城郭探訪

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姉川の合戦史跡めぐりウォーキング 2013.6.29

2013年06月29日 | 探訪「大地の遺産」

元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が、姉川を挟んで壮絶な戦いを繰り広げた『姉川の合戦』に由来する姉川南岸史跡をガイドさんの解説付きで巡ります。

茶臼山山頂では新緑の森林浴を楽しみながら、姉川の合戦場を見下ろすビューポイントを堪能頂いた後、稲の苗が植えられた田園風景に溶け込んだ史跡を巡るウォーキングを堪能いただけます。

開催期間平成25年6月29日(土)8:30~
場所北郷里公民館 滋賀県長浜市東上坂町976-7
  [自動車]北陸自動車道長浜ICから車で5分
  [駐車場]有

龍ヶ崎砦(茶臼山古墳群)遠景 横山城遠景

遠藤直経の戦場墓碑:元亀元年、遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。

 

⑥龍ヶ鼻の砦郡

 [地図をみる]

 この背後の山である龍ヶ鼻は、姉川合戦の直前に、織田信長や徳川家康が本陣を敷いた砦跡です。元亀元年(1570)6月19日、浅井長政を攻めるため、織田信長は大軍を率いて近江に入りました。21日から浅井氏の居城小谷城を攻めましたが、その構えが固いとみるや、わずか1日の攻撃で兵を返しました。

24日にはこの龍ヶ鼻に陣を移し、徳川家康もそこへ合流して、南方の横山城の攻撃を行います。信長や家康の陣跡は、ここから東へ約300メートル程登った龍ヶ鼻砦跡(標高187メートル)や、そこへの途中、茶臼山(ちゃうすやま)古墳(滋賀県指定史跡、前方後円墳)の後円部にあたる龍ヶ鼻陣所付近にあったと見られます。

合戦の当日にあたる28日未明、浅井・朝倉軍が姉川北岸に前進したのを見て、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」に、それぞれ本陣を移し合戦が行われました。

 

この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山(かつやま)」と呼ばれるようになったとされます。

徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。江戸時代以来「流岡(ながれおか)神社」が鎮座していましたが、明治41年に上坂神社(東上坂町)に合祀されました。

この「流岡神社」には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、境内の大杉の上部が枯れているのは、合戦の折、両軍の矢が飛びかって枝を折ったためと伝えられています。一方、上坂神社には織田信長が寄進した金燈籠(かなどうろう)が現存しています。

上坂氏館 

戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂(こうさか)氏の館跡です。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。

関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました。

館跡は土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。

  

 

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


姉川の合戦 織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」

2013年06月29日 | 陣屋

①姉川古戦場・血原・本陣

姉川古戦場

『日本戦史』によれば、合戦は28日未明に、この西方に陣した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政らが側面から朝倉軍を突き形勢は逆転しました。一方、この一帯では浅井・織田軍の間でも戦闘が開始され、最初浅井軍が優勢でしたが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川軍の加勢により、浅井軍も敗退したと伝えられています。

合戦検証”姉川の戦い1”

 

ただ最近、姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられています。

合戦後、織田信長は本陣を横山城や虎御前山城におき浅井氏攻撃を続けましたが、最終的に浅井氏が滅亡したのは、3年後の天正元年(1573)9月1日でした。

なお、合戦があった太陰暦6月28日は、28日未明に至り、浅井・朝倉軍が約3キロ北方に当たる大依山から前進し、姉川北岸に布陣するのを見た織田軍は、援軍に来た徳川家康軍と共に、姉川南岸に軍を展開しました。この時、織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」に、徳川家康の本陣は岡山(勝山)に置いたと伝えられています。浅井軍と信長軍との戦いは、最初は浅井軍が優勢でしたが、

  遠藤直経の討死の墓(圃場整備で移設)

それを象徴するのが遠藤直経の討死です。

 直経は信長本陣深くまで攻め入り、味方の首級を一つ提げ、織田勢に偽装して信長の首をねらいましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討死したと伝えられています。現在、直経の戦死した場所には、その墓が残りますが、信長本陣の「陣杭の柳」の後方300メートルに当たり、織田軍が一時は後退し劣勢を強いられていたことを示すと考えられます。

 ここは姉川合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討死した場所と伝えられ、小字も「円藤(遠藤)」といいます。遠藤直経は「喜右衛門」と名乗り、坂田郡須川(米原市須川)出身で、一時同郡宇賀野(米原市宇賀野)にも居住していたことが知られる浅井氏の重臣です。

 多くの古文書にも登場しますが、『浅井三代記』などの俗書にも多く取り上げられ、浅井氏家臣中でも逸話が多い武将と言えるでしょう。姉川合戦の際、自軍の敗色が濃くなると、味方の武将首一つを携え敵軍に偽装、信長の陣中深く忍び込みましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討ち死にしたと言われています。

 かつて当地の約40メートル程北の畑の中に、「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えてきましたが、昭和54年に墓標が建てられました。平成9年、圃場(ほじょう)整備事業のため、現在地に移転しています。なお、毎年7月には、その追悼法要が現在も執り行われています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝

 


姉川の合戦 茶臼山砦

2013年06月29日 | 

  

所在地:長浜市北里 map:http://yahoo.jp/OHNVtf

平成25年6月29日(土)

⑥龍ヶ鼻の砦郡

 

 この背後の山である龍ヶ鼻は、姉川合戦の直前に、織田信長や徳川家康が本陣を敷いた砦跡です。

元亀元年(1570)6月19日、浅井長政を攻めるため、織田信長は大軍を率いて近江に入りました。21日から浅井氏の居城小谷城を攻めましたが、その構えが固いとみるや、わずか1日の攻撃で兵を返しました。

