城郭探訪

yamaziro

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

鏡山陣所

2020年04月11日 | 陣所

近江の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


近江の戦い 

戦争:建武の乱 
年月日:和暦:延元元年/建武3年9月中旬 - 29日
西暦:1336年10月下旬 – 11月3日 
場所:近江国(滋賀県) 
結果:足利氏は琵琶湖を擁する近江国を征服して建武政権への補給路を遮断、建武の乱の決着 

近江の戦い(おうみのたたかい)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、延元元年/建武3年9月中旬から29日(1336年10月下旬から11月3日)にかけて、近江国(現在の滋賀県)で、建武政権の新田義貞・脇屋義助らと、足利方の小笠原貞宗・佐々木導誉らとの間で行われた戦い。建武の乱の末尾を飾る戦いで、比叡山に本拠地を遷した建武政権は、この敗戦によって近江側からの補給路を断たれたことで、同年10月10日(西暦:11月13日)に足利方へ降伏した。 

9月中旬、足利方の小笠原貞宗が甲斐・信濃両国の一族・軍勢3,000余騎を連れて、東山道から近江国へ進み、瀬田(現在の滋賀県大津市瀬田)まで差し掛かったところ、比叡山の衆徒が瀬田の唐橋を撤回した後だったので、仕方なく野路に陣を張った(『梅松論』下)。そこに新田義貞・脇屋義助が瀬田川を渡って攻撃を仕掛け、大きな戦いとなったが、最後は貞宗が勝利した(『梅松論』)。 

足利方の小笠原貞宗は次の攻撃を警戒して、より防衛力の高い鏡山に陣を張り直したが、それにも関わらず新田軍は果敢に攻撃を続けてきたので、これも撃退した(『梅松論』)。貞宗はさらに堅固な伊吹山の山中に立てこもり、伝令を遣わして京都の足利方に事の次第を注進した(『梅松論』下)。 
折しも、京では「山徒(比叡山の僧兵)といい新田軍といい、近江国の力によって、東坂本(比叡山の東側=滋賀県側)の敵どもは力を維持しているのだから、足利軍を派兵して近江国を制圧し、東坂本への兵糧の補給路を塞ぐべきではないか」という議論の最中だった(『梅松論』下)。そこにちょうど、貞宗と義貞の戦いの報が入ったので、派兵が決定した(『梅松論』下)。

背景
前年末から続く建武の乱の後半戦は、九州で再起して本州に戻った足利尊氏・足利直義ら足利方が、延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に行われた湊川の戦い、および同年6月から8月にかけて行われた第二次京都合戦と立て続けに大勝した。一方の建武政権側は、首都京都と四人の重臣「三木一草」(結城親光、名和長年、楠木正成、千種忠顕)を全て失うという壊滅的状況にあった。しかし、後醍醐天皇と総大将新田義貞は比叡山に籠城し、山門(延暦寺)の持つ強大な財力・兵力と、交通の要衝琵琶湖を擁する近江国からの補給を背景に、再起を虎視眈々と狙っていた。

経過

9月末、佐々木導誉(高氏)を援軍の主将として足利方本軍が出陣(『梅松論』下)。 27日には今川掃部助(諱不明)も出撃し、導誉の弟佐々木経氏は兄ではなく今川氏の指揮下で戦った(『朽木古文書』)。 足利方本軍は丹波路から若狭国小浜(現在の福井県小浜市)に出て、導誉はこの周辺の地形・戦略に通じていたため、滞りなく近江北部から進撃し、貞宗との合流に成功(『梅松論』下)。 
足利軍ははじめ木浜役所(現在の守山市木浜町)に陣取ったが、新田軍が姿を見せて威圧したため、28日夜、近江国栗太郡大満加里(現在の守山市洲本町己爾乃神社周辺)の河原を、小佐治基氏らが夜通し警護した(『小佐治文書』)。 
29日、両軍は伊岐代(現在の草津市片岡町印岐志呂神社)・馬場(現在の草津市馬場町)で開戦(『田代文書』)。これに負けて逃げる新田軍を足利軍は追撃して志那浜(現在の草津市志那町の志那浜湖岸)で散々に打ち破り、足利方の武将田代顕綱も首級一つをあげるなどの武勇を見せた(『田代文書』。 

影響
足利方の目論見通り、建武政権・比叡山は大きく力を削がれ、降伏への決定打となった(『梅松論』下)。 10月2日から8日まで和泉国で、10月8日には伊予国で小規模な小競り合いがあったものの、覇権を確立した足利方には何の問題にもならなかった。 
延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)、後醍醐天皇は投降して京に還り、ここに建武政権は終焉を迎えた[5]。 
一方、新田義貞は後醍醐の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸方面に向かい、越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)金ヶ崎城に籠城、南北朝の内乱まで引き続き抗戦した(金ヶ崎の戦い)。 

伝説・創作
『太平記』巻17「江州軍の事」では、佐々木導誉が建武政権軍に偽りの投降をして、建武政権の近江における所領を獲得。

小笠原貞宗を近江から追い出した後、今度は建武政権を攻めて、手柄を独り占めするといった、導誉の婆娑羅大名ぶりを引き立てる創作が描かれる。 


上鳥羽城 近江国(長浜市上鳥羽)

2020年04月11日 | 陣所


お城のデータ
所在地:米原市(旧坂田郡山東町)菅江町~長浜市鳥羽上町 map:http://yahoo.jp/mJezEZ
目標地:新横山トンネル・八幡神社
区 分:陣城
標高:270m  比高:150m 
現 状:山林
遺 構:郭?・堀切?
築城期:室町期

築城者:京極氏

城 主:荒尾三郎左衛門尉
目標地:新横山トンネル・八幡神社
駐車城:八幡神社の向かい空地 http://yahoo.jp/2LqNmC

お城の歴史

近江守護佐々木六角は、かねてより江北に出兵、そうして江北南部の国人土豪に対し出兵命令などの軍事行動をなしてきた江南軍の総師定頼(守護六角氏綱の弟)は、天文7年(1538)の春には大軍を率いて、佐和山・鎌刃・太尾山城等々の江北の主城を次々と陥落させ、本陣を長沢(近江町)まで進め、江北の南部一帯を席巻した。

これに対して京極高延(高峯・高広)並びに、浅井亮政の江北軍は大いに防戦に努めた。『改訂坂田郡志』はその防戦の事例の一つとして、鳥羽上の城は京極高延方の荒尾三郎左衛門尉(山東町本郷に称名の荒尾神社がある)が城主であり、攻め手は江南軍の一翼をになうそれも江北の京極高慶(高延の弟で後の高吉)の兵で、激戦の末に高延方の兵は鳥羽上を放棄せざるをえなかったようである。

 登り口は、鳥羽上トンネルを長浜市側の幡神社から旧トンネルの林道からである。

 尾根部分は典型的な連郭式の配置となっており、北進すると延々と削平地が続くき犬走りを設けてある箇所が多い、いくつかの郭ごとに堀切を設けてあるが、延々細長く起伏変化には乏しい。最高部に教育委員会の石碑が確認できたが、他の遺構はかなり風雨に削られていてる。

 


『城郭探訪』から『続け!城郭探訪』へ移行します。

2019年11月26日 | お知らせ

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1109939239168650

『城郭探訪』から

『続け!城郭探訪』https://blog.goo.ne.jp/abcdefへ移行します。

引き続き、愛読頂ければ幸いです。

 


妙見山城 近江国(大津)

2019年04月04日 | 山城

 

お城のデータ

所在地 :大津市大石東一丁目 マップhttp://yahoo.jp/J_fvpp

現 状:山林・山頂

形 式 : 山城

築城期:室町期

築城者:大石久衛門義信

標 高:202m 比高差:浄土寺より102m

遺  構 : 曲輪、土塁、空掘、堀切、箱掘、竪堀

目標地:浄土寺

駐車場:浄土寺参拝者用駐車場

訪城日 : 2013.11.19・2019.4.4

お城の概要

妙見山城は、大石良郷が鹿跳山に構えたとされる山城と考えられている。同城は、大石東館と同じ山塊(妙見山)の山頂部に築かれており、大石東館の詰城と見なされているが、詳細についは不明である。

浄土寺裏手の墓地から石段で北東上方の大石東館跡へ、館跡からは南東へ5分程で、山頂の妙見山城に着く。


まず最初に目に入るのは主郭の虎口で南東隅に開き、両脇には土塁が築かれ、右手前には空堀を穿ち、左手前に土塁を置き城道に折れを作り防御を固めており、城内土塁上からの威圧も強力である。主郭は40m×20m程でよく削平され、北東端に土壇があり櫓台と思われる。主郭の北東尾根と西尾根に腰郭を配し連郭式構造とし、北東端は堀切で尾根を断ち切り、西端は横堀を設けて切岸高を大きくしている。また、主郭中央付近の両斜面に竪堀を入れ横移動を押さえている。城道はやはり館のある南尾根に続いていたものと思われる。

まず最初に目に入るのは主郭の虎口で南東隅に開き、両脇には土塁が築かれ、右手前には空堀を穿ち、左手前に土塁を置き城道に折れを作り防御を固めており、城内土塁上からの威圧も強力である。主郭は40m×20m程でよく削平され、北東端に土壇があり櫓台と思われる。主郭の北東尾根と西尾根に腰郭を配し連郭式構造とし、北東端は堀切で尾根を断ち切り、西端は横堀を設けて切岸高を大きくしている。また、主郭中央付近の両斜面に竪堀を入れ横移動を押さえている。城道はやはり館のある南尾根に続いていたものと思われる。

 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1318535944975644

大津市、瀬田川流域の複雑さの縄張りの城跡

◆妙見山城(大津市大石東町)無名だが、優等生の城

妙見山城は浄土寺背後の妙見山(標高202m)に築かれ、浄土寺の北東にある大石東館の詰め城と大石氏は、藤原鎌足を先祖に持ち、山城国田原郷と大石庄を領有した藤原秀郷(俵籐太)の流れを汲む豪氏で応仁の乱で一統・一族は断絶。遠縁の小山久朝が大石家を復興した。この館大石久衛門義信は近江八幡城の豊臣秀次に仕え、嫡男良照は本貫地を守り、二男内蔵助良勝は浅野家に仕え・・・忠臣蔵の大石内蔵助に繋がる家系と推定される。

妙見山城跡俯瞰図・鳥瞰図(長谷川氏:平成2年=1990年作図)

妙見山城横矢配図

 精密機械のように緻密な構造は中世城跡の奥義が隠されている。(長谷川氏:平成2年=1990年作図)妙見山城跡は大津南部の山城としては中世城跡の微細を知り尽くした心憎いばかりの縄張技術が恐縮した、最高峰の玄人肌の山城。

滋賀県下でベスト10に入る優れた名城。今回の図面は本邦初公開。

参考資料:県中世城郭分布調査、

 本日の訪問ありがとうございす。


椿坂・柳ケ瀬関所   近江国(余呉 柳ケ瀬)

2018年08月20日 | 関所

陰では赤い布をつけたお地蔵さんや石仏が涼しそうに佇む。木の根の間に置かれた石仏の赤い布が少し色褪せてしまっているが、それはそれで赤一色の強さを柔げてくれているようで、また心地よいものだ。画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 

柳ケ瀬関所

1620年頃 近江国の最北端の「中河内関所」を廃止、北国街道のと刀根越えの分かれ目に彦根藩が柳ケ「柳ケ瀬関所」を設置。明治2年の廃止まで続いた。 

所在地:滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬  map:https://yahoo.jp/aTceui

開設期:江戸期 (1620)

開設者:彦根藩

訪問日:2018.7.22

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外道標

右   ゑちぜん
    かがのと  道
左   つるが
    三国ふ祢のりは
          明治十六年癸未一日建之

と刻まれた道標が立っている。

ここは間宿 

北国街道の北の端に位置する柳ヶ瀬は木之本宿の次にある間宿(間村)で加賀屋、越前屋などの屋号を持つ旅籠が並んでいたそうです。
間宿というのは正規の宿場間に設けられた旅人休息の宿を言います。
この道標もなかなか面白いでしょう!草書体で面いっぱいに刻まれています。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然明治十六年癸未一日建之

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、帽子、屋外、自然写真の説明はありません。

 柳ケ瀬集落の北端に倉坂峠へ向かう道が分岐しており、ここに明治16年に建立された道標が残っている。この道を行くと倉坂峠を経て敦賀へ至るという。倉坂峠の北側には柴田勝家が本陣とした玄蕃尾城跡があって、現在でも堀や土塁等が残っているということだ。

 

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

 柳ケ瀬集落の中の左手に鈴木家がある。ここにも「明治天皇柳ケ瀬行在所」の碑が立っている。ここは本陣の役割をしており、街道に接している立派な長屋門は元関所役人柳ケ瀬家の住宅にあったものを、明治天皇の行在所に決定したときに移設したと伝えられているそうだ。画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、家、屋外、自然 

 

 

柳ヶ瀬の関所

北国街道(栃の木越え)と若狭街道(刀根越え)の分岐点にあたる柳ヶ瀬には江戸時代初期より関所がおかれていたそうで、彦根藩が管理していました。五十石取りの武士2人と番役8人が詰めており夜間の通行は一切許されていなかったようです。老中より出されたおきてが残っています。なかなか厳しいですね!!

関所の掟
●大名が通るときは、関所の長以下床より降りて謹んでお通り願うこと●効力のない証明(手形)の場合は長から直々に調べること

●番所で曲事(賭事などの悪い遊び)をしてはいけない
●通行者から物や金をもらってはならない
●道具(鉄砲、槍、火薬、弓、提灯)はときどきほこりを落として手入れすること
右の通り申しつけるから左様心得、万事心をつくして、少しも油断なく勤めるように
●鎖を暮六つにおろし、明六つに上げ、夜中通る者はよく調べ明けてから通すこと
●番所はいつも明かりを灯し、まぎらわしい者はよく見分けること
● 六人のうち二人ずつ番をし、少しもなまけてはいけない
●いつも番所を清潔にし油断してはならない 

           江戸老中

 ここは豪雪地帯

北国街道は、近江と北陸をつなぐ主要道路で、彦根市下矢倉町で中山道と分岐し、湖北地方を南北に縦断して越前へ向かっています。「今庄朝立ち、木之本泊まり、中河内で昼弁当」と歌われているように、木之本、中河内、今庄は、北国街道の宿場町として栄えていました。

柳ヶ瀬氏 不詳(古代豪族平群氏後裔)

 神亀元年(724)九月、近江国伊香郡乃弥山に住む大蛇を退治せよとの勅命が、大和国平群郡椿井荘の住人椿井右中将懐房に下された。八幡大菩薩の神劒一振りを賜り、二羽の白鷲に導かれ、乃弥山に来て大蛇を退治した懐房は、この地を開発して五筒荘村と名づけみずからの領地としたのである。 大蛇や神劒を埋めたといわれる蛇塚は今も椿坂の中央にあり、塚の上には椿の古木が一本植えられている。椿井懐房は興福寺官務宗徒でもあり、役職のこともあってその後、大和に帰っていった。
 椿井氏は「平群氏春日神社沿革記」によれば、大和国平群を支配した古代豪族平群氏の後裔という。天武天皇(大海人皇子)に仕えた平群直隅(余呉町誌では大蔵直広隅)は、壬申の乱が起ると出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願した。戦後、軍功により鈴鹿の関を拝領し、椿井を以て称号となしたと伝えられる。神護景雲2年(768)正月、大和官領職越前懐泰は河内枚岡より三笠山へ臨幸する春日大明神に供奉して、初代の興福寺官務宗徒になつた。十六代の右中将懐房は藤原房前の養子となり、藤原の平群と称するようになったという。しかし、この右中将懐房と大蛇を退治した右中将懐房との間には二百年以上の年代差があり、いずれも伝承の域を出ないものというしかない。

椿井氏の北近江への土着

 さて、長徳三年 (997) に至り、椿井氏四十四代という椿井少将懐職の二男常陸懐康が、旧領近江国伊香郡五箇荘村に移住してきた。かくして、懐康の子孫代々がここに永住することになったのであった。
 移住した懐康は村名を郷里大和椿井の名をとり椿井村と改めると、元祖正一位椿井大明神を勧請して椿井神社 (椿神社)、郷里の椿井寺の分院として椿井寺を建立した。 このことは、奈良興福寺の官務牒疏 (かんむちょうそ) 「近江国伊香郡の条」 にも次のように記されている

一.椿井村 椿井寺
   鎮守 椿井大明神
      並 三処神

 懐康以来、椿井氏は椿坂に住して椿井(椿坂) 一帯を領し、やがて北近江守護佐々木京極家に仕えた。応仁から文明 (1467~86) のころ、懐康より十四代目の椿井丹後守秀行は柳ヶ瀬山に城郭を築き、椿井(椿坂)、柳ヶ瀬を支配した。当時、京極氏は内紛により高清と政経も二派に分かれて激しい戦いが繰り返され、秀行は延徳元年(1489) 7月22日に行われた菅山寺付近の戦いで討ち死にした。しかし、秀行がどちら方に味方し どこで戦死したかはあきらかではない。
 秀行には後継者がなかったため、椿井氏は一旦断絶してしまった。その後、山城国相楽郡上狛庄に住む椿井本家の播磨守澄政の二男椿井縫殿助行政が柳ヶ瀬に来て椿井氏を再興した。行政のあと、権太夫政寔(まさこれ) 、弥兵衛政■(まさとう) 、弥兵衛政美と続き、政寔の頃から本家弥兵衛、分家三太夫に分かれた。以後、両家共、弥兵衛、三太夫を襲名し、江戸時代においては彦根藩の藩士として三人扶持二十五石宛を与えられ、明治維新に至った。
 ところで、出家した柳ヶ瀬氏の女性妙誓院禅定尼が柳ヶ瀬家の菩提寺として建立した栄昌庵の過去帳には、秀行以後は全て椿井でなく柳ヶ瀬に姓が改められている。このことから、椿井氏が柳ヶ瀬を名乗るようになったのは、秀行の時からであったようだ。また、江戸時代後期の文化三年(1806) 、山城の椿井権之助政隆から柳ヶ瀬三太夫にきた書面に「同苗柳瀬三太夫殿」と記されていることから、柳ヶ瀬氏になった後も椿井氏と同族としての往来が続いていたことが知られる。

 柳ヶ瀬氏の終焉

 柳ヶ瀬の地は北国街道の宿場町として近世には関所が置かれ、柳ヶ瀬氏が関所の関守を世襲した。しかし、明治維新を迎えると関守職は廃され、柳ヶ瀬氏は柳ヶ瀬を離れ他に移住していった。ここに平安期に端を発し、椿井氏、柳ヶ瀬氏と名を変えながらも、代々、柳ヶ瀬に続いた柳ヶ瀬氏の歴史は幕を閉じたのである。
 かつての柳瀬三太夫家の門が今も柳ヶ瀬の鈴木家の門として残っており、往時の柳ヶ瀬氏の権威の一端をいまに伝えている。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1325661234263115

参考資料:武家家伝、他

本日の訪問ありがとうございす。


栃ノ木峠・淀川の源

2018年07月23日 | 文化財

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然写真の説明はありません。

概要

標高は538mであり、険しい山道を抜ける峠である。また福井県における嶺南嶺北を隔てる三つの峠の最南端に位置する。「酌子峠」(しゃくしとうげ)、「虎杖崩」(いたどりくずれ)といった別名があり、それぞれの名の由来にも諸説ある。ただし栃ノ木峠という名の由来は峠付近にの大木があった為、という説が有力である。古代から北国街道の難所として知られており、安土桃山時代からは特に重要な要所とされた。またこの付近には若狭野坂山地越前両白山地湖東伊吹山地がそれぞれ聳えており、これらの山地の間をほぼ直線状に南北に伸びる柳ヶ瀬断層が形作る谷の最高点が栃ノ木峠になっている。南側から峠まではなだらかに登っているが、峠から北側は急傾斜のヘアピンカーブで下っている。ちなみにかなりの長さを持つ国道365号で、山岳系の難所としてはこの栃ノ木峠が随一であろう。

福井県側から滋賀県側を望む(2010年撮影)

道路状況

決して低くはない峠ではあるが、カーブミラーやガードロープも設置されており、1.5車線以上の道幅が常に確保されているので、山道に慣れたものなら走りやすい部類の峠に入る。ただし連続カーブや曲がり損ねたら崖から落下という箇所があったり、道幅の割りには大型車が嶺北方面(武生市福井市、加賀北陸方面)への抜け道としての利用も多く、初心者にはあまり勧められない道と言える。滋賀県側の峠の麓から福井県道・滋賀県道140号敦賀柳ヶ瀬線が分かれており、ここを経由することで国道8号の峠である新道野越に出ることが出来る。こちらの峠のほうが栃ノ木峠に比較し、はるかに安全に走ることが出来る峠なので、運転に自信のない人はこちらを使ったほうが良い。福井県敦賀市内に国道476号が走っており、南越前町で国道365号と重複するので利用しやすい道である。

淀川の源

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然

「淀川の源」の碑

淀川水系の最北端に位置する滋賀県長浜市余呉町。
福井県との県境にほど近いこの町の栃ノ木峠に「淀川の源」の碑が建っています。
この碑の建つ場所は、高時川の最上流部に位置し、この地で生まれたせせらぎは、高時川を経て姉川となり琵琶湖に流れ込みます。 また、琵琶湖では滋賀の山間部に発する大小支川と一緒になり勢田川から流れ出て宇治川となり、木津川、桂川を合わせて大阪平野を流れ、神崎川、大川を分派して淀川として大阪湾に注ぎます。
淀川の河口から最も遠い所(最北端)にある、高時川最上流のこの碑は、淀川水系の源に位置します。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

碑の位置

  • 滋賀県長浜市余呉町中河内栃ノ木峠
    (北陸自動車道木之元ICより国道365線を福井方面へ25㎞、県境付近の進行方向右側)
  • 北緯 35度41分41秒
  • 東経 136度9分43秒
  • 標高 約540m
  • 淀川河口からの距離 約170km

参考資料:わたしたちの長浜、Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす。


板取関所 (越前・今庄)

2018年07月22日 | 関所

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/grid?lst=100004577532882%3A100004577532882%3A1552796466

国道365で今庄に向かう途中に、「板取の宿」の標示。左手に駐車場があり、公共トイレも備わっています。
車を下りると、駐車場の入口に立派な案内板があり、「板取宿の由来」が記してあります。それによると、
 板取宿は、北国街道(東近江路)の玄関口。宏壮な門構えの板取番所がありました。間口三間(約5.4m)、奥行三間半(約6.4m)の平屋建ての棟。中には、刀・弓矢・火縄銃・具足が備えてあり、役人3人、足軽1人が常駐。宿場は、幕末において戸数53戸。うち3軒の問屋、7軒の旅籠、3軒の茶屋。その他は、継立(つぎたて)に従事する家々だったようです。
 石畳の両側に見えてくるのは、茅葺きの独特な屋根を持った古い民家。「甲造(かぶとつく)り型」と呼ばれるらしい。確かに正面から見ると、頭に被(かぶ)る兜(かぶと)のよう。今まで見たことがない珍しい形。玄関口に近寄ってみると、玄関の戸口脇に、「福井県認定証 ふくいの伝統的民家」という標示がなされていました。

 家並みを抜けると櫓(やぐら)みたいな施設があり、その手前が番所の跡でした。この櫓は、往時、この番所に併設されていたのでしょうか。としたら、見張り台のような役割を果たしていたのだろうか、と思いつつ、その櫓の上に登ってみました。

 そこからもと来た道を引き帰しました。かつては53戸あったという宿場跡も、現在は10戸ほどしかなく、旅籠や問屋などがあったところは広場になっていたり畑地になったりしています。宿場としての長い歴史に裏づけられた雰囲気に満ちていました。

 

江戸時代に関所を設けた
 江戸時代には家康の子、結城秀康が入国以来関所を設けて旅人を取り締まった。

後に板取番所として、藩士が駐在した。
 番所の構造は、宏荘な門構えの内に、間口三間、奥行三間半の平屋建ての棟を設け、刀、弓矢、火縄銃、具足を備え、役人三人、足軽一人が常駐し、厳重な警備に当っていた。
 板取には幕末の頃、戸数五十三戸のうち三軒の問屋をはじめ、七軒の旅籠、三軒の茶屋のほか継立従事の家が建ち並んで賑わっていたという。

本日の訪問ありがとうございす。


玄蕃尾城(内中尾山城)  近江国(余呉) 

2018年06月24日 | 陣城

写真の説明はありません。 

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町柳ケ瀬小字北尾624
別 名 :内中尾城

築城期:室町期

築城者:豪族 柳ヶ瀬秀行
改城期:織豊期 賤ヶ岳戦い天正11年(1583)
改城者:柴田勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政

現 状:山林(柳ケ瀬山頂)
区 分:陣城
遺 構:土塁、堀、土橋、馬出虎口、八曲郭、竪堀、空堀、櫓台
城 域:
標 高:459m     比 高:220m 

目標地:玄蕃尾城下の駐車場・刀根坂峠

 国道365号(北国街道)線を柳ケ瀬から敦賀方へ走り、トンネルを抜けたところをスグに右折して林道を約2km。

駐車場:刀根地区の林道に7~8台駐車可

訪城日:2018.6.24

お城の概要

築城時期

以下のように諸説ある。朝倉氏の山城を勝家軍が整備、または賤ヶ岳の戦いの時期に初めて築城という、主に2つの見方がある。

15世紀の豪族 柳ヶ瀬秀行が築城。

朝倉氏の家臣の 疋壇対馬守久保が築城。

朝倉氏の家臣の 朝倉玄蕃助景連が築城。

天正6年頃 柴田勝家が北国街道を整備した際に、越前衆を使い築城。

天正10~11年頃 羽柴秀吉との戦いに備え、勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城。

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306100612885844

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306103882885517

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306105589552013

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306106992885206

 国指定史跡「玄蕃尾城(内中尾山城)」

 柳ケ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台の刀根越(倉坂、久々坂ともいう)がすぐ南にある、また北國街道(現在の国道365号)を見下ろせる軍事上の要所に位置している。

 玄蕃尾城(げんばおじょう)跡は賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家の本陣となった城です。 賤ヶ岳合戦といえば七本槍(しちほんやり)が著名ですが、実は合戦史上最大の築城戦(※)であったことはあまり知られていません。

  織田信長亡き後に羽柴秀吉と柴田勝家は後継者争いをはじめます。

 天正11年(1583)2月には柴田軍の先鋒として前田利家、利長父子が江北に出陣します。柴田軍の布陣に対して羽柴軍も東野山~堂木山間を最前線として布陣します。この両軍の布陣にともない築かれたのが「陣城」と呼ばれる臨時築城の城です。以後4月28日の合戦までの約2ヶ月にわたり両軍はこの陣城に籠って睨みあいます。

  こうした陣城が余呉、木之本に約20ヶ所も構えられました。ところで長浜城歴史博物館や大阪城天守閣に所蔵される「賤ヶ岳合戦図屏風」には秀吉軍の本陣となった田上山砦や、東野山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦などが城郭として描かれており、江戸時代の人々は賤ヶ岳合戦で城が構えられていたことはよく知られていたようです。玄蕃尾城出枡形土塁

 この陣城群中、最も大規模で発達した城郭構造を示すのが玄蕃尾城です(図)。土塁(どるい)を巡らせた方形の主郭(写真上)には天守台に相当する櫓台(ろだい)が北東隅に構えられています。そこには礎石が認められることより実際に櫓(やぐら)が建てられていたことはまちがいありません。この主郭の南、東、北の3方向には虎口(こぐち)と呼ばれる城門が構えられており、特に南と北の虎口の前面には直進を妨げる出桝形(でますがた)と呼ばれる方形の小曲輪(こくるわ)が突出して配置されています(写真下)。また主郭や出桝形の周囲には深くて幅の広い横堀が巡らされています。

 こうした構造は16世紀後半の発達した城郭構造を示す貴重な陣城遺構として平成11年に国史跡に指定されました。次回はこの陣城を築いた賤ヶ岳合戦の経過を紹介しましょう。(滋賀県立大学准教授 中井均)

※築城戦=城を築いて向かい合いながら戦うこと

参考資料:Wikipedia、現地見学会レジュメ、現地説明板・・・

本日の訪問ありがとうございす。


虎御前山城   近江国(高月)

2018年06月19日 | 陣城

 写真の説明はありません。

お城のデータ
所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町別所~虎姫町中野 map:http://yahoo.jp/jbSb8l
目標地:虎御前山公園
区 分:山城  
現 状:山林
遺 構:郭・土塁・堀・堀切・碑・説明板
築城期:織豊期 

築城者:織田氏

標 高:230m 比高差:150m 
駐車場:中腹キャンプ施設駐車場

訪城日:2018.6.17

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、草、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然

お城の概要 

虎姫町の北端にある標高約230mの山。古くは長尾(ながお)山と呼ばれていました。全山に樹林が茂り、周囲は急傾斜で自然の要砦(ようさい)を形作っています。
 戦国時代、織田信長が小谷城の浅井長政を攻めた折、最前線として虎御前城を築き、柴田勝家の陣が置かれました。信長は、3回にわたって砦を築かせていますが、砦は小谷城落城の後、すぐに壊されています。
 昔、井筒という泉のほとりに住んでいた娘が、旅の途中に知り合った、世々聞(せせらぎ)という名の若者と愛し合うようになり結婚しました。ところが、顔は人間だが体は蛇という子を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末に、淵に身を投げて死んでしまったといいます。娘の名を虎姫(とらひめ)といい、この山が虎御前山あるいは虎姫山と呼ばれるようになった由来と伝えられています。頂上からは、東に伊吹山、西に琵琶胡が一望できます。

 虎御前山は、長浜市中野町と長浜市湖北町河毛、湖北町別所にまたがる標高約230mの山である。戦国時代、織田信長が浅井氏の居城である小谷城を攻略するため築いた付城(陣城)として知られる。

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で信長軍に破れた浅井長政は、小谷城に籠城する。 信長は、横山城(長浜市石田町・堀部町、米原市朝日)に前線基地を置き、浅井氏攻略を図るが、元亀3年(1572)7月以降は小谷城包囲のため、小谷山の眼前にある虎御前山に砦を構え持久戦に備えた。 虎御前山では大規模な築城工事が行われ、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が城番(定番)に任命されている。
虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵で、小谷城からわずか500m余りの距離に位置することから、前線基地を築くのに適していた。また、山の尾根上には古墳が点在しており、信長はこれらを巧みに生かしながら砦を構築、山全体に家臣を配置させたと考えられる。 現在の虎御前山には、麓から北へ伝多賀貞能、伝蜂屋頼隆、伝丹羽長秀、伝滝川一益、伝堀秀政、伝織田信長、伝木下秀吉、伝佐久間信盛、伝柴田勝家)の陣地跡が残る。
特に「伝堀秀政」・「伝織田信長」・「伝羽柴秀吉」は土塁や堀などの遺構が良好に残っている。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 お城の歴史

 信長公記 巻五 元亀三年 3、戦野  奇妙様御具足初に虎後

  7月19日、信長公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵した。初日は赤坂に宿陣して翌日横山に至り、21日浅井氏居城小谷まで押し寄せてひばり山・虎御前山へ軍勢を上げた。そして佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆に命じて町口を破らせ、一支えも許さず敵を城の水場まで追い上げ、数十人を討ち取った。あとには柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが先手として陣を敷いた。

 次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊(現滋賀県木之本町の浄信寺)をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
 また翌24日には草野の谷(現浅井町草野川渓谷)へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。

 この間琵琶湖上には打下(現高島町打下)の土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦・塩津浦・与呉の入海に出没して敵岸を焼き払っていた。また竹生島にも船を寄せ、火矢と大筒・鉄砲をもって攻めたてた。

 これら一連の行動により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起こして蜂起していた輩は、風に木の葉の散るごとくに一掃された。そして一揆勢が散り、また猛勢の織田勢が自領の田畑を薙いでゆくのをみすみす見逃してしまった浅井氏の勢力は、次第に手薄なものとなっていった。

 27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築かれはじめた。すると焦慮した浅井氏は、越前朝倉氏へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促した。

 朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付いた。一気に消沈した朝倉勢は、大嶽(原文では「大づく」)の高地へのぼって滞陣してしまった。
 このさまを目にした信長公は、足軽を使って朝倉勢を小当てに攻めさせることを命じた。すると陣中の若武者たちはそれを聞いて勇躍し、旗指物を外して山に分け入り、日ごとに二つ三つと首を取ってきた。信長公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分な褒賞を与えてやったため、彼らはますます発奮して首取りに励んだ。

 そのようにして対陣が続いていたところ、8月8日になって越前勢から前波九郎兵衛吉継父子が内通してきた。信長公はこれを聞いて大いに喜び、父子へ小袖・馬および馬具一式を与えた。翌日にはさらに富田弥六長繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々信長公より褒賞が下された。

 虎御前山の要害はほどなくして無事完成した。城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであった。ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた。
 この要害の座敷から北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上にあって苦慮しているさまが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができた。その比叡山はかつては尊い霊場であったが、先年山門の宗徒が逆心を企て、その自業自得により山上山下ともが灰燼に帰した。信長公が積年の憤りを散じ、存分のままに罰を下した場所であった。
 また南には志賀・唐崎・石山寺の社寺が見えた。この石山寺の本尊は遠く唐にまでその霊験を知られた観世音菩薩であり、その昔紫式部もこの寺に参詣して所願をかなえ、その礼として源氏物語の巻を納めたと伝えられる仏である。このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破の関も見え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものであった。

 この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(現虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

 写真の説明はありません。これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。9月16日、信長公は虎御前山の砦に羽柴秀吉(秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称される)を残し、嫡男奇妙殿とともに横山へ馬を納めた。

 

 すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306859542809951

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306860752809830

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306862126143026

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1306864692809436

参考資料:信長公記、城歩会レジュメ、

 本日の訪問ありがとうございす。


東野山砦と堀秀政の生涯『講座と現地見学』 近江国(余呉)

2018年05月25日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:1人画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。

信長の側近

天文22年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄の奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。

最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼福富秀勝・大津長昌・矢部家定長谷川秀一万見重元らがいる。

秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。

また、叔父である蓮照寺住職に育てられた関係で、本願寺との交渉にあたり、石山本願寺との和睦と紀州鷺森への退城を促し、交渉に奮闘していたことも想像される。後に秀政は、本願寺顕如から釋道哲の法名をいただいている。(蓮照寺文書)

天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。この功績ならびに荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績により、この年、織田信長から長浜城主2万5,000石を与えられた。

天正10年(1582年)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。

織田信長の弔い合戦でもあった山崎の合戦で、明智軍と戦い勝利を得た。それによって秀吉から羽柴姓を与えられた。天正11年の戦いでも武功をあげ、近江佐和山城を拝領し、9万国の城主となる。天正13年(1585年)には、越前北ノ庄城の城主となり、18万石の大名へとのしあがった。それほど秀吉の信任を得ていたことがうかがえる。

写真の説明はありません。写真の説明はありません。

東野山砦見学会

 お城のデータ

所在地:伊香郡余呉町東野  map:http://yahoo.jp/2sIxM6

別 名:実山砦,左禰山砦

築城者:東野備前守一族 

改築者:堀久太郎秀政

初城主:東野備前守一族

陣 将:堀久太郎秀政

区 分:陣城・砦

遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀

城  域:250m×150m

標 高:407m    比高差260m

市指定史跡

訪城日:2018.5.24

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外

お城の概要

 

東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。

 

 この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。

 

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。

 東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!

 東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。

 中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
 また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山、別所山を真正面に望むことができる。

 滋賀県中世城郭分布調査資料によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。

 

 南側には竪堀が麓まで続いているのだが・・・・。

 余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。

 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1123384887824085

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1123382487824325

 

参考資料:Wikipedia、講演会資料、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす。


来栖舘 近江国(多賀)

2018年05月22日 | 居館

栗栖館

 
時代
中世細分不明 
所在地
滋賀県犬上郡多賀町栗栖 
緯度経度
35.240417, 136.312028 
遺構概要
城郭分布調査1、城館。

お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「犬上郡 来栖村 往古此所ニ久徳兵庫ト士居住スト云記ニ出ル、久徳左近兵衛ガ一族ナルベシ、古城跡今ニアリ」、又栗沢治右衛門、堀平左衛門等居住セリ云、是又古城跡今ニ有シト云、」と記す。

参考資料:城郭分布調査1、地図番号15。『日本城郭大系』11。 


三尾城(みおのき) 近江国(古代山城)

2018年05月22日 | 山城

三尾城(みおのき)は、近江国にあった日本の古代山城。城跡の所在地は不明で、現在の高島市付近に推定される。

『日本書紀』天武天皇元年(672)7月条によれば、天智天皇の死後に大海人皇子(のち天武天皇)・大友皇子の間で起こった争乱(壬申の乱)の際、大海人皇子方は大和国・近江国の2方面に各数万人の軍勢を配して進攻したが、そのうち近江方面軍はさらに湖北(湖西)方面軍・湖東方面軍に分かれ、湖北方面軍においては将軍の出雲臣狛・羽田公矢国らが北陸路を押さえたのちに7月22日に「三尾城」を攻め落としたという。

三尾城が記録に見えるのは、上記記事のみになる。

城名の「三尾」は地名で、『和名類聚抄』にも近江国高島郡に「三尾郷」と見えており、現在は滋賀県高島市安曇川町三尾里を遺称地とする。

同地は天智天皇・大友皇子の営んだ大津宮の北方に位置することから、三尾城は大津宮の北面防衛目的で築造された城であったと推測される。築城時期は定かでないが、天智天皇の時代には白村江の戦い(663)の敗北を契機として西日本の各地に古代山城(いわゆる朝鮮式山城や神籠石)が築城されており、三尾城も同様の背景による築城とする説が有力視される。

具体的な城の所在地は、現在も明らかでない。比定地には諸説あるが、特に白鬚神社(高島市鵜川)北側の長法寺山に比定する説が有力視される。同地では長法寺跡(伝・嘉祥2年(849)創建)や中世山城跡が重複することもあって、確実な遺構は明らかでないが、1982年(昭和57年)の調査では山中において7キロメートル以上に及ぶ長大な石塁などの存在が認められている。これを江戸時代のシシ垣(動物よけ)とする伝承もあるが、長大さ・水門などシシ垣にはそぐわない点も見られることから、(後世にシシ垣に転用されたとしても元々は)古代山城の遺構である可能性が指摘される。

なお三尾の地では、継体天皇の出自と関わる古代豪族の三尾氏が割拠したことが知られる。この三尾氏は朝鮮文化の影響を強く受けた氏族であることから、三尾城の築城主体に三尾氏を推定する説があるほか、実際の壬申の乱での三尾城主将に三尾氏を仮定する説もある。また、『日本書紀』天武天皇元年(672)5月是月条では「自近江京至于倭京、処処置候」として、道々には候(うかみ、斥候・監視所)が置かれたことが知られるため、三尾城は城郭ではなくこのような監視所であったとする説もある。

 


岩尾山城跡 近江国(甲賀)

2018年05月22日 | 山城

所在地:滋賀県甲賀市甲南町新田岩尾山 

緯度経度:34.888250, 136.127417 
遺構概要:城跡 
お城の概要
甲賀市甲南町域南西部、三重県境にそびえる岩尾山は、その名のとおり岩で覆われた標高471mの霊山です。平安時代初期に最澄が開山しました。
修験者、忍者の修練山で、中腹には屏風岩などの奇岩が点在しています。馬の形をした「おうま岩」、扇を開いたような「扇岩」や、たたくと木魚の音がする「木魚岩」など、その名もユニークです。
また、頂上からの眺めは360度の大パノラマ。眼下には杣川沿いに平野が広がり、遠くには鈴鹿山系を見渡すことができます。
 岩尾山の麓には、明治年間に農業かんがい用としてつくられた岩尾池が広がっています。この辺りは山と大自然の美を巧に取り入れた名勝地で、紅葉の季節は特に山々が真っ赤に色づき、とてもきれいです。
参考資料:遺跡ウォーカーの比定地、びわこビュロー

井口(いのぐち)城(弾正屋敷)  近江国(長浜市高月町井口)

2018年05月22日 | 居城

 

お城のデータ
所在地: 滋賀県長浜市高月町井口168 map:https://yahoo.jp/8kOIx9
別 称:弾正屋敷 
現 状: (学校・宅地)富永小学校
築城年:室町期 
築城者: 井口氏
区 分: 平城 (居城)

遺 構:石碑。現地説明板

目標地: 富永小学校

駐車場: 富永小学校来客用駐車場

訪城日: 2018.5.20 

お城の概要

井口城は 井口集落は高時川の水路が集落内を巡る。「高時川上流には井口氏が管理していた井関が今も残り、取水された用水が村々の水路をとうとうと流れ、中世以来の水利遺産」。

 高時川の中流、長浜市高月町井口が阿古(浅井長政の母)の故郷。阿古の父である井口弾正経元(つねもと)は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。理覚院庭園は江戸初期の庭園で小堀遠州作とも言われているようです。

経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです」。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、

「伊香郡 井ノ口 住 佐々木隋兵 井ノ口宮内少輔 同 井ノ口仙蔵 同 黒田末 小寺重蔵 同 寺田半之助」名を記す。

井口氏は、近江佐々木氏の一族とも、崇峻天皇の後裔と云う近江中原氏の一族とも伝えられ、中世以来、高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握し、「湖北四家(磯野氏、赤尾氏、雨森氏、井口氏)」に数えられた。

 織豊期に浅井亮政からの姻戚関係を受け入れ、浅井氏の重臣に列するようになった。享禄4年(1531)の六角定頼との「箕浦の戦い」で、井口弾正経元は主君の浅井亮政の身代わりとなって討死し、亮政はこれに報いるため、経元の嫡男・経親を重用するとともに、経元の娘阿古を亮政の子・久政の室に迎え、阿古御料は長政を産んだ。    その長政は、織田信長の妹・お市を室とし、お茶々(後の淀殿)、お初、お江の三姉妹をもうけ、末娘のお江は二代将軍徳川秀忠の正室となり、その子の家光は三代将軍に、和子は天皇家へと嫁している。
阿古御料は、小谷城落城後に信長に捕らえられ、十指を毎日1本ずつ切断され殺されたという悲惨な記録が残る。

井口氏によって築かれたと云われる。高時川の「井預り」として水利権を掌握し、湖北四家の一つに数えられた。

浅井長政の母は「阿古(あこ)」という。江ら三姉妹の祖母である。高時川の中流井口が阿古の故郷だ。阿古の父である井口弾正経元は、浅井家に仕える武将で、現在の富永小学校一帯に屋敷を構え、近くの真言宗豊山派の寺、理覚院は井口氏の菩提寺である。
 「経元は浅井家の忠臣でした。長政の祖父・亮政の代のときにあった箕浦の合戦で、経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしたと伝わっています。浅井家ではその忠義に応え、亮政の子であり、のちに長政の父となる久政のもとへ阿古を嫁がせたそうです。井口氏は代々、湖北を流れる高時川の水利権を統括する「井関預かり」であったことから、浅井家は自領への水利権を優位にするため、久政と阿古の婚姻を進めたとも考えられている。
 小谷城が落城する際、阿古は捕らえられ、信長の怒りによって指を数日に分けて切り落とされた後、殺害されたという記録が『嶋記録』という文書にある。信長にしてみれば、長政の母ということでの憎しみが相当あったのでしょう。久政は戦争を好まず、六角氏との争いを避けていたため無能と思われがちだが水利件を得ることで、領地に富をもたらした。
 井口弾正邸の石碑

井口弾正のお墓

井口弾正の菩提寺「理覚院 地蔵堂」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

本日の訪問ありがとうございす。


雨森(あめのもり)城  近江国(高月町雨森)

2018年05月22日 | 居城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城のデータ

所在地:長浜市高月町雨森 map:https://yahoo.jp/OMz0-B
区 分:平城  

現 状:宅地(雨森芳洲庵・雨森神社)
遺 構:郭・土塁・堀
築城期:室町期

築城者:雨森氏

城 主:雨森弥兵衛清貞
目標地:雨森芳洲庵
駐車場:雨森芳洲庵横に路上駐車
訪城日:2018.5.20

お城の概要

雨森氏によって築かれたと云われる。 湖北四家の一つに数えられた。

 雨森集落は高時川の西側在り雨森治兵衛尉清秀の居館。雨森集落の東にある雨森芳洲庵(東アジア交流センター)が城館跡、土塁が巡り、東側の土塁は高さもあり、雨森集落、井口集落は水路が集落内を巡り、高時川の水引かれいます。

 雨森芳洲庵がある。雨森芳州はこの地の生まれ。対馬藩の朝鮮方佐役という一種の外交官を務め、朝鮮通信使に通訳として江戸へ随行した。門をくぐると見える美しい庭は誰でも無料で拝観することができる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外

お城の歴史

 北近江雨森氏

  藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。磯野氏、赤尾氏、井口氏とあわせて湖北の四家として知られ、室町期初頭には足利義満の命で後小松天皇の武者所となる。京極氏が守護職として赴任すると、これに仕えるようになる。

 その後、室町期後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。浅井家にあって、雨森清貞は海北綱親、赤尾清綱とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。浅井氏滅亡後は各地に離散している。

 良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。

雨森 弥兵衛尉

雨森氏は伊香郡雨森を本拠とした国人領主で、磯野氏、赤尾氏、井口氏とともに湖北の四家と称される。

 弥兵衛尉は亮政・久政に仕えて奏者をつとめる側近の一人だった。また、赤尾氏・海北氏と並んで「海赤雨の三将」とよばれる勇将で、浅井氏の一方の旗頭であった。京極高広と浅井久政が戦ったとき、海北善右衛門と雨森弥兵衛が戦死したことが「島記録」に記されている。長政の代になると雨森次右衛門、藤六の兄弟が活躍、元亀元年の姉川の合戦において奮戦したことが記録に残っている。

  戦国時代には雨森弥兵衛清貞がおり、海北綱親・赤尾清綱とあわせて「海赤雨の三士」と賞された。雨森氏は浅井氏が滅亡すると阿閉氏に従っていたが、阿閉氏も明智光秀に荷担して山崎合戦で滅亡し、雨森清次は渡岸寺村に蟄居した。

  雨森清貞は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏の家臣。通称である弥兵衛の名で知られる。近江国伊香郡雨森城主。

 浅井久政の代から浅井氏に仕え、奏者として国政に参与し、各地の合戦で活躍していたようだが、清貞に関する資料が少なく詳しい事績はよくわかっていない。また、この清貞の名も確定的なものではなく、本当に「清貞」と名乗っていたかは不明である。

 雨森氏の事績に関しては、元亀元年(1570)の姉川の戦いにおいて、雨森一族の雨森清良がこの戦いで討死すると、生き残った弟・清次が家督を継承した。天正元年(1573)の小谷城の戦いで主家・浅井氏が滅亡すると、織田信長に降った阿閉貞征に属したが、天正10年(1582)の山崎の戦いで阿閉氏が滅びると清次は渡岸寺村[1]に蟄居した。清次の子・清広はその後松江藩に仕えた。雨森氏の末裔に江戸時代の儒学者雨森芳洲がいる。

雨森芳洲家(対馬藩)
 朱子学者、木角十哲の一人、雨森芳洲が出た家。朱子学者であった芳州は朝鮮ひいきであったため、望んで朝鮮半島の窓口である対馬藩の側用人となる。芳洲は、寛文八年(1668)生れで、一族の子孫であり、この雨森で生まれたとされますが、父は京都で医者をしていたこともあり、京都で生まれたという可能性もあるようです。
写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然


https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1330616473767591
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、

本日の訪問ありがとうございす。