神社の再興の願いに対して豊臣秀吉の許可が下り、社殿と大日堂が再建される。
  • 天正16年(1588年) :多賀神社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため、社殿改修を行い、大名に与えるに等しい1万石を寄進する。
  • 慶長年間(1596-1615年) :敏満寺跡地に残った礎石が彦根城普請のために運び去られる。
  • 慶長4年9月15日(1599年10月21日) :関ヶ原の戦いに敗れた西軍の武将・島津義弘が関ヶ原から犬上郡の五僧峠(現・多賀町五僧の五僧峠)を越えて高宮(現・彦根市高宮町)の犬上川河畔で一泊し、翌日、信楽経由で大阪の堺まで敗走する。
江戸時代
  • 寛永年間(1624-1645年) :3代将軍・徳川家光の庇護の下で大造営が行われ、現存する本殿・大日堂・観音堂が寛永15年(1638年)に建立される。
  • 寛永15年(1638年) :大僧正・慈性が多賀神社境内正面にて石造りの太鼓橋を造営し、以後、橋は太閤・豊臣秀吉と当社の縁に由来する「太閤橋」の名で呼ばれるようになる(現存)。

 

参考資料:

『江州佐々木南北諸氏帳』『滋賀県中世城郭分布調査報告「旧愛知・犬上郡の城」』・ 滋賀県の遺跡:遺跡ウォーカー

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


菅山寺城 近江国(余呉)

2015年09月25日 | 城郭寺院

菅山寺城

管山寺城 (寺院城郭・山砦) 
     北近江戦国史を塗り返る異形の中世城郭、菅山寺城

所在地:長浜市(旧伊香郡)余呉町坂口  http://yahoo.jp/UZirqx
 
築城期:室町期
 
築城者:佐々木京極高清 
戦 い:坂田京極高清 × 犬上京極政軽との合戦のため城郭普請

区 分:山城(砦)  未完成城

遺 構:土塁・堀切・竪堀・郭跡

現 状:寺院・・山林

標高:460m  比高差:190m

訪城日:2015.9.25

歴 史

・近江国余呉荘は交通の要害のため、文和元年(1352)、将軍足利義詮は、佐々木京極道誉を地頭職に補任(任命)「佐々木文書」

・京極高詮は、応永元年(1396)足利義満より余呉荘を安堵「佐々木文書」

・京極氏の余呉支配は六代将軍足利義教の時(1428~1441)に断絶。永亨七年(1435)まで、能登守護 畠山満慶が余呉荘の地頭職に。

・余呉荘、応仁・文明の乱時、文明年間(1469~1487)に将軍足利義政は比叡山延暦寺に寄進。「佐々木文書」

・足利義政の指示で、畠山氏から京極氏『京極持清』に与えられた。

『近江名所図会』には、木之本北に管山寺城と記されて、佐々木道譽の城と書かれている。

『日本城郭体系』に、伊香郡木之本北 佐々木佐渡判官入道阿弥(アミ)=京極道誉の居城と。『近江名所図会』を引用

 城郭研究家:長谷川博美氏が1990年(平成2年=25年前)『滋賀県中世城郭分布調査7 伊香郡・東浅井郡 P46』。

その後、踏査し古城塞を確認した

城郭フォーラム(余呉城郭研究会主催)で2012年6月17日に発表、解説された。

今回2015年9月25日見学会に参加。

近江名所図会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 近江名所図会(おうみめいしょずえ)は、江戸時代に近江国を紹介した案内記(ガイドブック)である。

1815年(文化12年)の刊行。秦石田と秋里籬島が編集、蔀関月と西村中和が画を担当したとされているが、実際は、『木曽路名所図会』『伊勢参宮名所図会』『二十四輩順拝図会』から近江関係の記事を抜粋してまとめたもの。全4巻。別名として「琵琶湖勝概全覧図会」とある。

当時の習俗・風俗が詳細されており、民俗学・歴史地理学の格好の資料である。

山上駐車場から、ブナ林の山道を進む

堀切

小土塁

管山寺の南側標高:459mhttp://yahoo.jp/UZirqx

南第3堀切

南第2堀切

南第2堀切

南第1大堀切の岩盤

南大1大堀切の岩盤

現地で解説:長谷川講師(城郭研究家)

南第大堀切の土橋

管山寺超え遺構

標高460m地点には、低土塁を伴う二重堀切と二重木戸を設けてる。

重要な管山寺の閑門を監視や物見台の役割果たしていた。

二重木戸は南北の稜線を南から北に向かう兵力をするために作られた砦!

