城郭探訪

yamaziro

赤神山

2012年01月31日 | ウォーキング

 琵琶湖の東に太郎坊なる岩ゴツゴツの霊山。三上山は有名だが赤神山(太郎坊)。標高は350メートル、この見栄えのよさは只者じゃない。

この山は太郎坊宮(阿賀神社)のご神体で、赤神山とも呼ばれる。太郎坊とは鞍馬の次郎坊天狗の兄らしいが、むき出しの大岩と急傾斜のそそり立ちっぷりが周囲を圧する存在感を放っている。神体山信仰の発祥の地とされるのもうなずける。

赤神山

参集殿に車を止めて

みつくり山 ハキングコース入口、山道に入る

 登山道は正面岩山の東側を迂回し、北(箕作山)からの縦走路と合流して背後から登頂するかたちになる。正面から見たら三角形に切り立った独立峰のようだが、じつは背後に赤神山、北の箕作山と尾根続きになっている。神体山のため登山道の脇にはロープが張られ、「止め山」と書かれた紙があちこちに下げられている。「止め山は松茸の盗採」の禁止の為。


 雪で靴が滑る、濡れになるのもかまわずガンガン歩くと、さしたる岩場もなくわずか15分ほどで山頂に出た。

 ここで気づくのだが、正面から山頂のように見えていたピークは実は山頂ではなく、到達した真の山頂はその背後に隠れていた赤神山。正面ピークへは道がない。

 

山頂からは360度の空中写真のごときの展望だ。山のせり上がり角度が急なため、すばらしい高度感。まさに天狗にでもなったような気分。

今日もマイ・ポールのお蔭で、雪道のハイキングコースも楽々・・・!

登山道の入り口(表示はない)、1m位高さがあり、滑る。瓦屋寺へ車道を曲った所に駐車スペースが!

参集殿から瓦屋寺への車道の分岐点

右の高い峰に布施山城跡が!探訪 布施山城址

キイチゴ

ロウバイ

参集殿から車道を自宅へ

 


探訪【横山城「姉川の合戦と城郭】

2012年01月28日 | 平山城

横山城「姉川の合戦と城郭」

中川氏の挨拶、松下氏のレクチャーが始まった「姉川の合戦と城郭」・・・・!参加者60余名は、レジュメを見ながら聴講!

石田会館から、雪の横山の現場検証へ

日吉神社の鳥居横から、横山城跡へ

見晴台で、積雪35cm

まるで「横山城跡スノートレイル」のように、参加者60余名は進む!

まるで「横山城跡スノートレイル」のように、参加者60余名は進む!

琵琶湖・田村山(JR田村駅)

城址見学終了「石田バス停」

姉川の合戦図

姉川の合戦の戦場の現場へは????

 元亀元年(1570)4月20日織田信長は3万の大軍を率い西近江街道を北上し若狭経由で越前・朝倉攻めに発進。25日には手筒山城を落とし、翌26日には手筒山城に隣接する金ケ崎城、および引壇城(疋田城)を開城させ、木ノ芽峠を越えて朝倉氏の居城・一乗谷にまさに攻め入ろうとした28日、同盟関係にあった浅井長政の裏切りの情報が入った。
 信長は殿軍を木下籐吉郎に命じ、同日中に朽木越えで京に戻る。京に戻った信長に対し、
観音寺城を追われ甲賀に潜伏していた六角承禎は、この時とばかりに一揆衆を蜂起させ、信長を討ち取ろうとするが、信長は蒲生の桜谷の佐久良城城主・小倉右京亮実房の道案内で千種越えで美濃の岐阜城に帰陣する。

