ゆうどきネットワーク|NHK総合|2011/05/27(金)18:10 | TVでた蔵
南三陸町の避難所で生活しているお年寄りのため、NPO団体が手作りの杖を贈った。
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沖島小学校から、「心をつなぐ1本の杖」
kkkk_015さん予定通り、今日南三陸、気仙沼、に向けて
杖を届けに行ってきます。やまんばの〇坂さんが同行してくれます。
また、帰りましたら連絡します。」有難うkkkk_015さん。
長浜 時遊館からの「心をつなぐ1本の杖」
やまんばの森からの、「心をつなぐ1本の杖」
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ボランティアガイド 現地講習会1
裸祭りの薬師堂
ここで、きぬ玉の奪いあい!
島崎藤村の自伝的小説中に、藤村(岸本)は恋に燃えて廣瀬恒子(峰子)の住む市辺に1ヶ月滞在している・・・>晩年廣瀬恒子が住んでいた家>
何故か、ヤシの木が元気でした。
市辺押磐皇子(いちのべおしはのおうじ)の御墓
宮内庁の管理地
勝神様・・!
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山本山城址探訪
山本山城は小谷城の西約5kmに位置し、琵琶湖岸の標高324mの山本山の山頂付近に築かれている。
山本山の東には北国街道が通り、尾上湊も近い上、山頂からは琵琶湖を一望できることから、湖上交通をも掌握する上で重要な役割を担っていたと考えられる。
この山本山のことを、山の南側の山本村では山本山、あるいは山本山城と呼ぶのに対して、東側の阿閉(あつじ)村側では阿閉山または阿閉城と呼ぶ。
この呼び名は、山本山城が南向きに機能していた時と、東向きに機能していた時の名残で、南と東に向けてふたつの顔をもっていたことを想像させる。
山本山の西側に位置する宇賀神社の本堂横から登り始める。山本山から賤ヶ岳までの約8kmがハイキングコースとなっており、山道は良く整備されている。この山道を30分~40分ほど登ると二の丸へ出る。
二の丸は、山頂付近の緩やかな傾斜地を3段の削平地に区切られて、二の丸から一の丸へは土塁による虎口を経て繋がっている。
一の丸から一番馬場跡,二番馬場跡を越えたところから尾根筋に4条の堀切が続く。
山本山城の見所は、一の丸の北東側に設けられている見当杭(物見櫓と推定)である。位置的にみても、ここから北国街道を監視していたことは間違いない。
大手道は山本山市場地区の中央部に位置する朝日小学校裏手の登り口と考えられ、円乗院常楽寺境内を経て山上に至る林道、若しくは西阿閉地区の西側より登り二番馬場曲輪に至る林道と考えられている。
朝日小学校,朝日公民館辺りは、一時期山本城主であった浅見対馬守の居館跡である。また、江戸末期に水野氏が山形藩より旭山藩に移封されて陣屋をおいた所でもある。
山本山城が歴史に登場するのは治承4年(1180)に、山本義経の本拠である山本山城を平知盛・資盛が攻撃した時とされる。
その後、京極氏の被官であった阿閉氏(あつじ)が入ってその本拠とした。
元亀年間(1558~1573)織田信長による浅井攻めに際しては、浅井氏の居城・小谷城の支城として位置づけされていたが、元亀4年(1573)阿閉貞征が織田信長に降ったことで小谷城は孤立し、浅井氏は滅亡の一因となった。
阿閉貞征は秀吉の与力となり山本山城と伊香郡内の本領を安堵されたが、天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉方の長浜城を攻めた。
しかし、山崎の合戦で光秀を破った秀吉に追討され一族全て殺され、山本山城は廃城となった。
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初代の水路は、1984年(昭和59年)に滋賀県指定史跡に指定されている。
かつて余呉川は大雨の度に氾濫を起こし、流域の集落に大きな被害をもたらし続けていた。
特に、現在の長浜市高月町西野周辺はその集落の高低差ゆえ、氾濫の度に集落は浸水・飢饉に悩まされた。その集落で育った僧の西野恵荘が、これを打開するには琵琶湖に放水路を作らなければならないと考え、1840年(天保11年)7月29日に掘削しはじめた。工事は岩盤の固さ、資金、落石事故などが原因で難工事であったが、1845年(弘化2年)9月1日に完成した。
探訪近江水の宝 西野水道・
1950年(昭和25年)に新たな水路が掘られ、1980年(昭和60年)にはその南側に大規模な放水路が完成した。初代の水路は、1984年(昭和59年)に滋賀県指定史跡に指定されている。
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「被災地への贈り物」・・・沖島小学校児童からの「愛の絆」の支えの杖・・・!
