城郭探訪

yamaziro

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

妙見山城 近江国(大津)

2019年04月04日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

お城のデータ

所在地 :大津市大石東一丁目 マップhttp://yahoo.jp/J_fvpp

現 状:山林・山頂

形 式 : 山城

築城期:室町期

築城者:大石久衛門義信

標 高:202m 比高差:浄土寺より102m

遺  構 : 曲輪、土塁、空掘、堀切、箱掘、竪堀

目標地:浄土寺

駐車場:浄土寺参拝者用駐車場

訪城日 : 2013.11.19・2019.4.4

お城の概要

妙見山城は、大石良郷が鹿跳山に構えたとされる山城と考えられている。同城は、大石東館と同じ山塊(妙見山)の山頂部に築かれており、大石東館の詰城と見なされているが、詳細についは不明である。

浄土寺裏手の墓地から石段で北東上方の大石東館跡へ、館跡からは南東へ5分程で、山頂の妙見山城に着く。


まず最初に目に入るのは主郭の虎口で南東隅に開き、両脇には土塁が築かれ、右手前には空堀を穿ち、左手前に土塁を置き城道に折れを作り防御を固めており、城内土塁上からの威圧も強力である。主郭は40m×20m程でよく削平され、北東端に土壇があり櫓台と思われる。主郭の北東尾根と西尾根に腰郭を配し連郭式構造とし、北東端は堀切で尾根を断ち切り、西端は横堀を設けて切岸高を大きくしている。また、主郭中央付近の両斜面に竪堀を入れ横移動を押さえている。城道はやはり館のある南尾根に続いていたものと思われる。

まず最初に目に入るのは主郭の虎口で南東隅に開き、両脇には土塁が築かれ、右手前には空堀を穿ち、左手前に土塁を置き城道に折れを作り防御を固めており、城内土塁上からの威圧も強力である。主郭は40m×20m程でよく削平され、北東端に土壇があり櫓台と思われる。主郭の北東尾根と西尾根に腰郭を配し連郭式構造とし、北東端は堀切で尾根を断ち切り、西端は横堀を設けて切岸高を大きくしている。また、主郭中央付近の両斜面に竪堀を入れ横移動を押さえている。城道はやはり館のある南尾根に続いていたものと思われる。

 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318535944975644

大津市、瀬田川流域の複雑さの縄張りの城跡

◆妙見山城(大津市大石東町)無名だが、優等生の城

妙見山城は浄土寺背後の妙見山(標高202m)に築かれ、浄土寺の北東にある大石東館の詰め城と大石氏は、藤原鎌足を先祖に持ち、山城国田原郷と大石庄を領有した藤原秀郷(俵籐太)の流れを汲む豪氏で応仁の乱で一統・一族は断絶。遠縁の小山久朝が大石家を復興した。この館大石久衛門義信は近江八幡城の豊臣秀次に仕え、嫡男良照は本貫地を守り、二男内蔵助良勝は浅野家に仕え・・・忠臣蔵の大石内蔵助に繋がる家系と推定される。

妙見山城跡俯瞰図・鳥瞰図(長谷川氏:平成2年=1990年作図)

妙見山城横矢配図

 精密機械のように緻密な構造は中世城跡の奥義が隠されている。(長谷川氏:平成2年=1990年作図)妙見山城跡は大津南部の山城としては中世城跡の微細を知り尽くした心憎いばかりの縄張技術が恐縮した、最高峰の玄人肌の山城。滋賀県下でベスト10に入る優れた名城。今回の図面は本邦初公開。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、

 本日の訪問ありがとうございす。


『城郭探訪』から『続け!城郭探訪』へ移行します。

2018年11月26日 | お知らせ

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1109939239168650画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外

『城郭探訪』から

『続け!城郭探訪』https://blog.goo.ne.jp/abcdefへ移行します。

引き続き、愛読頂ければ幸いです。

 


椿坂・柳ケ瀬関所   近江国(余呉 柳ケ瀬)

2018年08月20日 | 関所

陰では赤い布をつけたお地蔵さんや石仏が涼しそうに佇む。木の根の間に置かれた石仏の赤い布が少し色褪せてしまっているが、それはそれで赤一色の強さを柔げてくれているようで、また心地よいものだ。画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 

柳ケ瀬関所

1620年頃 近江国の最北端の「中河内関所」を廃止、北国街道のと刀根越えの分かれ目に彦根藩が柳ケ「柳ケ瀬関所」を設置。明治2年の廃止まで続いた。 

所在地:滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬  map:https://yahoo.jp/aTceui

開設期:江戸期 (1620)

開設者:彦根藩

訪問日:2018.7.22

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外道標

右   ゑちぜん
    かがのと  道
左   つるが
    三国ふ祢のりは
          明治十六年癸未一日建之

と刻まれた道標が立っている。

ここは間宿 

北国街道の北の端に位置する柳ヶ瀬は木之本宿の次にある間宿(間村)で加賀屋、越前屋などの屋号を持つ旅籠が並んでいたそうです。
間宿というのは正規の宿場間に設けられた旅人休息の宿を言います。
この道標もなかなか面白いでしょう!草書体で面いっぱいに刻まれています。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然明治十六年癸未一日建之

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、帽子、屋外、自然写真の説明はありません。

 柳ケ瀬集落の北端に倉坂峠へ向かう道が分岐しており、ここに明治16年に建立された道標が残っている。この道を行くと倉坂峠を経て敦賀へ至るという。倉坂峠の北側には柴田勝家が本陣とした玄蕃尾城跡があって、現在でも堀や土塁等が残っているということだ。

 

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 柳ケ瀬集落の中の左手に鈴木家がある。ここにも「明治天皇柳ケ瀬行在所」の碑が立っている。ここは本陣の役割をしており、街道に接している立派な長屋門は元関所役人柳ケ瀬家の住宅にあったものを、明治天皇の行在所に決定したときに移設したと伝えられているそうだ。画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、家、屋外、自然 

 

 

柳ヶ瀬の関所

北国街道(栃の木越え)と若狭街道(刀根越え)の分岐点にあたる柳ヶ瀬には江戸時代初期より関所がおかれていたそうで、彦根藩が管理していました。五十石取りの武士2人と番役8人が詰めており夜間の通行は一切許されていなかったようです。老中より出されたおきてが残っています。なかなか厳しいですね!!