 岐阜に帰った信長は兵を整え、6月5日には岐阜を出発。浅井・朝倉軍が中山道沿いに築いた
長比城、北国脇往還道沿いに築いた刈安尾城を落とし、小谷城へと攻め寄せた。この頃には信長の軍勢は2万5千人を数えるまでになっていた。
 信長は
小谷城を目前に竜ヶ鼻に陣を構え、小谷城の支城である横山城を包囲。この時点で織田軍は、徳川の援軍5千人と合わせて3万4千人の大軍にふくれあがっていた。浅井・朝倉連合軍1万8千人は小谷城を出て大依山に陣を構え、6月28日未明野村・三田に移動し、姉川を挟んで対峙。(現在の野村橋付近)
 戦いは徳川軍の酒井忠次,小笠原長忠の隊が朝倉軍に突入して火蓋が切られ、緒戦は朝倉軍の攻勢で進んだ。一方、織田軍も浅井軍の先方磯野員昌のすさまじい攻撃に第一陣を破られ苦戦をしいられるが、朝倉軍が榊原康政の側面攻撃をうけて崩れだし、浅井軍も左側面から稲葉一鉄、右側面から氏家ト全等の攻撃に耐えかね、織田軍の13段の構えのうち11段まで崩し、信長の本陣を目の前にしながらも潰走してしまった。
 こうして午前5時頃に始まり、午後2時頃までにもおよんだ戦いによる戦死者は、浅井・朝倉軍が1,700余人、織田軍も800余人とみられ、負傷者はその3倍にもにもなると云われている。

参照 近江の城郭 織田信長と織田一族ゆかりの地


石田館(石田屋敷) 近江国(長浜)

2012年01月28日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:滋賀県長浜市石田町治部 map:

別 称:石田屋敷
現 状:宅地・公園
区 分:平城  比高:--m 
⑥現況:宅地・公園

遺 構:堀・碑・説明板
築城期:室町期 
築城者:石田氏
駐車場:石田会館
目標地:徳明寺・石田会館
訪城日:2011.1.28

お城の概要

 安土桃山時代の武将・大名であった石田三成の出生地。出生の地であることを表す石碑や、三成の像、堀の一部などが残されている。三成は関ヶ原合戦で敗戦し徳川家康に処刑されるまで、豊臣秀吉を支えてきた知将として知られ、現在でも根強いファンがいる人物。毎年11月第1日曜日には「三成祭」が行われ、全国から多くの人が訪問し賑わう。

お城の歴史

 石田三成公は永禄三年(1560年)にこの石田町に誕生されました。その当時の石田家の屋敷はこの付近一帯にわたり、約一町四反歩位あったものと思われます。現在地は屋敷の南端に当たり、ここから北へ現在のバス停付近まで屋敷があったようで、この地域の小字名は「治部」と称し、俗称「ごいで」とも言われています。隣接地に「的場」「御畑」「堀端」などの小字名から当時の豪族らしい構えが伺われます。左手の池は「堀端」または「治部池」と呼ばれ、石田屋敷の堀の一部遺構と伝えられます。<現地案内板より>

石田会館

 秀吉が鷹狩の途中で領地の観音寺に立ち寄ると、汗だくの秀吉を見た寺小姓の三成が、大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきた。飲み干した秀吉が2杯目を所望すると、三成は1杯目よりも少し熱いお茶を茶碗に半分だけ入れて差し出した。秀吉が3杯目を求めると、今度は熱いお茶を小さな茶碗に入れて持ってきた。最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、三成はぬるいものから出したのだった。これを秀吉はいたく感心し、三成は召し抱えられることになる(この出会いのエピソードは「三献の茶」として語り継がれている)。
「三献の茶」

三献の茶とは、石田三成が豊臣秀吉に初めて出会った際に出したお茶。

 汗をかいた様子の秀吉に対して、一杯目は大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと、二杯目は先ほどよりも少し熱いお茶を茶碗に半分ほど、三杯目は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出した気配りが、家臣に登用されたきっかけとなる。

 

朝鮮遠征

ソウルまで

三成の紋は『大一大万大吉』!意味は「一人が万民(大)の為に、
万民が一人の為に、さすれば世に幸福(吉)が訪れる」
というもの

三成は関ヶ原合戦で敗戦し、オトチの洞穴に隠れ、

オトチの洞穴 http://www.youtube.com/watch?v=AsdLIrOIzJ4

石田三成公が関ヶ原の合戦で敗れた後古橋村に落ち延びてこのオトチ洞窟で

三成の・・・。

関ヶ原の合戦で敗れた

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・石田会館内展示

 本日の訪問ありがとうございす!!


佐和山城天守の行方

2012年01月25日 | 平山城

 関ヶ原の合戦で、西軍だったはずの小早川秀秋の寝返りによって窮地に追い込まれた三成は、捕らえられ処刑される。ドラマでは、三成の居城、佐和山城が炎上し、三成は木陰から見つめるばかりであった。

 長谷川さんは賤ヶ岳のふもとで生まれ育った。織田信長の後継争いで羽柴秀吉と柴田勝家が戦ったこの山が遊び場で、中世城郭に興味をもつ原体験となった。城郭研究家として、これまで県内の主要な中世山城の縄張り図を作成し、地域の古い地名や伝承を手がかりに、米原や多賀、近江八幡などで新しく城跡を発見してきた。本当に存在した城の跡を知りたい、そんな「リアリティーの追求」こそが長谷川さんを城郭研究に駆り立てる原動力になっている。
 長谷川さんは「彦根城天守の前身は佐和山城天守である」という独自の仮説を立てている。

 

ファイル:Sawayama-jyo01.jpg『佐和山城図』 文化11年(1814年)、紙本著色。個人蔵。石田三成入城後、改修が加えられた後のものと推測されている。

 


和田山城   近江国(五箇荘)

2012年01月25日 | 平山城

和田山城遠景(右の峰が和田山城)

 

探訪 和田山城

和田住宅案内図の左上に「和田山城祉」と

観音堂の前にペンキで「和田山城祉」と観音堂の横から登り口

和田山城縄張図(『五個荘町史』第一巻より)

『近江の山城』によれば、

                     寛文年間(1661~73)に成立した地誌『淡海木間攫』に、六角佐々木政頼の
          三男和泉守高成が和田山に城を築いて居し、和田氏を称したとあるとされる。六角政頼については、高頼
          の父とする説もあるが、六角氏の系譜上どこに位置する人物か未だ解明されていない。和田氏についても
          詳細は不明である。

左の峰のこの岩の上から清水山「箕作城祉」が一望できます

この岩周辺から、佐生城が木立の間から見える

三角点

 ところで、箕作城と特に佐生城には立派な石垣が築かれていて、石垣を多用した観音寺城の支城としてふさわしい姿をあらわしています。ところが和田山城には石垣が確認されません。

櫓台はこの辺り?木立の間から愛知川や国道8号線・湖東地域が一望できます。

 和田山城は六角政頼の子和田高成が築城したとも、六角義弼が築城したとも伝えられていますが、確証はありません。永禄11年(1568)に観音寺城が織田信長に攻められた際、六角氏は箕作城と和田山城に将兵をおいて攻撃にそなえたといいます。信長は手前の和田山城をあとにして、奥の箕作城を先に攻め落とし、これがきっかけで観音寺城に詰めていた六角氏父子は戦を交えないまま敗走しました。こうした経緯から、和田山城・箕作城・佐生城が観音寺城の北東方面を防御する支城群として機能したことがうかがえます。実際にこの三城は、観音寺城の防衛線となる愛知川や東山道に面する重要な場所に位置しています。

 ところで、箕作城と特に佐生城には立派な石垣が築かれていて、石垣を多用した観音寺城の支城としてふさわしい姿をあらわしています。ところが和田山城には石垣が確認されません。和田山南麓の和田集落には「ホリノウチ」という字が残されていることから、そこに館跡があったと推測されていますが、この推測にしたがうと、観音寺城の支城として機能する以前の和田山城は在地土豪の詰城だったとも考えられます。

 和田山城はおよそ28m四方の方形の土塁をめぐらせた単郭式山城です。北東と南西に延びる尾根に面した土塁では、土塁は高さ1mを越える規模で残されていますが、ほかでは50㎝以下しか残されていないところもあります。東尾根に面した土塁には高さ3m程度の櫓台が設けられ、その対面の土塁には半円形の張出し部が設けられています。縄張り図によると張出し部には中央に窪みが設けられていたようで、これを狼煙台と見る方もおられます。主郭の周囲は斜面を段々に削り出していますが、植林のための整地の跡のように見える部分もあって、城跡の規模を的確に把握することは難しい。


三雲城(吉永城)  近江国(甲賀)

2012年01月24日 | 戦国山城

観音寺城の「奥の城」「隠れ城とも云える城

お城のデータ

所在地:湖南市吉永字城山(旧甲賀郡甲西町吉永字城山)map:http://yahoo.jp/cF63nT

別 名:吉永城

区 分:山城

遺 構:土塁,堀切,空堀,枡形,土橋,石垣,井戸

築城期:長享元年(1487年)

築城者:三雲典膳

初城主:三雲典膳(佐々木六角)

標 高:314m    比高差:140m

城 域 :300m×200m

訪城日:2012.1.24

探訪 三雲城・・・観音寺城の「奥の城」とも云える城

お城の概要

青少年自然道場手前の道路際に車を置いて、舗装された林道を歩くこと約20分で三雲城址の石碑が建つ登城道に着く。

 城道は北尾根を登る、桝柄虎口までは、後世の砂防石垣。

 山腹には巨石による枡形虎口が設けられ、「ミニ観音寺城」といった観がある。山頂の主曲輪は25m×15m程度で、主曲輪の西に堀切を挟んで15m×15m程度の砲弾型の曲輪(2の曲輪としておく)があり、曲輪西側には土塁が確認できる。

この尾根の東斜面は傾斜が緩やかだが、土塁・馬の背道~六角の家紋岩・八丈岩(見張台)。

 2の曲輪から西へ延びる尾根は「馬の背」状に細くなり、この尾根を4条の堀切で処理している。

しかし帰路は三雲城址の石碑から谷を下りる。
の谷筋を通っても石垣が積まれている。後世の砂防石垣。

佐々木六角氏の家紋(目結紋「平四つ目」)」

佐々木の城「観音寺城・小堤城山城・三雲城」の特徴点

  ・主郭に庭園を備え

  ・山頂部に物見曲郭・狼煙台

  ・主郭を取り巻く石垣を多用した曲郭。「信長以前の城は土の城」

二の丸の枡形虎口です。

 枡形の上段にある平坦地の二の丸には、井戸が残っています。これも築城当時のものと云われています。井戸があるということは、この場所で生活をしていたという証拠になります。

井戸を覗いてみましたが、石で側面を作ったしっかりしたものでした。井戸には危険防止の柵が。

主郭部分は、整備が進んでいません

石碑のある登り口から整備された階段状の城道を登ると、すぐ左側に石積みが何段にも続く(後世の砂防石積)。少し登ると右側に削平地があり小さな石を積んだ石垣がある。これらは後世の砂防石積。

歴 史

・・・・・信長公記 三巻10月20日の条・・・・・

 江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城・菩提寺城まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。云々・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三雲城は1487年に六角高頼が三雲典膳によって築城。

足利義尚・義材の六角討伐の野洲川の戦いに備え、築城された城郭群                                                                  ・・・・・三雲城・菩提寺城・小堤城山城・夕日ケ丘城・上永原城・市三宅城・・・・                                                        

 三雲氏は、室町将軍による六角氏征伐である長享・延徳の乱で、六角氏の命令によって観音寺城の出城として三雲城を築いた。

  三雲氏は甲賀郡の名族伴氏の一族で、鎌倉期には佐々木秀義の五男隠岐佐々木義清の次男泰清が三雲(見雲)氏を名乗ったとも伝えられ(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、源氏を称することもある。

長享・延徳の乱では甲賀に積極的に逃亡した高頼を甲賀二十一家が支えた。そのひとりが三雲新蔵人である。

近江守護六角氏の重臣として、三雲氏累代の居城であった。 

この城は、観音寺城の「奥の城」とも云える城で、六角氏は居城が危機を迎えると、必ずとこの城に逃げ込んでいる。

 永禄11年、織田信長によって観音寺城を攻められた時も、六角義賢・義弼父子がこの城に逃れ再起を図った。

 三雲成持は、六角氏滅亡後織田信雄・蒲生氏郷に仕え、江戸時代には1,000石の旗本として続いた。 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia

        今日も訪問ありがとうございました。

 


三成に過ぎたるもの、「内堀は安土城に匹敵する大きな規模」

2012年01月21日 | 平山城
三成の居城で内堀跡など見つかる
彦根市・佐和山城遺跡
 
 関ケ原の合戦で西軍の指揮をとった武将、石田三成の居城だ・た彦根市の佐和山城遺跡で内堀跡が見つかった。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、安土城に匹敵する大きな規模だという。付近では城下町の町屋区画とみられる溝跡もあった=彦根市・佐和山城遺跡