沖島小学校の児童から、メッセージを託された!
・❤つえを使って下さいネ❤ まあや
・いつでも応援しています!沖島に来てね
・いつでもおうえんしています。
・びわ湖にうかぶおきしまより 大輝より
・沖島からおうえんしています びわ湖にうかぶおきしまより
校長先生とチーム沖島の有志でカシャ!(斉藤氏は左から2人目)
・・・笑顔の校長先生に、教員・児童は、 ”愛と痛みと支え” 心を学んでいるでしょう!
斉藤氏は、
託された大切な「被災地への贈り物」を
しっかりと沖島の沖島港で、児童からの「愛の絆」結ぶ!
ACジャパン 思いやりは誰にでも見える (60秒) 2011
http://www.youtube.com/watch?v=puKHnOWKBrA&feature=related
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チーム沖島の初めての活動日(2011.5.18)・・参加者6名!通船「おきしま」の中で!
チーム沖島 5月18日「散策路整備&支えの杖」
「沖島21世紀夢プラン推進委員会」の会長さんと打ち合わせ!
沖島小学校横の「ケンケン山への登り口」が、5月11・12日の大雨で危険で「通行禁止」になっている。
本日は、ここの散策路の「掃除・整備をする」ことに!
会長さんから、作業道具をお借りして・・・!
早速 現場の沖島小学校横の「ケンケン山への登り口」へ・・・!
校舎とプールの間の「ケンケン山への登り口」へ、ロープで通行止めに!
早速、階段や散策との整備に取り掛かり・・・夢中で写真を撮る事も忘れ作業に集中・・・・!途中で折れた樫の木を・・・!
右が直径12Cm赤芽カシワの木も伐採!左は、直径15Cm位の樫の木は、1mの高さで、二又に枝別れしていたので、そこから伐採直径10Cm・・!休憩中!
一段落して、休憩・・・PM13:00を過ぎていた・・・。
・・・・昼食の時間・・・
間伐木で、出来上がった散策路に腰掛けて昼食です。
木陰で
若葉の香のそよ風
緑の風が気持ちい~い!
明るくなった「鳰の海」を眺めながら!オカリナとハーモニカを聴きながら!
東北の被災地に届ける、「琵琶湖の沖島の杖作り」が始まった!
小学生の「やまのこ」コースの下見・・・森林環境学習「やまのこ」事業のスタッフが、沖島小学校横の「ケンケン山への登り口」が、5月11・12日の大雨で危険で「通行禁止」になって・・・。作業が終わった後で、偶然に確認に来ました!・・・安全に整備・清掃して頂いてと!お礼を言って頂きました。
●目的:
森林をはじめとする環境に理解を深めるとともに、人と豊かに関わる力をはぐくむため、学校教育の一環として、県内小学校4年生を対象に、体験型の学習を展開しています。
●活動フィールド:森林体験交流施設およびその周辺森林等
●主要学習プログラム:
< 1.森に親しむ> 樹木ウォッチング・各種ネイチャーゲーム
< 2.森づくり体験> 間伐体験・枝打ち体験
< 3.森の恵み利用> 木工クラフト教室・丸太切り体験・木のパズルづくり
< 4.森のレクチャー> びわ湖の源流での水生生物調査・森の働き実験・森の達人に話を聞こう
「琵琶湖・沖島の間伐材の支え杖」に、沖島小学校の児童にメッセージを書いて!と、お願いした!
東北被災地に、斉籐氏が持ち込む「琵琶湖・沖島の間伐材の支え杖」に、沖島小学校の児童にメッセージを書いて!と、お願いした!
校長先生は、授業が終わったら・・・と快く・・・!
頂きに行くと、素晴らしいメッセージ・・・・!
ありがとう、ございます!
10人の児童と校長先生!!!!校長先生・10人の児童のメセージ入り杖と玄関先で記念撮影!
近江八幡市立沖島小学校の児童のメッセージを頂き、5月末に現地へ斉藤氏が持ち込みます!
清掃後の沖島小学校横の「ケンケン山への登り口」
清掃後の沖島小学校横の「ケンケン山への登り口」を・・・見上げるリーダーと有志たち!
チーム沖島 「初めての活動記念に!」カシャ!
「沖島21世紀夢プラン推進委員会」の会長さんとお別れのご挨拶!
大切な「近江八幡市立沖島小学校の児童のメッセージ入りの杖」を・・・・!
お土産も買って!
自宅でカシャ!
「へルスツーリズムフィールドマップ」とお土産の「すごもろこ」・・・自宅で!
「支えの杖にメッセージ」を書いてくれた児童も同じ通船「おきしま」で下校・・・。
「有志」と「やまのこのスタッフ」さんと同じ船で帰途に!
一日楽しい、活動日なりました!
被災地への支えの杖も(児童のメッセージ入り)をお土産に!
児童の散策路の綺麗に出来た!
充実した、初めての活動日になりました!
次回も、参加・再開を約束して家路につきました。
チーム沖島のリーダーからの活動日の案内が何時くるか?
追記
被災地への杖作りは、
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/1b4b0b68784267ca2ff4195e99434f29
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/3b3d2356e9481a141a5089b087111c29
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/875dfd2e5d81d6d0c4241ae63046ada1
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/2d16cda7f0f58c2e4d4f1b180275f193
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/1411131c92aa6de0ea3f284cb3d68bcc
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/2c3713dedd647e7b97997d09f945adb8
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/857330d0b5e4e5beb3297b4067dc948a
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カメラマンとアシスタント
高橋記者と打ち合わせ中の斉藤氏
チーム時遊館の「支えの杖」
やまんばの森で「間伐材で杖づくり」をNHK大津局の取材が入りました !
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2011年5月11日
長浜市の虎御前山の間伐材から作られたつえ=長浜市三川町の虎姫時遊館で |
長浜市余呉町の斉藤邦雄さん(68)の呼び掛けで、つえを東日本大震災の被災地に送る活動が広がりつつある。すでに200本が仙台市や日本モータースポーツ協会(東京都青梅市)を通じて、避難所に送られた。
神戸市東灘区に住んでいた斉藤さんは、1995年の阪神大震災の経験者。2年前に長浜市に移り住んだ。自身は避難所生活を送らなかったものの、避難所でのボランティア活動で、高齢者が体を動かさず、衛生状態の悪いトイレに行く回数を減らすため、飲食を控える様子を見てきた。
震災後に神戸市内で開いていた整体院で、患者を治療するうちに、自分の力で歩くことの大切さを痛感していた。テレビの報道でつえを持つお年寄りがいないことに気づき、支援を思い付いた。
米原市の里山保全に取り組むNPO法人「やまんばの会」が事務局となり、長浜市や東近江市など県内各地で間伐材を使ったつえを作っている。「気持ちも送りたい」とつえに「早く元気になってください」などの励ましのメッセージも書き込んでいる。「被災者が日常を取り戻すまで続けていく」と斉藤さん。
やまんばの会と斉藤さんはつえを作る仲間を募っている。問い合わせは斉藤さん=電090(3708)3777=へ。
(塚田真裕)
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3月末から始まった「被災地に杖を送ろう」プロジェクトの模様をお伝えします。
今回は、草津市のガールスカウト2団のみなさんと一緒に行いました。
午前中は、森の整備活動です。
今回、田んぼ周辺の森なので、ある一定の幅で森をきれいに伐採し、
イノシシなどの獣が少しでも田んぼに出てこないような緩衝地帯をつくるのが目的です。
実は、震災の送る前の3月上旬に、太い木は薪として使おうとして伐採をしてあったのです。
そこで、残っていた細い木を今回の杖用にさらに伐っていこうということになりました。
子どもたちでも安全に伐採できる大きさの木です。
ガールスカウトの皆さんはやまんばの森での活動に慣れていて、少し説明するだけでどんどん作業に取り掛かってくれました。
1時間半ぐらいで、杖に使える木が80本ぐらい集まりました。
森の外にどんどんと運び出します。
午後には、杖作りに入ります。
まず皮むき作業。皮をむかないと、腐りが早くなってしまいます。皮をむくことによって乾燥し、軽くて丈夫な杖ができるのです。
ささくれだったところをサンドペーパーで丁寧に磨いていきます。
てっぺんには穴をあけて、手ひももつけます。
足先にゴムキャップの滑り止めをつけて。
そして、杖を使ってくれる人にメッセージを書き込んでいきます。
これまでの活動とは一味違う活動になりましたね。これからもよろしくお願いします。
(お送りした場所について)
4月上旬の第1回目は100本を仙台市に送付しています。
今回の杖は、作りかけの杖と合わせて100本になりました。
東京の「障がい者モータースポーツ協会」のご協力により、仙台市、福島県相馬市の避難所にお届けいたしました。
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清水山城とミツバツツジ 春のピクニック
お城のデータ
別 称:日高山城・比叡谷城・佐々木城
所在地:高島市(高島郡)新旭町熊野本 map:http://yahoo.jp/2shUsW
区 分:山城 ⑤比高:100m
現 状:山林
遺 構:郭・土塁・堀・堀切・竪堀・碑・説明板
築城期:室町期
築城者:佐々木信高・・高島氏(佐々木氏)
目標地:新旭森林スポーツ公園
駐車場:新旭森林スポーツ公園
訪城日:2011.4.29
お城の概要
清水山城は琵琶湖の西岸、安曇川左岸の饗庭野丘陵の南東ピーク(標高210m 比高110m)に築かれた山城です。
城域は東西450m×南北700m、城縄張りはピークに構築された主郭を中心に逆Y字状の三方向の稜線に展開され、また南・東側の緩斜面を取り込んだ壮大な巨大城郭です。主郭の規模は東西55m×南北60mほど、郭は北西から南東側にL字状に郭が削平され、内部からは建物礎石(建物の規模・東西5間×南北6間)が確認されています。
主郭の南東側斜面には南側斜面に設けられた坂虎口を防御するように畝状竪堀が敷設され、この畝状竪堀の上段部分には10m四方の「佐々木の天守」と呼ばれる櫓台が構えられていました。主郭から南東・南西側に馬蹄状に延びた稜線には段差と堀で区画された段郭群が構築され、このうち南東側の尾根が大手筋と想定されます。主郭の北側は清水山城の弱点である饗庭野丘陵から南側に延びた尾根筋を防御するため、北郭と多重堀切で遮断。北郭は主郭と堀切で分断された東西に細長い段郭群で、規模は東西70m×南北30mほど。内部は頂部に構築された郭を中心に東・西の緩斜面を低い段差で階段状の郭に加工し、北側縁部に土塁が築かれています。また北・西側下段には武者隠しが敷設されています。さらに北郭北側の尾根筋は堀切を基本とした厳重な遮断ラインが構築され、1条目の堀切は幅15-20m・深さ10m以上の巨大な堀切で、堀底は畝状竪堀である。
本城域の南側緩斜面には「西屋敷」・「加賀殿」・「越中殿」等の地名が残り、高島氏の家臣居住地と推測される、有事の際の外郭線として機能したと推測されます。さらに南東側の段丘縁部には「御屋敷」・「犬の馬場」の地名が残り城主居館(方形館)が想定され、清水山城はこれらを含む複合城郭だった。
お城の歴史
嘉禎元年(1235)、高島郡田中郷の地頭職高島高信により築かれたとも。高信は承久3年(1221)の「承久の乱」後、近江守護職佐々木氏の嫡流になった信綱の次男で、高島郡田中郷・朽木荘を分知され高島氏を称します。その後、高島氏は湖西各地に庶子家(朽木・永田・平井・横山・田中・山崎氏)を分知して高島氏を中心とした「高島七頭」と呼ばれる武士団に成長しました。
室町期の高島氏は文安年間(1444~49)の『文安年中御番帳』に名が見られるなど、外様として幕府奉公衆を勤め、湖西に一定の勢力を保持していたと推測されます。長享元年(1487)に勃発した「長享の乱」で、高島氏は六角高頼に与して将軍足利義尚率いる幕府軍と対峙し、以後 六角氏と行動をともにします。
永禄6年(1563)の「観音寺騒動」、同11年(1568)の織田信長の近江侵攻で六角氏が没落すると、小谷城主浅井氏・越前一条谷朝倉氏と結んで織田氏と対峙しました。
元亀4年(1573)、織田軍の高島侵攻により清水山城は陥落し高島氏は没落しました。城跡は、2004年(平成16年)2月27日、「清水山城館跡」として、国の史跡に指定された。
高島氏
四つ目結(宇多源氏佐々木氏流)
高島氏は近江源氏として知られる佐々木氏の一族である。佐々木氏は、宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子扶義を養子とし、その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのがはじまりといわれる。平安末期の秀義は平治の乱に源義朝に属し、以来、源氏とのつながりを密接にしている。しかし、平治の乱で源氏が没落すると、秀義は世を隠れて関東の地に雌伏した。やがて、源頼朝の旗揚げに際して息子たちとともに参加し、平氏との合戦において、佐々木一族は大活躍をして、鎌倉幕府成立後には、各地の守護職に補されて一大勢力を築くことになった。
承久三年(1221)、後鳥羽上皇の討幕行動である承久の乱が起ると、惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に着いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである。
歴史への登場
承久の乱後、佐々木惣領家と近江守護職を継いだ佐々木信綱は近江守に任じられ、また評定衆にも選ばれて有力御家人としての地位を固めた。
信綱には四人の息子がおり、仁治三年(1242)に信綱が死没するとその所領は四人に分割された。長男の重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷・朽木荘の地頭となって高島氏を名乗った。そして三男泰綱が宗家を継いで近江南六郡を与えられて六角氏を名乗り、四男氏信は近江北六郡を与えられて京極氏を名乗ることになったのである。
三男の泰綱が長兄・次兄をさしおいて家督に選ばれたのは、母が執権北条泰時の妹であったことと、近江国に強大な勢力を持つ佐々木氏を牽制しようという幕府の狙いがあったと言われている。
高信には数人の男子があり、長男泰信は佐々木四郎信綱の孫の四郎左衛門尉を意味する「佐々木孫四郎左衛門尉」の名で『吾妻鏡』に登場する。次男頼綱は弘安八年(1285)の霜月騒動における活躍で出羽守を受領した。この頼綱の子孫が朽木氏であり、以後朽木氏は出羽守を世襲官途にした。こうして高島七頭は、有力御家人の仲間入りを果たしたのである。泰信の長男泰氏は左衛門尉に任官し、のちに従五位下越中守に補任されて受領。以後、高島氏は越中守を世襲官途として越中家とも呼ばれた。
いずれにしろ、高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流高島氏を中心とする朽木・永田・平井・横山・田中の高島一族、そして狭々貴系山崎氏を含めて「高島七頭」と呼ばれる武士団に成長することになる。 かくして高島七頭は、有力在京御家人として重視され、室町時代にも幕府奉公衆として勢力を維持した。しかし、戦国末期に滅亡の悲運にあったことで史料が失われ、その系譜・歴史に関しては不明な点が多い。
●居城 - 清水山城
さて、高島七頭の総領家である高島氏の居城とされるのが清水(せいすい)山城で、戦国時代の幕開けとなった応仁年間(1467-69)頃に築城を開始し、織田信長が高島に侵攻するまでのおおよそ百年間存続したものとされている。その規模は、家臣団の住居跡等と目される範囲を加え、1km四方にも及ぶ広大なものである。
主郭を中心に、南東、南西、北西の三方の尾根上に曲輪を配置した典型的な放射状連郭プランで、「畝状竪堀」や「武者隠し」などが遺り、主郭部には書院造り風の礎石配置を持つ大型建物が確認されている。その典型的な中世山城の形態と、特徴的な曲輪群等の配置が観察できることなどから、国指定の重要史跡となっている。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城、
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