関所の掟
●大名が通るときは、関所の長以下床より降りて謹んでお通り願うこと●効力のない証明(手形)の場合は長から直々に調べること

●番所で曲事(賭事などの悪い遊び)をしてはいけない
●通行者から物や金をもらってはならない
●道具(鉄砲、槍、火薬、弓、提灯)はときどきほこりを落として手入れすること
右の通り申しつけるから左様心得、万事心をつくして、少しも油断なく勤めるように
●鎖を暮六つにおろし、明六つに上げ、夜中通る者はよく調べ明けてから通すこと
●番所はいつも明かりを灯し、まぎらわしい者はよく見分けること
● 六人のうち二人ずつ番をし、少しもなまけてはいけない
●いつも番所を清潔にし油断してはならない 

           江戸老中

 ここは豪雪地帯

北国街道は、近江と北陸をつなぐ主要道路で、彦根市下矢倉町で中山道と分岐し、湖北地方を南北に縦断して越前へ向かっています。「今庄朝立ち、木之本泊まり、中河内で昼弁当」と歌われているように、木之本、中河内、今庄は、北国街道の宿場町として栄えていました。

柳ヶ瀬氏 不詳(古代豪族平群氏後裔)

 神亀元年(724)九月、近江国伊香郡乃弥山に住む大蛇を退治せよとの勅命が、大和国平群郡椿井荘の住人椿井右中将懐房に下された。八幡大菩薩の神劒一振りを賜り、二羽の白鷲に導かれ、乃弥山に来て大蛇を退治した懐房は、この地を開発して五筒荘村と名づけみずからの領地としたのである。 大蛇や神劒を埋めたといわれる蛇塚は今も椿坂の中央にあり、塚の上には椿の古木が一本植えられている。椿井懐房は興福寺官務宗徒でもあり、役職のこともあってその後、大和に帰っていった。
 椿井氏は「平群氏春日神社沿革記」によれば、大和国平群を支配した古代豪族平群氏の後裔という。天武天皇(大海人皇子)に仕えた平群直隅(余呉町誌では大蔵直広隅)は、壬申の乱が起ると出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願した。戦後、軍功により鈴鹿の関を拝領し、椿井を以て称号となしたと伝えられる。神護景雲2年(768)正月、大和官領職越前懐泰は河内枚岡より三笠山へ臨幸する春日大明神に供奉して、初代の興福寺官務宗徒になつた。十六代の右中将懐房は藤原房前の養子となり、藤原の平群と称するようになったという。しかし、この右中将懐房と大蛇を退治した右中将懐房との間には二百年以上の年代差があり、いずれも伝承の域を出ないものというしかない。

椿井氏の北近江への土着

 さて、長徳三年 (997) に至り、椿井氏四十四代という椿井少将懐職の二男常陸懐康が、旧領近江国伊香郡五箇荘村に移住してきた。かくして、懐康の子孫代々がここに永住することになったのであった。
 移住した懐康は村名を郷里大和椿井の名をとり椿井村と改めると、元祖正一位椿井大明神を勧請して椿井神社 (椿神社)、郷里の椿井寺の分院として椿井寺を建立した。 このことは、奈良興福寺の官務牒疏 (かんむちょうそ) 「近江国伊香郡の条」 にも次のように記されている

一.椿井村 椿井寺
   鎮守 椿井大明神
      並 三処神

 懐康以来、椿井氏は椿坂に住して椿井(椿坂) 一帯を領し、やがて北近江守護佐々木京極家に仕えた。応仁から文明 (1467~86) のころ、懐康より十四代目の椿井丹後守秀行は柳ヶ瀬山に城郭を築き、椿井(椿坂)、柳ヶ瀬を支配した。当時、京極氏は内紛により高清と政経も二派に分かれて激しい戦いが繰り返され、秀行は延徳元年(1489) 7月22日に行われた菅山寺付近の戦いで討ち死にした。しかし、秀行がどちら方に味方し どこで戦死したかはあきらかではない。
 秀行には後継者がなかったため、椿井氏は一旦断絶してしまった。その後、山城国相楽郡上狛庄に住む椿井本家の播磨守澄政の二男椿井縫殿助行政が柳ヶ瀬に来て椿井氏を再興した。行政のあと、権太夫政寔(まさこれ) 、弥兵衛政■(まさとう) 、弥兵衛政美と続き、政寔の頃から本家弥兵衛、分家三太夫に分かれた。以後、両家共、弥兵衛、三太夫を襲名し、江戸時代においては彦根藩の藩士として三人扶持二十五石宛を与えられ、明治維新に至った。
 ところで、出家した柳ヶ瀬氏の女性妙誓院禅定尼が柳ヶ瀬家の菩提寺として建立した栄昌庵の過去帳には、秀行以後は全て椿井でなく柳ヶ瀬に姓が改められている。このことから、椿井氏が柳ヶ瀬を名乗るようになったのは、秀行の時からであったようだ。また、江戸時代後期の文化三年(1806) 、山城の椿井権之助政隆から柳ヶ瀬三太夫にきた書面に「同苗柳瀬三太夫殿」と記されていることから、柳ヶ瀬氏になった後も椿井氏と同族としての往来が続いていたことが知られる。

 柳ヶ瀬氏の終焉

 柳ヶ瀬の地は北国街道の宿場町として近世には関所が置かれ、柳ヶ瀬氏が関所の関守を世襲した。しかし、明治維新を迎えると関守職は廃され、柳ヶ瀬氏は柳ヶ瀬を離れ他に移住していった。ここに平安期に端を発し、椿井氏、柳ヶ瀬氏と名を変えながらも、代々、柳ヶ瀬に続いた柳ヶ瀬氏の歴史は幕を閉じたのである。
 かつての柳瀬三太夫家の門が今も柳ヶ瀬の鈴木家の門として残っており、往時の柳ヶ瀬氏の権威の一端をいまに伝えている。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1325661234263115

参考資料:武家家伝、他

本日の訪問ありがとうございす。


栃ノ木峠・淀川の源

2018年07月23日 | 文化財

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然写真の説明はありません。

概要

標高は538mであり、険しい山道を抜ける峠である。また福井県における嶺南嶺北を隔てる三つの峠の最南端に位置する。「酌子峠」(しゃくしとうげ)、「虎杖崩」(いたどりくずれ)といった別名があり、それぞれの名の由来にも諸説ある。ただし栃ノ木峠という名の由来は峠付近にの大木があった為、という説が有力である。古代から北国街道の難所として知られており、安土桃山時代からは特に重要な要所とされた。またこの付近には若狭野坂山地越前両白山地湖東伊吹山地がそれぞれ聳えており、これらの山地の間をほぼ直線状に南北に伸びる柳ヶ瀬断層が形作る谷の最高点が栃ノ木峠になっている。南側から峠まではなだらかに登っているが、峠から北側は急傾斜のヘアピンカーブで下っている。ちなみにかなりの長さを持つ国道365号で、山岳系の難所としてはこの栃ノ木峠が随一であろう。