24日にはこの龍ヶ鼻に陣を移し、徳川家康もそこへ合流して、南方の横山城の攻撃を行います。信長や家康の陣跡は、ここから東へ約300メートル程登った龍ヶ鼻砦跡(標高187メートル)や、そこへの途中、茶臼山(ちゃうすやま)古墳(滋賀県指定史跡、前方後円墳)の後円部にあたる龍ヶ鼻陣所付近にあったと見られます。

合戦の当日にあたる28日未明、浅井・朝倉軍が姉川北岸に前進したのを見て、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」に、それぞれ本陣を移し合戦が行われました。

龍ヶ崎砦(茶臼山古墳群)遠景 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝


鎌掛山屋敷 近江国

2013年06月28日 | 館跡

所在地:蒲生郡日野町鎌掛

遺 構:郭・土塁・空堀
目標地点:正法寺・鎌掛屛風岩
区 分:平城  ⑤比高:ーーm 
現 況:山林

時代/人物: 戦国期/蒲生氏
駐車位置からの主郭までの所要時間:5分

訪城日:2013.6.28 

この川に下りここを渡り再び登ると(ほんの少し藪状態のところを過ぎると)山麓に広がる遺構が現れます。東西に100m程度有りそれを土塁で3区画に区切っています。南側の山側(鎌掛城側)には防御施設は無く、郭の全面には掘が長く続いています。土塁も掘も明瞭な状態で残っています。特に区画のための南北に走る土塁が印象的です。

滋賀県中世城郭分布調査より

鎌掛城の居館と見られている。また中野城主であった蒲生賢秀が嫡男の蒲生賦秀(のちに氏郷)に家督を譲った際、隠居城として山屋敷に入ったという。

山屋敷は鎌掛城の西麓にあり、北砂川と南の沢との間の平地部分に築かれている。

山屋敷は微高低差の平段がいくつも広がり、南の山裾側を除く三方に土塁や堀を巡らし防御している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城 他

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


夏見城 近江国(甲賀・甲西)

2013年06月27日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:湖南市夏見    (旧甲賀郡甲西町市夏見)    map:http://yahoo.jp/qK7FUy

現 状:竹林、甲西南部2区

遺 構:土塁・堀

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:夏見氏

城 主 夏見大学

廃 城:天正十三年(1586)には豊臣秀吉により領地を召し上げられ帰農。 

城 域:南側に残る防御性の高い一画を中心に、溝(堀)で区画された屋敷地が集合城館の形態は複郭式と呼ばれて、複郭式タイプの水口町の植城群に似ていますが、数の少ない城館タイプ。

目標地:夏見小学校

駐車スペースあり

訪城日:2013.6.11

夏見城の一部か・・・竹藪に、堀・土塁!

お城の概要

夏見城の調査は県営経営体育成基盤整備事業(甲西南部2区)に伴なって行いました。

 夏見城遺跡は、湖南市夏見に所在する城館遺跡です。現在も竹薮内に幅3 ~ 4m の土塁の一部が残っています。甲賀郡誌によれば、甲賀53家の1つ夏見氏の居城と言われ、夏見大学が六角氏の旗下で戦功を上げ、長享年間(1487 年)に領主となるも、天正13 年(1586 年)には豊臣秀吉により領地を召し上げられ帰農したとありますが、詳細なことについては分かっておりません。

 

 調査地は、近世東海道から約100m北西、竹薮中に残っている土塁からは50m南東の地点を東西方向に計画された道路予定地で行いました。
調査区を3地区(T1~T3)を設定し、調査を実施しました。その中の第1調査区(T1)と第2調査区(T2)において井戸(素掘り1、石組み1)、区画溝の一部(3区画分)、柵列と考えられるピット列を検出しました。出土している遺物は15世紀後半から16世紀代を中心としていることから検出した遺構はこの時期に相当するものと判断されます。
 検出された遺構群は、夏見城本体の周辺に展開する屋敷地に関連するもので、2区画確認できます。さらにその東側には素掘りの井戸が検出されていることから、もう1区画存在する可能性があり、東西方向に3区画並ぶ状況が窺われます。

 南側に残る防御性の高い一画を中心に、溝(堀)で区画された屋敷地が集合している城館の形態は複郭式と呼ばれています。甲賀郡内では、一般的に半町から2町(50~200m)四方の敷地を堀や土塁で囲む単郭式の城館が多く、複郭式タイプの例としては甲賀市水口町の植城をあげることができますが、数の少ない城館タイプです。

                駐車可

歴 史

吉祥の文様、精巧に 

 夏見城遺跡(湖南市夏見地先)の発掘調査において、15~16世紀の溝から精巧な文様が施された真鍮(しんちゅう)の毛抜きが完全な形で見つかった、と発表した。

 毛抜きは真鍮でつくられ、表面は銅と亜鉛の合金である黄銅でメッキ加工されている。長さ八センチ、重さ十五・六グラム、ばち型の形状をしている。鶴が翼を広げた姿や、水生植物であるオモダカを描いている。
 実用品でありながら表面に精巧な文様が彫金されている。鶴とオモダカは吉祥の文様で、とくにオモダカはその葉の形から「勝ち草」として戦国武将に好まれた。
 毛抜きの素材である真鍮は一般的には一七世紀に中国大陸から伝えられた合金製品とされているが、明らかでない。県文化財保護協会は出土の意義について「今回出土した毛抜きした美術工芸的にも優れた製品であるとともに、真鍮が伝えられた時期や使用の実態を研究する上で貴重な資料になる」としている。

 夏見城は甲賀五十三家のひとつ夏見家の居城といわれ、夏見大学が六角氏の旗下で戦功を上げ、長享年間(一四八七年)に領主となるも、天正十三年(一五八六年)には豊臣秀吉により領地を召し上げられ帰農したとされるが、詳しいことは分かっていない。 

 