 豊臣秀吉の重臣、石田三成(1560~1600年)の居城だった佐和山城遺跡(彦根市佐和山町)の発掘調査で、内堀跡や、城下町の町屋区画跡が見つかったと、滋賀県教育委員会が18日発表した。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、「内堀は安土城に匹敵する大きな規模だ。『三成に過ぎたるもの』と称された城の姿がうかがえる」という。

 調査は2回目で、前回に武家屋敷跡が見つかった佐和山の東北の山すそで約550平方メートルを発掘した。

 発掘された内堀跡は幅が東西10メートル、南北4メートル、深さ約0・5メートル。西側に内堀の一部と伝わる小野川や土塁跡があり、土塁跡から測ると内堀の幅は約22メートルだった。発掘した県文化財保護協会は「土塁は廃城後に削られたが、現存部でも1・5メートルの高さがある。当時はさらに高い土塁と幅広い内堀で城と城下町を隔てた」とみる。

 付近では約2メートルの道跡や幅3メートル、長さ約30メートルの溝跡も見つかった。また、鋳物で使うスズを一時保管する入れ物「とりべ」、炉に風を送る「ふいご」の一部、鉄かすも近くで出土し、鉄砲などを作る鍛冶職人が居住したとみられる。協会は「道は城下町の主要道だった可能性が高く、溝は町屋区画の仕切りだった」とみている。

 佐和山城は鎌倉初期に造られ、彦根城築城開始(1604年)前後に廃城になったとされる。今回の調査地では大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、瀬戸美濃焼の天目碗(わん)など16世紀後半の遺物が多く出土し、三成の居城だった時期にも使われた遺構とみられる。


佐和山城・・・・彦根市教育委員会

2012年01月20日 | 平山城

鎌倉時代、佐々木定綱の六男、佐保時綱がこの地に館を構え、15世紀中頃には、六角氏の支配のもとに小川左近大夫を城主として、犬上坂田両郡の境目の城となったと伝えられている。

戦国時代、佐和山城は度々戦乱の舞台となり、多くの武将の居城となった。なかでも、元亀元年(1570)の姉川合戦では、敗走した浅井勢の磯野員昌が籠城し、8か月にわたる攻防がくりひろげられた。のちに「難攻不落の城」と称えられた所以である。

その後、丹羽長秀・堀秀政・堀尾吉晴と引き継がれ、石田三成のとき「佐和山惣構」の普請が行われた。

佐和山城跡の歴史の詳細は下記のボタンからご覧下さい。

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/searches.html

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/h20_1.html

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/pdf/sawayama.pdf

http://www.city.hikone.shiga.jp/kikakushinkobu/johoseisaku/pdf/20110315KH08.pdf

佐和山城跡の調査

佐和山城跡は、天守や櫓などの建物がまったく現存せず、石垣などもほとんど残っていないため、これまで城郭としてあまり評価はされませんでした。

ところが、近年、随所に城郭遺構が残っていることがしだいに明らかとなり、日本を代表する中世城郭として注目されるようになりました。

これまで、平成12・13年に本丸の測量調査を実施しましたが、平成16年度から新たに長期計画を立て、総合調査を実施しています。

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/h16.html

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/h17.html

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/h18.html

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/h19.html

http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/sawayama/h20_3.html


大森城主

2012年01月19日 | 平山城

布施淡路守公雄【ふせ あわじのかみ きみお(きんお) 生没年未詳】
六角氏式目の宛名の一人。年寄衆とおもわれ様々な裁定に関わる。
子の藤九郎公保(とうくろうきみやす)は東近江市・大森城主。大森城縄張り馬つなぎ松

信長の馬つなぎ松

 元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云われる松が甲津畑の速水氏宅にある。

六角氏滅亡後は織田氏に仕えた。
窮地に立った信長を「千草越え」にて救いその後、馬廻り衆となる。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/809c936f3f7768f8765214d7f42624b8

 


探訪 布施山城址 近江国(八日市)

2012年01月19日 | 平山城

砕石のノミ跡が

 

探訪 布施山城跡

入山口の石仏様=布施山北峰登山口、比高差:120m(布施溜池の放流口)

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)布施町 map:http://yahoo.jp/uLFhlt

区 分:平山城

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:布施氏

城 主:布施三河守

遺 構:曲輪跡・土塁、井戸、畝状竪堀(西側)・くぐり門

標 高:240m 比高差:120m

目標地:布施公園

駐車場:布施公園

訪城日:2012.1.19

お城の概要

前方後円墳に築かれた山城

(主郭が後円墳・副郭が前方墳) 近江では、数少ない畝状竪堀が西側に!

布施山(玉緒山)山頂の古墳に築かれた城、石積の虎口、土塁、井戸跡が残る、自然の要塞となっている、雪野山、太郎坊山、瓶割山を望むことができる。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 布施城主 佐々木氏族 布施参川守」の名を記す。

布施氏は佐々木六角氏の家臣であり、本家筋といわれる布施三河守家と、布施淡路守家に分かれていた。布施山城の城主は布施三河守家であり、布施淡路守家の城は、東方5kmにある大森城。

永禄6年(1563)に、六角氏被官の後藤氏が六角義弼に観音寺山城内で誅殺され、これに反発して家臣が自領へ引き上げた「観音寺騒動」が起きた際、永禄9年(1566)、布施三河守は布施山城に拠って、浅井氏と呼応して六角氏に反旗を翻した。

この騒動は、蒲生氏の調停によって収拾されたが、六角氏の権限を制限した「六角式目」が制定されました。

布施三河守は永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻の際、この城に籠もり戦いましたが敗れて廃城となりました。

主郭まで、赤いビニールテープで案内!

     布施山、標高:240.8m。三等三角点、点名:布施、展望:なし

 虎口はくぐり門、古墳の石室を利用した、むき出しになった古墳。

 布施山城へは布施地区にある通称「溜池」横の観知溜館(みちるかん)駐車場に車を置き、観知溜館と布施山(玉緒山または願成寺山)の橋を渡ると石仏があり、そこから入山、赤のビニールテープの案内で山頂へ。

 山頂の前方後円墳を利用した、狭い面積を目一杯利用して、方形というよりは円形に近い形の主曲輪(約南北30m×東西30m)があり、南東隅には井戸(溜め井)と思われる5m×4mほどの窪地がある。

 主曲輪周囲には、高さ1m前後の土塁が廻らされている。この土塁は幅が相当厚く、土塁幅からすれば相当の高さがあったであろうとことが推測される。

 主曲輪の北には幅5mほどの袖曲輪を介して20m×20mの方形曲輪を配している。こちらの曲輪にも周囲に土塁を巡らせている。高さは50~60cm程度でしかないが、主曲輪同様に土塁底の幅は相当広い。また、近江の城には少ない畝状竪堀は西側に残る。

 布施山城・・・ 布施氏は六角氏(観音寺城・旧五個荘地区)の家臣であるが、永禄6年(1563)の観音寺騒動後に主家と不和になり、湖北の浅井氏(浅井長政・小谷城)に通じ布施三河守が籠城した(布施山城の戦い)。その際、浅井氏は愛知川畔まで侵攻し、六角氏側の背後を脅した。
 
 
 布施三河守【ふせ みかわのかみ 生没年未詳】
信長公記巻九に「六角承禎の家に代々伝わっていた真鳥羽根付き節無しの矢軸という名宝も布施三河守によって探し当てられ、信長公に献上されるところとなった」と記載あり。
 
 布施山東側のふもとには布施の溜池があります。後白河法皇が記したとされる「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に「近江におかしき歌枕、老蘇轟、蒲生野布施の池、安吉橋・・・・」とあり、この頃から溜池が知られていたとがわかります。現在は、溜池とその周辺が公園整備され、水と緑に親しみ野鳥や植物などの自然観察ができ、芝生広場や遊戯施設も備えた親水公園です。冬季には水鳥が飛来し、野鳥観察ができます。

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


探訪 小堤城山城 近江国(野洲)

2012年01月17日 | 平山城

主殿の郭(説明板と縄張図)

現地案内板より

探訪 小堤山城

主殿の東尾根の郭石垣(南面下)

東尾根の郭石垣(北西面下)

 

小堤城山城(こづつみしろやまじょう)は、六角氏家臣の永原氏により、

15世紀末頃に築かれたと思われる。


野洲郡東部は、蒲生郡の馬淵氏の勢力下であったが、16世紀初頭からは馬淵氏の家臣であった永原氏がこの地域で勢力を築いた。

そして、大永年間(1521~28)頃からは守護六角氏と直接主従関係を結ぶに至った。

軍事的には六角氏の中で中心的存在で、行政面においても前代の馬淵氏の郡奉行としての権力を継承する形で野洲郡全体に影響力を保持した。
 小堤城山城の記録を残す文献は乏しいが、「永原上下の城」や「長原上の城」などの記述が見られ、「永原上の城」は小堤城山城を指し、「永原下の城」は上永原城を指すものと思われる。


小堤城山城は、六角氏家臣クラスの山城としては規模も大きく、石垣の構築箇所の多さでも他の六角氏家臣の山城から群を抜いた存在である。

 さらに、織田氏の近江支配時代には野洲郡を領した佐久間信盛も在城したようです。
『「現地(主郭跡)説明板」、「近江の山城 ベスト50を歩く・中井均著(サンライズ出版刊)」他参照』

 

 所在地:野洲市小堤  マップ:http://yahoo.jp/bqsQ1F

小堤城山城跡(こづつみしろやまじょうあと)

 築城者:永原氏

築城期:大永年間

訪城日:2012.1.17

小堤城山城は、野洲郡と蒲生郡を隔てる鏡山(かがみやま)山系、標高280mの城山(しろやま)(比高差200m)の尾根上にある城郭で、15世紀末に永原(ながはら)氏が築いたとされています。城は、北側の麓に走る旧中山道(なかせんどう)、そして野洲郡全体、さらには甲賀郡北西部までをも見下ろす位置にあります。永原氏は、六角氏の家臣馬淵(まぶち)氏の被官(ひかん)でしたが、文亀(ぶんき)2年(1502)の守護代伊庭(いば)氏の反乱を契機に、馬淵氏から独立し、野洲郡で勢力を伸ばし、16世紀前半の大永年間ごろからは、近江守護六角氏と関係を持つようになり、大きな軍事力を背景とし、奉公人として活躍します。永原氏は、普段は野洲市上屋(かみや)の永原城に居住し、在地の支配を行っていました。

小堤城山城は、有事の際に立籠(たてこも)り戦う詰城(つめじろ)として、整備された城郭と考えられます。 小堤城山城跡は、近江南部では、最大規模の中世城郭で、山頂部と北西の山腹、尾根上に築かれた郭群により構成されます。山頂部の郭群(くるわぐん)が立地の制約からか、面積が狭いのに対し、中腹部の郭は面積も広く、石垣を多用する等、居住性や防御性(ぼうぎょせい)を高めた構造となっています。中腹の郭群の中でも最も広い郭に用いられている石垣石材は、他の郭の石材よりも特に大きく、この郭の機能が他の郭と異なり、城の中心をなしていたことを示しています。
 一般に城郭に石垣が多用されるのは、16世紀後半の安土城からとされていますが、この城の石垣は、安土城より古い時代のものであり、六角氏の有力家臣永原氏の城郭という歴史性に加え、城郭構造の変遷を考える上でも重要な城郭です。

本日も訪問、ありがとうございました。


宇佐山城跡@宇佐八幡宮

2012年01月10日 | 平山城

森可成が新城を築き、その麓に進路を通しこの道に通行させようとした。

しかし、まだこの道は工事中だったのか可成の家来によって阻止され、三井寺の参拝を中止し白川方面に出たとしている。

この時代、築城の様子が記録している史料は少ないが、多聞院日記はその時の重要な様子を示している。

宇佐山城の戦い

浅井・朝倉連合軍は信長の背後を突くべく行動を開始。

 城主・森可成(森蘭丸の父)は

近江に居た野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に

交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して

連合軍の進軍妨害を試みる。

 


赤穂義士の寺坂吉右衛門の墓があると聞いて訪ねた

2012年01月09日 | 番外編

赤穂義士の寺坂吉右衛門の墓があると聞いて訪ねた

 

 

国道421号線より数十メートルの山中に臨済庵址があり、歴代住職墓の一つが元禄忠臣蔵 赤穂浪士四十七番目の志士、寺坂吉右衛門のものといわれています。討ち入り後、命によって隊を離れた寺坂は、出家して他の志士たちの菩提を弔ったと伝えられ、戒名には志士達に通じる「刃」の字を見ることができます。
(永源寺より車で3分、徒歩で15分)


初詣 太郎坊宮・夫婦岩の成り立ち 約7千万年前に出来た奇岩

2012年01月04日 | 番外編

=八日市地学趣味の会会長・磯部 敏雄=

太郎坊山・夫婦岩は山中腹より上の本殿前にある

◇東近江
 八日市で「太郎坊さん」の愛称で呼ばれている太郎坊宮のシンボルと言えば「はさみ岩」である。はさみ岩は、子どもの頃、親から「ウソをついた者が通ると挟まれてしまう」と言われたものだから、はさみ岩を通る時は怖くて走り抜けたという人も多かろう。

 

本殿側から見た女岩(右)と男岩

 このはさみ岩は、「夫婦岩」とも呼ばれる大きな割れ目で「男岩」と「女岩」の二つに分けられる。この夫婦岩は命が宿る神を意味しているという郷土史家もいる。
 また、昔、相撲とりが夫婦岩を通る時大きな腹が岩にすれたことから「へそずり岩」と呼んだという説もある。
 ウソをつくと挟まれる、へそずりとおもしろい言い伝えが残るはさみ岩はどうしてできたのだろうか。今回、太郎坊宮の許可を得て夫婦岩を科学的、岩石学的に調べてみた。
 太郎坊宮の箕作山をはじめ、繖山(きぬがさやま)、雪野山等、湖東平野に散在する山々は、恐竜が全盛期の中世代白亜紀(約七千万年前)の火山活動で出来た岩石の山である。

 

女岩のトア(岩塔)下部にはズレがある

 近江八幡市の八幡山、沖島、能登川の猪子山、彦根の荒神山などで見られる岩石は広い範囲にわたる火山活動で出来た「湖東流紋岩」と名付けられている。湖東流紋岩は、古くから古墳の石室、城の石垣、京都のインクライン、石橋、石垣等ありとあらゆる場所や施設に利用されている。
 岩石は、出来る時に冷却して収縮する。この時、岩石内部に応力が働いて「割れ」が生じる。この割れを「節理」という。節理には規則的な形が多い。その形から「柱状節理」、「板状節理」、「球状節理」と呼ばれている。兵庫県の日本海側には素晴らしい柱状節理が大規模に見られる景勝地があり「玄武洞」と名付けられた観光名所がある。福井県の「東尋坊」も大きな節理による観光名所である。

 

 
永源寺地区の日本コバ(標高九三四m)は、湖東流紋岩から出来た山で永源寺ダムサイト下流の清水橋横では大きな柱状節理が観察出来る。 
 岩石に節理が出来るときには、引っ張りや圧縮による破断節理、剪(せん)断節理も出来る。この節理には岩石に大きな割れを生じることがある。
 太郎坊宮の夫婦岩付近には随所に節理が見られ、破断節理や剪断節理も観察出来る。このことから、夫婦岩の割れは節理が大きく起因し、加えて地震等による地殻変動も関係しているものと推測できる。節理が発達してトア(岩塔)を形成したものが夫婦岩と言える(図面参照)

 

夫婦岩の節理を調べる磯部さん(鉱物鑑定士)

 平成七年一月に起きた阪神淡路大震災の後、すぐに夫婦岩を調査したが、少しもズレた痕跡はなかった。夫婦岩の女岩下部は岩床から切り離されているが、男岩と寄り添った安定した状態で、男岩の岩床と接合していると推測できる。
 このように太郎坊山は、湖東流紋岩の節理が原因でトアや割れ目を形成したものと結論できる。また、古くから人々に信仰されてきた夫婦岩は他に比類ないもので、東近江市の天然記念物に指定しても十分に価値があるものと言える。
 平成の合併で東近江市が誕生して七年目の年始めを迎えるにあたり、東近江市内に見られる湖東流紋岩を「市の石」として制定されることを初夢として願いたいものです。

 

夫婦岩入り口にある説明板
ウソをついたら挟まれるという言い伝えのある夫婦岩の狭い通路