福井県側から滋賀県側を望む(2010年撮影)

道路状況

決して低くはない峠ではあるが、カーブミラーやガードロープも設置されており、1.5車線以上の道幅が常に確保されているので、山道に慣れたものなら走りやすい部類の峠に入る。ただし連続カーブや曲がり損ねたら崖から落下という箇所があったり、道幅の割りには大型車が嶺北方面(武生市福井市、加賀北陸方面)への抜け道としての利用も多く、初心者にはあまり勧められない道と言える。滋賀県側の峠の麓から福井県道・滋賀県道140号敦賀柳ヶ瀬線が分かれており、ここを経由することで国道8号の峠である新道野越に出ることが出来る。こちらの峠のほうが栃ノ木峠に比較し、はるかに安全に走ることが出来る峠なので、運転に自信のない人はこちらを使ったほうが良い。福井県敦賀市内に国道476号が走っており、南越前町で国道365号と重複するので利用しやすい道である。

淀川の源

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然

「淀川の源」の碑

淀川水系の最北端に位置する滋賀県長浜市余呉町。
福井県との県境にほど近いこの町の栃ノ木峠に「淀川の源」の碑が建っています。
この碑の建つ場所は、高時川の最上流部に位置し、この地で生まれたせせらぎは、高時川を経て姉川となり琵琶湖に流れ込みます。 また、琵琶湖では滋賀の山間部に発する大小支川と一緒になり勢田川から流れ出て宇治川となり、木津川、桂川を合わせて大阪平野を流れ、神崎川、大川を分派して淀川として大阪湾に注ぎます。
淀川の河口から最も遠い所(最北端)にある、高時川最上流のこの碑は、淀川水系の源に位置します。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

碑の位置

  • 滋賀県長浜市余呉町中河内栃ノ木峠
    (北陸自動車道木之元ICより国道365線を福井方面へ25㎞、県境付近の進行方向右側)
  • 北緯 35度41分41秒
  • 東経 136度9分43秒
  • 標高 約540m
  • 淀川河口からの距離 約170km

参考資料:わたしたちの長浜、Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす。


板取関所 (越前・今庄)

2018年07月22日 | 関所

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/grid?lst=100004577532882%3A100004577532882%3A1552796466

国道365で今庄に向かう途中に、「板取の宿」の標示。左手に駐車場があり、公共トイレも備わっています。
車を下りると、駐車場の入口に立派な案内板があり、「板取宿の由来」が記してあります。それによると、
 板取宿は、北国街道(東近江路)の玄関口。宏壮な門構えの板取番所がありました。間口三間(約5.4m)、奥行三間半(約6.4m)の平屋建ての棟。中には、刀・弓矢・火縄銃・具足が備えてあり、役人3人、足軽1人が常駐。宿場は、幕末において戸数53戸。うち3軒の問屋、7軒の旅籠、3軒の茶屋。その他は、継立(つぎたて)に従事する家々だったようです。
 石畳の両側に見えてくるのは、茅葺きの独特な屋根を持った古い民家。「甲造(かぶとつく)り型」と呼ばれるらしい。確かに正面から見ると、頭に被(かぶ)る兜(かぶと)のよう。今まで見たことがない珍しい形。玄関口に近寄ってみると、玄関の戸口脇に、「福井県認定証 ふくいの伝統的民家」という標示がなされていました。

 家並みを抜けると櫓(やぐら)みたいな施設があり、その手前が番所の跡でした。この櫓は、往時、この番所に併設されていたのでしょうか。としたら、見張り台のような役割を果たしていたのだろうか、と思いつつ、その櫓の上に登ってみました。

 そこからもと来た道を引き帰しました。かつては53戸あったという宿場跡も、現在は10戸ほどしかなく、旅籠や問屋などがあったところは広場になっていたり畑地になったりしています。宿場としての長い歴史に裏づけられた雰囲気に満ちていました。

 

江戸時代に関所を設けた
 江戸時代には家康の子、結城秀康が入国以来関所を設けて旅人を取り締まった。

後に板取番所として、藩士が駐在した。
 番所の構造は、宏荘な門構えの内に、間口三間、奥行三間半の平屋建ての棟を設け、刀、弓矢、火縄銃、具足を備え、役人三人、足軽一人が常駐し、厳重な警備に当っていた。
 板取には幕末の頃、戸数五十三戸のうち三軒の問屋をはじめ、七軒の旅籠、三軒の茶屋のほか継立従事の家が建ち並んで賑わっていたという。

本日の訪問ありがとうございす。


玄蕃尾城(内中尾山城)  近江国(余呉) 

2018年06月24日 | 陣城

写真の説明はありません。 

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町柳ケ瀬小字北尾624
別 名 :内中尾城

築城期:室町期

築城者:豪族 柳ヶ瀬秀行
改城期:織豊期 賤ヶ岳戦い天正11年(1583)
改城者:柴田勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政

現 状:山林(柳ケ瀬山頂)
区 分:陣城
遺 構:土塁、堀、土橋、馬出虎口、八曲郭、竪堀、空堀、櫓台
城 域:
標 高:459m     比 高:220m 

目標地:玄蕃尾城下の駐車場・刀根坂峠

 国道365号(北国街道)線を柳ケ瀬から敦賀方へ走り、トンネルを抜けたところをスグに右折して林道を約2km。

駐車場:刀根地区の林道に7~8台駐車可

訪城日:2018.6.24

お城の概要

築城時期

以下のように諸説ある。朝倉氏の山城を勝家軍が整備、または賤ヶ岳の戦いの時期に初めて築城という、主に2つの見方がある。

15世紀の豪族 柳ヶ瀬秀行が築城。

朝倉氏の家臣の 疋壇対馬守久保が築城。

朝倉氏の家臣の 朝倉玄蕃助景連が築城。

天正6年頃 柴田勝家が北国街道を整備した際に、越前衆を使い築城。

天正10~11年頃 羽柴秀吉との戦いに備え、勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城。

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306100612885844

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306103882885517

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306105589552013

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306106992885206

 国指定史跡「玄蕃尾城(内中尾山城)」

 柳ケ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台の刀根越(倉坂、久々坂ともいう)がすぐ南にある、また北國街道(現在の国道365号)を見下ろせる軍事上の要所に位置している。

 玄蕃尾城(げんばおじょう)跡は賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家の本陣となった城です。 賤ヶ岳合戦といえば七本槍(しちほんやり)が著名ですが、実は合戦史上最大の築城戦(※)であったことはあまり知られていません。

  織田信長亡き後に羽柴秀吉と柴田勝家は後継者争いをはじめます。

 天正11年(1583)2月には柴田軍の先鋒として前田利家、利長父子が江北に出陣します。柴田軍の布陣に対して羽柴軍も東野山~堂木山間を最前線として布陣します。この両軍の布陣にともない築かれたのが「陣城」と呼ばれる臨時築城の城です。以後4月28日の合戦までの約2ヶ月にわたり両軍はこの陣城に籠って睨みあいます。

  こうした陣城が余呉、木之本に約20ヶ所も構えられました。ところで長浜城歴史博物館や大阪城天守閣に所蔵される「賤ヶ岳合戦図屏風」には秀吉軍の本陣となった田上山砦や、東野山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦などが城郭として描かれており、江戸時代の人々は賤ヶ岳合戦で城が構えられていたことはよく知られていたようです。玄蕃尾城出枡形土塁

 この陣城群中、最も大規模で発達した城郭構造を示すのが玄蕃尾城です(図)。土塁(どるい)を巡らせた方形の主郭(写真上)には天守台に相当する櫓台(ろだい)が北東隅に構えられています。そこには礎石が認められることより実際に櫓(やぐら)が建てられていたことはまちがいありません。この主郭の南、東、北の3方向には虎口(こぐち)と呼ばれる城門が構えられており、特に南と北の虎口の前面には直進を妨げる出桝形(でますがた)と呼ばれる方形の小曲輪(こくるわ)が突出して配置されています(写真下)。また主郭や出桝形の周囲には深くて幅の広い横堀が巡らされています。

 こうした構造は16世紀後半の発達した城郭構造を示す貴重な陣城遺構として平成11年に国史跡に指定されました。次回はこの陣城を築いた賤ヶ岳合戦の経過を紹介しましょう。(滋賀県立大学准教授 中井均)

※築城戦=城を築いて向かい合いながら戦うこと

参考資料:Wikipedia、現地見学会レジュメ、現地説明板・・・

本日の訪問ありがとうございす。


虎御前山城   近江国(高月)

2018年06月19日 | 陣城

 写真の説明はありません。

お城のデータ
所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町別所~虎姫町中野 map:http://yahoo.jp/jbSb8l
目標地:虎御前山公園
区 分:山城  
現 状:山林
遺 構:郭・土塁・堀・堀切・碑・説明板
築城期:織豊期 

築城者:織田氏

標 高:230m 比高差:150m 
駐車場:中腹キャンプ施設駐車場

訪城日:2018.6.17

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、草、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然

お城の概要 

虎姫町の北端にある標高約230mの山。古くは長尾(ながお)山と呼ばれていました。全山に樹林が茂り、周囲は急傾斜で自然の要砦(ようさい)を形作っています。
 戦国時代、織田信長が小谷城の浅井長政を攻めた折、最前線として虎御前城を築き、柴田勝家の陣が置かれました。信長は、3回にわたって砦を築かせていますが、砦は小谷城落城の後、すぐに壊されています。
 昔、井筒という泉のほとりに住んでいた娘が、旅の途中に知り合った、世々聞(せせらぎ)という名の若者と愛し合うようになり結婚しました。ところが、顔は人間だが体は蛇という子を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末に、淵に身を投げて死んでしまったといいます。娘の名を虎姫(とらひめ)といい、この山が虎御前山あるいは虎姫山と呼ばれるようになった由来と伝えられています。頂上からは、東に伊吹山、西に琵琶胡が一望できます。

 虎御前山は、長浜市中野町と長浜市湖北町河毛、湖北町別所にまたがる標高約230mの山である。戦国時代、織田信長が浅井氏の居城である小谷城を攻略するため築いた付城(陣城)として知られる。

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で信長軍に破れた浅井長政は、小谷城に籠城する。 信長は、横山城(長浜市石田町・堀部町、米原市朝日)に前線基地を置き、浅井氏攻略を図るが、元亀3年(1572)7月以降は小谷城包囲のため、小谷山の眼前にある虎御前山に砦を構え持久戦に備えた。 虎御前山では大規模な築城工事が行われ、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が城番(定番)に任命されている。
虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵で、小谷城からわずか500m余りの距離に位置することから、前線基地を築くのに適していた。また、山の尾根上には古墳が点在しており、信長はこれらを巧みに生かしながら砦を構築、山全体に家臣を配置させたと考えられる。 現在の虎御前山には、麓から北へ伝多賀貞能、伝蜂屋頼隆、伝丹羽長秀、伝滝川一益、伝堀秀政、伝織田信長、伝木下秀吉、伝佐久間信盛、伝柴田勝家)の陣地跡が残る。
特に「伝堀秀政」・「伝織田信長」・「伝羽柴秀吉」は土塁や堀などの遺構が良好に残っている。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 お城の歴史

 信長公記 巻五 元亀三年 3、戦野  奇妙様御具足初に虎後

  7月19日、信長公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵した。初日は赤坂に宿陣して翌日横山に至り、21日浅井氏居城小谷まで押し寄せてひばり山・虎御前山へ軍勢を上げた。そして佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆に命じて町口を破らせ、一支えも許さず敵を城の水場まで追い上げ、数十人を討ち取った。あとには柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが先手として陣を敷いた。

 次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊(現滋賀県木之本町の浄信寺)をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
 また翌24日には草野の谷(現浅井町草野川渓谷)へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。

 この間琵琶湖上には打下(現高島町打下)の土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦・塩津浦・与呉の入海に出没して敵岸を焼き払っていた。また竹生島にも船を寄せ、火矢と大筒・鉄砲をもって攻めたてた。

 これら一連の行動により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起こして蜂起していた輩は、風に木の葉の散るごとくに一掃された。そして一揆勢が散り、また猛勢の織田勢が自領の田畑を薙いでゆくのをみすみす見逃してしまった浅井氏の勢力は、次第に手薄なものとなっていった。

 27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築かれはじめた。すると焦慮した浅井氏は、越前朝倉氏へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促した。

 朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付いた。一気に消沈した朝倉勢は、大嶽(原文では「大づく」)の高地へのぼって滞陣してしまった。
 このさまを目にした信長公は、足軽を使って朝倉勢を小当てに攻めさせることを命じた。すると陣中の若武者たちはそれを聞いて勇躍し、旗指物を外して山に分け入り、日ごとに二つ三つと首を取ってきた。信長公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分な褒賞を与えてやったため、彼らはますます発奮して首取りに励んだ。

 そのようにして対陣が続いていたところ、8月8日になって越前勢から前波九郎兵衛吉継父子が内通してきた。信長公はこれを聞いて大いに喜び、父子へ小袖・馬および馬具一式を与えた。翌日にはさらに富田弥六長繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々信長公より褒賞が下された。

 虎御前山の要害はほどなくして無事完成した。城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであった。ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた。
 この要害の座敷から北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上にあって苦慮しているさまが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができた。その比叡山はかつては尊い霊場であったが、先年山門の宗徒が逆心を企て、その自業自得により山上山下ともが灰燼に帰した。信長公が積年の憤りを散じ、存分のままに罰を下した場所であった。
 また南には志賀・唐崎・石山寺の社寺が見えた。この石山寺の本尊は遠く唐にまでその霊験を知られた観世音菩薩であり、その昔紫式部もこの寺に参詣して所願をかなえ、その礼として源氏物語の巻を納めたと伝えられる仏である。このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破の関も見え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものであった。

 この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(現虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

 写真の説明はありません。これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。9月16日、信長公は虎御前山の砦に羽柴秀吉(秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称される)を残し、嫡男奇妙殿とともに横山へ馬を納めた。

 

 すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306859542809951

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306860752809830

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306862126143026

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306864692809436

参考資料:信長公記、城歩会レジュメ、

 本日の訪問ありがとうございす。


東野山砦と堀秀政の生涯『講座と現地見学』 近江国(余呉)

2018年05月25日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:1人画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。

信長の側近

天文22年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄の奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。

最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼福富秀勝・大津長昌・矢部家定長谷川秀一万見重元らがいる。

秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。

また、叔父である蓮照寺住職に育てられた関係で、本願寺との交渉にあたり、石山本願寺との和睦と紀州鷺森への退城を促し、交渉に奮闘していたことも想像される。後に秀政は、本願寺顕如から釋道哲の法名をいただいている。(蓮照寺文書)

天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。この功績ならびに荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績により、この年、織田信長から長浜城主2万5,000石を与えられた。

天正10年(1582年)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。

織田信長の弔い合戦でもあった山崎の合戦で、明智軍と戦い勝利を得た。それによって秀吉から羽柴姓を与えられた。天正11年の戦いでも武功をあげ、近江佐和山城を拝領し、9万国の城主となる。天正13年(1585年)には、越前北ノ庄城の城主となり、18万石の大名へとのしあがった。それほど秀吉の信任を得ていたことがうかがえる。

写真の説明はありません。写真の説明はありません。

東野山砦見学会

 お城のデータ

所在地:伊香郡余呉町東野  map:http://yahoo.jp/2sIxM6

別 名:実山砦,左禰山砦

築城者:東野備前守一族 

改築者:堀久太郎秀政

初城主:東野備前守一族

陣 将:堀久太郎秀政

区 分:陣城・砦

遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀

城  域:250m×150m

標 高:407m    比高差260m

市指定史跡

訪城日:2018.5.24

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外

お城の概要

 

東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。

 

 この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。

 

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。

 東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!

 東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。

 中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
 また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山、別所山を真正面に望むことができる。

 滋賀県中世城郭分布調査資料によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。

 

 南側には竪堀が麓まで続いているのだが・・・・。

 余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。

 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1123384887824085

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1123382487824325

 

参考資料:Wikipedia、講演会資料、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす。


井口(いのぐち)城(弾正屋敷)  近江国(長浜市高月町井口)

2018年05月22日 | 居城

 

お城のデータ
所在地: 滋賀県長浜市高月町井口168 map:https://yahoo.jp/8kOIx9
別 称:弾正屋敷 
現 状: (学校・宅地)富永小学校
築城年:室町期 
築城者: 井口氏
区 分: 平城 (居城)

遺 構:石碑。現地説明板

目標地: 富永小学校

駐車場: 富永小学校来客用駐車場

訪城日: 2018.5.20 

お城の概要

井口城は 井口集落は高時川の水路が集落内を巡る。「高時川上流には井口氏が管理していた井関が今も残り、取水された用水が村々の水路をとうとうと流れ、中世以来の水利遺産」。

 高時川の中流、長浜市高月町井口が阿古(浅井長政の母)の故郷。阿古の父である井口弾正経元(つねもと)は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。理覚院庭園は江戸初期の庭園で小堀遠州作とも言われているようです。

経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです」。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、

「伊香郡 井ノ口 住 佐々木隋兵 井ノ口宮内少輔 同 井ノ口仙蔵 同 黒田末 小寺重蔵 同 寺田半之助」名を記す。

井口氏は、近江佐々木氏の一族とも、崇峻天皇の後裔と云う近江中原氏の一族とも伝えられ、中世以来、高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握し、「湖北四家(磯野氏、赤尾氏、雨森氏、井口氏)」に数えられた。

 織豊期に浅井亮政からの姻戚関係を受け入れ、浅井氏の重臣に列するようになった。享禄4年(1531)の六角定頼との「箕浦の戦い」で、井口弾正経元は主君の浅井亮政の身代わりとなって討死し、亮政はこれに報いるため、経元の嫡男・経親を重用するとともに、経元の娘阿古を亮政の子・久政の室に迎え、阿古御料は長政を産んだ。    その長政は、織田信長の妹・お市を室とし、お茶々(後の淀殿)、お初、お江の三姉妹をもうけ、末娘のお江は二代将軍徳川秀忠の正室となり、その子の家光は三代将軍に、和子は天皇家へと嫁している。
阿古御料は、小谷城落城後に信長に捕らえられ、十指を毎日1本ずつ切断され殺されたという悲惨な記録が残る。

井口氏によって築かれたと云われる。高時川の「井預り」として水利権を掌握し、湖北四家の一つに数えられた。

浅井長政の母は「阿古(あこ)」という。江ら三姉妹の祖母である。高時川の中流井口が阿古の故郷だ。阿古の父である井口弾正経元は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。
 「経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです。井口氏は代々、湖北を流れる高時川の水利権を統括する「井関預かり」であったことから、浅井家は自領への水利権を優位にするため、久政と阿古の婚姻を進めたとも考えられている。
 小谷城が落城する際、阿古は捕らえられ、信長の怒りによって指を数日に分けて切り落とされた後、殺害されたという記録が『嶋記録』という文書にある。信長にしてみれば、長政の母ということでの憎しみが相当あったのでしょう。久政は戦争を好まず、六角氏との争いを避けていたため無能と思われがちだが水利件を得ることで、領地に富をもたらした。
 井口弾正邸の石碑

井口弾正のお墓

井口弾正の菩提寺「理覚院 地蔵堂」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす。


雨森(あめのもり)城  近江国(高月町雨森)

2018年05月22日 | 居城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城のデータ

所在地:長浜市高月町雨森 map:https://yahoo.jp/OMz0-B
区 分:平城  

現 状:宅地(雨森芳洲庵・雨森神社)
遺 構:郭・土塁・堀
築城期:室町期

築城者:雨森氏

城 主:雨森弥兵衛清貞
目標地:雨森芳洲庵
駐車場:雨森芳洲庵横に路上駐車
訪城日:2018.5.20

お城の概要

雨森氏によって築かれたと云われる。 湖北四家の一つに数えられた。

 雨森集落は高時川の西側在り雨森治兵衛尉清秀の居館。雨森集落の東にある雨森芳洲庵(東アジア交流センター)が城館跡、土塁が巡り、東側の土塁は高さもあり、雨森集落、井口集落は水路が集落内を巡り、高時川の水引かれいます。

 雨森芳洲庵がある。雨森芳州はこの地の生まれ。対馬藩の朝鮮方佐役という一種の外交官を務め、朝鮮通信使に通訳として江戸へ随行した。門をくぐると見える美しい庭は誰でも無料で拝観することができる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外

お城の歴史

 北近江雨森氏

  藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。磯野氏、赤尾氏、井口氏とあわせて湖北の四家として知られ、室町期初頭には足利義満の命で後小松天皇の武者所となる。京極氏が守護職として赴任すると、これに仕えるようになる。

 その後、室町期後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。浅井家にあって、雨森清貞は海北綱親、赤尾清綱とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。浅井氏滅亡後は各地に離散している。

 良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。

雨森 弥兵衛尉

雨森氏は伊香郡雨森を本拠とした国人領主で、磯野氏、赤尾氏、井口氏とともに湖北の四家と称される。

 弥兵衛尉は亮政・久政に仕えて奏者をつとめる側近の一人だった。また、赤尾氏・海北氏と並んで「海赤雨の三将」とよばれる勇将で、浅井氏の一方の旗頭であった。京極高広と浅井久政が戦ったとき、海北善右衛門と雨森弥兵衛が戦死したことが「島記録」に記されている。長政の代になると雨森次右衛門、藤六の兄弟が活躍、元亀元年の姉川の合戦において奮戦したことが記録に残っている。

  戦国時代には雨森弥兵衛清貞がおり、海北綱親・赤尾清綱とあわせて「海赤雨の三士」と賞された。雨森氏は浅井氏が滅亡すると阿閉氏に従っていたが、阿閉氏も明智光秀に荷担して山崎合戦で滅亡し、雨森清次は渡岸寺村に蟄居した。

  雨森清貞は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏の家臣。通称である弥兵衛の名で知られる。近江国伊香郡雨森城主。

 浅井久政の代から浅井氏に仕え、奏者として国政に参与し、各地の合戦で活躍していたようだが、清貞に関する資料が少なく詳しい事績はよくわかっていない。また、この清貞の名も確定的なものではなく、本当に「清貞」と名乗っていたかは不明である。

 雨森氏の事績に関しては、元亀元年(1570)の姉川の戦いにおいて、雨森一族の雨森清良がこの戦いで討死すると、生き残った弟・清次が家督を継承した。天正元年(1573)の小谷城の戦いで主家・浅井氏が滅亡すると、織田信長に降った阿閉貞征に属したが、天正10年(1582)の山崎の戦いで阿閉氏が滅びると清次は渡岸寺村[1]に蟄居した。清次の子・清広はその後松江藩に仕えた。雨森氏の末裔に江戸時代の儒学者雨森芳洲がいる。

雨森芳洲家(対馬藩)
 朱子学者、木角十哲の一人、雨森芳洲が出た家。朱子学者であった芳州は朝鮮ひいきであったため、望んで朝鮮半島の窓口である対馬藩の側用人となる。芳洲は、寛文八年(1668)生れで、一族の子孫であり、この雨森で生まれたとされますが、父は京都で医者をしていたこともあり、京都で生まれたという可能性もあるようです。
写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然


https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1330616473767591
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、

本日の訪問ありがとうございす。 


馬上(まけ)城 近江国(高月町馬下)

2018年05月22日 | 居城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:長浜市高月馬上 map:https://yahoo.jp/zWND5D

現 状:集落・宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:伊吹氏

遺 構:?

目標地:走落神社

駐車場:走落神社前路上駐車場

訪城日:2018.5.20

お城の概要

国道365号線の山田川の阿弥陀橋を渡り、ここはすぐ国道から離れて右手の道をとる。この先は水路が流れる風情ある馬上(まけ)の集落が続く。右手の奥に走落神社がある。式内社で由緒があるが、旧堂は山の上にあり、明治の台風で崩壊、改築で現地に移転してきた。
 神社を過ぎた先の三叉路の所に指先付の「左北国きのもと道」の道標が立っている。道標に従いここを左折して国道と合流する。  

お城の歴史

走落神社の由緒

Hashiriochi shrine.jpg

北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える

Wikipediaには、、走落神社 (長浜市高月町馬上)

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに向かう豊臣秀吉は、当神社の鳥居の前で下馬し、必勝を祈願したと伝わっている。

高月町馬上の歴史

戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。

 『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 馬上 住 伊吹源十郎」の名を記す。高月町馬上集落には、伊吹氏館が存在した。

『ウィキペディア』には、「戦国時代に近江南部を治めた織田信長の軍団が、越前朝倉を攻める際、馬上の村に宿営したと伝えられている。」織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です

これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。

信長公記 巻六 元亀四年

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  

①現滋賀県木之本町内

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、家、屋外

天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 江戸期には、近江彦根藩の武士に、140石取りの都筑弥次右衛門家という武士の家がある彦根藩は平士以上は知行50石以上(江戸時代初期は35石)であり、馬上が許されました。直参の知行取の人数は時代によって異なりますが、明治元年の「侍中由緒帳」(彦根藩井伊家文書)による

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia(高月町馬上)、走落神社の社伝、『江州佐々木南北諸氏帳』

