城郭探訪

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大塚城 近江国(蒲生)

2013年03月31日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市大塚町(旧蒲生郡蒲生町大塚) map:http://yahoo.jp/ql2Bdi

遺 構:堀・土塁・石碑 

形 式:平城  

築城者:大塚平左衛門

築城期:室町期

目標地:近江鉄道大塚駅

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.3.30

お城の概要

 大塚城は、朝日大塚駅北側の踏切を挟んで両側にある雑木林から北側の水田の一角にある稲荷神社までの一帯が城域であった。 

大塚城は近江鉄道・朝日大塚駅の北側踏切の一帯。字城屋敷といった小字名が残る。

近江鉄道が大塚城を東西に分断する形でレールが敷かれている。

 線路の東側現地には幅3~4m、長さ30m~40mほどの水堀が残っている。

 城内には石碑が建てられ「内堀」であると記されている。内堀に沿った土塁、あるいは曲輪なども周囲を水田に囲まれながらも比較的状態良く残されている。

 現地の石碑には、大塚城の位置と共に丹後屋敷跡、徳本屋敷跡、大塚城主因幡屋敷跡、民部屋敷跡、金花院跡、堀兵衛屋敷跡、水晶工房光り屋敷跡等のあった方向が示されている。

 石碑は大塚氏の末裔に建てられたものようです。大塚城主因幡屋敷跡は、大塚城の西(線路の西)は2m強の切岸が屋敷地の石碑が建っている。

  大塚城の外堀は石碑に矢印があるが、圃場整備でその痕跡は確認できない。



圃場整備以前には、小字城屋敷を中心に堀と土塁が数ヵ所に存在していた。【滋賀県中世城郭分布調査報告書】
 文化2(1805)年の「城屋敷絵図」に「御本城」とみえる場所には、三方に重厚な土塁と堀が存在し、北西の部分を「馬場の堀」と呼んでいた」と。朝日大塚駅から大塚地区の集落へ、道路沿いに土塁が確認できる(妙厳寺寺の北側)の畑と竹藪に高さ2m程の土塁がL字状残っている。 また、地区内の民家東側にの長さ約10m程の土塁が残っている。

 大塚城は、室町時代に大塚氏によって築かれた。 


歴 史

 大塚氏は仁治3年(1242)に観音寺城主・六角氏に属し、大塚の地に屋敷を構えた。
 天文年間に六角定頼の下で大塚八郎右衛門が湖水の船手奉行をしていた。

  永禄6年(1563)観音寺騒動の後は甲賀・和田城主の和田氏の娘を娶り、この時から日野城主・蒲生定秀に仕えた。

 永正5年(1508)に前将軍足利義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こした際、第11代将軍足利義澄は近江に逃れた。この時に大塚城を改修すると共に規模を広げた。

 天正12年(1584)蒲生氏郷が奥州【会津若松】に転封に、蒲生氏と共に奥州へ、大塚城は廃城。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「蒲生郡蒲生町(現・東近江市)大塚」、創築年代は「室町時代中期」、創建者は「大塚平左衛門」、形式は「平城」です。

 城の歴史は「大塚城は、大塚集落の西、近江鉄道朝日大塚駅のすぐ北側に位置し、一帯は城屋敷の小字が残されている。遺構は、いわゆる複郭式で、特に北端の郭は中央を鉄道が貫通しているものの遺存状態は良好で、幅三m、高さ二mの土塁が南に開口しており、一辺九〇mの「コ」の字形になっている。その南に主郭とも考えられる面積一町歩ばかりの一段高い水田があり、その西には土塁の痕跡と思われる小畦畔と水路がある。また、さらに南に堀と土塁で区切られた一段高い雑木林があって、一部には門跡と思われるところもある南郭が続いている。全体では「凸」の字が横を向いたような配置となっている。

 城主の大塚氏は六角氏に仕えていたらしく、明応八年(一四九九)の『永源寺文書』の中に大塚平左衛門の名がみえる。また、天文年間(一五三二-五五)には佐々木定頼のもとで大塚八郎右衛門が湖水の舟奉行をしている。なお「大洞弁天当国古城主名札」には、大塚角之助以下計一〇人の名が記されている。」とあります。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、『日本城郭体系 11』

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!!


信長の隠れ岩

2013年03月31日 | 遺蹟

信長の隠れ岩へ遊歩道 高島・朽木

 

「信長の隠れ岩」の前に案内板を立てる「朽木・群・ひとネットワーク」のメンバーら(高島市朽木市場)
「信長の隠れ岩」の前に案内板を立てる「朽木・群・ひとネットワーク」のメンバーら(高島市朽木市場)

 高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。この岩に通じる遊歩道を、地元のまちおこしグループがこのほど、新たに整備した。グループは「朽木の新たな観光名所に」と期待している。

 信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。

 この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上にある。

 数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。

 しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。

 斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。

 岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と、夢を描く。

http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%B5%FE%C5%D4%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=3&dispconfig=


【戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツを探る】・小谷コース

2013年03月29日 | 遺蹟

【探訪】戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツを探る
平成25年3月30日(土)      【探訪・小谷コース】 10:30~16:00

 徳勝寺(長浜市平方町)は、戦国大名浅井氏の菩提寺として知られています。                                                                    浅井氏の滅亡後、秀吉によって長浜に移され、寛文12年(1672)の浅井長政100回忌にあたって、現在地に寺観を整えました。

 寺伝などによれば、徳勝寺はもとは医王寺といって、応永年間(1394~1428)に浅井郡山田村(長浜市小谷上山田町・下山田)に創建されたといいます。                                                                                                                           そして、小谷城に浅井氏が勃興するに及び、永正15年(1518)に初代亮政によって小谷城清水谷(長浜市小谷郡上町)に移され、亮政没後に徳勝寺と寺号を改めたといいます。

 ところが、そうした寺伝などとは矛盾するごとく、秀吉時代に至っても徳勝寺とかかわりの深い医王寺が堀部(長浜市堀部町)に存続する一方、小谷には医王寺跡(下山田)や育王寺跡(上山田)、また上述の小谷城清水谷のほかにも徳勝寺跡(長浜市小谷丁野町)と伝える寺跡が知られ、そのルーツは謎につつまれています。

「戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツをさぐる」

小谷城清水谷 徳勝寺跡へ

 小谷城に浅井氏が勃興するに及び、永正15年(1518)に初代亮政によって小谷城清水谷(長浜市小谷郡上町)に移され、亮政没後に徳勝寺と寺号を改めたといいます。

小谷城戦国歴史資料館

模擬大手門

追手道起点  
追手道は、清水道から出丸裏を経て、尾根上の登城道につながり、終点の番所に至る。清水谷へ向かう清水道の起点(堀跡)から100mほど入ると東側に案内板が建っている。ここが追手の起点とされ、沼地を越え間もなく山中へ入る。起点の左手前の広場に模擬大手門が建っている。大手道については、この追手道のほかに虎ヶ谷道がそれにあたる可能性もあると云う。

清水谷 徳勝寺跡へ

長政の重臣遠藤直経の屋敷跡とされる。資料館のすぐ北に位置し清水道沿いに土塁の痕跡があるが、未整備のため全容はつかめない。
遠藤氏は須川城主で浅井氏が京極氏被官であったころからの譜代の家臣であった。直経は長政が幼い頃よりの相談役で信頼も厚く、子に須川城を任せ在番していた。
元亀元年(1570)姉川合戦で浅井方の敗北が濃厚となった際、信長の首を取るべく単身信長の陣に乗り込んだが、信長方竹中半兵衛の弟・重矩に逆に討ち取られた。

浅井氏の一族浅井山城守の屋敷跡とされる。
虎ヶ谷道のすぐ西側に位置し、清水道に沿って土塁の痕跡が見られるが、未整備のため雑草に覆われていた。
浅井山城守は、浅井氏初代亮政の子で2代久政の弟に山城守の名が見えるが、同一人物なのかは不明である。もしそうだと、長政の叔父ということになる。

虎ヶ谷道は、清水道中程から番所へ通じていた道である。虎ヶ谷道の北側に土塁で囲んだ約40m四方の区画があり、更に虎ヶ谷道の両側には多くの曲輪が配置されていて、防御を強くしている。
小谷城主郭部へは追手道・搦手道が通じているが、虎ヶ谷道はもう一つの主要な登城道だが、城主の平時の居館であった御屋敷からも最も近く、構造上ここが大手であった可能性もあるという。
現在未整備のため、ここから番所への道は途絶えている。

徳勝寺(徳昌寺)は、清水谷の奥、清水道の御屋敷の手前に位置し、正確には医王寺と号した。
医王寺は応永年間(1394~1438)開基で、元々は湖北町上山田にあったが、永正15年(1518)浅井亮政の小谷城築城に伴い、城下に移し浅井氏の菩提寺とした。
現在は雑草に覆われた平地に石碑が建つだけで特に遺構は見られない。

落城後、この地を与えられた秀吉によって庇護され、文禄4年(1595)には井之口村(現高月町井口)に移され、亮政の法号徳勝寺殿にちなんで徳勝寺に改号した。

医王寺へ

寺伝などによれば、徳勝寺はもとは医王寺へといって、応永年間(1394~1428)に浅井郡山田村(長浜市小谷上山田町・下山田)に創建されたといいます。              

 育王寺跡(上山田)へ  

 

浅井氏発祥の地 丁野へ

浅井氏発祥の地説明板

丁野城・中島城方面へ

ショウジョウバカマが咲いてました

探訪は後日。

弥勒寺跡へ

明智光秀の砦山の登り口

河毛駅へ・・・!

本日の歩数  17,988歩   2時間58分   12.5km

消費カロリー  577.0kcal    脂肪消費量  82.4g


  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


丸山城(丹羽砦)    近江国(彦根)

2013年03月27日 | 

 近江 丸山城(丹羽砦)織田信長の重臣、丹羽長秀の陣城堀切

 

主郭で城守 2013.3.26

お城のデータ

所在地:彦根市小野町   map:http://yahoo.jp/FS4WCr
別 名:丹羽砦
築 城:織豊期 元亀元年(1570)
築城者:丹羽秀長 ・初城主:丹羽長秀
区 分:砦

現 状:山林

遺 構:曲輪・竪堀・堀切

標高:264m  比高差:135m

目標地:小野集落・名神高速をくぐる「彦根25」のトンネル

駐車場:トンネル近くに路上駐車

訪城日:2013.3.26

お城の概要

幾つも小さな尾根が入り組み、どの山なのか非常に特定しにくいが、名神高速をくぐる「彦根25」のトンネルから登ると間違えることはない。骨塔横から高圧線メンテナンス用の道を登ると10分ほどで高圧線鉄塔に出る。ここが丸山城の主曲輪にあたる。

 
 

途中に「百々某」の骨塔が建っている。  おそらくは信長公記にも「百々屋敷」と出てくる百々氏のものであろう。百々屋敷はこの位置ではない、
 南北に曲輪を連ね、北の曲輪には土橋らしき痕跡が認められる、南には三段の曲輪が設けられているが、削平は不完全である。西側には竪堀を1条確認する。正面には、当然のことであるが佐和山を望む。

お城の歴史

元亀元年(1570)の姉川の合戦後、浅井の重臣・磯野員昌が佐和山城に籠城した際に、信長が佐和山城に対して築いた四つの付城(佐和山包囲網)のひとつで、東の付城とされる。
  ---------以下、信長公記の抜粋--------
夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘え候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取手仰せつけらる。丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通行をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。  ------------------------------------
 信長公記に百々屋敷とされているのは、丸山城より1kmほど北の鳥居本町本町にあったとされ、丸山城は佐和山の監視、百々屋敷は中山道の押さえとして機能していたのか。

信長公記にも「百々屋敷」と出てくる百々氏のものだが、百々屋敷は佐和山の東鳥居本にある。

 御所谷・北谷から攻め入る10ほどで鉄塔に出る。ここから北の鉄塔に向け急坂?自然【切岸】を登ると丸山城の主曲輪。

 南北に曲輪を連ね、北の曲輪には土橋が、南には三段の曲輪いるが、削平は不完全。西側には竪堀を1条確認。西には佐和山を望む。

佐和山城を睨む(監視)!

 堀切

北西に釜刃城佐を望む


手元に縄張り図があるのだが、著作権で掲載できません!(申し訳有りません)

ここに下山。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

本日の歩数  11,863歩   2時間10分   8.2km

消費カロリー  135.4kcal    脂肪消費量  19.3g

    今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

 


ヤナガ谷砦   近江国(彦根・鳥居本)

2013年03月27日 | 丘陵城

集落の手前から。祠をヤナガ谷城へ 

ナガラ谷城へ西南から攻め込む

お城のデータ

所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/7ZP2SV

目標地:中山ゴミ集積場

区 分:山城(砦・詰め城)

標高:190m  比高:30m~50m 

現 状:山林

遺構等:郭・土塁・堀切・土橋

築城期:

築城者:草山内膳 

城 主:草山内膳

城 域:500m×40m

駐車場:中山ゴミ集積場前

訪城日:2013.3.26

お城の概要

中山町の集落に沿って東に延びる幅10m~15mの尾根(比高30m~50m)上に約500mほどにわたって築かれている

遺構は東西に長く、西の東端の大堀切は深さ約6mあり、中程の堀切は深さ約3m、西端の堀切は約5mの深さがあり土橋も残っている。この遺構は山の尾根を掘切っただけのものであり、中央部に主郭と思われるピークが見られる。遺構全体の北斜面には犬走りが築かれています。

500mほどの城域に曲輪が3ヶ所、それぞれの曲輪群の間は手つかずの尾根が続く。一般的に城というのは、中心となる主曲輪があって、それに付随して副曲輪や帯曲輪、袖曲輪などが築かれていくが、このヤナガ谷城の場合は、こうした城とは少々異なり、中心となる曲輪がなく、尾根に曲輪と堀切が断続的に並べられている。

中山町にはヤナガ谷砦及びその北側の山にはキドラ谷砦があり、番場より水谷・栗栖へ抜ける間道を扼えるために儲けられた山城(砦)である。

これはヤナガ谷城は、中山集落の土豪が外敵から身を守るために、詰め城(避難するために背後の山砦)を築いたようだ。

犬走りも明確に識別

東端の大堀切

切通しか?堀切?

 

歴 史

草山内膳が城主とあるようですが、詳細不明です。

キドラ砦の遠望・・・・「中山町ゴミ集積所駐車場より」 

中山町にはヤナガ谷砦及びその北側の山にはキドラ谷砦があり、番場より水谷・栗栖へ抜ける間道を扼えるために儲けられた山城(砦)である。

 この二つの城跡の真ん中には谷間(元:産廃処分場)を挟むようにして、双方のお城が相対している。

本日の歩数  11,863歩   2時間10分   8.2km

消費カロリー  135.4kcal    脂肪消費量  19.3g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

 


地頭山城出丸(仮称)久礼坂砦     近江国(米原)

2013年03月27日 | 

地頭山城と石仏

お城の歴史

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)番場町    map:http://yahoo.jp/L6bjVx

区 分:砦

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:今井氏か?

遺 構:堀切

標 高:120m 比高差:ー

目標地:番場の信号・蓮華寺

駐車場:番場の信号の近くに空地に駐車

訪城日:2013.3.26

手元に縄張り図があるのだが、著作権で掲載できません!(申し訳有りません)

お城の概要

地頭山麓の中仙道沿いの蓮華寺の近くで、出丸・砦と言って狭小で関所や検問をしたのでは!西は番場集落(旧番場宿)へと続きます。

お城の歴史

地頭山城は、鎌刃城の支城で堀氏が築城したようですが、浅井長政の勢力圏の頃は今井氏が在城したようです。

久礼坂切通し

久礼坂砦

犬走りが幾重にも

墓碑・石仏・・・鎌刃城に向けて

 参考資料:見学会資料、

 

西番場 鎌刃城跡の現地案内板 

現地案内板

鎌刃城は、戦国時代に浅井氏に属していた堀氏の居城だった。
1570年、浅井氏は朝倉氏の越前を攻めた織田信長との同盟を破棄した。
金ヶ崎から京に戻った信長は、部下の木下藤吉郎秀吉に浅井氏家臣団の切り崩しを命じ、秀吉は堀氏を寝返らせることに成功した。
しかし1571年、奪還を謀る浅井井規に鎌刃城を攻められる。
秀吉は鎌刃城を守らなければ今後浅井氏から織田氏への寝返りがなくなることを恐れ、また最前線維持のため急いで援軍を出した。
しかし秀吉の本城の横山城も浅井本隊によって攻められており、わずか100騎程しか援軍を出せなかった。
秀吉自らそれを率いて鎌刃城へ入城し、援軍を得た鎌刃城兵は奮戦し、わずか5、600ばかりで数倍の敵を追い払ったという。
その間横山城も浅井本隊による襲撃を受けたが竹中半兵衛の指揮で退けた。
現在は町指定の史跡として整備が行き届いている。
山の高さは384mあり、典型的な山城で、江北と江南の境目を守る役目を持つ。
主郭周りや北端郭には石垣が残り、虎口にも石段や石積みが残る。登山道はよく整備されており途中に表示がある。
ちなみに鎌刃というのは尾根の両側が鎌の刃のように峻険だということから名づけられたという。

鎌刃城遠望・・・中央鉄塔の間

昼食は、

中仙道西番場(古代東山道 江州番場駅)で

北野神社

本日の歩数  11,863歩   2時間10分   8.2km

消費カロリー  135.4kcal    脂肪消費量  19.3g

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

 


佐和山城・彦根駅前 2013.3.24

2013年03月25日 | 平城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
①本丸 ②本丸南東遺構 ③本丸北東遺構 
④二の丸 ⑤三の丸 ⑥美濃殿丸
⑦八幡山の出郭 ⑧太鼓丸 ⑨法華丸 
⑩西の丸 ⑪西の丸北西遺構
⑫嶋左近屋敷 
⑬石田三成屋敷碑 ⑭石田三成屋敷 
⑮丸郭 ⑯奥ノ谷の出郭
 
 
佐和山城下町 
 
佐和山城下町は、佐和山の東麓現在の佐和山町にあった。
侍屋敷区画を囲む土塁の外側に内堀を掘り、天然の小野川を加工し外堀とした惣構えの様相を呈している。
城下町がいつ頃から存在したのかは不明だが、現在見られる形に整備したのは石田三成の城主時代とされる。
内堀と外堀の間は大手前で約70m、内町筋で約200m程度と小規模だったように見えるが、
外堀の約400m東方を縦断している東山道(のちの中山道)までの広範囲にわたり城下町のごとく町屋が広がっていた。

 

 

龍潭寺に石田三成像

 

佐和山城跡・・・説明板

彦根駅前・・・井伊直政

 

    今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


【探訪・長浜コース】戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツを探る 2013.3.24

2013年03月24日 | 平城

【探訪】戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツを探る【長浜コース】

 徳勝寺(長浜市平方町)は、戦国大名浅井氏の菩提寺。浅井氏の滅亡後、秀吉によって長浜に移され、寛文12年(1672)の浅井長政100回忌にあたって、現在地に寺観を整えました。

 寺伝などによれば、徳勝寺はもとは医王寺といって、応永年間(1394~1428)に浅井郡山田村(長浜市小谷上山田町・下山田)に創建されたといいます。そして、小谷城に浅井氏が勃興するに及び、永正15年(1518)に初代亮政によって小谷城清水谷(長浜市小谷郡上町)に移され、亮政没後に徳勝寺と寺号を改めたといいます。

 ところが、そうした寺伝などとは矛盾するごとく、秀吉時代に至っても徳勝寺とかかわりの深い医王寺が堀部(長浜市堀部町)に存続する一方、小谷には医王寺跡(下山田)や育王寺跡(上山田)、また上述の小谷城清水谷のほかにも徳勝寺跡(長浜市小谷丁野町)と伝える寺跡が知られ、そのルーツは謎につつまれています。

1日目:平成25年3月24日(日)
   【探訪・長浜コース】  9:00~12:00  

 長浜駅から・・長浜城・琵琶湖 

長浜城は、豊臣秀吉が初めて領地をもらい築城した城です。
また、山内一豊が初めて大名になった城としても有名です。
場所は、JR北陸本線長浜駅の西側です。

 「長浜町之絵図」

ユルキャラのお見送りです。

 

米川(外堀跡)

【長濱ロマンビール】

舟板塀

米川(外堀跡)

ヤンマーミュージアム

徳勝寺・・・浅井三代 墓所

浅井三代 墓所

慶長11年(1606)内藤信成が長浜に封ぜられた際、いったん田町(現長浜市朝日町)に移されたが、

寛文12年(1672)浅井長政の百回忌に際し、彦根藩主井伊直孝により現長浜市平方町に移され現在に至っている。

現徳勝寺には浅井氏三代の墓所や、夫婦像・一族の位牌・過去帳などがある

延長坊万年寺(徳勝寺旧跡)

 

伊勢神楽に遭遇

長浜 曳山まつりの「山車」庫 

400年以上の伝統を誇り、日本三大山車祭りの一つ

 

 

 

長浜別院 大通寺

湖北の中心道場であった総坊を前身とし、慶長7年(1602年)に本願寺第十二代教如を開基として長浜城跡に創建。                                                慶安4年(1652年)に現在地に移転する。

伏見城の遺構とされる本堂や大広間などの建築物(国の重要文化財)や、含山軒庭園と蘭亭庭園という2つの庭園(国の名勝)のほか、円山応挙や狩野山楽・狩野山雪らの障壁画など貴重な文化財を多数保有する寺院として知られる。

 妙法寺(伝羽柴秀勝墓)

北国街道(武者隠れ道

 北国街道と、長浜城から東に延びる大手門通り(美濃谷汲街道)との交差点は、江戸時代に高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれています。古くから長浜の中心だったこの辻に、明治33年(1900)第百三十銀行長浜支店(6年後に明治銀行となる)が建てられ、壁が黒塗りだったことから「黒壁銀行」の愛称で親しまれました。
 和洋折衷の重厚な建物は、その後さまざまな変遷を遂げ、平成元年(1989)、「黒壁一號館・黒壁ガラス館」としてオープンしました。 

外堀跡

豊臣秀吉は天正元年(1573年)~天正4年(1576年)に長浜城主であったが、当社は長浜町民が、秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600年)、その遺徳を偲んで建立したものである。江戸時代に入ると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されたが、町民によって祭神は町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀っていた(現在の豊国神社で事代主が一緒に祀られているのはこのため)。明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建された。

豊国神社(長浜恵比寿宮、加藤清正像) 

 

長浜駅前の『出逢い』の像・・・木下藤吉郎(秀吉)と石田三成(佐吉)

三杯の茶(三献茶)
鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際最初に大振りの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感じ入った秀吉は彼を連れ帰り、それが後の三成であったとされる逸話。

JR長浜駅で解散長浜駅西口・・・

長浜城(博物館)へは、こちらから

 イメージ 4かつての長浜城。


本日の歩数  14,807歩   2時間28分   10.3km

消費カロリー  508.3kcal    脂肪消費量  72.6g

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今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


一般公開・説明会 【井伊神社の30年以上外側が覆われいた旧社殿】 2013.3.24

2013年03月24日 | 文化財

井伊神社の30年以上外側が覆われいた旧社殿を2013年3月24日 

一般公開は10:00~15:00

・内部を市教委担当者が説明 彦根市教育委員会 文化財課

 

井伊神社  〒522-0007 滋賀県彦根市古沢町

 天保13年(1842)に彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷(現静岡県)八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされます。また、彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝も祀られています。
現在は、風化による傷みが激しいため覆いをしており、中を拝観することはできません。

30年以上外側が覆われいた旧社殿

【由緒】

旧社殿のなかは、華やかな彩色が施され、朱漆や黒漆の塗られた垂木や建具、格天井に描かれた草花、獅子や牡丹が彫られた組み物など、当時の緻密な技術の高さ、豊かさを実感。

新社

平成25年2月に社殿すぐそばに新社殿が建てられ祖霊が移されたのを機に、旧社殿は彦根市に寄付され、文化財に指定されました。

 
 

 一般公開され、早速見学。雨漏りなどで傷みも激しく、スレートの屋根に覆われています。

修理が完了すれば、隣接する龍潭寺や佐和山城址などと共に、井伊神社にも彦根の観光地に!

修理費は、聞くところによると七、八億円とか。

井伊神社は、井伊家の始祖井伊共保の750回忌に当たり、十二代藩主直亮が1842年に創建、初代藩主直政、二代藩主直孝も祀られている。

入母屋造の本殿と拝殿が黒漆が塗られた床のある相の間で結ばれた権現造で、明治2年から井伊神社と称し、最初は龍潭寺境内に静岡県井伊谷から分霊して神像を造り祀られたとか。

公開見学者は、次から次へと

彦根氏文化財担当者も、説明も幾度となく繰り返され、普段静かなこの地も春めいた良いお天気も幸いしていた。

旧社殿のなかは、華やかな彩色が施され、朱漆や黒漆の塗られた垂木や建具、格天井に描かれた草花、獅子や牡丹が彫られた組み物など、当時の緻密な技術の高さ、豊かさを実感いたしました。

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 

 


水茎岡山城 近江国(近江八幡) 

2013年03月23日 | 平城

 水茎岡山城(滋賀県近江八幡市牧町) 別 名:岡山城

遺 構:土塁、石垣、堀切、竪堀   山城(標高187.7m、比高102m)                                                           築 城 者:九里備前守信隆      築 城 年:永正5年(1508)頃

八幡山から見た水茎岡山城。

西の野洲川から

 

縄張り図【頭山に本丸。大山に二の丸。亀山に三の丸

水城(昭和24年頃)・・・戦争の引揚者の為に干拓

発掘調査の遺構図

 

大山登り口

                  ムベが群生

蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。

      三角点          頭山(主郭)http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/33b530bb30ea328ab7f3e37e6464122e

 

お城の概要

この城は、今は陸続きで、琵琶湖に接する頭山(東下は牧水泳場)、と南の岡山(大山)との間に湖岸道路が通っていますが、往時は完全に琵琶湖の中の浮城だった。

史料では頭山が主郭、大山が二ノ郭・三ノ郭・・・のよう。大山には湖岸道路の老人施設水茎の里横の水道施設への階段を一気に登り、山腹(階段左側)の水道施設の裏手をさらに登ります。

山頂部には郭が並び、堀切・空堀・竪堀など確認できます。山の南斜面から山麓部分に多くの段郭と空堀がある。

歴  史
南北朝期に佐々木氏の支城として築城され、永正五年(1508年)に足利十一代将軍義澄が六角氏の重臣伊庭氏と伊庭氏の家臣九里氏を頼って都より落ち延びて来て岡山城に入った頃より本格的な改修がされたものとの事です。この事態は六角氏と伊庭・九里両氏との間を悪くし、義澄が永正六年(1509年)に当城で病死して以後、永正十七年(1520年)、ついに六角定頼はこの城を攻め開城させました。後、大永五年(1525年)に伊庭氏・九里氏が再び籠りましたが、六角氏に破れ城も廃城になりました。 <資料より>

 水茎岡山城は近江八幡城の西方、琵琶湖に面した頭山に築かれた山城である。伝によれば、南北朝時代に六角氏の湖上警備の城として築かれ、戦国時代最中の永正五年(1508)ころより本格的な築城が行われたようだ。                                      かつては琵琶湖に浮かぶ水城であったが、戦後の干拓事業によって周囲が埋め立てられてしまい、戦国時代に「湖中の浮城」といわれた風情はない。戦国時代の城主は、六角氏の被官九里氏であった。
 水茎岡山城が戦国史に大きな足跡を刻んだのは、幕府内における抗争に敗れた十二代将軍足利義澄をかくまったことである。当時、幕府は管領細川氏の内部抗争が続き、将軍はまったく政争の具ともいえる傀儡状態であった。義澄は細川澄元にかつがれて将軍職にあったが、細川高国と大内義興のかつぐ前将軍足利義尹(のち義稙)に京を追われ、近江に逃れて岡山城に入り再起を期したのである。しかし、京への復帰はならず、永正八年(1511年)、むなしくこの城で病没した。その後、六角氏と伊庭氏との間で抗争が起こると、九里氏は伊庭氏に与して活躍したが、敗れて岡山城は廃城となった。

 

  •  城址は南の大山と北側の頭山にあったが、内湖の埋め立て事業、さざなみ道路の敷設などにより遺構は少なからぬ破壊を受けたようだ。とくに頭山側は、造成工事によってほとんど破壊されたようである。大山山上の城址へはさざなみ道路側にある「水茎岡山城址」の石碑が目印となり、そこから山腹の貯水場まで溜息が出る急な階段が設けられている。
    貯水場から細い山道を登りきると、そこはすでに城址東端の大土塁である。大土塁の南側に帯曲輪があり、そのまま城址の南側をまくように曲輪は続いている。東の大土塁と主郭切岸は、そのまま堀切を形成し、北側にも帯曲輪が取り巻き、帯曲輪の北側には土塁が築かれている。主郭は中央の大堀切で東と西に区画され、それぞれ居住するうえで十分な広さをもっている。遺構の保存状態は悪くなく、堀切・土塁・切岸・帯曲輪などなど戦国山城の醍醐味を堪能できる城址だ。
    山上の曲輪群のほかに、山腹にも曲輪が設けられ、山麓には日常の居館があった。発掘調査によって居館址からは石垣が検出されたといい、将軍をかくまった城にふさわしい結構を持った城址である
  • 岡山城は、南北朝期に、佐々木六角氏により、琵琶湖警護の支城として築かれたのが始めとされる。
    本格的な築城は、永正5年(1508)に、室町11代将軍・足利義澄が、前将軍・足利義材(よしき)の入京によって近江に逃れ、伊庭氏、九里氏を頼って岡山城に入った頃と、考えられている。
  • 永正7年(1510)、将軍に返り咲いた足利義材改め義稙(よしたね)の命により、細川高国、大内義興が岡山城を攻めるが、撃退する。
  • 永正8年(1511)、足利義澄の嫡男・亀王丸(後の第12代将軍・義晴)が、城内で誕生する。同年、足利義澄は、京に攻め上るが、敗走して城に戻った後、8月、本城で死去する。
  • 永正17年(1520)、伊庭貞説(じょうせつ)・九里浄椿(じょうちん)と、六角氏の間に不和が起り、六角高頼と細川高国の軍に攻められ、40日の籠城の後、開城する。
  • 大栄5年(1525)、伊庭・九里氏の残党が城に立て籠もるが、黒橋(近江八幡市西の庄町黒橋川の河原)の戦いで六角氏に破れ、以後廃城となる。
  • 岡山城は、大山(標高187.7m)と頭山(標高147.7m)とに跨って築城され、主郭は大山の山頂部に設けられている。戦後、水茎内湖が埋め立てられるまで、内湖に囲まれており、湖中の浮き城となっていた。また水茎の岡として、歌にも詠まれる景勝地であった。
    大山山頂部に、曲輪の遺構が良好に残存するらしいが、生い茂る藪や潅木により到達することができず、未確認。大山と頭山の間の鞍部は、湖岸道路を通すために崩され、二つの山は切り離されている。
  • そのとき、一見したところ小さな山であり、将軍をかくまった城というには小さすぎる感をいだいた。今回、登ってみて意外にも大きくな縄張で、土塁、曲輪、切岸、堀切などの保存状態もよく、「なるほど!これなら…」と納得させられる素晴らしさであった。

  • 政争に敗れてこの城で没した義澄はの子で十二代将軍となった義晴はここ岡山城で生まれた。義晴もまた細川氏の抗争に翻弄され、勝ったり負けたりを繰り返して京と近江を往来した。そして、足利幕府は確実に衰退、義晴の子義輝は下剋上によって殺害されるという最期を迎えた。
    そんな足利幕府の興亡史に名を刻んだ岡山城、世の栄枯盛衰を惻惻と感じざるにはいられないところである。今回は、山上界隈だけの探訪で時間切れとなったため、義澄が澄んだであろう山麓の居館址をたずねることができなかったのは心残りであった。山腹の曲輪群探索と併せて、近いうちに再訪したいところである。

右が頭山【主郭】

大山・・・山頂に郭群

  

  

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諸浦の親郷 堅田 2013.3.24

2013年03月23日 | 城郭・イベント情報
  中世、びわ湖を支配した湖族の郷は、苦行の末、悟りの境地を得た 一休や再興の炎を燃やした蓮如など、巨人たちの夢の跡も...。 栄光の歴史とロマンに彩られたまち。
 堅田は平安時代末期から江戸初期にかけ、琵琶湖最大の自治都市が築かれた所で「堅田千軒」や「諸浦の親郷」と呼ばれた。その端緒は寛治4年(1090)下鴨神社の御厨が置かれたことで、湖魚を献上する代わりにびわ湖の漁業権や通行権などを一手に握り莫大な利益を得た。その時活躍したのが堅田衆(湖族)と呼ばれる人々。豊かな堅田には、美しい風光に魅せられ、また堅田衆を頼り、各時代のヒーロー・ヒロインが往来した。源信、一休、蓮如、勾当内侍、新田義貞、芭蕉等々。今も町のそこかしには激動の時代に夢を馳せた人々の名残をとどめる史跡が息づいている。

南北朝時代(1334-1392)の開山。応永元年(1467)三代目住持法王の時、法難を逃れた蓮如が身を寄せ、同寺に本願寺を置き再興の拠点とした。蓮如ゆかりの遺品が数多く所蔵されている。十一代住持明式は芭蕉の高弟で千那と号したところから、同寺は千那寺とも呼ばれる。芭蕉も再三訪れ句を残している。

大津市本堅田1丁目22-30

長徳年間(995年頃)比叡山横川の僧源信が湖上の安全と衆生済度を祈願し建立。「堅田落雁」として近江八景の一に数えられる名勝。聖観音座像は平安時代の作で重要文化財。芭蕉の句碑がある。

大津市本堅田1丁目16-18

蓮如上人とのゆかりが深く、真筆の名号・消息等の遺品や伝説が残されている。中でも宗祖の御真影を三井寺から取り戻すために自らの首を差し出したという「堅田源平衛親子」の物語は有名で、源平衛の頭蓋骨が今も安置されている。

大津市本堅田1丁目22-20

応永年間(1394~1428)一休の師華叟宗曇が開いた。一休が22歳から十余年ぶわたる修行に励んだ。当時は祥瑞庵といい、一休も宗純と称していた。一休という道号を与えられたのは25歳、岸辺の小舟で開悟に至ったのは27歳の時。開山堂には師と一休の木造が安置されている。後年、芭蕉も訪れ、句を詠んだ。

大津市本堅田1丁目27-20

中世・堅田の指導的立場にあった殿原衆党首の屋敷。邸内の湖東を借景とした庭園「天然図画亭」は千宗旦の高弟で茶人の藤村粛軒と堅田の豪土北村幽安によって築かれた。

大津市本堅田2丁目12-5

南北朝時代、戦に敗れた新田義貞は愛する内侍を堅田に匿い、再会を誓って北陸へ落ちて行くが、3年後世を去る。それを聞いた内侍は絶望のあまり湖に身を投じ後を追う。後日、その事を知った今堅田の人々は内侍の霊をねんごろに弔ったという。その石塚が野上神社に残されている。

大津市今堅田2丁目32

かつての湖上関跡に建つ木造の灯台。明治8年(1875)に建てられた。

大津市今堅田1丁目


居初(いそめ)氏館  近江国(堅田)

2013年03月22日 | 居館

居初氏 (Wikipediaより)

 琵琶湖の西岸に位置する堅田は古くから湖上交通の要衝であった。中世には堅田衆と呼ばれる自治組織がこの地を支配し、水上交通、漁業権、徴税などの湖上特権を有していた。当地は平安時代には下加茂社の御厨となっていた。

 居初氏は同社の供御人の系譜を引く、当地の旧家である。12 - 13世紀には「三党」と呼ばれる居初、小月、刀禰(とね)の3家の地侍が存在し、中世末期に至るまで当地に勢力を持っていたが、豊臣秀吉の時代になり、秀吉が湖上の自由通行を認める交通政策をとったことから、堅田衆の勢力は一時衰退した。その後、元和年間(1615 - 1624年)になって、幕府へ請願の結果、居初家には舟運を取り仕切る権利が再び認められるようになり、船道郷士(ふなどうごうし)と呼ばれるようになった。

新興の商工業者の全人衆(まろうどしゅう)との争いで殿原衆は一時力を失い、秀吉政権や徳川幕府の政策で、水運の中心は大津に移っていく。

それでも、、漁業の発展もあって堅田の繁栄は保たれ、芭蕉など文人が多く訪れ、居初家は江戸時代にも郷士として大庄屋を務めた。

 居初家は茶人などの文化人との交流があった。今に残る居初氏庭園と書院は、茶人藤村陽軒によって作られたものである。庸軒の天和元年(1681年)頃の詩「題居初氏茶店」が残ることから、庭園と書院はその頃までには作られていたことがわかる。作庭には庸軒の門人で堅田の郷士であった北村幽安もかかわっている。

 居初家住宅は表通りの東側に面して建ち、敷地南側に主屋、北側には米蔵、文庫蔵のほか、主屋から廊下で繋がった数寄屋造りの書院(茶座敷)があり、「天然図画亭」と称する。「天然図画亭」の命名は近江八幡の天台学僧慈周(六如上人)による。この書院の北から東にかけて庭園が広がる。庭園には延段(のべだん、自然石や切石を直線状に敷き並べた通路)をめぐらし、松、モッコク、ツツジなどを植栽し、東側は琵琶湖の湖面と対岸の三上山などの山並みを借景としている。

主屋は後世の改造が著しく、書院も創建以来数度にわたり改造を受けているが、修理時に往時の形式に復している。書院は入母屋造茅葺に杮葺の庇をめぐらし、北面から東面にかけて幅5尺の広い縁を設ける。北側に玄関を設け、その奥は「中の間」、玄関の右手(西)は手前が三畳大の仏間、奥が四畳半。「中の間」の左(東)が八畳(点前座を含め九畳)の主座敷で、点前座と炉を設けた茶室でもある。主座敷は北面を床の間と障子2枚、東面はすべて障子とし、これらの障子を開け放つと庭園の眺望が開ける。南側には一畳の点前座が張り出し、炉は向切、逆勝手とする。点前座の中柱と東側の壁との間に低い腰壁を設け、結界としている点が珍しい趣向である。

昭和56年(1981)6月11日に国の名勝に指定された。(Wikipediaより)

天然図画亭(てんねんずえてい) 

堅田藩 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 堅田藩(かただはん)は、近江国滋賀郡・高島郡(現在の滋賀県大津市堅田)に存在した藩。藩庁は堅田陣屋。]

藩 史

戦国時代、堅田は堅田水軍と呼ばれる水軍衆がおり、安土城を本拠として天下布武を狙う織田信長にとっては、堅田は重要拠点と見なされていた。また、堅田は水運の要衝としても大いに栄えた。

近世には、元禄11年(1698)3月7日、下野国佐野藩主であった堀田正高が1万石で堅田に移封されたことにより、堅田藩が立藩した。藩政の基礎は初代藩主・正高から第3代藩主・堀田正永の頃にかけて固められた。第6代藩主・堀田正敦は陸奥国仙台藩主・伊達宗村の八男であり、その経緯から若年寄、湯島聖堂再建の副奉行、『寛政重修諸家譜』などの編纂を務めるなど文教政策に携わっている。分化3年(1809)には3,000石を加増され、1万3,000石の所領を領することとなった。なお、正敦は仙台藩の藩主に若年藩主が相次いだため、その補佐役も務めている。藩政においても5ヵ年に及ぶ倹約令を発し、藩財政再建に努めた。

正敦は分政8年(1825)4月に城主格に任じられたが、翌年10月10日に再び佐野へ移封となったため、堅田藩は廃藩となった。堅田の所領のうち、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。

歴代藩主

堀田家 譜代。1万石→1万3,000石。
  1. 堀田正高(まさたか)【元禄11年(1698年)3月7日藩主就任-享保7年(1722)5月9日隠居】
  2. 堀田正峯(まさみね)【享保7年5月9日藩主就任-享保11年(1726)4月14日死去】
  3. 堀田正永(まさなが)【享保11年6月9日藩主就任-享保20年(17355)8月29日死去】
  4. 堀田正實(まさざね)【享保20年11月2日藩主就任-宝暦8年(1758)10月18日死去】
  5. 堀田正富(まさとみ)【宝暦8年12月10日藩主就任-天明7年(1787)9月16日隠居】
  6. 堀田正敦(まさあつ)    【天明7年9月16日藩主就任-文政9年(1826)10月10日移封】
  堅田の地は大津代官所支配の天領だったが、元禄11年(1698)大老・堀田正俊の三男・堀田正高が下野国から移って陣屋を築いた。堀田氏は5代続いたが、文政9年(1826)転封となり再び下野に戻ったため、堅田はまた天領となった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア


連続講座 近江の城郭城・寺・町~中世近江の自治の世界 第5回【湖賊の自治都市~堅田】2013.3.23

2013年03月22日 | 探訪「近江水の宝」

連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」第5回「湖賊の自治都市~堅田」のご案内

 堅田は、琵琶湖のもっとも狭い場所に位置しています。琵琶湖を行き来する船はここを通らなければならず、堅田は湖上交通を掌握する重要拠点でした。そうした地理的な特性から、堅田の住人は様々な湖上特権を有しており、「諸浦の親郷」と呼ばれるような突出した地位と、その特権に裏付けられた自治を実現していました。

堅田の町は、内湖と琵琶湖によって全体を大きく囲われるとともに、その内部が堀割と街路で細かく区画されていました。また、琵琶湖に面して船入も数ヶ所確認できます。こうした堀割は自治を守るための防御機能と湖上水運の機能とを合わせ持ったものといえるでしょう。

 現在も、堅田の地には堀割や船入の痕跡が随所に残っており、湖岸の自治都市堅田のかつての景観をうかがうことができます。今回の講座では、大津市歴史博物館学芸員の案内で堅田の町を訪ね、現地に残る遺構をたどります。

1.日時 平成25年3月23日(土) 13:00~16:30 ※12:30受付開始

 講義「諸浦の親郷・堅田」 講師:仲川靖(滋賀県文化財保護課)
      本堅田現地見学 解説:大津市歴史博物館学芸員

JR堅田駅で、受付終了後出発式

本堅田現地見学コース

講義「諸浦の親郷・堅田」 講師:仲川 靖氏(滋賀県文化財保護課)堅田市民センターで

連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」全第5回参加者の表彰式(代表に・・約15名=管理人もその1である。

本堅田現地見学へ 解説:大津市歴史博物館学芸員、滋賀県文化財保護課

ヴォーリズ建築(堅田教会)

レトロな給油機カ

神田神社概要: 神田神社の創建は不詳ですが持統天皇4年(690)、島務大肆忍勝(この地を開発した彦国葺命の12世裔孫)が素盞嗚尊の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社で広く信仰されるようになりました。当初は浄地普門山にありましたが文亀年間(1501~03)、祭神に関する対立が起こり分離し現在地に遷座、新たに彦国葺命と鳥務大肆忍勝を加え祭神としています。現在の本殿は建徳元年(1370)に建てられたもので三間社流造、桧皮葺、1間向拝付、室間時代初期(南北朝時代)に建てられた神社本殿建築の遺構として大変貴重な存在で大正2年に国指定重要文化財に指定されています。

中でも堅田は、織田信長や豊臣秀吉が重用した堅田水軍の根拠地であって、中世から江戸時代にかけては、水路権を握った堅田衆と呼ばれた人々によって、琵琶湖最大の自治都市を築いていた。この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」が、

西イ港この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」

湖族の郷資料館 で解散

古代から中世、近代に至る堅田の変遷、芭蕉や門人たち、志賀廼家淡海(※)といったゆかりの人物、 堅田を題材にした文学作品を紹介しています。民具の展示や、郷土品販売コーナーもあります。

浮御堂
~近江八景の一つ「堅田の落雁」に数えられ、広重の浮世絵にも登場~


琵琶湖に浮かぶ浮御堂は、正式には海門山満月寺と称し、京都紫野大徳寺派に属する禅寺です。
長徳年間(995年頃)、比叡山横川恵心院の僧であった源信(「往生要集」の著者)が、湖上の安全と衆生済度を願い、 自ら千体の阿弥陀仏を刻んで開いたのが始まり。
これまで風雨や戦で何度も荒れ果ててきましたが、その都度再建され、現在の浮御堂は昭和12年再建のもの。
「聖観音座像」は平安時代の作で、重要文化財。
このほか、薬師如来像・十一面観音像が安置されている「観音堂」、昭和9年までの浮御堂の古材を用いて建立された「茶室玉鈎亭(ぎょくこうてい)」が、登録文化財。
四季折々に美しく湖面にその姿を写す浮御堂は、古くから多くの人々に愛されてきました。
「鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂」、「比良三上雪さしわたせ鷺の橋」は芭蕉の句。境内に芭蕉の句碑が。

堅田の老舗和菓子【金時堂】http://www.gaido.jp/suteki/suteki.php?ID=390

金時堂は1923(大正12)年、かつて湖上交通の拠点として栄え、今でも風情のある町並みが残っている堅田の町の一角に誕生した。
当時、堅田だけで12軒の和菓子屋があり、そのうちの2軒で落雁を作っていた。競争が激しく、自転車で近江舞子あたりまで売りに行っていたという。
以来約90年。地元で取れた米や小豆を使うなど地産地消を心掛け、昔ながらの製法を守って「伝統の味」を伝えてきた。
山本さんは高校を卒業後、5年間京都で修業を積んだ。京都の和菓子は自分の知る和菓子と違い、とても上品で驚いたという。めきめきと腕を上げ、修業中から京菓子協同組合研究会の優秀賞や優良賞を受賞した。その後も全国菓子大博覧会で有効金賞や総裁工芸文化賞を受賞、その技術は高く評価されている。現在は父・時男さん(87歳)、息子の伸吾さん(32歳)と共に3世代で営んでいる。


〈名勝〉居初氏庭園 江戸時代

居初家は堅田の豪族三家の1つで、その茶室は天然図画亭(てんねんずえてい)と呼ばれます。庭園は、江戸時代の著名な茶人である藤村庸軒(ふじむらようけん)と地元の郷士である北村幽安(きたむらゆうあん)(1648-1719)の合作です。国指定の名勝。 この庭園の素晴らしいところは、茶室から見る借景の見事さです。庭園東側の石垣が琵琶湖に接しているので、サザンカ・モッコク・マキ・サツキなどの刈り込みの向こうに、雄大な湖に始まり、近江富士の三上(みかみ)山などの湖東(ことう)の連山が一望のもとに見渡せます。まさに、天然の図画という名がふさわしいです。
 庭園は、茶室の東側と北側に広がります。茶室の方は入母屋造の趣ある建物で、茶の道具が客に見えないように、主室との間に低い結界が付けられ、主人の謙虚さがうかがえる構造になっています。

天然図画亭(てんねんずえてい)庭園東側の石垣が琵琶湖に接している

堅田港の句碑

堅田内湖・・・

JR堅田駅へ

 

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近江戦国探訪 【観音寺城を探検する2012】 2013.3.20

2013年03月22日 | 戦国山城

近江戦国探訪「観音寺城を探検する2012」

観音寺城は中世近江を支配した守護佐々木六角氏の居城です。標高432mの繖山(きぬがさやま)一帯に郭が広がる大城郭で、安土城以前の城としては例外的に石垣を多用しているのが大きな特徴です。平成20年度から4年間実施した発掘調査によって新たな知見が加わり、観音寺城の実像が明らかになりつつあります。

 探訪では、専門職員の案内で現地に残された観音寺城の遺構を訪ねます。

今回は観音寺城の特徴である石垣に注目し、城内各所の石垣の様相を見学。この史跡案内を通して、観音寺城の往時の姿や、中世近江を400年も守護として、支配した佐々木六角氏の隆盛に思いをはせていただきたいと思います。

日時 平成25年3月20日(水・祝) 9:45~16:00 

集合 9時45分(受付開始9時) 観光案内所ぷらざ三方よし(東近江市五個荘塚本町279)前 地図はこちら
     ※JR能登川駅より近江鉄道バス八日市行き ぷらざ三方よし下車すぐ
     JR能登川駅発9:21分-ぷらざ三方よし着9:31(運賃330円)をご利用ください。 バスの遅刻表はこちら
     ※駐車場あり

行程 ぷらざ三方よし→川並道→伝布施淡路丸→大土塁→観音正寺(昼食)→伝本丸→伝平井丸→伝池田丸→大石垣→
    伝目賀田丸→川並道→ぷらざ三方よし全行程約10km(山道)

伝布施淡路丸

大土塁へ  観音寺城は、中世近江を支配した守護・佐々木六角氏の居城。標高四百三十二メートルの繖山(きぬがさやま)一帯に郭が広がる大城郭で、安土城以前の城としては、例外的に石垣を多用しているのが大きな特徴。平成二十年度から四年間実施された発掘調査で、新たな知見が加わり、観音寺城の実像が明らかになりつつあるという。大土塁の縦掘 大土塁

三国岩伝三国丸の石垣伝沢田丸の石垣

観音正寺で昼食

食い違い虎口跡食い違い虎口跡

 観音寺城は、中世近江を支配した守護・佐々木六角氏の居城。標高四百三十二メートルの繖山(きぬがさやま)一帯に郭が広がる大城郭で、安土城以前の城としては、例外的に石垣を多用しているのが大きな特徴。平成二十年度から四年間実施された発掘調査で、新たな知見が加わり、観音寺城の実像が明らかになりつつあるという。

伝落合屋敷の外石垣を下へ約50m下の石積み(今回、初見学!綺麗な砕石の石垣が7mもの高さ)

 

伝池田丸の大石垣の【石工の仕事】

伝池田丸下の大石垣の【ノミ】の跡が、石工の砕石の石積みが・・・!

砕石ノミ跡が、はっきりと

春蘭の花も

今年初めてタムシバ(モクレンの仲間)

ジョウジョウバカマも、日当たり良いのでピンク花

観音正寺に戻り

川並の塚本家【八年庵】

今年も、、近江戦国探訪 【観音寺城を探検する2012】に参加して、新発見【石工のノミ跡】【伝落合屋敷の下のコケむした7mの石垣】の出会い。

 


 

参考資料

金沢石材工業協同組合より



石割り作業
   2009年6月13日 石割り実演見学会より

伝統技法 現代技法
矢穴掘り     所要時間 約1時間

しめ矢を入れる為、石頭とノミで穴を掘ります。矢と同じ幅で、さらに、決められた深さで掘らなければ矢が締まらず石は割れてくれません。

矢穴掘り     所要時間 約10分

セリ矢と呼ばれる道具を入れる穴を、ハンマードリルで約12cm間隔の深さ12cm程で穴を開けます。どの穴も、平行にまっすぐ開けていきます。

矢締め       所要時間 約5分

矢の圧力を利用して15kgの矢ジメで叩いて、締めていきます。石の厚い部分を多めに叩き、薄い部分は割れ目を導く程度に叩きます。

矢締め       所要時間 約5分

この作業は今でも矢の圧力で石を割っていきます。今も昔も力加減で大きく割れ方が左右されます。


    TOTAL所要時間  約 1 時間               TOTAL所要時間  約15分


 ■ 石割り道具の紹介




  ① ノミの種類 ② 矢の種類 ③ ハンマーの種類
    口切り
  中突き
  底突き(仕上げ)
  飛矢
  シメ矢
  セリ矢
  矢ジメ
  石頭(せっとう)
  玄斧(げんのう)





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大城神社・景清道 近江・五箇荘

2013年03月21日 | 文化財

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大城神社

 金堂城は、観音寺山城の艮鬼門に祀られた大城神社境内辺りに築かれていたとされ、神社境内の北側にある土塁状の高まりがその名残と云われているとか。

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境内東側面に沿って、道幅がそれまでの半分以下になった景清道が、北東方向に真っ直ぐ延びています。
我々は近江商人町並への道を進みます。北東方向にしばらく歩くことになります。
まず驚いたのはここの道幅でした。



ブックレットに、この神社は「明治以前は大宮神社・天満宮と称し、菅原道真を祀っていました。観音寺城の鬼門にあたる北東の位置にあることから、観音寺城の守護神として信仰されていました」と、記されています。広々とした境内です。


Img_2735_794x596通りを挟んで、大城神社の南側は日若宮神社です。

これらの神社境内の北西方向に大きな商人屋敷が続いていました。成功した近江商人の後裔が住んでいる感じです。雨振りのせいもあるでしょうが、町並みには静けさが漂っていました。

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これが、今回の探訪の最終目的地、馬場の石塔(五輪塔)です。
大城神社所蔵で、鎌倉時代の優品です。
このあたりは五個荘金堂と称し、現在では重要伝統建造物群保存地区となっています。

「金堂の歴史は古く、その名はかつてこの地に存在したといわれる聖徳太子創建の寺院の金堂が由来とされています。しかし、現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからです。金堂が大和郡山藩の飛び地領となった際に当地を治めるため陣屋が設置されますが、この陣屋を中心に集落は発展していき、明治時代に至って現在の姿が成立しました。」(ブックレット)とのこと。

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五輪塔のあるこの場所が「馬場」と呼ばれる広場のようです。
確認は出来ませんでしたが、水口でみた建物からの連想では、大きな木の左奥にある建物は、五個荘金堂・大城神社の曳山(類型・芸屋台)の山蔵だろうと推測します。水口町立歴史民俗資料館でいただいた「曳山祭と近江の曳山」によれば、昭和40年頃までは曳山巡行に使用されていて、今は巡行せず保管されていると状態と記されています。

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馬場の石塔の少し先を左折し、「ぷらざ三方よし」に向かいます。
この写真に見える道標の方向に右折していくと、地図では金堂のまちなみの中心地になっています。五個荘金堂の近江商人の屋敷(本宅)が軒を連ねているようです。
ここも、機会を改めて拝見に来たいと思います。

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寺々の前の通り沿いに水路が作られています。
浄栄寺と弘誓寺の前の水路にはその両端に柵が設けられ、その間を鯉が沢山放たれていました。
浄栄寺:伝聖徳太子開基。不動院建立(金堂という地名の由来)。
    宝治元年(1247)、浄栄法師が再興。浄土宗寺院。
弘誓寺:愚咄(寺伝では那須与一の孫)が犬上郡石畠に弘誓寺を建立。
    天正9年(1764)に金堂に移される。浄土真宗大谷派の寺院。

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もう一方の水路み設けられた柵近くから弘誓寺の方向を眺めて

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