発掘調査

鍮製の毛抜きが出土

湖南市 夏見城遺跡

夏見城遺跡の位置と概要
 夏見城遺跡は、湖南市夏見地先に所在する中世城郭です。この地は近世東海道を眼下に見下ろす小高い丘陵の裾に当たります。東海道沿いの丘陵上には、西から丸岡城、 東丸岡城、平松城、針氏城、針城、三雲城とたくさんの城が造られています。
 夏見城は、甲賀53家の一つ夏見氏の居城と言われ、夏見大学が六角氏の旗下で戦功を上げ、長享年間( 14 8 7~ 8 9年) に領主となりました。天正13( 1 5 8 6) 年に豊臣秀吉に領地を召し上げられ帰農したとされていますが、築城時期などの詳しいことは分かっていません。

毛抜きについて
毛抜きは、(16世紀頃)から出土しています。この溝は幅2.5~3m、深さ約8 0㎝ を測り、調査区内で2 3m の長さが確認されています。土層の観察から、図3 第1調査区全景図4 建物1の雨落ち溝少なくとも2 回の掘り直しが確認できました。1回目の掘削時には、溝の肩部に人頭大の石材を並べ、護岸されていたことが分かりました。毛抜きは、この護岸用石材の下層から出土しています。
 毛抜きの長さは8 ㎝ 、幅は根元で7 ㎜ 、挟み部で1 5㎜、形は撥型(ばち がた )を し ており、重さは15 . 6 g で す 。 素 材 は 真 鍮(黄銅: 銅と亜鉛の合金)で、金色に輝いています。文様は、片方には鶴が翼を広げた姿を主に蹴彫( け り ぼ り )で 描 いています 。 目は魚々子 (な な こ )で 、羽 を 毛 彫 (け ぼ り )で表現しています。もう一方は、水生植物である沢瀉(おもだか)を主に蹴彫で描き、花は一つ一つ魚々子で表現しています。

 出土した毛抜きは実用品ではありますが、表面に精巧な文様が彫られています。描かれた文様は鶴と沢瀉で、どちらも吉祥の文様です。特に沢瀉は葉の形から「勝ち草」と呼ばれ戦国武将に好まれたモチーフです。また、文様表現は非常に丁寧に仕げています。毛抜きの素材である真鍮は、一説には17世紀に中国大陸から伝えれたと言われていますが、まだ明確ではありません。今回出した毛抜きは、美術工芸的にも優れた製品であるとともに、真鍮が伝えられた時期や使用の実態を研究する上で、貴重な資料となるでしょう。

 

蹴彫とは
刃先が直線状の蹴彫鑿を縦横に使って彫る技法の一つで、刻線は三角形の鏨(たがね)痕の繋がりとなるのが特徴。
魚々子とは刃先が円状の魚々子鑿を使って、連続する細かな円形の鑿跡を素地に打ち込んでいく手法。
毛彫とは最も基本的な技法で、三角形の尖った刃を持つ鏨で鋭く毛のように細い線を素地に刻んでいく手法。
沢瀉とは水辺や湿地に自生する水草で、葉の下半分が分かれる特徴的な形をしている。葉の形が鏃に似ていることや「沢瀉威の鎧」の存在から「攻めても守っても良い」と言うことで勝ち草とも呼ばれていたため、このような文様によく使われる。

〔発掘調査資料提供財団法人滋賀県文化財保護協会〕

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、滋賀県発掘調査資料

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


井伊直滋(館)と百済寺

2013年06月25日 | 館跡

 現地見学会(総勢50名)・・百済寺の赤門・極楽橋手前・・南谷へ

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)百済寺町 map:http://yahoo.jp/zLpzQW

 

       百済寺赤門

南大堀 赤門日吉神社御旅所墓所への道標石碑(参道右)      

御台所の井戸  大広間    墓所虎口井伊直滋の墓碑   享保16年・・手水石                  

 

 

 

 

 

 

講座・・・愛東コミセン

 会長挨拶

講師

            

                       CTV・すまいるTVの取材

 

 


池之尻城 近江国(旧愛知郡・愛東)

2013年06月24日 | 居館

R307側・・・側溝か・堀か、土塁の痕跡がはっきりと!

お城のデータ

所在地:東近江市池尻 (旧愛知郡愛東町池之尻)  map:http://yahoo.jp/2nZnwp

築城者:不明・・・六角氏の家臣?

築城期:

現 状:集落・竹藪

区 分:平城

遺 構:土塁

目標地:恵比寿池

駐 車:恵比寿池の駐車場http://yahoo.jp/z5SWWd

訪城日:2013.6.13

国道307沿いの聖地された隣の竹藪・・・堺には溝(水が溜まっていた)

土塁の痕跡か?

武藪の中にも、土塁らしきものが・・・!全く中へは入れず!

お城の概要 

 池之尻集落の南東隅に土塁の痕跡をのこされており、中世城郭遺構と考えられる。現在は池之尻館と称しているが、その歴史については不詳である。

なお、池之尻館より、出土したと伝えられる、十五世紀の「古戸菊花紋水壺」がある。(参考資料:愛東町誌2巻より)

池之尻城(竹藪)の遠望(国道307)

歴 史 

近江愛智郡志には、池尻氏は、角井村池尻に住す。池尻平左衛門は織田信長に仕え後に伊勢に浪人す。又此村に堤氏在す。・・と記す。 

池尻氏・・・梶川正治の嫡男正信は、梶川市郎右衛門と称し織田信秀に仕えた。正信の嫡男正繁は、梶川を嗣がず池尻の姓を名乗り、正繁の子正相もまた池尻を踏襲し池尻平左衛門を名乗っている。正信の母の箇所に姓名が書かれておらず、室の名も記載されていないことなどから何れかが池尻氏の娘で外姓を名乗ったとも推察されるが確証はない。平左衛門正相は織田信雄に仕え、信長の伊賀征伐の際には信雄から柘植城(福地城)を与えられている
 池尻平左衛門正相の嫡男正武は、系図からは正相の嗣子であるにもかかわらず「水野右馬助」を名乗り豊臣秀頼に仕えているが、正武の仔細については詳らかではない。 なお、梶川氏については何故か正信の二男が継ぎ代々子孫に継承されていった。

恵比寿池・・・この池の下に、池尻集落に「池尻城」が!

聖徳太子百済寺建立の際参籠され、御用の箸を池のほとりに挿して誓願されたところ、この箸から芽が出て大樹となったという伝えが残っており、この端気をよろこんで大貯水池を作り、当社を創祀したものといわれている。

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


小森城 近江国(近江八幡)

2013年06月23日 | 平城

失われた城郭遺構

滋賀県近江八幡市中小森町(桐原コミセン無料駐車場利用)

伊庭氏・・・・・近江・桐原生まれ

伊庭氏(いばし)は、日本の氏族の1つ。

 

近江源氏佐々木氏の支流であり、佐々木経方の子、行実の四男実高(出羽権守重遠)が、はじめて近江国神崎郡伊庭邑に居住し、伊庭氏を称した。伊庭城は建久年間(1190年 - 1199年)に実高によって築かれたといわれる。

戦国時代の末に蒲生郡桐原郷に身をよせ、伯太藩渡辺氏に仕えた伊庭家がある。渡辺吉綱に仕えた伊庭氏は、江州における伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等五ヵ村三千石)を支配する代官に挙げられ、代々、代官職を世襲した。その家系しに生まれた伊庭貞剛は、住友財閥の基礎を築いた人物として有名である

実高の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、実貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年(1607年)に没した。

貞勝の子の貞家は渡辺吉綱に仕え、伊庭氏は代官として近江における和泉伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を代々支配するようになった。 実高が伊庭氏を名乗ってから25代 後裔にあたる貞剛は明治12年(1879年)、裁判官から住友本社に入社、明治33年(1900年)に第2代総理事となり住友財閥の基礎を築いた。 

 

 熊沢藩山は江戸前期の儒学者で、元禄4年(1691年)に生涯を閉じたが、蕃山の思想は幕末に藤田東湖,吉田松陰,勝海舟などが傾倒、倒幕の原動力となった。

 その熊沢藩山が若き日に学問に励んだのが、祖母の実家があった桐原のこの地である。
熊沢藩山の姻戚には小森氏、伊庭氏があり、これらの関係から城館跡ではないかと考えられている。

 
熊沢蕃山(江戸初期の陽明学者)の母親の実家で、蕃山の祖父の熊沢守久の養子となって熊沢氏を名乗ったものです。蕃山は一時ここに住んだとされます。

熊沢氏は新左衛門廣幸-八左衛門廣次-平三郎守次-半右衛門守久と続いて来ており、蕃山は元和五年(1619年)生まれてあるため、熊沢氏は戦国期にはこの地に根付いていたと考えられますが、何時からなのかよくわかりません。

ただ、南朝系皇室の末裔と言われ、応仁の乱の時の文明元年(1469年)に南朝系熊野王信雅が挙兵しますが実らず、延徳二年(1490年)に尾張で熊沢氏を名乗ったとされます。この一族がここの熊沢氏になります。

2008年には、・・2013.6.21には、宅地化され、一戸個人宅が

山の姻戚には小森氏や伊庭氏の名がみられるとして、『中世城館調査報告書集成』では小森城主として在地領主小森氏の存在         を仄めかしている。また、小森氏と伊庭氏の間に関係があるとすれば、小森氏は伊庭氏、つまり佐々木氏の一族と推測される。

  小森城は、興願寺と管田神社の間にあります。現地に行ってみると、住宅に囲まれた更地に、枯れ木の山ができていました。その周りには重機が音を立てて枯れ木を集めて積んでいました。何事かと付近の方に聞いてみると、もともとは藪であったが住宅地として造成しているのだとのことでした。地形も造成によって崩されつつありましたが、北辺と西辺の土塁と堀は、まだしっかり残っていました。その他の部分については、残念ながらすでに原地形かどうか分からない感じになっていました。

せめて、事前の発掘調査がなされていればと思うのですが、現地のようすではその可能性は低く、伐採から造成まで一気に終わらせてしまおうという感じが見受けられました。

確実にまもなく消滅する城跡です。

 宅地化の小森城址西側の堀と土塁北側の土塁と堀

熊沢蕃山逗留の記念碑。 
背後の城跡には寒々とした枯れ木の山が…。

 

宅地化前も小森城祉の竹藪

 

 宅地化前の西郭の空堀

 小森城は中小森の桐原会館の北東にあって、現状は南北150m、東西50mほどの竹林であった。竹林の一画に熊沢藩山の顕彰碑が建てられているた

 竹林の周囲には幅1~2mの小川が巡っており、堀として使われた可能性も考えられる。竹林の中にも幅1~2mの空堀が縦横に走り、特に西側の北半分は二重堀としているのが特徴的である。
また西側と南側には低土塁も確認できる。

 小森城は平地にあって土塁は低く、堀も深いわけではない。また、堀や土塁の配置に防御の指向性が感じられず、城というよりも館。

宅地化前の東郭の空堀

 小森城は、桐原公民館東側の水田に面した竹藪が城跡だ。 南側の畑地から城内へと入る。竹藪の中には、規模は東西に小さな曲輪が並び、空堀と土塁が残っている。 また、一角に熊沢蕃山の寓跡の碑が建てられていた。

 

 備前やぶ(藪】・・・・・(近江八幡市中小森の伝承)

 中小森町に備前やぶといわれる竹やぶがあります。                                                                               近江の国高島郡小川村の与右衛門。即ち中江藤樹先生に師事て勉学するため、わざわざ備後からやってきた一青年がありました。                                     

 老母をの郷里に残してきたので、「母の面倒もみず勉学するとはなにごとず」と叱られ入門を許されませんでした。

 早速、母を連れ、伯母を頼って桐原庄中小森の伊庭定右衛門の宅に寄宿し、藤樹先生の里高島郡小川まで勉学に通うことにしたといいます。

 幾年か勉学の末、備前に帰り、岡山藩主池田講侯に見いだされて藩政に尽くし、その名も熊澤蕃山つして世に知られる国学者なったひとなのです。

 当時は、この蕃山ひつかえて、備前侯にとり立てられた人も多く、その屋敷跡は竹やぶとなり、いつしか、備前やぶと言われるようになったということです。

 大正末期に、もの備前やぶにまつわる民話を後世に伝え、また青少年の向学の志を養う目的から、当時桐原村青年団(団長 山本寿太郎 後桐原公民館長)の事業として、文学博士井上円了先生の筆になる「蕃山先生勉学処」と記した記念碑を建立。毎年、蕃山祭を行って青少年の教育と遺跡顕彰に努めていましたが、太平洋戦争の終了とともに、この種の行事もおろそかになってしまいました。

尚、中小森町では町おこし」の事業として、平成18年3月末「熊澤蕃山ゆかりの郷」の看板を町の入り口たてられました。

 

 

 

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


旧近江国の出身の武将 関ヶ原の戦い

2013年06月23日 | 武将
  • 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

滋賀県出身の人物一覧は、Wikipedia 日本語版に記事が存在する滋賀県出身の人物の一覧表である。旧近江国の出身者も合わせて記述する。

関ヶ原の戦い
東軍
西軍

 


小田城(高畠氏館) 近江国(近江八幡)

2013年06月22日 | 居城

小田城跡と推定される場所(愛宕社)

お城のデータ

所在地:近江八幡市小田町   map:http://yahoo.jp/o2nOWw

別 名:高畠氏館

区 分:居館

遺 構:堀痕

初城主:高畠氏

目標地;小田神社、北里コミセン

訪城日:2013.6.21

堀を利用した~水路へ堀痕?・・・愛宕社横は暗渠

お城の概要

 小田城は、かつては土塁と堀に囲まれていたのであろうが、現在は小田地区にある愛宕神社から南側一帯が城域で、民家に囲まれた畑地が「たかはたけ」と呼ばれ屋敷跡であったと云われている。

 小田城(高畠氏館)は小田神社から北へ約200m、愛宕山を祀ったお堂の建っている一帯だとされ、高畠氏の末裔の方の話では、堀なども残っていたようであるが、今では城郭遺構らしきものは残されていない。
 地図からお堂の建つ一帯の地形を観てみると、 お堂の建つ位置を南端として道路が約1町(約100m)四方の方形をなしている。
これが当時の地籍そのままだとすると、小田城は1町四方の方形館であった可能性がある。

歴 史
 

小田城は織田信長の側室・お鍋の方の生家ということもあって、小田町にはお鍋の方にまつわる話が残されている。(小田町に伝わるお話)

 お鍋の方は小田城主高畑源十郎の四女として生まれ、八尾城主・小倉右京亮実房に嫁ぐが、実房が越前・金ケ崎城攻めで浅井長政の離反にあった織田信長を近江から美濃へ抜ける千種越えを案内したことから、六角承禎に攻められ実房は戦死。

 この後、お鍋の方は信長の側室となるまで、遺児を抱え姉の住む小田の三崎家を仮住まいとしていた。小田町には、お鍋の方の菩提を弔った「お鍋塚」が残されている。

 また、お鍋の方にまつわる話題としては、2002年に滋賀県安土城郭調査研究所が、東近江市永源寺高野町のお鍋屋敷との伝承のある一帯を調査し、高野城ではないかとの結論を出している。

 小田町には高畠氏の子孫の方が今でも多くお住まいで、何時の頃か姓は高畠から高畑に改姓されたという。 小田城は、築城年代は定かではないが戦国時代には高畠源兵衛が居城した。 織田信長の側室お鍋の方が、高畠源兵衛の娘である。

小田神社

 織田信長と小田神社

 小田神社には現在、国の重要文化財として指定されている大変立派な楼門があります。
安土城を築いた織田信長は、たびたびこの地に訪れてこの楼門の美しさに惹かれました。そして、この楼門を安土に移そうと考えました。
当時の楼門は、お祭りの神輿を担いで楽に通過できるほどの高さがあり、大変大きく立派なものでした。
信長の話を知った当時の氏子たちは、「これはたいへん」とばかりに、どうすれば信長の怒りに触れぬようそれを中止させられるか悩みました。
そこである夜、ひそかに暗がりの中で楼門の柱を三尺(約1メートル)ばかり切り縮めたといわれます。
翌日訪れた信長は、昨日までの雄大な楼門が一夜にして縮小されている姿を見て、「これこそまさしく、神のなすところならん」と、大いに恐れてこれをあきらめたといわれています。
このため、お祭りの太鼓や神輿も今では腰をかがめて楼門をくぐって渡御しています。

近江八幡市教育委員会発行「近江八幡ふるさとの昔ばなし」より

字「たかばたけ」

 小田神社、右手が小田公民館のところで駐車し、小田公民館側に逆Vに曲がり、すぐを左折し、100mほど行った右手前方が城址です。集落の真ん中にL字の水田があります。この辺が「たかはたけ」という地名になるようです。集落の少し小高い感じのところが屋敷址との事で、左の写真の水田の向側くらいがそれで、この水田は掘跡の名残であるかも。屋敷址には「おなべの松」と「おなべ塚」が、松は枯れ、その後植栽されてます。 

お鍋塚

北里コミセンで、

 2013.6.21撮影

おなべ松

  「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」

 今も子守唄に唄われるお鍋の方は、一代の英傑”織田信長”の愛妾であった。
小田の東北に小高い土地があって、ここがお鍋さんの屋敷跡と伝えられ、その昔はまわりに堀がめぐらされて、満々とたたえた水の上には屋形船さえ浮かび、善美を極めた邸宅からは時々弦歌のさんざめきが漏れたと言われ、英雄信長は天下統一の大事業にいたく疲労した心身をここに養って、静かな夢を幾日か結んだのであろう。
 愛妾お鍋の方として栄華な日を送る今日までにも数奇な運命があった。

 お鍋の方は、もと小倉右京亮(おぐらうきょうのすけ)の妻であった。小倉右京亮と信長とは早くから親交の間となっていたので、信長が近江に入って佐々木氏と対抗するや、佐々木承禎(ささきしょうてい)は、蒲生定秀(がもうさだひで)に命じてこれを攻めさせたので右京亮は遂に八尾城中で切腹し、甚五郎(じんごろう)、秀千代(ひでちよ)の二児は人質としてとられてしまった。
 やむなくお鍋の方は、信長に援護せられて岐阜に赴いたのであるが、やがて安土城ができあがるのに際してここに移り、信長に侍(はべ)る身となったもので、やがてお鍋の方は二男一女をあげ、返り咲く身の栄耀を羨まれたのであったが、満つれば缺(か)くる世の習い、ある日悲しい報せが小田に届いた。
それは、主の織田信長と愛児松千代(まつちよ)は本能寺の変に遭ったのである。
そうして不幸は次々に降って湧くように起こった。
 長子の甚五郎の狂死につづいて、信長との間にもうけた信高(のぶたか)、信吉(のぶよし)の兄弟は関ヶ原の一戦に石田三成(いしだみつなり)にくみして破れ、遂に領地を没収せられて浪々の身となり、いくばくもなくして信高に先立たれ信吉は高野村に蟄居(ちっきょ)する身となってしまう等、それから後のお鍋さんは惨めであった。
 寂しい後半生を京都に移り住んで、追憶の涙にかきくれながらも、信長を殺害した仇を恨み、有爲轉變(うるてんぺん)の世をはかなみながら、数奇な運命にもてあそばれ、一生を呪いつつこの世を去ってしまった。
 里人は佳人の最後をいたみ、屋敷の近くにこれを葬って塚をたて、その上には一本の松を植えてやった。
この塚の松は後に「おなべ松」と呼ばれるようになった。
ところが、殿を暗殺した仇を憎むお鍋さんの妄念は消えようとしても消えず、いつしかそれが「白い蛇」となって住んでいるそうで、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱したりしびれたりするといって、今でも里人たちは白蛇のたたり、お鍋さんの妄念を恐れている。

  樋上亮一著「伝説と秘史湖国夜話」より

おなべ松は、残念ながら松食い虫のおかげで枯れてしまい、現在ではおなべの塚のみ残っています。
上の写真がその塚とされていますが、枯れた跡には縁者の手によって植えられた背丈ほどの松がいくつも塚を護るように生えていました。

 

 

 

お鍋の方

 お鍋の方は、数多い信長の妻妾のなかで、唯一実名の判明している女性である。中世、小田には、小田城(高畠氏館)があり、高畠源兵衛が居城(佐々木家臣)し、娘2人がいた。姉は現在の三崎家に嫁し、妹のお鍋は幼少より文筆の才あり、賢い気丈高な美人であったという。嫁入りした小倉家は愛知郡小倉村を本館地とする小倉城主(佐々木家家臣)で、同族に永源寺で有名な学者小倉実證がおり、代々学識を以て佐々木家に仕えた家柄である。
 信長が近江へ進攻、浅井長政、佐々木六角との合戦時、高畠氏、小倉氏共に滅亡、お鍋の方は一時的に遺児2人を抱え小田の姉の住む三崎家に寄寓されたという。

 高畠家との血縁にあたる家には、信長が先祖に宛てた文献があり、内容は
「ご無沙汰を謝し、米百俵送って貰ったお礼、今は東征中で、近く上洛(京都)の節お出会いする
                                  四月 信長 江州、野洲郡○○○○殿」

とあり、まさしくあの有名な天下布武の刻印が押してある。この米百俵を送った理由は、お鍋の方への賄料として田地を信長が与え、その収穫米をそのご先祖が岐阜城へ送ったのではなかろうか。当時北里は信長領下であり、年貢米としては信長名では出していない。
 天正十年(1582年)六月二日 信長は本能寺で自刃、四九歳 同十五日 安土城炎上、側室お鍋の方は、ともかく囚人にならぬよう蒲生賢秀(日野城主 蒲生氏郷の父)が我が城へ迎え入れた。
 岐阜市、崇福寺は織田家の位牌所であり、お鍋の方の直筆で「違乱」を申しかけることがあってはならない旨、伝達している。その筆跡から彼女の教養の高さが十分に伺える。(参考文献 信長公記、安土日記、太閤記)
  慶長十七年六月二十五日没
  京都大徳寺中惣見院内信長の墓側に葬り、興雲院同憐宗大姉と諡す(愛知郡志)

信長の側室

鍋は、織田信長の側室の一人として有名な女性である。土豪の高畑源十郎の娘と云われているが確証はない。また、嫁ぎ先においても、八尾城(東近江市)の城主である小倉左近将監実澄とする説や高野城(東近江市)の城主である小倉右京亮実治とする説等がある。また、実治を実房とする説やおのおのの持ち城が八尾城や高野城、小倉城(東近江市)、佐久良城(日野町)と入れ替わって説明されている場合もあり諸説ある。これらは愛知郡小椋庄を領地として高野城と小倉城を居城とする東家と、神崎郡御園庄を領地として山上城を本城を構え、和南城、山田城、相谷城,九居瀬城、八尾山城等を一族の支城とする西家とが混同されているからと考えられる。いずれにしても、鍋には甚五郎と松千代(松寿)の二人の子供があったことは事実のようである。

さて、小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。鍋は2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸らと共に討ち死にした。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉が西軍についたため、鍋の領地も召し上げられた。しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

鍋の足跡を訪ねて

鍋と鍋の夫小倉氏をめぐる遺跡が近江には残されている。

八尾城の詳細は明らかではないが、佐久良城、小倉城は現地でも遺構を見ることができる。また、佐久良城の近くの曹洞宗神護山仲明寺は小倉実澄の菩提寺として有名である。特に高野城については、平成14年度に高野館遺跡で永源寺町教育委員会が団体営圃場整備に伴う事前発掘調査を実施し、16世紀末から17世紀にかけての土器類と共に石垣が発見されたことで知られている。また、近くには秀吉が没してから、隠栖した場所として「お鍋屋敷」と称される伝承地もいまに伝えているが、高野に居住した確証は得られておらず詳細は明らかではない。

また、一時を過ごした小田には「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」と地元の子守唄(『近江八幡ふるさと昔はなし』)とともに、「お鍋さんの屋敷跡」という伝承が残されており、かつては、お鍋の弔いのために一本松が植えられ、「おなべ松」と呼ばれていた松があったという。現在、屋敷の伝承地の松は枯れ、かつて松が生えていた塚とその後に植えられた3本の松が残されている。信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。  (滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


徳昌寺遺構 近江国(八日市)

2013年06月22日 | 居城

  

徳昌寺境内に、残る土塁と堀

お城のデータ

所在地:東近江市上羽田町  (旧八日市市上羽田町)   map:http://yahoo.jp/ISVHv5

現 状:徳昌寺 (寺院、境内)

区 分:平城

遺 構:土塁、濠、井戸

築城期:

築城者:

城 主:

目標地:徳昌寺

徳昌寺駐車場利用可

訪城日:2013.6.22

お城の概要

寺域は東西1.5町、南北2町を持つ、その山内建物と不つり合いな土塁・濠を持つ。

寺境内遺構は東西80m×南北60mの膨大もので、土塁巾は4m高さ1m、濠は巾4m深さ1mを図る。

なお、その内部に南東隅に段上高まりが12m×13m規模。北西部の土塁の北に井戸跡があり川原石を積み上げたものである。

歴 史

詳細不明

多福山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は木造薬師如来坐像(南北朝期作)。他に木造地蔵菩薩立像(鎌倉末期作)がある。

眉山禅師が開基し、中興は雲居国師である。創建の詳細については不明だが、

 江戸初期には妙心寺派寺院となり、仙台藩主伊達家の菩提寺的存在となっていた

遺跡からは13世紀から16世紀の遺物も発掘されている。深閑とした樹林(市保護樹林)の中にはツクバネガシ林もみられる

徳昌寺・鹽竃神社(東近江市上羽田町)

伊達政宗は近江国蒲生・野洲両郡で一万石を領した。

東近江市上羽田町には仙台藩陣屋がおかれたから、伊達家にかかわる旧跡がある。

徳昌寺は近江における伊達家の菩提寺的な存在であり、鹽竃神社は陣屋の鎮守として陸奥国一宮の鹽竃神社(宮城県塩竃市)から勧請された。

伊達政宗:永禄十年(一五六七)、出羽国(山形県)米沢城で生まれた。二三才のとき、会津の葦名氏を滅ぼして、全国屈指の大領国を築き上げたが、ほどなく豊臣秀吉に屈服した。

天下分け目の関ヶ原合戦時は三四才で、出羽で直江兼続率いる上杉軍と対峙し、四九才のときの大阪夏の陣では真田幸村と刃を交えた。

遅れてきた戦国武将として秀吉・家康という英傑の間で成長を遂げ、六二万石の大大名となった。寛永十三年(一六三六)病没。七〇才であった。

滋賀県東近江市上羽田町

 

 

 

現代の徳昌寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、平田地区まちづくり協議会

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


鎌掛 屏風岩

2013年06月22日 | 文化財

 

 

 

 

 

 

 

 

車で行けそう!

 


この先は 行き止まり。 方向転換大変なので・・・バックで ここまで戻ってきました。   

 

歩いても すぐの距離。

 


山道を歩きはじめて

 


2分くらいで屏風岩の看板。


右に行くと 鎌掛城跡に 行きます。

鎌掛城・・・ 蒲生秀紀 1523年(大永3年)築城。
秀紀は叔父高郷により毒殺され、廃城となった。2年余りの短い城。
 

  

 

 


田中江城 近江国(近江八幡)

2013年06月21日 | 平城

お城のデータ

所在地:滋賀県近江八幡市田中江町  map:http://yahoo.jp/ezCIl3

遺 構:曲郭、堀

区 分:平城

築城者;永原氏

築城期:文明年間

目標地:称念寺

訪城日:2013.6.21

 稱念寺門前の堀。

お城の概要

 称念寺南側の門前と西辺に、堀が残っています。寺に必要とは思えない形状の堀ですので、城に伴うものと思われます。また、寺の東に細長い長方形の水路に囲まれた区画があり(上の地図でも北と西の水路が確認できます)、やはり城の一部と推測されます。

この区画の東端は江戸時代の朝鮮人街道に接し、西端には八幡神社が鎮座しています。

 宅地化、干拓・農地化が進み遺構は破壊されていきました。

 

 

歴 史

永原城主永原氏の支城で、文明年間(1469~86)の築城とされる。永原官六や岡野加賀守が城将を務めた。廃城時期は不明だが、六角氏が滅び、永原氏が永原城を去った永禄十一年(1568)ごろと推測される。

秀吉が、水口岡山城の築城のため、坂本城の小材と田中江港に陸揚げ、陸路水口へ。大材は野洲川を水口へ。

内湖は、第二次世界戦争の敗戦の引揚者のため、干拓された。

 田中江は、古くは琵琶湖と水路で結ばれた湖港の町だったそうです。現在残る水路から単純に考えると、まさに八幡神社の付近に田中江の港があったのではないかと思われます。琵琶湖からはやや内奥にある上永原城の永原氏にとっては、街道と湖港に挟まれた田中江城は非常に重要な拠点であったものと推測されます。 

また、には佐々木盛綱を匿った等の伝承が残り、『中世城館調査報告書集成』ではこれをもって稱念寺周辺を田中江城址とする根拠としている。盛綱が身を隠したというのは、平治の乱での敗北に伴うものと推測されるが、『集成』の推測が正しいとすれば、鎌倉時代までには何らかの城館が営まれていたということになる。

 

八幡神社西側の堀。 

 

 朝鮮人街道に面した北東隅の堀。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


信長と秀吉の金箔瓦再現  (滋賀報知)

2013年06月21日 | 文化財

 

■平成25年6月21日(金) 第16607号

=凹凸に貼り分けた輝き 元瓦窯業の松井さん製作=

松井さんが製作した信長(中央から右側の2枚)と秀吉の金箔瓦

◇近江八幡
 近江八幡市郷土史会会員の松井秀夫さん(船木町・61歳)が、信長と秀吉が居城に使った二種類の金箔瓦を作った。
 軒丸瓦と軒平瓦で、信長の瓦は安土城跡から、秀吉の瓦は伏見城跡からそれぞれ見つかったものを参考に研究調査を重ねて再現した。
 信長の瓦は、瓦を装飾する三つ巴の文様の凹面に金箔が貼られ、秀吉の瓦は凸面に貼られているのが特徴で、金箔の輝きで浮かび上がる文様に陰と陽の対照的な違いがある。どちらも金箔面の下地に朱漆が塗られ、金箔をむらなく貼る工夫と金の発色を鮮やかにする技巧が施されている。
 かつては八幡瓦の窯業を営み、現在は工務店を経営する松井さんは「小さい頃から瓦をみてきたので、金箔瓦には興味を抱いていた。金箔瓦は、湿度の変化によって固まる漆塗りの特徴を活かして耐久性を持たせ、金箔の鮮やかさを保つために下地に朱色が選ばれていることが分かった。最初は、単に瓦に金箔を貼ったものだと考えていたが、当時の職人の技術に感心させられた」と話している。
 金箔瓦は、金箔を扱う京都の技術者に製作を依頼したもので、同じ文様でも金箔の使い方の違いが、信長と秀吉の人物像に重なる。
 金箔瓦は、二十三日午後一時半から近江八幡市立図書館で京都府立山城資料館の森島康雄氏を講師に招いて開かれる歴史講演会「秀次公と聚楽第」(主催・近江八幡市郷土史会)で展示される。入場無料。予約不要。


伏見城の採石場跡か 「甫庵太閤記」記述裏付け(京都新聞)

2013年06月18日 | 遺蹟

伏見城の採石場跡か 「甫庵太閤記」記述裏付け、山科

毛利家を表すとみられる「一に○」の刻印石。採石者や山中の採石範囲を示すために刻まれたようだ(山科区大塚)
毛利家を表すとみられる「一に○」の刻印石。採石者や山中の採石範囲を示すために刻まれたようだ(山科区大塚)

 京都市山科区大塚葭ケ谷の山中で、豊臣秀吉が築き、徳川家康が再建した伏見城の石垣普請に使われたとみられる採石場跡が17日までに見つかった。「一に○」など記号が刻まれた大名の刻印石や採石の跡を示す石が多数残っており、京都府教育委員会や京都市が調査に乗り出す。伏見城建設時に山科の山中で石を採った記述が残る「甫庵(ほあん)太閤記」をあらためて裏付ける貴重な遺構となりそうだ。

 採石場跡と刻印石は、山科区東部の標高約300メートルの山中で、住民団体「ふるさとの会」の会員中川亀造さん(81)が確認した。採石場跡には、くさびを打ち込んで石を割るため、のみで穴を列状に彫り込んだ「矢穴」の入った石が24個あった。穴の幅は8~12センチが多く、伏見城から見つかった石の矢穴と酷似している。

 刻印石は、石垣普請をした大名が採石範囲や採石者を示すために記号を刻んだとされる。矢穴石の周辺で、毛利家とみられる「一に○」の石が三つ見つかった。過去に、少し離れた場所で京極家とされる「四つ目」の石二つが確認されており、採石を各大名が分担した「割普請」の様子がうかがえる。

 秀吉の伝記「甫庵太閤記」には「文禄三年二月初比より、廿五万人之着到にて醍醐、山科、比叡山、雲母坂より大石を引き出す事夥(おびただ)し…」と記されていた。

 城の採石場に詳しい森岡秀人・日本考古学協会理事は「石垣に自然石を使った秀吉の時代にも採石した場所だろう。矢穴の形状から、1605(慶長10)年以降に手を加えたとみられ、採石場に残っている石は徳川時代の伏見城で使われる予定だったと考えられる」と分析している。

 

 

 

伏見区HPより

大名岩(伏見城採石場跡)

 妙見寺より東,東養護学校の南の谷を入った山の中腹に、「大名岩」といわれる巨岩二個が発見されている。急斜面に位置し、危険で近寄り難い場所であるが、高さ3メートル程の巨岩に1辺12センチメートル程の4つ目結の刻印が彫られている。

 大名岩の刻印

 『甫庵太閤記』(1661年)には、「文録三年初比より二十五万人の着到にて醍醐山科比叡山雲母坂より大石を引出す事夥(おびたた)し」とあり、伏見城築城時の採石場跡の1つと考えられる。