管山寺城(出構え・山砦)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


福田寺 近江国(近江町)

2015年07月03日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地 :米原市(旧坂田郡近江町)長沢  map:http://yahoo.jp/km-9oF

築城年 : 平安期

区 分:城郭寺院

遺 構:寺院・堀

訪城日:2015.6.27 

お城の概要

福田寺は布施山と号し、宗派は浄土真宗本願寺派。
寺蔵の由緒書によれば、約1300年前に忍海部荘布施(長浜市)で建立され、息長寺成功院と号した。約800年前に長浜市布施から長沢へ移転されたという。

 本願寺は天文元年以後、浅井氏との関係を深めるが、その仲介・連絡等を湖北十ヶ寺が動めた。天文9年に浅井亮政と六角定頼が本願寺と越前朝倉氏との和議の仲介に乗出した時にも浅井氏と本願寺の連絡に当たっており、「天文日記」に「従浅井方浄顕福田寺下也差上、越前通路事少弼と示合、於此方同心者可取扱之由、周防方へ申越候」(同九年三月八日条)とある。

 城域内にある福田寺は、『元亀・天正の法難(織田信長との戦い)には、住職覚芸は、福田寺門徒4500余人と湖国十ヶ寺の総統領として、同志2万数千人を指揮して、愛山護法の戦いを繰り広げた。』(現地福田寺案内板より) 一向衆徒の拠点でもあり、山科本願寺と同様に城郭化されていたと思われた。

 長沢城は近江町長沢地区に位置し、旧国道8号線の西側集落の全てを包み込む構えを呈し、四方は水田と1m余りの比高をもって立ち上がっており、幅1m程の水路が廻っている。また、所によっては同様の水路が集落内に入り込み、屋敷を区画している。北と西側水路には、横矢掛りの屈曲が認められる。

 城域の北西部は真宗大谷派の福田寺が大きくその地を領有している。
長沢城の内堀に掛けられていた反り橋(そりばし)が長沢からおよそ2km南の宇賀野にある坂田神明宮に移設され現存している。福田寺境内にある書院は、浅井長政の小谷城から移したものと云われ、浅井御殿と呼ばれ県の文化財に指定されている。

福田寺庭園について

 境内にある書院は、浅井長政の小谷城(現滋賀県湖北町)の遺構を移したものといわれ、福田寺御殿(通称浅井御殿)として県の文化財に指定されている。また書院の庭は国指定名勝。室町時代末期の様式を伝える枯山水庭園である。

近江の浄土真宗寺院の中で最古の創立で、最高の格式を誇る福田寺の庭園。戦国武将浅井長政の小谷城から移してきたと伝えられる書院の南に、角ばった山石を力強く配し、厳しい印象を与える立石などを控え目に引立てる石組の強弱のバランスが素晴らしい。海や枯滝に見たてた石組もおもしろい。

毎年4月24日、25日に行われる公家奴振りは県選択無形民俗文化財となっている。


 福田寺と浅井氏の繋がりは、寺伝では「長政とお市の間には、三人の娘のほかに、男の子が二人いた。上の子が万福丸、下の子が万菊丸といった。小谷城落城時に二人とも脱出したが万福丸は発見され磔刑、あるいは串刺しにされたが、生後3ヶ月の赤ん坊だった万菊丸は幸い誰にも気づかれることなく福田寺で養育された」と伝えられている。

 江戸期に12代覚芸の跡を継いだ正芸が、この万菊丸であるとされるが、坂田郡志は正芸を浅井長政の遺児万菊丸とするのは疑問があるとしている。

福田寺は長沢御坊の名でも知られ、蓮如が3年間滞在したこともあり、境内には蓮如上人お手植えとされる松が見事な枝振りを見せている。


延元4年(1239)には、長浜の布施山から福田寺が移され、長沢城と福田寺は長く共栄したとされるが、応仁の乱(1467~77年)の頃に何が原因か定かでないが長沢城は閉城したと伝えられる。
大永5年(1525)、天文7年(1538)の二度に亘る六角氏による浅井氏攻めでは、六角氏の本陣が長沢城に置かれ、また、天文年中には長沢村の北国街道に関所が設けられ、浅井氏や若宮氏の被官が在番していた戦略上の要地であった。

その後は、織田信長の一向宗弾圧に抗して福田寺が江北十ケ寺の中心的存在となり、僧兵や寺侍、宗徒の拠点となったが、慶長2年(1597)秀吉の古城取り壊し布告により長沢城の残部も取り除かれた。

なお、湖北十ヶ寺は福田寺を含め、箕浦誓願寺(米原市箕浦),戌亥福勝寺(長浜市大戌亥町),十里金光寺(長浜市十里町),榎本浄願寺(長浜市榎木町),上坂順慶寺(長浜市西上坂町),上坂授法寺(以上旧坂田郡),内保誓願寺(長浜市内保町),尊勝寺称名寺(長浜市尊勝寺町),益田真宗寺(長浜市益田町)をさす。

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城

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