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1325748777587694

本日の訪問ありがとうございす。


箕作城(箕作山城・清水山城)近江国(五箇荘)

2018年05月19日 | 山城

 

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡の)五個荘山本町  map:http://yahoo.jp/8eDKEd 

別 称:清水山城

区 分:山城

現 況:山林  

築城期:鎌倉期

築城者:六角政尭

遺 構:石垣・土塁・城跡碑・案内板:

標 高:325m 比高差:200m

目標地:貴船神社

駐車場:山本自治会館か・路上駐車

訪城日:2016.11.5

お城の概要

箕作城は、観音寺城と中山道を挟んだ南側に2つある山のうち、北側の峰上にあります。こちらの山を通常清水山と呼び、南箕作山と地元住民は呼び。すなわち、箕作(山)城は箕作山の上の箕作城には数千人を収容できるほどの規模はないため、南の箕作山には小脇山城がある。

城跡へは、北麓の貴船神社脇が大手であろう。南東麓の建部神社脇からは、近年地元住民が登城路を整備、西の主郭から、北西麓の清水鼻へ搦め手道か?

 今回は貴船神社参道脇から登下山した。尾根筋に出てすぐに、箕作城址石碑(大正期)が建つ。縄張り図によっては、ここも城内に含まれているのですが、石碑や鉄塔の建設によって地形が改変されいる。また比高差200mの急斜の尾根上で土塁は低土塁で

 主城域は、大きく分けて東西2つの曲輪からなっる。東側の曲輪が清水山山頂(城石碑建つ)にあたり、西の主郭には、石垣がわずか残る。両曲輪とも、城外側に虎口跡と石垣の痕跡が見受けられます。また、両曲輪とも樹木が伐採されていて、眺望絶景となって中山道のいます。、鉄塔建て替え工事に伴うものだ。新調された鉄塔の脇には、土塁跡

箕作城は、石垣や虎口を備えてはいるものの、両曲廓の尾根道脇は、5mの規模で、とても3千人が籠城。城内だけでなく清水山全体に陣取っていた。。

お城の歴史 

 応仁の乱の後、六角高頼に対抗するため、幕府が送り込んだ佐々木政尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作城の前身とも云われる。 

永禄11年(1568年)織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、六角氏は箕作山城に建部源八郎と吉田出雲を入れて守りを固めた。しかし、佐久間盛信や木下藤吉郎などが攻めかかって城は落城、六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れたと云われる。

箕作城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館。

本丸の石垣がわずかに残る。

  • 応仁の乱で六角高頼の観音寺城に対抗して佐々木政尭(まさたか)が築城。

  • 天文19年(1550)頃、佐々木六角高頼が改修。
  • 永禄11年(1568)、織田信長の攻撃で落城し以後は廃城となった(観音寺城の戦い=箕作城の戦い}。

観音寺城の支城です。六角定頼が天文十九年(1550年)に改築城しましたが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました

 

信長公記 巻一

4、上洛  信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事

 永禄11(1568)年9月7日、信長公は義昭殿の元へ参上し、出陣の挨拶を述べた。

「江州をひと呑みに討ち果たし、お迎え申し上げる」
そうして信長公は濃尾勢三(信長所領の兵に家康の援軍も加え、総勢四万~六万と伝えられる。)四州の軍兵を率い、同日岐阜を出立した。

 軍勢は平尾村(現岐阜県垂井)で夜を明かして翌8日江州高宮(現滋賀県彦根市)まで進み、この地に二日間滞在して人馬の息を休めた。11日になって休息を終えた軍勢は愛知川近辺まで進軍して野陣を張った。ここから馬を駆けまわして付近の敵状を探索した信長公は、沿道に散在する敵城には目をくれずに進軍し、六角承禎親子が立てこもる観音寺城(現・安土町)に近接する箕作城(現五箇荘)へ向かった。翌12日、信長公の命を受けた佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作城の攻撃が開始された。攻撃は申刻(午後3時過ぎ)より始まり、夜半に城は落ちた。

 信長公の所領となってまもない美濃の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信長公は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかりであったという。

 落城後、信長公は箕作山に陣を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める勢いを示した。ところが箕作の陥落をみた承禎親子は抵抗は不可能とみて城を捨てて逃亡してしまった。翌日織田勢はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付近の六角残党が軒並みに降伏してきたため、信長公は人質を差し出させた上で彼らの所領を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟約通り江南を平定した信長公は、14日不破光治を迎えの使者に立てて美濃立正寺へ向かわせた。・・・云々

箕作(みつくり)城の戦い

  箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。

  これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。

 1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。

 この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。

  最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀(氏郷の父)も、神戸友盛の説得によって降伏した。

 観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

 しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

 9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

 戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

 木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・『ウィキペディア(Wikipedia)』・『信長公記』

本日の訪問ありがとうございす。


遠藤嘉右衛門(直経)の墓

2018年05月16日 | 武将

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然

遠藤塚の位置 map:https://yahoo.jp/Oja3cw

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 須川 住浅井隋兵 遠藤主膳 遠藤喜右衛門(直経)」と記す。

遠藤直経(えんどう-なおつね)は、近江の須川城主・遠藤主膳の子として1531年に生まれました。通称は遠藤喜右衛門。

藤家の先祖は近江に所領を得た鎌倉武士で、まだ浅井家が京極家の被官に過ぎなかった頃からの、浅井家における譜代の家臣でした。

要するに浅井家は京極家の家臣だったのですが、浅井亮政が主家の衰退に乗じて下剋上を成し遂げて、小谷城主として独立し、朝倉家の支援を得て戦国大名となります。
すると、遠藤家は小谷城下にある清水谷に屋敷を与えられた重臣となっていました。

他の写真 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1308429692652936

画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、屋外、自然

遠藤直経は浅井家随一の智将写真の説明はありません。

ウィキペディアは、直経は近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)の柏原庄の出身。代々須川山一帯をおさめ須川城を居とした。

赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏被官であった頃以来の譜代の家臣であった。遠藤直経が討ち死にしたと伝わる地に遠藤塚があったが、現在は取り壊され、移転された場所に直経の墓がある(滋賀県長浜市)

遠藤直経

遠藤 直経(えんどう なおつね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将浅井長政の家臣で、知勇兼備の謀将として知られる。通称は喜右衛門(きえもん)。は直経であるが、史料・講談等では遠藤喜右衛門の名で登場する。

 
 
遠藤直経
Endo Naotsune2.jpg
「太平記英勇傳・遠藤儀右衛門政忠(歌川国芳作)」
時代 戦国時代
生誕 享禄4年(1531年[1]
死没 元亀元年6月28日1570年8月9日
別名 通称:喜右衛門または喜右衛門尉
主君 浅井久政長政
氏族 遠藤氏
父母 父:遠藤主膳
孫作、喜三郎[2]仁兵衛

生涯

遠藤氏の先祖は、鎌倉武士の出身といわれ鎌倉時代に近江に所領を得て下向したとされている。直経は近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)の柏原庄の出身。代々須川山一帯をおさめ須川城を居とした。赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏被官であった頃以来の譜代の家臣であった。

小谷城下の清水谷に居館を持つことを許されており、直経自身は子に居城を任せ館に在番していた。直経は浅井長政の傅役的存在で長政が幼い頃から相談役を務めてきた。そのため長政からの信頼が厚く、長政が六角氏攻めを決意するに当たり真っ先に相談をしたのが直経と浅井玄蕃だった。


早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、永禄11年(1568年)、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた直経は、信長暗殺計画を長政に進言した。しかし、長政(または久政)は毒殺は信義に反するとしてそれを受け入れず、直経も主君の命に背くわけにはいかずに、結局暗殺計画は未遂に終わった。

朝倉氏と織田氏との関係が悪化すると朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張した。これには朝倉家当主の朝倉義景の優柔不断な対応に直経が愛想を尽かしていたことに加え、浅井側の重臣として信長と接するうちに信長の内政外交の手腕を高く評価するようになったという事情があった。結果的に長政の父・久政らの朝倉側につくべきとする意見を長政が採用したことから、またも直経の進言はいれられなかった。[要出典]

元亀元年(1570年)の姉川の戦いで、浅井軍総崩れとなって大敗が濃厚となった後、直経は味方武将三田村左衛門の首級を掲げて織田の武将に成りすまして敵陣に入り、信長の暗殺を謀った。しかし本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中重治の弟・竹中久作(重矩)またはその後見として参加していた不破矢足に見抜かれてしまい、捕らえられ斬首され、その首は竹中久作の手柄となった。竹中兄弟は以前美濃国斎藤家を離れた後、客分として浅井家中にあった時期があり、浅井家の重臣である直経の風貌を知っていたためといわれている。

odani84-s小谷城下の遠藤屋敷址(滋賀県長浜市)

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然遠藤直経が討ち死にしたと伝わる地に遠藤塚があったが、現在は取り壊され、移転された場所に直経の墓がある(滋賀県長浜市)

参考資料:現地説明板・ウィキペディア 

本日の訪問ありがとうございす。


総山城 近江国(長浜 垣籠/米原山東 村井田)

2018年05月15日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所在地:長浜市垣籠/米原市山東町村居田   map:https://yahoo.jp/iSGREu

現 状:山林・山頂(古道)

区 分:山城砦

築城期:織豊期

築城者:織田軍(氏家直元か)

遺 構:土塁・堀切・堀割・曲輪

標 高:229m 比高差:100m

城 域:100m✖250m

目標地:長浜垣籠 天満神社

駐車場:天満神社鳥居横駐車場

訪城日:2018.5.11

お城の概要

 長浜市垣篭町と山東町村井田の境界の臥竜の尾根に、横山城から見れば尾根伝いに北の地点、龍ヶ崎砦の中間に、横山連峰の北の端も最高所。

 総山城は標高229mに郭があり、尾根伝いに北に115mの間に6箇所の郭を段城に配し、南に130mの間にも1条の堀切と5箇所の郭を設けており、姉川の古戦場を見渡せる。

最南端は峠道が掘割(高約10m×幅約10m)。これは尾根道を遮断する為に、本来の峠道を”姉川の合戦”の時にさらに掘り下げたか?

 最高頂は曲輪跡、南端の掘割の北側ピークは「犬飼古墳」であり、本来の古墳地形に防禦を加えたか?。垣篭町一帯には多くの古墳が散在する。

お城の歴史

 姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井正澄、弓削家澄、今井氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。

朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚経らが戦死している。横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。

 城郭資料は不明で、姉川戦いで織田軍の陣城として急造されたか?。規模と築城技術から推測される。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外犬飼坂を登る。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然堀切として、掘下げられた峠道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然長陵への参道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然山城へのハイキング道を北へ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然南端の犬飼古墳の石碑

画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、屋外、自然古代文字刻印石碑

他の写真

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318668001629105

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318668561629049

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・現地古墳説明板・ウィキペディア

本日の訪問ありがとうございす。


木尾城 近江国(長浜市浅井町木尾)

2018年05月15日 | 丘陵城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所座地:長浜市木尾 map:https://yahoo.jp/CFa3Ss

通 称:城山

区 分:平山城

現 状:森林(自然林)

築城期:

築城者:

遺 構:曲輪・櫓台・坂虎口

標 高:127m  比高差:20m

目標地:あねがわ温泉(を500m北上北側急陵)

駐車場:南側の城址空地に駐車

訪城日:2018.5.11 

お城の概要

現状、平山で自然林で矢竹の密集で、藪漕ぎして頂部を目指したが、遺構の見学は断念した。

北側の麓に、滋賀県教育委員会の「文化財を大切にしよう」の石柱が二本立っている。

城山の周囲は、農地整備が進み「城山」だけ残るが、その城山に重機で破壊されされ初めている。

お城の歴史

城山(木尾城)について・・・『木尾のいまむかし』・・・(1995年4月 佐治寛一著『喜寿の春』)

『木尾のいまむかし』には、「慶長七年検地帳に地名として掲載され「じようやま」と称しその他古書に散見される。

城山は、壬申の乱の戦跡にして当時近江軍が拠守せし塁砦であり、西北東の三方に城の腰・白渕・古淵の地名が有る様に、川や沼に囲まれた一大要害であった。

麓より弥生時代の石棒が出土(県の博物館に保管されている)、又麓には横穴式の登り釜や八嶋持等跡ある。此の一帯は古くより開かれ重要な位置を占めてた。

アセビ林道に多くの古墳と城郭あるが、この城山を起点してるもようである。調査の結果、中央に大きな古墳が二基ある。

北側には、小谷城へ通じる主要道ある。おそらく中世の烽火(のろし)場であり、小谷城・横山城との烽火の中継点であった思われる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、草、屋外、自然

他の写真https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318666204962618

参考資料:滋賀県城郭分布調査、長谷川博美氏の資料、『木尾のいまむかし』、遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございます