城郭探訪

yamaziro

平姓津田氏(織田氏系)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年07月31日 | 武将

津田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

津田氏(つだし)は、日本の氏族。祖を異にする複数の系統がある。

     1 平姓津田氏(織田氏系)

 

平姓津田氏(織田氏系)

津田氏
家紋
横木瓜
本姓 ・桓武平氏
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡津田庄
著名な人物 津田信澄
津田信成
凡例/ Category:日本の氏

近世大名の織田氏の出自を平氏とする説においては、平家の子孫が近江津田庄に逃れ津田姓を称し、その末裔がのちに越前に移住し織田氏となったとされるが、確証はない。

この津田氏は織田氏と同族で、藤原氏・忌部氏の系統が有力とされている。

織田氏の直系から見て庶流に当たる一門は津田氏を名乗り、主家との区別を付けていた。例えば、織田信長の弟織田信勝(信行)の子津田信澄などである。また、同じく信長の一族津田信成は大名に列したものの、江戸時代前期に改易されている。

江戸時代にも、丹波柏原藩主織田家の庶子、出羽天童藩主織田家の庶子などに津田姓を称し、藩士に列した人物を確認できる。例えば、大和松山藩主織田高長の五男津田頼房などである。

鳥取藩家老の津田氏も織田一族を名乗っている。初代は元綱で、その子・元房は池田忠雄に従って8,000石を与えられた。3代・元匡は池田光仲の移封に伴い、鳥取に移り、伯耆国八橋郡に所領を与えられた。元禄5年(1692年)、5代・元長の時に家老職に就いた。伯耆国八橋の自分手政治は明治維新まで続いた。菩提寺は八橋陣屋そばの体玄寺、現在も津田家の墓所が存在する。

改易された織田信重の子孫は細川氏に従い、豊前小倉藩及び肥後熊本藩の藩士となる。

慶長から寛永年間に作成されたとする「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳並軽輩末々共に」の物奉行に「津田三十郎」、側小姓に「津田左兵衛」の名が見える他、熊本県立図書館所蔵の慶安元年(1648年)の『真源院様御代御侍免撫帳』に「1千石 津田三十郎」、「4百石 津田半右衛門」、「3百石 津田平丞」とある。幕末の『肥後細川家分限帳』では五家の津田家が確認できる。このうち、津田平助(1000石)家の津田平士は西南戦争熊本隊に従軍する。また津田信弘(山三郎、400石)は実学党に与し、奉行(参政)となる。


浅井長政 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年07月29日 | 武将

 

 
 
浅井長政
Azai Nagamasa3.jpg
 
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年(1545年
死没 天正元年9月1日1573年9月26日
改名 猿夜叉丸(幼名)、賢政、長政
別名 新九郎、備前守通称
戒名 養源院天英宗清
墓所 滋賀県長浜市徳勝寺
官位 従二位中納言
主君 六角義賢
氏族 近江浅井氏(自称藤原氏
父母 父:浅井久政、母:小野殿
兄弟 長政政元政之岡崎安休
浅井治政阿久姫大弐局
京極マリア
正室:平井定武の娘
継室:お市の方
側室:八重の方
万福丸[1]万寿丸長明政治茶々[2]くす刑部卿局
養子:井頼

浅井 長政(あざい[3] ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将北近江戦国大名。浅井家の3代目にして最後の当主。

浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、妻の兄・織田信長同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。[4]

 

生涯

家督相続

天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸

下克上によって、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏も、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、初代当主である浅井亮政(長政の祖父)の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。

15歳で長政が元服した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に六角氏当主である六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強いた。

このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続したのであった。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため「賢政」の名と平井定武の娘を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。

浅井家の成長と六角家の衰退

愛知県春日井市の浅井氏宅跡にある浅井長政像。側室八重が生んだ子の七郎とその子孫がこの地に住んだという。

永禄3年(1560年)8月中旬、長政(新九郎)は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦い振りを披露した。これによって重臣の赤尾清綱海北綱親遠藤直経らを心酔させたと言われている。

野良田の戦いの勝因は、短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また朝倉氏に援軍を求めた様子もないことから、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を取っていたという見方もできる。合戦後は、朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。

同年の10月、父の久政が重臣らによって隠居させられ、家督を継いだ。

永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せた。

この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議により膠着状態が続く。

織田信長と同盟

浅井長政夫人画像
お市の方

1560年代織田信長は、美濃国斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を使者として送り、長政に同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論であり、遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、互いに挑発を繰り返していた。

同盟の際、長政は永禄11年頃に信長の妹のを妻とした[5]

信長は浅井との同盟により上洛経路を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を大いに喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている[6][7]。 また一説にお市の婚姻は永禄8年(1565年)とする説もある。[8]

永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより、長政の宿敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護した。

同盟破棄・信長包囲網

元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は殿を務めた羽柴秀吉らの働きにより、命からがら近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。

信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある。[9]

同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。先鋒の磯野員昌が織田軍の備え15段のうち13段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの、信憑性は薄い。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。藤堂高虎は、姉川の戦いに名もない兵卒として参戦し、多くの武功を上げて長政に感状を送られた。

姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた本願寺野田城・福島城の戦い)が、反信長の意志を表した(信長包囲網)。9月には朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成織田信治らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行なったため、12月に信長と勅命講和することになる。また、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅してしまう。

武田信玄との連携

元亀3年(1572年)7月、信長が北近江に来襲した。長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。

同年9月、将軍足利義昭の要請に応える形で、武田信玄が甲斐を進発する。信玄はこの時、長政、久政親子宛に書状を送っている。

「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」

その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことである。北近江に織田軍を釘付けにすれば、信長は全力をもって信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まる。織田軍の物量に押され、じわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。

同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国。義景の撤退により、北近江に縛られていた織田軍は、美濃に戻った。この時、義景の軍と同様に悪条件がそろう長政の寡兵だけでは、退却する織田軍の追撃は難しかった。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じることが出来ず、黙殺的態度を示した。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが、翌年2月には進軍を再開し、家康領の野田城を攻め落とす。しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった。

浅井家滅亡

天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし、やむなく義景は越前に撤退を始めた。信長は、逃げる朝倉軍を追撃して滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、軍を浅井氏に向けた。

もはや浅井軍は、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城滋賀県長浜市)が、織田軍に囲まれる。信長は家臣不破光治、さらに羽柴秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。

市が信長の陣営に帰還する際、浅井・織田軍共に一切の攻撃をしなかったと言われている。

同年9月1日9月26日)、父の久政と共に自害。享年29。墓所は滋賀県長浜市徳勝寺

一級史料と評される信長公記には、天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。なお、これをにして酒を飲んだという俗説もあるが、史料には見当たらない。信長はあまり酒を飲まなかったので、後世の作り話と考えられる。

系譜

浅井氏は始祖を正親町三条公綱(公家の嵯峨家)の落胤とする家系伝承を持ち、本姓藤原氏と称するが、江北に古くから土着している豪族に浅井氏があり、平安時代や鎌倉時代の記録に既に名が見える、古来の浅井氏に、公家の子息が入り婿したとも伝えられる。室町時代には、守護京極氏に従う国人領主の一つとして頭角を表す。やがて梟雄・亮政が越前・朝倉氏の後援によって国人一揆の盟主格であった浅見氏を倒し、江北第一の勢力として台頭するに至った。

両親
兄弟
姉妹
息子
  • 嫡男:万福丸(輝政)
  • 次男:万寿丸(直政 / 正芸 / 万菊丸 / 幾丸 / 虎千代丸)
    赤児だった万寿丸は命を助けられ、後に出家させられたが、その後、豊後細川藩を頼り子孫は杵築浅井氏として続いた。
  • 長明(七郎) - 八重の方との子で、信長からの追及の手を逃れ尾張に土着する。
  • 政治(円寿丸)
養子
  • 浅井井頼(政信 / 政賢 / 政春 / 政堅 / 長房)

家臣

脚注

  1. ^ 正室のお市との間の子とされるが、平井定武の娘が生母ともいわれている。
  2. ^ 『浅井氏家譜大成』を根拠として、一説に娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、長政の実子ではないという説がある。
  3. ^ 名字および所領地名の「浅井」の読みは、以前は「あさい」が一般的であったが、現在は「あい」が正しいとされている。ただ、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある(宮島敬一著『浅井氏三代』参照)
  4. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」『駒沢史学』80号。
  5. ^ 『信長公記』によれば市は信長の「娘分」として長政に嫁いだという。また、逸話によると遠藤直経は、お市との婚姻の際に信長を暗殺する計画を長政に提案したという。
  6. ^ このとき信長の一字を拝領し長政と改名したという説がある。しかし、疑問点もあり、はっきりした事は分かっていない
  7. ^ なお、長政と市の婚姻時期について『信長公記』では永禄11年としているが、『浅井三代記』では永禄7年(1564年)となっている。市は天文16年出生とされ永禄11年時の婚姻では初婚としては遅い20代前半にあたることから市の出生年代や婚姻時期の誤り、初婚でない可能性も考えられており、北近江をめぐる地域情勢から婚姻を永禄4年段階とする説もある(太田浩司「北近江の戦国史」『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』)
  8. ^ 和田惟政が三雲定持に宛てた書状に「浅井備前守と信長の縁辺(婚姻)、入眼候…」とあることから、近江国矢島の和田惟政の元にいた覚慶(足利義昭)が、上洛を目指すために織田と浅井の婚姻を結ばせたとする(高澤等『新・信長公記』)
  9. ^ 『安芸毛利元就宛覚書』(毛利家文書)に「浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候」とあることを根拠に浅井氏挙兵は凱旋途中にその報を受けたとする(高澤等『新・信長公記』)

 


閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

2013年07月29日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

 

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.07.28(日) 582 PV 174 IP 6444 位  / 1908792ブログ
2013.07.27(土) 803 PV 191 IP 4385 位  / 1908465ブログ
2013.07.26(金) 946 PV 273 IP 2567 位  / 1908034ブログ
2013.07.25(木) 785 PV 228 IP 3856 位  / 1907530ブログ
2013.07.24(水) 905 PV 204 IP 4860 位  / 1906978ブログ
2013.07.23(火) 833 PV 205 IP 4642 位  / 1906348ブログ
2013.07.22(月) 811 PV 185 IP 5397 位  / 1905769ブログ

 過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.07.21 ~ 2013.07.27 5938 PV 1480 IP 4228 位  / 1908465ブログ
2013.07.14 ~ 2013.07.20 6411 PV 1531 IP 3826 位  / 1904868ブログ
2013.07.07 ~ 2013.07.13 5982 PV 1778 IP 3028 位  /

1901635ブログ

トータルアクセス数

※日別の閲覧数・訪問者数とトータルアクセス数の加算タイミングにタイムラグが生じる場合があります。

トータル閲覧数(PV)   518,597PV 

トータル訪問者数(IP)  152,195IP

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


赤神山 成願寺

2013年07月26日 | 文化財

赤神山成願寺:(近江天台の大寺のる。)

赤神山と号す。本尊薬師如来坐像。延暦18年(799)最澄が建立すると云う。
赤神山中腹に太郎坊宮(往時は成願寺奥の院であった)がある。往時は成願寺50余坊があったとされる。
織田信長と佐々木氏との戦いで焼失、現在は本堂と石垣坊、行万(満)坊の2坊のみ残る。
2008/10/04撮影:
近江成願寺概略図:「成願寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006 より
近江成願寺本堂     同   石垣坊    同   行満坊


湖西明神崎をゆく-白鬚神社-2013.7.20

2013年07月23日 | 探訪「近江水の宝」
 現在、遺構はあまり残っておらず、わずかに本の丸天守台の石垣が残るだけだ。 この天守台は、野面積みの石垣だが、一つ一つの石の大きさに驚かされる。

 本の丸天守台は田圃に囲まれているが、この田圃は水堀の跡だ。今も東側には沼が続き、琵琶湖は目と鼻の先まで迫っている。  この城が、坂本城・長浜城と同様に、琵琶湖に浮かぶ水城であった ことを、今でもその雰囲気をよく残している。

 三の丸に分部氏が建てた陣屋の総門が残っている。 この長屋門は、 現在民家として使用されていてる。  
三の丸に分部氏が建てた陣屋の総門が残っている。 この長屋門は、 現在民家として使用されていてる。 
大溝城跡碑
 天正7年、織田信澄(信長の弟、勘十郎信行の子)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって築城、打下城から居城を移した。

 天正10年、本能寺の変によって、信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、明智方と見られて大坂で落命する。

 信澄の死後、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入城する。

 元和5年、京極氏に替わり分部光信が、伊勢上野より2万石で入封する。 
この時、元和一国一城令の対象となり、三の丸を残して破却された。 分部氏は、 残された三の丸に陣屋を構え、明治まで代々この地を治めた。 
乙女ヶ池
万葉の時代、「香取の海」と呼ばれた乙女ヶ池一帯は、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。
その後は、大溝城の外掘で、恵美押勝が挙兵に失敗し、高島郡三尾崎で捕らえられ、「勝野の鬼江」で斬罪されたと伝えられる地で、壬申の乱で落城したと伝えられる三尾の城も背後の山中にあったと言われ、幾多の歴史を秘め湖面にロマンをただよわせています。
現在は、面積8.6ha、平均水深1.6mの内湖となり、フナ、ブラックバスなどが生息し、特にバス釣りのメッカとして多くの釣り人に親しまれています。
 
万葉歌碑と西近江路(旧道)
万葉の時代、「香取の海」と呼ばれた乙女ヶ池一帯は、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。
街道沿いに地蔵
打下磨崖仏
滋賀県高島郡高島町打下・・・打下(うちおろし)集落を通る旧街道沿いに立ち並ぶ民家。その裏側には稲田が広がっています。畦道の様な細い旧道沿いに露出した岩にお地蔵さんが刻まれています。
最勝寺(さいしょうじ)は、滋賀県高島市勝野にある真宗大谷派に属する寺院。山号は、琶湖山(はこざん)。本尊は阿弥陀如来。

歴史(縁起)

蓮如上人が、吉崎御坊へ向かう途次、高島勝野打下から乗船、その折り地下人山田正明に一宇を建立することを指示したと伝えられている。開基:山田正明は(佐々木行実の後裔で山田経豊の子と言われている。)
開基は文明3年(1471)であり、湖西の古刹である。山号の申請に対し、芝の増上寺から幕府に許可しないようにとの要望が提出され、琵琶湖山から琶湖山に変更し金50両を支払った経緯が最勝寺の古文書に記されている。

文化財

蓮如上人伝絵 - 「真宗重宝聚英」等に収録されている。この絵伝の存在は、一子のみに伝えられ外部の目に触れることは無かったので、保存状態が極めて良い。公開されたのは近年になってからである。 蓮如自筆六字名号

所在地

  • 滋賀県高島市勝野2909(旧高島町勝野打下)
蓮如銅像
打下古墳(うちおろしこふん)
 平成13年(2001)高島市打下集落の日吉神社背後の山腹で行われていた上水道配水施設工事現場から石棺が発見された。築造年代は古墳時代中期とされており、同年代の墓としては珍しく人骨が残されてあった。滋賀県内では出土例が少ない5世紀代の箱形石棺で、日本海沿岸の丹後地域に多く見受けられる葬法から、地域間交流がうかがえる。
打下古墳と乙女が池
 
鵜川の棚田です・・・
元の人に話を聞いた。
「ここの田ができてから130年くらい経つやろか。
 わしが若いころは後ろの山は、田上のようにはげ山やった。
 一生懸命植林をしてこうなった。」  ・・・・・・(そういえば山肌は見えない)

「このへんの田は砂地やから一日で水が抜けてしまう。線路(湖西線)から下は土や。」

「水(作業)は毎日や。せやからここの米はおいしいんや。コシヒカリやで。まわり(南や北の方)とは銘柄がちがうで。」
高島市~鵜川~大津市
岩除地蔵
北小松の国道沿いの北はずれに鎧岩(よろいいわ)と言われる険しい崖があり、その崖の下に安置されている。
この崖は落石が多くあり、通行に大変危険な所でした。落石等から身を守っていただこうと、崖の下にお地蔵さまを安置し、「岩除地蔵尊」と名付け、守り本尊として崇敬するようになる。
大津市北小松(国道161沿い、北小松川に無料駐車場あり普通車10台可)                                                  077-592-0378 (志賀観光協会)
 
~~~~北小松
本日の歩数  18,579歩   2時間49分   13.0km
消費カロリー  761.2kcal    脂肪消費量  108.7g
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

新村城(志村城) 近江国(能登川)

2013年07月20日 | 平城
新村城(志村城)
新村城(志村城)のあったされる場所 
 
所在地:東近江市東新宮町(旧神崎郡能登川町東新宮)  nap:http://yahoo.jp/2rbtEV
別 名:志村城
区 分:平城
遺 構:新村城主の墓だという伝わる宝篋印塔が一基
築城者:志村氏
城 主:高橋氏、志村氏
目標地:乗蓮寺
駐車場:乗蓮寺
訪城日:2013.7.8
 
 
 乗蓮寺は新村氏の菩提寺ともいわれ、この寺の本堂には “輪違い紋” が掲げられている。これは志村氏が改姓する以前の高橋氏時代の家紋であったという。ちなみに志村氏の家紋は揚羽蝶紋である。
 新村城は愛知川の左岸、東新宮町の浄土真宗本願寺派 花鳥山浄蓮寺の東側一帯が新村城とされる。
 
新村城城主の墓と伝わる宝篋印塔乗蓮寺の前、道路脇には新村城主の墓だという伝わる宝篋印塔が一基残されている。
 
新村城主・志村氏は、元々は高橋氏がこの地に移って志村氏を名乗ったとされる。
六角氏について織田信長と戦い敗れた時に 670人が打ち首になったといい、子供や孫達は静岡に逃がしたと伝えられる。

 なお、乗蓮寺は新村氏の菩提寺ともいわれ、この寺の本堂には “輪違い紋” が掲げられている。これは志村氏が改姓する以前の高橋氏時代の家紋であったという。ちなみに志村氏の家紋は揚羽蝶紋である。
 
 
 
 東新宮【正源寺】(揚羽蝶紋)
西新宮【京勝寺】(揚羽蝶紋)
 
 
【新村城について】
 新村城は、元亀2年に織田信長により落城します。
新村城の城攻めは、町史・近江源氏などにかかれています。志村左衛門忠資は、永禄 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると石山本願寺の第11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし織田信長に宣戦布告(石山合戦)する。
 
 この顕如の檄に対して、近江の一向一揆衆は金ヶ森城(金森道場)を中心に、志村城や小川城に楯籠もって信長に対抗するが、元亀2年(1571)に信長軍に攻められ落城する。

 
 新村城の攻防について、「信長公記」の元亀二年の項に記述があるので、紹介する。
------------------------江南鎮定  しむら攻め干さるるの事

 9月1日、信長公は佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の四名に命じて志村城を攻めさせた。四将は城を囲んで四方より取り寄せ、城壁を乗り破って乱入し、首数六百七十余を挙げて城を落とした。この猛攻のさまを目にした隣郷の小川城主小川孫一郎は戦慄し、人質を差し出して降伏を申し入れてきた。信長公はこれを受諾した。
 そののち信長公は常楽寺①に滞留し、9月3日軍勢を一向一揆の立てこもる金が森城②の攻略に向かわせた。金が森を囲んだ織田勢は、城方の作物をすべて刈り取ったうえ四方に鹿垣をめぐらせて諸口を閉ざし、城を完全に取り込めてしまった。城方はたまらず人質を供出して降伏した。信長公はこれをも受け入れた。

 金が森攻略後、信長公は旗下の軍勢に南方表へ進撃する旨の軍令を発した。そうして大兵を率いて西上し、11日瀬田の山岡玉林斎景猶館に着陣した。
 しかし、攻撃先は南方ではなかった。

 ①現滋賀県安土町内(前出) ②現守山町金森

------------------------

元亀2年、信長は佐和山城にすすみ、丹羽のもとに泊まりました。9月1日に新村城を攻めさせました。攻撃は、佐久間信盛など、4人に命じ数千の兵で、四方から攻め寄せ670の首数を討ち取りました。お墓は、今もある法筐印塔だといわれています。新村城落城後は、秀吉は新村の地四百石を福谷藤介に、給与しています。
 
 城祉については、神埼郡史、江戸時代の古城取調書、にも記されています。
 
年表
弘治(1555~1558)宮西村ができる
永禄 江波が川南村になる
永禄2年新村伊豆守が木を寄付する
元亀1年寶満寺兵火で焼失
元亀2年(1571)8月信長が新村城を、攻略・670人余りが討首に
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、お城のとびら等
 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


山路城 近江国(能登川)

2013年07月19日 | 平城

“城前橋”

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡野登川町)山路町 map:http://yahoo.jp/p4BCKj

区 分:平城

現 状:集落・宅地

築城期:

築城者:山路氏

遺 構:堀跡・・・用水路

目標地:浄源寺

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.7.13

お城の概要

山路城は東近江市山路町の一画に“城前橋”という小字名が残る。
この城前橋の北、約100m四方が城跡とされる。周囲には小さな川が城跡一帯を取りまくように残っている。

城前橋の川には石垣

 城前橋北側の川(堀)には石垣が残っていたが、集落内の水路工事・道路拡幅で屋敷側に遺構が残る。

圃場整備で、集落外は直線水路で遺構は無い。

遺講としては、大字山路の集落中央の東西に一町南北一町半の小字、「城」があり三方を小路で囲まれていた。現在埋め立てられたが、東側の小路は、「堀」と呼ばれ、また、「城前橋」の名前が現在も残っています。
 山路氏の居城です。集落の中央に小字名「城」があります。

山路城の近くには伊庭氏の居城である伊庭城、垣見城などが位置している。

歴 史  【山路城】

「淡海木間攫」山路村の条には、「山路平兵衛・小路与左衛門在城し、城残れり」とあり、
「近江温故録は、山路主馬介胤治が居り元亀元年10月の六角氏再興戦で討死したとし、
「大河弁天当国古城主名札」には山路村城主として山路平兵衛の名がみられ、また六角氏再興の戦いでは山路主馬介胤治が戦死している。は、山路兵衛の名記している。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城
  本日の訪問ありがとうございます!!

 


探訪【金堂陣屋 近江国】2013.7.18

2013年07月18日 | 館跡

陣屋跡に建つ稲荷神社

金堂陣屋は近江商人発祥の屋敷跡が残る五個荘町金堂の一画にある。通りの名前も陣屋通りといい、陣屋の跡地には稲荷神社が祀られている。

 陣屋跡地の大半は外村繁邸屋敷になってしまっている。

徳勝寺の表門陣屋の表門が近くの勝徳寺の表門として改修されて残っている

 

陣屋の表門が近く 貞享2年(1683)に本多忠平が大和郡山藩主として入封した時、近江国内で4万石が所領が与えられた。

このうち、蒲生,神崎,坂田三郡の所領を管理するため、陣屋がおかれた。

 陣屋には代官1名、手台2名、書役1~2名が常駐し郡山藩士が交代で在番し、司法、行政を司っていた。「神崎郡史稿」に収録されている古図から、陣屋は長屋門と堀に囲まれ、役所,役宅と土蔵,牢屋、稲荷社があったことがわかっている。

 明治5年に廃止され、敷地は民家に払い下げられたが、長屋門は西側の徳勝寺に移築されている。(現地案内板の内容を一部編集)
の勝徳寺の表門として改修されて残っている。

所在地:東近江市五個荘町金堂(陣屋通り)


探訪【根来陣屋 近江】2013.7.18

2013年07月18日 | 館跡

奥石神社の駐車場の一角に建っている

現地説明板                 

来陣屋跡は奥石神社周辺(碑文) 根来氏は鉄砲で有名な根来衆の一末裔、根来盛重が大和・近江・関東に知行所を拝領し、3450石となる。内、寛永10年(1633)の近江の知行所は699石であった。元禄11年(1698)の領地替えで知行所が近江に統合された。この時期に陣屋が設置され代官所を置いた。根来陣屋の代官は代々、坪田恒右衛門家が郷代官を勤めた。  福生寺本堂に陣屋書院を移したといわれている。

道路古図(根来陣屋が記載)

 移築の根来陣屋書院(改築)の福生寺金堂

<沿革>

旗本根来家の在地代官所跡である。現地の説明板にしたがえば、根来氏は和泉国熊取谷の出で、初代盛重は元根来寺の僧であった。秀吉と根来衆との戦いの後、家康に仕え戦功をあげた。

根来家は、幕府成立後3450石の大身旗本に出世した。元禄十一年(1698)に、領地替えで近江に所領を得たことから、老蘇(おいそ)に陣屋を構えた。老蘇は中山道の立場で、江戸時代の絵図には根来陣屋が描かれている。

根来衆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
根来衆(ねごろしゅう)は、戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯(現在の岩出市)に居住した僧兵たちの集団である。雑賀衆と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。

概要

根来衆を構成した主な一族としては、根来寺の僧坊の一つである杉の坊を拠点とした津田監物をはじめとする津田氏や泉州熊取谷の豪士霜氏などが知られている。 門徒では織田信長を狙撃した杉谷善住坊が有名である。

小牧・長久手の戦いでは雑賀衆と共に大坂城を攻め豊臣秀吉の心胆を寒からしめた。戦後は秀吉による紀州征伐(千石堀城の戦い)が起こり、根来大善(霜盛重)を中心に抵抗した。

雑賀衆の鈴木佐大夫が藤堂高虎に謀殺されると、伊勢に逃れ、徳川家康に従い、成瀬正成を組頭とする根来組同心として内藤新宿に配置される。関ヶ原の戦いの際は正成の組下として活躍する。

根来陣屋:滋賀県近江八幡市安土町東老蘇(奥石神社)  旗本根来氏3450石 

 


探訪【久郷屋敷 近江】2013.7.17

2013年07月18日 | 館跡

久郷氏宅の長屋門久郷氏宅の長屋門・・・改築・新装はされているが、庭・門も素晴らしい、

 久郷氏宅に隣接する住宅の背後の水路

郷氏宅にはいかにも時代を感じさせる長屋門が残り、久郷氏宅に隣接する住居の背後には堀ともいえる水路が残っている。
地元の人はこの水路を農業用の溜め池だというが、どう見ても堀としか見えない。

上田の集落の東端、久郷氏宅付近の遠望

久郷氏は伊庭氏の被官であるとされ、上田の集落の東端、久郷氏宅付近が久郷屋敷と呼ばれる。

付近には久郷前、久郷東の地名の字名も残る。

所在地:近江八幡市上田(近江八幡東中学校の南)


金剛寺城 近江国(安土)

2013年07月18日 | 居城

 金剛寺遺跡遠景

近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・観音寺城と変遷しましたが、3ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。

 六角氏の祖泰綱の子である頼綱は、晩年に別館を金田の館に住まいを移したことから「金田殿」と称され、その館は「金田館」と呼ばれました。その孫の氏頼が同じ金田に創建した金剛寺は金田館に近接していたか、これを元に建立した寺院と考えられます。

 仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興されます。延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。

 

 『近江蒲生郡志』では文明18年に再興された金剛寺の位置を、安土町慈恩寺の浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺」と呼ばれる畑地と推定しています。

近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、安土町慈恩寺の「金剛寺」は「こんごうでら」と呼ばれます。

この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。

 

 金剛寺城跡には地名のみ、安土の金剛寺遺跡には一段高い畑地が残っているほかは寺・城の名残りは残されていません。しかし、観音寺城以前の六角氏守護所を明らかにするうえで鍵となる遺跡です。今年一月には近江八幡市により金剛寺城遺跡の一部が発掘調査され、建物跡と磚(せん)が出土して注目を集めました。

 


探訪【蒲生氏郷の足跡を訪ねて-2】2013.7.14

2013年07月16日 | 探訪「大地の遺産」

=城下町巡る歴史探訪イベント=


 県教育委員会は今年六月~来年三月、水と大地に刻まれた歴史遺産に光をあて、その魅力を全国へ情報発信する「近江水と大地の遺産魅力発信事業」の一環として、二十三の探訪会や講座を開催している。七月は、日野町を舞台にした探訪「蒲生氏郷の足跡を訪ねて~中野城と城下町~」などが開かれる。

 蒲生氏郷はの武将。近江守護六角氏の家臣であったが、父・賢秀が織田信長に従い、以降織田家の家臣として信長の天下統一事業に参加していく。探訪では、氏郷の居城中野城の城下町として発展した日野町を散策しながら、今も残るゆかりの地を巡る。近江日野出身

開催日時は七月十三日。中野城趾(近江バス日野川ダム口下車徒歩五分)集合、日野まちかど感応館解散。

行程は,中野城趾―仁正寺藩陣屋跡―興敬寺―清源寺(昼食)―聖財寺―西大路集議所―法雲寺―馬見岡綿向神社―信楽院―日野まちかど感応館。歩行距離は約六キロ。

 

 

 保知煙管、玉受山、桟敷窓など、興味深い歴史と文化が鏤められた日野町の散策イベントが十三日、商人の町並みを色濃く残す清水町一帯で開かれる。
 同町は、湖東百二十八郷を治めた日野城主・蒲生氏郷の城下町として栄え、いまも町の至る所に当時の面影が色濃く残る。