城郭探訪

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観音寺城  近江国(安土)

2011年11月26日 | 戦国山城

史跡案内「観音寺城を探検する2011」

 観音寺城は中世近江を支配した守護佐々木六角氏の居城です。

標高432mの繖山(きぬがさやま)一帯に郭が広がる大城郭で、

安土城以前の城としては例外的に石垣を多用しているのが大きな特徴です。

平成20年度から発掘調査がスタートし、観音寺城の実態解明が進められようとしてます。

また、平成21年度には郭の森林伐採によって新たな見学場所が付け加わりました。

 この史跡案内では、専門職員の案内で現地に残された観音寺城の遺構を訪ねます。

今回は伝本丸上方の郭群に初めて踏み込みます。

観音寺城の往時の姿や、中世近江を支配した佐々木六角氏の隆盛に思いをはせていただければ幸いです。

観音寺城址を探検する 2011 2

 

・日時 平成23年11月26日(土) 9時45分~16時 

・行程 ぷらざ三方よし→川並道→伝布施淡路丸→大土塁→伝本丸上方郭群→伝本丸→伝平井丸→伝池田丸→伝池田丸下方郭群→観音正寺→伝目賀田丸→川並道→ぷらざ三方よし
      全行程約10km

 

・主な見学先
(1)史跡観音寺城跡伝本丸・伝平井丸・伝池田丸
 繖山の南西尾根筋に展開する中心郭群。過去の発掘調査で建物礎石が検出されました。また、平成21年度の森林伐採によって、下方に広がる郭群についても見学が可能になりました。
(2)観音正寺
聖徳太子開基と伝えられる天台宗寺院。西国三十三所観音霊場の第三十二番札所として知られています。山内に多数の坊があったと伝えられ、観音寺城の遺構との関連性が注目されています。
(3)史跡観音寺城跡大土塁
観音寺城の北端の尾根筋を土塁として利用したものです。土塁の南側に大見付・伝馬場丸・伝伊庭丸・伝三井丸・伝馬淵丸といった郭群が並びます。
(4)史跡観音寺城跡伝布施淡路丸・伝目賀田丸
繖山山頂から東に延びる尾根筋の東端に位置する郭群で、観音寺城の東端に位置しています。六角氏の家臣布施氏・目賀田氏の屋敷跡といわれていますが、その位置から見て観音寺城の東端を防御する役割を担った郭群と考えられます。
(5)伝本丸上方郭群
観音寺城の最高所に位置する伝沢田丸から伝本丸にかけて並ぶ郭群で伝楢崎丸から伝小梅丸・伝伊藤丸へと続きます。伝小梅丸・伝伊藤丸は、北側に武者走りを持つ石塁がり、広大な面積を持つ立派な郭群ですが、伝本丸よりも高所に位置することから、その評価が難しい郭群です。

観音寺城址を探検する 2011 2

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


弥高寺城 近江国(伊吹)

2011年11月24日 | 山城

平安時代三修上人によって建てられた伊吹山寺の一寺院。往時は60坊があり、京極氏の城郭の役割も果たしました。

探訪 史跡京極氏遺跡をゆく 20111123

所在地:米原市(旧・坂田郡伊吹町)弥高  map:

区 分::山城・城郭寺院

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:亰極氏・・京極正経・高清

遺 構:土塁・堀・石積み・碑

標高:700m 比高差:上平寺城から300m

訪城日:2011.11.23

お城の概要

 弥高寺は伊吹山の南山腹、標高700m付近に築かれていた。最高所にあるのが本坊跡で南側に土塁が巡り、門跡の開口部がある。開口部からは直線的に南山麓へと参道が延びているが、その両脇に無数の坊跡が残されている。この参道の一番下に枡形の虎口があり、周囲には石積があり、外側には横堀が残されている。

 本坊は幅70m近くの広い敷地で、南・東・西の土塁が巡り、麓より本坊に続く道の大門から本坊までの両サイドに坊跡(郭跡)が続きます。大門は大きな桝形門で、外側に堀が巡り、一部石積みも見られ、まさに城郭の虎口です。本坊背後の尾根先端には管制塔のような郭があり、背後に大堀切があります

 伊吹山へ向かう北の尾根に堀切や竪堀なども残されている。

弥高寺への登山道は弥高集落の奥にある悉地院の先から道がある。お寺の先に採石場があるが、その奥へ林道を進んで行けば大門跡へ繋がる。

弥高寺へは上平寺城からも行くことができる。

お城の歴史

仁寿年間(851年~854年)に僧三修によって設けられた山岳寺院と伝えられる。

寺の創建は奈良・平安時代。城郭寺院として城塞化されたのは上平寺城築城前の明応年間(1492~1500年)に京極正経・高清の時代と考えられるようです。現在の遺構は、京極氏よりは上平寺城同様に浅井氏の改修も考えられます。上平寺城が廃城になった元亀元年(1570年)頃にここも廃寺となったようです。

伊吹山寺の中心をなした寺院と推測され、地元では弥高百坊と呼ばれている。隣接する京極氏の上平寺城との関連性があり、この弥高寺も支城の一つとして城郭化された。

この弥高寺は、眺望が抜群で、東は関が原方面、遠くに名古屋のツインタワーまで見え、西は琵琶湖・彦根方面が一望でき大パノラマです。

弥高寺城祉へ

大土塁

弥高寺跡で、参加者の集合写真!

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、淡海の城、

   本日の訪問ありがとうございます!!感謝!!


探訪 【史跡京極氏遺跡】をゆく 20111123

2011年11月23日 | 平山城

探訪 史跡京極氏遺跡をゆく 

鎌倉時代から戦国時代にかけて、北近江を支配した名族京極氏に関わる遺跡として史跡に指定されている京極氏遺跡をめぐります。県と市の文化財職員の同行案内でこれら遺跡を詳しく訪ねます。あわせて、弥高寺跡で実施する第10回近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝を見学し、昼食時にはさつま汁を試食します。 

探訪 史跡京極氏遺跡をゆく 20111123

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


上平寺屋敷(京極氏屋敷) 近江国(伊吹)

2011年11月23日 | 館跡

戦国時代、京極氏は交通の便がよく、軍事的にも都合の良かった伊吹山麓に館を建てており、その跡が伊吹神社境内に残されています。京極氏の屋敷があったとされる場所にある庭園跡には、池跡や巨石など見られます。また、国指定史跡にも指定されています。

探訪 史跡京極氏遺跡をゆく 20111123

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http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=192652   京極氏遺跡

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滋賀県
坂田郡伊吹町
指定年月日:20040227
管理団体名:
 
史跡名勝天然記念物

京極氏遺跡は、滋賀県北東部の岐阜県との境に位置する伊吹山の南山麓に所在する戦国期北近江に勢力を張った戦国大名京極氏の城館遺跡等である。
京極氏は、近江の豪族で、近江をはじめ多くの守護職を得た佐々木氏の一族であり、南近江を領した一族の六角氏に対し、北近江を領し始祖氏信以来多くは山東町の柏原館を本拠とした。15世紀末からの一族の内紛を永正2年(1505)に収めた高清は、柏原館を廃し、伊吹山南山麓の上平寺に新たに城館を築いたのである。城館は、大永3年(1523)の国人一揆により落城するまで、戦国大名の城館として北近江の政治・文化の中心として機能したのである。京極氏遺跡は、京極氏館跡、上平寺城跡、家臣団屋敷跡及び山岳寺院を軍事的に取り込んだ弥高寺跡から構成される。
館跡は、標高340m余の山麓に位置し、上平寺館若しくは上平館と称され、その一角に当主の居住する館が60m×40mの規模で遺り、奥に2箇所の池と巨石を配する庭園跡が所在する。なお、当地には古代に起源をもつ大谷寺(上平寺)が所在し、この遺構を活かして館として整備したと考えられている。また、弾正屋敷、隠岐屋敷、蔵屋敷、厩などの地名が残り、館跡の隣接地には伊吹神社や京極氏一族の墓所などが所在している。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


上平寺城(桐ヶ城・霧ヶ城・刈安尾城)  近江国(伊吹)

2011年11月22日 | 山城

 

 お城のデータ

所在地:米原市(旧・坂田郡伊吹町)上平寺町 map:http://yahoo.jp/fSb_JK

別 称:桐ヶ城・霧ヶ城・刈安尾城

現 状:山林

区 分:山城

築城期:鎌倉期 永正年間(1468~1521)

築城者:京極高清

遺 構:曲廓・土塁・虎口・竪堀・堀切・土橋・案内板

標 高:666m  比高差:380m

城 域:300m×50m

目標地:伊吹神社

国指定史跡

訪城日:2011.11.23

戦い

大永4年(1524) 〇浅井亮政 VS ●京極高清・高慶・上坂信光

元亀元年(1570) 〇織田信長 VS ●堀秀村・樋口直房

お城の概要

上平寺城は伊吹山の南側の山腹、弥高山の刈安尾の尾根、標高666mの地点にあり、 上平寺地区の上平寺館にある伊吹神社横から登るルートと、弥高地区の平野神社から弥高百坊(刈安尾城)を経て、上平寺城に至るルートがある。

 上平寺地区の伊吹神社からは約45分で尾根筋の城郭群に出る。道の両側になだらかな斜面を利用して、広さ20m×20m程度の削平地が第一曲輪群に7つ、堀切を挟んで第二曲輪群には削平地が5つ確認できる。

 第二曲輪群から、一段高い尾根に本丸を設けている。本丸と第二曲輪群の間には竪堀を、本丸の背後(北)には堀切を配している。

 二の丸虎口は「2折れ」で空間こそ無いが,高度な築城技術といえる。また、周囲に土塁を巡らせた二の丸の曲輪、および深い竪堀は、京極氏時代のものではなく、元亀元年(1570)に対織田戦に備えて浅井氏、若しくは朝倉氏が改修したと考えるのが妥当であろう。

 なお、京極氏の菩提寺である清滝寺高源院
には、京極道誉をはじめ京極家歴代当主の墓がある。

お城の歴史

上平寺という名は、伊吹山4か寺の一つ上平寺(上平護国寺)の寺域にあることに由来している。

 上平寺は大永4年(1524)に京極氏の内紛によって焼失したが、元亀元年(1570)朝倉氏の疋田城、手筒山城
を落とし、金ケ崎城を攻める織田信長に叛旗を翻した浅井長政は、江濃国境を固めるために中山道を押さえる長比城、および北国脇往還道(現国道365号線)を押さえる苅安尾城と上平寺城を改修したことが信長公記にみえる。

-----------たけくらべ、かりやす取出の事-----------
 さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
------------------------------------------------

 「たけくらべ」は長比城のことであり、「かりやす」とは刈安尾城、および上平寺城のことである。また、堀とは門根城城主で浅井氏の重臣・堀次郎、樋口とは堀氏の家老・樋口三郎兵衛直房のことである。

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


上平寺館(京極氏館)      近江国(伊吹)

2011年11月22日 | 居館

上平寺城絵図

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡伊吹町)上平寺町 map:

現 状:山林

区 分:居館

築城期:鎌倉期

築城者:京極高清

焼 失:大永三年(1523)に焼失

遺 構:屋形・庭園・石垣・土塁・削平地

標 高:    比高差:10m

訪城日:2011.11.23

 

お城の概要

京極高清の湖北統一後の本城。 上平寺城に対する平時の居館。

 伊吹の上平寺区内に伊吹神社があり、その裏一帯が居館跡。

 「御屋形」「弾正屋敷」「蔵屋敷」「隠岐屋敷」「厩」と記された方形区画が数多く認められる。「御屋形」は言うまでも無く京極氏の居館を指すもので、この背後には「御自愛泉石」と記された部分がある。これは庭園のことで、今も瓢形の池や立石が残ります。

 非常に整備された屋敷跡が数多く、当時の賑わいを感じます。

大永三年(1523)には焼失したと思われる。

 伊吹町上平寺の集落を少し上がると「京極氏庭園跡」という看板が立てられ、昔、岩や池が配置されていたことをうかがい知る事ができます。この庭園は、1500~1523年頃、京極高清が作らせたといわれています。

お城の歴史 

 宇多天皇の降孫、雅信が源の姓を賜り臣籍に降下してより五代目の信綱(1220年頃)には、重綱、高信、泰綱、氏信の四人の子どもがあったが、上二人は佐々木を継がず、重綱は近江大原に住み大原氏を、高信は近江高島郡に住み高島氏を名乗ったが、あまり名声は挙がらなかった。三男の泰綱は京都六角館と南近江六郡をもらい、観音寺城を築いたので佐々木六角氏と呼んだ。四男氏信は京都京極館と北近江六郡をもらい柏原の館に入ったので佐々木京極氏と呼んだ。

 京極を名乗った氏信は、伊吹山に住む山賊「伊吹弥三郎」を高月町井口まで追い詰め、ここで討ち取ったので、幕府から柏原庄を与えられ、伊吹山上平寺に城を築き、柏原館に住んでいた。

 政経についていた老臣、浅井、三田村、河毛らも今度は高清についたので、政経が逆に湖北を追われることになった。長い間、伯父政経に苦しめられてきた高清もしばらく湖北に安住することができ、坂田郡伊吹町に上平寺城(上平寺館、苅安尾城)を改城してここに入った。京極家庭園は、この頃高清によって作られたと考えられる。

上平寺城04屋形の一角には庭園があり、今でも庭石が残されています。

日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


膳所城 近江国(大津)

2011年11月19日 | 平城

探訪 膳所城と城下町をゆく

膳所城は、関ヶ原合戦の翌年、東海道・瀬田橋・琵琶湖水運などをおさえる要衝として徳川氏が築かせた城です。城下町は東海道沿いに形成され、寺社や土塀、移築された城門、公園となった本丸跡など、今も城の痕跡が各所に残ります。今回の探訪では、膳所歴史資料室運営協議会のみなさんや大津市歴史博物館の学芸員、県の文化財専門職員の同行案内で膳所城と城下町を詳しく訪ねます。 チラシはこちら

日時:平成23年11月19日(土) 10:00~16:00頃
集合:JR膳所駅北口(南北連絡歩道橋のぼり口付近) 9:30~10:00受付
定員:50名(事前申込 先着順)

○探訪 膳所城と城下町をゆく 2011119

お城のデータ

所在地:滋賀県大津市本丸町
別  称:石鹿城
築城期:織豊期 慶長6年(1601)
築城者:徳川家康
区 分:平城(水城)
遺 構:石垣、移築城門、模擬城門・城土壁・城跡碑・説明板

目標地:膳所城

駐車場:膳所城駐車城

訪城日:2011.11.19

お城の概要

現在は膳所城公園となっており城門、堀、石垣などが模擬復元されている。ただし城門は近くの膳所神社に移築され現存している。

膳所城は湖中に石垣を築いて本丸をせり出させ、二の丸とは廊下橋で結んだ水城であった。本丸には四層四階の天守が築かれ、天守や白壁・塀・櫓などが湖面に映える姿は実に美しかったという。
 現在、本丸跡は膳所城跡公園として整備され、公園の入口には城門と城壁が復元されている。膳所城址の石碑が建っているところが膳所神社に移築された城門(重要文化財)天守跡で、石垣は北側にわずかに残るのみ。
 石垣に打ち寄せる波に耳を傾けながら散策し、在りし日の壮大な水城に思いを馳せたい。園内には野外劇場などの施設もあり、琵琶湖の風景とあいまって市民の憩いの場所でもある。なお、二の丸跡は浄水場となっている。
 膳所城の建造物は明治になってすべて取り壊されたが、3棟の城門が膳所神社、篠津神社、鞭崎神社にそれぞれ移築され、貴重な遺構としていずれも国の重要文化財に指定されているので、膳所城跡を訪れれば是非見学したい。

 

 

お城の歴史

 膳所城は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康が、翌慶長6年(1601)京都背後の守りと、豊臣秀頼が居城する大坂城への備えの城として、東海・中山・北陸三道と琵琶湖に臨む要衝の地に築いた城である。
 縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が行い、8人の普請奉行の下、諸国の大名を動員するという天下普請の第一号の城である。
 同年、大津城主の戸田一西(かずあき)が10万石で初代膳所城主となり城下町の整備に努めた。元和3年(1617)一西の子戸田氏鉄(うじかね)が摂津尼崎に転封された後、本多氏、菅沼氏、石川氏と城主は替わるが、慶安4年(1651)本多俊次が伊勢亀山より7万石(後に6万石)で入封。
 以後、膳所城は本多氏13代の居城として明治維新を迎える。膳所藩は代々徳川幕府に忠勤を励んだが、幕末になって勤皇派が台頭し、戊辰戦争の口火を切った鳥羽・伏見の戦いでは桑名城攻めに参陣した。

慶長6年(1601)徳川家康によって築かれた。 築城においては藤堂高虎が縄張を行い天下普請で行われ完成後は戸田一西が三万石で入城した。

元和2年(1616)戸田氏鉄は大坂夏の陣の功により摂津国尼崎に移封となり替わって三河国西尾から本多康俊が入封する。 元和7年(1621)本多康俊になると旧領三河国西尾に移封され替わって伊勢長島から菅沼定好が入封する。
寛永11年(1634)定好は丹波国亀山に移封となり替わって下総国佐倉から石川忠総が入封するが慶安4年(1651年)石川氏もまた伊勢国亀山に移封となる。
最後に以前三河国西尾に移封になって伊勢国亀山に移封されていた本多俊次が再入封し以後明治に至る。

本多公浜御殿

本日の訪問ありがとうございす!!


八幡山城(八幡城) 近江国(近江八幡)

2011年11月17日 | 戦国山城

山上の西の丸・北の丸・本丸・二の丸へ

二の丸の石垣砕石の矢穴多数残る。

お城のデータ

別 称:八幡城
所在地:近江八幡市宮内町   map:http://yahoo.jp/9llC9f
区 分:山城  

標 高:251m 比高差:155m 
現 状:公園・寺・山林

遺 構:郭・石垣・石碑・説明板
築城期:織豊期 
築城者:伊庭氏

改築者:豊臣秀次
駐車場:日牟礼八幡宮
目標地:村雲瑞龍寺・日牟礼八幡宮

訪城日:2011.12.17

お城の概要

 安土城の焼失から3年後、天正13年(1585年)に、18歳にして近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)が築城した城が八幡山城です。後背部は 津田内湖(昭和46年干拓)、東には西の湖(ラムサール条約登録湿地)が広がっています。本丸、二の丸、北の丸、出丸からなる城郭を持ち、南側の山麓には 城主「豊臣秀次」の居館や重臣達の邸宅があったとされ、中世の城の形態である山城の形を取る最後の城として歴史的価値が高いとされています。築城に当た っては、安土城下の町や社寺の一部を移し、新しいまちづくりが進められました。

八幡山城は長らく石垣を残すだけでしたが、村雲御所瑞龍寺が移築されロープウェーが整備されたことなどにより、多くの観光客が訪れる観光拠点になって います。
八幡山城の本格的な調査はこれまで行われてきませんでしたが、平成12年度からの本格的な調査では、豊臣秀次居館跡から金箔瓦の破片(約200点)などが出土 しています。

歴 史

長享年間(1487-89)に六角氏の家臣・伊庭氏の居城としていた。
天正13年(1585)羽柴秀次は叔父の秀吉から近江国に20万石を与えられ、八幡山を本拠とした。天正十三年(1585年)に羽柴秀次(豊臣秀次)によって築かれました。文禄四年(1595年)に秀次が秀吉の命により切腹して八幡城も廃城となりました。昭和三十七年に秀次の菩提寺の村雲瑞竜寺を京都より移築されました。八幡は城下町ではなくなりましたが、秀次が開いた八幡堀を含む水運に優れ、近江商人の町として残りました。

 築城から5年後(1590年)、秀次は100万石を領し清州へ移封となり京極高次が城主となりましたが、1595年、秀次が自刃後に八幡山城は廃城(高次は大津城へ 移封)となりました。

本丸西側高石垣

西の丸

西の丸より北・・・長命寺~琵琶湖~対岸湖西~比良(雪雲の中)

西の丸より、西・・・水茎岡山城。

H23の「のろし駅伝のスタート・ゴール」http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/111124/wlf11112409060005-n1.htm

北の丸

北の丸より東の眺望

本丸

本丸の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)。に村雲御所端龍寺を移築されている。

現在、本丸跡にある『端龍寺本堂』は、秀次の母(日秀尼)が秀次の菩提を弔うため京都嵯峨野の村雲に建てたものを、昭和36年に移したもので村雲御所とも呼ばれている。

左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。

真ん中は三上山(近江富士)の左裾に星ヶ丘城址

二の丸から東~右が観音寺城址(繖山)。

 遠方が箕作山城(清水山・・鉄塔が建つ)。正面が小脇山城址・太郎坊宮(箕作山系)。

左遠方・・布施山城址。手前左は瓶割山城址。右遠方は雪野山古墳。

織田信長亡き後、安土の民を移り住まわせ、城下町・近江八幡をつくりあげた。また、楽市楽座を施し自由商業を推し進めたことが、のちのちの近江商人発祥につながったのではないかとも言われている。

近江八幡の城について

 近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。

織田 信長   豊臣 秀次
▲織田 信長 ▲豊臣 秀次


近江八幡の城マップ


近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町  

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


探訪 浅井氏領国経営の真髄&戦国の奇習【餅ノ井落とし】を歩く

2011年11月09日 | 探訪「近江水の宝」

 浅井氏による用水秩序「餅ノ井落とし」に関わる由緒地や、これに関わる浅井氏・井口氏らの遺跡・由緒地をめぐります。

 チラシはこちらから表(270kb)裏(1.2mb)

 講師:滋賀県観光交流局(滋賀県教育委員会文化財保護課併任)北村圭弘氏

戦国大名浅井久政の時代から約400年続いた餅の井の「井立て」や「井落とし」は、高時合同井堰(昭和初期)さらには国営湖北農業水利事業による高時川頭首工(昭和40年代)が完成するまで続いた、他に例を見ない水利慣行です。

現在、高時川頭首工から取水された農業用水は、地域の農地のみならず各集落内を流れ、生活用水として、また防火用水として、さらには、コイや花で飾られた集落を潤す水となっています。

 

昭和37年の餅の井の井立て 

浅井氏領国経営の真髄&戦国の奇習「餅ノ井落とし」を歩く 1

現在の高時川頭首工
高月川頭首工 

昭和40年度から昭和61年度にかけての「国営湖北土地改良事業」により造成されました。

以来、計画的な農業用水の供給により、安定した農業経営を図ることができるようになっています。

  

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました